【小松製作所】昭和の新日本プロレス28【三協アルミ】
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実際にグレイとハングマンが対戦したらハングマンが勝つだろうな
あのアンドレ優勝はグレイの頭脳プレーでアンドレが本領を200%発揮したと解釈した
第四回の“タッグの魔手”スウェード・ハンセンもその手腕でアンドレ組を一位に押し上げたということに >>151
>>152
強そうだとか、勝つだろうとか、もともとブックで試合してるだろ? 80年第1回の時もグレイがおまけで来ていて(アンドレ組のマネージャー扱いか?)、
試合もこなしてたっけ。ちらっと映ってた記憶があって当時は「誰?このオッサン」状態だった。 ニワカだけど長州さんのマイクパフォーマンスは1982年11月4日蔵前が初めて? >>153
なにいってんだお前?
「強そう」だし「勝つブック」だって前提で話してんだけど?
俺はグレイやハンセンが頭脳プレーでアンドレを動かして躍進したと思ってた、って言ってんの。 レネ・グレイvsハングマンvsスゥェード・ハンセンの巴戦
誰が得する試合か分からんけど、ネタとしては面白い レネ・グレイは「アンドレの頭脳」と称されてて
いくら何でもアンドレに失礼だと思ったわ 相手が ハンセン ホーガンでも
ハングマンやられなかったけど ハングマンの正体はハングマンだろ?質問がおかしい、本名はネイルグアイだが。
スーパーデストロイヤーの正体は誰?って聞くのならわかるが。 >>155
その一か月前の10月8日後楽園ホールでのかませ犬発言が初めてだけど、
中継が終わってからだったから、テレビで映ったのは11月4日が初めてと
言えるかもしれない。 >>162
77年にハンセンとよくタッグ組んでた覆面レスラーと混同しているのでは? カネック・マキナもカネック・アグアヨもグレイを狙えばもしかして勝機あるかな?とか当時期待したなあ >>131
グラハムは反主流派どころか
当時もっとも多くNWA世界戦を開催してたプロモーターだぞ
マクマホンシニアもNWA世界王座管理委員長だったし
新日よりのプロモーターで本当に反主流派だったのはマソニックとの
権力争いに負けて副会長を罷免されたラベールくらい >>164
偽スーパーデストやタワーリングインフェルノだけでなく
77年にハンセンやマリガンと来た時はハングマン名義で覆面かぶってたから
ややこしいんだよw
161はその後に素顔で来てるのを知らんかったのでは(まずありえんがw) >>151
一度、引退しているはず・・・
WWFではゴッチパートナーにタッグ王者になっている。
リング上でアンドレとグレイがお互いに指示を出し合うとフランス語なので全く
わからないと小鉄が解説でコメントしていた。 >>165
リング上でのマイクでかませ犬発言はしてないのでは? >>171
主流派、反主流派と分けて報道してたのは日本のプロレスマスコミだけ
NWA内やレスラー間でそんな分け方をしてなかった >>176
ただ王者の派遣回数絞られたり交流ではぶられたりと疎外され気味の
メンバーはいた
筆頭は王者を派遣すらしてもらえなかった新日だが、逆に一番大手の
マクマホンと提携してたので一時は全日にも勝る外人陣容を誇れた >>171
前号のGスピのNWA特集はとても刺激的だった
ラリー・マティシックが著書で書いてるそうだけど、79〜81年にレイスが
ローデス、馬場、リッチに「その地区のサーキット初期に負けて最終日頃に
取り返すNWA王座のキャッチボール」を連発したことについて
「75年に世界王者の管理がバーネットに移管された時点でチャンピオンの
存在意義がガラッと変わった。
自分の管轄であるアトランタ、エディ・グラハムが牛耳っていたフロリダ、
それと馬場の全日本、この3か所がNWAの中で金を生むテリトリー
ベスト3だったので、手っ取り早いボーナスとしてキャッチボールを
実行させたに過ぎない。あれはバーネットにとってもレイスにとっても
