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セミが馬場対エド・モレッテイでは
舐めているとしか言いようがない。 ジャパンの自主興行広島県立がつべにうpされてるが二階席2〜3割しか入ってないな
メイン?がハンセンvsカーンだった >>291
あとはやっぱり上にも書いたけど時代的に経営陣の代替わりが大きいよね
昔は相当の大企業グループでもいわゆるカリスマ経営者・幹部や財界の大立者的な人がいて
彼らの意向は言ってみれば天の声だった
三菱電機の大久保謙もそうだしもちろん大正力やその薫陶を受けた番頭格の務台小林なんかもそう
逆に水戸黄門やサザエさんだって松下幸之助や土光敏夫が
仮に役員会で「時代劇やテレビ漫画なんか下らない、我が社にふさわしくない」とでも
ひとこと漏らしてたら恐らく続かなかった
70〜80年代にかけてそういったナショナルクライアントと言われるような
一流企業グループの上層部が徐々に戦後第二第三世代に代わっていって
彼らの多くはあくまで企業組織内の競争を勝ち抜いたサラリーマン社長だし一流大学卒のエリート
損得抜きに個人の一存だけでプロレス団体に過剰な肩入れなんて組織としてもはや許されないし
そもそもあの時代のそういうエリート企業人は子供時代から
ジャイアンツや川上長島王、裕次郎や若大将を応援することはあっても
毎週TVの前でプロレスに熱狂して「ぶっ殺せーっ!」なんて家庭の出ではないだろうからなw 1980年のレーティング most hated にファンクスがいる
http://up.ahhhh.info/eGoAcH.jpeg >>290
その翌月に同所で行われたUWFの興行よりも
発表数(5200人=満員)が少なかったもんな。 パナソニックなんてまさに「ナショナル」クライアントだな 旧・広島県立体育館のプロレス最後の興行は全日だったんだよね(90年のスーパーパワーシリーズ)
グリーンアリーナに変わってからは全日が使ったことあるんだろうか
小アリーナの方ならありそうだけど >>290
広島大会とは関係ないが、1984年の1番の不入りシリーズは、GCCUだと当時のファイトに書いてあったと思う
たぶんシンがエースのシリーズだと思うが。
ちなみに最終戦の川崎大会は見に行った、鶴龍vsシン上田のインタータッグ戦
目算だと七割ぐらいの入りだったかな? >>299
大ホールを使ったのは新日と他には94年に交流戦バブルだった全女と
大仁田引退詐欺のFMWだけ。 >>272
このシリーズに百田義浩が凱旋デビューしてないかな? 百田義、帰国後スタイガーにリングアウト勝ちとか一瞬、優遇されていた。
テレビ中継もオープニングくらい飾ったのでは。 簡単に比較しちゃいかんのかもしれんが
広島のカードを岡山でやれば少なくとも観客の数はたくさん入るんじゃないかと思ってた。
と考えたら岡山も記憶に残るカードなんか一切ないような気がした。 >>301
確かに川崎で鶴田天龍vsシン上田のインタータッグ戦やったけど
川崎は最終戦じゃないよ。
最終戦は後楽園ホールで、メインは日本初のイリミネーションマッチ >>303
ミスター林も、凱旋帰国第一戦はセミ前位の試合順でタンクパットン(ブラックテラー)と
両者リングアウトだったよな。 >>306
72年にデストロイヤーが日本で初めてUSヘビーの防衛戦を杉山相手にやった。
まだ日本陣営じゃない時(岡山武道館)
87年は鶴田とニックのインターと、龍原砲vsハンセン・ディートンの
PWF世界タッグを倉敷でやったはず。 >>271
読売巨人軍の選手にとって「後楽園」は特別な場所。 >>307
ああ、そうだったか?サンクス。
その日は裏にIWGP決勝だったよね、クローズドサーキットやるぐらいの人気で。
しかし猪木vsホーガンは結果的にあの顛末だから、ノーTVの全日を選んだ人達が勝ち組になるとはね。
まあ、暴動も含めて歴史の目撃者という意味では新日蔵前でも正解だったかもしれないけど。
川崎大会に話を戻すと、主催者発表では超満員になってたけど
どう見ても七割がいいとこで、満員表記でも怪しかったと思うけどねえ…
こう言ったらなんだけど、立地的にもカードのメンツ的にも超満員になるわけがない、当日は余裕で券が買えたし。 連レス失礼
川崎大会の時は「横浜文化ならもっと盛り上がったかも…」という心境を思い出した
ただ、横浜文化も全日はそこまで動員力はないイメージだけどね
全日の歴史上、横文で満員ってどれぐらいあるんだろう?
自分の観戦歴では1984最強タッグ決勝ぐらいしか体感してないんだけど?
あと、テリーさよならシリーズの時がまあ8割ぐらい埋まってたかな?
自分がファンになりたての頃、テリーがフレアーのNWAに挑戦した時は未観戦で入りはわからない
1985最強タッグの時はゴールデン昇格後で、ジャパンも初出場だったけど満員ではなかったね。 >>307
6月8日川崎の主催者発表は5,500人超満員
メインは、体調不良を理由に馬場が返上したインタータッグ王座決定戦
鶴龍vsシン&上田は、両軍反則のドロー
14日最終戦の後楽園は3,100人満員
セミで井上がGジョーをオースイ・スープレックスでフォールして、
インタージュニアを2度目の防衛
メインの8人タッグイリミネーションは馬場が一人残り、馬場鶴田天龍トンガの勝利 >>313
83年で井上vsジョーがセミも凄いが、これも井上のオースイ・ロールか? >>313
後楽園ホール3,100人発表って凄いよな、座席数の倍以上だし。当時は当たり前だったけど。 >>312
昭和でなく全日の歴史上なら、
1990年4月、最後の鶴竜戦は、当日券なし。
91年の鶴田対川田も、チケットが取れなかったし
その後も、93年頃まで、超満員だったよ。 >>306
90年以降になるとリーグ戦の時期ということもあるけど岡山武道館では
ハンセンvs川田、三沢vs川田、田上vs小橋、三沢vs小橋、ハンセン&ベイダーvs川田&田上
とか好カードを持ってくるようになっていた。 水増しはあったにせよ昔の後楽園ホールを見ると通路とかギッシリだった >>314
ジョーのブレーンバスターをかわし、バックに周り逆ネルソンから後方回転して
ブリッジしてフォールw >>316
ああ、その試合があったか
しかしその最後の鶴龍戦、セミも世界タッグでゴディウイリアムスvsハンセンスパイビー
三月の武道館とカードの質が逆じゃね?と当時は思ったな
三月は天龍ハンセンvsゴディウイリアムス、セミが鶴田vsウインダム
横浜の方が上だよね、ストーリーライン上の流れがあるから仕方ないだろうけど。 昔はプロレスもプロ野球も水増しは当たり前で、
主催者発表ほどいい加減なものはなかった。 うちの地元ではいつも満員だったよ、年に一回くればいいほどだけど。
地元?んー、ないしょ。 後楽園ホール
新日「超満員3200人」
全日「満員4000人」
ゴング三者三様で「記者はあの団体は二倍、あの団体は三倍、と言ってる」
と書かれていたけど、まあそういう時代 >>307
このシリーズの翌シリーズの前半戦の外人メンバーの顔触れは同年の新春シリーズよりハンセンがいる分ちょっとマシくらいのショボいメンバーだったな… >>322
うちの田舎はテレビマッチなら満員でそうじゃないとガラガラだった。宣伝カーにテレビ収録と大きく書いてた >>323
全日満員4000人はいつの時代だよw超満員なら5000人と書いてたのか?w
俺が見始めた82年頃だと後楽園ホールの超満員は3200~3400人で両団体の発表はほとんど変わらなかったと思う
でも一度全日が3600人超満員と発表したな、あれはテリーvsハンセンが組まれた時だったかな? 86年頃からは、新日の後楽園は2200人で札止めにしてたね。
同時期の全日はどうだった?
そう言えば、この頃の全日の後楽園って立見券があまり売れない日は
東西のバルコニー立見を開放しなかったよね。 蔵前だと
新日は超満員だと13000人で表記
全日の超満員は12500人、ただしテリーの引退試合は13500人で表記してたと思う
凄いのは愛知県体育館の新日、IWGPの時なんて15500人とか発表してた時があった
単純に「愛知は武道館なみに入るのか?」と思ってたよ。 昭和時代の西武球場は、最高で(プロ野球公式戦)50000人発表www 85年1月4日の後楽園ホール(18時30分開始)は、チケット完売だったね。
昼間の時点で当日券売り場に
〔本日の当日券は整理券と引き換えに販売します。尚整理券は全て配り終えました〕
という語句の張り紙がしてあった。
係員曰く、午前の時点で当日券売り場に多くのお客が並んだ為に、急遽整理券を配って
並んだ客を一旦解散させたらしい。
それを知らないオッサンが当日券売り場に置かれてる販売分(整理券と引き換え分)の
チケットを見て「券あるじゃねぇかよ!売れよ!」と係員に詰め寄ってたwww 因みに1月4日のカード
セミ前・谷津小林vsキッドスミス
セミ・馬場石川vsシン木村
メイン・鶴田天龍カブキvs長州カーン浜口 >>329
74年の猪木vs小林戦と大木戦は、蔵前国技館16,500人だったような… 後楽園の立見が消防法で200枚以上販売しては駄目という規則が出来たのは
平成4年か5年頃だよね?
それを逆手に取って、高い席を買わせる為に立見券は50枚
更に酷い時は20枚しか発売しなかった団体があったね。
WARの後楽園の当日券売場は立見だけ売り切れで
他の席は全て販売されてた事が多々あった。 色んな意味で、昭和、平成初期っぽい話題だw
今は、消防法もうるさいし、当日券が買えない試合なんてないしなぁ
西武球場のその昔、携帯イス持ち込みエリアだったっぽいゾーンは健在 >>335
新日の日曜開催の後楽園で好カードの時は当日券販売無しという興行は多いよ。
後、今年のG1決勝の武道館は指定完売後に発売された立見も前売で売り切れて
当日券販売無しだった。 >>329
愛知県体育館は7〜8000人ってとこじゃないかな? >>334
50枚はWAR、20枚はLLPWという噂 >>340
いえいえ、どういたしまして、お気になさらず。 主催者観客数発表は人数ではなく眼数とか嫌みが書かれてるのを読んだ記憶が
後楽園ホール4000人は1人に眼が2つだから云々って 87年10月6日の武道館大会
ブロディ 参戦の発表が遅すぎだよな。
せめて武道館の3~4日前に発売された週プロ週ゴンに
武道館参戦の記事が載ってカードも
ブロディ &ムーンドッグスvsタイガー&仲野&高木から
ブロディ &ムーンドッグスvs馬場&輪島&テンタに変更したら
かなり当日券捌けたよね?
当日の武道館はアリーナ→ほぼ満員、1階→6〜7割、2階→3割程度の入りだったけど
ブロディ 参戦発表が週プロ週ゴンに間に合い、カードも変更されてれば
アリーナ→満員、1階→ほぼ満員、2階→6割程度位の入りになったかな? 東京ドームなんて開業以来ずっと5万㈥000人でその後ちょっと遠慮して5万D000人が
ずーっと続いていてそれを読売新聞が紙面に乗せ続けていたぐらいだからな >>334
シッシーが「感動させてよ」で団体名を伏せて指摘してたな
JWPはそれを読んで改めたとか 渡辺美里の夏の西武球場二十年連続公演も最後の数回は客が半分も入らなくて水増しが凄かったらしい >>344
どうだろうね、あの頃の全日はジャパンが離脱して半年ぐらい…
良くも悪くもカードやメンツは抜きに全日ファンを離れない、会場にも変わらず来てくれる人が残った
だからブロディ参戦というだけで仰せのレベルでは客が増えるとも思えないなあ
まあ、ブロデイの新日離脱の経緯も多少は印象に残ってるだろうし、あまりステータス感は残ってたとも思えない
最強タッグでのハンセン戦、武道館での鶴田フォールでブロデイの扱いが良かったおかげもあり、結果的にステータスはMAXまで行ったけど。
全日がカードの良し悪しで本当に目に見える形で動員が変わったのは、たぶん平成に入ってからじゃない?
天龍とウォリアーズが組んだ武道館とか、鶴龍対決とハンセンゴディvsブルドックスの武道館ぐらいから…
まあ、自分の勝手な主観なんで…全日ファンって安定してる代わりにミーハー感が薄い印象があるんで…。 後楽園ホールと言えば固定席側の一番上の出口、昔は必ず鍵閉めてあったよな。
非常口のライトは点灯していたし、今だったら消防法で大目玉食らうだろう。 馬場も長州が抜けてようやく自分の団体の選手を前面に押し出して客を呼ぶ方向に
シフトしたからな。その後90年の大量離脱も同じ方向性を維持した。 >>344
その日、観に行きました。懐かしい!ムーンドッグス、骨ぶら下げていい味出してましたね。
試合後、ブロディvsタイガーマスクの一騎打ちが始まる雰囲気が一瞬ありました。
2階、半分位は埋まっていたような?2階の前方7〜8割、後方2〜3割?
まあ30年以上前のことなので記憶違いならすみません。あの頃は空いてましたのでプレゼントの
半額券使って自由席でゆったり観ることが出来てよかったです。 86年最強タッグの福岡国際センターは
ハンセン、デビアス対ゴディ、カーンの好カードがメインだったね…
セミが鶴田、天龍対木村、鶴見
お客さんは入ったのかな… >>348
85年を境にファン気質が変わっていった気がする。
古い全日ファンが離れていったというか世代が変わったというか。 88年4月の大阪府立は天龍vsブロディの三冠戦 89年4月は鶴田vs天龍の三冠戦が
組まれたにも関わらず、観衆は半分程度の入だった。
なので翌90年4月は、鶴田小橋(当時は若手に毛が生えた程度)vsハンセン、スパイビー
ウィリアムス、ゴディvsファーナス、クロファットの並びでカードの質を落とされたんだよな。
そして大阪府立の3日後の横浜文体は、鶴田vs天龍の三冠戦と
ウィリアムス、ゴディvsハンセン、スパイビーの世界タッグ戦を組んで
大阪のファンを嫉妬させたんだよな。 日本武道館の観客数発表、ゴングのムック「武道館名勝負」を見ると
それまでそこそこ落ち着いていたのに後追いで入ってきたUWFが
「オールスター戦で入ったことになってたんだから、ウチが16500人と
発表して何が悪い」と開き直って誇大発表をやってから、全日も
張り合っていきなりインフレを起こしていたのが分かって可笑しい
後楽園ホールも全日新日興行戦争の82-83年あたりにインフレを
起こしていたと思うんだが、今はとりあえず手元にある1980年末から
81年正月頃の記録のある月刊プロレス誌「熱戦譜」の数字から
満員表示はついていないので不明
全日 後楽園ホール
80/10/09 2300人
80/11/02 3300人
80/11/28 3000人
81/01/02 2650人
81/01/03 3200人
81/01/18 3400人
新日 後楽園ホール
80/10/10 2700人
81/01/10 2300人
81/01/12 2300人
新日は年末のタッグリーグ戦は横浜文体、大田区、東京体育館を
使っていてホールの興行は10−12月の間に一回しかなかった
この頃はどちらもやや落ち着いた発表をしていたんだね >>353
いや、子供のファンがゴッソリ居なくなった
印象かま強いよ。
なんだかんだで、後楽園あたりでは
子供の声援がテレビの音声にも入ってた
けど、ジャパン軍参戦から全く聞こえなくなった。 武道館の主催者発表はUインターが酷かったな
空席が目立っても16500人発表は変わらなかった
高田北尾線は文句なく入ってたが
ほかはかなり怪しい >>355
16500人と発表したのはUインター。
UWFは14130人とややまともな発表をしている。
ちなみに当時の新日は最大14214人。 >>357
高田vsベイダー現地で観たけど見た目は2階席の上段まで埋まってたよ。 インフレ発表を前提として、それでも実数を推し量ると
9000人代と発表した1985年の最強タッグ、最終戦の武道館は苦戦したんだろうな
実際に観戦もしたけど、アリーナや1階・2階別の埋まり具合の詳細までは覚えてないけど
武道館全体から見れば半分ぐらいだったんでは?と思うくらいに入りが悪かったよね。
蔵前より広く、使用歴がまだ浅くてファンに定着してない会場とはいえ、
年間で1番動員が安定してて満員が当たり前の最強タッグ、全日の歴史で85年が1番入らなかったんでは?
あ、時点で翌年の最終戦もイマイチだったけど、輪島の東京初登場が効いたのか85年よりは全然マシだったかな…。 >>359
ただ券ばらまいてたんだろ。
だから経営っ危機に陥った。 >>157-158
本当だ、すまんすまん、平成最初の1月にUWFが初使用した時が
(ゴング武道館名勝負によると)15000人
それまでは全日は11500-12500位の発表だった
86年12月 世界最強タッグ・最終戦 12700人
87年08月 ジャパン離脱後の鶴龍対決 12100人
87年12月 世界最強タッグ・最終戦 13200人
88年08月 プロディメモリアルナイト 14200人
88年12月 世界最強タッグ・最終戦 12700人
ところがUWFの「15000人!」を受けていきなりインフレ
89年06月 三冠統一鶴龍対決 15200人
89年12月 世界最強タッグ・最終戦 14800人
90年03月 ゴディ・ウィリアムズ王者に 15900人
90年06月 三沢、鶴田に初勝利 14500人
90年09月 三冠戦、鶴田、三沢に勝利 15300人
90年12月 世界最強タッグ・最終戦 15600人
そしてUインターが「16500人」とハッタリをかますと、全日も
たちまち1万6千人台を定番にしてしまうw
92年 08月 16300人 10月 16300人 12月 16300人
93年 06月 16300人 12月 16300人 新日は第二回オールスター戦がお流れになって、押さえていた
武道館を押し付けられた格好の1980年9月の4大タイトルマッチを
「7500人」と発表したりと鷹揚だった
(ルスカとの格闘技戦で12600人、モンスターマン戦で11000人)
しかし10年ぶりに新日が武道館に復帰した90年11月は、ちょうど
UWFインフレの時期で、新日も「14014人」を定番にしたけれど、
その後は13000前後に落ち着いていった。
全日は馬場が亡くなるまで「16300」を守り続けたね 国際プロレスの歴史の中で10,000人超えの大会はあったのかな? >>354
天龍対ブロディの時は、鶴龍対決が見られると思ってたから残念だった。
鶴龍対決の時は、唐突に組まれたから、気持ちが全然盛り上がらなかった。結果も鶴田のパワーボムで天龍失神とあっけなかったし。
全日の大阪でのカードは、何かズレてるんだよな。 >>368
そうかな?
前年のハンセンとの対決から始まって
鶴田とシングルでタイトル奪取、谷津との防衛戦、残るシングルのビッグカードは天龍のみ…
むしろ必然というか、あの流れとシリーズの会場規模も鑑みるに他にどんなカードがある?と思うけど。
まあ、自分は大阪でなく関東民だから、既に鶴龍対決は2度やってる上で思った事なんで、大阪民ほどそのカードへの渇望感はなかったんで…
でもその上でも「天龍×ブロディ」は両者のあの時点での格を考えると最高級カードであり、大阪民の人が羨ましいと思ったけどね。
あと個人的には防衛戦、どこか中規模の会場でもいいから阿修羅原を組み込んでほしかったけど。 連レスごめん
ブロディと天龍は防衛戦ではなく三冠の決定戦だっけ?
まあとにかく新生UWFショックの新日が藤波×ベイダーを同時期にやってたけど
写真での会場風景を見ると、新日の方がそれでも全日より倍ぐらい入ってるのを見るとねえ…
天龍ブロディでも、あとブロディメモリアルの鶴田谷津vs天龍原でもガラガラ…
後に全日が諦め感があるカードを組む気持も何となくわかる気がする。 後楽園で一番入ってないのって、天龍覚醒のインタータッグ戦1500人かな?
国際では1200人発表があったように思うけど。
70年代全日はほぼいつでも2000人で新年2、3日だけが2200とか2300だったように思う。 >>368
自分的には過去に2度行われた鶴龍対決よりも、天龍革命後の天龍vsブロディ の方が
興味あったよ。
天龍革命後の天龍vsエース級外国人、龍原砲vsエース級外国人タッグチームの
激突は鶴田輪島ら日本人よりも新鮮味があって期待感があった。
あと、龍原砲vsウォーリアーズが見れなかったのは残念! 流智美も、ブロディ戦を天龍のベストバウトに挙げているね
長州力
1983年4月3日 蔵前国技館 VS藤波
藤波辰爾
1985年9月19日 東京都体育館 VS猪木
天龍源一郎
1988年4月15日 大阪府立体育会館 VSブロディ
ジャンボ鶴田
1973年10月6日 後楽園ホール VSムース・モロウスキー どうしてもモロウスキーの話に持って行きたいんだろ。 流の話ついでに言うと、末期の国際は発表が常に1000人台で、実際は
遥かに少なく、最後の後楽園ホールが発表「1500人」だったものの
実際は300人も入っておらず、「吉原社長もあの後楽園の入りを見て
解散を決断したのではないか」と国際12チャン本に書いていたね
もっとも「恥ずかしくてマスコミに知らせないから東スポなどにも
一切掲載されないシークレットシリーズ」の方が客が入って実入りがあったも書かれているから、当時の
プロレスの地方興行・ローカル興行って分からないものだ >>367
8500人が最高のようです。
1972年11月27日に愛知県体育館で行われた「ビッグ・ウインター・シリーズ第3戦」が8,500人。 あくまで体感と目視だけど
自分の観戦歴で「最多動員ではなく、収容規模に対しての動員率」でいえば
1984年の最強タッグ最終戦の横浜文体かな、あの日は本当に通路やら何やら、詰め込むだけ入れた感じ
例年だと蔵前だから、そっくりそのままの人数は無理にしても、本当に蔵前に来てたファンが皆来たんでは?と思うほど。
単純に会場の収容人員の問題なのか、長州初参戦のおかげか、テリー復活シリーズゆえなのか…
自分は70年代は小学生低学年でファンでないから80年代しか体感してないけど、この日の密集度が1番凄かったと思う。
テリー引退の蔵前も入ってたけど、会場の公共性?もあるのか問答無用に詰め込むのはしなかっただろうし… >>377
ブルクラvs小林・草津のWWA世界タッグ金網デスマッチ
暴動騒動があった大会が最高なんだね。 >>376
1980年頃の国際の後楽園は超満員だったけど。
79/10/5のIWA世界タッグ選・井上&浜口vs大木&上田
80/3/31のIWA世界戦・木村vsパワーズ
80/06/29の井上&浜口vs小林&永源
81年に入ってダメになったのか? >>377
確かに、WIKIではそうなっているが
1971年3月バション兄弟やBミラーが参加、
M井上も急遽、帰国したAWAビッグファイトで
どこかの野外興行が1万人越えたとかで、
テレビでもその大観衆を写していた記憶がある。
もしかしたら只見客も大きくいて、
公式記録は、やはり72年暮れの愛知なのかな? >>380
80年3月の実質新日との対抗戦みたいだった後楽園は大入り、異様に盛り上がった
興行だったけど、試合内容がアクシデントもあって
「国際は新日の前座選手以下」
と視聴者に見切られたのか、この中継以降視聴率が右肩下がりになって、
(この試合の視聴率が8.5%、春は6%、夏に5%)
10月から土曜8時に移行させられ、事実上の死刑宣告を受けてしまっている
81年1月にTV放送打ち切りが決定、3月に発表され、年間9000万円と言われる
12チャンネルからの放送権料がなくなり、吉原社長は6月にはもう馬場と会って
「全日本と国際の合併」を持ちかけている
この頃には試合をやっても国際が興行主に売上を持ち逃げされる有様で、もはや
興行会社の体をなさなくなっていたとか
もっとも、当時馬場は外人招聘費用の税金滞納で責任を追求され社内での
立場が危うくなっていた時期で合併話が進むはずもなく、吉原社長は8月から
新日と交渉、しかし9月に井上らが新日行きを拒絶して選手会も解散
それでも国際は10月に大阪府立体育会館を仮押さえしていたというから驚く
新日との対抗戦ツアーを計画していたのかもしれないけど >>382
国際最後の日になった羅臼は客入ってるけどな >>369
大阪には年に数回しか来んからねえ、
日本人対外国人がメインってのは望んでない。
しょっちゅう試合が見れて、東京の試合だけでストーリーがわかる東京の人間にはこの気持ちはわからんよ。
そうかな?とかお前に否定される言われはない。 >>370
鶴田谷津対天龍原なんて、日常の試合やないか。
しかもブロディメモリアルと銘打ちながら、
セレモニーは無し。
献花台があるだけってなめとんのか。
と、思ったな。
何度もいうが、恵まれてる東京の人間にはわからんよ。 >>370
88年8月の武道館は
ハンセン対ブロディを
予定していたんだもんあぁ。
代役がブッチャーでは物足りない。
しかも、お約束の両リン。 >>385
ブッチャー&スヌーカvsハンセン&ジョニーエースだと思う
もしかしたらハンセンのパートナーはエースじゃないかも? >>386
大阪ならハンセン、トム・ジンクvsブッチャー、スヌーカだったかな? 鶴田谷津対天龍原は88年だけで5回ぐらいやってた気がする >>383
羅臼のいくつか前の屋外での会場の話だが、ぎっちり席が埋まってた。当時専門誌による写真つきで掲載され、選手はこのくらい客が、いつも集まればなくならずにすんだのに。そんなようなコメントがあった。 >>386
輪島・石川vsジンク・オーツ
タイガー・高野vsスヌーカ・エース
馬場vs木村
ハンセンvsブッチャー
世界タッグ 鶴田・谷津vs天龍・原
ブロディそっくりのジェフリー君は、レスラーにならなかったな >>312
80年10月のブッチャーとテリーのUN戦の時はそれこそBI分裂以来というくらい入っていたらしい
それ以来次第に川崎から横浜にシフトしていった印象
とにかく70年代はどの団体も横浜文体は敬遠していた印象もある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています