【金返せ!】国際プロレスpart29【桑野見てるか桑野】
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メインレフェリーが芳の里だからあの程度で済んだ
あれが樋口だったら大変だったろうな・・ 木村が最初の猪木戦で反則ながら勝ち星を得たのは殊勲というか、
猪木独特のアングル設定の妙だな。 >>6
乱入や謎判定で勝っておきながら
「俺のせいじゃないしレフェリーが勝ちって言ってるんだから」的な
いかにも慇懃な態度をとってみせることで
勝ちは譲らない一方で
逆に「木村は実力負けしたわけじゃない」と印象付ける馬場
終始圧倒しながら最後は泣きそうな感じになってる木村を
まるでいじめっ子のリンチのような攻撃からの暴走反則で
勝ちは譲るが「木村との実力の差は明白」と示してみせる猪木
二人とも自分のキャラを実によーくわかってるw 「猪木いいぞ!折っちまえ…」みたいな新日ファンが怒らない
猪木の負けアングルだけどね。
どうも田コロの「こんばんは」から、新日ファンにも猪木にも見下されている >>9
残念ながら木村に対しては馬場も全日ファンも見下してた 馬場との対戦は全日国際提携時代で、猪木との対戦は国際が潰れた後の話。
馬場は木村を傷つける勝ち方は許されてなく、逆に猪木は次シリーズも木村を使わなければいけない。 まあ新日〜国際提携時代も奪回はしたもののヤマハに完敗、外人のインターフェアがあったが
小林&永源にも王座を取られ、その間のあの浜口転倒失神で薄氷の防衛となったキム健&永源戦、
あと阿修羅も藤波にはキャリアの差をまざまざと見せつけられスランプに。
こうした実力差をはっきりと浮き彫りにしていた時代があったうえでの、崩壊後の(元)エースの
ラッシャーと猪木とのトップ対戦となった訳だが、緊張漂う中にあってはならない失笑を買ってしまった「こんばんは」事件も手伝い
猪木がいかに木村を料理するかという、多数の新日ファンによる生贄ショーへの期待をまんまと覆す反則負けアングルだったわけだ。
こういう所の猪木のファンの目を欺く術と言うのは天才的なものもあるな。。 杉山はあの体型なのに身体能力は国際の選手の中でもズバ抜けてた
杉山の身長が20センチ高くて男前で腹を絞ってコミカルさを無くしたら元オリンピアの国際プロレス不動のエースになってたかもな >>11
馬場としても名誉と言えない勝ち方だからな
どうせなら前年に大木から取ったアジアヘビーを賭けて結果が不本意なので返上するとかやってたら良かった https://pbs.twimg.com/media/EoyazOJUYAAhaNq.jpg
吉原「木村草津組がインタタッグを取ったら挑戦者はファンクスを…」
ファンクスにも勝つつもりでいたのか厚かましい >>15
大木の言ってる梁承揮はその後、力抜山からマシン2号になったな。ブリみたいに名前が変わった。 >>16
あのノータッチトペだけでプロレスラーであった甲斐があったよな、力抜山は >>15
言い方だろうが「ザファンクスあたりが妥当」と言ったり、胸を貸すと言ったり、吉原は紳士的なイメージとは裏腹に強気な上から目線発言多いよな。
こんな感じだから、マッチメイクで余計意地悪されたんじゃないのかね。 >>18
猪木、坂口の”新・日本プロレス”について「ウチを見習いなさい、の一言ですね」 今日は2・4
実は原とジョーの国際対決もやってたんだな 小林の国際離脱に関しては、草津の横暴ぶりばかりが
クローズアップされているが、小林の方にも問題があった。
団体行動をせず自分の車で一人会場入り、後輩の面倒はみない、
タニマチの接待とかも嫌がるとかでは、体育会系の集団の
リーダーとしては失格だろう。
何よりガチの喧嘩になれば、小林は草津にかなわないから
草津の横暴にも黙って耐えるしかなかった。 草津はマッチメイカーだったんだから、小林離脱時とか一度くらいは「俺がエースで客呼んでやる」
とか思わなかったのかな?タッグ王者やりながら、毎晩飲んだくれている方が楽だから思わないか。 小林だけが自家用車で巡業してたわけじゃなく、杉山も自家用車で巡業してた
草津も自家用車で巡業していた時もあった
草津の場合は飲んだくれて集合時間に間に合わないので単独行動をしていた >>24
それぞれ単独行動の理由も違うけどな。
小林は草津と一緒にいるのが嫌だった。
杉山は本業を片付けながら会場に駆けつけてた。
草津は飲み歩きながらも席を一緒にした人達にチケットを捌いていた。
吉原社長が草津を寵愛したのはこういうところもあったんだろうな。 国際と全日の対抗戦を見ると、剛は鶴見より格上扱い、大仁田にも勝っている
これが後のインディー時代の勘違いに繋がっていくんだな >>26
それは違うだろ
藤波にフォール勝ちしてWWF Jr.ヘビー級王者になったのが全ての勘違いの原点だよ >>27
そうそう、それでいつまで経っても「今は少し燻ってるけど本来は藤波のライバルたる男なんだ」という思い込みが抜けなかったんだよな。 星野山本がIWAタッグを取る屈辱を与えながら、
国際から出た剛には藤波に勝たせる厚遇。 >>21
誰の証言だったっけな。小林以外の付き人持ちは、普段から飯を食いに連れていったり、シリーズが終わると小遣いを渡したりしていたが、小林はそういうのを一切しなかった。証言をしたレスラーが小林の付き人を連れて小林の元へ行き「小林さん、こいつにお小遣いごっちゃんしてやってもらえませんか?」と頼んだら、凄く嫌そうな顔をしながら握って丸め潰した一万円札を付き人の足下へ落とした、というエピソードを聞いたことがある。 付き人つけといて小遣いあげんのはいかんな。自分の事は殆ど自分でしてたのかもしれんが、鞄持ちくらいはさせてたろうし、タダで人を拘束しようとするのはいくら昭和でも都合良すぎ。 >>23
「エースとしてもう少し人を引っ張っていく性格だったら・・・」と意見もあった。
>>27>>28
ジュニア戦線を盛り上げるために藤波の日本人のライバルを急造する必要があったらしい。 >>26
当時の大仁田は海外修行前の前座要員だが剛は海外修行から帰ってきて中堅扱いで鶴見より上なのは期待値の高さ故だから妥当な扱いだと思う。 >>32
>エースとしてもう少し人を引っ張っていく性格だったら・
草津は、そういう態度でラグビーもやっていたのかな?
レスリングとか柔道、相撲からの転向者が多いプロレスで
団体競技出身者のリーダーシップ、チームワーク精神こそ必要だと思うがね。 >>33
ガチの喧嘩でマッチメイカーを決める国際プロレス(棒) >>30
大位山が「一度だけ小林さんから一万円もらったことがある」というのがそれか
俺の読んだ話だと足元へ札を落としたのじゃなくストロングなパワーで一万円札を
限界まで細かく折りたたんで小さいサイコロみたいなサイズにして渡したというバージョンだった 頭が柔らかかった井上が小林在籍のS48年頃からマッチメイカーをやったら、どうなっていたか?
エース小林、タッグ木村&草津を崩したかな? >>38
少なくとも「IWAシングル王座の挑戦者に、マッチメイカー自身が先に勝っちゃう」なんてことはしないだろ。 >>39
ここでよくツッコミはいるけどリアリティはある
ガチだと自分に負けた相手が自分に勝ったやつに勝つとかぜんぜんあり得るからね なんでプロレスの話に、ガチが出てくるんだろ?草津はガチだから勝っていたわけじゃないだろ? ???当時のプロレスって、誰もがガチに見せようとしていたんじゃないのか?
ブックに見せようと思っていたレスラーなんているの? 草津の言い分からすると
「小林にはIWA世界王者、木村にはIWAワールド
シリーズの優勝を与えてる。
俺はシングル無冠で我慢してるんだから、せめて
ノンタイトルでマクダニエルやバションや
ローデスやマリガンに勝たせるくらいいいだろ」 >>44
それだとタイトルやリーグ戦の価値が無いんだがな 72年から74年にかけての草津は本当に強かった
ロビンソン △△△△
ブルーザー △
バスチェン ○△
ヘニング ○
バション ○○
コロフ △
ローデス ○
マードック ●
井上 ■○
マリガン ○
マクダニエル●○
ワット △
間違いなく日本最強クラス。 この時期、IWA世界王座の挑戦者に対して
5勝2敗7分けと、大幅な勝ち越しw タッグ王者を降りてからの草津は、急にジョバーの仕事を自ら進んでやるようになったよな。
金網タッグマッチでスミルノフにノックアウトされたり、ストンパーのスリーパーで失神負けしたり。
それまでの自分がやってきた行為に対する、罪滅ぼしのつもりだったんだろうか? そのくせ未完の大器の日本人選手の踏み台には決してならない薄っぺらいプライドの持ち主 タッグ王座陥落した試合も、フォール取られたのは2本とも浜口で自分は傷つかなかったよな。 飲み過ぎで二日酔いだから
早く帰って寝たかったんじゃねえの? >>46
同時期の小林姐さんの戦績ってどんなのか判ります? >>52
小林さん
ロビンソン △△△△△
バスチェン ○○○●
クラッシャー○
ヘニング ○△○
ホフマン ○
バション ○○○
コロフ △○○
カーペンティア△○
ローデス ○●○△
マードック △●○○
木村 ○○
ガニア □●
ラーズ ○○■
寺西 ●
マクダニエル●△○○
ワット △●□○△ 73年後半から負けが込むようになったが、
草津がマッチメイクし始めた時期? 草津は190cm以上の高身長で木村や井上よりも見かけの体格及び顔はまずまず良い方
だから本当はエースキャラなんだけどね。 ろくに練習しなくても無難にこなせたのが良くなかったのかな?
それがプロレスの本質を理解できず、最後まで舐めていたというか…
そんな状態でマッチメーカーなんかやらせるから吉原の責任は大きい
素材がいいだけにもったいなかった。 >>57
鶴田も近いが権力自体には最後まで近づかなかったからな
あるいはクツワダ事件の時くらいで 小林って今も存命で80だっけか。>>21で言う感じだと他人と距離を置いてなるべく人間関係で
ストレスは持たない性格みたいだし、あと酒浸りみたいな話も聞かないし体調管理もわりと自覚できる人なのかな。
そういう所はわりと女性っぽいかもな。。w 存命は存命だが、めっきり老け込み歯は抜けて
外見は貧困老人そのもの。
子どもとかいないはずだし、新日本では役員まで務めて
相当の給与を貰っていたようだし
プロレス引退後も役者として活躍していたから
ある程度の金は残していると思うけどなぁ。 >>56
確かに身長はあったが、
胸は薄く、肩幅もないし腕も細い。
鍛えていないのがハッキリ分かった。
まぁ、エースの体格ではなかった。 まあでもカウンターの飛び付きコブラツイストなんかを見ると運動神経いいなあって思うわ。
あれ簡単そうに見えるけど結構難しいよ。 ジャンボ鶴田の下位互換。
権力を持ったロッキー羽田という気がする。 草津もだが原にしても、ラグビーのキャリアもあって浅いキャリアながら即戦力でエース候補として期待され
それである程度の地位まで就けたのは評価できると思う。もちろん周囲の「お膳立て」はあったにしろ。
並の人間だと入門するのもやっと。そこからライバルとしのぎを削り、勝ち抜いて上位クラスに進める選手って
ほんの一握りなんだしな。 https://pbs.twimg.com/media/EcGHF20UcAAYQz0.jpg
ケンゾースズキの実績は二人に及ばなかったのか
あるいは超えたといっていいのか?一応WWEタッグ王者だし >>64
そこはドロップキックが出来る坂口とかにしないと。 >>67
草津にできて坂口にできない技はジャーマンもそうだし
他にもあるから。 >>66
海外では超えたかもね。日本では足元にも及ばないだろ。 >>66
鈴木浩子はいい女だよな。市議会議員やって今は県議会議員だっけ? 草津はエプロンからトップロープ越えのジャンピングキック、コーナーポストを
背にして相手のタックルをジャンプ一番交わして前方回転のローリングクラッチ
ホールドとか坂口よりは技は多彩なんだけど雑な試合運びは坂口といい勝負だな。 >>66
ラグビーの実績なら
原>草津>鈴木>謙吾か? 小林は元々草津に付いていたことがあるんだな。
まぁ、小林が入団した時は、草津は一応メインイベンターだったし。
小林が草津に頭が上がらないのは、こういう経緯もある。 >>30
高田と新倉がTVで
「オカマの先輩レスラーがいて、その人はお小遣いはよくくれた」と言っていたが
新日移籍後は変化したのかね
その人はバックランドとの試合後に恍惚の表情で「オレいっちゃう・・・」と言ってて
必死に笑いを堪えたそうだ >>74
映画の世界では先にスターになった人が格上扱いという暗黙の了解があるらしく
小林旭が仁義なき戦いに出た時は当時まだ東映にいた健さんが撮影所に自分の車を止める場所をかしてあげたとか。小林からしたら入団時の立ち位置は最後まで
変わらなかった以上は離脱もやむを得ない選択だったのだろう。 >>70
WWEディーバ起用は語学力と容姿を見込まれたWWEスタッフからの要請だった。
着物が一気に脱げて水着披露とか活躍していた。裏ではWWEスーパースターズが
しているストイックな食生活をケンゾーがするために工夫して料理を作ったりしていた。
この辺り件はTVの激レアさんでも語っていた。
ケンゾー登場のPVに昭和天皇映像が使われてさすが日本国大使館からクレームがつき
キャラ変更となった。ヒロ子夫人はわかりやすい英語を話してアピールしていた。 阿修羅原でも、最初から特別扱いだったけど
序列としては一番下で、冬木の言うことなんかでも
聞かなきゃいけなかったと嘆いていたな。
大位山でも相撲では幕内までいったのに
国際では小林の付け人をさせられていたからな。
一日でも入門が早い方が、実力・人気に関係なく先輩として
立てていかなければならない。
そういう意味では、団体の立ち上げメンバーだった草津が
いかに横暴でも、誰も何も言えなかったのはしょうがないところもある。 >>79
それは落語家の世界でも同じ
俺はこぶ平の下になりたくなかったから 縁続きの古今亭志ん朝師匠への弟子入りを諦め落語家への道を断念した >>82
冬木、菅原は阿修羅より後の入門。高杉が52年5月入門だから、高杉と勘違いしてるんじゃないかな、 >>75
個人の性嗜好を否定するつもりはないが、それとは別に仕事場でスケベな事ばっかしたり考えたりするのは社会人として大いに問題あるよな。
小林のそれ系のエピソードがすべて事実ならね。 晩年の国際って入門取ってたのかな? 冬木で最後くらいか。
なんか遠藤レフェリーの伝手でビルダー数人が入門したとかいう記事は見たことあるが。 >>86
56年の春に、金城正勝、篠原実、高橋貢、秋吉豊幸の4人が入門。前の3人は金子武雄の紹介だったが、あっという間にいなくなった。秋吉は前年にテストを受けての入門で、56年のビッグチャレンジシリーズの後楽園で外人の誘導やってる様子が映像で見られる。 >>87
秋吉は最後のシリーズで思い出デビューしてたんだよな
この人もまた証言を聞いて見たい一人 >>88
パイオニアとかFMWあたりは探し出して
声かけなかったのかな?珍や米村あたりも
5年以上ブランクがありながら
現役に戻って来たんだから、本人にその気が
あればまたリングに上がれたろうに。
身長も185cmあったからあの頃だったら
決して小さくはない。 >>28
UWFを離脱して全日本に参戦した時に
「俺が全日本に革命を起こす」くらいのデカいことを真顔で言っていたらしいね
その自信過剰なところは藤波に勝ってチャンピオンになったからだろうな
革命どころか前座でジョバーやらされて解雇だからな
プロレス馬鹿でプチブレイクしたのが唯一の救いかな >>90
ドームで喝采を浴びれたんだから十分満足だろう >>89
手間を掛けて、探し出すほどの逸材とは思われなかったんだろ?
秋吉本人が、プロレスを見ていて、やる気があれば、FMWなり
パイオニアに再入門しただろう。 >>89
珍、米村と違ってデビューしただけでその後10年近く経ってるんだから
即戦力として使えるわけないし、探し出したところで本人も戻るわけないだろう。 >>87
結局、原のような元の職場退職する事情あるうえ
いくら一番下からとはいえそこはスター候補として入団した選手はともかく
金子ジムつながりの選手は皆、恐らく社会人経験もあったろうから
新弟子だから当面給料が無いだけなのか
会社自体に金が廻ってないのかは一ヶ月もいたらだいたいわかるだろうからね
そもそもボディビルで作った立派な身体維持すること自体にだって
普通はそれなりに金も時間も手間も掛かるわけで
社会人ビルダーやってりゃそういう苦労も知ってるだろうしね
むしろ冬木はともかく菅原や高杉あたりはよく最期までいたなと思う >>88
「いい思い出になるから・・・」と木村の温情でデビューしたと言う話もあるから本当は
まだデビューが早かったのかもね。 秋吉、井上についてたなら全日本に上がれたかもしれんね 国際がヨーロッパ流のラウンド制マッチを実行したと言われている。どんな感じの試合だったのかは知らない
けれど、例えばロビンソンがイギリスで行っていた試合https://www.youtube.com/watch?v=rYNELOrCUGk
のような感じだったら、後々のUWFにも通じる試合だったと思う。田中忠治や寺西さんはこのような感じで試合を
していたのだろうか? ラウンド制マッチは、日プロも力道山が初期のワールドリーグで
やっていたとのこと。 ラウンド制マッチは、日プロも力道山が初期のワールドリーグで
やっていたとのこと。 >>96
秋吉の試合を見た経験のある人って
当時でも合計5000人もいないんだろうな。
今現在ではどのくらいいるのか?
国際側の関係者でも10人いるかいないかって
とこだろう。 >>72
正解
阿修羅は日本代表の歴史を作ったし所属チームも全盛期だった >>101
1971年のイングランド戦を特集したNHKのドキュメンタリーでも原の重要ポジション
での起用を長く描いていてのちにプロレスラーに転身したのもレスラー時代の写真付きで
紹介していた。ラグビー世界選抜軍に唯一、日本人で初めて選ばれたと言うの知っていた
けどイングランド戦の実績だけでも世界を界を相手にして草津はラガーメンとして足下
にも及ばない。
晩年にラグビージャーナリストが探し当てて長崎まで取材に行くだけの価値のある選手
だった・・・ >>99
ワールド大リーグ戦の初期はおろか、昭和30年11月のアジア選手権大会でラウンド制をやってるよ。 阿修羅原って背低かったけどラグビー時代は長身選手だったようだ 草津は海外武者修行中にカナダのプロフットボール球団2軍キャンプに参加
トライアウトを受けたが不合格だった 2016ラグビー日本代表W杯メンバーの身長・体重
アイブス ジャスティン 196センチ 105キロ
ツイ ヘンドリック 189センチ 107キロ
トンプソン ルーク 196センチ 108キロ
マイケル・ブロードハースト 196センチ 111キロ
ホラニ 龍 コリニアシ 188センチ 112キロ
アマナキ・レレイ・マフィ 189センチ 112キロ
リーチ マイケル 190センチ 105キロ
クレイグ・ウィング 180センチ 90キロ
マレ・サウ 183センチ 97キロ
カーン・ヘスケス 178センチ 98キロ
田中 史朗 166センチ 71キロ
日和佐 篤 166センチ 72キロ
小野 晃征 171センチ 83キロ
廣瀬 俊朗 173センチ 82キロ
福岡 堅樹 175センチ 83キロ >>105
それでも菊池や門馬に言わせると
「日本人初のプロアメリカンフットボール選手になるという
知られざる偉業を成し遂げている」
になってしまうというね >>107
カナダ・バンクーバーが本拠のBCライオンズじゃなかったかな?
カナディアンフットボールはアメリカンフットボールと少しルールが違うらしい。 かつてスコット・ノートンが来日中の全米学生アメフト代表に
『プロレスなんてフェイクだろ』って六本木でからまれたんだけど
マサさんに『喧嘩は絶対駄目』って厳命されてたから我慢してふと横をみたら
マサさんがノリノリで学生をぼこってたという。プロレスラーエピソードで最高完成度。 パテラに罪をなすりつけられたという警官殴打事件も、
マサさん酒が抜けて翌朝檻の中から出されたら
警察官たちがボコボコの包帯だらけの姿で現れて
「アンタたちどうしたの?」と聞いたら「ゆうべお前に
やられたんだよ!」と怒られたというからなあ、
判決に人種差別がカランだのは事実だろうけれど、
まあ色々ホコリは出るみたいでw >>109
>>110
その昔、芸能界で大麻汚染が大問題になって
陽水や研ナオコなど芋づる式に有名芸能人がどんどん捕まっていった時
ジョー山中だけは自分の罪以外はガンとして何も口を割らず
(元々芸能人の逮捕は世間への見せしめの要素も大きいので)
そこで捜査もストップしてやがて騒動は収束していった
もちろん事の是非とは全く別の問題なのは前提としての話だが
こうやって自分がイモ引いてでも業界内なりのルールや矜持、仲間を
外部から守ってみせる覚悟のある人は信用もされるし
“オツトメ”から戻ったブランク後も
リスペクトされてちゃんとそれなりに遇されるんだよね 草津と言えばシャチ横内とのタッグは初めて見たがまんまファイトスタイルが上田だな。 清美川と弟子の横内、上田にラッシャー木村は、皆クロスチョップを使うね
横内と上田はテキサス版世界タッグ王者になっている
井上は横内のことを"二度と会いたくない"くらい嫌ってた 木村のクロスチョップが猪木に決まったことってあったっけ?
アンドレに決めてアンドレが倒れたのは見た 新日に行ってからの木村はクロスチョップしてないし、ヒールとして国際時代よりも技の数を減らしていた 木村は自分の柄では無いと封印した「幻の回転足四の字固め」を猪木に仕掛けようとした
時があった。この技を使ったレスラーって吉江くらいかな? 風車釣りとか低空だがドロップキックとか不器用そうなイメージとは裏腹に技は
多彩なんだけど、木村の代表的な技のイメージはボストンクラブとブルドッキング
ヘッドロックの2種類 >>117
回転4の字と裏4の字を混同してないか?
どちらも木村の新兵器として使われたが時代が違う
回転4の字は70年代始め、裏4の字は末期の80年
猪木に仕掛けたのは裏4の字 >>116
一度だけカーンを投げてたけど、以後は封印 >>118
木村は不器用なイメージと違って
スープレックスやサンボやルチャのジャーベ等
多彩な技を使う実は器用なタイプ
こういう言い方もたまにあるけど
たしかに使う技の種類は多彩でも
試合自体の組み立てや動きや技のつなぎ、
技の入り方やフォームなんかがぎこちないのは
やっぱ「不器用」ってことになると思うんだよねえ 80年に国際プロに入団した大木はマッハ隼人に頭を下げて「X固め」を教わった
木村の「裏4の字固め」「風車吊り」も隼人からなんだよね
木村もジャーベをマスターしているなら猪木に掟破りの「卍固め」掛ければよかったw でも足悪いんだっけか、ロープに振られるときのラッシャー、
不格好にトテトテと小走りにしか対応できなかった 木村はベーカーに左脚骨折(レントゲン写真で脛がポッキリ折れてたと浜口は証言)
まだ完治する前に復帰(ドクターデスとの金網戦)させられて完治後も常に痛みがあったらしい 何故ラッシャーは金網で骨折した後、完治しないで復帰したのだろう?当時のTBSの視聴率ならば
しっかりと治してから復帰しても余裕だった筈なのに。何故焦ってラッシャーを復帰させたのか判らない。 >>116
新日ではダブルアームは猪木のイメージあるからねえ >>126
日プロの蔵前大会と国際の東体大会の同日興行合戦があって、日プロの方はマスカラスの初来日で前売りが売れてたのに対して、国際の方は全く前売りが伸びなかったので当時まだ集客力のあった金網デスマッチを行う必要があった
金網デスマッチ初期はまだラッシャー木村しか金網に上がっていなかった >>122
大木は妙な先輩風を吹かす事も無く合同練習にも参加してサンボの新技にも興味を示したり
国プロレスラーズとの関係は悪くなかったが吉原社長は自分の関与せずTV局主導で加入
させられたので面白くなく距離があった。これがカーペンティアの来日不可で代打・上田に
なったインター戦で爆発する・・・
>>124
木村がリズム感がある試合ができたのは「骨折するまで」と言われている。
浜口の話では復帰を急ぎすぎてハードなリハビリを無理してやったのが原因らしく足の
太さも骨折前と変わってしまったと言われる・・・・ 大木対カーペンティアというのも
噛みあわないと思うが、、、 >>124
ドクターデス戦が日本初の金網デスマッチだよね?
2戦目のオックスベーカー戦で右足を複雑骨折
ラリーヘニングはアクシデントだったと証言してるが
ベーカーが椅子で滅多打ちにしてるんだよね >>131
アンドレの事故に対するキラー・カーンの様に、ベーカーは単なるアクシデントによる木村の怪我をデスマッチの攻防のせいとする事で、お互いの商品価値を守ったんじゃないのかなと 「これはやばい怪我だ!」と判断したから、
咄嗟に椅子でめったうちにする芝居をしたわけか。
泣かせるぜベーカー 元々手が合わなそうなのに、動けなくなった大木とカーペンティアでどんな試合になったことやら >>115
82年頃はタッグマッチやノーテレビの地方興業での試合で使っていたよクロスチョップ
その後ラリアットを多用しだしてからは見せなくなったけど
>>121
今オカダがマネークリップの仕掛けがモッサリとスローなせいで
試合全体の流れを悪くしてしまっているのと似ているかな ブレーンバスター→体固め
今じゃ考えられないフィニッシュホールドだけど昭和プロレス、特に国際はいいね。 >>130
カーペンティアと国際プロとは、当時どんな関係で、どんなルートで来日交渉したのか知りたい。
来日の資金は12CHの特別資金が降りたんだろうけれど、来日の確約はどのようにつけたのだろうか。
確か初来日のカーペンティアは、今でも残るvs草津のフィルムを見ても「とんだ一杯食わせ物レスラー」にしか
見えないんだが、初来日当時は提携先のAWAからの強豪選手だったよねぇ・・・ >>137
ブレーンバスターは今でも垂直落下式なら
フィニッシュになるだろ。 >>138
サンマルチノがNYでイタリア系移民の、プトスキーがポーランド系移民のヒーローだったように
カーペンティアはフランス系のヒーローだった(仏語読みだとカルパンティエ)
バションなんかもフランス系(仏でもラテンというよりアルジェが混ざってるのかな?)で事情は似てるんだけど、
AWAの主要テリであるミネアポリスなど米北中西部からカナダモントリオールは
国境挟んでフランス語圏とその近隣地域。
だからカーペンティアは全米の中でも特にAWA圏では大スターだった(自宅もモントリオール)
AWAはそもそもガニア自体がフランス系米人だし
(仏語読みだとギャグニー、元LADのリリーフ投手でモントリオール出身のエリック・ガニエと同じ綴り)
アンドレが米進出の際も声掛けたのが仏語圏と近しいガニアのAWAだったのが大きかったそうな >>138
140が答えになっていないから書くけど、この頃のカーペンティアはアンドレ、ジノ・ブリッド、フランク・バロアがモントリオールで旗揚げした Lutte Internationale と契約していたんだよ。このLutte Internationale はかつてのGWAに出ていたレスラーが多数参加していたから、国際と繋がりのあるレスラーも多かったんだ。誰かまでかはわからないけど、国際が声を掛けようと思えば掛けられる状態だった。 >>141
余談だけど、この Lutte Internationale という団体名(会社名は別の名前)は、日本語風に言えば「国際プロレス」。もしもだけど、アンドレがこの名前を希望してくれたとしたら胸熱。 >>138
海外遠征時に親交を持ったカーペンティアとの対戦を楽しみにしていたが来日中止で
上田になると対戦拒否、「レスラーがプロモーターに逆らうのは許されない!」と
吉原社長と大喧嘩。生放送の時間迫り青くなった12chスタッフがなんとか説得した。 >>140-142
貴重な情報ありがとうございます 『別冊ゴング』昭和48年新年号のブルクラの対談より
ブル「だけど小林も草津も結構強くなったぜ。
なんせクラッシャーさまが小林に負けたんだからな」
クラ「それを言うな。途中で凶器を取られたのがまずかった。
あの野郎、俺の凶器でガンガンと俺の頭を割りやがった」
ブル「やるならとことんやれ!とシカゴで俺が教えたからな。
小林はアメリカに来て強くなったよ」
クラ「草津も良くなってたな。しかし驚いたのはマイティ井上という
小僧っ子だ」
ブル「マッドドッグ・バションが井上は素晴らしいと言ってたが
バションほどの奴が買うだけのことはある。
まだ若いから、これからが楽しみな小僧だな」 カーペンティアの全盛期は1950年代で初来日時44歳で下り坂だった
カーペンティアの50年代の動画を観ると、あの時代の他の選手と違うスピーディーで跳んだり跳ねたりのスタイルでカーペンティアが出ると大歓声で人気なのがわかる >>109
似たようなエピソードはブレット・ハートも語ってたな
ブレットとサクラダとヒトで飲んでたらアイスホッケーの選手に絡まれて
キレて立ち上がったブレットをヒトが「親父さんに迷惑かかるだろ」と諫めて
渋々座ったらサクラダがそいつらをボコってたというw >>146
世界のプロレスでアントニオロッカの試合映像が流れて事があったけどドロップキック
連発で相手を組み合わないままでヘッドシーザースからのフォール勝ちとまさに佐山タイガー
の原点と言われたくらいの跳躍力と空中殺法だった。ただ馬場の師匠・アトキンスが
「あんなモンのプロレスじゃない!」とロッカを認めていなかった。ロッカ自身はNYの
大スターとして天狗になる事も無く当時、新人の馬場にも陽気に声をかけていたらしい。 >>148
ロッカのキャッチフレーズが「鳥人」だった気がする アントニオ猪木がハンセンやアンドレを相手にしていた試合みたいな感じだったと
言われていたね、全盛期のロッカは
イタリア系移民のアイドルが「小さくても巨漢のアメリカ人に負けない」ロッカから
「体格でもアメリカ人に負けない」サンマルチノに移り変わったのは、経済成長した
日本のカリスマが力道山から馬場に移ったのと似ていた推移だったのかなあ >>148
アトキンスはバディ・ロジャースの事は高く買って親しく付き合ってしたが
ロッカの事は気に入らなかったって話だね
馬場にとってはロッカは「陽気で面白いオッサン」だったって話 今日発売の週プロでマスカラス初来日における吉村の名演出ぶりを紹介
同じマッチメイカーでもどこかの誰かとはまさに雲泥 >>138 >>141
カーペンティアに声かけたのはたぶんスミルノフ
モントリオール出身で旧知だし
80年頃も軸足は米南部だがモントリオールにも出ていて、カーペンティアとも戦っている
国際にも同じタイミングで来る予定だったし カーペンティアは税金滞納問題(カナダ人と外国人の税率が違って高い分を未納)でカナダから出国出来ない状態だった
新日本に来日予定だった時は空港で待ったを掛けられて出国出来なかった
税金問題が解決するまでカナダ出国出来ないのは本人はわかってたからS55年の来日予定を契約したかもわからない カーペンティアは、昭和42年の日本プロレス、第9回ワールドリーグにも
参加が決まって、空港まで行ったが、そこで出国できなかったとか聞いた。 大木の国際入団は東京12チャンネル主導だったらしいが、視聴率回復できると思ったのかな?
日プロの末期を見れば、テレビ視聴者にとって大木がどんな存在だかわかりそうなもんだが。 国際プロレスアワーの田中ディレクターが全日本プロレス中継の視聴率を調べて、大木が出演した回としてない回で大木が出演した回の方が微率ながら高かったらしい
井上の話だと大木が国際在籍してた間は在日韓国人の集客が増えて集客に貢献したらしい
馬場が大木なんだかんだ使ってたの在日韓国人がまとめてチケットを購入してくれてたのが大きかったらしいしね >>158
こんなことを書くと某コブラのようなネトウヨ扱いされるかも知れないが、
大木が入団したことで関西、特に大阪地区の半島出身者たちからの支持を狙ったとも
考えられる。猪飼野のこととか、力道山を支援していた組織が大阪にネットワークを
作っていたとか・・・。
吉原社長は韓国のレスラーを留学させたりと、当時の日本の風潮としての、半島だろうが
どこだろうが出身は問わず、日本にプロレス文化を浸透させようとしていたと思われる。
そこには大木と社長の日プロ以来の関係もあったろうし、馬場と大木と社長の関係もあっただろうな。 韓国レスラーの名前も、現地の発音に
近い名前で呼んでいたね
当時は日本漢字読み表記が多かった 国際としても東京12chとしても
視聴率テコ入れとか集客営業効果といっても
あの頃はそもそも日テレ全日やテレ朝新日とは
そもそもの基準が違うからね
末期の営業状況聞いてると
実券で50〜100枚上積み程度でも
とにかく現金収入に飢えてた状態だったようだし
12chも既に視聴率一桁台半ば〜前半まで低迷してたわけだから
プロデューサーやディレクターの立場でいえば
放映延長のためにも1〜2%でも上積みされればそりゃ大きい
ワープロにとっては20%目処で週によって18〜22%は“ブレ”の範囲程度でも
国プロアワーにとっての1〜2%はもはや死活問題だったろうから
それが大木で良かったのかについては
上で書かれてる全日中継の数字のような実績無ければ
社内で上申して予算採れなかったろうとか
そもそも大木以上のテコ入れで呼べそうな選手のアテあったのかってことで >>161
TBSの打ち切り後にテストで国プロを放映した12chの平均視聴率は2〜3%だったが
木村対ロビンソンは6.7%を取ったのでレギュラー放映ヘ向けてゴーサインが出た。
大木の契約金は12chが払いそのうちの10%は国プロに入ったので獲得に全く関与しな
かった吉原社長は黙認した。田中Pの話では大木は視聴率と観客動員に少なからず貢献
したらしい。 >>151
ハンセンが自伝で猪木の事を「強いと思った事は無いがとにかく猫のように素早い!」
と評していた。 カーペンティアが70年に初来日してサマーソルトキックを見たときの
落胆が酷かったから、71年マスカラスの来日は衝撃だった。
(明日2月19日はマスカラスの国内デビュー vs.星野勘太郎戦の日)
その10年後、空中殺法が四次元殺法と形容される
タイガーマスクがデビューして度胆を抜かれた。 だけどコーナーでトンボ切ってソバット決めて、
そのあとチョップで仕留める動き、技の流れに淀みがないんだよね 大木の加入は現場サイドだと力道山の流れをくむレスラーの加入が望ましかった。 冬木の本で大木がフェリーのデッキで昼寝してて雨が降ってきて嵐になっても構わず寝てて
みんなさすが大木金太郎だって言ってたけど、しっかり風邪引いてたって話書いてたな 大木については初期の東郷による引き抜き未遂の因縁もあるし >>1166
>コーナーでトンボ切ってソバット決めて、そのあとチョップで仕留める動き
これねぇ、コーナーでトンボを決めた後のオーバーヘッドキックみたいな動きが、当時の
梶原センセイからの情報だったから、「コーナーでトンボ切ってソバット決め、
そのあとチョップで仕留める動き」ではなくて、「コーナーで駆け上がってトンボを切る
+そのままでんぐり返しの前転」だったから、何コレと映ったんだよ。
技に澱みが無いのはそうかも知れないが、必殺のサマーソルトキックでは全く無かった。 大木の国際入団は12ch主導と当時から言われたいたし
近年もそれに沿った証言ばかりだが、実際は違う
元々吉原と大木は懇意で、実弟の金光植ら大木の弟子たちを留学生として受け入れていたほど
金植は大木のメッセンジャーとして吉原との間を繋いでいた
その状態で、吉原の頭越しに大木と12chが繋がる筈がない
国際入団は大木が吉原に懇願したものだが、国際には金がない
そこでPに頼んで、12chに大木を獲得すべく予算を組んでもらったもの
Pとしても、今更本当のことなど言える筈もない。
当時の大木はフリーとして全日に参戦していたが
戸口の全日入団により、ブッチャーやシークの子分的役割に回されていた
それまでビジネスとして猪木や馬場の負け役もやってきた大木だが
さすがにブッチャー・シークの子分は耐え切れず、吉原に泣きついたのが真相 ストロング小林がIWAタイトルマッチに勝利した時に、勝利者インタビューの後で
仁王立ちから両腕をジャイアントロボの様にぎこちなく上げて、片足立ちとなって
そのまま軽くジャンプしながら1回転するのが好きだ。 >>162
誤りが多い。
TBSが昭和49年3月で中継を打ち切った後に、東京12チャンネルが初めて国際プロレスの
中継をしたのが6月3日の「ビル・ロビンソン対ラッシャー木村」のIWA王座決定戦で、
この時の視聴率は6.4%。この結果を以って12チャンネル内で定期放送の検討がされた。
この特番が社内で決定されたのは5月10日で、それ以前に「平均視聴率2〜3%のテスト放送」
なるものが行われた事は無い。
7月1日と29日にも放送が組まれ視聴率は同日とも4.8%。この時点で秋からの定期放送が
決定していた。
12チャンネルが大木側に準備したのは半年間の専属契約権と”弟”金光植の出演料込みで1000万円。
この金額と弟の出演は大木からの希望があった。田中元和氏はこのうち実際に大木側に渡ったのは
700〜800万円程度ではと推測している。
田中元和氏を「P」と表記されているが、当時の国際プロレスアワーのプロデューサーは
村山光一氏で、田中氏はディレクター(スタッフロール上では「担当」)。55年3月で両者は
番組から離れ、それ以降打ち切りまでのプロデューサーは武居征生氏。
田中氏は一度もプロデューサーとなってはいない。 >>171
言葉が足りませんでした。当時の在京キー局番外地・東京12cの平均視聴率が2〜3%
でした。新日から頼まれて放映したゴッチ戦が9.8%と言う12chとして驚異的な
高視聴率をを取り杉浦アナは「翌年の改編期からの放映を検討するもNETとは
ネット局数、放映料と勝負になりませんでした・・・」と無念そうだったけど
12ch・田中氏は逆にそれを完全否定しているけどどっちが正しいのかな?
普通に考えれば杉浦アナの方が理屈は立つけど。箱根駅伝、タイソン等と初期は
放映したのに他局に強奪されても無念そうじゃない田中氏が全否定するのは
「TV局番外地の意地」だったのかな?
あと杉浦氏は解説だった東スポ・桜井氏もNETの交渉でワープロへ円満移籍したと述べて
いたけど東スポと12chは資本関係も無いはずだから無問題だったはず。ちなみに同時期
1972年10月の他団体の視聴率は日プロ・14.5、全日・10.5%、国際・9.2%でした。
BI砲で湧いていたプロレスブームは全く過去の物になっていた・・・
>>173
確かに他団体で韓国勢は「かわいがり」受ける可能性があるので大木は弟子達をその
可能性の少ない吉原社長の所に預けた言う話があった。 ここは時折、貴重な裏話が出てくるな。。w
大木は80年デビリッシュの途中で国際を離れてるみたいだ。
翌年のテーズ杯とか一切顔はなく、月プロとかの月刊誌に街頭ポスターをそのまま掲載したような
シリーズ宣伝のページがあって、大木の顔に「負傷のため欠場」とか上書きしてたっけ。 >>171
大木がブッチャー、シークと組みファンクス+鶴田と戦った試合が放送された
メチャクチャにやられた大木が這いつくばってブッチャーとシークに助けを求めたが
無視され見殺しにされるようなシーンがあった
大木は随分情けないことになってるなと思ったが
耐え切れずに吉原に泣きついたのか 馬場は戸口を引き抜かれた穴埋めに
大木をはめようとしたのだろうか?
天龍も帰国したけどすぐアメリカに
戻る予定だったらしいし。 >>176
大木は国プロ残留を望んだが国プロも12cもそのつもりは無かった・・・ その頃はテレビ中継の打ち切りも決定していただろうし
国際もいよいよ火の車だったからね。 全日に戻ってからの大木も悲惨だったな。日本陣営だったから、乱入したシンの迎撃を
買って出てシングル戦も発表されたが、シンから「大木なんか格下だから試合できるか!」
と言われてしまい、カード自体が消滅してしまった。 デビッドフォンエリックが亡くなったとき、最後に中継で見たのが
大木との戦いだった。どっちが勝ったとかは覚えていない。 大木は最後の参戦となった81年ジャイアントシリーズではスミルノフとのシングルが多かった。 >>183
大木はあれ以上いても格が下がるだけ
だったろうね。
ハンセン相手のジョバーやらされた可能性もある。天龍も伸びてきていたし。 サンマルチノ、大木、三沢が同じシリーズに出てたって貴重だ 大木が国際参加途中でフェイドアウトしてても全く気に留めてなかったわw
加入した時点でなんか単なる「助っ人」みたいな印象しかなかった。というのも国際は上田や斎藤、ヒトらフリー選手
さらに新日、全日という他団体との提携(交流)も以前からあったので、垣根を超えた
寄り合い所帯のようになってたので大木もそういう存在のように映ったな。 >>187
そして井上、原と大木が再び合流してしまった
シリーズでもあるのが81年ジャイアントシリーズ。 >185
個人的には連日マスクトX(サイレント・マクニ―)とのシングルばっかり組まれてた
イメージがある。熱戦譜を後からちゃんと見たわけじゃないけど >>182
一時的な全日復帰は大木がインターを売り渡した時の付帯条件か馬場のサービスだったのかな?
インターと馬場が封印したアジアヘビーのベルトをバーター取引し韓国で行われる
復活アジアヘビー級の争奪戦に全日勢の協力が条件だった。ただ馬場以上にインター
ベルトに固執した大木が苦渋の決断で手放したのは韓国国内で行っていた海苔の養殖
事業が不振で大きかったらしい・・・ 猪木は大木が病状にあった時に
わざわざ韓国まで見舞いに行ったぐらい
関係は良好だったようだが、馬場の方が何だかんだいって
長期間大木をリングに上げているんだよな。
まぁ、初対決で6分余りでフォールしたり
ステレオタイプの悪役を演じさせたりと扱いはよくなかったが。 インタータッグを2度もあげてるけどな。
大木はインターへの執着は強かったはず。
考えてみればインター二冠王。 >>194
ドクの韓国コンビはインタータッグ争奪の全日の売りになり国プロも含めた三軍対抗戦
も開催したり全日レスラーを韓国に送り興行に協力したり新日から引き抜いた大木を
いろいろと厚遇している。師弟コンビ対韓国コンビのインター戦とロビンソン対ブッチャー
の日大講堂の試合は同日に行われた新日の蔵前大会に初めて完勝した。
向こうは二度目の猪木対ルスカ戦で新鮮味の無いカードに助けられたけど。
あとは馬場は自著で晩年の情報の無い大木を心配してた。
やはり同じ釜の飯を食った仲間なんだね。 浪花節的な見方をすれば、馬場も猪木も日プロに見切り付け自分の団体興して成功。
片や大木はもはや形骸化した日プロだが同郷の師である力道山の団体ゆえ、最期まで籍を置いて維持したと。
その先で日本での大木に対して、余裕のある側として譲歩的な意味で活躍の場を与えたわけだ。
ただ、そこで坂口の心情についてはやはり衝突する部分はあったのだな。。w 大木と猪木の仲は悪くなかったのに
新日本では長続きしなかったな。
坂口がNOと言ったんだろうか。 >>195-196
チャンピオンカーニバルでも大木は馬場鶴田に次ぐ3〜4位の得点だし
親族の金光植の面倒も見たしね
けっこう大事に扱っている たった6分で負けた上に、最後はブッチャーかシークの手下までさせられてるのに大事にしてるとか、有り得ない。 大木が新日や国際に上がっても結局全日に戻ってたいたのは大木を後援してた闇社会の実力者が馬場(と言うより日テレ)と昵懇だったから
馬場としても大木ルートで在日にチケットが捌けるのでリング外では大木を重宝していた 当時はコミュニティーのある地域での興行が多かったのかな? ロビンソンも大木もそうだが最初に完勝するってのが重要
高田が「武藤戦は負けの後に星を返してもらってIWGP王者になっているのに
語られるのは最初に負けた武藤戦だけ」と言っていた
ロビンソンも大木も最初の馬場完勝の後は厚遇している 馬場に6分で負けたといっても、試合は大木の緊張感が圧倒してたから、試合時間だけで大木が弱いとは思えなかったな。
ブッチャーやシークの手下というのも晩年の話だしね >>205>>206
BI砲との闘いは「韓国の猛虎」に名に恥じない試合だった。
新日登場は念願の日本マット界へに復帰だった。全日は馬場から指示を受けた小鹿から
勧誘を受けた形だが新日が引き留めなかったのは坂口との関係が険悪になってしまい
副社長が韓国遠征まで参加を拒否すると言う異常事態になってしまったからだった。
新日が大木より当然ながら坂口に気をつかったのと大木側としては猪木の策謀で
インターが狙われていると感じたからだった。 日本プロレス残党を新日ので引き受ける話がまとまりかけてたのに、
その頃韓国に行ってた大木がそんな話聞いてないって潰したが
結局大木もノコノコ新日に来たので坂口は大木にムカついてたって話してたな
それでもリングでぶつかり合えば不思議とお互いに認められるもんだとも 大木は日本陣営を離れることで成功した最初の例とも云える 大木、馬場、猪木が同期の三羽烏としてデビュー期はほぼ同じでも
当時でさえ大木と猪木の年の差は10近く離れているとされてしかも
実際は更にそれ以上に年の差が離れていたんだから二人と比較すると
そりゃ大木はキツイ
本当は吉原功社長や豊登よりも年上だったそうだから新日や全日、国際時代
の大木は今から思うとむしろよくやっていた方だと思う 1929年産まれだから馬場猪木とのシングルの時に45歳過ぎてたんだな
45歳であのコンディションって今考えれば立派なもんだね 「力道山道場三羽烏」はムチャクチャ面白かったが、常に
観客を集められなかった大木が、新日で
「頭突き一本鎗、猪突猛進、常に喧嘩腰の大木の魅力は
最大限に発揮された。大木はデビュー以来、初めてチケットが
売れるレスラーになった」
というのは興味深いし、それが猪木がアメリカで学んだやりくり
算段の成果だというのも面白い着眼だけど、同じようなことを
どうして小林では出来なかったのかなあとつい思ってしまう
(小林も俳優転向直前は、国際軍団と別にしてもヒールに転向
させるムードはあったみたいなんだけど) >>210
その力道山も年齢をかなりサバ読みしていたという説もあるからなぁ。 あとここで聞くのも何だけど、新日の第二回ワールド大リーグ戦、
本当は坂口が優勝するはずじゃなかったのかな
猪木はシンにNWFタイトルを奪われ体調不良、なにより「猪木と
坂口は完全に同等に扱う」という入団前の約束からすれば、
二大会連続で猪木が優勝するというのは何か腑に落ちない
(形の上だけ第三回四回と坂口が「連覇」するけど、猪木は
参加せず、体のいい勝ち逃げに走ったわけだし)
猪木単独エース態勢が出来たのはルスカ戦で高視聴率を取り
アリ戦実現までの盛り上がりを見た坂口がマッチメイカーとして
一歩引いたからで、それまでは今考えられているほど猪木だけを
推す体制じゃなかったように思う
実際、当時のゴングなんかだと「優勝は坂口」という「予想」が多く
決勝進出者決定トーナメントはまず第一試合で小林と猪木が
両者リングアウトで引き分け、第二試合では坂口がTVマッチ
四連戦で大反響を起こしていた抗争相手の大木をフォールで
破るか、もしくは第一試合で優勝がなくなった小林が乱入して
リングアウト勝ち (小林はこの直後の韓国遠征で大木のインター
王座に挑戦する予定だったので、リーグ戦でも大木と因縁があった
渡韓はしたものの食中毒で試合が出来なくなったんだけど)
そして決勝は前年の因縁があったクラップを叩きのめして優勝、
という流れが自然だった気がする
決勝トーナメントになる星割りまで坂口優勝路線でいたのが
突然何らかの事情で猪木の連覇になってしまったんじゃないか
それが大木の「坂口に負けるのはやっぱりイヤだ」というゴネが
原因だったのじゃないか…とか、古い時代の妄想ははかどるw 二回大会は坂口は大木と両者失格で、敗退せずに優勝を逃したので
坂口の名誉は守られている。
むしろ三回大会の方がよくわからん。
猪木がシードしてもらった上で決勝辞退→坂口優勝、は
アリ戦対策か 坂口は公式戦をクラップやリベラとも10勝3敗同点で終了。
優勝決定戦進出賭けて坂口が勝ち抜き、公式戦13戦全勝のモラレスに辛勝でリーグ優勝の栄冠。
野球のCSみたいな流れだった。 >>218
小林のと同じチームフルスイングから
同人誌の値段なんてそんなもんだよ >>217
小林がリベラにピン負けして坂口・クラップとの三つ巴戦に残れなかったのが余りにも
不憫だった。新日正式加入直後から続いた小林の凋落は翌年のシン・上田戦での失神KO
負けまで続き、国際のイメージダウンに繋がった >>220
自分がプロレス見始めた頃は小林入団後で、力技は絵になるがそれ以外は動きもスローだし
エース外人には坂口よりさらに勝てないし、これで国際のエースだったという事もその時知って、
こんなので通用するのか国際って、ってな悪印象にもつながったな。。 >>215
開幕戦の蔵前のメインは坂口と小林だったんだよな 冬木は大木から見たら息子以上に若かったんだな。
「ボク」とか「坊や」って呼ばれてて、デビュー戦も欠員が出たとき
「坊やをだしてやらないか」と大木が進言して決まったらしい。 冬木のリングネームだったサムソンは、どんな経緯で冬木に付けられたのだろう?
国際時代ならマッハ隼人のように、吉原社長が勝手に命名しただろうが・・・・ >>225
大昔の週刊プロレスに、海外修行から帰ってきた冬木の肉体が、出発前はいかにも若手らしい細目の体つきだったのに、お馴染みのぼってりしたデブのように変化していた。とにかく大きい体つきが好きな馬場が「いい肉体になったな。お前のリングネームはサムソンでしよう。」と決めた、というエピソードを載せていたことがあった。 裏切った轡田のリングネームと同じサムソンを付けた馬場
冬木の仲人までして結婚式を挙げた直後にまたサムソンに裏切られてSWSへ
馬場にとってサムソンってリングネームには良い思い出がなさそう 井上が連れて行った3人では冬木が一番良かったとは俺も思う
菅原はちょっと顔が良かっただけでしょっぱかったしな
高杉もイマイチだし冬木が一番上手かった >>228
井上が連れていった3人って米村、菅原、冬木だろ?高杉は別ルートのはず。 >>218
kaminogeでは国プロ〜海外遠征〜全日〜SWSと盛りだくさん内容のインタビューで
読み応えがあり異例の前後編インタビューとなっていた。
全日後半からSWSまで駆け足の内容だったのが残念だった。 >>230
冒頭の前説をネトウヨがやってるな。中身も国際マニアなら知ってるものばかりで新鮮味なし。 >>234
プロレスに、ウヨとかパヨとか関係ねぇーじゃない タイガージェットシンといえば新宿伊勢丹猪木襲撃事件が有名だが
国際プロレスがそのアングルをパクってススキノの路上でラッシャー木村を襲わせようと段取ったものの
襲撃者オックスベーカーが待ち合わせ場所を間違えて未遂に終わったという悲劇はあまり知られていない。 >>237
プロレスファンのますだおかだが上京して初めて行った場所は新宿伊勢丹前だったらしい。
菅総理がオリガミをお気に入りにしているとワイドショーで話題にしている時に
コメンテーターして出演していたけど馬場の事も知っていたんだろうね。 プオタのアンチが馬場の悪口言うのは一向に構わんが、
菅のせいでオリガミが悪い印象を持たれるとすれば、なんかイヤだ。 >>237
そのベーカーの件は高橋本に載っていたが、それ以前に聞いたことがない
75年にバションがススキノで木村を襲撃したことはある
こちらはその宣伝効果もあったのか、中島スポーツセンターのIWA戦は空前の満員だったという
高橋はバションの件を間違って書いたのではないか 昭和48年10月、新宿伊勢丹前の猪木とシンの乱闘騒ぎは、
同年6月、国士館と朝鮮高校の新宿駅乱闘事件のパクリでしょ? 映画「國士参上!」じゃないけど国士館と朝鮮高校の乱闘なんて日常茶飯事でしょ?
https://spice.eplus.jp/articles/63475 キングコング対ゴジラにも国際プロレスのファイトのエッセンスがある。 40年前、2月末からテーズ杯争奪第2戦を兼ねた81年スーパーファイトシリーズが開幕。
レイキャンディという意外な顔、ルークグラハムという今更なオールドタイマー、前年末からEMLL
という新たな招聘ルートを得てやってきたコバルデ&エローデス・・。
多士済々といえば聞こえはいいが、イマイチ決め手に欠けた地味な顔ぶれ。
この先どうなるとも知れぬ中でテーズのベルト(レプリカ?)を賭け巡業は始まった。。 >>245
エースとして来日予定だった欧州の未知の強豪
キングコング・コジャックのドタキャンという大事件にもふれてあげて 私も先ほど訃報を知ったんだが、たまたま2日ほど前にこの試合の動画を見ていた。
メンバー的にも貴重な6人タッグで、味がある試合だなと思っていたのは虫の知らせか?
https://youtube.com/watch?v=jAS0-aN85qw
日系レスラーのディーン樋口さん死去 元WWWFタッグ王者、猪木の東京プロレス参戦
https://news.yahoo.co.jp/articles/9898c69d6379e755201116f964f4b76418877aae 全日のレフェリージョー樋口さんとは親戚でも何でもなく赤の他人なんだっけ ディーン・ホー 188cm
ラッシャー木村 185cm
映像のマジックは凄い >>246
こういう不手際が多くフォローできないのがマイナー団体の証とか言われていた。 「みかんきんかん夏みかん」の津坂匡章って、秋野太作の本名だよな? 秋野太作は必殺シリーズに【必殺仕掛人】から【暗闇仕留人】まで連続してレギュラーだったが その頃は[津坂匡章]名義だった >>255
「俺たちの旅」は、津坂まさあきって平仮名表記だったよね? >>256
【俺たちの旅】の頃に[津坂まさあき]と 議員の立候補者のような平仮名混じりになり
次の番組【俺たちの朝】での役名をそのまま芸名にしたようだね 71年3月AWAビッグファイトシリーズ
全6戦と小規模なシリーズながら内容は濃く、バション兄弟のAWA世界タッグ戦初開催や
ビルミラーが挑戦する杉山のIWA世界防衛戦が盛り込まれたが、杉山は王座転落、
しかしリターンマッチは行われずそのまま王座は海外流出。。
杉山のエース降格、次期小林が昇格への布石か。 >>253の「もーれつア太郎」の山本圭子、今でも50年前と変わらず現役声優なのが凄い。 フジテレビで鈴木石松を発見。ガッツになる前だが、日本タイトルは取れなかったんだよな。 >>185
5試合(すべて両リン)だから結構当たってるが
>>191の言うようにマスクドX戦が圧倒的に多かったよ
あとはロブレイに勝ち、デヌーチ、デストと両リン 本来、髪切りや覆面剥ぎマッチとかデスマッチは抗争の最終決着みたいなストーリーが望ましいのですが
国際プロレスみたいに金網デスマッチを各地のプロモーターに要請され乱発みたいなことにも陥りがちなので、そこは手腕なんだろうな。 FMW初期で、サンボ浅子が、あまり因縁もない選手と
年に2回、髪切りマッチをやって負けて、坊主頭になったが、
ただ単に床屋代を倹約しているんだろ?と思われた(苦笑) プロレスが上手いとは言えないタイトンやグラジエーターがあんなに輝いたのは、
今考えるとやられ役がサンボ浅子だったからこそなんだろうな。 タイトンもグラジエーターも早死にだよな、ステロイドの影響なんだろうが。 >>266
グラジェーターは生前週間ファイトでステの副作用理解して使用してない、と記事あったが
そのかわり筋肉維持にゆで卵白身だけ何個もたべる高タンパク食実行していた、これ継続すると内臓に悪いんだったか、後はキラーペインか 『アンドレより重くカルホーンより高い』
ブルドーザー・ビッグ・ベンのニックネーム胡散臭すぎて大好きw >>267
ライガーもゆで卵の白身だけを山のように食べてバケツに大量の黄身を捨てていた。 ゆで玉子を山のようにとは言わないが
7,8個、白身だけ食うのは、
他のスポーツ選手もやっていたね。
10年ちょっと前かな?
巨人の李とかいう韓国から来た打者も、
テレビで紹介していた。
それもほとんど塩を掛けずに食うんだ。
美味くないだろうにね。 ウォッカのスミノフ
ドリップコーヒーのブルックス
シヤチハタのXスタンパー
会社とか自分の周辺で、これらの名前を聞いて国際プロレスを想起するやつは誰もいないはず。 黄身を捨てるのはもったいないだろ
牛丼やカレーに生玉かけるのに黄身だけかけると味が薄まらず美味しい >>271
俺は「光沢」って字面を見るたびに三沢を思い出す。また「光」ってのが三沢の顔に見えてくるんだなこれが。 あー、わかるわかる
なんか眉間に皺寄せてにらんでる感じw >>272
同席していたトンガ・ロアは「クレージー!、黄身が一番、おいしいだろう!」と
笑っていた。 >>275
三沢の母は三沢に光晴と名前をつける際、
「名前に光の字があると体内に刃物が
あるという意味になりあまり良くない」
と言われたらしいな。
流石に刃物で刺される事はなかったけど
ああいう亡くなり方ではねぇ。 ヤフーのプロレスに寄せる姿勢は半端ないなw 殆ど「誰それ?」状態だろうに。
不謹慎だがもし猪木が、ってなったらコロナ以上のニュースとして当分関連記事が出そうだ。。 >>280
あなたの履歴傾向に沿ってニュースが流れてくるだけ
興味ない人にはいってないw https://pbs.twimg.com/media/EvrFYYPUcAI6s_9.jpg
力士時代の大位山と輪島の激レア土俵入りツーショット (昭和45年5月場所)
輪島は新十両 (東8枚目) 、そして東9枚目の大位山はこの場所限りで廃業した後
錦糸町のキャバレー従業員を経て国際プロレスに入団。 心はいつもバディコルト&ゴージャスジョージジュニア組 流が書いてたから信憑性は?だけど、バディ・コルトはNWA世界ヘビー級王者に内定してた
コルトは1975年の飛行機事故で現役引退、その為に次点だったテリーがNWA王者に繰り上げされた 高杉セブンはしょっぱいよね
相手の技を受けるのが下手くそすぎて笑える >>267
なんか初期のUインターもやっていた記憶 ゆで卵の白身ばっかり食べる高田信彦を揶揄して
離婚した当時のターザン山本の嫁が「昔はカツカレー大好きだったのにねえー」
とか言ってた
高杉に、できたらUWFスタイルでガチガチ戦って欲しかったが、
あの腹、息切れする体型では無理だったろう。
バトラーツに出て悶絶する高杉ー 高杉はシュートには自信があるとか言ってるけど
総合に出たら秒殺されるよね >>288
第一にマスクすらマトモに被れてない、男が女モンのパンティ履いてるようだった。 高杉は後の言葉でいう「プオタ」がプロレスラーになっちゃった最初の例
だから発想がオタ的で、海外修業を箔付けとしか考えていず
メキシコに実質2〜3ヶ月いただけで、帰国して全日への就職活動を始めちゃった
なのでルチャ的な攻めはともかく、受けが致命的にダメ >>290
高杉は最初からすぐ帰ってくるつもりだったのか
行ってみて挫折したのか知らないけれど
仲介した隼人によると、EMLLは佐山の代わりを求めていたそうだ
受け入れ側としても随分ギャップを感じたろう プロレスラーの昔話は大抵自分に都合のいい
話ばかりしているけど、高杉がGスピで
語った
「セブンはハンセンよりマスカラスより
なんかあったんじゃない?」
というのはプロレス史に残る名言だと思う。 https://pbs.twimg.com/media/CESQY6AWEAIa22D.jpg
全日で行われた大仁田対ウルトラセブンは酷い試合だった
アレは6:4でセブンに責任があると思う、いや7:3かな? 1990年頃、ミスター珍が浜さん・剛・アポロ・高杉の間を取り持って、国際プロレス・アゲインを
作っていたら、当時のインディーの大きな枠組みも作れたし、珍さんもお飾りとは言え代表者に
なれたのに残念だった。 大仁田対セブン
鶴見対マミー ※力道山追悼試合での
歴史的な凡戦には残念ながら国際出身レスラーが
関わっているね >>299
残念だけど、それだとミスター珍をお飾りにしたパイオニア戦志と何も変わらない。
国際プロレスを名乗ることができれば、旗揚げ戦くらいは客が入るかもしれないが、いずれジリ貧になるのは目に見えてる。
それに剛竜馬がいる限り必ず金銭面のトラブルが起きて瓦解して終わり。
94年に「国際プロレスAGAIN」というインディー主体のイベントがあったけど、それとてとても満員とは言い難い入りだったよ。
ゲストに来ていた草津が「僕らがやってた頃にいつもこれだけ入ってくれてればなぁ」と言ってたのが印象的だったけどな。 >>299
そもそも珍さん自体にそんな人を取り持つような人徳もないしなあ >>303
あの草津の性格と行状ですら貶さない浜口が
珍に関しては殆どコメントらしい物を口にしないというのが
珍の人間性への評価と言えなくもない https://pbs.twimg.com/media/Dl7YFtgVsAIU-Rg.jpg
試合じゃないセコンド業務だからってマスクの紐も締めず乱雑な被り方
三沢タイガーデビューの時には賞味期限切れで対戦も組んでもらえず マスクマン失格だし、何より
ウルトラシリーズで屈指の人気を誇る
ウルトラセブンをこんなのに名乗って欲しく無かった
必殺技のはずのセブンスラッガーwをはずしたり、巨大な腹を持て余して息切れするセブンを見たく無かった 後頭部の編み上げ部分もサイズが合ってないのか、しっかり縛ってもだらしなく口が開いていたりした。
そういうとこ、マスクマンとして美しくなかった。 プロレス界にはどこか「ウルトラセブンはウルトラマンの2番手格だろう」という意識もあったのだろうかね。馬場に「実はセブンは名作なんだ」と説明しても
通用しないだろうし しかしウルトラマンとかウルトラセブンとか、著作権侵害を堂々とテレビ放映してたんだから凄い時代だよな。 だけど高杉は最近でも湘南プロレスでウルトラセブンを使っているし
マスクマンになって良かったんだろう
ジム経営をして長男もレスラーになっててと意外と世渡り上手で
剛や阿修羅・原の晩年に比べればプロレスラーとしては
恵まれた老後なんじゃないか ウルトラマンもセブンも入場テーマは本物使ってたから、円谷と話はしてたはず。
新日本の時は円谷のウルトラマンが花束贈呈に来たし。セブンは渋い英語のテーマ曲を使用。 高杉セブンが本物と似ても似つかぬダサさ加減だから、
別物と捉えられてたんじゃないか。 >>294
猪木対ゴッチの東京・大阪二連戦も大阪まで見に行くくらいの筋金入りのファンだった。
一番の名勝負は猪木・星野組が優勝した第一回NWAタッグ決勝戦を上げていた。
国プロ時代も全対戦カードと会場を記録につけていたらしい。さすがファンマガジンを
発行していただけある。 >>309
FMWでメキシコの帰ってきたウルトラマンとウルトラマンタロウを来日させたら
円谷プロからクレームがついて「アミーゴウルトラ」「ウルトラタロー」に改名させられたから
やはり昭和から平成になって著作権が厳しくなったんだろう >>313
週刊ファイトの井上編集長は大阪でのゴッチのリターンマッチを猪木のベストバウトに挙げてたな >>306
高杉にウルトラセブンへの思い入れや経緯が
ないとはいわんがとても少ないのが問題なんだろう。
もちろん佐山がタイガーマスクにそれがあったのかはわからんけど >>314
それは事前にお伺いをたてたか、たてなかったかの違いだろう。 円谷プロはタイのチャイホープロとの裁判前と後で著作物に対する対応が厳しくなった
前社長の時代は無料で使用許可出したり無断使用にも寛容だった 蔵前も(空間的な)土俵上に女性があがっても
なんだかんだいわない時もしばしばあった。
そのときの担当者の鷹揚さによったりするのかな。 >>318
昭和は良くも悪くもテキトーだった
平成になると水島新司ですら漫画に実名のプロ野球選手を出そうとすれば
「許可をとれ、使用料払え」だからな
個人的に凄いと思うのは映画「サスペリア」が大ヒットしたら
同じ監督のサスペリア以前に撮ったサスペリアとは無関係のサイコホラー映画を
引っ張り出してきてサスペリアPART2として公開した荒技
今こんな事をやったら大問題になる 昭和時代でも巨人の星のように、球団キャラクターの著作権縛りはあったよ。
飛雄馬のユニフォームの胸も実際のユニフォームとはちがったし、ビジターの
TOKYOは出て来なかった。 >>322
ありゃ昔はアニメで動かすのに実在のユニのロゴやデザインは
難しく面倒なうえチラついて邪魔なだけだったから
子供にもわかる形で省略したってだけだよ
だから巨人の星も侍ジャイアンツも川崎のぼるや井上コウの漫画版では
普通にユニに球団ロゴ書かれているし
実在の選手はもちろん球団旗や実際のマーク入り帽子まで登場させてるわけで
なぜかアニメ版のユニだけGだのTだのなのは単に省略ってこと
そもそも巨人の星はもちろん侍ジャイアンツとかにしても
「巨人×讀賣・日テレ×梶原」の肝いりで連載やアニメ化がされてるわけで
著作権や商標権云々はこれに関しては関係ない 省力だの都合だのいわれるのはプロとしてうれしくないから
あれは著作権が〜許可が〜と逃げておいたんだよ。
当時は泥縄や場当たりでやったことにすぎないのに
後世ではそれなりのかっこいい理由が立っていることはよくある。 >>323
長嶋巨人が2年続けて阪急ブレーブスに日本シリーズに敗退した時に当時、放送中だった
アニメ・新・巨人の星のPが日本シリーズを観戦して新聞にインタビューされて
「現実には逆らえませんね・・・」とアニメと言え番組内で優勝させる事を断念したと
話していた。 >>325
そりゃ現実にある程度シンクロして
「苦戦する長嶋巨人を助けるためにあの男が右投げ&打者として帰ってきた」
ってのがそもそものプロローグなわけで
現実の世界で勝てないのに(特に52年は上田阪急に圧倒された)
アニメの中だけ「いえーい、やったーっ!再びV9だー!」とはいかんよなw
まして長嶋が「カンピューター野球」とか言われて敗戦の責を問われることも多くなり
選手時代の「ミスタージャイアンツ/ミスタープロ野球」から
「あれっ、こいつ単にダメダメなだけなんじゃね…?」みたいになってきて
あの時代の日テレ的には自局の劇作中ではあくまで
ONの二人だけは絶対に聖域扱いしなきゃいかん事情もあったし
特に『新・巨人の星』に関しては『巨人の星』と違って
漫画が人気でアニメ化→アニメも大人気ってっわけでなく
あくまで長嶋巨人とのメディアミックスありきという讀賣・日テレの事情だしね
まあアニメとしての『新・巨人の星』が特に語るほども無く
たいして人気も盛り上がらないままだったのに対して
70年代の長嶋巨人は76・77年のリーグ連覇をピークに
広岡ヤクルトや広島に覇権を譲っていった一方で
「プロ野球中継」の視聴率や観客動員などは
むしろV9時代より大きく上がっていったわけで
日テレにすれば『新・巨人の星』のおかげかどうかは怪しくても
そこは「まあ〜いろいろとあったけど結果良ければ万事ヨシでいいんじゃない?」
くらいのもんでしょ
テレ朝の『タイガーマスク二世』と新日
アニメ放映後も結局人気になったのは現実の佐山の方だけだったけど
後世によくある“あさ〜いサブカル解説本”とかの中では
「タイガー人気はアニメ化までされるほどの〜」とか
逆に「アニメ人気が現実のマットにもタイガーを生んで相乗効果を〜」
みたいに書かれてたってメクジラ立てることも無いのと同じよ ウルトラマンやセブンの話をしてるけど、
国際プロレスが1970年に登場させた
ミスター・タイガーはどうなんですかいw
何せ日本テレビで「タイガーマスク」放送当時。
まあリングネーム違うから著作権云々はないにせよ、パクリ商法は間違いないw ミゼットレスラーにも「リトルタイガー」がいた
全日本女子所属、女子レスラーと結婚して引退した >>329
ミスタータイガーはマスクのデザインも違うし、問題ないと思うよ。
虎の仮面なんか、タイガーマスク以前にもあった。
逆に、今だったら、梶原一騎が、岡友彦に訴えられるんじゃないか?(苦笑)
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=344010965 >>327
長嶋がクリーンベースボールを謳い負け続け広島カープが念願の初優勝を遂げた1975年
は急激に観客動員が伸びて「プロ野球ブーム」と言われ巨人戦チケットのプラチナペーパー化
も始まり王巨人でTV視聴率はピークを見た。そし松井のメジャー流失でTV視聴率は急降下が
始まった。
またこの年の広島の盛り上がりは広島県人に聞いたら尋常では無かったらく優勝パレード
がキッカケで恒例の広島フラワーフェスティバルまで始まった。
後楽園球場はV9の後期から始まったジャンボスタンドの増設も完了した。今ではあの
建築は完全な建築基準法違反になるらしい。後楽園ホールに当たりそうなくらい突き出た
ジャンボスタンドを下から電柱のようなモノで支えていた。
その下で大剛が新日に送り込んだジャイアント・グスタブがGアントニオを真似てバスを
引っ張るデモンストレーションをやっていた事があった。
佐山タイガーもライガーもアニメより語り継がれるレジェンドレスラーになった。
ライガー引退時に生みの親の永井豪先生も喜んでいた。 >>333
長講賜り誠に恐縮ではあるが、最早国際プロレスとは関係の無い話に至っているのでご遠慮願えるか。 >>335
字が小さくて読めないんだが
小林の何が「8400」なの? サムソンクツワダにマスクを被せて、
韓国遠征の時タイガーマスクにしたって話があったな >>340
ブッチャー・ブロディ・シンの相方だけどやられ役も引き受けている人。マードックの
従兄弟 清潔感の無いスターたち
キラーブルックス、バグジーマグロー、ジャンクヤードドッグ、
ワイルドアンガス、キューバンアサシン、ザマミー、
グレートアントニオ、パンピロフィルポ、ジプシージョー、
大仁田厚 汚ならしいヤツはボロ雑巾みたいな役目で映えるのに
無駄に強いと嫌悪感倍増してまう。カブキとか >>343
でも国際の場合それが似合ってるんだなあ
風貌やファイトスタイルだけでなく
タイツとかもなんか全体に色褪せてて少し伸びて着古した感あって 鶴見五郎も、何年も同じ柄のドクロユニフォームだったなー
洗濯はしてるっぽかったが
ベイダーのユニは臭かったらしい、しかし
試合の後浴室に干すだけだろうから、生乾きも仕方なしだろう
屋内干しで何度か痛い目を見た俺がいうので間違いない
今は洗乾機使い 連投ごめんだけど、一応キレイ系イケメン枠の
ローマンレインズはサモアンズの家系なんだよねえ
面白いな 国際に来たガイジンのハゲ&ヒゲ比率はかなり高い印象がある。 国際の最期を看取ったエンフォーサーもだ
エンフォーサーはハゲでアイパッチと
最期を看取るにふさわしい胡散臭いレスラーだった でもスミルノフは全日本で髪を伸ばして来日したので、意外と温厚な顔立ちと相まって
ガタイの良いオジサンにしか見えなかった。 集客力があったのはテクニック系のレスラーではなく流血する悪役レスラー
善玉役に対する悪役レスラーはスキンヘッドや髭、ざんばら長髪にしてるレスラーが多かった
欧州路線の時も地方興行では本国で善玉役しかやった事が無かったレスラーに凶器を渡して流血試合をやらせたりしていた >>351
「夢のエースガイジン大集合の図」を想像しても
スミルノフ、ベーカー、クラップ、ルダック、ブルックス、エンフォーサー…
別路線で
ジョー、サモアンズ、C・アサシンズ・・・
う〜〜ん…
一見の地方のお客さんにはイマイチ見分け難しそうだなあw
>>354
凶器(入場の時だけ)として嫁がスタンガンバチバチさせてたのも
頑張ってギミックにちょっと凝ってみました風でなかなか味があった >>354
マネージャー役の嫁さんを他のレスラーに「一晩どうだ」とか言って
売春させてたとかいうのをなんかの本で読んだ >>355
横からだけれどさぁ、、
Bakerをカタカナ表記する場合
ベイカーでもベーカーでも良いんだよ。
どっちが正しいとは言えない。
むしろ、ベイカーの方が、英語の発音に近い。
他のBaker姓の人、James Bakerなんかは,
ジェームス・ベイカーと表記されているし。
オックス・ベーカーは最初にベーカーと表記され、
それが標準になったんだろ? >>360
同意。そもそも英語表記を日本語でどう書いたとて正しくはならないんだよね。
まぁ本人は「おっ、間違い発見。無知の奴に教えてやる俺カコイイ」とか思ってるかもしれないけど。 バニーキャロルとは何者か
エンフォーサーにアメリカで女性マネージャーが付いていた形跡はない
バニーキャロルが国際に来る前のキャリアも当然まったく不明
そもそもエンフォーサーとの関係も当時のメディアに「どうやら夫婦らしい」と載ったのが
定説になってしまっただけで、本当のところは不明
エンフォーサーのレスラーとしてのキャリアも国際が最後で、それ以上辿りようもなく、すべては謎 >>362
バニーキャロルは恐らく嫁(かどうかは正確にはわからんが)を
一緒に日本旅行に連れて行くのに
「バニーガール姿の女性マネとして帯同する」
「ギャラは自分と併せて1.*人分でいいから」みたいに言って
吉原さんも今更C級ガイジンをプラス一人呼ぶよりは
少しでも客寄せになると思ってOKしたとかじゃないかな
一昔前の日米野球とかでメジャーリーガーに参加・出場給とは別に
「家族や恋人など〇人まで同行可」(アゴアシ小遣い日本観光付き)で呼ぶことで
選手たちからすると自分のギャラより
むしろ離婚防止の意味も含めての家族サービスと
いかに自分がスターなのかを嫁子供恋人に
アピールできるのが歓ばれたみたいなのと似たようななもんで
(比べると随分スケールは小さい話だけどw) NWA王座を一週間渡す条件に、帯同した奥さんの日本での買い物三昧の経費持ちをつけた
ハーリー・レイスの恐妻家ぶりには呆れたなぁ、NWA本部は怒ってたみたいだが バニーキャロルは内縁の妻、良くして一時同棲していた相手くらいじゃないかなあ
対して美人でも無かったし、マイティいわくすごいおばさんで結構歳食ってた、という
しかし日本に無かった女子マネージャーを披露した初めて物語はまたも国際だったのだ
アメリカではシークが実の奥さんをマネにしていたとか、ファビュラスムーラもジャングルキングとかいうやつのマネだったとか言う話がある >>348
外人レスラーのシリーズ中の洗濯は誰がやっていたのかな?自分で?
日本人レスラーは若手がやりまず試合地に着いたらコインランドリーを探すみたいな
話があった。コインランドリーがこんなできる前は宿泊したホテルのボイラー室を
借りたなんて苦労話があった。
>>364
レイスが単独で参戦する時は全日からのオファーで夫人同伴の時はレイスからのオファー
だった。夫人サービスで日本でショッピングを楽しませるためだった。
レイスも大変だねw >>364
当時のNWAタイトル管理委員長はマクマホン・シニアだったから
新間が無断タイトル譲渡をチクったが不問にした
新日と提携していたが殊更馬場とそのシンパと対立するようなことは避けていた 当時ガキだったケビンやデビッドを連れてきていたフリッツは
兼観光家族旅行だったんだろうが、夏休みが何ヶ月もあることを知らなかったおれは
ガイジンは学校休んで海外旅行とは凄いなと思ってた。 フレアーは家族旅行で日本に来て、途中抜けて新日の北朝鮮興行に参加し
また家族と合流して観光続けてから帰った事があったな >>367
タイトル管理の実権はバーネットじゃなかったかな >>370
名目だけの委員長かもね
でもこの時期のマクマクホンはマソニック、バーネット、クロケット、ついでにガニアら
馬場派と看做されてたプロモーターと密接だったから、彼らが納得したなら実権あった
としても不問にしたと思う >>368
アメリカの学生の夏休みは長いよね。6月から8月まで。9月に新学期が始まる。
大学生は田舎に帰るので大都市にある大学は学生寮を観光客向けに貸し出したり
この時期に合わせて家族向けのハリウッドの大作映画は5月頃から封切りを始めたりする。 >>259
日プロの蔵前と山手下町興行戦争をやった時か ビッグダディリッター
のちに中南部MSWAでトップスターになったジャンクヤードドッグ。
カルガリー路線で国際来日時でも変則一本足頭突など特異なファイトスタイルだった。
ジェイクロバーツあたりが窓口になってもっとMSWAあたりからよさげな外人を読んでほしかったな。 読んでじゃなく呼んで、だなw
国際は末期も新日も全日も手を付けていないルートがあったと思う
カルロスプラタを通じてのEMLL、ジプシージョー経由でテネシー。
そのジョーの愛弟子的なボビーイートンはぜひとも来てほしかった。 >>375
ジェーク・ロバーツが初来日した後、MSWAでブッカーを務めていた父親グリズリー・スミスと国際を繋げてスミスルートでマイク・ジョージ、ランディ・タイラー、ボブ・スウィータン、レイ・キャンディ、ルーク・グラハム、ポール・エラリング、スティーブ・オルソノスキー等が来日してる 今日は3月19日
1974年3月19日
アントニオ猪木 VS ストロング小林
あの世紀の一戦から47年・・・ >>377
当時オルソノスキーはジョージア、エラリングはテネシーで活動してたからMSWAとは関係ないよ >>368
最初にフリッツ・フォン・エリックが子供(ケビンだったかな?)
を連れて来日したのは2月27日〜3月8日まで(1970年の日本プロレス)
もう春休みだったのか? >>379
当時テネシーにいたエラリングはジプシー・ジョーの仲介だろうけど、ジョージアにいたオルソノスキーを国際に仲介したのは誰なんだろう。 >>377 >>379
エラリングは80年夏から来日直前の81年春までMSWAにいて
ジェーク・ロバーツとも再三戦っている
当然、そのルートでの来日 >>381
エラリングとオルソノスキーは来日の1年半前までAWAでタッグを組んでいたのだから
エラリングが声をかけてつれてきた可能性はある
後にマネージャーとして名を馳せるのだから、それくらいやっても不思議ではない
他にはジョージアで一緒だったスミルノフ、ストンパー、ルダックらの声がけかも知れないが >>378
ダブルメインが坂口とアンドレなのは有名だが他のカードはどうだったのかな >>386
フリーバーズの兄貴分的存在だった
マイク・ボイエッテイは国際に来てるね。 >>385
魁vs藤原
荒川・浜田vs木村・藤波
小沢vsグラブマイヤー
永源遥vsソントン
柴田vsロンドス
木戸vsフレデリック3世
山本・星野vsボイド・アニマル
坂口vsアンドレ
猪木vs小林 >>388
サンクス
やはりヤマハは組んでたんだな アンドレはこの参戦の後、また国際のビッグサマーに1週間来日。
連日ハンディキャップ戦。パンフレットの表紙は新日初参戦時での星野をリフトアップさせてる姿。 https://twitter.com/MengsMullet/status/1267686608310059008
アンドレは国際でゴッチやロビンソンと60分時間切れ引き分けを行い
世界を渡り歩いてテクニシャンなレスラーと対戦してるから
リストロックも難なくこなせるようなっていったんかな
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>391
猪木からレッグロックを学んだホーガンみたいだね。日本でしかやらないけど・・・ >>391
めっちゃいい試合だ。坂口のベストファイトじゃないの?坂口はアンドレとやるといい試合できるんだよね。猪木より手が合ってると思う。
試合ぶりはほとんどモンスター・ロシモフだな。猪木が大一番やるんで坂口にも最大限の大勝負といったところか。
やっぱりアンドレはオーバーウェイト&格闘技経験無しのせいでよろよろしてる。その点は馬場の方が遥かに上ではないかと思う。
その後のアンドレは更に増量して受け少なめ攻撃激しめにして大成功だけど、その下地にしっかり受け切れる力と多彩な攻めがあるのが改めて確認できた。 >>395
一応はダブルメインの扱いだしな
その前の岡山での猪木はリングアウト負けだったから引き分けに持ち込んだという点で猪木より上になるし 岡山では猪木フォール負けだが
バロアが猪木の足を掴んで妨害があったけど >>395
坂口はフライングヘッドシザースをアンドレ相手だけ掛けたり、対アンドレだけ
やれば出来る子になる。やられっぷりもアンドレ相手だと際立つ。 >>397
前年に猪木が仙台でソトにフォール負けしたのもそんな感じだったか >>398
1980年春の決勝進出者決定トーナメントでは飛び付き逆十字まで
だしていたからなあ
出戻りUWF勢との抗争時にもプロレス技だけで試合してたことを問われ
「だって俺が関節技使ったら、勝っちゃうじゃん(笑)」
と言っていたのはカッコよかった 1975年の小林対アンドレも見てやってほしい。
小林がまだギリギリ、アンドレと試合らしい
試合ができていた。 https://www.youtube.com/watch?v=EX2hGZ48984
浜口の格が井上を追い越したのはいつ頃なんだろう
国際在籍中、シングルのタイトルに恵まれなかった浜口が 国際血盟軍の木村、鶴見、剛、高杉、菅原、+阿修羅の頃に井上も合流、それを見て浜口、寺西もジャパンを裏切って血盟軍に合流で新国際プロレス軍が見たかった >>403
マッチメイカーの草津としては浜口がタッグ王者になってからは井上より上の扱いだったな
但し本当に上になったのは新日本で木村のパートナーを務めるようになってからだろう >>404
全日本に集結時の序列として木村の次は原の印象 最強タッグに木村、原組で出てたな。原は「共闘しているだけで血盟軍になったわけではない」というスタンス https://www.youtube.com/watch?v=QObFBoTJ6y4
ストロング小林VSボブ・バックランド
小林が当時のアメリカで活躍していたと実感できる試合 >>407
そういう意味でも特別扱いだったな
しかし目立たなくなっていた浜口も伝説の鶴田戦で巻き返したが 俺たちのプロレス読んでたらまた高杉さんの話が
長州力曰く、メキシコで几帳面に弁当を持ち歩いてる奴がいて
それが高杉だった。
どうしてって聞くと、ペソが安いからと。
そういう面では真面目というか、豪快さにかけるというか パイオニアが新日と交流できたのは、剛と藤波に繋がりがあったからと当初思われていたが
シングルで剛を一方的に下し、復帰からの完全復活をアピールしてからの藤波は
剛にそっけない態度が目立つようになり、対抗戦にも参加しなくなっていった
高杉に長州がそれとなく気を使ったのは、メキシコ修行時代に交流があったからかな >>412
長州・健介と剛・高杉のタッグマッチなんてのもあったな >>413
高杉がバテながら健介から獲ったんだっけ
めちゃくちゃ気を遣ってるな >>411
メキシコ修業時代の鶴見はファイトマネーをすぐにドルに換金して銀行へ行き自炊を
行ったせいで食事が会わずに減量になる日本人レスラーが多い中で体重が増加した。
毎日、毎月やる事などプロレスのトレーニングに関する事も手帳に書いていた。
みかけによらず自己管理のできる「知性派レスラー」だったんだね。 >>415
鶴見は若くして海外各地転戦して、なまじ良い仕事ができるレスラーになってしまったから
早くにプロレスに対して達観してしまって、それが日本でブレイクできなかった原因だと思う。 >>415
展示されてる鶴見の日記読んだけど、日記ってよりもメモの走り書きって感じで人に読ませる為に書いたのではないにしても、おそろしく汚い字だった 理系の人は字が汚い、脳の使い方が違うとか聞いたことあるな。 >>419
ただ、単に文系はよく文章を書くので字が上達する、
反面、理系は数式ばかり書くから、字が上手くならない、
そんなところじゃないか?(苦笑) 鶴見はレスラーにしては金銭感覚がしっかりしていて
SWS時代にグリーン車の券を買う金で普通席を買って
差額をGETしていたんだっけか >>421
それはいい話でなく悪くてみっともない話
ほめてはいけない >>423
鶴田のピンク電話やあまり後輩に対して金出さないの話もそうだけど堅実という部分では決して間違えてない ただプロレスが夢のある世界というギミックを貫くならそこは武士は食わねど高楊枝ではないけど、体面的にもグリーンに乗るべきかなと思う
一方でプロレスラーのトンパチ振りを考えると堅実だった鶴見はえらいとも言える 会社から支給されたグリーン券を勝手に払い戻して差額を着服するのは立派な横領では?
って事を言ってるのだと思うが スチュワーデス「お仕事ですか?」
鶴見「はい。」
スチュワーデス「エコノミーでww」
鶴見「ほっとけ!」 >>409
新間の話だと元々WWFヘビーをバックランドから小林(ストロング)へ移動の太平洋を挟んだ抗争の話がビンス親父からあった
それを新間は猪木に相談
猪木は激昂(自分が巻いてないのに小林がっ!)
それで猪木のWWFヘビー級王座奪取へ繫がるけど、ビンスとしてはヒールとして猪木よりも小林を評価していた
新間は猪木のエゴで小林が最後にひと花咲かせられるチャンスを潰したと言っていた >>427
> それで猪木のWWFヘビー級王座奪取へ繫がるけど、ビンスとしてはヒールとして猪木よりも小林を評価していた
猪木はヒールはできないからな。 >>424
鶴田のそれはなんでもないよ
鶴見のそれはみっともないというかプチ横領 鶴見が宿泊していたホテルに西武ライオンズの選手が宿泊していて、西武ファンの女性たちがホテルの前で選手を出待ちしていたら、自分のファンだと勘違いしたというエピソードが微笑ましい。 >>424
ピンク電話の話はよくよく考えてみればまだ鶴田は大学出たばっかりの若造だからな。
ケチと罵られるほどのことではなかった気がする。 猪木がWWFヘビー級のタイトルを奪取した記録はWWEの公式から削除されているんだよな。
客の入りが良くない徳島でタイトルマッチは異例であり、しかも6日後には猪木がタイトル返上。
米国ではこのタイトル移動は報道されていない。
バックランドはそのままベルトを持ち帰り、しれっと防衛戦を行なっている。
猪木は以前から「ニューヨークのチャンピオンなんかになりたくないし」とか記者に話していたとか。
このタイトル移動劇はいったい何だったのか不思議である。 >>432
1週間だけNWA王座を獲る馬場を批判していたのに、自分が同じことをしてしまって
自己嫌悪になったんじゃないか?その後はWWFタイトルに全然興味も示さなかったし。 >>432-433
タイトル料やその後でもめた?
シニア的には猪木→小林しろとかで小林には落とせないとか? 猪木のWWWF戴冠が公式記録に無いのは、猪木自身がNYのマットをヒートさせた実績が
無かったことと、ビンス父が昔、馬場がWWWFでヒール人気があったことをビンスJrに
話したりしていたことがあったからかも知れない。 >>421
レスラーとして一番良かった時代は全日で「ギャラに良く大物外人勢と組んでTVにも
頻繁に登場していた」が長州軍団が来ると過剰人員になり扱いが悪くなり自らSWSに
売り込みに行った。そのために支度金が出ず「北原でさえ出たのに・・・」と悔し
そうだった。
>>424
日本に帰国するポートランド在住の留学生が「炊飯器を安く売ります!」の広告を出すと
待ち合わせ場所に現れてた鶴田で驚いたと言う話があった。 >>427
小林がバックランドから王座奪取
バックランドは王者として日本遠征、バックランド日本遠征中は小林が王者としてサーキット
猪木がバックランドから王座を奪取
バックランドは帰国後小林から王座奪還
ビンスの提案はこんな感じだったみたい >>438
当時はインターネットも無くてアメリカでは隣の州の情報も入ってこない
余程のマニアじゃないと日本の情報はわからない時代だからあった提案 >>437
それ見たかったわ。国によってレスラーの評価が違うことにより生まれた偶然だけど。 >>437
>>438
デストロイヤーもWWA王座から転落した後、
日本で王者として力道山の挑戦を受けた(1963年5月) 力道山の番組によく取り上げられるデストロイヤー戦だっけ
よく見たらWWA選手権なのにデストロイヤーが丸腰なんだよな テーズも1957年6月14日イリノイ州シカゴでカーペンティアにNWA世界ヘビー級王座を奪取されて無冠の状態で日本遠征
日本で力道山とNWA世界選手権を行う
アメリカに帰国後カーペンティアの王者は無効にされて王座はテーズに戻された >>442
当時のプロレス雑誌によると、
WWAベルトは飛行機で輸送したが、
なんらかのトラブルで日本に届かなかったと
説明があった。(苦笑)
>>443
でも、日本から帰国後、すぐにハットンに
明け渡したね。 >>436
売り込み組は谷津ですら支度金が出なかったらしい >>442
ならばインター防衛戦にすれば良かったのにそこまで拘ったという点に力道山のWWAへの執着を感じる 国際だとブルクラがWWA世界タッグ王者として来日して防衛戦行ったけど、当時の王者チームはランザ&マリガンのブラックジャックズだった >>446
やはり「初の覆面世界王者」を招聘したかったんじゃないかな? >>448
ブラッシーと取り合ってる時は一年もインターをほったらかしにしてるし >>424
鶴田のピンク電話は前日譚があって、全日道場完成の際に馬場がお祝いに皆が使えるようにと全日名義の黒電話を入れたところ、
道場に練習に来ないレスラー達も含めて当時高価だった長距離電話を掛けるのに使いまくった。
当然とんでもない金額になって馬場が激怒して撤去、ピンク電話に変更となった。だから乞食除けとして由緒正しい品なのだ。
未だに口を開けば馬場のことケチケチ言うくせに、自分たちは限度を超えた乞食行為なのだから頭痛い。
それから20年後、メンバーが被っていないにも関わらずSWS道場で全く同じ事が起こったのが恐ろしい後日譚。
鶴見には呼ばれてもいないパーティで家族連れでやって来て食い漁るという噂があったな。
ファミリー軍団に入れなかったのは巡り巡ってこんな所が原因じゃないかと。 WWAに拘った、というより
当時、アメリカで複数(NWA,ガニアAWA,その他)あった
世界王座の中で挑戦、奪取(レンタル)できたのがロスのWWAだった。
また、ベルト自体で言えば、その時点のWWAベルトがかつてテーズが
持っていた世界チャンピオンベルトだからね。
力道山は、62年3月当時のNAWA世界王者ブラッシーを破った時、
「今、アメリカでは世界王座が乱立しているが、真の世界王者になった」
と喧伝していたとのこと。 >>450
レスラーのゴッチャン体質の典型だな
連中にとって田中社長は社長というよりタカリ勝手のタニマチのつもりだったらしいし >>451
いわば当時のWWAは後のIWGPみたいな物だったわけか >>450
新日道場にもコイン式の赤電話があり選手はそれを利用していたが酔っ払ったライガー
が破壊してテレカ式に変わって便利になった。2000年代に立ち後れていたネット環境を
医薬品メーカーで営業の経験のあるキャプテンニュージャパンがEメールをできるように
整備した。それまで英国までテレカで電話をしていたデビットは大助かりだったらしい。
>>452
ジャパンのスポンサーだった家具のタケダの竹田氏は「レスラー一人一人は素晴らしいん
だけど・・・」とごっあん体質批判していた。 >>452
折原だっけ?田中八郎氏に「社長、車買ってくれません?」って言ったのは。
集れるつもりでいたから「何を言っとるんだ君は」と言われて反対に驚いていたとか。 >>454
新日背広組OBで長州と深い関わり合い持ち新団体を結成した大塚×永島対談で大塚氏は
長州を揉めた理由は「かけ離れた金銭感覚だった・・・」と述べていて小鉄の葬儀の時
に後ろから肩を揉んできて「社長!その節はご迷惑をおかけました!」とやってきて
長州でやっと完全和解した。ただ二人は長州に対する恨み節は無くそれぞれ「長州力と
一番いい時間を過ごす事ができた!」と感謝も述べていた。 メガネスーパーはプロレスに100億くらい使ったんだよな
ドブに金を捨てたようなもんだな
一生懸命働いている従業員が気の毒だよ
プロレスがガチ真剣勝負だと思い込んでいた社長も可哀想だ >>461
バカは相手にしちゃダメだよ。
おそらくこいつも例の騒動の尻馬に乗って誹謗中傷したクズの一人だろうし。 >>461
ヤオガチは今だから言えること、
しかし画期的出来事だった。
あの時代だったらSWSは救世主
しかしレスラーがアホばかりだったから
結果大損したわけ。
>>462
クズが
なに、したり顔でほざいてるんだww 専用スレあるよ、国際プロレススレで語る内容でもないだろ?
【天龍とターザン】SWSについて語ろう その35【WWFと全日本】
https://medaka.2ch.net/test/read.cgi/wres/1616849833/ >>463
> ヤオガチは今だから言えること、
横からだが
ただのファンならともかく社長が知らなかったのは可哀そうだろ。
知ったときは詐欺にでもあった気分だったんじゃねえの。 あの社長はガチ真剣勝負だと信じていたんだよ
全日にいた天龍の年収がいくらか聞いて
「プロのアスリートがこんな安い年俸なんて」
と憂いて億を提示したんだよな
安い給料で扱き使われていたレスラーにとって
こんな美味い話はなかったんだよね
プロレスをガチ真剣勝負と信じた男と
「ごっつぁんです」と金を集るレスラーの物語 >>467
いずれにしてもバブルだからあり得た話に違いない プロレス好きだったという田中社長の息子さんはどうしてるのかな。 >>437
>>443
日本のファンはびっくりするだろうけれど、「地元の興行」第一、
マスコミなんか存在しないアメリカではよくある話だったみたいだね
かの力道山がテーズに挑戦した後楽園球場・大阪での世界戦
二連戦のときも、テーズが長くアメリカを不在にするために
前年のNWA総会でも反対論が続出し、「結着がうやむやな試合で
一時的にカーペンティアにベルトを預け、カーペンティアが本部の
意向を無視して防衛戦を続け、テーズが帰国したら結着戦をやって
ベルトを取り戻す」という案が出て、それを実行してしまったために
世界王座が乱立したんだよなあ
1957年6月 テーズがカーペンティアに反則負け、カーペンティアは
ベルトを獲ったものとみなして防衛戦を行い、テーズはアジア遠征に
↓
NWAのマソニックが「反則による移動を認めていないので、テーズが
11月に日本から帰国したら再戦」と宣告するもカーペンティアは
防衛路線を続け、カーペンティアに勝ったコワルスキーとガニアが
それぞれ「世界王者」を名乗る
↓
帰国したテーズはすぐに欧州遠征をスケジューリングしたのでまた
アメリカを留守にするため、「王座を降りたい。渡すなら実力のある
ハットンがいい」と本部認定の王座をハットンに引き継ぎ
で、地味なハットンは客を呼べず、オコーナーを挟んで、大人気の
バディ・ロジャースを王者にしたら、ロジャースをマネジメントしていた
モント、コーラー、マクマホンがロジャースを独占してしまい、いつまで
待っても王座戦を開催できない東海岸以外のプロモーターが怒って
ロジャース派を切り捨ててまた世界王者が分裂してしまうという… 今日は蔵前での全日本との対抗戦日
一番の痛恨はむしろ木村と鶴田の対戦をIWAの防衛戦に出来なかった事かも ドリフの特番にストロング小林がゲストで出たコントも放送したね 8時だョ全員集合には、初期の国際からラッシャーと3ダーがゲストでコントしていた。 昭和47年 吉原社長は全日本プロレス設立時の馬場と共闘して日本プロレス対策をしたのに、眼中になかった新日に業界の盟主の座を奪われてしまうとは・・・ >>475
当初は全日本よりも優位だったからな
それこそ馬場を草津の前に歩かせるくらいに >>450
90年代後半〜2000年代前半にかけていろんなレスラーのトークショーに参加させてもらったけど、鶴見の話…東スポプロレス大賞の受賞パーティーに(ノミネートもされてないのに)家族総出でやってきて高級料理を食べまくって帰る話は、複数のインディ系レスラーのトークショーで聞いたので同業者間ではかなり有名な話だったみたいですよ
顔見知りの関係者と(文字通りの)申し訳程度にあいさつを交わしてから、普段ありつけないような高級料理に舌鼓を打っていたとか https://pbs.twimg.com/media/ExjGYqmVoAIAJma.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ExjGYqlVEAMnESo.jpg
PWFルール使用ということで全日本優位が示されてますが、同時に「場外カウントは20カウント」てのは
「万一のことがあってウチの選手がリングに戻れなかったりしてはイカン」
てな馬場さんの釘刺しがありましたかねえ……国際吉原社長、良いようにされてますわ…… >>459
そもそもドサ周り支えている田舎の中小企業の社長なんかも大した変わらんし
プロレスなんかそうした社長たちとヤクザに支えられて存在しているようなもんだから 40年前の今日は4大世界戦という最後の大勝負やってたんだよな
二階堂進コミッショナーまで呼んだのに、余命半年足らずだとは、、、 余命半年足らずだとは、、、
??、翌年8月まで活動してたのに余命半年足らずとは何故? 大木はあのニック戦を気に入っていたらしいな。見た側からすると好試合でもなんでもないが。 せめて新日本コンビでなく本家ハイフライヤーズを呼んで欲しかった そんな金あるわけないじゃん。健吾と永源とか、剛とかパワーズならタダ同然なんだから。 >>485
ガニアにケツの毛まで毟り取られるからと言うのは冗談だが、ガニアとニックでかなり
金使っただろうから本家ハイフライヤーズまでは無理そう。 80年3月だとブランゼルがAWAを離れハイフライヤーズは活動してなかった >>489
年末には復帰して最強タッグでニックとコンビ? >>490
その頃はミッドアトランティック地区やジョージア地区を転戦していて、翌年からAWAに復帰した
最強タッグのニックのパートナーは最初はスチーブンスと発表されて、スチーブンスと印刷されてるチケットやポスターがある 創立55周年記念・国際プロレス復活興行の開催を協議する事を決定
10月5日(故・吉原功が日本プロレスを退社した日)に埼玉県越谷市(協議中)某所での開催を元国際プロレス所属選手、スタッフ、吉原家が協議している事が4月1日関係者によって明かされた
詳細は続報を待たれよ >>491
本家を呼ぼうにもあちらの事情で呼べなかったという事はある意味では国際の名誉を救った感じだな
少なくとも金をケチって災厄を招いた事にはならない
それと同時にその時期のブランゼルをAWA代表としてニックと強引に組ませられた当時の全日本のブッキング力もまた凄い 1980年3月31日国際プロレス「4大世界タイトルマッチ」後楽園大会!
https://pbs.twimg.com/media/Exx4wGMVEAo1SFm.png
IWA認定世界タッグ王者マイティ井上&アニマル浜口に新日本の木村健吾&永源遥が挑戦!
10分過ぎ木村のトぺを浜口が受けた際
観客のこぼしたビールで足を滑らし後頭部を強打!
孤立した井上を集中砲火、レフリー暴行で新日軍の反則負け > 観客のこぼしたビールで足を滑らし後頭部を強打
そのガセはもういいよ
床より高い位置に畳あるのに
仮にこぼしたとしても畳じゃ滑らないだろ
> 孤立した井上を集中砲火
そんな場面はない
https://www.youtube.com/watch?v=GvnOOZjelsE 4大王座戦、パンフレットがポスターみたいなデカい1枚モノで、赤と青のインクで対戦カードと
トリミングされた各レスラーの顔が印刷されたヤツだったな。地方ファンだったので観戦は行けなかったのもあって、
「シリーズパンフレット譲ります」という通販コーナーみたいなので送ってもらった。
他にも何冊か購入したけど、引っ越しのドサクサでどっか行っちゃったw 多分ゴミかな?
週刊ファイトなんかもいっぱいあったんだけどなあ。。 >>499
買う価値あるか教えてくれ!
大剛や草津の悪口は書いてあるんだろうな。 サンダー杉山
『倒すか倒されるか。キックボクシングはまさにスリルとサスペンスがいっぱいだね。
あのキックを食らったら僕らでもたまらん』
秋田書店版・キックボクシング入門より
沢村忠さん 合掌 >>501
成功したグレート草津だよな、沢村忠は。TBSは草津をああいう風にしたかったんだろうな。 沢村にはタイのムエタイ選手がお金で協力してくれた側面があるようだ。
草津にもそれを期待したのかな。 >>502-503
以前も書いたかもしれないが
沢村、鬼塚、亀田兄弟みたいなTBSお得意の作られたスターを
唯一拒否して潰したのが完全ショービジネスのプロレスだったと言うのも皮肉だね 沢村の相手のタイ人は、タイ式キックのチャンピオンというはずが
ただの留学生だったりしたらしい 草津の失神は、こういうアクシデントがあるから「やっぱりプロレスは真剣勝負だ」と吉原社長が視聴者に思わせたかったからかな?
それともテーズ東郷が新団体を興すための布石として草津を利用したのか?
真実を証言できる人はもう誰もいない >>506
東郷が大木を引き抜こうとしていたから、その為にはエースの座を空けておく必要があった。
(大木が草津新王者になった後、二番手での移籍は考えにくい)
TBSサイドは草津の勝利を東郷に要望したと思われるが
国内で前座経験しかなく、アメリカでも大した実績のない草津がテーズに勝つ方がおかしい。
東郷は大木獲得をTBSにも秘密に、言い訳が立つ負け方を草津にさせたと考えられる。
大木を獲得してエースに据えたところで日プロに対抗できるとは思えないが
その時点でそれがベストだと考えていたようだ。(と、推論する人もいる) 馬場も猪木もいないプロレスを、何年間も全国放送したTBSってよく考えたら凄いよな。
NETテレビのワールドプロレスリングに猪木も馬場もいなかった時期は、ほんの数ヶ月なんだから。 >>508
東郷はボイコット事件を起こしてもTBSと切れる事は無いとタカを括ってたのかな >>511
東郷が草津の先々のストーリーを考えていたのかは、追放されたから不明
勿論、TBSに切られる事など考えてもなかっただろうね
まあ、国際の単独エースになれなかった草津だが
序列をコントロールできるマッチメイカーの立場に長くいれたからww >>504
> 沢村、鬼塚、亀田兄弟みたいなTBSお得意の作られたスターを
沢村以外はスターになれてないだろ。
特に亀田兄弟はすぐ嫌われ者になったじゃんか。 沢村は実際にも強かったし練習熱心でもあったから
相手も協力してくれたらしいが、草津は何もなかったからな。 テーズ対草津の試合を後にテーズ自身が回想している。
「試合前に自分は吉原代表から告げられた。テレビ局は草津がテーズに勝つ
という決着を望んでいる。でも、まださしたる実績もない草津がテーズを破る
という筋書きはあんまりだ。だから貴方のバックドロップで草津を気絶させてくれ。
貴方の勝ちということでかまわない。テレビ局には自分の方から釈明をしておく。
テーズは負けてくれるつもりだったけれども、マットの上でアクシデントがおこった。
そのため草津は立てなくなったので、テーズが勝ってしまったと、説明をしておこう。
気にすることはない。テレビ局はそう言いくるめる。
吉原代表からは試合前にそう言われた。だから自分はバックドロップで
草津をマットに沈めたのだ」
(『プロレスまみれ』井上章一著より) >>513
具志堅→渡嘉敷→鬼塚→亀田と時代を経るごと劣化していくTBSのボクシング中継は不穏。
特に亀田次男は放送事故レベル。 沢村忠は三冠王になった王貞治を抑えて1973年の日本プロスポーツ大賞を
受賞するなどある意味馬場猪木より評価されたこともあった
見方によっては当時のTBSの影響力の大きさも考えられるから今から思うと
TBS時代の国際プロレスは恵まれた環境を生かしきれなかった感が強い >>518
自分たちの流儀と常識をテレビ局にただ飲ませるというのが基本だし当たり前だという態度だからな
それに比べれば馬場や猪木の方が遥かにテレビ局との関係を真剣かつ大事にしていた >>510
>この時期はちょうどゴッチとロビンソンの連戦中
アンカーが付いていないが、それ、いつの時期に対して?
すぐ上の>>509の
>NETテレビのワールドプロレスリングに猪木も馬場もいなかった時期は、
>ほんの数ヶ月なんだから
に対してなら、1年ずれているよ。
ゴッチ対ロビンソンは、1971年の4〜5月。
NETテレビのワールドプロレスリングに猪木も馬場も映らなかったのは
1972年1月〜3月。
その時、国際プロレスはC・イヤウケアやD・ミラーを招聘して
新春パイオニアシリーズ。3月の終わりに第4回ワールドシリーズが
開幕してジョナサン対ロシモフが放映されたのかな? >>507
せめて草津が坂口並みにテレビ局に気を使えたら 国際は別の展開をしてたのかもしれない >>522
よくよく聞けば国際が二度テレビから切られたのも当然という感じだからな
むしろテレビ局の方がよく我慢していたってくらいに 試合は塩でも坂口はテレビ局には相当に気を使ってたな
一見似ててもそこが坂口と草津の違う所 沢村も相手は一流半のタイ選手だったろうから、
交渉に応じてくれたのだろう。
本物のムエタイ王者なら、さすがに簡単に
沢村には寝なかったろう。
草津テーズは、それをやろうとした。
ワルドーやシュミットあたりなら付き合ってくれたろうし、実際草津に負けている。 自分がTBSの中の人だとすれば、プロレスは真剣勝負や競技スポーツではない、←真実
ならだからテーズが草津に負けるシナリオにしてくれ、それは主催の決めることだ、と了解してもなんら不思議ではない。
むしろ、演劇だけど負けるにも負け様や理由がある、納得できないと負けることはできない
なんてことを理解しろというのが無理だ。 〉〉519
〉〉523
特に東京12チャンネルに対する吉原社長の態度は酷かったらしい
「テレビ局は団体が提供するプロレスをただ流しておけばいいんだ」
これが吉原社長の一貫した姿勢でまさにプライドの塊
そら言っちゃ悪いが12チャンネルですら見放すわ >>526
もしTBSが「プロレスは八百長」と決めつけていたなら、それを覆すために草津に惨敗させたのかもしれんね 元々TBSは旗揚げシリーズのマツダと猪木の試合を見て放送にゴーサインを出した
TBSからあの2人は必ず抑えとけと言われていたのに2人に去られ、放送開始前に開催した2シリーズで資金はパンク、仕方なくTBSがスポンサーの三ツ矢乳業から資金調達してくれた
三ツ矢乳業は資金を出す代わりに相談役として岩田弘送り込んだ
吉原功はTBSの要求に尽く応えられ無かったのに現場には口出しするなって虫が良すぎる話 >>527
まあ最後までプライドを貫いて滅ぶのも生き方の一つだが >>529
猪木が日プロに破格の条件で復帰出来たのはTBSに持って行かれたくない日本テレビの意向もあったんだよな 東京プロレス旗揚げ戦の猪木VSバレンタイン戦は、北沢や永源といったレスラーだけでなく
取材に行ったジャーナリスト達からもいまだに語り継がれている。よほどいい試合だったんだろうな >>532
「日本プロレス中継」「全日本プロレス中継」のプロデューサーで後に運動部長や福岡放送の社長にもなった原章氏も東京プロレスの蔵前大会を観戦していて猪木VSバレンタイン戦を名勝負だったと述べている。尤も立場上全日本プロレス設立に暗躍した同氏も実は猪木と仲が良く、どちらかと言えば猪木派だったとか。
自分で書いておいてなんだが国際の話に戻ろうぜ。 >>533
今の時期はTBS打ち切りの国際の救援に馬場が出場していたんだよな >>534
馬場が国際リングに応援出場したけれど、当時のプロレスファンはTVで観戦できず、とても
歯痒い時期が今頃だったと思う。吉原社長も12CHの白石さんにハッタリ=今後は馬場も国際に
出る・・をかましていたら楽しい展開になったろうに。と、言うのもキックボクシングの派閥が当時
は2つあって沢村系はTBSだけど、大沢・黒埼系は日テレと12CHに分かれていても実際は1つ
みたいな状態だったから、国際の12CH移籍と合わせれば何かがありそうだと関心が高まったのでは
ないかと今思ったりしてる。 >>535
ハッタリも何も国際と全日の差以上に
日テレと12chとの企業としての力の差や
TV業界における専属出演契約の縛りについては
当の12chの方が吉原さんより余程理解してただろうから
そこはどうにもならんだろう
仮に全日勢がその後も定期的に参戦してくれたとしても
12chからするとTV中継に乗せられないのでは
ほとんど意味が無いわけで >>512
再びテーズと組んだ新団体で日本進出を企み、その最中で東京12chにプロレスアワーの
フイルム購入の仲立ちをするも「関東ローカルでTV局番外地」は眼中に無く新団体
旗揚げなどと言う話はおくびにも出さなかったらしい。
>>519
新団体設立で好条件を引き出すべくしたたかに日テレ・小林社長と交渉した馬場。
NET・三浦専務に「カンジ!揉め!」とマッサージをさせれた^木。
>>522
「大スポンサー」でTV放送のマッチメークをする東京12ch・田中氏に文句を言わなかったり
遠藤レフェリーにも最初は「部外者」として嫌がらせをするも腕相撲で完敗するとおとなしく
なったらしい。
>>524
NET・三浦専務を「プロレスに大変、理解があった。」と坂口が話していたり日テレ・
小林社長は「力道山を継承するのは馬場!」と言うのが社の方針だったとかの話を聞くと
国プロに森P以上にプロレスへ情熱を傾けてくれる人物が居なかった。
>>533
のちに全日色の強くなる原Pも徳光アナも日プロ時代は^木の方が年齢も近いので仲も
良く食事やゴルフをしたり友人関係だった。馬場がさすがに大スターで簡単に口がきける
関係では無かった。^木引退後に空港で偶然に会った徳光アナは空き時間に食事をした
とラジオを徳光Jrが話していた。 国際プロレスが長く続かなかった理由は多々あるが
もっとも象徴的なのは、テレビ局に二度も見捨てられたこと
TBSも12chも吉原の人脈により繋がったものではあるが
吉原は現場スタッフと信頼・協力関係を作る気持ちがなく、傲慢な態度で最後は見切られた
漠然と想像はできたことではあったが、マッハ隼人の証言がそれを裏付けた
その中で12chのT氏はよくやってくれたが吉原の態度は変わらず、T氏の異動をきっかけに終焉となった
当時の12chにとって良い時は二桁を超える国際の視聴率は悪いものではなかったが
非協力的で傲慢な相手に頭を下げてまで続けよう、というほどでもなかった >>539
ファンも含めてプロレス村の関係者としてはどうしても吉原を悲劇の人格者として祭り上げたい傾向があるがその辺を聞くとむしろよくあそこまで持った物だという感覚の方が強い 吉原はレスリングの腕はあったがプロレス的発想、思考が苦手なように思えた。 https://pbs.twimg.com/media/ExzvXXrU8AETDCT.jpg
通常の放映料だけでは外人レスラーに払う金が足りないから
東京12chに臨時の特別金ふんだくってまで敢行した四大タイトルマッチ
会場が後楽園ホールというのが泣ける >>542
逆だよ。テレビ局側が特別予算を組んで大物レスラーを招聘させていたんだよ。世界◯大タイトルマッチもテレビ特番用のイベントだから冒険して大会場で興業を打つ必要もなかった。もっとも既に後楽園ですら平日の興業は空席が目立つような観客動員力しかなくなっていたけどね。 >>541
そのくせ体育会系意識は人一倍だったらしいからな
それもそれが通用しない方がむしろおかしくて自分は絶対に間違っていないってくらいに徹底していたって >>543
テレ東のPが吉原にカネの無心されたからタイトルマッチの事かと思ったが
むしろテレビ局主導のビッグマッチだったのか
https://pbs.twimg.com/media/EyFsoBpU4AQZ_9L.jpg >>545
79年秋の方だよな
その時が最後の10パーセント超えだったって TBSと放送交渉していた時、同時にフジやNETにも売り込みをしていた
フジも放送を検討していたが、ネット局数が上で放送権利金が段違いに高かく、三ツ矢乳業から資金調達してくれたTBSを吉原功は選んだ
昭和40年代のTBSとフジだと目標視聴率がTBSは高かったから数度の放送時間の移動からの打ち切りになってしまった
後にフジは全女を長く放送した事を考えると、TBSではなくフジと契約していたら国際の歴史は大きく変わっていたかもしれない >>547
まあ同じ態度を取っていたらフジでも早期打ち切りだったかも この試合https://www.youtube.com/watch?v=-rsagHw8ek8を見ると、日本リーグ戦開催の前後に
キム・ドクを国際に引っ張れたら・・・と思う。理由は国際には全日の鶴田に該当する選手がいないことと、
草津クラスの大型選手が存在せず、次世代組の井上・浜口では物足りないことはファンの意識の中に
あっただろうこと。キム・ドクを日本側にスカウトし、加えて1977年の原進入団の時期が重なれば、
国際のイメージも全日のサテライトとは言わないまでも、大木の入団よりもインパクトがあったと思うなぁ。 >>549
浜口・井上はヤマハや極道と並ぶ名チームと評価が高いが同格だという事でもあるんだよな
あとアジアタッグから間もない事からむしろIWA世界タッグのアジアタッグ化の印象にもなってしまった >>547
具体的な条件はもちろんだけど
この時代のTBSとフジは正直比較にならないくらいの差があったから
(当時の民放キー局の勢力図はTBS>>日テレ>>>フジ>NETくらい)
この時にTBSを選んだこと自体は正常な判断
ただ日プロで力道山と日テレ(というか大正力)との関係を見てきたであろう吉原さんは
恐らく国際とTBSの関係においても
それを一般化して「プロレス団体TOPとTV局とのあるべき関係」に
そのままスライドさせた感覚だったんだろう
内輪で見ているとと力道山と大正力が
あの時代にどれだけ特殊な立場の人間だったかが却って見えなくなってたんじゃないかな オレは静岡だけど当時は民放2局でTBS系とフジ系だけだったけど、子供心にプロレス見た記憶が残ってる最初はTBS系で土曜日の夕方やってたワールドプロレスリングでジョニーパワーズとかイーグルパワーズ、マクガイヤブラザーズがでてたわ。それまでは覚えてないというか見たことはないと思う。日本プロレスも国際もTWWAプロレス中継のwiki見るとネット局だけど色々揉めて中継してないんじゃないか。
ちなみに最初に全日見たのはフジ系で深夜にやってた馬場vsブリスコ、国際は12chになってからフジ系で深夜とか日曜昼間にやってた。 >>552
その当時の静岡のネット系列状況はよくわからないけど
70年代までは地方でも民放キー4局系列が全て揃ってる県(地域)は案外少なくて
そういうところでは地方局やUHF局でも昼間や深夜のスポット枠時間帯には
非系列局制作の外販番組を放映してるケースが多かったんだよね
上で書いたTBSと日テレの当時の差ももちろん人気番組や視聴率もあるけど
つまるところこの系列ネット局網の規模の差
人気番組を揃え全国でより広い地域をカバーしていることで
キー局としても他局よりより多くのスポンサー料を得ることが出来た時代
このスレで時々出てくる12チャンネルのテレ東への社名変更と民放第5のキー局化ってのは
80年代になってこの地方の民放系列局網の整備が一段落したからこそ実現したものなんだけど
逆にこれがもう5年遅れてたらその後のBS/CS網の整備に引っ掛かって
もしかしたら国際が生き残れた可能性もあったかもしれない
WOWOWでウィンブルドンやツインピークスやグラミー賞授賞式とかに挟まる形で
金網の中で血まみれになった木村のどアップが…w >>547
フジの全女中継は運動部じゃなく芸能部の製作だったからね
吉原社長がそんな扱いを受け入れるとは思えない >>542
海外に倣った、風情のあるポスターだね
キラーブルッスはご愛嬌 >>549
>日本リーグ戦開催の前後にキム・ドクを国際に引っ張れたら・・・と思う。
条件によらずドクから丁重にお断りされるだろうけどね。全日からしても手放せないと思う。
むしろ当時の天龍の方が可能性があったと感じるし適性があったと思う。
覚醒前の天龍ならなんだか国際向きのような気がするのは失礼かな。
ラッシャー、天龍、原のトリオとか魅力的だ。 >>545
○大タイトルマッチと言う物量作戦的発想は12ch・田中氏のアイディアだった。
12chは西城正三しかボクシングの世界戦が放映できないので日本人の各階級チャンピオン
を並べてその防衛戦数試合一気に行って成功を得たかららしい。
>>547>>554
フジが深夜枠になっても女子プロレスの放映を続けたのはCX・日枝社長がファンだったのが
大きかった。でも頑なに男子プロレスは放映しなかったUWFのみ放映寸前まで行ったけど。
>>553
日テレが日プロ中継を打ち切った時に「プロレス番組を打ち切った地方局からの突き上げ
は厳しかった・・・」と報道されていた。日テレ幹部の話で「秋からまた、プロレスを再開
しますよ。どこになるかわかりせんが・・・」とのちの状況を暗示していた・・・ >>557
実際のタイトルマッチの物量作戦は半年前に新日本が既にやっていたが 馬場が「桜田を出すから若松をくれ」とトレードを持ちかけたが
吉原が「若松がいないと困る」と断ったんだよね >>558
東京12チャンネルが、ボクシング番組での◯大マッチが視聴率的に成功を納めたのでそれをプロレス番組でもやってみようということになった、とい話で新日本とは関係はないんだよ。 タイトルマッチが一日にふたつというのは
全日がすでにやってる。
NWAとPWFとかNWAとインタタッグとかNWAヘビーとジュニアヘビーとか。
二つあるんだからこの際三つやっちゃえ、けちけちせずに四いくか、というのは
プロレス界ならとうぜんの流れだよ。発案というほどオリジナリティがあるわけじゃない。 原の凱旋時のポスターで、原をデカデカと捉えたポスターにクレームつけたトップ勢て誰だ?
草津は絶対として、井上とかもか? >>559
若松は国際で社長業以外全て行っていた、と言われる位リング上のレスラー、レフェリー、リングアナ(地方大会で)以外にも裏方業務は何でもやっていた
仮に若松の代わりに桜田が入ったらスタッフを複数人雇わないと業務が滞っただろうと言われてる >>564
ミッドヘビー王者としては憤懣遣る方無しだったろうな。 >>562
この話題においての発案者という意味は、タイトルマッチを複数以上組むというアイデアを最初に誰が考え出したかということではなくて、国際プロレスのイベントとして◯大タイトルマッチをやろうと誰が言い出したかって事でしょ。それが田中元和ディレクターだったと言うこと。 日本で最初に、「一日に2回以上のタイトル戦」があったのは1966年12月3日、武道館。
G・馬場対F.Vエリックのインター戦と、大木&吉村対T.ゾロ&E.モレアのアジアタッグ戦(決定戦)。
それまではシングル王者とタッグ王者が被っていたから、2大タイトル戦は出来なかった。
それ以降、日本プロレスは、インター(馬場)とアジアタッグ(猪木&大木)、
71年はインターとアジア(大木)、UN(猪木)とアジア、インターとアジアタッグ
(坂口&吉村)と多く開催した。
20世紀の終わりの新日(全日、ノアも)のビッグマッチは、ヘビ―級のシングル、タッグ、
ジュニアヘビーのシングル、タッグと4大タイトル戦は当たり前になった。
2018年の新日1.4ドームなんか正式な試合、9試合中8試合がタイトル戦だよ(苦笑)
https://www.njpw.co.jp/tornament/113188?showResult=1 >>562
それでも意外と一本だけってのもあるんだよな
テリーと鶴田の蔵前とか鶴田とマスカラスの田コロとか
一昨日のクラシックスでもやっていた新日本の四大マッチについては前年末の蔵前が不入りだったのも影響した感じ >>569
国際のタイトルマッチは安心してみれる。
全日は世界戦がスカタン決着ほぼ確定だから、同日にPWFとかやってくれれば
まだ安心してみれた。 >>568
意外にも全日本でPWFとUNの同日を初めてやったのはUN復活から四年以上も経った名古屋 >>570
浜口がブランチャで失神してしまい、遠藤レフェリーと加害者の健吾が狼狽したり、
剛が売り出された阿修羅に嫉妬して、試合を壊してレフェリーの小鉄に激怒されたり、
あんなタイトルマッチが安心して見られるのか? >>568
66年7月5日東京体育館が先
馬場vsコックス(インター)
マツダ&ケオムカvsグラハム&スティンボート(NWA世界タッグ)
実際はマツダ&ケオムカは王座じゃなかったが >>573
馬場とコックスの最後の対戦となる千葉でのPWFも極道コンビとデビルスのアジアタッグと一緒だったんだよな >>571
ダブルタイトル戦を除けばひとつの興業で
インター、PWF、UNのそれぞれの
タイトルマッチが行われた事は無いはず。
1984年チャンカーでの蔵前大会がそうだと
思い込んでいたんだけど、鶴田対ニックは
AWA戦だけだったんだね。 国際が潰れた直後、メジャー二団体の十周年記念蔵前決戦は対照的だった
全日が超豪華外人レスラーと三大タイトルマッチで勝負したのに対し
新日ははぐれ国際軍団との対抗戦で勝負(タイガーの覆面剥ぎ、ハンセンホーガンはあったが) >>568に自己レス
2大タイトル戦(一日で2試合のタイトルマッチ)その後、調べてみたら、
さらに古く1957年4月8日、大阪府立体育館で
全日本ライトヘビー級選手権
○芳の里対✖吉原功(芳の里防衛)。
全日本ジュニアヘビー級選手権
○吉村道明対駿河海(吉村奪取)
という記録があった(^^: >>576
この時が全日本で初の三大タイトルマッチ
ちなみに新日本はこの時点で四大タイトルマッチを三度挙行 >>568
その新日のドーム大会はタイトルマッチのデフレ状態。
タイトルマッチのオンパレードと言われたグランドチャンピオンカーニバルPART1は
一日で複数のタイトル戦を組む事は無かった。また「ミズーリ州ヘビー級を日本で
やられても・・・」と書かれていたがNWA王者の登竜門に相応しい歴代王者が並んでいた。
そのベルトを鶴田、ハンセンより先にバックランドが獲得した時はアマリロ時代を知っている
テリーは早い出世に驚いたらしい。
>>573
マツダの東プロ行きをを阻止するために馬場を脇役にまで追いやって凱旋させた
シリーズで日プロとしては力道山没後の興行で最高の収益を上げた。
この時に営業部長を務めてた吉原社長が大任を果たし国プロ旗揚げを決意したと
言われるが実権はすでに遠藤や芳の里が握られて閑職で出番は無かったとも言われる。
>>576
事前に準備していた全日の記念試合の前日に強引に割り込んだニアミス興行合戦で
新日は「日本シリーズ」で全日は「オールスター戦」とも言われた。春先から新日
にかなり押されていた全日が観客動員ではなんとか渡り合ったと書かれていた。 >>579
>「ミズーリ州ヘビー級を日本でやられても・・・」
その前に「英国西部ヘビー級を日本でやられても・・・」だよね(苦笑) >>579
マツダ凱旋のゴールデンシリーズはその期間中にアジアタッグ王者を四組も誕生させるなど平成期顔負けの展開を見せていた 北海道ヘビー級王座を創設してミズーリ州で防衛戦を行えばよい。 まぁ、北米選手権を日本でやったり、アジア選手権に白人や黒人が挑戦するのもよくわからないと言えばわからないよね >>584
大木金太郎オールアジアヘビー級王座とかアジアタッグ選手権とか デストもUSベルトの防衛戦をしょっちゅうやってたな。 >>584
アジア人というよりアジア地区の王座って感じかな >>586
東京プロレス時代の猪木が獲得したのもUSヘビー級のベルト
USってやたらとあってどれが本流なんだかわからん https://pbs.twimg.com/media/EWKwxs_VAAA0bjR.jpg
イギリスのユニオンジャックのマークがあるって事は英連邦ジュニアヘビー級かな
ザ・アトミックは凶器入り頭突きで力道山をピンフォールしたアトミックとは別人? >>589
別人。
正体はカナダのレオ・バークだそうだ。 >>589
スタンピートレスリングが認定していた英連邦ジュニアヘビー級王座、原がカナダ2戦目で奪取した王座
アトミックは全くの別人 そもそも
アトミックが凶器入り頭突きで力道山をピンフォール
ってあったの? >>591
正しくは英連邦ミッドヘビー級選手権。英連邦ジュニアヘビー級選手権は日本だけの呼び名。 全く盛り上がる事もなくひっそりと消滅したIWAミッドヘビー級選手権 トリニダードトバゴヘビー級タイトルマッチを乱発するブッチャー >>588
1960年代の終わり、アメリカ各地でUS王座があったが
ストロング小林がBコルトから奪ったタイトルは「USA王座」と
ちょっと変えていたなぁ。あれもお手盛りタイトルだったが。
>>595
IWAミッドヘビー級選手権
普通タイトルは、団体+地域、例えばNWA認定世界とかUSとかだが
地域がなく団体王者というのは、後にWWWF王座とかPWFとかNWFの
ようにNWAに加盟して世界を剥奪された例はあるが、
これは最初から地域なし、だった。
本当はIWA認定世界ミッドヘビー級選手権としたかったのだろうが、
それでは、おこがましいと感じたのかな?(^^: >>598
あれは、IWA世界ミッドヘビー級選手権ですけど… いや、最初から「世界」を除いた「IWAミッドヘビー級選手権」と
表記されていなかったかい?
戴冠の時の「ゴング」あたりもそうだし、
今、主要なプロレスの記録本を見ても、みな「世界抜き」になっている。
WIKIは「世界」だけどね。
世界が付いたとしても、後付けだったような気がする。 ベビー級とタッグタイトルが世界選手権として認定してるのに
ミッドヘビー級だけ違うと言うのは無理ないか。 ○○が認定
こういうの吉原は最後まで甘くみていたというか理解していなかったよな
別に実態はどうでもいいし、権威ありそうと思わせるだけでもいいんだけれど下手くそだったよな >>588
USヘビー級王座の源流はシカゴ地区で大人気になっていたバーン・ガニアを王者にする為に新設されたUSヘビー級王座
カーペンティアが疑惑のNWA世界ヘビー級王者として各地区に転戦して各地に世界ヘビー級王座が出来た様に、ガニアに勝った選手や元US王者が別テリトリーに転戦した時にあのガニアに勝ってUS王者になった〇〇が来襲!と宣伝されて各地区にUS王座が誕生した
テレビプロレス中継の創世記の50年代、4大ネットワークは全米向けにプロレス中継を放送していたが、1番視聴率があったのがシカゴ地区からの中継でその中心人物で人気者だったのがガニア
ガニアはNWA王者にならなくても自分には人気、集客力はある、プロモーターとの軋轢に疲弊してNWA王者になるよりも新団体を作ってそのトップになった方が最良と考えたのがAWA設立に繫がっていった デストのUSヘビーはハワイで認定されててペドロモラレスから奪取となってる。
ハワイバージョンはその後も王者は変遷を経ているが、デストは私物化しているんじゃないかな? マクマホンがNWAに加盟した時、WWWFは世界の文字を外してWWFヘビー級になったのは有名だが
ガニアがNWA加盟した時はどうだったんだろう。AWAが世界の文字外してた記憶がない >>606
ガニアはNWAから脱退してAWAを作ったんだよ
AWAはNWAに加盟なんかしてないよ
アホか >>606 >>607
ガニアはプロモーターとしてNWAに加盟した事は無い
それはAWA設立前も後も
だがAWAのプロモーターとしてNWA総会にオブザーバーとして出席した事はある >>608
それでも実はセントルイスの株主の一人だったりする >>609
うん、だから607と608が言われているとおり、ミネソタ地区のプロモーターの一人としてNWAに関わっていたけど、当時の会長サム・マソニックらの中心派と対立して他のミネソタ地区のプロモーターらと共にNWAを脱退して1960年の5月にAWAを設立した。つまりAWAとしてNWAに加盟したことはない。
これでわかってもらえる? AWAはまさにガニアのガニアによるガニアのための団体だったのね
そら国際にも「ボックを派遣させる見返りとして自分も呼べ」とイケシャアシャアと言えるわけだ >>605
例えば、Aと言う選手が、ある地区のUS王者だったとして、
王座から転落。その機に、チャンピオンベルトも新調する。
「Aさん、あんた、長い事王者を務めてくれたから、
そのベルト記念にあげるよ。」
ベルトをもらったAは、他の地区でもUS王者を名乗って防衛する、
こんなところでは? >>608
カツラをつけてNWA総会に参加した時かな?
>>612
トップダウン的な所はWWFと似てるかな?
ガニアと旧知のPWFブレアース会長は昔から馬場には熱心に提携を勧めていた。
ダブルタイトル戦は渋るガニアを馬場が説得して成立させた。またWWF1984の猛攻
に対して「まず規模の小さいAWAは飲み込まれる!」とNWAとの連合を勧めて一時的
にNWA&AWA連合軍のNY侵攻を実現させている。AWA崩壊はグレッグの統治能力の
無さが一因とも言われていた・・・ AWAと提携している時にガニアはIWAから世界の文字を外せとは言わなかったな
NWAと組織形態が違うからなんだろうけど、世界を名乗るなら○○よこせとか
あのガニアなら言いそうだけどねw >>616
国際の世界タイトルはむしろNWAに加盟出来ないという否定的ニュアンスだったな そう言えばニックとラッシャーで、AWAとIWAのダブル世界戦やったことあったよな。
誰も同格だと思ってないが、当時は鶴田も単なる挑戦者扱いだったから新鮮な感じはあった。 提携か加盟かで扱いが違うのではと思う。
WWWFやNWF、PWFも加盟という事で世界が外された。 AWAは傘下団体だったインディアナポリスのWWA、テネシーのCWAにもそれぞれ世界ヘビー級王座があった ローランボックがはじめに国際に来ていたら・・・
まあ売れずに地味にガチなやつってだけで終わっただろう
一応草津にも寝てあげただろうし
だけどけが人は出して帰りそう >>620
この名刺の持ち主は、東京12チャンネルの関係者ってことですわな。そんで、名刺には
AWA極東支部と書いてある。と、言うことは1974年末まで使われた12チャンネル関係者の
名刺・・・・故・白石氏の名刺かな? >>623
AWA極東支部、東京12チャンネルという表記からして、昭和49年秋から翌年の始め頃に作成された、第二営業部長の梅野則夫氏の名刺だろう。 >>623
名刺の受け渡ししたことないのかよ
東京12チャンネルが原田ビルの4階にあったら恐ろしいわ >>625
何を言ってるんだ、お前は。
名刺に付された東京12チャンネルという表記は「当社、国際プロレスの試合は東京12チャンネルで中継されていますよ」という名刺を受け取った人や会社へのアピールに決まってるだろうが。
国際プロレスがAWA極東支部であった時期と、東京12チャンネルでの中継が行われていた時期が重なるのは昭和49年秋から翌年の1月末頃までで、当時の第二営業部長は梅野則夫氏だから写真の名刺は梅野氏の物だろうと言っているんだよ。
もう少し社会的常識や文章読解力を身に付けてから発言しろ。 >>625
626だが先程は酔っててアンカーを良く見ないまま625氏に暴言を吐いてしまった。酔いが落ち着いたら自分こそ何を言ってるんだと気づいた。
謝罪申し上げます。 グレート草津の霊が来たのかな
迷わず成仏してください 草津と言えばジェリー・モローのWIKIにこんな事が書かれていた
モローに上に行かれたくないって何じゃそれ
こんな男をマッチマイカーにしたらそりゃ潰れるわ
全日はジョン・テンタをWWFに送り出してやったのに
>レスラーとしての実力は国際プロレスに来日した外国人選手からも高く評価され、
>レッド・バスチェン、ラリー・ヘニング、ビル・ワット、スーパースター・ビリー・グラハムなどから
>アメリカに誘われていたが、自分より上のポジションに行かれることを危惧した
>マッチメーカーのグレート草津がストップをかけていたという。 >>629
吉原が百も承知で草津と心中すると決めていたなら勝手だが >>629
「レスラーとしてやっていける場所がもうWWFしかなかった・・・」と馬場はライバル団体
へ送り出した。その後のWWFでの活躍を見てもそれは正解だった。 >>629
ラリー・ヘニングと稲妻は国際では接点がない >>633
ん?73年の新春パイオ二アシリーズで一緒だったろ >>618
井上VSガニアのIWA&AWAのダブルタイトルマッチも行ってる AWAと提携が切れた後は外人の顔ぶれがガクンと落ちたが、国際のレスラーにとっては
士気というか、やはりモチベは下がったのではないだろうか。
来る選手殆どがB級C級、数が揃わない時もあったりデスマッチ連発のマンネリを招いたり。。 AWA路線は金に見合った客は来なかったような
欧州路線から荒くれ外人路線に直接なっていたら そう言えばマイティもジョーも、花柄好きだったよな。 「ガニアから「AWAをとるか?大剛をとるか?」と迫られて大剛をとった」と美談にされたが
国際の資金力では大剛がブッキングするギャラが安い外人レスラーを呼ぶしかなかったが真相だと思う
井上がアンドレに「うちじゃお前のギャラは払えないぞ」と言ったって話だし >>641
苦肉の策とは言え「TVや映画にバンバン出ていた役者から舞台中心で映像に関係には
全く出ないが味のある役者を見つけて起用した。」と例えている人がいた。
移籍後に馬場からPWF獲得の功績をあげたカマタは無名からスターになったと典型だね。
国プロ・小劇場から全日・TVや映画・商業演劇って感じかな? ガニア、ロビンソン、ニック、スチーブンスを呼んだ時点でお金を使い切ってしまい、
AWAとの提携継続より大剛路線に切り替えざるを得なかったが、ガニア経由でギャラの
中抜きされた状態でバションをブッキングするよりも親交のある大剛が直接した方が、
バション本人に渡る金額の方が多かったとかで、ジョーもブッキング出来たから一時的には
良かったのだろう。 そのバションのお陰でジョーとの繋がりが出来た訳だしね 「実録・国際プロレス」OBの方々の、不器用ながら温厚で優しいエピソードが多いのだが
最終的には「吉原さんはいい人だが社長に向いていない」「草津は酒癖悪くて練習しない」
「大剛は性格が悪くて嫉妬深い」「剛は変な奴で小ずるい」の四つの話で締められるのが少しおかしい 人間味があると言えば聞こえはいいんだろうけど、やはりプロレスという特殊な社会で
団体を興し継続させていく、その世界で生きていくにはかなり常識外れな感覚、精神面を持ち合わせていないと駄目なんだよな。。 >>646
といっても社会の一部でもあるわけだから外部との折り合いをどう付けるかというのもあるし さすがに迷惑行為だったり、法に触れる話とか言うのは論外だが、
やはり行動面や発言なんかにインパクトがある、個性が発揮される人間というのは
その社会を大いに動かす力があると思うよ。 1970年4月10日ジョージア州アトランタで木村がプロフェッサー木村の名で当地デビュー
レス・ウォルフ(バティ・ウォルフ)を破っている
メインはNWA世界戦で、ドリーがニックの挑戦を引き分け防衛
1971年4月10日シカゴでストロング小林がガニアのAWA世界王座に挑戦
ガニアの反則勝ち防衛
関係ないけど、今日の出来事でした。 >>648
リスクとメリットを秤に掛けてメリットが大きな人間にならねばならないって事なんだろうな
猪木なんかまさにその典型だが ラッシャー木村の著書読むと、アメリカ遠征時に当時チャンプのドリーファンクのNWAベルトに3回挑戦したとあるが本当? https://pbs.twimg.com/media/ERXQcvaU8AE_bZ6.jpg
NWAといえば、国際最初のエースヒロ・マツダ。NWA総会で、キニスキーに代わる
次のチャンピオンに推されたが、アジア人である事と、前チャンプのキニスキー自身が
ドリーを強く推していた事で立ち消えとなった無念の幻の王者 >>651
ラッシャー木村の著書って「猪木へのラブレター」? >>652
ヒロ・マツダ
>幻の(NWA世界ヘビー級)王者
と言っても、候補のひとりになっただけでしょ?
候補だけなら、それ以前、ペッパーゴメス(’59年時)や
F・Vエリック、ニックボックウインクルも66年時に候補に
挙がったと聞いている。
ただ、69年にマツダがNWA王者になったら、
日本マット界も、変動が起きたね。
G・馬場が「最強の日本人レスラー」ではなくなったわけだ。
やはり、遅かれ早かれ招聘して馬場が挑戦したかな?
でも、奪取はできないよね。 しかし、NWA世界ヘビー級王座って、WCW以前、本来の加盟するエリアを
防衛サーキットすると言う意味で、アジア人、黒人、メキシコ、プエルトリコ人も
王者になっていないんだよね(馬場は、自分の団体内での短期キャッチボールだから
除外)。白人オンリーだ。 >>655
というかますますインターを絶対化したはず 吉原社長は経営が怪しくなっても自分の考えが悪かったとか思わなかったのかな。草津は後半はケガもあってか、一歩引いたようだが。その時には既に再建不可能だったか? >>655
のちにAWAイメージが強くなるニックはNWAを主戦場にしていた頃から評価が高く
ドリーの後継者候補に選ばれるもそんな事を全く知らないニックはAWA地区に転戦
てしまいNWA首脳陣をガッカリさせたらしい・・・ ニックがNWA王者になっていたら……はスレに立ってもいいような妄想だが
そうなるとドリーは後年、ハリーレイスのライバルのなかのひとりになってしまうし
ファンクスはオーツ兄弟の上位互換程度になってテリーのブレイクもなかったかも? >>659
苦しくなったらますます意固地になるタイプかもな
少なくとも自分が格下と見なす相手の進言は全く聞かなかったらしいし 実際ドリーの4年3か月政権が長すぎだったし、その時期に途中でニックが1年くらい就いても構わなかったかも。
でNWAやファンク一派の謀略に陥れられ王座転落〜AWAに転戦となると、箔もつくしなw >>663
そんな吉原が自分の理念に最も遠い、金網乱発しておいて何をこだわるか、あたりはフロントもテレビ局も興行師もレスラーもあったりして? ドリー王者時代の終わり頃、一時,次期王者候補に
ビル・ワットが挙がったこともあった。 ウイルバー・スナイダーにはNWA王者の話があったらしい
スケジュールがむちゃくちゃキツいのを知っていたので断ったんだとか スナイダーも、60年代に戴冠したら風格もあり、
立派なNWA王者になったと思うが、
対立するAWAの主力選手と言うことでダメになったと
2,3か月前の「ゴングスピリッツ」に書いてあった。 >>665
金網が実は吉原自身のアイディアだったらだろうな
もちろん最初は窮余の一策で木村という格好の素材があったからだろうが >>669
骨折後無理矢理な復帰の後遺症でほぼ走れなくなった木村を活かそうとすればあれしかなくなるのはあるかもしれんな
無理矢理復帰急がせなければ木村の人生も違っていたかもな 菊池孝いわく4大エース構想で木村はラフ&タフのエースだから、トップより2番手
タイプなんだろう。やっぱり小林に抜けられたのは痛手かな ラッシャー、国際のまだTBS時代の映像とか見ても後年の新日国際軍団とかの頃と
殆ど風貌やファイトぶりが変わっていないw 草津なんかもそうだな。
大概、髪型やトランクスやシューズの色とか若手時代からエースになるにつれ変貌していくんだが。。 >>671
結局は小林以上のエースを作れなかったって事なんだろうな >>660
自分を推してたマソニックが勇退した上に
有力者バーネットのジョージアを出てNWA非加盟のワットランドを
主戦場にしたデビアスがNWA王者になれなかったようなもんだな 猪木と2度の大一番を戦った小林
馬場&猪木と大一番を戦った木村
両者共に不本意な戦績だが、日本マット史的にはBIと対戦した木村の方がミスター国際プロレスかな?
団体のパワーバランスからいって、当時の馬場猪木に勝ち越すのは不可能だと思う。 74年3月に蔵前で猪木と戦ったのが小林でなく木村だったら
ジャーマン決着って感じじゃなかったような気がする。
名勝負とはいいづらい感じになったかと。 >>667
ブリスコはNWA王者再々登板の要請がありながらハードスケジュール理由で拒否した。
サイドビジネスの自動車修理工場の経営も順調だったのでギャラの良い地区だけの
参加に絞った。新日や晩年の全日行きはコレが理由だったんだね。
>>675
「ある意味、木村の全盛期は骨折前だった・・・」と菊池氏が書いていた。
>>676
試合内容では二試合とも小林の方が良かった。世間体にも初対決は報知以外が久々に
プロレスを一面にした。ワープロ視聴率とファンから憎まれぷりの悪役人気は断然に
木村だった。 木村対馬場は、まだ団体があった時期の試合だから不透明決着もしょうがないけど
対猪木となると、小林はフリーの立場だし木村は団体が崩壊してからだから
新日がどうシナリオ書こうがやりたい放題だった >>678
ブリスコの再登板はなし、マードックは人種差別主義者&トンパチ、
バックランドはWWWFに取られ、結局、レイスが長期でNWA王者を
務めざるを得なくなった。それほどの力量はないのにね。風格はゼロだよww 国際はNWAに加盟していないにかかわらず、世界ジュニアヘビー王者としてネルソンロイヤルを招聘して・・。
で、その後馬場と新間がという経緯は周知のとおりだが、そもそもどういうラインで呼べたんだろ。 ネルソン・ロイヤルが育成したレスラー達
ケン・シャムロック
輪島大士
ジョニー・エース
ザ・ターミネーター
ジョー・ディートン
うーん、微妙なラインナップ >>682
ケンシャムはUFCとWWEの二刀流で成功したじゃん
エースはWWEの番頭になったし >>681
ネルソン・ロイヤルはその年も前年もカルガリーで
キッドらを相手にNWAジュニアの防衛戦をやっている
来日自体は普通に大剛のカナダルート >>685
でも馬場のお気に入りのレスラーの
イメージが強いよね。
一時輪島を預けたのだから、信頼も
しているだろうし。 つべで小林が永源と組んだ試合見たがあれじゃ当時の待遇や扱いも妥当だわ。
ドタバタモッサリして動きや技に切れがないし背も大きくなく短足で締まりのない体。
当時今の飯伏くらいの年齢でそんな年食ってない筈なのにあれではね。
スター性や貫禄もない。
tbsのエースだった知名度実績あってもあれでは上で使えないし会社として推せないでしょ。
冷や飯食わされたわけじゃなく妥当な扱いだったと確信した。 国際を辞めた経緯を完全無視して、小林を恨んでいるであろう国際勢と戦わせた
新日の悪意に満ちた小林への仕打ちはそれとは関係ない >>672
ラッシャーさん自己プロデュース出来ないんだよな。あの風貌も当時ではよく見る風貌。ヤクザみたいな格好してんだから、もっと過激にバチバチやって欲しかった。3対1では猪木を袋叩きで圧勝とか。 小林をエースのまま離脱させ
国際が次のエースを立てる前に猪木に完勝させる
一撃で新日>国際を決定づけた、猪木×新間の最高最凶の大仕掛け
後で小林に星を返す口約束くらいしてたろうが、当然のように反古 >>678
> 試合内容では二試合とも小林の方が良かった。世間体にも初対決は報知以外が久々に
猪木vs小林は少なくとも第一戦には
見かけ上は小林が勝つか?って場面もあったけど
仕方ないけど木村の場合、馬場戦も猪木戦も
基本的にシングルで正面から戦って
木村が勝つんじゃねってほどの場面は無いしね
あくまで「国際のエース」って看板込みでの大物対決であって 草津のKO負けは「草津をスターにしたい」TBSの意向があったが
TBSの現場介入を嫌がった吉原がテーズにGOサインを出してTBSの意向を潰したって事だと思うが
吉原は長期的ビジョンが無くてやる事が行き当たりばったりな感がある
その後に売り出したのが格闘技経験もなく草津に舐められていた小林で
日本人蚊帳の外のロビンソン、ゴッチ、ロシモフの優勝争いという奇怪なストーリー
木村より8歳も若い井上をつなぎエースにして王座陥落後は3,4番手に戻す >>690
草津との確執や自分のリーダーシップ不足等に理由で国プロを離脱し純粋に新日移籍
する意向だったがそれではインパクトが薄いので「他団体のエースが挑戦してきた。
馬場にも挑戦状を出すも受けたの^木だけ!」と言うストーリーを作り上げた新間は
仕掛人の本領発揮だった。試合は負けるも判官贔屓で小林人気は一時は急上昇した。
初期の小林争奪戦に敗れた馬場はアメリカ遠征中の小林に再度、接触して全日入りを
誘っていて「小林のレスラーとして人生最大のモテ期」だった・・・ >>687
> ドタバタモッサリして動きや技に切れがないし背も大きくなく短足で締まりのない体。
当時の新日では猪木、坂口、国際では草津に次ぐ長身なのに何言ってるんだ?
動きがモッサリして見えるのは他の三人が小さいから相対的にそう見えるというのもある。 同じリングに立ってよくわかる差、ってのがあって
風貌が似ているといわれた猪木と小林だが、
対戦した猪木に比すると、小林は背が低くて顔が大きく胴長だったのは確かだった。
いわゆる色気みたいなものも負けていたと思う。
外見が部分ですこしずつ負けていて総合ではかなり劣っていたのにはびっくりした。 草津とラシク、坂口とブラジルが何となく被って見えて…w
おそらく、二人が対峙しても猪木と小林のように似てない気がするなぁ
でも、短髪で日焼けしたIWA王者の頃の小林はカッコ良かったよ。 >>694
>(S小林は)当時の新日では猪木、坂口に次ぐ長身なのに何言ってるんだ?
横からだが、、
1980年頃だろ?
身長だけなら若手の前田やキラーカーンは無論、
ジョージ高野もおそらく高かったのでは?あと平田、健吾、藤原あたりとも
ドッコイじゃないかな?小林が高いにしても、ほんのちょっとでは?
当時の小林もは長身と言うイメージはない。横幅も含めばデカい方だが。 >>697の続きだが
確かに国際では、草津に次ぐ長身だっただな。
R木村とはドッコイという気がする。
なら、全日に行ったら?
小林より長身なのは、馬場、鶴田、戸口、羽田、
(時期によってはクツワダもサクラダもいる)天龍でも遜色はないと思う。
身長が全てではないが、国際には長身で見栄えのある選手が
少なかったんだよ。
それで、最長身の草津が、あれだし。 >>697
公称では前田とカーン以外は小林より低い。
この頃はカーンは海外で前田はまだ若手に過ぎなかったから省いた。
>>698
公称では木村より高い。
全日が大型揃いだったのは承知だよ。 >>699
しつこくてスマンが、1980年頃は、S小林も
藤原も健吾も公称188cmと言っていなかったかな?
で、ジョージが190とか。
まぁ,良い。これくらにする。 >>700
時期ははっきりしないが確かにそう表記されてた時期はあったな。
まあ俺が言いたいのは>>687の「背が大きくない。」は違うだろうという事だから。 かつてのエースからすっかりイメージが変わったというと杉山もだな。
全日への移籍もパッとせず離脱、その後国際にフリーで戻るが中途半端なヒール、
新日でも同様のスタイル。あと「おはよう子どもショー」のサンダーおじさんとか
唄だしたりのタレント活動。。まあ実業家だから後年は殆どプロレスは片手間だったんだろうけど。 Gスピで新日の営業だった大塚が、国際と交流戦した時の事を話してたが
新間に頼まれて国際のチケットを売りさばくのがしんどかったと言ってたのは笑った
当時勢いがあった新日の売り方を覚えた後では、斜陽で落ち目の国際の切符を売るのは地獄だと >>702
杉山は最初上田とのタッグでタイトル挑戦した時は最後仲間割れで、その後は国際サイド
でのフリー参戦。79年に一度だけ上田とのコンビで木村・草津と対戦しているけど
ヒールは厳密に言うとその時だけだな。
>>703
大塚は国際でアルバイト経験あるけど、その当時よりも大変だっただろうな。 ラッシャーは馬場戦猪木戦よりも鶴田戦のほうが気迫が溢れ良かったと思う。
新人に毛が生えたような鶴田が試合引っ張ってる気がするのが困りものだけど。 >>705
二人とも先輩に対しては遠慮するが離れた後輩には意地を燃やす点で似ている https://pbs.twimg.com/media/Cba0m3dUcAEYKx0.jpg
しかし、なんちゅう珍妙なタイツを履いておられるのかサンダー杉山
スポンサーにプレゼントでもされたのか 自分が子どもだった頃の杉山はバラエティに出てくるタレントのイメージだったから、
プレ日本選手権でいきなりプロレスやっていて驚いてしまった記憶があるな。 国際じゃないが同じパターン(かな)で、それまで噂のチャンネルでしかデストロイヤー知らなくて
プロレス見るようになって全日でデストがリアルで試合してて、「この人現役なんや」とビックリ。
しかし考えて見ると現役レスラーでレギュラー番組出てるって今までも殆どいないね。
巡業の時とかどうしてたんだろ。毎週の出演じゃなかったのかな? >>710
大熊がツービートの「テレビに出たいやつみんな来い!!」に出ていた >>710
TV収録が長引いて試合寸前に会場入りしたりして馬場はあまりいい顔はしなかったが
日テレの人気番組の出演だったので黙認していた。 >>411>>413
武藤は柔道専門学校時代に全国大会で三位になって写真付きで紹介されている。
>>427
派手なスタジャン、610のヘルメットとコスチュームで凱旋帰国後に急な底上げに
新日ファンは拒絶反応を起した。これは今も変わらないかな?
>>434
新日史上、新弟子時代に退団を慰留されたなんて武藤くらいじゃないないの? 高野俊二なんて夜逃げしたら新間が海外遠征を餌に連れ戻し
真面目にやってたらそんなかとはなかったわけで当に逃げ得 >>710
試合に出てるデストはジュニアだろと思ってた 国際がTBSの電波に乗った初期、ブッカーが東郷になった頃からヨーロッパ路線に変更した頃に、
吉原社長はAWAとの提携だけではなく、アメリカンなプロレスも志向していたことと、ヨーロッパで
修行させていたストロング小林の教育係とNWA系のブッカーを求めてだと思うが、シャチ横内と
清美川を同時期に使ったことがあった。横内と清美川のアメリカ、ヨーロッパでの実績を考えてのことだろうと
推察するが、何故、海外マットで反目に近い関係の横内と清美川を並立させようとしたのか・・・・
判らない。もしかしたら、吉原社長が海外遠征していないことで、海外マットの人間関係を無視しての
戦略だったのか? わからない、わからない、何もわからない
鉄柱に頭をごんごん打ち付けながら >>719
吉原社長はマツダ以外の海外ルートにあまり明るく無くTBSプロレスのスタートで
東郷をブッカーにしたのはTBS側がなんとか東郷に繋ぎを取った結果だったと森Pが証言
している。
東郷離脱後の欧州路線も最初はアマレス協会の八田会長に相談して紹介状を書いて貰って
実現している。 >>722
>東郷をブッカーにしたのはTBS側がなんとか東郷に繋ぎを取った結果だったと森Pが証言している
森氏の証言とはGスピリッツのインタビューか? ならば全然逆だぞ
マツダと揉めて決別してしまった吉原が自分で東郷と繋いだという話だ
Gスピ以外だというなら知らないが >>723
東郷と面識のあったのは吉原の方だからな 実権を握っていたのはTBSの方で、日プロと切れた東郷をよく知らずにブッキング依頼したんじゃないの?
吉原は東郷の人間性や経緯を知ってるけど、TBSに口出しできなかったんだろう >>725
東郷が吉原を通さずTBSとの直結を図ったのは確かだろう
ボイコット事件の時も中継のある日は出ようとしたって言うし Gスピでのマティ鈴木の話だとTBSが東郷にブッカーを頼んだことが原因で
マツダが離れたという事だったけどな。
マツダはブッカー兼エースでやりたかったと。 >>727
マツダは国際をフロリダの支部にするつもりだったから自分にブッカー権限が無ければ意味がなかった 元々、TBSが独断で吉原とマツダの了解も得ず東郷と結び
怒ったマツダが離脱というのが通説だし、今でもそのように語る関係者も多い
それに対してTBS森氏は、フロリダにマツダを訪ねたが決別してしまった吉原が
やむなく東郷を頼ったのだと思うとGスピで語った
森氏の証言だけでは、自分に都合の良いことを言っているようにも思えるが
同じGスピの記事内に、当時の報道によると吉原が渡米して東郷と会ったと書かれているという
(森氏も渡米しているが、吉原の後)
ならば、少なくとも実際に東郷との提携を進めたのは吉原自身ということになるだろう >それに対してTBS森氏は、フロリダにマツダを訪ねたが決別してしまった吉原
これはアメリカに全米ネットワークでプロレスを放送するTV局がなかったこと=アメリカの常識と、
日本では6と4という全国ネットがあって、ドラマやスポーツ番組で切磋琢磨している状況をマツダが
知らなかったことも関係しているのかな? 晩年のマツダは新日の試合をケーブル局に売り込んで大がかりなビジネス展開をしよう
と計画してスポンサーも見つかった矢先にアメリカで景気後退の波が襲いスポンサーが
撤退してしまい計画はペンディングになってしまった。このストレスで体調を崩して
しまった。「完全に中止になった方が当人の健康に取っては良かったのに・・・」と
西村が述べていた。かっての名レスラーを訪ねるドキュメンタリープロレス・
スーパースター列伝でマツダが紹介された時に地元のケーブル局で日本のプロレス映像の
売り込み奔走する姿が映っていた・・・
同番組のラシクの時はが夫婦仲が良く二人で商業施設の入り口でチャリティサイン会を
しているの微笑ましいかった。またサイン会での意外なラシク人気に驚いた。 旗揚げ時点でTBSとの連携が全くとれていなかったのが国際の問題点だったのかもね
馬場と猪木はTV局に気を使っていた
全日は内心では嫌だったが日本テレビの要請で日プロとの合併を受け入れた
新日は追放者リストの上位に載っていた遠藤をワープロの解説者として受け入れた >>731
バロン・フォン・ラシクは日本での評価が著しく低い
AWAでウォリアーズの引き立て役を引き受けたばかりに…
カナダのトロントではタイガー・ジェット・シンより客を呼べる超人気レスラーなのに >>733
日本ではどうしてもエリックと比較されるからね 列伝でブロディに「タコ入道」と言われて試合後にぶっ飛ばされていいた>ラシク
梶原はラシクが実はアマレスの名選手だった事を知らなかったんだろう 1974年の正月シリーズ、エリック&ラシク組でインタータッグ挑戦するはずだったんだよな。
フリッツの来日が遅れてしまい、ラシク&イヤウケア組に変更されてしまったが。 >>738
豊登が「強い」と唸って
三澤光晴が憧れてタイツの色をお揃いにした
ドイツの帝王。 ラシクと組んでたときはタイツはお揃いの黒字に赤ラインに変えてた。 >>732
遺族によれば吉原は最初TBSに経営権を奪われそうになったのがトラウマになったと言ってたとか >>743
AWAでラシクと組んでた頃はキャリア晩年で太ってきた事もあるだろうけど、ホフマンの顔ってこんな感じだよ。名鑑などによく載っていた古い宣材写真でしかホフマンを見た事がない人には確かにイメージが違うかもね。 オープンタッグより前だっけか。ホフマンのAWA時代。
あの来日からパッタリと来なくなってしまったな。 ホフマンはオープンタッグを最後に一切の試合記録はなく、消息も不明
ネットに記録が上がってないだけで、実際は試合はしていたのかも知れないが
76年までのドイツでの試合記録は残っているので、オープンタッグを最後に引退した可能性も高い >>742
^木はアリ戦後に提供した資金返済で乗り込んで来たテレ朝に経営権を奪われた時に備えて
「新日興行」を設立していた。後年に大塚氏は退職金代わりに移譲を打診されるも社名
のみ受け取った。「今、思うと当時は経営の事がよくわからず素直に貰って増資したり
すれば良かったかも・・・」と証言していた。 >>746
だとしたら老残さらしたパートナーのロビンソンと対照的だな
こと全日本マットにおいては引退時のポジ(トップの二、三人以外の日本人には絶対負けない)
は同じだったけど、ロビンソンはそれすらも不自然なほどの衰えだった ロビンソンとホフマンの犬猿の仲説はどうだったんだろうね。本当なのか眉唾なのか。 ローランボックがホフマンはニ流のプロレスラーだと評していたとか言うけどどうなんだろう? >>750
ゴーディエンコが「ホフマンは弱くはないがボックの方が上。」と言っていたんだよ
スティーブ・ライトに言わせると
「ボックは心臓が悪いから10分以上試合できないよ。あんなのはプロレスラーじゃない。」
馬場は「ホフマンの方がロビンソンより上。」と言っていたしレスラーの評価は人によって変わる ゴーディエンコぐらいか ホフマン ロビンソン ボックと実際に試合して 真っ当なレスラー評が出来るのは >>748
ホフマンはタッグではあるが、オープンタッグの半年前にデビューして一年も立って
いない天龍にピンフォール取られている。 木村&草津組は、ロビンソン&ホフマン組にフォール勝ちしてるんだよね。
馬場&鶴田組にフォール負け以外は、まあまあの扱いをさせてもらっていたな。 >>753
まあ天龍は鳴り物入りだったからデビュー早々にデスト除けば暫定ナンバー3ということで
勘弁してw
実際、羽田よりは上で、極道が中堅に定着して高千穂クツワダとはどっちが上かも微妙だし
>>754
馬場鶴田に勝ってるブッチャー・シークと引き分けたのも大きい
その代わりファンクスには負け、夢の対決でもラッシャーはドリーにクリーンフォール負け
馬場には不透明敗戦だったのに 国際時代に実現してると勝敗は逆だろうなw
木村・草津VSロビンソン・ホフマン 国際でも草津がブッカーなら熊本か三島あたりでホフマンに勝ちそうな気がw 小林木村×ロビンソンホフマンなら
2−0で完敗かもしれんな。 自分のマッチメイクでない草津の最大の金星はオープニングシリーズでの
テーズからのタッグでのフォール勝ちかな
当初予定されてた連続挑戦がキャンセルされたから無意味になったけど
国際時代の大物からの勝ち星はほとんど「自作自演」として
全日でも上のオープンタッグでのホフマンからの勝利の他
オープン選手権ではミスターレスリングに勝ってたな、しかも四の字で >>760
今、こういうお祈りパフォーマンスも
イスラム教徒からクレームが付くだろうな。 ブッチャーは上下空手着姿で入場していた時期あったな、懐かしい。 ブッチャーの空手の型って適当だったんだろうな。
当時は何の違和感もなくみてたけど。 https://pbs.twimg.com/media/EjKpL5fUMAQSXe-.jpg
カマタも空手用のズボンと裸足で空手使いを騙っていた
グレートマーシャルボーグなる相棒まで用意して >>767
“悪くて強い凄い奴らが勢揃い 風雲波乱熊谷大会”
まさにその通りの大会になったな。 カンケー無いが、ジョニーパワーズやSBグラハムも晩年、なんか意味不明の空手ポーズを
試合中に繰り出してたような。。w >>769
エリックビショフもWWEで怪しい空手着姿を披露したけど経験者ではあったらしい。 https://pbs.twimg.com/media/D8rboQpUcAABKAk.jpg
ビリー・グラハムに検索すると牧師の名前が第一に出てくる
スーパースターと付けないとダメなのね >>767
"恐怖の空手殺法"って、猪木と戦ったミスターXかと思った あ〜
IWA、アジア、北米の三冠統一タッグ王座決定戦が
国際のリング上で見たかったなあw でも北米タッグに国際が絡ませてもらったことないだろ?インタータッグ挑戦はあるが。 >>778
インタータッグ挑戦も韓国コンビの時だったし 新日、全日のシングルの王座で国際が絡んだとなると藤波対阿修羅のWWFジュニアか。
猪木対小林のNWFと剛竜馬が藤波から奪取した時はフリーだったな。
PWFやUNは馬場、鶴田とラッシャーは顔を合わせてるがノンタイトル戦か。 >>780
蔵前の馬場と木村の対戦はアジアヘビーを賭けて欲しかった
結果に不満で返上という手もあっただけに >>781
ラッシャー木村が三波伸介のように見える(・∀・)
そしてでかいだけにマンモス鈴木は目立つ >>780
国際と新日の提携時代、唯一のトップ同士の対戦と言えるのが藤波vs阿修羅の試合。
IWAタッグの挑戦者はヤマハ、健吾&永源、小林&永源。IWAヘビーの挑戦者は小林だけ。
全日と喧嘩して新日の提携を選んだことが、国際崩壊の引き金になったのは間違いないな。 全日とそのまま組んでいても、どっちみち潰れたでしょ。 12チャンネルという生命維持装置で生き永らえていただけで12チャンネルに切られて終わった
ただこの当時の詳細が明らかになってくると打ち切られてもしょうがないかって見方に変わってくる
吉原がTBSにも12チャンネルにも全く気を使っていなかったって話だからね >>787
テレビ局ごときに頭を下げるなど死んだ方がマシだって感じだからな
だからお望み通りに団体も本人も死んでしまったというだけの話 テレビ局はギャラを払ってくれて、しかも宣伝までしてくれる最高のスポンサーなのに。
何を勘違いしたのだろう。 小林が辞表を提出し、TBSがテレビ放送を打ち切ることを発表した74年には
日プロと同様、国際も崩壊するのではという噂も流れたんだよな。
ところで、草津の嫉妬によるパワハラは小林だけが被害者なのかな?
本当は自分がエースになるはずだったのに、
すぐに自分を追い抜いていった小林がそんなに許せなかったのか
実力も大した実績も無いくせに練習嫌いって、救いようがないくせに…
小林が辞めた時点で草津を処分すればと思うが、営業力だけはあったらしいからな〜 酔わせて寝込みを襲って、掘りまくって屈服させればよかったのに その時点でもし国際が逝ってしまっていたら
小林の居る新日には行きたくないし小林も来られたくない。
かといって全日に行けるレスラーはきわめて限られている。
草津木村らの国際残党と大木上田らの日プロ残党の寄せ集めで
たまさかの間、インデペンデント団体ができていたかもしれない。 大木上田と草津木村井上の合流は
意外に魅力あるね。
結局、後の国際の陣容が早めに集結ってだけだがw
でも早めであることにも意義はある。 >>790
稲妻二郎の海外派遣も草津がストップしたという噂 @吉原さんは集金力のある草津を重宝し過ぎて、現場の仕切りまで草津に任せて小林の
引き抜きに繋がったのは誤算だった。
Aもっとも小林をシングルとタッグの2冠王にしたにも拘らず小林は馬場や猪木には
及ばなかった。 馬場や猪木に並ぶ集客力のレスラーなんて、そうそうはいないしその時代には皆無だろ?
それ以降の時代でも、全盛期の佐山タイガーやFMW絶頂期の大仁田ぐらいじゃないか? >>797
小林にシングルの連続防衛の日本記録を作らせたり、タッグ王座と併せて2冠王にしたのは
そういう意図だと思うけど。ただ小林に結果的には相当な負担になっただけなので可哀想
ではあるな。 馬場も猪木もいない団体に、あれだけ肩入れしてしまったTBSが無謀なんだよな。 >小林をシングルとタッグの2冠王にしたにも拘らず
馬場や猪木だって、日本プロレス末期や新日、全日の初期はシングル、タッグの2冠王だった。
猪木なんか3冠王時代もあった(UN,インタータッグ、アジアタッグ)
小林がIWAの2冠獲ったって、、(苦笑) >>801
国際は基本的にシングルとタッグの王者が別なんだよな
後には新日本も踏襲するが切っ掛けは小林の移籍だというのも面白い >>799
ヒーローは我々が作り出すだっけ?
最初の草津が失敗して、そいつがマッチメイクしてんだから無理だよな。 後の沢村、具志堅、鬼塚、亀田兄弟を見れば「スターは我々で作れる」がTBSの体質
上手く行った草津が沢村だったわけでTBSは草津をああいう風にしたかった 1981年(昭和56年)4月23日
初代タイガーマスクVSダイナマイト・キッド
初代タイガーマスクのデビュー戦
あれからもう40年 東京プロレスが崩壊してから所属選手は日プロと国際に移籍するわけだけど
豊登猪木に次ぐ実力者とされた斎藤昌典を獲得していればどうなっただろうね…
それでもTBSは、草津と杉山の2本柱でやるつもりだったのかな?
804氏の言うようにスター性を考えると、やはり草津に託すんだろうな
TBSはプロレスを表面上理解しているようで、プロレスを舐めきっているからなぁ >>804
K−1MAXのマサトもそうでしたね。
失敗したのは草津だけでは。 >>802
黄金コンビの同等の扱いという当初の名目が崩れ、猪木の一枚看板が確立した時期
だったから坂口・小林の北米タッグは挑戦者の質が落ちた(シン、パターソン、コロフと
いったNWF挑戦者が挑むこともあったから後の坂口・長州時代よりはマシだが)
それが響いて新日はタッグのマッチメイクが下手になりタッグリーグに関しては最盛期
でも潰れかけた全日を上回ることができなかった
タッグ戦線は二線級っていうのは奇しくも新日と提携したWWFと共通するね
たまにエース級が王座についてもすぐ返上したり、パートナーとの仲間割れアングル
につながったりする >>802
>国際は基本的にシングルとタッグの王者が別なんだよな
小林の2冠以前、T杉山もIWA世界王者時代(70年5月〜71年3月)は
IWA世界タッグ王者でもあった(with草津)。というか70年9月までは
ヨーロッパタッグも持ってたんだな。
杉山以前のIWA王者は、外人のビル・ロビンソンでタッグ王者まで
任せられない。
国際でシングル、タッグ王者が別れたのはR木村、75年以降だな。
まぁその頃から、新日も猪木がシングル王者(と異種格闘技)に
専念して、タッグは坂口&小林に渡したわけだが。 >>809
>国際でシングル、タッグ王者が別れたのはR木村、75年以降だな。
訂正しておこう。
「74年のマイティ井上から」 >>809 >>810
73年からIWAシングル=小林、タッグ=草津・木村だが
その前にもシングル=小林、タッグ=杉山・木村という時期もあった >>806
マサ斎藤が真価を発揮したのはアメリカに渡ってキンジ渋谷とのタッグで経験積んでから
東京プロレス時代はレスリングはともかく、客を引き付ける実力とかはまだ無かったんじゃないの マサ斎藤の容姿でエースはさすがに無理だろ、しかもロンパリだし。 >>813
マサ斎藤はあのビジュアルで身長も180弱しかなかったからね(レスリングの技術は保証書付きだけど)
アメリカでは「日本人はチビ」が常識だからマサ位の身長の方が日系ヒールらしくてハンデにならないんだとか >>814
大きくみえたけど、身長高くなかったんだな。
マサはイケメンではないけど、漢としては最高だし格好いいよ。 ラッシャー木村とは日プロ時代同期なのに、東京プロレス旗揚げでマサは猪木豊登の次でセミ級の扱い。
かたやラッシャーは中堅ウロウロしてた。上田と国際に参戦した時
国際をバカにした発言したのは「木村がトップの団体なんて」という侮りがあったのではないか >>816
木村についてはちょっと極端な見方だな
日プロでの木村は完全な前座レスラー
東プロでは先輩のマンモス鈴木、田中、高崎山らを差し置いて四番手に据えられ
パワーズら外国人とも何度も戦い、メインのタッグ戦にも出場している
(猪木、豊登、斎藤以外のメイン出場は木村だけ)
日プロ時代の扱いからすれば、夢のような大抜擢 アマレス出身者の成長が早いのはプロレス入り前にプロレスに必要な技術を習得済だからなんだそうだ
力士の場合は倒れると負けの相撲から後ろ受け身のプロレスに転向するわけだから時間がかかる >>819
杉山はアマレスのテクニシャンをひけらかし先輩レスラーをスーパーリングで圧倒するも
その後、報復された。斉藤はそんな事をしなかったの先輩達の受けは良かったらしい。 >>820
門馬が言うにはかわいがり(しごき)が酷くて、いつも鼻血を出していて東京プロレス
に行ったのはそれが一因との話だから単に斎藤が我慢強いられていただけじゃないか。 日プロ期待のホープ五人衆のうち、坂口だけはイジメられた経験談が無いな
杉山、草津、マサ斎藤…ラッシャーも本人が黙ってるだけでかわいがりは受けたのでは さすがに元柔道日本一をイジメるキチガイはいないだろうな。。w >>825
坂口と対戦経験のあった柔道の先生が「凄い力だった!」と話し晩年に坂口と戦った
橋本も力の強さを話していた。合法的に^木や坂口と言う「社長と副社長」を殴る蹴る
できるのは爽快だったともコメントしていたw ラッシャー木村は猪木のボコボコにされる役しかなかったからな
それなら最初からプロレスやらないで、永源と吉本新喜劇でもやってればよかったのにな https://pbs.twimg.com/media/EzwEmCWVgAEgJJM.jpg
ラーメン再遊記の作画担当ってプロレスラー描くのヘタクソやな
キューバンアサシン以外似てなさすぎる >>825
大学卒で旭化成に就職した柔道界のエリートを誰かの付き人として、扱き使うなんて
出来ないでしょう。坂口と鶴田は特エリート待遇のツートップだな。 空手対プロレスとか柔道対プロレスとかやったら・・
いや、草津が却下するか 例の坂口との一戦も「史上初のラグビー対柔道の異種格闘技戦ですよ!」
これならラガーマンの血が燃えて試合してたかも
おだてに弱そうだし草津 >「史上初のラグビー対柔道の異種格闘技戦ですよ!」
確かにセンセーショナルな売り言葉だが、柔道日本一に対する草津の売りは何だろう?
一応はラグビー代表キャップ1だろうが、当時のラグビー界の認識では圧倒的に阿修羅が
上。こりゃ坂口から『草津じゃ役不足』と拒否られるな。 >>833
草津役不足なんていうかね?
力不足ならわかる オールスター戦で坂口とのシングル戦から逃げた男、それが草津
グレートの異名が泣いてるぜ 旅館で小林に小便入りビールを飲ませようとした男、それが草津
グレートだぜ 小林や杉山が離脱後、一時国際のリングに上がったが試合以外の控室とかで
旧交を温めるなんてことはあったんだろうか。顔を合わせて一言二言のあいさつ程度かな。
それすらもないとかw 今どきだと例えばYoutubeチャンネルで袂を分かったもの同士が仲良く?
思い出話とかしてるが、そんな時代でもなかったのかな。 生きてたら草津のYoutubeチャンネルとか見たかったw
そういえば、昨日は原の七回忌だったな 年齢的な面で昭和世代のレスラーだとさすがに猪木はもうあんな状態だし、
浜口あたりは何かチャンネル開設やってほしいな。国際の裏話とか聞いてみたい。
かつての盟友の長州はすっかりユーチューバーだし。。 菅原の奥さんが国際の存命メンバーを集めてトークショーをやりたいとツイートしている >>837
円満退社の杉山はともかく、ストロング小林は木村に勝ちっぱなしのエース状態のまま離脱して
新日に移籍して猪木に惨敗したんだから、国際の連中は恨み骨髄だろうに その原因となった草津のイジメを放置した国際側にも問題が、と話がループ >>840
>>841
マイティは色々ぶちまけてくれそう >>842
それを言ったら草津を無理矢理エースに据えようとしたTBSまで遡る >>844それをいったらTBSに主導権を握られまいと草津をテーズの生け贄にした吉原社長 (ループ) >>845
流智美の記事では草津KOは「キャリア2年そこそこの草津をテーズに勝たそうなんて
TBSはプロレスを舐めている」という綺麗ごとにされていたが実際はただの主導権争いだよね
吉原が草津の後に売り出したのがその草津に舐められていたボディビルあがりの小林で
その小林に連勝記録まで作らせたんだから まあ、草津も不運な部分はあるよな
東郷にしろ吉原にしろ、レスラー草津のその後のシナリオを明確にしてやれなかった。
あと吉原が(バーター?)で団体を左右するマッチメーク権まで与えてしまったことかな 吉原社長の経営者としてのダメさはECWのポール・ヘイメンを髣髴させる
ECWよりはずっと長く国際はもったけど >>848
茨城ほどではないにしろ、プロレスが好き過ぎて採算後回しになるんだろうね。 茨城はさらにスケール下がるがタイプとしては同類ではあるねw
団体作らないかと言われ思いとどまったウォーリー(ピラニア)山口は正解 吉原はプロレス好きじゃないだろう
レスリングは好きだが 『東京12チャンネル時代の国際プロレス』。吉原社長はいい人だったかもしれないけど
経営者としては絶望的にダメな人。
せめて、いい人ですらないダメなマッチメーカー(グレート草津)を切れんかったのか。 多少なりとも算盤はじける草津は、吉原社長にとって都合がよかったんだろ。 東京12チャンネル時代の初期の頃は視聴率も8〜10%くらい
あったんだよな >>852
興行会社にとっての営業とは興行を売ること
トップがやる営業活動とは興行主との関係作り
吉原はそれを草津に丸投げしてた
新日なら新間や大塚ら営業幹部が仕切り、レスラーを酒席に呼んで興行主を接待していた
国際は草津が全部やっていた
草津はそれが好きなので、吉原とは、いわば共依存の関係 >>855
ご当地プロモーターとの接待は普通のレスラーは仕事と割り切ってやってたけど
草津は素で酒を飲みたいがためにホイホイと酒宴に出向いてた
そら吉原社長も「草津よ今日も頼むわ」ってなるわ >>854
初期の頃は月曜午後8時放映だよね。
日テレは「紅白歌のベストテン」、TBSは「水戸黄門」か「大岡越前」を裏で放映していたのに、そんなに数字取っていたんだ。
意外、驚いた。 TBS打ち切りになった後、12チャンネルが拾ってくれたからこそ国際が存続できたのに、
吉原はネットの少なさを馬鹿にするような発言ばかりしていたんだよな。 >>858
まさに最低の恩知らず
それでも放送を続けた12チャンネルの方が聖人にすら見えてくる 12chだと放映地域のない場所は苦戦しても仕方ないけど、後楽園、横浜文体、大田区
川崎市体育館辺りで客が入らないのでは赤字で金回りも厳しいだろうから、尚更12ch
の放映料が命綱だったのに。 吉原は70年代の王者だったTBSに対しても
「TV局が現場介入するのは許さん!」と草津KOにGOサインを出したんだから
全くブレていない >>861
ならば死んでも本望だったろうな
だから同情も一切しない >>858-862
当時、12チャンネル運動部長だった白石剛達氏は、国際プロレスの放映に否定的だったけど、諸条件(女子プロレス中継、テスト特番の視聴率等)をクリアしたので放映を認めたんだよね。
「東京12チャンネル運動部の情熱」を読まれた方ならご存知と思うけど、白石氏は、プロ野球、海外サッカー、ボクシング世界ヘビー級戦といったメジャーなものから、キックボクシング、ローラーゲーム、果ては子どもの徒競走といった新興、マイナーなものまで、とにかく手がけたものには情熱を注ぐ人で、国際プロレスのシリーズの流れやマッチメイクについて、放映する側からの案を考え意見していたようだ。
テーズ対草津戦の一件から類推するに、吉原氏は、こうした白石氏の意見提案を、TV局の度を超えた現場介入とみて、疎ましく感じていたのではなかったかと思うね。 >>863
度を超えたというより分を超えたと思えてそう
金を出すなら口を出すのも当然だろうに 草津はよく汗かいてた印象。
酒飲み過ぎだったんだろうな >>838
草津のYoutubeチャンネルがあったとしても、草津が自宅で酒飲みながら自慢話して終わりだろうな。それも、ラグビー選手時代の話ばかりで、プロレスの話はほぼゼロ。 以前、息子がオヤジの名前そのままでK1に出てたが今どうしてるんだろ。 >>870
引退しただろ?親父生きてるうちに引退したんじゃなかったかな? ああ辞めちゃったんだっけか。身体はまあまあデカくて見栄えはあったが
それほど活躍した記憶が無いな。 https://pbs.twimg.com/media/DYU0d_iVAAAxskQ.jpg
ドチビ揃いの国際プロレス勢で、草津だけが群を抜いて背が高い
TBSが彼に期待を寄せたのは無理もない。見た目では性根まではかれないからな >>874
この写真だと、ストロング小林との身長差も大きいな!
公表では4cmしか違わないはずなのだが(草津192、小林188) しかし、草津は、胸や肩が薄い。
同時期、日プロの猪木や坂口に比べたら
明らかに見劣りするよ。
まぁ、馬場も薄いが、身長が規格外にあるからな。 草津はラグビー時代の計測189cmが実寸だろう
小林は182くらい
あと草津は練習どころか試合前のウォーミングアップもぜず
背広から着替えてすぐリングに上がるので
コールを受けて手を上げてから腕時計をしてるのに
気づいて外すことが何度もあったらしい 今晩8時からスカパーのテレ朝チャンネル2で国際プロレス特集あるで
佐々木健介vs高杉正彦なんてレア試合も 浜口の入団はもう少し後か。井上と浪速ブラザースとか一部言われたが
あまり関西のイメージがない。ということでウィキで出自見たら結構な生い立ちなんだな。 >>880
あ、ごめんなさい、知りたいのはさらに右の中腰の人についてです
ありがとうございます >>877
小林の映っている角度とフジイの角度から見れば、小林は185cmぐらいはあると思う。 青梅線で見たストロング小林の巨大なスキンヘッドに驚いた思い出
あの頃は金剛だったのかな 杉山や井上はパンパンなのに草津の鍛えて無さ加減は余計に目立つ。 佐野浅太郎だっけ、肺の病気で引退した人。
あの人も写真で見る限りだけど、デカいなと思った。 杉山に草津くらいの身長があれば、吉原もテーズも東郷もTBSも認めるエースたり得たのにな。 >>890
杉山は身長もさることながら顔がなぁ。
いや、プロレスラーとしてなら個性的で良いんだが、
エースとなると、、 >>891
弁慶杉山に対する牛若丸がいなかった国際プロ 井上エースもリリーフという感じでさしてエピソードを残すこともなく、半年ほどで木村にチェンジ。
せいぜいガニアとのダブル世界戦がその後の記録(記憶)に残るくらいか。それ以外の防衛戦はRスチーブンスとDリンチだけ
巡業でメーンを張るのは相変わらず木村や草津が殆どだったようだ。 >>893
井上をエースにしたのは、金網デスマッチの多い木村や、TBSプロレス旗揚げ時のイメージが色濃く残る草津はエースにし難いという、12チャンネル側の考えがあったのだろうな。
ところで、TBSでは金網デスマッチの放映はNGだったけど、12チャンネルはいつからOKにしたんだろう? >>894
12chの運動部長だった白石剛達さんは井上は太り過ぎではと吉原さんには言った
とかで、田中さんも木村や草津が対抗戦とかで負けるのは視聴率的にはきつかったと
の事なので、実質はこの二人のダブルエース体制だった。金網はレギュラー放送開始
前の特番枠でOAされたみたい。 >>895
レギュラー前の特番枠では金網は放送していない。放送されたのは鹿屋での木村対ザ・キラーのチェーン・デスマッチ。
12chで金網が解禁されたのは50年6月8日大宮スケートセンターでの木村対カマタ。 >>895
> 12chの運動部長だった白石剛達さんは井上は太り過ぎではと吉原さんには言った
太り過ぎじゃなくて小さいだろ。 猪木の容態が話題になっているが
ストロング小林はどうなんだろ?
元気なら、来年か再来年の新日本50周年パーティーには
ぜひ顔を出してほしいね。
新日にはいい思い出がないようだが、少なくても幹部待遇だったんだし
金銭面ではよかったはず。
ガン末期の吉原氏に面会して和解したように、最後はいい形で
ケジメをつけてほしい。 新日創立20周年記念で坂口に呼ばれてシン上田とエキシビションマッチをした時
猪木は挨拶に来ないし、試合後の京王プラザホテルでのパーティーでは紹介もしないで放置
「何のために呼んだんだ人を小馬鹿にしやがって」と怒り心頭だったから
新日のイベントにはもう来ないんじゃないの 死人に口なしで、エースのまま国際離脱というプロレス史上稀な大罪を自己正当化してきたのがストロング小林
過去の小林のインタビュー読むと、新日20周年パーティーどころか、少しでも自分の扱いが悪いと不満たらたら
何があっても、悪いのは全て他人
オレはこれだけのことをしてやったのに、あの人はオレに対して、というのが小林 いくら防衛回数伸ばしても人気に限界があった小林
ビルロビンソンにも人気負け
ラッシャー木村への世代交代が実現してしまうと、このまま国際で沈んでいくことへの危機感
そこで役員待遇まで取り付けて、猪木相手に寝ることを選んだ小林
オールスター戦で、素直に木村に花持たせてやるくらいの恩返しすればいいのに、負けても勝ったのはオレとアピール
どこまでも最低のがオールドファンにとっての小林 今日は何の日とかよくあるが、40年前の81年5月4日は鋼鉄鷲エラリングとラリーレイザム組が
木村&井上を降して、浜口の内臓疾患で返上してたIWAタッグ戴冠した日だぞ。
さあ8月まで今日はこの日は40年前の〜〜ってレスが。。大してなさそうだなw >>905
木村の最後のIWAタッグ戦だな
井上とのコンビのタイトル戦も唯一で >>905
エラリングと組んでIWAタッグ取ったのは
ラリー・ラザン(レイザム)ではなくて、テリー・ラザン
ラリーは国際への来日を2度キャンセルしたムーンドッグ・スポット >>901
そういうとこやっぱりメンタルがオカマだなあ 小林は木村・草津よりは学年は一学年上(草津は木村より一歳年下だが早生まれ
なので同学年)だが、レスラーデビューだと木村・草津・小林の順。旗揚げメンバーの草津と国際デビューの小林、東京プロレスから移籍の木村と複雑な関係が
垣間見える。 >>904
Gスピリッツのロングインタビューに応じたTBS・森Pは悪名が耳に入っているらしく
反論できて「長生きして良かった!」と述べていた。 >>909
小林だけじゃなくてプロレスラーはそういう人が多いよ
女みたいに被害者意識が異様に強い
上田、カブキ、長州、前田、天龍 小林は猪木、シン、上田のことは誉めている。
まっすぐなファイトで気持ち良く試合が出来たと言ってる。
客から見れば好き勝手ばっかりやってるように見える三人だが
そういうことを言えるあたり
小林はプロレスラーとしてのセンスはやっぱり高かったんじゃないかと思う。 つか猪木は少なくとも小林と戦った頃はだれが見ても相手を持ち上げる
ファイトのできるレスラーでしょ
小林が対戦したレスラーでも屈指の大物のブルーノも実は大したことない
二流ヒール相手に苦戦を演じて大悪党に見せる技量のあるレスラー >>915 の続き
だから、1971年末の猪木日本プロレス追放事件の時も、経営体制の刷新を計画した馬場、猪木、上田の3人のうち被害者意識が異様に強い馬場と上田が結託し、結果的に猪木に泥をかぶせて追い出す形になった。 実際に馬場達の知らない間に木村昭政という胡散臭い人物を引き込んだのに
「被害者意識」とか言われても
アゴヲタは息を吐くように馬場の悪口を言うなw >>913
猪木のことって褒めていたっけ?
俺が読んだインタビューでは、猪木戦は自分が引っ張ってやったとか
猪木はアメリカでは通用しない、自分はメインを取ったとか
言ってたような記憶があるけど。 >>918
Gスピのインタビューでは凄く誉めてる。 キラー・カーンも女みたいな執念深い性格だよな
「長州はプロレスがわかっていない。俺はアメリカで一流だった。」とか似たような事を言っている 新日に来た外人レスラーにも新日でまともなプロレスができるのは猪木だけ(後には猪木
と藤波だけ)ってコメントするやつも多かった
武藤いわく、自分はちゃんと普通のアメプロ出来るのに弟子にはガチ風味の変なプロレス
を強要w モローは猪木と藤波は相手の技もきちんと受けてくれるけど、坂口、長州、健悟は
攻めてばかりで受けてくれないと カーンは轢き逃げの釈明で馬脚を晒したな
店も遂に閉店に追い込まれたし、何十年もネチネチ人の悪口言ってきたツケが一気にきたな カーンは店で尾崎豊が常連客だったことがどれだけプラスに
働いたか。集客も手伝ったし「ああ見えていい人」みたいな
イメージも付くし 小林は猪木よりもむしろ坂口と合わないだよな。
タッグを組んでも坂口は自分がいいところばかりとって
自分を引き立ててくれないとか。
坂口はプロレスに関しては常に一歩引いてというスタンスだったけど
小林に対しては違ったんだな。 >>923
ひき逃げ事件の顛末はどうだっのかな?
示談で終わったのかな? >>925
> 坂口はプロレスに関しては常に一歩引いてというスタンスだったけど
> 小林に対しては違ったんだな。
いやタッグに関しては猪木と組んでも同様のスタンスだったから
猪木も坂口とのタッグは嫌がって解消した。 >>917
木村は猪木のスケープゴードの典型だよな
思わせ振りな口で動かして上手く行けば乗るしヤバいとなれば切り捨てる >>921
そりゃ自分だけのアドバンテージにするためだろう 全日よりも来日外国人で劣っていた新日でアメブロやってたら
全日の上に行けなかったであろうことを考えたら新日格闘技風
路線もそんな間違いではなかったのでは
1970年代中期以降は全日や国際よりも新日の勢いが上だったのは 途中で切れた
1970年代中期以降は全日や国際よりも新日の勢いが上だったのは
確かだったし >>930
> 全日の上に行けなかったであろうことを考えたら新日格闘技風
> 路線もそんな間違いではなかったのでは
UWFが本当はプロレスだったように
その路線も本質はアメプロと同じだったという事だろ。 >>932
あくまで硬派を装ってたに過ぎないわけだがその装いこそが肝心ってとこかな UWFもプロレスだったのは確かだけどそれがアメブロと本質が同じだったとは
今まで一回も思った事がなかったな
個人的にはアメブロスタイルは昭和50年代迄の全日みたいな昔からの正統派な
プロレスだと認識していたので
全日の練習が受け身八割攻め二割くらいで新日が攻め八割受け身二割と
言われた違いがあるようにスタイルの違いは確かにあったし >>934
UWFがアメプロと同じとは言ってない。
新日本プロレスもアメプロと同じではなかったかもしれないが
猪木のプロレスはアメプロだった。 当のプロレスラーがガチンコの強さを自慢するのと同じでファンも同様にガチ信仰
あるから、何せ村松具視がストロングプロレス(新日)とショーマンプロレス(全日)
と言っていた本を出していた。後の直木賞作家だし。 国際スレだしという訳じゃないが、一番アメプロらしかったのは国際だろう。
IWA選手権をめぐってスミルノフとベーカーが仲間割れでチェーンマッチ対戦とか
前座で女子の試合を組むとか、ベンチプレス合戦や末期には女子マネも登場した。
米マットの、檜舞台というよりはローカルな、言い方悪いが場末的なB級臭さが持ち味だったな。 Uの話題が出たので…
つべに後楽園での前田vs空中がUPされてるな
空中って国内外含め何試合くらいやってるんだろう
意外に身体は出来てるね https://pbs.twimg.com/media/DXHIq-hVMAEXHH6.jpg
選手入場時に音楽をかけるという演出。デスマッチ路線。ジュニアヘビー級クラス設立
国際プロレスはいろんなジャンルのパイオニアだが、悪役レスラーから実況席を守る
ネット設置は誰にもマネされなかった 動きとかよりもベビーとヒールがはっきり決まってるのがアメプロ
そういう意味では猪木はアメプロ そもそもタイガージェットシンと抗争してる時点でどう見てもアメプロなんだけどな。 >>940
旗揚げシリーズからして「パイオニアシリーズ」だった。命名したのは鈴木庄一氏と
言われたが違うと言う話もあった。
>>942
ゴッチ流のストロングスタイルより視聴率が取れて観客動員にも貢献したのはシンの
流血狂乱ファイトだった・・・ プロモーターからすれば名前ばかりのチャンピオンやファイトスタイル云々より人気のあるレスラーが一番重要だから >>943
そもそもゴッチがガチガチの石頭だったってのが疑わしい
キラー・カーンのギミックを考えてコスチュームの下絵を描いたのがゴッチだ
初来日の時点でパートナーのロニー・エチソンの反則に怒って
途中から日本組に加勢するという臭い芸をやっていたわけで カール・ゴッチはメキシコで何回もルチャやってるよな >>945
レネ・グレイとタッグチーム組んでWWWF王座に就いてた時期もあったくらいだし ピエール・レマリン
ベルギー出身のドイツ人風フランス人 ゴッチはメキシコ遠征を何回もやってて
現地で試合とともにプロレス教室も開き、まったく血縁関係がないメキシコ人の
カール・ゴッチ・ジュニアという弟子のルチャドールまでいた >>949
ゴッチJrをジョー・マレンコが名乗った 猪木戦のラストで四方のお客様にドイツ式敬礼ポーズをしていた>ゴッチ >>947
>レネ・グレイとタッグチーム組んでWWWF王座に就いて
それは別に良いだろ?実際に72年頃、テレビの「プロレスアワー」で
防衛戦も見たが、現在のWWEとは違い、スタンダードなプロレスだった。
ゴッチが、「イカガワしいプロレス」をやったのは
1967年ロスでWWA王者大木金太郎に挑戦したマイク・デビアス
(当時、ゴッチと組んでWWAタッグを保持)に加勢して、リング外から
大木の脚を引っ張ったということだな。 >>954
うん、72年のプロレスアワーはリアルタイムで見たが、
さすがに67年の大木対デビアスは知らなかった、
そのくらいの年代だが、60前後と言ったおこう。
その年代は、この国際スレでは、珍しくないと思うがね。
俺だって、力道山がプロレス入りした時を、リアルで
語っている人がいたら「この人は、いくつだろ?」と思うがね。 >>955
先輩に敬意示します。
こちらはタイガーマスクのちびっ子ファン世代ですが、
10年ほど前に、日本プロレスでアルバイトで試合をしたと言う御仁に話を伺う機会がありました。
その方、存命なら90近いです。 ロビンソン教室を見学するため猪木が国際の合宿所に来て、
ヤス・フジイが他団体でも先輩だからと猪木に挨拶すると、
国際の先輩に「なんであんな奴に挨拶すんだよ」と怒られる。
一事が万事こんな感じで国際は嫌だったなんて藤井の面白いインタビューがあった。
ゴングのインタビューを集めた豆本だったかな。ああいうの復刻してほしいな。 挨拶したのが功を奏したのか、その後新日のリングに上がったな。リングネームはマシン3号だったが。 国際三羽烏のヤス・フジイは、小林、井上に比べて海外の実績しかない上に
他のレスラーからの評判が悪いわ、悪名高いシャチ横内を尊敬してるイカレタ性格だわと
プロレス人生の裏街道を歩いてる印象だなぁ。レイスの奥さんに手を出したというのはガセだったけど >>962
その三人を国際三羽烏だなんて聞いたことないし
意味合いとしても間違いだろ
三羽烏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三羽烏(さんばがらす)は、ある集団において特に優れた3人を指す言葉 中学生(1980年)の頃、担任の教師がその15年程前に、別の中学でヤス・フジイが教え子だった
というのを授業中話してた。曰く
「昔、藤井という体はデッカイけど気弱な生徒が居てな。そいつ今ヤス・フジイなんて名乗ってプロレスラーやっとる。
ホンマ人生ってわからんもんやで」
との事だった。 >>952
> 国際でも"ゴッチ教室"やったのかなぁ
ゴッチが一番気に入ったのは浜口だって
熱心だったからだろうね >>963
正式な意味としては間違いかもしれんけど、プロレスは大した実績ないレスラーでも
安易に三羽烏って言葉を乱用するんだよ。
全日三羽烏の大仁田、渕、園田とか
新日三羽烏の棚橋、柴田、井上亘とか ロスにいた時は藤波にチョッカイ出していたから、てっきり新日に上がる前提なのかと
思っていたが、まさかの古巣への参戦だったフジイ。ロスではドクター・ヒロ・オオタ
とかだったか。 まあどのみちフジイはマシンで新日に上がるけどな。
何となくだがフジイはカーン(小沢)とイメージが被る。
身体も大きく海外経験豊富で、ちょっとひと言多いのとかw >>967
プレ日本選手権に参加がほぼ決定だったがグリーンカード取得のためアメリカから離れられなかった
まあ出てても最下位争いだったろうけど アポロ菅原 youtubeデビュー。
滑舌もいいし話の流れもスムーズで聞きやすかった。 藤井ってヤマヨシに似てるよね
あの時代の人にしては目がパッチリでクリクリしてる
身体もあるし、ルックスだけならエース格でも不思議ではないんたけど… >>895
レギュラー前の特番枠では金網は放送していない。放送されたのは鹿屋での木村対ザ・キラーのチェーン・デスマッチ。
12chで金網が解禁されたのは50年6月8日大宮スケートセンターでの木村対カマタ。 デビューの頃の藤井の戦績を見ると期待されてる感がまったくない
当時の前座は同期の井上に寺西、大剛、大磯、紫らだが、紫以外には全敗に近い数字
さすがに紫にはたいぶ勝ち越してはいるが、それでも結構負けてる
まして小林とは一度も対戦した記録がない
小林、井上、藤井が国際三羽烏だったとか寝ぼけたこと書いてるのがいるが
デビューの頃からまったく格違いの扱いをされていた ストロングやマイテイと比べて、ヤス・フジイがダメだった事なんて当然知ってる
デビュー時期が同じなのをフリーライターがただ三羽烏と表現しただけ
それをそんなにムキになって否定するほどの事項かな あのさ
国際初期の新人三羽烏が小林、井上、藤井だとかいうならわかるよ
但し書き無しの「国際三羽烏」がその三人って、自分で書いてて変だと思わない? >>977
横からだがそのくらいは想像つくと思うが。
大仁田 渕 園田の三人が全日で若手三羽烏と呼ばれていたので
そういう意味あいだとすぐ思ったぞ俺は。 >>977
俺も横だが全く変だとは思わん
正規の意味がどうだかは別にしてプロレス界での三羽烏っていうとその団体で世代が近い印象に残る三人がいる時に使われる感じだ
日プロなら馬場、猪木、大木
全日なら大仁田、渕、薗田
ちょっと古臭くなった三羽烏という言い方をアレンジして成功したのが闘魂三銃士だろうが
俺も国際の三羽烏って言われたら
井上、藤井、小林の旗揚げ後まもなくに入門した三人が頭に浮かぶわ 思えば、ストロング小林って、デビューして2年(69年)で、
海外武者修行を終え、タッグ王者として帰国。その年の秋には
シングル王者(USA)にもなっている。
J鶴田も、ずいぶん「促成栽培」だと思ったが、それ以上だな。
まぁ、デビュー1年半でIWGP王者になった中邑には負けるが。 阿修羅は77年11月入団で1年足らずで遠征先で英連邦ジュニア戴冠だからな。
さらに凱旋して79年5月にWWU世界ジュニアだし、まあ年齢もあるがかなりの急ぎようだったな。
日本人のエース格は力道山以来、逸材というかスポーツでのかなりの前歴を持ち合わせたレスラーが揃う中
猪木と藤波はほぼ中学レベルの競技だけで入門、まあ「叩き上げ」なんだよな。 ヒロマツダ→グレート草津→サンダー杉山→ストロング小林→マイティ井上→ラッシャー木村
国際プロレスの安定期は、誰がエースの時期なんだ?
マツダや草津はエースといえないと思うが… >>981
その叩き上げの藤波のフィジカルにスポーツエリートの阿修羅が舌を巻いたってんだからプロレスは面白いですなあ >>979
マスコミから大仁田、淵、薗田は「三馬鹿大将」とも言われていた。 海外での試合でも良いからストロング小林vsジャイアント馬場が見たかった タッグならフロリダで6人タッグで組んでるけどな
1974年6月25日 フロリダ州タンパ
○ダスティローデス、ジェリーブリスコ、ドンムラコ VS
ジャイアント馬場 コリアンアサシン(小林) ザ・サモアン● >>986
馬場vsサンマルチノ いや、馬場vsイワン・コロフのような試合になるかな? >>975
木村と草津のイニシャルが同じな事をスレタイ見て気づいたw >>990
小林は省三だからSKだろ(今はKSか?) 大木金太郎は全日で観客動員に一役買ったそうだが
国際でもそれなりに貢献したようだ、とくにタニマチが多くいたとかで 国際参戦時代の大木金太郎の入場テーマがダサかっこいいんだよなあ〜 >>993
プロレステーマ曲の中で一番だと思うけどな。
俺がレスラーなら使いたい。 >>993
Cozy PowellのCOSMIC HIGHWAYか? >>996
多分そうだよ
石川がパクってたけど、使いたくなる気持ちわかる 大木、木村対ブルーザー、ストンパー組の入場シーンのユーチューブ動画
セコンドの若手がロープを拡げて選手が入りやすくしてるんだけど
ブルーザーが「邪魔だどけ」とばかりに若手を突き飛ばす行為
どっかで見たなと思ったら、新日で鈴木みのるがやってた
みのるはブルーザーのサルマネしてたのか このスレッドは1000を超えました。
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