ハッピーだった。ももちろんグラハムも馬場もハッピーだったし、
ローデスにもリッチにも箔が付いた。
ただし他のNWAメンバーは白けた思いでキャッチボールを眺めていた。
もはやNWA王座の権威、信頼度が大きくチップ(減少・削除)されたことは
事実だった。すでにNWAがカルテル組織としての機能を喪失していた
ことの証明だった。」 Gスピより
「トミー・リッチのワンウィーク・チャンピオンは単純にアトランタのビジネスを
アップさせるための便法だった。事実、立地が王者になった後のアトランタ
(オムニ)は翌年春頃まで最後のブームと呼べる超満員の連続記録を
打ち立てている。」
「王座獲得の時点でリッチは24歳、キャリア5年。ジョージア地区を
中心とする南部一帯ではヤング層の圧倒的な人気を得ていたものの、
実力的には中堅の域を出ておらず、NWA内部で大いに不満が出た。
しかも会長のクロケットJrは全日本に来日中で王座交代の件をまったく
知らされておらず、この後のバーネットとの関係に大いにしこりを残した」
そうなんだな、ローデス、リッチ、馬場って「稼げるテリトリーである
フロリダ・アトランタ・日本の三地区それぞれのエース」だったんだな そもそも黄金期のNWA自体がS・マソニックが
最も強大なテリを納める大権力者だったかというと
必ずしもそういうことでも無くて
ようは手ゴマにテーズを持っていたことに始まる
NWA王者のブッキング権を持っていたことと
交通や情報・通信がまだ発達していなかった時代に
米の東西南北各テリとつながりやすい中部セントルイスにいたせいで
広大な全米の各地区間を仕切る調整役として
最適なポジションにいたことが大きかったりする 新間が猪木死去の情報を耳にしたとのこと
ターザンTwitterより 新間のアングルwww
ターザン山本!@tarzany
昨日、リアルジャパンの後楽園ホール大会に行って来た。
マイクを取った新間さんはアントニオ猪木が亡くなったという情報を耳にしたと発言。
そのあと猪木さんのYouTubeが公開されベッドでリハビリをしている動画。
その再生回数は現在、136万回。 週刊新潮で猪木を誹謗しているのは格闘技バブルの頃に
極真を持ち上げていた小島一志というライター
新潮社から梶原一騎の本を出しているので週刊新潮はそのPR記事
その中で猪木が梶原たちに監禁された際に震えながら命乞いした、
というシーンをまるで見てきたように書きながら、まともな証言も
証拠もないのが一読歴然、しかもプロレスに無知なための凡ミス・
事実誤認だらけではやくも各方面からツッコミが入っている模様 「昨日、警視庁の方から『アントニオ猪木さんが亡くなったのでは』との電話がありました。私が確認いたしましたところ、噂が立っているが元気でいるとのことでした。数々の名勝負を繰り広げたアントニオ猪木は絶対に死ぬことはないと確信しております」 >>179
同じ月一の定期戦を比較すると
アトランタはニューヨークの一割の人口しかいないのに
オムニセンターはMSGの半分近い客を集めていたからな
もっとすごいのはNYの5%の人口しかいないのにMSGの半分強の客を集めてた
セントルイスのキールオーデトリアムだけど
ただしアトランタ以外にめぼしい都市のないジョージアと違いマクマホンは他にも
ボストンやフィラデルフィア、ボルチモア等でもビッグマッチができたからこの差は
大きかった
マソニックに至ってはキールと定期戦とチェッカードームの年二回イヴェント以外
はテレビマッチだけで地方興行なし >>185
セントルイスはまさにプロレス界のワシントン特別区だったんだよな 試合中にレスラーが脚を押さえて、小鉄の「カラ脚を踏んだかもしれませんね!」は、大体怪しい。 >>189
五対五の大将戦で、猪木の卍にやられた長州見に行った小鉄が
「血の泡吹いてますね」と報告してた。
当時は、どういう効き方で血の泡吹いたかわからないが、
小鉄が言うから納得してたな。 ワンウィーク・チャンピオンという悪しきシステムを作ったのは馬場 剛竜馬はツーデイズチャンピオンという訳か。一週間ぐらい持たせたれよと 剛竜馬はなぜタイツ・シューズを白から黒に変えたのか >>195
ジュニアの高田に合わせてジュニアの小林にする律儀さが良い >>179
テリーはリッチを「なぜ?あんな下品な奴がNWAチャンプなんだ!」と大酷評していた。
ブリスコは激務で神経を使うNWAチャンプ再々登板の打診を断り副業の自動車修理工場も
好調なので「黄金テリトリーのみの出場」に絞った活動をしたらしい。
新日参戦時もかなりのギャラが出たのかな?テレ朝の松岡Pは猪木の印象的な試合に
ブリスコ戦を上げて「猪木ってレスリングできるんだ!」とコメントしていた。 トミー・リッチを酷評したのはテリーじゃなくてドリーの方じゃなかったっけ? 短期王者を何人も作ったレイスが最後にニュージーランドで三日天下 >>191
’60年代、アメリカの4大世界王座で言えば
イゴール・ボディックがAWA王座を1週間だけ
保持していた(65年5月15日〜22日)
これも、ボディックの地元、オマハでのキャッチボール。
62年7月25日、力道山からWWA選手権を取り戻したF・ブラッシーは
わずか2日後、デストロイヤーに奪われた。 WWF(旧WWWF)も数日とは言わないが、ベビーの長期政権の交代のクッションに
コロフ、スタージャック、アイアンシークら主にヒールをワンポイントリリーフで起用していたな。
その後、無冠になっても人気者のサンマルチノ、モラレス、バックランドらと遺恨マッチ、
興行の目玉として継続していった。 ローデスのNWAタイトル、猪木のWWFタイトルもハク付けの短期王者だね
猪木にとってWWFタイトルはどうでも良かったようで
ほとんど語る事がない >>203
> 猪木にとってWWFタイトルはどうでも良かったようで
> ほとんど語る事がない
それ以前にマスコミに聞かれることも全くないような気がする。 WWF歴代王者としてもアメリカのメディアでは猪木の名前は公式にはアナウンスされていない。
猪木は向こうではWWF認定マーシャルアーツ王者という肩書で通っていたな。
79年は新間もWWF会長のポストだったからビンス父との何らかの確約があったのかもしれない。
徳島で戴冠、一週間後の蔵前では不透明決着で預かり、しかしそのまま年内のシリーズは終了。
王座の決定戦は年末MSG定期戦でバックランドとなぜかボビーダンカンという不可解な顛末(日本のファンにとっては)。 WWE自体が猪木の戴冠を認定してないんだから。殿堂入りの際も触れられてないから
なかった事で確定済 >>206
アリと戦った猪木はタイトルの箔にならないのかな 中邑真輔がWWEでUSとICの王座を獲ったがWWE王者にはなってない
だからいまだに猪木が唯一の日本人王者なんだな、WWEは認めてないけど >>205
奪取も返上もシンの乱入が絡んでるからな
とても名誉とは言えまい >>205
本国ではダンカン戦はバックランドの防衛戦。
決定戦としたのは日本向けの方便だっ。 >>210
WWF会長の新間がベルトを持って上がって映像的に決定戦ぽく見せてたんだよな
翌年にはダンカンが猪木のNWFに挑戦するなど一応の配慮を見せている 猪木対ボビーダンカンで思い出すのは後楽園で猪木がダンカンを血祭りに上げた試合
あの試合の猪木はキラーだった…
このシリーズで猪木対エンフォーサーのシングルは組まれなかったな 猪木のWWF戴冠が公式に認められたって以前にあったと思ったけど、結局は認められてないのか 猪木がWWF奪取したのが徳島で大会場じゃなかったから嫌な予感したけど案の定蔵前で不可解判定→返上はそれまで批判してた馬場のNWA奪取→即陥落と同じで失望させた 馬場のNWA王者は認められてるから全然同じじゃないですから。 >>208
一回オフィシャルになった時期あったよね? 何のタイトル挑戦の予定もないシンを、唐突に年末シリーズに呼んだのは、
バックランドとのリターンマッチで乱入させるためだったとしか考えられないよな。 ボビー・ダンカンって83タッグリーグの時の覇気のなさしか見てないんだけど、
実際にはエース外人として来日して猪木と戦ってもおかしくない人材だよな。
やっぱ維新軍の過剰優遇は目玉商品となるべき外人勢を潰してしまった。
84年のデビッド・シュルツだって本当は最終戦で猪木と一騎打ちなのに、
長州に椅子を奪われたばかりか藤波にまでクイック負け。
かつてbQの坂口が負けて外人の強さを引き出したところで猪木登場だったように、
長州を沈めたシュルツと猪木の一騎打ちという構図のほうが絶対良かったわ。 1960年代までは、NWA王座は、王者が負けても、安易に移動は認めなかった。
55年レオ・ノメリーニが、57年にエドワード・カーペンティアが
テーズを破っても。それだけ権威があったとも言える。
また62年はバディ・ロジャーズが、ボボ・ブラジルや、キラーコワルスキーに
負けて、王座移動が告げられ、ブラジル、コワルスキーは王者として防衛戦を
行ったが、後に「なかったこと」にされた。ブラジルは、後に
「あれはUS王者としての防衛だ」にされた。
ブリスコが74年に日本で1週間、王座を貸し出した、ってことは、
それだけNWA王座の権威が落ちたんだよな。
よくNWA王者で風格があったのは、はブリスコまで、といわれるが、
実際はドリーまで。あのチャンピオンベルトまでだよ。
73年レイスになり、日本のNWA加盟団体が全日になり、馬場がテリトリー内
キャッチボールをしたり、地方の小さな公民館でNWA戦を行うようになって、
権威が地に堕ちた。 アメリカでも田舎町でNWA戦はおこなわれている。
アマリロ修行中の鶴田がドリーに挑戦できたり敷居の高い王座ではないだろ。 >>220
バカはキサマだ。
俺は事実を書いただけ。
この程度で熱くなる
馬場オタは消えろ!
ここは新日のスレだ。 >>207
「アリと戦った」のは米における猪木の知名度アップにある程度役立ったけど
基本的にボクサー×レスラーのミクストマッチ(当然フィックスマッチ前提)が昔からある米においては
アリにとっても猪木にとってもシリアスな経歴とは思われてないからたいした箔にはならないし
その箔も格闘家として云々ではなく「あのアリと同じリングに立った有名人」みたいなかんじだから >長州を沈めたシュルツと猪木の一騎打ちという構図のほうが絶対良かったわ。
精々蔵前に実数6千人も入ればまだマシという構図だなw
やらなくてよかったわ 猪木WWF戴冠は結局なかったことになってて、翌日取り消しみたいになってた藤波のNWAの方は今認められてるんだから分からんもんで
でも両者WWE殿堂入り出来てるんだから良かったよな
しかし、猪木逝去みたいなガセ話本当に心配しなきゃいけない状況ってのも厳しいな
なんだかんだ結局元気に出てきてくれりゃいいんだが 猪木「馬場よ、俺と戦え」
馬場「戦いたいがNWAが認めない」 誰だって信頼関係ない相手となんか試合したくないよな、プロレスはブックなんだから。
猪木もあの頃の前田とは、試合なんか絶対にしたくないと思うのは当然の話。 >>225
アンダーカードしだいで蔵前なら満員にはなったと思うよ
84年は猪木-アレンのメインで埋まったんだから…
キッドスミスコブラの巴戦
長州-ホーガンのタッグ対決
藤波vsラッシャー
時の人になった藤原vs浜口
シュルツならアレンより猪木の相手としたら未知数だし… >>229
この蔵前は巴戦の印象しかないな。
猪木対アレンはともかく、藤波が
何故ラッシャーとやる必要があるのか
全く意味不明だった。 長州を勘違いさせたのがのちの新日の暗黒時代につながるんだけどね。 >>230
>藤波が何故ラッシャーとやる必要があるのか
この月の上旬の札幌の長州戦を壊された直後
「こんな会社やめてやる発言」がなぜかファンの反感を買い
さらにその試合を壊した黒幕の猪木の逆鱗に触れ
また、時期的にラッシャーとタッグ構想を推し進める途上という事もあり
藤波と木村のべビーとヒールを逆転させるための、前置きみたいな試合だったとか?
でもUWFも同時進行中だろうし、あんまり札幌との流れは関係ないかなあ…
そもそも藤波の「こんな会社…」もガチの発言かわからんし…適当な妄想すまん。 あの日のメインはどうせ1、2週間前には猪木の対戦相手変更になるだろうと思って見てたら
まさかのアレンとそのままだったのが逆に驚きだった
ブッチャーとの仲間割れからのシングルとかやって、一応格上げする気あったんかな
ラッシャーはベビーターンみたいな流れで当時言われてたけど、UWFなかったらどういう扱いだったかねえ
後の対U上田馬之助みたいな形で正規軍助っ人みたいな感じか >>225
実際翌年横浜文体でやったときは散々な入りだったからな、
新日人気が大暴落したのもあるけど。 >>229
アレンの蔵前メイン登場は長年の功労賞という感じもあったな
後の武道館でのエースの三冠挑戦みたいに 84年のIWGPの横浜文化体育館はみっちり入ってたけど、暮れのMSGタッグの横浜文化体育館はガラガラだった >>221
テリトリー次第みたいだったらしいがアマリロは新人を上で使うなどかなり柔軟な土地柄だったとか
王座をドリーからレイスに移したのはシニアのフライングだったらしいが >>233
ラッシャーのベビーターンは後の全日での
馬場と抗争→タッグ結成
と同じ流れ、すなわちなんらかのマイクアピールで猪木とタッグ結成となったんではと妄想。
さすがに「アニキ〜」はないだろうが「コンバンワ」を絡めてのマイクとか。 >>205
このタイトルも新日が粗製濫造したベルトのひとつ。
シニアの来日時に新間のもてなしに感謝して無給ながらWWF会長にしてもらった。
>>209
この試合の動画を見た海外のファンがレフェリーの高速カウントへの批判の嵐に
なっていた。 >>234
新日本プロレスは、1984年10月〜1985年3月辺りの会場ガラガラが堪らなく好き >>221
あくまで日本での話で大金払って呼んだ世界王者を大会場で選手権やらず地方でやって王座奪取は何か裏があると思えた 馬場猪木から気に入られているラッシャーは人格者なんだな。 >>242
そもそもレイスの王者時代なんて、全日はシリーズの中で大会場なんてなかっただろ?
ブリスコ王者時代とは全然違うし、地方会場しかない日程で呼んでるだけなんだから。 >>244
都内の大会場ではな
馬場に奪われた愛知県体だけでなく大阪府立や札幌中島でもやっている NWAのタイトルマッチはチャンピオンに観客数のナンバーセントを
ギャラで払わなければいけなかったから、小さい会場が多かったのてわは? >>237
シニアはドリーからブリスコへの流れに絶対に納得しなかったらしいね
当時全米屈指の名勝負とされていたらしいのに何がそんなに気に入らんかったんだろうか? >>247
むしろそれだけにブリスコに負けて王者から降りる形ではドリーのイメージダウンになると考えたらしい >>246
日本での興行は客入りに関係なくあらかじめ決まった週給+タイトルマッチなど別建ての特別ギャラ
マソニック時代のNWA本部へはそこからマージン払う形だった
バーネットになってからはこの本部のマージンは無し
なので日本の場合会場の小ささは単に興行のスケジュールとNWA王者のスケジュールの問題 >>249
あとテレビの全国中継があったし外人レスラーのギャラは日本テレビの負担だというのもあった
あと地方プロモーターに高く売れるというのもあったろうし IWGP提唱で81年春で一旦、手持ちの王座は封印となったが、
結局翌年にはWWFインターヘビー、85年にタッグを新設、ジュニアヘビーはIWGPとは全く別路線で
継続してタイトルマッチは行われていた。その後IWGPも年度制から普通にタイトル化。
まあ興行の柱としてタイトル戦は重要との認識だろうかw それならNWFや北米タッグとか残してほしかったなア。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています