昔のITってどんなだったの?
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技術から言えば1/5位のレベルで今よりも単価が3倍位高かったみたいなんだけど本当?
10年前くらいらしいけど、HTML組めるレヴェルで500kとか貰えたって・・・ ハードウェア側に問題があると思われる障害が発生した時に、
データ破損のパターンから、磁気コアメモリの物理的な破損箇所を
特定したと言う話を聞いたことがある。
当時はまだ、メモリボードを構成する配線も磁気コアも、1ビット単位で
目視することも手で触ることも可能だったとのこと。
ちなみにその人は現在は定年間近の管理職。 磁気コアメモリは1980年頃まで現役。
当時を知る世代は高齢化しているがまだ現役も多いだろう。 紙テープ端末は2000年代に入って証券取引所から立会場が無くなるまでは証券業界で使われてた。 コアメモリが一般化する前には磁気ドラムや陰極線管がメインメモリーに使われた時代もあった。
磁気ドラムメモリーは数十K語。
水銀遅延線や陰極線管メモリーは500語未満。 フェライトコアメモリー → ワイヤーメモリー → 半導体メモリー 卒業して就職した年に盲腸で入院したが、病室の天井が穿孔紙テープの模様の吸音ボードだったw ソースを40行書いて400万貰ったことがあるよ。
ま、それだけ効果があったわけだけどw 時代が変わっても it 技術者
he でも her でもなく it だぜ。
物扱い。 紙テープというと、宇宙戦艦ヤマトで真田技師長が
"地球より入電!"なんつって読んでたな。
当時の最新技術だったんだろう。
しかし、TV電話の概念はあったのか、
長官とは天井のでかいスクリーンで会話してたな。 ガミラス人と通信できるのは
確かに並みの技術ではない。
プロトコル推定でもしてる訳だ。
でも紙テープ。 書いたコードの行数に応じて金が支払われる契約もあったと聞く。
コメント行も、必要な行数としてカウントされることもあったと言う。
コメントで行数を稼ごうとするのはセコい奴であり、
プロなら余計なコメントで行数稼ぎをやるなと教育されたそうだ。
当時は記憶容量が極めて少ないため、あまりコメントを増やしてはいけない
という事情もあったようだ。
いまだに、1日単位や1ヶ月単位で何ステップかけるかで、
プログラマの能力を判断しようとする年寄りがいるのは、当時の名残だ。 プログラムが完成したあとにステップ数を5割増しにする作業をしたりした。 開発時はサブルーチンを多用した方が実装からテストまでの効率が良いのでそうするが、
評価は沢山書いた奴の方が偉いということなので、実装時は裏でコッソリテストして、
完成を確認してから、サブルーチンをコピペしてベタに展開したりするよな。
あと、一度動作確認してしまうのでバグが出なくて、正式なテスト結果報告でバグゼロ
になってしまうと逆にテストケースとしての評価が落ちてしまうので、わざとバグを埋め込む。 バグ件数が少ないとテストの信頼性を疑われるので、
事前にわざとバグを埋め込むのは今でもやってる。
ソフトウェア工学上、平均すると6ステップ毎に処理分岐があるので、
6ステップあたり1件のテストが必要で、そのうち5%でバグが発生し得る。
その通りの数字ならないのはテストがおかしいと言い張る、
コードを1行も書いた事のない、机上の知識だけの技術者が今もいる。 >>168
本当は必要のない入力チェックを入れたりね。 >>170
日立にそんな人がいた。
保有資格だけは立派だけど本当に何もできないおっさん。 プログラマがしっかりとテストをすれば、
バグの数は少なくなるのは当たり前なんだが、
みんなそれなりに動作したら、それで完成として
テスターにまわすの? PCなんてものは存在しないので個人単位ではテストもデバッグも無理。
使えるオフコンは使用時間あたりの料金を取られる上、
電話回線経由での接続なので通信費もかかる。
余計なコストを可能な限り削減するため、時間も人数も投入して
紙に書いたコードを机上デバッグ。
実際にコードを入力するのはそれからだ。 > 使えるオフコンは使用時間あたりの料金を取られる上、
> 電話回線経由での接続なので通信費もかかる。
机上デバッグの人件費と比べてどうだったんだろうね。 学校にあったメインフレームが1秒10円だったと思うけど、オフコンはどうだろ コードを入力するのはそれ専門のオペレータだから、
バグがあって修正すると、その分余計に人件費もかかる。
再コンパイル、再テストもマシンを使用する以上は使用料がかかる。
可能な限り机上でデバッグしておかないと大赤字になる。 入力端末も共用で昼と夜まで8時間ごとに3人交互で入力とかそんな時代ですか? 今の入力端末に相当するのはパンチカード読み取り機、のような気が。
実物見たことないけど。 パンチなら、穴を開けるための機械があるだろ。
それへの入力が本来の入力だど。
カードの塊はメディアに該当する。 1960年代の世界原色百科事典で「電子計算機」を調べて見ると、
キーパンチャーが女性の新しい職業として注目されていると書かれていた。 >>184
実際1980年代後半までキーパンチャーは多くいた。
どんだけ早く叩けるか、、歩合給で並のプログラマーなんかと
比較できないぐらい稼いでた。 2001年頃からHTML+Perl言語のみの知識で、今現在大企業と言われるベンチャーに派遣等で入社。
派遣だとおおよそ未経験者(HTML+Perlのサイト構築経験有り)30万〜
派遣から偽装請負という名のフリーランスに転進すると、35万〜案件を3ヶ月程度で成果だして延長しないを続けると、
次案件より+5万〜の提示が可能になる。(2003年〜2008年頃まで)
25才頃で月60万確保(スキルはHtml javascrpt perl sql系 apache サーバーの設定ファイルいじり知識)
これだけで、マージン抜かれた手取り60〜90の案件がボロボロ落ちていた。
2008年の半ば頃から単価下落+雑魚のスキルフォロー+精神崩壊 = やってられるかで独立
大不況の中の独立の為上手くいかず。。。
2010年 とうとう自己破産+生活保護+精神病(うつ病パニック)
一応ITバブルの波にある程度乗れた気がするけれど、今は廃人。
結果的に最悪だったけれど、60〜90取っていた6年間はまさにデスマ案件だらけだけど、定時+30分程度で帰れる位成長できたので
天国のような時期だった。毎日から二日に1度程度で風俗等に寄り道して帰る毎日。
ただ、2008年頃辺りから、外国人PGが増え、セキュリティやMVCの概念も理解せず、システムに最適な簡易フレームワークの作成も出来ないような
エンジニアが増えだした。もう俺はエンジニアの仕事からシャットダウンしたんだけれども、
2010年頃になってから、偽装系や派遣系会社から、案件のご紹介電話やメールが増えだした。
単価はもう40万〜50万程度の物ばかりだけれども、求められるスキルは復帰してきた様子が伺える。
汎用フレームワークなんて使ってばっかいる時期があったからバグだらけのシステムで困ってるのかもしれないとか最近想像しちゃう。
まあ国全体が不況下の中、IT関連(WEB関連)の仕事が2000年頃〜2008年頃までプチバブルだった事は間違いない。 追記だけれども
>>スキルはHtml javascrpt perl sql系 apache サーバーの設定ファイルいじり知識
これは今は常識的スキルになったけれど、当時は文献など少なかったし、sql周りなんて特にバグだらけ大変だった。
2003年辺りからここら辺の知識を理解しながらコードを組める人間が非常に少なかったのは事実。
>>セキュリティやMVCの概念も理解せず、システムに最適な簡易フレームワークの作成
これもキチンと理解して作れる奴が非常に少なかった。
これぐらいの知識で成功した富豪を上げるとMixiのバタラちゃん、DeNAの川崎ちゃん、Greeのふじもんちゃん辺り?
ちょっとレベル落ちるとECCUBEとかOpenPNE手嶋辺り?
結局彼らは会社が成功しただけだからな。俺も同等のスキル持ってるぞ。俺は運がなかっただけだ。。。自分の選択も悪かったけれど。。。 そらC++やjavaが流行るまでのスクリプト言語はカオスよ。 >>188
いや、当時から常識的に使われてたけど。
底辺ITのお仕事でも使ってたぞ。 システムなんて出来て当たり前。
出来なかったらそいつが悪い。
出来ないと判断あるいは出来るやつは必ずいる。 設計図から部品データを画像処理で抽出・・・とか変態的なことやってたな
しかも、超少ないメモリで
もう誰も触れなくなって画像処理で部品抽出なんて誰もできないけど
昔の人は根性あった ちょっと前まで工場内でPC-8801が稼動し続けてた。
ほとんどBASICで作られたプログラムが延々と、
シリアルポート経由で設備の稼動状態を監視し続けてた。 何を言ってるんだ? 修理が出来ない=動かない(悪だ!) キーパンチャーか・・懐かしいなw
コーディング用紙にシャープペンでコーディングしてフロッピーと一緒に提出して
パンチしてもらった。よくコンパイルエラーが出たw
中にはお水っぽいコもいたな。今みんなどうしているんだか
今は自分で適当にエディター使ってコーディングできるから楽になった
あんなもんいちいち人に頼めんよw パンチカードじゃないけど入力専門のお姉さんの職場なら流通系にあった
もちろんお姉さん方帰ったあとの深夜作業だけどな orz 観光地などにあるメダル自販機の中には
いまだにMSXで稼動しているものがある MSX懐かしいのー
Tのパソピアの8チャンネルデジタル音でよく作曲したもんだw 今は昔、新採で入って配属されたのはコンピュータ設置準備室。
入ったときは導入する機種は決まっていてコンピュータ棟の工事が
2ヶ月後に始まろうという段階だった。
そんなある日、「我が社のコンピュータを是非導入してください」と
2人のセールスマンが来た。
出したカタログは、電子式卓上計算機。ま、確かにコンピュータだが・・・
室長は笑いをこらえながら、ここで設置しようとしているコンピュータは
こういうものです、とプレゼンに使った資料を出して説明した。
そして2人はそそくさと帰っていき、室内は大爆笑だった。 でも今やその卓上電算機メーカーが勝ち組になってる・・という落ちなんだろ?w あの名作ウゴウゴルーガのCGはMSX2で作ってたんだってな。
俺もMSXturboR持ってるよ今でも。
大学の頃、ボート部の船のレンジやバーなどの数値計算するのに重宝したもんだ。
大学の電算室に行けばmathematicaが使えるのはわかってたけど、
逆三角関数はまだ入ってなかったからな。
今はフロッピーのゴムが伸びちゃって、BASICかROMカセットしか動かないけど。
10年前に聞いたときは、パナソニックは在庫を切らさないように
数年に一度ゴムベルトライン稼働し続けていると聞いたが、今はどうなんだろ。
ちなみに20代です。 ウゴウゴルーガのCGはAmiga、らしいぞ(ジャー)
ttp://web.mac.com/kudan/kitune/AMIGA.html オランダに、MSXのフロッピーのゴム等の補修部品を扱う店があり、
それだけを目当てに現地へ行く日本人もいたと聞いた。
零細の個人商店なので、海外からの通販など受け付けておらず、
オランダに知人でもいない限りは自分で行くしかなかったそうだ。 電算写植の仕事してたけど、
電話鳴ったら受話器を音響カプラに置くバイトとかしてたわ
非効率極まりないw >>199
以前に秋田空港に行った時に見つけた。
ちょっと古い話なのでまだあるかどうかは知らないが
小田原城の土産物を売ってる所の近くにもあった。
MSXのメダル販売機は、観光地には今も多数残ってると思う。 昔は新機種導入の日にお客さんが御祓い・・wとか呼んで待たされたもんだ。
今でも大概そうかな?? MSXの発表会は、ビル・ゲイツが来日してその地味さ・チャチさに似合わない大々的な催しだったような覚えがある。 MSXーDOSか。
1.0は、フロッピーをコピーするときに何回もコピー元とコピー先を入れ替えたんだよな。
2.0で、入れ替え回数が8回まで減って、画期的な技術だとか騒がれたものだ。
まだ当時のフロッピー残ってて、MSXのエミュレータ上で動くよ。
動作確認しかしてないけど。 MSXで家電もガス器具も水道も何もかも
制御する未来を先取りした住宅のプランはどこへいった? >>211
そんなのは、昭和時代の人達が夢見た未来の姿でしかなかった。
実現することなく、夢のままで終わった未来予想図。 よぼよぼの爺さん(MSX2)がヨチヨチ歩いていたら、
若いマラソンランナー(WIN)が脇を爆走していったでござるの巻 最初はゲーム目当てで買っても、徐々にプログラミングに
手を出すようになっていった人もいた。
MSXに限らず、当時の他機種についても同様。
30代以上だと職業プログラマ、趣味プログラマを問わず、
それがきっかけだった人も多いはずだ。 >>214
人気ファミコン用アプリをMSXにポートしても速度がでなかった。 筑豊電鉄(っつても知らんか)の車内で流れてたビデオの編集はMSX2使ってたみたいだった。
時々MSX2 BASICの画面が出てた。
20年くらい昔の話だけど。 ITって最先端みたいなイメージあるけど
実体は泥臭くて人間関係が汚くて一部の勝ち組以外は奴隷扱い コーディングシートっていうマス目の紙があってそれにアセンブラ書いてた。 各種言語用にプログラムシートというマス目の紙が売られてた
今も情報処理系の大学や専門学校では見かける機会があるかもしれない。
プログラムばかりじゃない、入力データにもそれぞれ専用シートがあった。
それをキーパンチャーが80欄カードやフロッピーに打ち込む。
キーパンチャーってぇと、昭和40年代のミニスカートブームをどうしても思い出す団塊世代の俺。 >>222
会社が「高過ぎる!」と買ってくれないので、手書きで作りそれをコピー、
のちにパソコン時代になったら表計算ソフトで作ったことがある。 あったねーディスプレイが2行分しかなくてDUPキーがついてた。
読む側もオートチェンジャーつきのでかいのがあったし。
フレキシブルディスク読取装置ってナニソレだよな。 ふ〜ん、インテル・ミラノにはマイコンという選手がいるのか そこかw 最近職業病についてのスレをどっかで見たがなんかワロタ 昔のITの特徴は、やっぱ大型機全盛時代だったことだろ?
IBMの専用端末なんかカラー表示も可能だったが
くそ思い鉄製の重厚長大な装置だったな。 重さが
20〜30キロぐらいあったな。
そんな端末が1台の大型汎用機に数百台とかぶら下がっていて
混んでるとトンデモなく応答が遅かった。 その昔、HITAC5020という当時のスーパー級コンピュータを見学したとき、
エンジニア2人がXYプロッターの前でグラフを描いていた。
20分ほどかけてマトリックスを描き、それが終わってツィーーーィとエキスポーネンシャル
カーブを描いて操作が終わった。
A「これだけ?」
B「そう・・・らしいな・・・」
A「20分間の料金いくらすると思ってんだ?」
B「・・・ごめん・・・」 地震で崩れた納戸の中を整理していて出てきた本。
共立出版 bit別冊「国産コンピュータはこうしてつくられた」
1960年〜1985年の開発の流れと新世代への展望
昭和60年9月10日発行 ¥2500
第T編 総論
日本の計算機開発に思う
古い世代から新しい世代へ
第U編 日本の商業計算機の発展の流れと展望
沖電気
東芝
日本電気
日立製作所
富士通
三菱電機
日本電信電話(NTT)
第V編
統計に見る日本の計算機
第五世代コンピュータ
将来の商業計算機(座談会) >>222
コーディングシートは今でも教育目的なら現役。
まず机上でコードを書いてロジックを理解すべきなのか、
そんな暇があるなら最初からコードを入力・実行した方が良いのかは、
俺には判断できないし人それぞれだと思う。 8年くらい前に専門でCOBOLのコーディングシートとかフローチャート書ける定規使ってた
COBOLみたいな宣言の記述が無駄にでかくなる言語には
こういう勉強法はありだと思うけど、
JavaとかPHPみたいな、ルーチンを書くのがメインの言語には合わないんじゃないかな たかが20〜30年ほど前の本を見てみると面白い。
たまたま見つけたPC-8801入門書は、全くの初心者向けでも、1章からいきなりBASICプログラム。
ミニゲームや簡易家計簿プログラムの解説を経て、最後にちょっとだけマシン語に触れたり、
周辺機器の回路自作についても少しだけ解説している。
明らかに小学生くらいを対象にしたパソコンゲーム本も、市販ゲームの記事は半分程度、
残り半分はゲームプログラムの解説だ。
初期のファミコン攻略本でさえ、後半はファミリーベーシックを使った
ゲームプログラムや音楽再生プログラムの解説に使ってる。
当時の入門者や小学生プログラマでも、そういう本を読み通せる人なら、
現代の並の職業プログラマ以上のスキル水準だったのではないかと思った。 >>239
有名アプリのプログラマが実は中学生とか結構あったね。
今は中学生がプログラミングしたから有名なアプリとかしなかないかも。 そんな話聞いたことないぞ。
昔を美化するのは老化現象の始まり。
当時PC雑誌を読んでたような人間は、普通はまだそんな年齢じゃないはずだと思うがな。 中村光一とか、と思ったが、彼はが有名になったのは高一だった。
昔を美化するのは老化の始まりだが、それでも昔には昔の楽しさがあったのも事実だ。
BASICの命令を10個くらい覚えた程度でも、
つまらないアドベンチャーゲームを作ってみたり。
市販のソフトを真似しようとしても難しすぎるので、
妥協に妥協を重ね、部分的な真似をして満足してみたり。
当時の苦労と試行錯誤が、今でも少しは糧になっているのさ。 >>195
うち、故障したときのために8801の新品を未だにストックしとる。。。なかなか壊れず、まだ一台交換しただけだな。
かれこれ18年経つが。 8001を何台か買ったやつが8201を買って
今までのゲームが動かない、なぜだ!?
とわめいていたっけなw 違った。上の記事に引き摺られてまちがえた。
9801を何台か買ったやつが9821を買って
今までのゲームが動かない、なぜだ!?
とわめいていた FM-7の本に、ワイヤーフレームを使った単純な3Dグラフィックが紹介されていた。
ポリゴンについても紹介されていたが、パソコンの性能では不可能で、
スーパーコンピュータでないと計算が間に合わないと書かれていた。
スターウォーズの第一作(エピソード4)に、宇宙船のワイヤーフレーム
画像が出てくるシーンがある。
高額な制作費かけたSF映画でさえその程度のレベルなのだから、
FM-7でワイヤーフレームを描画できるのは凄い事なのだと書いてあった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています