あれふ壬
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唯一の己としての自己は、もっとも大切で、親しいものだ。 人間のアイデンティティのありかは、どこかひっそりとした場所に保たれ続けるような、
この自己にあると考えることができるだろう。 他者が知ることがなく、知っている<核>のようなもの、それが自己自身である。 そして他者が他者であるのは、他者には固有の自己があり、
ほかの人から侵すことのできない性格のものだからである。 他者の心をのぞきこむことができるとすれば、それは他者ではないし、
こちらもこちら自身ではなくなるはずだ。 自己を知るということは、哲学の歴史においても長い伝統がある。
「汝みずからを知れ」というアポロン神殿に掲げられていた警句を対話のモットーとした。 当時の人々が(そしていまでも同じように)、自分にとってもっとも重要なものであるはずの
魂のありかたに配慮せずに、自分の名声や富や身体の健康ばかりを気遣っていたからだ。 この警句が示したように、自己とはすでにあるものというよりも、
みずからに配慮しながら、つねに新たに実現されていくものだと言うべきだろう。 近代資本主義の創世記においては、市場での交換というシステムは、
国家などが介入しなければ、ごく円滑に作動し、
人々に最善の結果をもたらすものと考えられていた。 売買は基本的に、双方にとって利益のあるものでなければ行われないはずである。
売り手は売ることで利益を獲得し、買い手は買うことで自分に必要なものを入手する。 市場においては「神の見えざる手」が働いていて、
自由な交換こそが社会の全体に最善の利益をもたらすと考えたのだ。 しかし市場は全能ではない。
まず労働力や土地のようなものは、ほんらいの意味では交換できる性質のものではないために、
市場での取引にはそぐわないものだった。
人間の働きや大地は、なくなったら新たに作りだせる工業製品のようなものではない。
大地震や津波のような災害は、市場の力の及ばない猛威をふるう。
そこに市場原理を適用しようとすれば、被災者などの貨幣をもたない人々はただ苦しむだけである。 環境保護、最低の生活保障、疾病や災害からの保護など、なすべき事柄は多い。 市場原理はたんに人々の欲望に応じた商品を提供するだけでなく、
新しい欲望を作りだすことで、新たな市場を創設しようとする。
健康産業、ジム、ゲームなど、
新しい欲望は新しい富につながるというわけだ。 すべての生物は、外部の環境から栄養を受けとり、排泄物を外部に放出することで、
体内で一定の状態を維持している。
これはホメオスタシスというメカニズムである。 これに異常が発生すると、その生物は病気となるのであり、やがて死にいたることになる。 また地球は、太陽から熱を受けとりながら、そのエネルギーの一部を
ふたたび外部の宇宙に発散することで自然環境を維持している。 しかし地球でのエネルギーの消費が多すぎると、永遠に続くと思われた
このシステムにゆらぎが発生する。
地球を囲む空気の膜に破れが発生したり、エネルギーを十分に放出できずに、
地球の大気の温度が上昇したりするのだ。 人間が実在することは、事実としてあるのではなく、人間が選びとる生き方だ。 日常の生活において、
人々と雑談にふけり、映画を鑑賞し、テレビゲームに没頭する。
いわば自分のもつ真の可能性を実現する営みを忘却しているわけだ。 しかしあるとき理由のない不安にかられることがある。
世界のうちで楽しく暮らしているうちに、
本来の自分のありかたを忘却しているのではないかという思いがたちこめるのだ。 不安の力に動かされて、
自分に固有で唯一のものである死の可能性に直面し、
みずからの実存を選びとるようになると考えるのである。 「実存は本質に先立つ」
どのように実存するかを選択することで、
人間という生き物の本質を示すのである。
その意味で本質よりもまず実存が先にあり、
人間は日々の生で選択することで、
その実存的なありかたを輝かせるということになる。 主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)という概念は、思考の根本にあるものだ。 事物に働きかける主体として生きたいると同時に、さまざまな影響を受ける客体としても
生きている。 映画を観るために都心に出かける私は、行動する主体としての私だが、電車に乗って運
ばれる私は、鉄道会社から見れば乗客という客体である。 主観的および客観的という形容詞になると、合意がかなり違ってくるので注意したい。主
観的ということは、個人的なかたよりがあるという含みで使われるし、客観的というのは、
その個人ではなく多くの他者から見た場合という意味になる。 主観的なものはたとえば文芸の領域に属するものであり、客観的なものは科学の領域
に属することになる。 「象徴(シンボル)」とは、感覚で知覚することのできない抽象的なものを、現実に知覚で
きるもので代表させることだ。 鳩は平和の象徴であり、王冠は王の権力の象徴である。ただし象徴は記号とは異なる。
地図のお寺のマークはそこに寺があることを示す記号にすぎない。ところが鳩が平和の
象徴として使われるとき、そのことを直感的に理解しながら、平和の理念に思いをはせる。 一本の十字架は、たんに教会のありかたを示すだけでなく、イエスの生涯とその後二千
年間のキリスト教の歴史について考えさせるのだ。 自然は象徴に満ちている。人間はそのさまざまな事物を象徴として使いながら、自然を
思考のモデルとしてきたのだ。 西洋の中世の世界では、神が自然の事物を使って暗号を書き記しているのであり、人
間はそれを解読することで、世界を理解することができると考えた。
人間は太古の時代から、神話、宗教、文化などのさまざまな分野で象徴を作りだし、
その象徴の力によって交流してきた。 詩の言語の多くは、言葉のもつ象徴的な力を巧みに利用する。詩人たちは言語を使って、
ごくふつうの事物や事柄から、豊かな想像力によってあっと言わせるような象徴的な意味
を作りだしてくれる。ときには、世界の見え方が変わってくるような詩作品もあるくらいだ。
詩には伝統的なシンボルを破壊して、新しいシンボルを作りだしたり、忘れられていたシ
ンボルをよみがえらせたりする力がある。 また右と左という二元論的な対立に象徴的な価値を与える社会も多い。右は正義や強さ
や善を象徴し、左は不正や弱さや悪を象徴するとされてきたのだ。日本でも左を忌む風
習と、反対に左を聖なるものとする風習とが、ともにまだ残っている。 象徴はこのように人々の思考を左右するほどの力を発揮するほどの力を発揮することが
あるために、政治的に利用されることもある。 それだけに、こうした象徴が拘束する力をもつことにも注意が必要だろう。平和を象徴す
る鳩やキリスト教の十字架の象徴は無垢(むく)なものではない。 そして学校での君が代斉唱のように、国歌や日の丸などの象徴は、この象徴が代表す
るものに服従するように、無言の圧力をかけてくるのである。 情報というと堅くて抽象的でデジタルなイメージがあるかもしれないが、実は人間的なも
のである。情報というのは知らせのことだが、それを受けとった者にとって意味があり、そ
れに基づいてなんらかの行動が求められる知らせなのだ。 情報には発信する者と受信する者が必要だ。情報はあらゆる者が発信することができる。
取り巻く環境そのものも、さまざまな情報を提供している。たとえば山登りをするときを考
えてみよう。この岩は登ることができるか、どこに手をかけどこに足を置けばよいか、岩が
ぼくたちに問わずがたりに情報を伝えてくれる。犬であれば、その岩からもっと別の情報
を取りだすに違いない。気持ちのよい場所か、ひょっとすると熊が出てくるような場所か、
自然環境そのものが多数の情報を知らせてくれる。 ところが受信する側は、生物であることが多い。情報が情報としての意味をもつためには、
受信した側がこれを情報として認識し、その意味を解釈し、それに基づいて行動すること
が必要だからだ。 鳥の群れは警戒を要する生物が近づくと鳴き声などで情報を発信する。鳥たちはその情
報に従って行動しないと、生命を失いかねない。大地震がまざまざと教えたように、地震
が起きたという情報が伝えられても、それは津波をもたらす危険があるという認識がない
と、高い場所に避難するという行動につながらない。その危険性の認識がない人々には、
地震情報はほとんど価値のないたんなる知らせにすぎないのだ。 情報は受信する側にとって有用なものでなければならない。そうでなければ、ほんらいは
情報と呼ばれない。インターネットにおいては、さまざまなニュースが報道され、さまざま
な見解が表明されている。インターネットの検索サイトでキーワード検索をすると、無数の
情報がヒットしてくる。かつては検索サイトは情報のヒット数の多さを誇ったものが多かっ
たが、あまりに過剰な情報は、情報としての意味を失ってしまう。 そしてほんとうに探している情報は、この意味のないデータの集積のうちに隠れてしまう。 自律(アウトノミア)とは、みずからに適用される法を作成して、これに従うこと。
習慣、風俗、法律などの外部の規範に疑いもなくやみくもに従うのではなく、みずから掟
を定め、その掟に従う主体であることを目指すのである。 人間が家庭では父親に従い、宗教の問題では教会に従い、政治的な領域では支配者
に従うようなありかたをやめることが、実践的な理性の重要な目標であると考えたのだ。 しかし完全な自律が可能なのかどうか、そこには三つの罠がある。 まず最初の罠は、自律が理想として追求されることで、忘れられてしまう問題があるとい
うことだ。自律することは自由になることだが、自由であることそのものは、なんら価値の
ないことである。もしそうなら、空を飛ぶ鳥だって自律して生きていることになるのではな
いか。自律的な決定を下す主体であることが大切なのかどうかは、それほど明らかでは
ないのである。 第二の罠は、自律することが自己目的となるとき、そこにある幻覚が生じるということだ。
自律的な存在として決定するのは精神の営みである。自律的であることを求め、そして
そのありかたを実現するのは理性なのだ。そしてこの決定する理性は、自律的な決定
に従わないものを律し、支配しようとする。 この支配する理性がまなざしを向けるのは、自分の身体である。身体が柔軟に理性に
従い、よこしまな欲望をもたなくなることは、自律の重要な実現である。しかし自分の身
体が理性に完全に支配されるとき、ほんとうに幸福がおとずれるのだろうか。 父親、宗教的な指導者、政治家という他者に支配される代わりに、そのまなざしを自分
の内部に植えつけて、自分で自分を支配しているだけではないのだろうか。理性が他者
による他律的な支配を代行しているだけではないのだろうか。 第三の罠は、自律する主体は理性のまなざしを自己に向けざるをえず、他者へのまな
ざしを必要としない独話的な主体となることだ。自律的でない他者を批判し、他者の自律
を促そうとする。そこには自己に対する冷徹なまなざしとともに、他者に対する冷たいま
なざしが生まれかねない。 自律と関連して、自己決定と自己責任の問題。
自己決定という概念は、その決定をみずから下すべき主体にこそ、決定の権利を認めよ
うということだ。これまでは学校や病院でも、学生や患者のためによかれという判断のも
とで、教師や医者など権威のある人物が決定を下すことが多かった。しかしそのよかれ
という判断が、決定の影響を受ける人物にとって望ましいものであるかどうかは、それほ
ど自明なものではない。できる限りその決定の受け手の自由で自律した判断にまかせ
ることが、もっとも好ましい結果を生むのではないかと考えられはじめたのだ。
もちろんそれが望ましくない結果を生むこともあるかもしれない。その場合には、決定者
は自己責任を負うことになるだろう。学生の総意で制服の廃止を決定し、学校側がそれ
を受け入れた場合に、さまざまな問題が発生するかもしれない。しかしその責任は妥当
な範囲内で決定を下した学生たちが負うことになる。 決定には責任がつきものだからだ。しかし学生たちはこの決定に責任を負うことによって、
決定について、制服のような制度について、おそらく多くのことを学ぶことができるだろう。 かつてはイタコや呪術師など、シャーマンとなる人々がいた。自分の生まれた社会にとけ
こんで生きることができず、やがて神秘的な力と交信する能力をもっていると判断された
人々である。 異常であることで、正常の人々にはない予見能力や治癒能力、神や死者と交信しり能力
をそなえていると見なされたわけだ。このとき異常であることは、一つの重要な威力となる。 異常なものが社会や時代に応じて異なるのはたしかだ。かつて異常とされていたことも、
やがて異常ではなくなることがある。それでもこれは文化ごとに異なるものにすぎないと
片づけてしまうべきではない。 異常は恐れるべきであると同時に、魅惑する力をもつものである。文学も科学も、異常な
現象と取り組むことで、創造的な力を発揮してきたことを忘れないようにしよう。 資本主義の社会においては、労働が人間から疎外され、人間にとって苦痛なものとなっ
ている。 労働者はたしかに賃金を受けとって労働しているが、労働者が製造する製品は、労働者
にとってはよそよそしいものである。ネジを切るだけの旋盤工(せんばんこう)や、包装紙
だけを作るだけのパートタイマーなど、自分がそもそも何を作っているのか知らないこと
も多い。 労働者は自発的な意図と工夫によって労働することが少ない。上司の命令に従って分
業体制のもとで働くからだ。やりたい仕事につけた人は幸福だが、多くの場合、労働する
ことに心からの喜びを感じることはないものだ。ほんらい労働は人間の精神の発現であ
るはずなのに、それが労働者にとってよそよそしいものになっているのだ。 労働者はつねに他の労働者と競争関係にある。共同の作業のうちでたがいに相手の働
きを助けながら競うのではなく、他者に優越することで、自分の価値を示さねばならない。
そして労働者の仕事は賃金という形で評価される。自分の能力そのものではなく、賃金
という貨幣の価値で、人間の価値が決められるかのように。 この疎外された労働をなくすためには、革命によって共産主義の社会を構築するしかな
いと考えていたが、それはたんなるユートピアに終わった。疎外されないほんとうの労働
というものなど、ないと言わざるをえない。資本主義の社会において、疎外されたまま孤
立して生きざるをえないのだろうか。 人間を超越した絶対者を信仰する営みは一般に宗教と呼ばれる。 とくにキリスト教では、唯一神を人間から超越したものとして、人間と神の存在の位格を
隔絶させた。キリスト教の神は無からすべての事物を創造した絶対者であり、この絶対
者から見ると、人間はだれもが無にひとしいもの、平等なものに見えてくる。 社会の経済的な土台として奴隷を利用し、女性や外国人を差別するのが通例だった古
代の社会において、人間だれもが平等であることを理念として示すことができるようにな
るためには、この超越する絶対者という思想が大きな役割を果たしたのだった。 空腹になり、渇きを覚え、眠気に襲われる。いつでも何かしら欠如感にさいなまれて、そ
れを満たそうとして苦労している存在である。しかしこのように苦しむ存在であることによ
って、世界のうちで生きることの意味が生まれてくる。 人間が身体をもち、さまざまな欲求に苦しむ受苦的な存在であることによって、他者に同
情し、他者とともに世界を構築すう意思と欲望をもてるということである。自分が苦しんだ
ことがある者だけが、他者の苦しみを理解することができるはずだ。 理性は、自分がいずれ死ぬことを認識している。しかし自分の死を自分のこととして実感
するのは、「パトス」的なものである不安によってである。そのような存在である人間は、
世界のうちに身体をもって存在し、自己に配慮し、他者のために思慮し、不安を感じなが
ら自分の生き方を見つめなおす。人間は受動的な存在であることで、初めて能動的に行
動し、人々と連帯し、実存として存在することができるのである。 (パトスというギリシア語には二重の意味がある。情念という意味と受難という意味だ。英
語などでも「パッション」という語は情熱という意味のほかに、受難という意味を受けつい
でいる。) いまではパトスは不安や驚き、死の恐怖などに襲われて、感情的に高揚した状態や悲
壮な様子を指すようになった。19世紀のロマン主義では、このパトスに襲われた状態に
おいて、天才的な創造が可能となると考えた。 深い感情に襲われるとき、それまでにない新しい<眼>が開けることがあるのはたしか
だろう。たとえば悲劇などを鑑賞するなら、作中人物の運命が観客の感情を嵐のように
かき立て、観客は、人間の運命に深いところで共感するのである。 一つの時代にはただ一つの思考の枠組みが存在し、すべての問いはその枠組みの内部
から生まれ、その外部にあるものは思考されず、問われることがないと考えた。 たとえば中世には、世界を解読すべき書物のように考えることがあり、フランス革命まで
の時代には、すべてのものを表象として考えることがあう。 そして近代では、表象として世界を見ることをやめなければ生まれなかったと考えるのだ。 「パラダイム」の概念は、科学の発展を分析するために作られた道具であり、その時代の
科学者にとっては周知のものである。 しかし「エピステーメー」はその時代に生きる者にとっては無意識的な思考のパターンで
あり、透明で見えないものである場合が多いという違いがある。またこれは科学だけに考
察の範囲を限定しないために、広い範囲をカバーできるという利点がある。 それでもパラダイムとエピステーメーは同じところを見つめているのである。 人間は物自体を認識することはできず、「表象」を把握するにすぎないことをその哲学の
根本に置いていた。 さらに、人間はそれによってしか事物を把握できず、それはつねに過(あやま)つもので
あると考えた。 しかし問題は、人間がどのようにそうせざるをえないか、どのように過(あやま)たざるを
えないかという側面にある。 人間が真理と考えるものは誤謬(ごびゅう)であるかもしれない。 しかし人間は誤謬を真理と信じ込むことによってしか思考することができない。いわば表
象は不可避な誤謬だということになる。 「風土」という概念は、日本の倫理学者が作りだしたものだ。日本で生まれた概念で、い
までは西洋でも受け入れられている。 特定の地理的な環境のもとで生まれる民族的に固有な特徴と、その特徴についての自
己了解である。それぞれの社会には固有の風土があり、その社会で生きる人々の生活
や思考は、その刻印を受けざるをえないのである。 すべての民族は固有の風土の影響を受けながら、しかもそれをみずから作りだしていく
ものである。相互作用のうちに、自己を規定し、了解するわけだ。自由であるというのは、
何もないところで自己決定することではなく、風土に働きかけ、超越する自由でもある。 自然が暴威をふるうことがないヨーロッパでは、自然を人間に従属させるという人間中心
主義的な思考が生まれやすいと考える。人間は風土的な環境のうちで初めて自己了解
に達することができるのはたしかだろう。 世界の歴史とは絶対的な精神が個々の民族に固有のありかたから解放され、人類とし
ての人間の自由が実現されると考えた。このように民族は歴史のさまざまな段階で固有
の役割を果たすと考えたのであり、風土の概念も、東アジア、西アジア、ヨーロッパに固
有の特性を割りあてることで、歴史哲学を踏まえようとしたのである。 現代では歴史学や政治学の分野で、地理的な環境を重視する地政学が、この風土の視
点を受けついでいる。 「フェティシズム(物神崇拝)」とは、ある種の性的な倒錯で、ほんらいの性愛的な身体器
官ではないものに異様な愛着を示すことだ。最近ではフェチと略されている。 しかし性的な局面だけではない。たとえば、自然に聖なる力があると思いたくなることが
ある。日本でも月山(がっさん)とか高野山(こうやさん)などは聖なる山として信仰を集め
てきたし、神社などには聖なる樹木(じゅもく)がまつられていたりする。自然の事物を聖
なるものと考える素朴な自然宗教のことも、フェティシズムと呼ぶことがある。 聖なるものとして崇められているのは、どこか崇高なところのある自然の事物だけでは
ない。資本主義の社会では商品や貨幣もまたフェティシズムの対象となる。 貨幣はそれ自体においては価値のないものでありながら、すべての物を購入する力を
そなえたものとして、使用価値のあるさまざまな物よりも優れたものと見なされることが
ある。ここに貨幣に対する物神的な崇拝が潜んでいることはたしかだろう。 貴金属店に飾られた多数の貴金属商品がどこかオーラのような威光を放っているのは、
このフェティシズム的な力によるものだ。 欲望の対象でありながら、手の届かないもの、どこかに聖なる力をそなえたものに見え
る。それはデパートなどに麗々(れいれい)しく飾られた商品たちも同じことだ。もともと
“おまけ”にすぎなかった人形が、オークションなどで高額で売買されたりすることもない
わけではない。 物神崇拝をしがちなのは、こうした商品や貨幣だけではない。物だけでなく、何かを絶対
的なものと信じ込んだ瞬間からフェティシズムは始まるのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています