Aleph 辛
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世界には日本語に翻訳しにくい言葉がある。
カリブ・スペイン語の「コティスエルト」。
この一言で、日本語にすれば
「シャツの裾を絶対ズボンの中に入れようとしない男の人」
という意味になるそうだ。
『翻訳できない世界のことば』(創元社)で見つけた。
だらしないなどの悪い意味ではないらしい。
「人生も着るものもリラックス」した人。
そんな前向きなニュアンスがこの短い言葉には含まれているそうだ。
シャツの裾を入れるべきかどうかをめぐって、
前橋市内の中学校の先生がおもしろい実験を行ったそうだ。
体操着の裾を入れた生徒と入れない生徒に運動してもらい、
その後の体温を調べたところ、裾を入れない生徒の体温の方が
4度も低かった。そんな違うものなのか。
実験結果を受け、この先生は夏の運動時などは体操着の裾を出した方が良いと指摘している。
猛暑だったこの夏を思えば、もっともな話で熱中症対策に一役買うだろう。
かつてシャツの裾はズボンに入れなさいと教えられた世代だが、
1990年代に入れない派が次第に拡大していった印象がある。
最近はむしろ入れる方が少数派で見かけるのはゴルフ場ぐらいか。
ちまたの傾向がそうであるならば、体操着の裾も柔軟に対応した方が子どもたち
の夏の運動をより楽にするだろう。
大切なのは行儀よりも身体である。
「コディスエルト」は悪くない。 温かみ伝わる手紙やりとり
今年の暑さは超絶級だ。
私は、親友に涼しげな暑中見舞いを書くことにした。
学校は違うが、頻繁にメールでやりとりしていて近況は知っている。
先日、彼女から先に手紙が届いた。
書かれた文字の温かみをとてもうれしく感じ、茶封筒がなんだか面白く見えてワクワクした。
返事の代わりに暑中見舞いを書いていると、彼女のことを考え、言葉を選びながら
間違えないように書いている自分に気が付いた。
手間がかかる分、自然と言葉の一つ一つに気持ちをこめているように感じた。
最近は便利なコミュニケーションツールが増え、手紙のやりとりは少なくなってしまった。
だからこそ、人の温かみに触れることができる手紙がもっと広まってほしいと思う。 <「あいさつ」で地域を幸せに>
最近、身の回りであいさつが減っているのではないかと感じる。
私はマンションに住んでいるが、しない人をよく見る。
特にスマホに夢中で周りを見ていない人が印象的だ。
あいさつは大切で、メリットがある。
だから多くの人が積極的にしたらよいと思う。
あいさつをすることは何よりも気持ちがよい。
地域とのつながりを感じることができ、お互いに礼儀を示せる。
あいさつを面倒くさく感じている人は、
一度だけでも笑顔であいさつをしてみてほしい。
今後も絶対にしたくなってくるはずだ。
皆があいさつをすることで地域が、日本が良くなることを願っている。 多くの小中学校で夏休みの終わりが近づき、図書館がいつもの年のようににぎわっていた。
およそ40日間の自由の代償ともいえる宿題と最後まで格闘する子も多いはずだ。
作家安岡章太郎にも格闘の経験がある。
小学生の時、夏休みの最終日まで宿題に手を付けなかった。
白紙の宿題帳を見た母は驚きと怒りで
<お前、死になさい、お母さんも死にます>
と口走った(『まぼろしの川』)。
そこから母子による宿題との闘いが始まる。
でたらめな答えを二人で書き込み続けた。
<その夜のことを、私は一生忘れまい>。
作家は初めての徹夜に大人になったような興奮も覚えた。
話は傑作の短編小説『宿題』にもなる。
夏休みの終わりと手付かずの宿題。
文学に昇華可能なテーマだろう。
ネット上での宿題代行の出品をめぐり、文部科学省が規制に乗り出したというニュース。
読書感想文なる商品が定着していたことに加え、格闘しないという選択肢が普通になっていたのに驚く。
時間を受験勉強にあてるという言い分には考え込んでしまうが、正面突破は悪くない。
本や自然との出合いが宿題にはあった。
苦しみが鮮明な大人としてはそう言いたくもなる。
世の中は解決に代行不可能な問題ばかりである。例の障害者雇用率の水増し問題。
省庁は、再発防止に正面から取り組まないといけない。
大人の宿題も思う夏休みの終わりだ。 <天井のあたりに音がしたと思つたとたんに、激しい揺れと家鳴り…
そこいらじゆうが埃(ほこり)くさい空気になつた>。
19歳で関東大震災にあった作家幸田文(こうだ あや)は小説『きもの』で、
その時を生々しく描いている。
町に火が上がる中、主人公は不安に感じながらも、家を離れ上野を目指す。
火が迫りそうな場所や津波が怖い川沿いを避けての道中、
見たのはわれ先に道を争ってパニックに陥った人々やなぜか火の手の方角に逃げる人々の姿だった。
死者や行方不明者は10万人以上で、逃げた場所で火に巻かれた人も多かった。
そんな大地震の切迫感が伝わる。
父の幸田露伴(こうだ ろはん)も随筆で無念を
<人々は…自ら大なりとした其(その)大なることが、猛火の前の紙片よりも
つまらぬ小なるものであることを悟らされた>
(『震は亨(とお)る』)と表現した。
災害多発の国で、経験が生かせず、犠牲を防げなかった無念だ。
大震災からきょうで95年。
忘れたころどころか天災が忘れようもないほどの間でやってくるようになった。
その中で迎える防災の日でもある。
西日本豪雨の被災者から「まさかこの場所が」の声も聞こえてきた。
避難にさほど気を配ってこなかった反省が込められている。
いつ、どこに、どう逃げるか。遅すぎず、パニックにも陥らずに。
95年前の課題と反省は、災害が絶え間なくやってくる今、
よりはっきりと目の前にあるようだ。 「哀蚊」。そう書いて「あわれが」と読む。太宰治の短編小説「葉」の中に出てくる。
「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻(かいぶ)しは焚(た)かぬもの。不憫(ふびん)の故にな」。
そう聞けば、哀蚊の「哀」にほだされて9月の蚊を打つ手もためらい、見逃してやるかという気にもなる。
蚊に刺されても、かゆみを感じなかったという物理学者の寺田寅彦は
「蚊のいない夏は山葵(わさび)のつかない鯛(タイ)の刺身のよう」で物足りぬと書いている。
蚊ぎらいの身にはまったく同意できぬが、この夏がそうで、いつもの年に比べ、
あまり蚊に刺されなかったという人や未明の不快な「ぷーん」の羽音を聞かなかったという人もいるのではないか。
どうも猛暑と関係があるそうだ。
専門家によると、蚊は暑くなりすぎると飛ばなくなり、寿命も短くなるようで、気温が35度以上になると、
人の血を吸う気さえややうせるらしい。
気温が上がれば、ボウフラが成長する水たまりも干上がりやすい。
種類にもよるが、蚊には猛暑がドラキュラのニンニクだった。
異常な夏を乗り越えた哀蚊だが、不憫を感じる必要はないだろう。
なんでも、初秋にメスの蚊は卵を何とか残そうと吸血欲求を高めるそうで、
涼しくなった頃合いを見て、あの「ぷーん」とかゆみが戻ってくるかもしれぬ。夏の分を取り返したいか。
ホモサピエンスの長年の宿敵も必死であろうて。 カクテルの「王様」、マティーニの作り方はおおよそジンが「三」に対して、
ベルモットが「一」でこれよりもジンの割合が高いものがドライ・マティーニとなる。
ヘミュングウェーの小説「河を渡って木立のなかへ」にかなり辛口のマティーニを飲む場面がある。
ジンが「十五」でベルモットが「一」。
ほとんどジンである、そのカクテルの名は「モンゴメリ将軍」。
第二次世界大戦で活躍した英陸軍の軍人。
なんでもこの将軍、相当慎重な人らしく、味方と敵の戦力比が「十五」対「一」
にならないと攻撃しなかったとか。
もっと辛口のマティーニがご所望なならばその名は皮肉をこめてこうなるか。
「日本共生社会」。中央省庁が障害者雇用者の数をごまかしていた問題である。
ひどいバーテンダーがいたもので機会の開かれた社会のため、
働く人のうち一定の割合で障害者を雇う法令を定めたにもかかわらず、実際は雇っていなかった。
ただでさえ、その比率は低いのに、入れたふりをして入れていたのはその半分。
これが「共生社会」の現実なのか。
雇用を待つ障害者には無情の仕打ちである。
既に亡くなった人を障害者として算入していたケースもあったと聞く。
ごまかしのカクテルを障害者雇用の手本となるべき中央省庁が作った。
飲めば、気分が沈み、大声で泣きだしたくなる、その悪い酒。
一から作り直さねばならない。 <まだ青い素人義太夫(ぎだゆう)玄人(くろ)がって赤い顔して黄な声を出し>―。
蜀山人(しょくさんじん)(大田南畝(なんぽ))の狂歌と伝わる。
思い出すのは落語の「寝床」。
旦那が下手な義太夫を長屋の店子(たなこ)や店の者にむりやり聞かせて、苦しめる。
「下手なだけならいいんだよ。あの声を聞くと患うからいけねえんだ」
「この間なんか、耳の遠くなったおばあさんまで旦那の義太夫をまともに受けてひっくり返った。
胸に大きなアザが残っている」。
人体に悪影響を及ぼすとはすさまじき旦那の声の破壊力である。
そのニュースに、さては旦那の声は「マイクロ波」だったか、などとあまりふざけてもいられまい。
2016年以降、キューバ駐在の米外交官ら25人が聴覚障害などの不調を訴えていた問題。
その原因は「マイクロ波」攻撃だったとの疑いが強まったと米紙が報じた。
被害者は脳に損傷を受けた可能性があるという。事実なら深刻な話である。
電子レンジなどで使われる「マイクロ波」。
かつて旧日本軍も「怪力線」として兵器利用を研究、断念したと聞くが、
現代では数ブロック離れた距離から対象を狙って照射できるレベルまで開発が進んでいるのか。
見えない波でひそかに敵を…。
こんなものを使い始めれば、世界は「マイクロ波」の応酬になりかねない。
<赤い顔して黄な声を出し>。
怒りでこっちの顔が赤くなり、恐怖で黄色の叫び声が出る。 さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」の「りぼん」連載第一話はまるちゃんが一学期の終業式に
学校からたくさん荷物を苦労して持ち帰る場面から始まる
ヘチマの鉢植えや絵の具箱なども見える。
「あーあ工作で作ったヘンな人形がランドセルからはみだしちゃってマヌケだなあ」。
ランドセルが重そうである。どなたにも記憶があるだろう。
教科書や学用品など学校の荷物は結構重い。
ジャンケンで負けた子どもが友だちのランドセルも電柱十本分の距離だけ運ぶ
という遊びをしたことがある。
最近は見かけぬと思っていたら原因はこれかもしれぬ。
われわれの時代に比べて、さらに学校の荷物が重くなっているようなのだ。
教える量が増え、教科書は大型化。副教材も豊富。
ランドセルメーカーの調査によると最も重い日の平均は約6キロ。
低学年には苦労だろう。
小中学校の重い荷物の軽減に向け、文科省が全国の教育委員会に
適切に工夫するよう求める通知を近く出すそうである。
通知には宿題や予習復習で使わない教科書は学校に置いておくことも
工夫例として提示する方向という。
教科書はすべて持ち帰りなさいと指導された世代から見れば、
ずいぶんと話せる対応である。
こんな例示も加えたらと思う。
小さな子が苦労しているのを見かけたら大きな子がちょっと助けてあげる。
優しさに荷物も心も軽くなればいい。 「禅」は一歩一歩と段階的に登るような修行を重ねて何らかの境地に到達するというものではなく
迷いを超越して一気に悟り得たことを主張し、生きたまま仏になることを考えにするものだ
まあ、巷の言葉でわかりやすく例えれば「信心」するというところか 泣きっ面にハチ、踏んだり蹴ったりなど凶事(きょうじ)が重なることを
意味する日本語の言い方は多いが、英語の慣用句は雨と関係する。
「IT NEVER RAINS BUT WHAT IT POURS」。
「降れば土砂降り」と暗記した人も多いだろう。
往年の米女優ジュディ・ガーランドが古い映画で同名の曲を歌っている。
朝、ベッドで転び、つま先をぶつける。
顔を洗えば、石鹸(せっけん)の泡が目に。
タオルも見つからない。
髪形(かみがた)も決まらないし、朝食でジュースをこぼして服も台無し。
歌には同情するが、こっちの話は不運が重なった結果だけではあるまい。
台風21号の影響で関西空港が冠水(かんすい)し、空港内に利用客や従業員ら
約8,000人が取り残された。
潮位(ちょうい)の高い時期に「非常に強い台風」。開港以来の強い風。
それに流されたタンカーが空港の連絡橋に衝突して、橋は通行不能に。
確かにいろいろ重なった。
その日は開港記念日だったというおまけもついた。
が、この「踏んだり蹴ったり」は本当に防げなかったか。
以前から地盤沈下が心配された空港でもある。
高い潮位への備えや、一本しかない連絡橋に万が一が起きた場合の対策は
十分に練られていたか疑問もある。
「想定外の大きさの台風でして」の言い訳では、同じことの繰り返しになるだろう。
異常気象で、「降れば数十年に一度の土砂降り」となる想定外の昨今である。 最近、巷では「生きる力を教える教育」だとかが持てはやされている。
これもまた意味のわからない嫌な標語である。
そもそも、人が人に教えられるのは、およそ事物に限られるのであって、
情操に関わる事など、けっして口舌で教えられるものではない。
それは両者が全身全霊を持ってぶつかり合う中で、
互いに体感するより仕方のないもので、
それを箸(はし)の持ち方やキーボードの押し方のごとく学校で教えたりできる、
と思いこむ所に最大の問題がある。
それが可能であると錯覚するのは、教育に対する買い被りであり、
人間に対する買い被りであり、
自身の内面的探求の欠如を示す以外の何ものでもない。 蛙(かえる)の神経に刺激を与えて、ピクピクと動かす実験を、一つ人間にも……、と思っての事だろうか。
生きる力なるものを与えれば、怠惰で厭世的な人物が、突如として勤勉で前向きな青年になる、とでも言うのだろうか。
言葉を弄んでいるとしか思えない。
いや寧ろ言葉に弄ばれ、観念の奴隷になっているのだろう。 教育とは、事物に関する事柄、全く無味乾燥であるかも知れない事柄を、
ただ淡々と教えるしか他に方法の無い、果てしなく、悲しい人間の営為である。
しかし、そうした行いを倦(う)むことなく続ける人の闘志、その内に秘めたる情熱、
その全人格的な広がりが、ごく自然に学生にいい影響を与えて、
ここに本質的な教育効果が生じるのである。
すなわち、人が人に教えるなど不可能であると知ってなお、
それを諦めない教育者の真摯(しんし)な姿勢が、その難事を奇跡的に可能にするのであって、
心を教える、生きる力を教える、などという思い上がった態度で、なし得るものでは断じてない。
そうした僭越(せんえつ)、あるいは、偽善を青年は決して見逃さず、最も激しく反発するのである。 草花は、人が水をやったから花を咲かせるのではない。
それは大自然がもたらした大いなる恵みであり、花自身に備わった生への意志の発言である。
提唱者に問いたい。もし、生きる力、や、心の教育、と称するものに失敗した場合、
あるいは、学生がそれを拒んだ場合、その人物には、もはや、生きる力、も、人間の心、も存在しない、
と言うつもりだろうか。
まさかそんなことはないだろう。
では、それは既に彼らの中にあると認めたことであり、あえて教えるには及ばないだろう。
これは揚げ足取りではない、言葉の綾(あや)で済まされる問題ではないのである。 逆に、生きる力の教育が不十分だったから、俺には生きる力が無くて当然なのだ、
と開き直られたらどうするのか。
もっと深刻に、心の教育の意味する所が理解できないから、私には人間らしい心がない、
生きるに値しない人間に違いない、と言いだしたら、どう答える心づもりなのか。
こんな危険なことがあるだろうか。
その意図がどれほど、崇高(すうこう)、であろうと、これほど人のやる気を失わせる言葉は
存在しないのである。
いかに生きるべきか、最も真剣にそのことを、自力で、考えようとしている世代に対して、
その外側の安全地帯に居る人間が、既にそうした根本的なこと考える力を失った老人たちが、
ご丁寧にもマニュアル片手で教えてやろう、というのである。
これほどの偽善が他にあるだろうか。
やがて利発(りはつ)にして皮肉な彼や彼女は立ち上がって、こう訊ねるだろう。
われわれに教える前に、先生がまず学ばれたらどうでしょうか、と。 心の教育、の根本に見える、物と心、なる単純至極な二分法は、全く意味が無いばかりか、
人間精神の本質を捉えていない。
物と心のどちらが大切か、と問えば、必ずや、心である、と返事がくるとの無反省な想定から、
出発しているのではないか。
これは質問が誤っているだけではない、答えも大いに間違っている。
こうした幼稚な問いにあえて答えるとすれば、詭辯(きべん)でも逆説でもない、
心より物が大切、なのである。
控えめに言っても、その順序が逆である。 次の単純な例を考えてもらいたい。
亡くなった家族の遺品は、果たして物だろうか、心だろうか。
他人には、ただの壊れた時計でしかないものが、当の家族にとってはかけがえのない、
正に故人の存在そのもの、となるのは何故だろうか。
それは、故人が常にその時計を携帯し、暇があれば磨き、人に会ってはそれを自慢し、
時計の出所、手に入れた背景を語って倦(う)まない過去が存在するからである。
物、を大切にするところにしか、心、は存在しない。
故人が、その時計に費やしたあらゆる行為が、その人の心の反映、いや心そのものなのである。
だからこそ、ただの鉄の塊(かたまり)に過ぎない、壊れた時計に対してその人を想うのである。
極端な場合には、自らの命を危険にさらしてまで、その時計を守ろうとするのである。
具体的な物を通してしか、心のありようなど論じ得ない。
物より心、などという浅薄(せんぱく)極まりない発想からは、本当の温(ぬく)もりある人の心は育まれない。
あんな鉄屑(てつくず)のために命をかけてどうするの、と言う人は、
その瞬間に故人の心に泥を塗り、同時に自分自身の心まで虚しく捨て去っているのである。 こうした物心の逆転現象の末に、ついにわが国の技術の果て無き凋落(ちょうらく)が始まった。
技術者の誇りとは、自分の分身である、物、を作ること、その手助けをしてくれる道具を愛すること、
ただその事に尽きる。
職人の使う道具を見れば一目りょう然である。
およそ一流と呼ばれる人で、道具を大切にしない人はいない。
大工ならノコギリを、調理人なら包丁を、野球選手ならグラブやバットを、学者なら紙や鉛筆を、
暇さえあれば手入れして常に最高の状態に保っているはずである。
そうした物に対する不断の努力の中にのみ、それに見合う美しい心が存在する。
もし、これらの道具を足蹴(あしげ)する者が居れば、ただちに決闘が始まるだろう。
高々バットを跨(また)いだぐらいで、何も殴らなくても……、
などとは言えないのである。 こうした職人気質(かたぎ)を前時代的で無意味と断じたために、
技術者一般の志(こころざし)が低下したのである。
住宅の手抜き工事、新幹線のトンネル事故、核燃料の臨界事故、などなど、
技術に関わる事故はいかに制度を直しても決して無くなりはしない。
それを扱う人の心が、すなわち、物を愛する気持ちが育てられない限り、
増えることはあっても減ることはない。
標語、生きる力、心の教育、には問題が多すぎる。 濃い、淡い緑が広がっているはずなのに、地肌の茶色があちこちでむき出しだ。
巨大な爪にそこらじゅう引っかかれたかのような北海道厚真(あつま)町の姿に驚きと恐怖を覚え、
助けを待つ人々の無事を祈る。
びっしりと植えられた木々の下から、冷たい土が一瞬で表に出てきた。
災害に備える難しさを突きつけられているような最大深度7の地震である。
近代的でもろさなど感じられなかった関西空港が風と高潮でまひしたばかりだ。
自然の災厄の無情な力を連日目のあたりにしている。
これほど地震が北海道を襲うとだれが想像できただろうか。
ただ、かの地では、アイヌ民族が、災害が多かったことを思わせる物語
を口伝えで受け継いできた。
現代への警鐘に思える。
神話では、この地は洞爺湖(とうやこ)などにいる巨大な魚が暴れると
地震が起きることになっている。
その一つでは、英雄神が苦労して退治するのだが、退治した後に踊ると波が立ち、
今度は地滑りが起きた。
<十勝(とかち)川へ大山津波が下り/わが沙流川(さるがわ)も大山津波が下る>
(金田一京助(きんだいち きょうすけ)著『アイヌ文化志』)
アイヌ語由来の地名にも災害の跡を思わせるものが多いという。
アイヌ文化研究家 更科(さらしな)源蔵 によれば、札幌を流れる豊平川(とよひらがわ)
の「豊平」も崩れた崖という意味だ。
われわれの足元の下には災厄があり、すぐにその恐ろしい顔を見せる。
再認識しつつ力を合わせるときだろう。 夜更け。私は歩いていた。厚く大きな灰色のコンクリートが私の目から縦に、等
間隔に並んでいるので、橋の下だろうか。地面には茶色く枯れた猫じゃらしなど
の鬱蒼している雑草。周りに人気はなく、草を踏む音だけを意識させる。
背中をコンクリートに預け、しゃがんだ。なぜここにいるのだろう。無意識がそ
うさせているのか、考える気力さえなかった。ただ今感じるのは、何もかも逃げ
出して安心したい。そう、不安だったのだ。そう思うと、私は死にたかったんだと
気持ちがわいてきた。
だけど、ここには死ねる手段はない。首を吊ろうにも引っかけるものはなく、
ただ壁に頭をぶつけることはできようが、体力はいるし、中途半端に死ねな
かった場合、障害もたせるだけだと考えて勇気が入らなかった。
私は橋の下の天井を仰ぎ、ため息をついた。これからどうしよう。何かが耳を
くすぐった。風だ。風の音が私に語りかけているのだ。言語化にはできない、
ただひゅうひゅうと耳を触るだけ。肌にも触り、少し寒気を感じ始めた。半袖半ズ
ボンを着ているのに気づく。
今は夏だ。だけど虫の鳴き声はまったくしなかった。よって虫もまたいない。
蟻一匹さえも。こんなところでは住み心地が悪く過ごしていけないのだろうか。
不思議に思ったが、追及することはよした。
私はなぜ死にたかったのだろう。ここに来ただけで、その思いは揺らいだのか、
安らいだのか、ただなびく風と草の音だけが励ましてくれているかのように。 ・分史世界(仮)に迷い込んだ4人の家族(母・姉2人・長男の私)
・その4人の家族は二人存在している。全く同じ姿
・そこは戦時中なのか警報が鳴り、焼夷弾が降っているが昭和ではない
・なんとかして自分の世界に戻ろうとするが分史世界の家族も入ろうとする
・コミュケーション取るが相手も狡猾。どちらが本物かわからなくなる
・他の人には二人いることは認識できないらしい。どちらか一人だけが存在できる(設定不足)
・町会議の会話の中で隙を見つけて、本物を見つける
・ようやく元の世界のゲートが開いている内に戻ろうとする
・本物が確定しない限りみんな入れない
・私だけ分史世界に戻って、みんなを探す
・町会議の会話の中で偽物か本物かどうかを把握する
・その世界でやっと本物の姉を見つける
・ゲートが閉まらないうちに入る
・なんとか戻れたと思うが、途中姉の赤子が行方不明でもしかすると分史世界に迷い込んだらしく私も後を追う
・一人、焼夷弾の雨が降る中、子どもを探す
・姿は見つかるが赤子のため本物かどうか把握できない
・結局本物だと思った分史の赤子を連れて帰り、本物は空襲の中で生き延びることとなる
・私は本物が強く生きることを願うしかない、そうつぶやいた
・To be continued 番長の物語もこういった顛末のメモをしておくべきだった <闇があるから光がある>。
作家小林多喜二は若いころ、恋人にあてた手紙でそう書いた。
北海道小樽市の飲食店で、家族の借金のため、苦労して働いていた不遇の女性だ。
手紙は続く。
<闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分るんだ>。
今はつらくても必ず明るい日があなたに訪れると励ましている。
弾圧の中でも才能を発揮した作家の悲劇的な人生を思えば、いっそう心に響く。
希望の言葉として今も語られる理由だろう。
地震で北海道中が、闇に包まれた。
復旧は進んでいるが、全道が一時停電する異常事態はやはり想定を超えている。
電力システムの弱みが露呈したという。
電気が欠かせない世の中で地震の秘めた怖さをみせつけられた思いだ。
日常生活から公共の交通まで、影響は広く及ぶ。
中でも、輝かしい先端技術が集積した携帯電話は、電源を失ったときの弱さをみせた。
情報の収集も伝達もスマホへの依存は進む。
光のない夜、不安にさいなまれた人は、多かったに違いない。
その不安に乗じるようにデマも流れた。さいわい致命的混乱はないようだ。
信号機が光を失った中でも、保たれた人々の落ち着きもあるだろう。
多喜二の手紙は言う。
<世の中は…不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある>。
闇をくぐり抜けてきた被災者たちの苦労や忍耐。将来への糧となってほしい経験だ。 THE ENDのほうが綺麗だな。連載漫画ばりに格好つけてしまった 結論から言うけど
日本青年社とかに入るよりは
ずっと良いだろう 学生がアルバイトに励むのはもっぱら糊口(ここう)をしのぐためである。
81歳で亡くなった一橋大名誉教授の安丸良夫さんもそうだった。
先輩から勧められて大学院生時代に軽く引きうけた仕事が生涯の航路を決めた。
週2回、京都・亀岡にある神道系の教団「大本」の本部に通った。
70年史を編むよう頼まれた。
邪教、怪教と弾圧された歴史を持つ教団だが、開祖の出口なおが残した書き物に引きこまれる。
無学無筆の控えめな女性がなぜ神を名乗ったのか、庶民があつく信心を寄せた背景は何なのか。
研究の出発点となった。
西洋哲学への憧れは薄らいだ。
関心は宗教から百姓一揆、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、自由民権運動へと広がる。
支配者の思想ではなく支配される側の思想を見つめた。
たどりついたのは勤勉、倹約、謙譲、孝行、忍従、正直、献身、粗食、早起き――。
これらを「通俗道徳」と呼び日本社会の近代化を支える背骨だったと論じた。
生まれ育った富山・砺波(となみ)地方に根付いた浄土真宗の教えに通じる価値観である。 舞台は近未来に焦点を当てる。
恐ろしい発明によって、数多の時代からタイムリープしやってきた各々の兵が、
それら時代に見合った鈍器や銃器などの兵器を抱え、激戦を繰り広げる。
戦争に理解あるもの血を、ないものが血と涙を流し、
栄光を掴んだ者の出した答えは、やがて全ての人類を消滅させる結果に至るだろう。 好きなんだよな。もともとこういうの。今の気持ちがそうさせてる そりゃあ、オウムに入りたがるさ。今の若者は現世よりも来世を欲している 世代がわかってしまうが、私にはネバーエンディングワールドが一つの答えだとも思っている この主張はいつだって揺るぎないがな。何度も言っている みんな、わかっているんだ、きっと。自分も、わかったような顔をしている… そしてこの行いが、善人の沈黙に繋がるだろうということも 己魂に語りかけるのは止めて、今度はサタンと対峙している。それが魂だとも主張できるが、今度は敵として見ている だから前スレ「静閑寂雅」とは違って文章に遠慮するつもりもない(とは言っても後半は酷い文章だったが) 科学者がなぜ心霊を崇拝するのか。そしてそれをマスコミが語るのか。視聴者はそれを見たがるのか 今は違うだろうが、90年〜2000初頭はそういう雰囲気があった やや主張が前後するが、科学者達による世紀末思想、かつて騒がれていたな。なんとなく耳にするだけだったが その予想は掴めず。人類、特に日本人のほとんどは暫くまだ悠久の時を経るだろう 言うまでもなく、私もそれを望んでいる。身体のどこかをおかしくしない限りではな どの新興宗教も科学者を引き合いに出していることが多いと認識している。信者が自覚しているかは怪しいが 特にデリケートな話だが、中では非科学的を崇拝する者が圧倒するであろう。理論物理学者からすれば可愛いものだと揶揄われる事実もあるが 私の興味ある分野は、物理学なのか心理学なのだろうか。時間はまだ許されるから、じっくり網羅しながら考えよう それらも等しく文化であるから、区分けする必要はないという考え方もある 分野として区分けしているか。頓珍漢なことを言ってしまったかも テニスの全米オープンで錦織・ジョコビッチ戦をテレビ観戦していて、
松本大洋さんの漫画『ピンポン』のある場面を思い出した。
それにしてもジョコビッチが強い。ああ、また、錦織がブレークされた。
漫画の中で、ライバルの選手が試合に負けた主人公にこうささやく。
「お前にひとついい事を教えてやんよ。ペコ。絶対に負けない唯一の方法さ」。
本当にそんな方法があるのなら、誰だって知りたい。今の錦織だって。
どんなに強烈なフォアハンドを決めても、ノバクは打ち返してくる。
もう1セットを失ったか。
絶対に負けない唯一の方法とはなにか。漫画の男が教える。
それは、「勝つ事だ。ひひ…」。
それでもそれは真実。走れ、錦織。
ゲームセット。またしても旧ユーゴ出身の元世界一位にはじき飛ばされたか。
これで14連敗。通算成績はジョコビッチの15勝に対して、錦織2勝。
なんと高く険しい山なのか。
なかなか勝てぬ相手に悩んだ選手を知っている。
2010年までの通算成績は相手が16勝で自分は7勝。
が、挑み続けた結果、やがては通算成績で追いつき追い抜くようになる。
挑み続けた選手とは、ラファエル・ナダルに対するジョコビッチである。
コートを引き揚げる錦織。さすがにややうつむいていた。
さあ顔をあげてほしい。挑み続けるしかない。
それが「勝つ事」に近づくための唯一の方法。 <変わり始めた「保守」の意味>
日本の各地を歩いていると、現在ではどこに行っても移住者たちの姿をみかけるようになった。
私の村の家がある群馬県上野村でも、住民の2割強が移住者である。
移住者が定着し、さまざまな活動を生みだしている地域では、
必ずといってもよいほど、その人たちに活躍の場を提供している、元々の地域の人たちがいる。
昔から暮らしていた住民が新しい人を迎え入れ、支えている。
そして、この昔からの地域の人々の精神は、本当の意味での保守主義に根ざしている。
政治的な意味での保守ではない。
昔からつづいてきた地域を守りたい、この地域の暮らしを守りたいという思いがその人たちにはあって、
この心情のなかに、私は本当の意味での保守主義を感じるのである。
何もしないでいたのでは、伝統的な農山漁村は崩壊してしまいかねないのが今日の現実である。
新しい試みを導入していかないと地域は守れない。
だから移住者たちも迎え入れるし、彼らに活躍の場も提供する。
そのことをとおして、伝統的な地域やそこでの暮らしを守っていこうとしているのだから、
考えてみればそれは、保守の心情である。 保守と革新という言葉を使うとき、ソ連が崩壊する1991年までは、革新の側は、
内容はさまざまであっても、社会主義思想を参考にする立場をとっていた。
資本主義的な社会を、より自由で平等な社会につくり替えていくというのが、革新の立場であった。
革新の側は改革をめざし、保守は改革を拒む勢力だった。
ところが今日では変わってきている。
政治的保守の側が新自由主義、市場原理主義的な改革や、
戦後社会のかたちからの脱却を主張している。
憲法改正もその路線にもとづいて提起されている。
それに対して、この動きに批判的な人々は、戦後にめざした平和主義や自由、平等といった理念を
守ろうとしているのだから、ある意味では戦後的保守主義なのである。
かつては、変革を主張する人たちが革新の側であった。
ところが今日では、戦後の理念を守り、地域や地域の暮らしを守ろうとする人たちが、
政治的には改革派の役割をはたしているといってもよい。 私の暮らす上野村でも同じである。
村人たちは伝統的な上野村を守りたいと思っている。
自然とともに暮らす村、人々がごく自然に助け合う共同体としての村、
村の外の人たちとも結び合う開かれた村の伝統を守りたい。
そのために新しい試みを重ねていく。
村を変革するためにではなく、伝統的な村を守るためにそうしているのである。
現在の上野村は自然の力を使った地域エネルギーで暮らせる村をつくろう
と努力しているが、それも伝統的な村を守る試みのひとつである。 政治的保守の側が原発の必要性を主張し、
すべてを市場にゆだねた弱肉強食的社会に向かって社会を変えていこうとする。
この動きを批判する人々が、自然とともに生きる社会や共同体的な助け合える社会、
経済成長よりも充足感のある生き方ができる社会などを主張する。
そしてその奥には大事なものを守ろうとする、本当の意味での保守主義が流れている。
振り返ってみると、歴史が変わっていくときには、
必ずといってよいほど言葉の意味も変わっていった。
とすると保守という言葉の意味が変わりはじめた今日もまた、
歴史の変動期なのかもしれない。 釈尊は生老病死の四苦に悩んで出家されたといわれますが、
宗教といわれるものは生死の問題とか、罪業の意識とか何らかの苦悩に直面したり、
人間の力の限界に直面しその壁にぶつかった場合などに、
これを脱却しようとするところに起るのが普通だとおもいます。
この頃では四苦の中とくに「生」の苦しみ、つまり生活難の問題から宗教心を起す人も多いとみえて、
現世利益本位の新興宗教が大そう流行するようです。 それに学問が進んで参りますと、老病の苦しみなどは、宗教よりお医者さんか科学者の手に
かかった方が賢明だと考える人も多いこととおもわれます。
また「生」の問題は、宗教によるよりは、社会運動による方が解決が早い場合も多いとおもいます。
そんな訳でこの頃の宗教家は成ってない、ちっとも偉くないといわれますが、
たしかにそういわれても弁解の言葉もありません。
昔は弘法大師にしても、伝教大師にしても、その他の祖師方にしても、人身の救済は元より、
病気を癒したり、政治に顧問をしたり、道路を開いたり、橋をかけたり、戦争の参謀をしたり、
天文地理人事の万般にわたっての最新最高の知識をもっていて、
それらを適切に指導処理する実力をもっていました。
それが社会の複雑化や、学問知識の発達に伴って分化してまいり、
ついに宗教家は葬儀法要を分担するだけの専門家になってしまったのです。 ところが妙なもので、科学が最高度に発達して原子核の構造まで判ってきたら、
逆に人間の知識の産物によって人間が滅んでしまいそうになってまいりました。
そこで改めて“人間とは何ぞ”が問われることになりました。
つまり歴史や文明の根底に向って、宗教的証明をむける必要が生じてきたようです。 ガブリエル・マルセルは『人間―それ自らに背くもの―』の中で
「かつて、ニーチェは、“神は死んだ”という断定を下した。
それから75年を経た今日“人間は死に瀕している”という、いまひとつの断定が、
はっきり言葉にならずにむしろ苦しそうに呟かれながらも、
ニーチェの断定にこだまするごとくにきこえてくる」
と書いています。 “神は死んだ”からこそ人間中心の自我文明が生れたのですから、
こんどは“人間は死んだ”とならなければ原子力時代にふさわしい新たな超現代文明は起らないと考えますが、
それはともかくとして個人的な不安とか煩悶とかではなく、歴史とか文明とかの根底に不安が生じ、
そこに人間とは? との問いが起り出したのです。
宗教家はその部面に新生面を開いて、葬式専従者の汚名を返上しなければなりますまい。 むかしは人間は神のドレイで、死ぬのも生れるのも、一生の運不運もすべて神さまの思し召によるものでした。
ところが近世になって
「何人によっても(神によってさえも)決して単に手段として使用せられ得ない」
ところの自由な人間として、
「普遍妥当的立法の原理として妥当し得るよう行動」(カント)
する人間として自覚されるようになって、神と人間と主客が転倒し、
神が死んで人間中心の時代になりました。 この人間道中はカントからフィヒテ、シェリングを経て、ヘーゲルの絶対我まで登りつめ、
そこから左と右の降り坂にさしかかりました。
左はフォイエルバッハの道へ、右はショーペンハウエルの道へと分れたようです。
そのどちらの道もが原子力にぶつかって行き詰りの袋小路
―曲り角という人もあります― に入ってしまったのが現在です。 「自我」などというものを本来の人間だと錯覚してきたおろかさよ、
どちらへ行ったらよいか判らぬ曲がり角で迷うより、いっそもと来た道へ戻り、
親の懐ろに帰ろうとはおもうけれども、
さて、進まんとすれば路多くしてどれが故郷への道かも判らず、
退かんとすれば日はすでに西に傾いて家山の方角すら知り難いという有様です。
といおいつ、どうしたらよいやら、サッパリその方法も立ちかねて、
徒らに迷いの念がハチの巣でもつついたように群がり起るばかりです。 たとえ禅の道に入ったとしても、まだ坐禅の本当の要領が手に入らず、
またよしんば「内に向って」求めているにしても、
内と外、つまり求める自己と、求められる対象とが二元的に対立している状態です。
それでは駄目だ、間違っている、といってみたところで、
誰しもみな一度はとおる関門ですから、
その駄目を経験してみることも決して悪いとばかりは申せません。 エンニャダッタという婦人が、ある朝、自分の頭をなくしたといって、
気狂いのようになって探しまわった話はある譬喩(ひゆ)として有名ですが、
世界中の大学者が「自我」を追求すべく「区々として外に向って尋」ね、
ついに虚無絶望の深淵に立つ外なかったとすれば、
その一狂婦人をわらうわけにはまいりません。
「われ」は求められる対象の側にはありません。
「外に向って尋ね」ているうちに、肝心の「われ」は「脚底すでに泥深き」ところに埋没して、
一層その行方が判らなくなってしまいます。 「われ」というものは対象的につかもうとすれば、金剛経にいうように、
心不可得で、到底これを捉えることはできません。
なぜならばそれは本来固定的なものでもなければ、
形相のあるものでもないからです。
「白露のおのが姿をそのままに、紅葉におけば紅いの玉」で、
無自性なのが「われ」の本質です。
ですから向う側に尋ね出そうとすれば、求めれば求めるほど迷いが深くなって、
ますます不可解になってしまいます。
けれども、もしひとたび翻ってこれを自分の脚もと、求めているもの自体に反省したらどうでしょうか。 臨済禅師の言葉を借りるならば、われわれの目にあって見るという働きをしているもの、
鼻にあっては香を嗅いでいるもの、耳にあっては音をちゃんと聞きわけるぬし、
手にあってはつかみ、足にあっては歩くそのもの、
それは一体何ものでしょうか。
それが本来の「われ」の働きではないのでしょうか。 百姓は日に用いて知らず、という句がありますが、
朝から晩まで、目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、手で握り、足で歩いていながら、
一向その働きのぬしを気付かずにいるのが、われわれ丹夫のつねではないでしょうか。
それは「手に鼻頭をとって」現に心牛の鼻づらを引いていながら、それに気づかないと同じことです。
牛すなわちわれ、われすなわち牛で「同じく」起き臥しておりながら、それを他に求めているわけです。
「極意とは己のがまつ毛の如くにて、近くにあれど見付けざりけり」で、
余り近すぎるため、却って気づかないのでしょう。 答えが一つじゃないことはわかっています。ただ答えを出されるのが怖いんです。求めているままのほうが楽しいかなって ネタバレなんて本当にいえることだ。そのせいで物語が楽しめなくなる 過程を経て自力で結果にたどり着くのが物語の醍醐味なのに その時その都度に情緒を巡らせながら話を進めていくのだ 繰り返し読むと情緒から思考になり、また違った雰囲気を体感できる そういうわけで、割かし有名な映画などの物語は不意にネタバレを突かれることがあるので、あまり触れません… 自力が成功すればまた見たく、読みたくなるんだけどね ネタバレされて本当に悔しかったのは、アトラスのゲーム「キャサリン」だ。この会社のゲームはこのソフトが初めて だから次の展開はどうなる?! と胸たかぶらせながら進めていたわけなのだが、とうの昔の友人にヒントを出されて超絶さめた 本当にロマンティックなゲームなので、自力でプレイしていれば周回プレイしたくなるのに、本当に悔しい。あいつはもう知らない 論点は擦れたが話を戻って…、ネタバレされるとやる気が失せるのは、それだけ話と真剣に向き合ってるからだ 大抵オチは知っておくといいんだが、最近は祭りの後みたいな気持ちになるのが嫌で、終わりそうなムードを感じるとそこでプレイをやめてしまう その点、本はページの厚みがあるのでムード云々は言えないが、読後の感動は味わえる 本とゲームだけにすればいいのに映画で話をややこしくしてしまったな。最近のゲームは映画っぽいんだけど 84は最近、別の人からの意見を聞いて大変納得したから書いたわけだ。ゲームはそんなにやらん 外出中で物思いふけることもあるので、やはりこちらの端末でも登録しておこう やっぱり高校時代がデカかったなぁ。自分が人間になれない。本当の自分をつかめていない ネトウヨをただ忌まわしく思うのも本来の自己を掴めていないからだ。だから彼らも話を聞く気にならない。 ただ愛国心を自身のアイデンティティだと思い込んでいる。間違っているとは言えないし、彼らも信じる気持ちのほうが強いから 諭すなんて奢った考え方をしやすくするから、相手はわからないが、自分は自分がわからなくなる 合理的に諭して隙のない意見を言える人はいるが、はたしてその人が本当の域に得られているのか、疑問でもあります わたしの父のようにお前の考えは間違いだ、あれも間違いだ、これも間違いだと否定するのは正しいことなのでしょうか 生の声に惑わされてそれを抵抗しているようでは、まだ私は語れないレベルだ 禅には大いに興味があるのでな、感じた気持ちをここで書きつづる。あとで見直す 私はこれまで「われ」だと思い込んでいたものは実は本当のわれではなく、
本当のわれとは男でも女でもない、大人でも子供でもない、
時間や空間に制限されない永遠無限のものだ、という意味である。 けれどもだからといってそのような本来の自己が、この現実の五尺の肉体、五十年のいのちと別にあるものではない。 「生死は仏のおんいのちなり」と道元禅師も申されたように、
憎い、欲しい、惜しい、と埒もなく七転八倒している煩悩熾盛のこの凡身を離れて、
別に永遠不滅の仏身があるわけではない。 むしろ煩悩妄想の中にこそ、不滅の仏身はその全身を現わしているのだ。 101から104は日本語や主張がおかしいから余計に混乱する。レジュメしている場合ではなかったな 他者の主張を私の言葉でデフォルメするのも少し問題があったなと思うこととします 禅書を読めば読むほど、前スレの書き込みに意義があったと思える。理解が早い あれは自分の考えを自分なりの言葉で夢中に書いてたからな 人は誰もが一度は超えなければいけない関門(かんもん)みたいなものが誰でも等しくあるのだろうか 67で既に書き述べてた。“せきもん”と読んでいたが、間違い 寝言だ。ただのバイオリズムの低下。ここ数日張り切っていたからな 今もっとも忌まわしいのは性欲。言うまでもなく、発散しては駄目な立場なのだ とはいえ、今のところ性的欲求はない。欲求がある時こそ、自分が疎ましくなる なんでかな。焦りのような感覚が湧いてきているのだが、言葉にすると、たしかに気持ちが追いつかない 東京新聞の読者コラムのミラー欄の大学生の記事が何言ってるんだかサッパリなのだが… 「同調圧力」正体見極め
日本人は皆が横並び、同じであることを好むとは久しくいわれていることである。
しかし、それは当たらずとも遠からず、くらいのものだろう。
思うに、多くの人々は自分たちが同質であることを好んだり良しとしている、
というよりも、ただ「前提としている」と言った方が近い気がする。
異質さを否定しているわけではないから非凡な存在には憧れもする。
だが、他人は自分と同じようなものだと思っているので、
変わったふうの者がいるとあんなのは作り物で、仮面をかぶっているくせ者だと考える。 例えば、変わった趣味や行動パターンの持ち主に対し、
憧れの異端児になるために設定をつくっているのだろうと予想し、
正直に自分と同じ惨めな平凡さを現わすがよいと迫る。
謙虚な人たちである。
同調圧力の正体は同質性への賛美ではなく、このようなものなのだ。
あと、自分の意図が言わずして理解されないと怒る。
同質なのだから予想できるだろうと考えているのだ。
そんな人々のいる場所で「普通」から外れているとしばしば肩身が狭い。 存在を想定されていないことは、否定されることと同じくらい、時にもっと人を孤独にする。
否定される者は世界の端(はし)に追いやられているが、
想定されない者は世界に生まれてくることすらできない。
一人がこの「前提」を自覚すれば、その人の周りには明かりがともる。
人は人のまねをして学ぶものである。
説教するより、背中で語った方が効果があると思っているので、
自分はそのように生きようと努めているつもりだ。 禅の書物が理解できなくなってきた。集中もできない。一時的な感覚だったのだろうか 禅辞の姿勢が必要なのだろうかね。難しく物事を考えてしまうから 「前思わずかに起れば、後念相したごう」で、後念を押えることは仲々困難な仕事で、
つい後念の相随(したが)うのはまことに止むを得ない人間生得の意識の働きであります。 むしろ念起念滅はいわば人間の生きている証拠であって、それがなければ死人であります。 ただそれが「真」と「妄」とに分れ、従って善念、悪念の別を生ずるのは、
ひとえに「覚」によるか「迷」に在るかできまります。 全慶老師の言葉を再び拝借すれば、
「自己を境に投じて境中自己なき」
ものを「覚」と言ってよいとおもいます。 本居宣長のいわゆる「物に行く道こそありけれ」
で、対境に成り切って完全に自己を無にしつくしたのが覚であります。
動中で申すならば、当面している用事に没入し成りきって余念を交えないのがそれであります。
静中であれば、数息の数に成りきる、または公案そのものと一体に成る、
それが覚であります。 それとは反対に、自己と仕事、公案と自分と言ったように、
自己とそれに相対する事物や当面する環境が、
別々になって角逐(かくちく)しているのが迷であります。 呂新吾の『呻吟語(しんぎんご)』に
「一なれば則ち性を見、両ならば則ち情を生ず」
という語がありますが、一切の対境と一なれば、
そこに純一無雑の本来性が現われ、
二元相対に陥った場合には体用隔歴して迷情にまようことになります。 われわれは朝から晩まで、憎い可愛い、惜しい欲しいで暮していますが、
それらのものはすべて対境自体の固有する性質では決してありません。
自己を無にしきれないから、その自己が対境に対してそのような念を起すだけのことです。 ん、禅書の読解が難しくなってきた。間が空いたからな。今日の書き込みメモも抽象的だ。これでは人に伝わらない 作詞家の阿久悠さんは、自らの作品にこんな思いを持っていた。
<何十年かたった後に、時代を思い出す最初の扉が歌であればいい>。
テレビの番組で語っている。
世の中にとって歌とは何かという問いへの一つの答えでもあるだろう。
その言葉を思いつつ、安室奈美恵さんが歌ったたくさんのヒット曲のタイトルを眺める。
平成という時代の扉であり、表札のようだ。
バブルがはじけた。
右肩上がりの時代は過去のものになろうとしていた。
大人の世界が揺らぐ中、ロングの茶髪に細い眉、厚底ブーツといった
いでたちの少女たちは、自らのファッションや生き方を肯定しようとしていた。
でも、どこか不安なのだと憂いを歌った「SWEET 19 BLUES」。
影を感じさせる安室さんゆえの力が歌にあった。
あの頃、カラオケで歌いながら、自分のことだと思った方も多いのではないか。
「CAN YOU CELEBRATE?」にも「Don’t wanna cry」にも、
聞けば頭に浮かぶ時代の空気がある。
引退の16日が迫ってきた。惜しむ声が各地でこだましている。
出産、離婚を経てから、ライブ中心の本格派として人気を集め続けてきた。
安室さんの強さを思う人も多いはずだ。
平成の終わりまでずっとかっこよかった。思い出の扉をいくつも残した。
歌の平成の終わりを感じさせるような歌姫引退である。 敗戦が迫っていたころ、ちまたに多くの流言、デマが乱れ飛んでいたという。
「北アルプスに建設中の地下要塞で敵を迎え撃ち、撃滅する」
「強力なロケット弾が完成すれば、ニューヨークも火の海になる」
「最強の関東軍が無傷だ。本土決戦で勝てる」
などだ。
形成が一気に変わるかのような偽情報ばかりだったと、ルポライター竹中労が記している。
食糧事情は厳しく、敗色は濃いと多くの人が感じていた。
本土での戦争への恐怖とかすかな望みにかけたい願望が、流言となって表れたようだ。
戦争や地震に関わる流言は不安、不満、恐怖、願望といった感情を基礎にしているという
(広井脩著『うわさと誤報の社会心理』)。
非常時になるとその強さを増す、デマを生むエネルギーだろう。
「六時間後に震度7が来る」
「全域が断水する」
北海道地震の被災地に、インターネットを中心にデマが広まっていたことが明らかになってきた。
背景に、やはり不安と恐怖があるだろう。
給水が続いたのに水が品薄になる地域もあったようだ。
東日本大震災や朝鮮人虐殺が起きた関東大震災だけではない。
幕末以来、大きな災害になるとデマが流れたことも分かっている。
ネット経由のデマがあることを知っている人は多いはずだが、今回も混乱が起きた。
恐怖のあるところには、デマがある。いっそう心に刻みたい教訓ではないか。 Official Orchestrated Zelda Music
https://youtu.be/vtM88I-h-t8 下腹のたるみがヤバイので筋トレしようと思う。何から始めるべきか。
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1537853913/
10 名前:名無しさん@涙目です。(東京都) [ニダ][] 投稿日:2018/09/25(火) 14:43:01.88 ID:QcDx2uI60 [1/2]
そこそこ若くてぱっと見普通体型で腹だけ異常に出てるヤツ多くね? ノーベル賞、日本人の有力候補は 今年の自然科学3賞
2018年のノーベル賞の発表が10月1日から始まる。
自然科学3賞では16年まで3年連続で日本人が受賞した。
17年は惜しくも記録が途絶えたが、今年はどうか。
日本人候補者を展望する。 ■生理学・医学賞、森教授に期待
初日に発表される生理学・医学賞は12年の山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長以来、
日本人の受賞が相次ぐ。
大村智・北里大学特別栄誉教授(15年)、大隅良典・東京工業大学栄誉教授(16年)と続いた。
今年、受賞が最も期待されるのが京大の森和俊教授だ。
細胞内の「小胞体」と呼ぶ器官が、異常なたんぱく質を分解したり修復したりする仕組みを突き止めた。
この仕組みは「小胞体ストレス応答」と呼ばれ、糖尿病や心筋症などさまざまな病気に関わるとされる。
細胞内でたんぱく質が働く仕組みを解明する研究には、これまでノーベル賞が3度贈られている。
研究の「第1世代」は1974年、「第2世代」は99年、「第3世代」は13年にそれぞれ受賞した。
森教授は「第4世代」をリードする研究者で、14年にはノーベル賞の登竜門とされる米ラスカー賞を受賞。
これ以外もあらゆる世界の有力科学賞が贈られている。
日本のお家芸である免疫分野でも有力な候補者がいる。
大阪大学の坂口志文特任教授は、免疫の暴走を防ぐ「制御性T細胞」を発見。
がんの「第4の治療法」といわれる免疫薬の標的として注目を集める。
京大の本庶佑特別教授は免疫を抑えるたんぱく質「PD―1」を発見し、
がん免疫治療薬「オプジーボ」の実用化につながった。 ■物理学賞、十倉氏が有力視
2日目の物理学賞は主に
「物質の性質を探る」「宇宙の理解を深める」「極微の世界に迫る」
という3分野が受賞対象となる。
どの年にどの分野が評価されるのかは定かではないが、
最近は物質の研究が1年おきに受賞する傾向がみてとれる。
14年に日本の3人が青色発光ダイオード(LED)の開発で受賞して以降も、規則性は続いている。
17年は宇宙のブラックホールから生じた重力波の観測が受賞対象となったため、
18年は物質の研究が有力候補だ。
日本人では、理化学研究所創発物性科学研究センターの十倉好紀センター長が有力視される。
電気や磁気といった複数の性質を併せ持つ新しい材料「マルチフェロイック物質」を開発した。
次世代メモリーの材料などに有望と期待される。
ありふれた鉄の材料で高温超電導を作る研究などを手がける東京工業大学の細野秀雄教授も有力だ。 ■化学賞は水島氏、吉野氏、西氏
3日目の化学賞は、毎年のように有力候補と言われるリチウムイオン電池に期待がかかる。
名前が挙がるのが同電池の正極材料を開発した東芝の水島公一エグゼクティブフェロー、
この成果を生かし同電池の原型をつくった旭化成の吉野彰名誉フェロー、
世界に先駆けて実用化したソニーの元業務執行役員・西美緒氏だ。
リチウムイオン電池は小さくても多くの電気を蓄えられ、
携帯電話やノートパソコンなど携帯機器の普及を可能にした。
最近では電気自動車への搭載も進む。
産業や生活に与えた影響は大きく、その点がどう評価されるかがポイントになる。
海外の権威ある賞の受賞実績を持つ研究者も注目だ。
東京大学の藤田誠教授は5月、ノーベル賞を占う賞として知られるイスラエルの
ウルフ賞(化学部門)を受賞した。
同部門を受賞したのは日本人では01年のノーベル化学賞受賞者、
野依良治氏以来2人目だ。
小さな分子が自発的に集まり特定の構造をつくる「自己組織化」と呼ぶ現象を利用し、
様々な形の構造を合成する手法を開発した。
分子の構造解析など、創薬分野を中心に産業界からも同氏の研究に熱い視線が注がれている。 「ヒット・アンド・ラン」。ある人たちはこれを軽蔑する。しかし間違いのない戦術である。
攻撃して、撤退する。様子を見る、待ち伏せる、また撃って、撤退する。
それを繰り返して敵の休息の暇を与えない。
これらのやり方は、正面会議を避けようとする逃げの姿勢という消極的な態度
のように見えるかもしれない。
しかし、これはゲリラ戦の一般的戦略であり、その究極の目的は、
どの戦争におけると同じく、敵の撃滅である。 金正恩氏「日本と関係改善の用意」
日韓首脳会談で文大統領が明らかに
安倍晋三首相は25日午前(日本時間同日夜)、
韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と訪問先のニューヨークで約50分間会談した。
韓国政府の説明によると、文氏は先の南北首脳会談で北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長から
「適切な時期に日本と対話し関係改善を模索していく用意がある」
との発言があったと首相に伝えた。
安倍首相と文氏の会談は今月中旬の3回目の南北首脳会談の後、初めて。
文氏は会談の冒頭
「首相のメッセージを金正恩委員長に忠実に伝えている。答えも聞いた」と語った。
日本政府の説明によると、首相は南北会談にあたり、
文氏に日本人拉致問題の解決の重要性や日朝関係に関する考え方の伝達を依頼した。
文氏は首相のメッセージへの金正恩氏の返答を含め南北会談の結果を具体的に説明した。
日本政府は正恩氏の反応の詳細を明らかにしていない。
首相は文氏に謝意を表明し、日本人拉致問題への協力を求めたうえで、
正恩氏と直接対話する用意があると伝えた。 トランプ米大統領によると、金正恩氏は6月の米朝首脳会談の際、
トランプ氏に安倍首相との対話について「オープンな姿勢」を示していた。
日韓首脳会談では北朝鮮から朝鮮半島の完全な非核化に向けた具体的な行動を引き出すため、
米国を含め日韓で連携する方針で一致した。
首相は国連安全保障理事会の制裁決議の履行が重要との考えを強調した。
朝鮮戦争の終戦宣言や2回目の米朝首脳会談を巡っても意見交換した。
両国関係に関しても議論した。
10月に未来志向の日韓関係をうたった日韓共同宣言から20年を迎えるのを踏まえ、
一層の関係強化の必要性を確認した。
首相は文氏の早期来日を招請した。
首相は文氏に従軍慰安婦問題の最終かつ不可逆的な解決を
盛り込んだ日韓合意の着実な履行を求めた。
日本の植民地統治下で労働に従事した韓国人の徴用工問題でも日本の立場を伝えた。
日本政府の説明では、文氏は日韓合意を破棄せず再交渉も求めないと発言した。
両首脳は慰安婦問題に関し、日韓関係に影響を及ぼさないよう
互いに知恵を出していくことで一致した。 対中「貿易不均衡 認めず」 トランプ氏、国連で演説
トランプ米大統領は25日午前(日本時間25日夜)、国連総会で一般討論演説に臨み、
貿易戦争が激しさを増す中国について
「貿易不均衡は容認できない」と強調した。
中国からの輸入額のほぼ半分に追加関税をかけるなど、
対中強硬姿勢を今後も譲らない方針を鮮明にした。
北朝鮮に対しては非核化の実現まで制裁を続ける考えを示した。 トランプ氏の国連総会での演説は就任後2回目。
経済や安全保障で「米国第一」の立場を改めて訴えた。
トランプ氏は演説で、米国と他国の貿易関係について、これまで不公正で互恵的ではなかったと主張。
北米自由貿易協定(NAFTA)や米韓FTAなどの再交渉を通じ、
一定の成果を示したとの認識を示し「これは始まりだ」と語った。
北朝鮮に関しては、核実験や弾道ミサイル発射といった挑発行為がなくなったことを成果として誇示。
6月の初の米朝首脳会談を「とても生産的な対話だった」としながらも、
非核化には「まだ多くの作業が残っている」と指摘した。
その達成に向けて制裁を続ける考えを示した。
「金正恩(キム・ジョンウン)委員長の勇気とその行動に感謝したい」とも語った。
昨年の演説では、ミサイル発射を繰り返していた金正恩氏を「ロケットマン」と批判、
必要に迫られれば北朝鮮を「完全破壊」せざるを得ないと警告していた。
今回はそうした批判を封印し、対話ムードを前面に打ち出した。
イランについては
「イラン政権が攻撃的な態度を続ける限り、全ての国々にイランを孤立させるよう求める」と主張。
核開発を認めない立場を強調し、追加制裁の一環として11月に発動するイラン産原油の禁輸
への協力を各国に呼びかけた。
今後の海外援助に関して「米国に敬意を払う対象にしか支援はしない」と表明。
米国は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)
への資金拠出を全面的に停止する方針を発表している。
パレスチナが聖地エルサレムをイスラエルの首都と認定したトランプ政権への
非難を続けていることが理由だ。 トランプ氏「米国第一」猛進 選挙・醜聞で強硬色
国連演説
トランプ米大統領が「米国第一」主義を前面に打ち出した外交に傾斜している。
中間選挙が11月に迫り、成果を迫られるトランプ氏は国際協調や同盟国の存在を軽んじて、
恫喝(どうかつ)もいとわない。
米国の影響力に陰りがみえるなかでの中国との覇権争いの激しさも底流にあり、
その強硬色は一時的なものにはとどまらない公算が大きい。
25日、ニューヨークの国連本部。
「私たちはグローバリズムの思想を拒絶し、愛国主義を信奉する」。
就任から2回目となる国連総会の一般討論演説でトランプ氏はこう宣言した。
グローバリズムに背を向けるとともに、米国第一にまい進する方針を強調した。 自由貿易と民主主義を両輪とするグローバリズムは長く米国がけん引役だった。
しかしトランプ氏は中国との貿易戦争に突入し、保護主義的な政策に拍車をかける。
今回の演説でも
「貿易不均衡は全く許容できない。市場をゆがめる中国のやり方は耐えられない」と明言。
1年前の国連演説では避けた名指しの中国批判を解禁し、一歩も引かない姿勢をみせた。
強硬姿勢に駆り立てているのは1つには内政事情だ。
11月の中間選挙では与党・共和党が下院で過半数割れする観測が浮上する。
中間選挙敗北なら政策実現へ議会の壁が高くなるだけでなく、
20年の次期大統領選での自らの再選戦略の練り直しも迫られる。
支持層のつなぎ留めのために強硬姿勢がさらに強まるとの見方は強い。 その逆風の要因は足元で相次ぐスキャンダルだ。
自ら指名した保守派の米連邦最高裁判事候補のカバノー氏には性的暴行疑惑が次々と発覚。
米国の最高裁は賛否が割れる法律の最終判断を示すなど政治的影響力が強いことで知られる。
保守派判事の任命はトランプ氏の成果となるが、相次ぐ疑惑で与党内からも懸念が強い。
来週に予定する承認手続きができなければ政権へのダメージは計り知れない。
政権内部の不協和音も目立つ。
先週にはローゼンスタイン司法副長官が憲法の手続きにのっとってトランプ氏の
解任を画策した可能性も明らかになった。
大統領の解任については米紙ニューヨーク・タイムズに匿名で投稿した政府高官も
検討したことがあると認めた。
トランプ氏は週内にも副長官と面会する予定だが、
解任すれば画策の動きがあったと認めることにもなるリスクがある。 もっともトランプ氏の「恫喝外交」の背景には、
冷戦後続く米国の一極支配が弱まっているという構造変化も大きい。
中国は30年代前半にも米国を抜いて名目国内総生産(GDP)で世界首位になるとの見方がある。
中国が掲げる産業振興策「中国製造2025」を米国が問題視するのも、
米国の基幹産業であるハイテク覇権の争いにとどまらず軍事技術の優位性をも左右するためだ。
「一帯一路は中国による経済支配が最終的な目標だ」
「習近平(シー・ジンピン)国家主席は覇権をめざさないと言っているが、ウソを言っているのは明らかだ」。
米議会の上院議員16人が8月にポンペオ国務長官とムニューシン財務長官に
包括的な対中政策の作成を求めて送った書簡では、こんな警戒感があらわになった。
経済・軍事両面で中国が米国の圧倒的な優位を脅かしているとの認識は、
トランプ氏だけでなく、米議会にも与野党問わず広がっている。 トランプ氏は演説で「海外援助は米国に敬意を払う者にしかやらない」と指摘したが、
裏を返せば米国に余裕がなくなった証左でもある。
こうした考えを米国民の多くも受け入れ始めている。
「16年の大統領選で米国民は腐敗したグローバリズムを拒絶する選択をした。
私は米国の大統領であって地球の大統領ではない」。
国連総会に先立つ20日、ネバダ州での政治集会での演説で、
トランプ氏がこう訴えると会場からは大きな拍手がわいた。 日米、物品協定交渉入り合意 協議中は車関税上げず
日米両政府は26日(日本時間27日未明)、
2国間のモノの貿易を自由化する物品貿易協定(TAG)の
締結に向けた交渉を始めることで合意した。
TAGは投資・サービス分野などを含む自由貿易協定(FTA)とは異なるとされる。
26日に開いた日米首脳会談で安倍晋三首相とトランプ米大統領が合意し、両政府が共同声明を発表した。
共同声明には、交渉中は「声明の精神に反する行動を取らない」との一文を盛り込んだ。
記者団の取材に応じた茂木敏充経済財政・再生相氏はこの部分について、
米国側が検討する輸入自動車にかける25%の追加関税が
「交渉中は課されないということを首脳が確認した」と述べ、
交渉中は追加関税の発動が見送られるとの認識を示した。
共同声明では日本の農産品について、環太平洋経済連携協定(TPP)を念頭に
「過去の経済連携協定(EPA)で約束した譲許内容が最大限」と明記。
茂木氏は、農産品分野ではTPP水準を超えた自由化をしないと米国側に念押ししたことも明らかにした。
実際の交渉入りの時期について茂木氏は米国議会手続きなどがあるため
「少し時間がかかる」としたが、
「日米が関税について自由で公正な新たな枠組みを構築することは、
国際経済全体に良い影響を与える」と述べた。
TAG交渉はモノの貿易に関する関税引き下げ交渉のほか、
税関手続きの円滑化などの交渉も含む。 新潮社の斎藤十一はその発想力で天才と呼ばれ、こわもてで畏怖された伝説的な編集者だ。
名だたる作家を育て週刊新潮や芸術新潮などの雑誌をつくり時代を築いた。
俗物を名乗り「人殺しのツラが見たくないのか」「人生はカネと女と事件」
「売れる雑誌より買わせる雑誌をつくれ」といった言葉を残している。
一方でクラシック音楽や絵画を愛し、教養を重んじた人だったそうだ。
<いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ>
と部下を戒めている(『編集者 斎藤十一』)
その戒めに逆らって、道を踏み外してしまったのではないか。
斎藤が心血を注いだ月刊誌、身長45の休刊が、決まった。
性的少数者への偏見に批判が集まった寄稿を最新号であらためて擁護する特集を組んだ。
「常軌(じょうき)(※1)を逸した偏見と認識不足」があったと認めての休刊だ。
性的少数者を犯罪者である痴漢と並べて語った寄稿は主張への驚きと掲載した
見識への疑いを催させる。
発行の部数が、落ちているのだという。
炎上商法は否定する反面、部数の低迷に直面し、
「試行錯誤の過程において編集上の無理」が、生じたのだと社は発表している。
魅力的な掲載などを擁(よう)した一大雑誌だ。
貧するあまり、大切なものが失われてしまったか。
「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という創業者の決意も
名編集者の精神もみえなくなってしまった。
(※1)
じょう‐き〔ジヤウ‐〕【常軌】
つねにふみ行うべき道。普通のやり方や考え方。常道。 火山のリスクを忘れるな
御嶽山規制解除
死者58人、行方不明者5人が出た御嶽山噴火から27日で4年。
それを前に麓(ふもと)の長野県木曽町は山頂への登山を解禁したが、これは安全宣言ではない。
官民ともにリスクを忘れてはならない。 26日昼、上空から見た御嶽山は雲に埋まっていた。
頂上の祈祷所が時折、天空の城のように顔を出し、登山者を迎えていた。
硫化水素のにおいが機内に流れ込み「活火山」を実感させた。
噴火は2014年9月27日昼、山頂近くで起きた。
大規模ではなかったのに、戦後最大の火山災害になってしまった。
山頂付近に250人もの登山者がいて噴火に巻き込まれたためだ。
その日は紅葉シーズンの好天の週末。家族連れら大勢が訪れていた。
明確な前兆現象はなかった。
噴火前1(平常)だった噴火警戒レベルは、噴火直後に3(入山規制)にはね上がったものの
15年6月に2(火口周辺規制)、17年8月に1(「活火山であることに留意」に変更)に戻った。
これに伴い、木曽町は頂上近くにコンクリート製シェルター三基を設置。
建物の屋根や壁を強化した。
「安全対策が整ってきた」と同町。ただし万全ではない。
政府は活動火山対策特別措置法を改正し、火山災害の避難計画を盛り込むよう
市町村に義務付けたが、木曽町の策定はこれからなのだ。 「通行規制の解除を求める声は遺族や御嶽信仰の信者からも」と町は明かす。
登山やスキーなどの観光は大きな打撃を受けた。
原久仁男町長は、
「今、頂上に行けることが、来年以降(の観光復興など)につながる」と話している。
火山噴火予知連絡会は、111の火山を活火山と定める。
うち御嶽山や箱根山など50を常時観測中。
実際、御嶽山では14年の噴火半月前に火山性地震が増えたが2日間で結束。
それが登山者に伝わらず、警戒レベルも1で据え置かれた。
「知っていれば行かなかった」と言う生還者もいた。 長野県や木曽町の要請で、名古屋大は昨年、同町内に「御嶽山火山研究施設」を開所。
研究者が常駐して自治体との観測データの共有を始めた。
行政は、一歩進んで、携帯メールなどを通じて、火山情報を逐一、
そのエリアにいる登山者に伝えられるようなシステムを構築できないか。
登山者も「活火山は、いつか噴火する」とのリスクを忘れず、
噴石から頭部を守るヘルメットや、火山灰対策の防じんマスクなどを携行してほしい。 19歳覚醒剤も自作か
「3Dプリンター銃」「爆薬」で逮捕
自ら作ったとみられる高性能爆薬「過酸化アセトン(TATP)」や
3Dプリンター製の拳銃を所持したとして逮捕された名古屋市緑区の大学一年の男子学生(19)が、
覚醒剤入りの液体を所持していたとして、愛知県警は覚せい剤取締法違反(所持)容疑で
27日に再逮捕する方針を固めた。学生が自ら製造したとみられる。
捜査関係者への取材で分かった。 使用や販売の形跡はなく、好奇心から製造したとみられる。
県警は材料の入手経路などを追及する。
国内で覚醒剤を製造したとして摘発される例は少ないが、
1995年のオウム真理教による密造事件などがある。
捜査関係者によると、8月20日、自宅で覚醒剤成分の入った水溶液を所持した
疑いが持たれている。
県警は同日の家宅捜索で容器に入った液体を押収。
鑑定の結果、覚醒剤と判明したという。
自宅には、製造に使ったとみられるビーカーなどの用具類もあった。
学生は高校時代に科学関係の同好会に所属するなど化学に興味があり、自作したとみられる。
学生は高校時代の2016〜17年にTATPと高性能爆薬「四硝酸(しょうさん)エリストール(ETN)」
を製造、所持したとして、爆発物取締罰則違反容疑などで今年8月に逮捕された。
逮捕前の3月には、名古屋市名東区の公園でTATPを爆発させたとみられている。 さらに3Dプリンターで製造したとみられる拳銃も所持したとして銃刀法違反容疑で、9月に再逮捕された。
愛知県警は名古屋・名東署に捜査本部を設置し、60人態勢で捜査している。 首相「来夏に3年間の工程表」 成長戦略の議論に着手
安倍晋三首相は5日の未来投資会議で
「65歳以上への継続雇用年齢の引き上げに向けた検討を開始する」と表明した。
第4次産業革命と雇用、地方のテーマで成長戦略の議論に着手し
「年末までに中間報告をとりまとめ、来年夏までに3年間の工程表を含む実行計画を閣議決定する」
と述べた。
首相は第4次改造内閣の目玉政策である全世代型社会保障の実現に関して
「安倍内閣の最大のチャレンジ」と強調した。
継続雇用年齢の引き上げへ高年齢者雇用安定法の改正を検討する。
「新卒一括採用の見直しや中途採用の拡大、労働移動の円滑化といった雇用制度改革の検討を開始する」
と明らかにした。 「第4次産業革命」では、人工知能(AI)やIT(情報技術)など新たな技術を活用し、
人口減少社会でも生活しやすい社会作りを議論する。
首相は
「雇用環境が改善している今こそ技術革新を現場に取り入れ、労働生産性の向上を図るチャンスだ。
この3年間が勝負だ」と訴えた。
具体策として、行政手続きの自動化に向けた環境整備を進めると表明。
道路や水道などインフラを維持するため
「AIやロボットを用いたメンテナンスを一気に実行に移す」と語った。
決済の電子化(キャッシュレス化)に向け
「金融法制の見直し、金融機関との連携促進などを検討する」との考えを示した。
「地方施策の強化」に関しては、人口減少に伴う市場縮小を踏まえ、
地方銀行の経営統合の促進策を詰める意向を示した。
「地方銀行など地方基盤企業の統合、強化、生産性向上を図るため
独占禁止法の適用のあり方を検討する」と述べた。 五 省
一 至誠に悖(もと)るなかりしか
〔誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか〕
二 言行に恥づるなかりしか
〔発言や行動に、過ちや反省するところはなかったか〕
三 気力に欠くるなかりしか
〔物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか〕
四 努力に憾(うら)みなかりしか
〔目的を達成するために、惜しみなく努力したか〕
五 不精に亘(わた)るなかりしか
〔怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか〕 五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元(はじめ)少将が創始したものです。
松下校長は、将来海軍将校となるべき兵学校生徒の訓育に意を用い、
日々の各自の行為を反省させて明日の修養に備えさせるため、
5ヵ条の反省事項を考え出し、これを日々生徒に実施させました。
その方法は、毎晩、自習終了5分前になるとラッパの合図を鳴らし、生徒はそれによって自習をやめ、
机の上を片づけて瞑目静座し、当番の学生が五省を発唱し、各自心の中で反省するものでした。
幹部候補生学校となった今も、学生の本分に照らして自らを反省し一日を終えるため、
良き伝統として五省を継承しています。 緊縛は女性と縄師のコミュニケーションですから、勘違いしてる人が多いのですが、
基本的には、女性が縛って欲しいところを感じて縄師が縛っていく。
責め縄をしなければ痛みもない。
緊縛とは、ある意味女性を強く抱きしめることですから。
……縄師がただ縛りたいようにすれば、それはオブジェになりあまり意味をなさない。
だから本来縄師は奉仕する脇役に過ぎない。 ……でももう少し正確なことを言うと、
縄師は女性が縛って欲しいところ、次に縛られるだろうと予感しているところの、
少し先をいって女性に驚きを与えなければいけません。
……女性に驚きを与え、安堵の外、浮遊感の中にいてもらわなければいけない。
でもその驚きがあまり女性から離れてしまうとエゴになってしまう。 あの人は私が、というか私達が嫌いなようだ。
自分は性に清らかだとでも思ってるのでしょう。 家で子供を抱きしめる前に、風俗で自分の男性器を知らない女性にしゃぶらせたりしてるだろうに。
そんな性の卑小などうしようもなさに、彼は恐らく無自覚なんでしょう。
……恐らく、こういうタイプじゃないでしょうか。
性欲にかられ自ら風俗に来たのに、そんなに来る気はなかったかのような態度をしながら、
でもやることは全てやり、挙句にそこで働く女性に説教までするような。
あくまで自分は清らか……。
私は、そういう人間が一番治った方がいいと思いますよ。
あからさまな性に、いちいち過剰に拒否反応する人間ほど無意識では強欲なものです。
精神分析で言われるところの、典型的な反動形成。
そしてそういうPTA的正義を振りかざす保守的な人間達には、
差別主義者と戦争主義者が多い。
……性をタブー視する風潮が、実は抑圧を生んで男も女も苦しめるのですよ。
抑圧は最終的には攻撃にも転じる。 燃え上がれば重荷になるから涙でそっと消せるほどの火遊びでいい いろんな歌漁ってるけどこれが等身大の、自分の、タマシイの唄だ!
っていう歌はたぶん一曲も出会ったことがない 山口百恵 - 秋桜
中島みゆき - 本日未熟者
ルパン三世 - 異邦人
長渕剛 - 純恋歌
松たか子 - コイシイヒト
観月ありさ - ヒトミノチカラ
辺りか通用するのは 訂正
山口百恵 - 秋桜
中島みゆき - 本日未熟者
ルパン三世
久保田早紀 - 異邦人
長渕剛 - 純恋歌
松たか子 - コイシイヒト
観月ありさ - ヒトミノチカラ
辺りか通用するのは 今日久しぶりに会った年配の方に
「顔が引き締まったね、目が輝いている」
と言われた
「あとは頭を直せ」とも
明日床屋行くかな…
短髪が似合うと思ってるからね、今もそうだけど The Rasmus - In The Shadows (US Version)
https://youtu.be/_ao2u7F_Qzg いつだって夢を見ていたいんだ
あたしはあんたと生き方が違う 3DS版DQ3始めたよ
今回性格はやさしい人という結果になった。
思いやりがあって、いろんな人の立場にたって、ものごとを考えられる人。
しかしそれだけになかなか決断がくだせないという欠点ももっている。
どれかに決めるということは他のものをきりすてるということ
やさしいあなたはこのきりすてがとても苦手だったりする。
これは決断するときだけではなく、あらゆる面でそうなのだと。
(たとえばあなたは物をすてるのも苦手だろう。
こわれたおもちゃはもちろん旅行にいったときの予定表、入場券の半分、あげくのはてに、
駅弁のはしぶくろまでとっていたりする。
こんなことだからいつもあなたの机の引き出しのなかはぐちゃぐちゃ。
このぐちゃぐちゃさはあなたのやさしさのせいだが、だれもそうは思わない。
ただたんにあなたがめんどくさがりやだからなんだろう。
(でもそれも半分くらいはあたっていたりするので、もう少しかたづけるようにしろ。)
※()括ったのは当たってない。 よく整理整頓するし、いらないものは捨てて、シンプルな環境においてその思考で動いているのだが… 大臣の「どんなことでも王の命令は絶対か?」に対して1分くらい悩んで「はい」と答えたら、
大臣を怒らせてしまいショックだった。 突然の暴風雨にみまわれたクルーザーが2隻、無人島に避難しました。
1隻には若い女性とそのフィアンセ、もう1隻にはヨットマンと老人が乗っていました。 日が暮れて暴風雨がおさまった頃、フィアンセが高熱にうなされ、意識不明に陥ってしまいました。
若い女性は、汗を拭いたり水を飲ませるなど色々と手を尽くしてみましたが、
フィアンセの容態は全くよくなりません。 夜はどんどん深まっていきます。
クルーザーの操縦が出来ない若い女性は、
何とかフィアンセを助けたい一心でヨットマンに、
医者のいる島まですぐに連れて行ってくれるように頼みました。 するとヨットマンは、
「この島から医者のいる島まではどうみても5時間かかる。
それに夜の航海は危険で命がけになる。」
と、しばらく考えていましたが、
「あなたを今、抱かせてくれたらクルーザーを出しましょう。」
と言いました。 思いもよらない言葉に困り果てた若い女性は、老人に
「どうしたらいいのでしょう?」
と相談しました。
すると老人は、「今のあなたにとって何が良いのか、何が悪いのかを私には言うことができません。
自分の心に問いかけて自分で決めるのがいいでしょう。」
と言うのみでした。 悩み苦しんだ末に若い女性は、ヨットマンの言うとおりにしました。 夜明けにヨットマンの操縦するクルーザーは、無事医者のいる島に着き、
フィアンセは医者の手当てを受けることができました。 3日3晩、医者の懸命な看護によりフィアンセは目を覚ましました。
若い女性はフィアンセを抱きしめなが、事の成り行きを話そうかどうか迷いましたが、
正直にすべてを打ち明けました。
それを聞いたフィアンセは怒り狂い、若い女性に
「何ていうことをするんだ!絶交だ!!」
と言い、若い女性を部屋から追い出しました。 若い女性はあまりのことに呆然とし、浜辺に座って波の行方を見つめていると、
医者がやってきて
「どうしたの?」
と聞きました。 若い女性が事情を話すと、
「僕には君の気持ちが痛いほどわかるよ。
彼には君のことをよく話してみよう。
きっと彼も病気が治れば理解してくれると思う。
それまでしばらくの間、私があなたの世話をしてあげよう。」
と言いながら、若い女性の肩に手をかけました。 なぜ集いなぜ騒ぐ ハロウィーン、若者の心理とは
10月31日のハロウィーン当日から11月1日にかけ、東京・渋谷には仮装した多くの若者が集まり、
スクランブル交差点やセンター街などで騒ぎが続いた。若者が騒動を起こす背景にはどのような理由があるのか。
若者の心理や社会事情に詳しい識者2人に聞いた。 東洋大の戸梶亜紀彦教授(感情心理学)は、仮装やメークなどハロウィーンの特徴に着目。
匿名性が生まれ、普段とは違う自分になることで、より大胆な行動を取りやすくなるという。
騒ぎの場に居合わせると臨場感から気分が高揚し、さらに周りと同じ行動をとることで、
感情が伝染する「群衆の心理」が生まれていると指摘する。
興奮状態で判断力が鈍るうえ「野球やサッカーの観戦で『ウエーブ』が起きるのと同様、
周囲に合わせて行動しないとまずいといった心理が働くのではないか」とみる。
人の心理を研究する「ハルメク生きかた上手研究所」の梅津順江所長は
「いまの日本社会で若者がたまったエネルギーを放出する場がない。
年に一度のストレス発散のイベントになっている」とみる。
若者がリアルなたまり場を失い、SNSを介して仲間を募り、
渋谷を居場所として求める傾向もあるという。
同じ若者の騒動でも、1960年代の学生運動とは異質といい、
「学生運動では正義を掲げ、『敵』に向かって知識層の学生が騒いだ。
今は若者が仮装し、非日常の空間に身を置くことで、
いつもと違う自分を見つめる機会になっている」
との見方を示した。 自分のペルソナを、厄介者とせずに味方につければ世の中うまく進む Zaif流出 送金サーバーのIPアドレス特定
仮想通貨交換サイト「Zaif(ザイフ)」から約70億円相当の仮想通貨が流出した事件で、
コインの送金に使われた情報機器のサーバーのIPアドレス(ネット上の住所)が5日までに特定された。
民間のIT専門家への取材で分かった。
いずれも欧州のサーバー貸出業者のもので、擬装や匿名化もされておらず、
犯人特定につながる可能性が高いという。
情報セキュリティー会社エルプラス(東京)の杉浦隆幸社長、
IT企業のジャパン・デジタル・デザイン(JDD)の楠正憲CTO(最高技術責任者)
ら有志の専門家、いわゆるホワイトハッカーが独自に監視調査を進めていた。
約6億7千万円相当(当時)が流出したモナコインについて、事件発覚直後から監視を続けてきたという。
杉浦氏らによると、流出後に放置されていたモナコインは10月20日と22日に複数の送金操作を受け、
保有口座が分散。この操作を逆探知したところ、それぞれの機器のサーバーについてIPアドレスの特定に成功。
欧州の複数の国にある業者のものと判明したという。
調査で判明した情報は捜査にあたる大阪府警などに提供されている。楠氏は
「発信源の国の警察当局などと連携して機器の所有者を調べられれば、
犯人の手掛かりが得られる可能性がある」としている。 188 自分:名無し草[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 06:49:36.09
ある変態婆が思いを馳せるわ乱文なのでスクロール推奨よ
同じ価値観がある故に身近にその仲間がいるのは素晴らしい事ね
同胞以外は世間が眉を潜めようが迷惑千万だろうとも只のオマケに過ぎないのよ
時世は認められつつあるのが趨勢だけれどもそれが幸福だといえるのは一がいには言えないわ
当たり前だけど憎悪(ヘイト)を行為に移す人間がいずれ必ず出てくるのよ
認めろ認めろとばかり主張するのが一番危険だと思うわ
まだ日本は目立った事例がないけどね
言葉を振りかざす彼らが言うには認められたいか認められたくないかだけ
私の場合は何れなし
いかなる人間がマイクを介しようが根底は駄目なものは駄目なんだから見せびらかさないで放っておいて欲しいのよ Googleで「死にたい」と検索かけまくってた頃もあったな ああ、その頃がホームがYahooだったか。そっちで検索かけてた覚えがある 世界の破滅と対峙した時、俺は滅ぶ瞬間まで笑ってそうだな。その程度の人間だろう 「いくらか分からないのに、われわれが予算承認しなければならないのはおかしい。
国民の税金だということを考えろ」 しばらく活動はこのスレ…であろう。
基本乱文。某SNSでやれと言われるが、
敢えてこの場でささやかにさえずる。 だが忘れてはならない。俺はあの世はないと思っている。 ムチムチ身体+黒縁メガネ+チリ毛or短髪の童貞臭好き。 黒縁メガネかけてる人多くてなんとなく遠慮してたんですが、自分もかけてみようかなと思います。
使い分けはしますが。 「本当はみんな、ずるかったり、卑しかったりもしたのよ。
年を取ったからって、誰も仙人にはならないよ。
それに、ここが終(つい)の住処(すみか)、そろそろおいとま、なんて笑ってる人も多いけど、
いざとなると、そうでもないの。 誰もあの程度の風邪で亡くなるなんて思っていなかったし、
当人たちはきっとよくなると信じて、
花見のことなんか話してたもの……」 「でも訪れるのよね。他人にばかりに訪れていた死が、自分にも」 ゲームの続きやろうかと思って準備したが、やはりハードル高い…
止めてしまった。 Relaxing Zelda Breath of the Wild Music + Night Ambience Sounds
https://youtu.be/asHAvqwZ1Ig <<\(´∞`)/>><<\( ´)/>><<\(´∞`)/>> 忘れもしないあの日の震災の復興支援住宅で、
孤独死の人がいまなお出ている、
という記事。 孤独のうちに亡くなった方のなかには、
自分だけがなぜ助かってしまったのか、
あのときに、親しい者たちと一緒に死んでいたほうがよかったと、
毎日のように語っていた人もいるらしい。 亡くした親しい人のことを毎日祈るなかで、
生き残った側の寂しさや、虚しさを、
ずっと感じつづけていた、ということだろうか。 だが長い年月、失われた人々のことを、孤独のなかで祈りつづけた、
その真摯(しんし)な心には、崇高とは言わないまでも、
人間という、他者との関係性のなかでしか生きられない者たちの、健気な美しさを感じる。 人を想う心の清らかさというものが、人の世を支えていると信じられる。 >>237
おはようございます。
(_ _ )
ヽノ)
ll ナルティメットストーム2の木の葉崩壊ステージの曲が頭の中で流れている。 亡くなった人物の、生きていた頃の思い出、笑っていたときのこと、
愛し愛されていた日々のことを語っているほうが、遺族の方の顔は美しく感じられる。 それをとてもよいことだと思うのは、こちらのエゴだろうか。 遺族や、遺(のこ)された周囲の人たちが、恨みつらみを吐き出すことを、
こちらのエゴで抑えることがあってはいけないだろう。
受け止めることも、ときには大切だと思う。 大切な人を亡くしながら、前向きに生きていこうとしている人たちの姿は美しい。
そうした人たちを前にすると、ただこうべを垂れるだけだ。 自分に向かって何かを伝えようとするかのように、人の口の動きにも似て、
開き、先をとがらせ、叫び、笑い、唸って、やがて確かな言葉は残さぬまま固く閉ざして、
頭の上を通り過ぎてゆく。 歩いていると、あれの、これのと、言い当てられない音が聞こえてくる。 形の定まらない何かが周囲に満ち、自分がそのなかで生きているのを感じる。 自分を囲み、取り巻いているものを、はっきり何かと知ろうとしたり、
逆らって、自分の個としての存在をとりたてて意識しようとすることよりも、
囲まれてることで、ようやく存在できているのかもしれないということを、
素直に受け入れられたら、と願う。 その夜、見渡すかぎり泥がつづく荒涼とした場所に立っている夢を見た。 足をのせた泥の下から、うめき声が聞こえる。
助けようとして掘りはじめると、
もう死んでるよと、泥の下から声がする。 足の下に死体があると思うと、軽々しく踏みつけていくことはできない。
だがそうしないと、さらに多くの人が埋まっている現場へは近づくことができない。
どうにも苦しくなり、目が覚めた。 レーティングのつかないゲームの世界観が近未来SFとして表現に盛り込まれるなら、
その中にも生きる自分の理想像を作らなければならない。
これはただクールじゃなく格好つけるわけでもない。派手なことなんて特に。
あくまで庶民的視点。争いや諍いは積極的ではない。かといってギャグにも走らない。 まあ今この社会だから草の根一本も生えない荒涼とした場所に立たされているわけだが、
だからこそ見渡せば何か見えてくるものもあるだろう。 Symphonic Suite Dragon Quest VI - Ocean Waves
https://youtu.be/S1mSJpLlc6k Symphonic Suite Dragon Quest VI - Through the Fields~Wandering through the Silence~Another World
https://youtu.be/HlNfLa5QygM Symphonic Suite Dragon Quest VI - In the Town~Happy Humming~Inviting Village~Folk Dance~In the Town
https://youtu.be/HBsR3-wg1yg 嫌なことは忘れたほうがいいとは言うけれども、
私のような人間はいつまでも覚えていて考えるので、
それこそ嫌だなという気持ちが強いほど記憶に残り、そのことに苛まれてしまう。 721 自分:名無し草[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 17:56:39.15
アラサーなのにKHやキャサリンフルボディに浮気するのはちょっと冒険すぎる
722 自分:名無し草[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 17:58:41.56
おんめー仕事付けやって言われてははいそうですかっていうわけにもいかない 仕事をつけば、こういう遊びにも張り合いが生まれるのだろうか。
確かにあたまの回転が良くなっている人は大抵仕事を始めてやっている人。 暦のうえでは昨日は祝日で今日も土曜日で休みなのよね。
少し楽にできるわ。 人は、死んでもいいと思っているときに死ぬとはかぎらない。
自暴自棄でいるときや、好きな人がいないとき、やりたいことが何も見つからないようなときばかり、
死は訪れるわけではない。 いつか本当に好きな人が現れるかもしれない。
やってみたい仕事、つづけたい趣味、やりがいのある使命が見つかるかもしれない。
一緒に生きていきたいと願うパートナーや親友、成長をずっと見守りたい子どもに恵まれるかもしれない。 あと少しで懸命に積み重ねてきた努力が報われる、
明日には大切な人の笑顔に出会える……そんなときに、
見ず知らずの他人によって命を断たれることがある。 遺された側にすれば、一緒に年を重ねてゆきたいと願っていた人のことや、
成長を見守りたかった人のことを、どれだけ時間が経とうと、忘れられるものではない。 Ludovico Einaudi - Le onde FULL ALBUM
https://youtu.be/pNRBCo6fJpY ジムメイトで50代の筋肉質の方がいる。
スカッシュで結構動いている彼が言うには、ジムで鍛えているが、
疲れは溜まらないという。この年齢になって溜まったことがないと。 運動神経もいい。筋トレもしっかりやる。
効率もいいだろう。
聞いてはいないが、仕事でも活躍しているだろう。 差を感じるとともに、かえってやる気も出る、そうなれたらいいなと、
ジムのモチベは上がったようだった。 自分のこと苦手や悪くに思っている奴と、無理して仲良くする必要はないよ。
もっとドライに行こうぜ。
幸い、良く思っている人との繋がりはある。それだけが気持ちの救い。 時間にルーズや、連絡を取らない人は疲れるだけなので、繋がりとは少し距離を置く。 こっちが真剣に誘っているのに連絡取らないで、
仕舞いにはだいぶ遅れて別件があると吹く。
そんなやつとは気分が萎えるし、その人に対し減滅する。 むしろ焦りや動悸を感じ、悪い方悪い方に考えて、
「そういえば俺には一般の人と比べれば人権がなかったっけ?」
だから冷たくしているんだなと、判断する。概ね俺が悪いのかなと思いつつ。 まあ要するに苦手だ。特にプライドが高いやつほど。
急に連絡途絶えるし、もうついていけないや。 友人と信じていた自分が馬鹿だ。屈辱とかないが、ただただ悲しい。 まあ仕事持てばね、馬鹿だから向こうも良い気になって馬鹿にしているんだろう。
仕事持っていない時は弱気になって、いざ仕事を持てば急に態度変えるんだから。
何が「仕事しよう」だ。おまえはそういう奴なんか。 そういう奴なんだな。もう気は使わない。勝手にしてろ。 公務員ってそんなにモテモテになるんだろうか。気持ち悪いな 敢えて言わせてもらうが、人によって態度変えるのなら、お前の方がよっぽど性格悪いぞ。 そういう自分の物差しでしか考えてないからな。
プライドが高い奴ほど醜いやつだ、と思った。
ああ5chでどこでもいる人を叩きたいやつな。普通なんだろうか。 俺みたいのは異端なのか。全く以て流行りの若者はわからん。もう考えることをやめにした。 そう、苦手なやつほど無理して付き合うつもりはない。それでいいんだ。 YUIのアンブレラをこの良い天気の中ローテーション垂れ流す メランコリーな気分だがここで横になったらさらに具合悪くするだろう。 疲れたことがないと言った年上のジムメイトに負けない。 活動規模を縮小したわ。
シンプルに生きるのが目標。 地に足を着けて生きろよ、
こんなことしててなんになるってんだ。 純粋だとか正義だとかではじめたことが、
こじれて、どうにかなって、変になるのが、
一番よくあるパターンなんだぞ。 嫌な考えが次から次へと浮かび落ち着かない。
動く気力もなくなっている。今日はジムを休むことにした。
時間が経てば、と僅(わず)かな希望をもちながら今は… しかし読書の楽しみを知っている人にはわかります。
本を読むことがどれだけ多くのものを与えてくれるかを。 考える力、想像する力、感じる力、無尽蔵(むじんぞう)の知識や知恵……、
読書はその人の知的好奇心、そして「生きていく力」を培(つちか)ってくれます。 それなりに本を読んでいる人にとって、本が一冊もない人生など考えられないはずです。 だから繋がりを断ちきろうなんて積極的に考えられないんだ。
たとえ結果そうなったとしても、悔いの感情は消えない。 プライドがないの、と聞かれたら
プライドなんて邪魔なだけだよ、と答える。 そう、自分はただの人間で、修行でも、立派なことをしているわけでもない。 どうして悪魔だのオカルトだのってのを、わざわざこうして映画にすると思う? ないからだよ。そんな滑稽なものは地球のどこにもないのさ。 怖がるってのは、心と生活にゆとりのある連中の娯楽的感情なのだ。 暇で暇でしょうがないから、連中は変わった感情で心を遊ばせたくて、
悪魔だのオカルトだのて文化を作り出したんだよ。 人という存在も、一つの場所かもしれない。
国とか、地域とか、べつに大きくとらえなくても……ある人が存在する場所。
たとえば、きみ。きみのいるところが、特別な場所になることもあり得るだろう。 >>319
寒いですね。今外ですが、眠いです😪 「二十年前だ、警察学校で同期だった男が、ここで自分の頭に拳銃を向けた」 「向こうの部屋で、一人でいたときだ。
家族と上司あての遺書はあったが、迷惑をかけることを詫(わ)びる内容で、
理由は書かれていなかった。 思い当たる節がなくはない。
窃盗犯を取り逃がしたし、包丁を振り回すヤク中に腰が引けたところを住民に笑われた。
昇進試験もプレッシャーだったろう。
だが誰だって新人のときは似たようなことがある。
幾つか重なって疲れたのかもしれない。
どれも理由じゃないのかもしれない。 ただ、近くにいて助けてやれなかったのが悔しい。
おれという人間が、何の助けにもならなかったのかと、否定されたようにも感じる……。 奴の教育にも、拳銃の弾にも、税金がかかってる。
監察(かんさつ)が入るし、アスコミからもほじくられる。
両親もあちこち謝って回り、かわいそうだった。
ここでのことはタブーになり、最近の警官は知らない。
古い住民でさえもう忘れているだろう。 だが、奴だってミスばかりしてたわけじゃない。
窃盗犯を何人も捕まえたし、奴の職務質問が殺人犯の逮捕につながり、
被害者の遺族からは感謝された。
独居の老人をよく訪ねて、ありがたがられてもいた。
そういう奴のよいことも消されていいのか……。 今日は東京に行ってバーで酒を少々。
アルコール度数はほどほどにしただけであるのに、頭がふわふわしてる。
楽しかったこともあり、余韻に浸っている。 こういう時こそ、悲しくさせるメロディの曲をかけた方がいい。 まあ俺の場合傷つきようが悩みようが実際の行動範囲では常に受け流すんでね
ただただ感情だけの生き物ですわよし明日も生き延びる 虎視眈眈とね
人間の醜さを背中で語ってやるよ
誰も見向きしないけどさ。 崇拝している者の前では希死念慮がマヒするんだ。
常にアレと隣り合わせだよ 知らないことを何も考えずにに仕事や趣味や作業してた方が有意義だし、生きてるんだよな。
それをしないのは生きていないのかもしれん。
人にどう思われようがどうでもいい。 隠しごとを明かすのはそうとう難しい。俺には彼しか信じられないんだ。
酷いようだが死ぬまで気づかないかもしれない。
ただ求めることは諦めてはいないんだがな。 助けようなんておこがましいだろ。相手も求めてなんちゃいない。
ひたすら迷わずまっとうにそれを目指すだろう。
だから、どこへいくか、見ているだけでいいかな。 エッセンスだけは変わらないなら。
それを色あざやかに見せてくれるのか。
地頭がだめなオレにはまず想像もつかない。 あなたはあなたそれでいいからもう何も言わないで
あなたの言葉好きじゃない あなたの考えも生き方もすべて好きじゃない
たくさん傷ついたの
終わりでいいの 臭いものに近づいてわざわざ張り合いたいのか?
もう少し落ち着いてしゃべってくれ。 なにをどうしてか理由はきかないが、
疲れてるなら、いったん眠るといいんじゃないか? 俺は人生を悲観しているが、それに元気をもらってる。 いろんなことが不安で、どうしようもなくて、頭がごちゃごちゃで。
とがっているように見えるが相手を困らせる意図はない。 辛いならこんなスレに相手するなよ。
あんたの気持ちが大事だ。
あんただけじゃなく、みんなそうしてる。 >>353
おれごときに頼りするのは問題だが、
気持ちあるなら手を差しのべるくらいはできるかもしれん。
期待はするなよ。 おれは存在してないからな。
「逢」いたいならLINEの拡張アプリで探して理想の人に会うがいい。 もう一度言っとくが、おれは存在していない。
おれには会えない。触ることもできない。
叶うことさえできないよ。 運命という言葉を盾にして人の気持ちをもてあそぶならこん身の一発ブン殴りたいくらいだ。
そういう人種、何度も見てきたんでね。もう過去のことだけど。 群集心理が変わったとか、涅槃がとうに過ぎたとか……
そういう「こころ」をあやつった気になっているやつらが多すぎる。
こりゃもう日本のテクノロジーがすべてを台なしにしたんだなと思わざるをえない。 今日もブログ読めなかった。さすがに睡眠に時間とるのは大事なのにな。
穏やかな曲かけて少し横になっているが、落ち着かない。
読みたいものがたくさんある。そして考えたいことも。 とりあえず1時間は仮眠取って眠かったらそれまで。
そうじゃなかったら近所のコンビニで何か食い物買うか。 結局8時過ぎまで寝てしまった。
もう無茶できない体になってるな。 今週のじゅん散歩は東京じゃないので興味がわかない。 ほぼぼうっとしているんだが、空想にふけていてそれに夢中になっていた。
読むものを数ページだけ読んで考える。この繰り返し。 スカッシュやりすぎた。さすがに疲れた。体はね。
頭は覚醒していて眠る気にはなれない。 「おれは存在してない」なんてトンチンカンな中二セリフを吹いたものだ。
しかしこの発想はアリなのはアリかも。
自分と他者の意見一致させる一つの手段として、こういう抽象的表現もたまには必要だから。
とはいえ今はやはりトンチンカンに変わりないし、それに対し積極的に否定する意見はない。 いろんな見方があると思えばいいだろう。
信じるとか、認める認めないでその人の生き方なのだから。
おれとして自分の考えを無理に押しつけるようなことはしないつもりだ。 おれはまだ人のペースに惑わされやすい。
合わせる意識も大切にしているつもりだが、
こういう場では基本相手が非協力的なのは間違いないようだ。 上の様子から見てケンカ腰だしな。
相手にすると精神衛生上よくないので、
これからの姿勢を少し考える必要がありそうだ。 まだ身体の節々(ふしぶし)が痛い。筋肉痛か。
日付が変わる頃には横になるとしよう。
明日になったら回復するかな。 つくづくプライドなんてものは邪魔で邪魔でしょうがないものだ。 死んだ人は、こっちをもう傷つけないからね。
生きてる人間みたいに怖くないよ。 亡くなった人には助けられます。
疲れが溜まったときや、からだに痛みがあるときに、
どんな死者もかつてはこの世界に存在していた事実に想いをはせると、
不安に縮こまりかけていた心が、ふうっとゆるんで楽になり、
また歩きだせるんです。 結局人は死ぬのにさ、苦労して、傷つけられて、
ときにはこっちも傷つけたり苦しめたりして、
やがては老いて…… そんなことに何の意味があるのか、ほとんど茫然(ぼうぜん)として、
誰彼なく問いかけたくなるとき、死んだ連中は……
何もかも生きてりゃこそだよ、って言ってくれる感じがする。 まあまあ、そう嘆かずに、生きてたから、おれたちとも会えたんだろ、ってね。
もうちょい生きてみたらどうよ、なんて。 静人日記、もう少しで終わりそうだ。
やはり遥香さんが登場するあたりになると胸が熱くなり、
先の展開を急(せ)かして読みたくなる。 静人と同じ、軽い興奮めいたものが身のうちにつづき、
日焼けのあとの火照(ほて)りのように、
からだがぽうっと温かくなる。 読んでみようかな
何ページかデジタルで見て興味もっから
巻かない大きなアリア少年 >>388
続編なんで「悼む人」から読まないと、
静人の行為の意味が理解できないですよ…!
天才ならなんとなく察せる部分もありますが、予備知識は備えておくと便利です。 >>390
そうですか。。
ならば古本屋で二冊探してみます。 >>391
静人は通称「悼む人」として旅をしています。
三人の主人公が静人の謎を追うというイメージです。 旅の途上で、人に聞いたという。
ここから遠くない半島の鼻先を、霧深い日に車で走っていると、ヘッドライトに若い女が浮かぶ。
長いまつ毛を伏せて、肩を落とした寂しげな風情が気になり、つい車を降りる。
墨で描いた女性の抽象的な絵のような影に向かって近づき、きみ、と呼びかける。 霧のなかから赤い唇が浮かび、来てくれたのね、と聞こえる。
迷惑をかけたくないから、ここでずっと待ってたの。 言われた当人は混乱する。
そんなはずはないのに、かつて傷つけるような別れ方をした女のことを思い出し、確かめようとさらに近づく。
赤い唇がほほえみ、今度こそ幸せになりましょう、と手を差しのべる。 しなやかな指に誘われ、ふらりと踏み出す。いきなり足が滑る。
あっと踏みとどまると、肉の腐乱した手がこちらの手首をつかみ、
早く来てっ、としわがれた声が響く。 白髪の老婆が歯のない口を開き、どれだけ待ったと思ってるの、と叫ぶ。
男はおののき、許してください、と声を上げる。 そのとき車が通りかかり、ヘッドライトが影を払うと同時に、男は解放され、
ガードレールの継ぎ目からもう少しで崖下に落ちるところだったと気がつく。 なにも答え出せない。気持ちの陶すい。答え出したくない。 別に立派な大きい人間になりたいと毛ほどにも思わない。 病気こじらせて落ちるところまで落ちた。
頑張らない。それでいいと思ってる。
なにを頑張らない、今日伯母と話する。 チョコパイの実も食ってる。変にストレスがあると、甘いものがいいって聞いたことあるから。 神さまに目をかけてもらえなくていい、ただ隅っこで、孤独に崇めさせてくれ。 でも想いが高じたときのつらさや、離れがたい衝動を感じたときの、
そのあとに来るだろう多くの障害に、ためらいをおぼえる。 むしろ今の自分は不幸なのだと思っていたほうが安心する。 あなたの住んでたとこ?知っててあなたみたいになりたくない
って言ってる人がいたw
あなたの住んでたところ行く前に終わっちゃった
通ってたと思うけど そして満たされない感情をもったはらからと心の旅をしたい。 場所はたまたまだよ、ホント(笑)
たくさんの商店街が印象的で団地にびっくりした
すごいのあるじゃない あんなでっかいの始めてみた この自分がどんな人間であるか、
自分が自分であり続けるというのはどういうことかを、
まだはっきりと納得していない。 その根底には、自分がほかのだれでもなく、
この自分であるのはなぜか、世界にたった一人しかいないのだと、かけがえのない自分であるのはどうしてか、
そうと常に欺瞞と向きあっているのではないか、
という強い問いが含まれている。 他人とはかかわりのないものであるかのように思われるとしても、
その思い込みだけでは顔は得られない。 ほんとうに自分のものとして納得できるためには、
ほかの人々から認められることが結局は必要なのではないか。 恥ずかしいが、性と姓を間違えそうだ。
性は男か女の意味
姓は名前 「ある教えに救いを求めた時期はあります。
未熟者には理解できないことが多く、門を出されました。
新たな教えも、やはり自分には遠く感じられ、
未熟なまま過ごしています」 左手の手の平の中に消えずに残った傷が覚えている色とか
左目の切り傷の跡に今も残る残像が形を変えてしまうと
重さに耐える君の事を肩の上で耐えない奴等が笑うんだろうけれど 大人になった君の変わらない歌を笑う奴等が
嘘をつく度に君の目が映す橙色のバラードはきっと嘘をつかなくなる 重さに耐える君の事を肩の上で耐えない奴等が笑うんだろうけれど
それが星の夢の終わりに見る最後の笑顔ならば
それが全てだと信じて君は歩き続けるだけど振り返れば 笑って笑って僕を見てまた笑って笑ってきっと笑っていて 大人になった僕の変わらない歌を歌う奴等が笑われぬ様に…… Final Fantasy 5 Piano Collections-Full Album
https://youtu.be/fYjJftnky1E 実は今日(昨日)憂うつさが増し、一日中横になっていたのだ。
社会人として働いていない自分との葛藤。
認められたい根底にさいなまれながら、生きている現実を否定してばかりいた。 社会に認められず、生きていることに不安をおぼえ、
ヒトのために何もしない、責められるのに怯えると、
当然他者に疎まれ、去るもの追わずばかり続け孤独に終わる。 いま願うことは、立ち止まり、振り返る勇気がほしいということ。
声もなく、うずくまったままの人がきっといる。
道を戻り、その人が歩きだせるまで、妙な励ましなど口にせず、静かに待てる強さがほしい。 一つ一つのいのちの相貌(そうぼう)を拾い上げられる本物の想像力がほしい。 タブレット落としちまった
ウワァァ!!
(>'A`)>
( ヘヘ 自分の考えていることと反対のことを言うことで、
相手にものを考えさせるすべになることもある。 皮肉やあてこすりなども、それの一種と言えるだろう。 こう語る人は、相手よりも高い目線から語ることが多いものだ。
でもそれで相手を諫めようとしても、相手が反発を感じて背を向けてしまったら、
意味はなくなってしまう。 そんなときには、相手と同じ目線で語ろうとするユーモアを用いたほうがいいのではないか、
と考えてみるのも大切ではないだろうか。 「聖書」でふつうには理解しがたいことが書かれていると、
理解できるものに類推して解釈する長い伝統がある。
ただ文字どおり読むだけでなく、ほかのものにあてはめても読まなければならない
とされてきたのだ。 中世のキリスト教の神学では、神はあらゆる認識と創造の力をもってしても認識できないものだと考えられていた。
その神の孤立した威力を思考するために、神学者たちは
「神とは……でないもの」という思考方法を採用した。
神について、人間や事物の類推から、さまざまな概念をあてはめてみる。
そして神はつねにその概念を超越したものと考えるのだ。
神がそれをどのように、どこまで超越しているかを考えることが、
神の特性と威厳を考えるための手段となるのである。 社会の中で生きるためにはさまざまな観念の枠組みを必要とする。
善悪、正義、責任などの価値判断そのもの。 一つの文化の中で生きるということは、
一つの価値体系のもとで生きるということであり、
それはだれもがある「イデオロギー」の中で生きているということだ。 それを単純に批判することも、そのまま受け入れることも、
みずから思考するという課題を放棄することにほかならないところに、
難しさがある。 自分のことを「異端」だと言えばそれで満足してしまう恐れがある。
あえて異を唱えることに、存在理由を見いだす傾向があるからだ。
つまり正統という概念と切り離せない。
むしろ正統の流派とまったく同じであることも珍しくないのである。 自分の身体とは別に精神というものがあると考えるクセがある。
これはどこの文化にも見られる共通した思考習慣である。
だからこういう思考はどうしても捨てがたい。
これは精神と身体だけではない。
善と悪、光と闇、実在と仮象、神と人、エロスとタナトスなどさまざま。
この対立関係の思考が「二元論」の魅力である。 つい安易に用いてしまう傾向がある。
人間の世界は善悪だけで語ることはできないはずだが、
それでも善玉と悪玉の対立構図はすっきりする、安直さがある。 「一元論」はまだ私の認識が欠けているので要約できないがよくも分からずも記しておく。
多様な世界を理解するために、想像力と構想力を試される場では、
なじみの世界(二元論)を貫く一つの説明がとても役立つことだから、
二元論の枠組みに対してどう補っていくかという工夫が必要なのだ。 哲学は一元論にとりつかれてきたと言ってもいいかもしれない。
タレスの「水」から始まり、あるものは「火」と語り、あるものは「存在」という一なるものだと考えた。
これがすべての世界が流れだしたと考えるプロティノスの新プラトン主義の哲学などにも引き継がれる。
(わけがわからなくなるので端折るが)
経済的なものを見定めるマルクス主義は一元的な説明を試みる思想だといってもいいらしい。 虚ろの崇拝者なので勉強や学習というよりは半ば娯楽的な感覚で書いている。 論理的とは決して言えないがBGMは必要だろ。ってことで、このハナシはオワリ。 Dark Chronicle OST -- Veniccio Coast (Extended)
https://youtu.be/1b8D1HGCzko 子どもの名前に「崇」を入れている人とは、何かの教えを乞うっているのかなと勘ぐってしまう。
それともあえて未熟な自分を戒めて、願いを託しているつもりなのだろうか。 母親ならば花や料理に一段と気を使っているイメージがある。 時を川のような流れでたとえることがある。
そうすると、時間は一方向に流れ去るものというイメージが生まれる。 古代ギリシア人たちは、星の回転運動を観察した結果、時間を円でイメージしていた。
そして歴史は繰り返すものだと信じていた。 これらの「隠喩」は比喩のなかではもっとも好まれるものだろう。 「……のようだ」と直接たとえるのが直喩。
(換喩(かんゆ)という言葉もあるがここでは端折る)
隠喩は直接に語るのではなく、それに類似したもので語る。
少女の涙を桜の花にたとえたとき、
少女の眼から風もなくはらはらと薄いピンクの桜の花びらが
散り始めるかのような像が浮かびあがる。 社会学者ウェーバーは資本主義の歴史を考察しながら、
資本主義が形成される上では宗教改革派のプロテスタントの倫理的な考え方が
重要な役割を果たしたと考え、
これを「エートス」という概念で呼んだ。 働くのは利益を得るためであるはずなのに、
獲得した富が使われないのは、経済的な理由ではなく、
人間の深いところで動かしているもっと内的な理由があるのではないかと考えたのだ。 プロテスタントが修道僧のように禁欲するのではなく、
自分の仕事を神から与えられた天職と考え、生活しながら禁欲する傾向をもつ。 自分の頭で理論を検証する、
そして、他人との議論には自分の考えを正確に相手に伝える、
計算力があるだけでなく論理的思考が好きだ。 いかんせん、その憧れはあるが、とても金になるような
(地に足をつけた)現実的なハナシではない。 自分の力でできるだけ貯金しつつ、今の師である書物で知識をたくわえてから挑戦するべき過程であろうか。 競争の範囲には目ではない。あくまで自分のために勉強している。 相手に伝えるための表現力に美を感じ、それを目指すという志はある。 自分のことをかけがえのない人間だと感じたがっている。
この自分は世界のうちでただ一人しかいないのだし、
自分が死んだら自分にとっては世界も同時に消滅するからだ。 ところがこれは、ふつうは非難の言葉として解釈される。
非難される問題を考えるには、たとえば自己愛と利己愛を区別してみる。 自己愛というのは、存在し続けようとする自己への愛情であり、
これを失うことは、その個人にとっては生きることの意味を失うことであり、
精神の病の兆候とも言えるものである。 利己愛というのは、自分にとっては他人のことはどうでもよいと考え、
自分の利益だけを重視することだ。 人間にとって自己愛は大切だが、それだけでは生きていけないことにある。
人間はだれもが他人の助けなしにはそもそも生き延びることもできないのだ。
だから自己愛を実現するためには、他者の助けが必要であり、
他者への愛が支えとなっているのである。
その意味ではこの他者愛も、自己愛の一つの形である。 しかし利己愛の場合には、他者をたんに自己の利益の手段としてしか見なさない場合もある。
これが非難されるべき形である利己愛として示されるのだ。 もしかしたら遺伝子を守るように行動するのかもしれない。
しかし遺伝子の利己主義的な解釈で、行動まで理解することができないのは
明らかだろう。 地球の生物の世界には微妙なバランスが存在している。
植物が光合成を行い、動物が植物を食べ、動物が動物を食べ、そして死んで土に戻っていく。
この生物の生態系のバランスを崩すと、思わぬ被害が発生することがある。 たとえばそれまで生態系に生存していなかった動物を外部から持ち込むと、生物のバランスが崩れることがある。
ブラックバスが池や湖を荒らしているのは有名だろう。
遺伝子組み換え大豆を導入すると、生態系に思いがけない変化が発生するかもしれない。
この病害虫に強い遺伝子をもつ大豆がむやみと繁殖し、他の植物が生存できなくなることも起こりうるからだ。 動物生態学や植物生態学などは、こうした生物のネットワークにも眼を注いでいる。
杉の木を無計画に植林したために花粉が大量に発生して花粉症が流行するなど、
身近な問題にも取り組む学問なのだ。 環境を保護するには、「環境にやさしく」という掛け声だけでなく、生態系についての詳細な知識と学問が必要だ。 この運動は、自然保護を訴えるあまり、ときに過激な主張を伴うことがある。
人間ではなく環境を保護することを重視する。
人間の生活という観点からの環境保護運動を、
人間中心主義として批判するほどだ。 核爆弾の製造は、それまで存在しなかった原子を核分裂によって人為的に作りだしたという意味で、
科学による自然の改変を象徴する出来事だった。 そして遺伝子操作は、自然の遺伝子に手を加え、予想もつかない状態を招く可能性があるという意味で、
科学による生命の改変を象徴する出来事となる。 まだ経験したことのない新しい事態が生まれつつあるのである。
このため自然と環境に向かう姿勢が、科学の対象となる中立的なものではなく、
生き方にかかわる倫理的な性格のものとなってきたのだ。 科学と技術への信仰が、自然環境を大幅に損ねている。
人間と自然の関係が考えなおされるようになってきた。 500から501への論理が飛躍しているので、
504で苦し紛れに補助しておいたが、やはり意味不明になってきた。
あとで勉強しよう。 ユーモアもあるがウィットな感覚をもつ人のほうが、なお、うれしい。 しかし意識すると嫌味になってしまうこともあるから注意しておきたい。 時折あなたを意識するレスをしてしまう。わたしからあなたへ。 Dark Cloud 2: Stella Valley Extended
https://youtu.be/dKAXVNhHRUo りゃんこの私に子どもが指さす
という設定でいきやす。 そうだ。自転車に乗った消防族にアンスタンヴァルスやったこともあったっけな?
派手に踊れ。 意味深だが都会に行けば薄っぺらさは明らかである。浅はかな発想だと。 六度目の青春ぐらいにしておこう。これ以上は何言っても浅い。 隠された精神にはもう届かないであろう。薬も飲んでるしな。 そろそろこのボキャブラリーを脱却するためにものの見方、考え方をあらためる必要はあるが…
今書こうとするものはことごとく骨董に値するものぞ。 FFXのティーダみたいな子どもに珍しく瞠ってしまう。エンカウントなしってところか。バケモノ刀を身につけて愉快よの。 会えるものならすでに会っているだろう。気にはしない。 あなたを意識すりゃそりゃあ不思議なことぐらい書きたくなりますもん。隠し事がナイわけでもないからな。 ただこの遊びをする者はつくづく骨董に値するものでな。 ままごとでな。小芝居に付き合わない権利もあるというか、逆も皮肉だな。 HITTING BROTHER 真冬の昼下がりのすれ違い 日本の文化を嗜んでいる人には驚きと期待に満ちている。 Christmas JAZZ songs instrumental
https://youtu.be/6oD1uYkbc9Y 上記のレスで私の感覚ではいいとこ取りをしているだけだ。
古き良き日本文化といえばものものしい感情がわくんだが。 こういうだけですでに科学になっているはずである。…? 脳から認知という言葉を連想し、これを科学と言えば心の怪盗と同思考だと少し驚いたあとにはさめた。 演出的には見ている画面の前にガラスのようなヒビが入って、時間差で画面が割れる(実際には割れない)、というような演出。
こうとしか刺激的な表現できないだろう。砂時計が壊れてもいい。 ファントムゾーンと聞いて心躍らせたこともあったけど、今この瞬間に書いていると、どうやらひややかな冗談とでしか聞こえないのである。 こういう時こそ一元論を意識して思考に集中すればいいが、しょせん程度が知れてると卑下し、放棄してしまった。 どう、考えればいいのか、わからなくなってしまうのだ。腹の底がくすぐったくなったりする感覚が極端に変わる。どちらの方にも。 職場で上司や社長までもが急にトイレ駆け込むやつか。 親しい者なら便のほうが出やすいらしい。そういうことはやめてくれ、カンベンしてくれと。驚きはしねえけど、怖いからって。 子どもが喜ぶような現象だろう。別に特別ではない。ただ、おぼっちゃまくんの嬉々とした表情が目にみえるようだ。 面倒見のいいおっさんなら坊をたしなめているはずだ。 Dragon Quest VIII Ost - Mysterious Tower
https://youtu.be/PHA6HLsmUqE エロスというのはふつう性愛という意味で用いられるが、現代思想の分野ではもっと広く、
生命保存の原理というほどの意味で使われる。
人間が自己を保存しようとする本能的な衝動。 タナトスはギリシア語で死を意味する、死の欲動の原理。 自己を愛し、他者を愛する強い欲望だけでなく、ひそかに自己破壊的な欲望に動かされることもある。 エロスには二つの側面
・自己保存という生物学的な欲動
・性愛という非生物学的な欲動 <自己保存という生物学的な欲動>
生存するためにご飯を食べ、水を飲む。
規則的な眠りも、適度な運動も欠かせない。
食欲のような欲望は生物として生きるために必要。
これが欠如すると、生存できなくなる。 <性愛という非生物学的な欲動>
ときに幻想のような性質をおびるのであり、異性そのものではなく、
異性の頭髪や足に欲望を固着させるフェティシズムのような倒錯を生むこともある。 生の欲動であるエロスと死の欲動であるタナトスを対立させて考えたが、ここには奇妙な逆説がある。
エロスは人間が愛しあう人と一体になろうとする欲望だと考えた。
しかし同時に死には、人間が誕生する以前の原初的な一体性に戻るという意味があるとも。 だとするとエロスの欲動も死の欲動も、失われた一体性を回復しようとする衝動だ。 エロスとタナトスは、人間を動かすさまざまな欲望の二元論だが、
実は原初の状態への回帰という一元論的な欲望の二つの姿なのかもしれない。 タナトスには
交通事故など生命を脅かす経験をした人が、それを繰り返し夢に見ることがある。
夢は欲望の充足だと考えていたから、これを夢に見ることは死を欲望していることになる、というのだ。
密かな自殺欲望を抱えている人のいること。 タナトスの欲動はこころの中にありふれているので、真新しい情報はなく省略した。
自分の死を望むマゾヒズムが存在しているのではないかと。 教えに救いを求めて、救われた人の気持ちを考えると、まさに信じられるんじゃないか。 理解できないものとして、やぶから棒に批判するのは確かにある。 つまんないこと言ったな。
言いたかったことがあったけど忘れたよ。
別に大したことを考えていなかったのだろう。 そういった話題の場合には謙虚な姿勢をもつことを意識している。
未熟者として。 相手がつくった料理を「いただきます」と手をあわせて、「ごちそうさま」と手をあわせる…
当たり前のことのように見えて、なかなかできない。 「おいしかったよ」と笑みをみせると気持ちが通じ合ったようで、和む。 演繹するというのは、まず一般的な法則を立てて、
それを個別の事例にあてはめるやりかただ。 帰納というのは、多数の個別の事例をもとにして、一般的な法則を定めるやりかただ。
一般的な法則に"帰って"くるので帰納だと覚える。 <演繹>
一般的な法則を立てる。
「人間は死ぬものだ。わたしは人間である。だからわたしは死ぬ。 」
この三段論法は前提が正しく、人間という集合に所属することが確実であれば、
かならず正しくなる。
正しい推論のことであり、論理学とは正しいことについて研究する学問。 論理的な正しさというのは、いくつもの約束ごとに守られている場合だけ。
ゲームの規則を変えるだけでも正しさは失われる。
1+1=2は十進法の計算である。
だが、二進法では1+1=10と答えなければならないのだ。 <帰納>
多数の観察例を集める。
カラスを観察し、一羽のカラスが黒く、二羽目も黒く、千羽目も黒いとすると、
すべてのカラスは黒いという推論を定めることができる。 しかしこの推論は演繹とは違って、絶対に正しいとは言えない。
推論の形式にその結論の正しさを証明する力がないからだ。
だから一羽でも白いカラスが登場すると、
この推論は間違っていたことが明らかになる。
帰納はつねに誤りになる危険性に脅かされた推論なのである。 ニュートンの物理学はずっと正しい体系だと考えられていたが、
アインシュタインがこの物理学では説明できない事実を指摘し、
それを説明できる新しい体系を提示したので、絶対に正しい体系ではなくなったのである。 どんな理屈でも自分の感情が納得しなければ変わらない、非論理的で自分中心のわがままな生き物なんだ…… だから子どもだとごまかして自分を未熟者とレッテル貼って、安心しているのだろう 実は昨日友人の知り合いから教えと対峙したのだ。
聞くからには運命的な救いが得られ、その感動を私に伝えたい思いでどうかなと誘われた。
とりあえず話だけは集中して聞くことができた。 しかしその後昨夜からやってくるのは疲れ。
心身疲労しか得られなかったのだ。ジムも休んだ。
だから、自分の心根は教えに対して謙虚な姿勢しつつも納得できなければ、
結局自らが否定する側と同じだということに気づいた。 今も貧しい心で思考がとらわれている。何も考えたくない。 忍ぶ忍ばずあなたが好きで
いのちを捨ててもいいほどに 何も考える気が起きない。
文字でさえ見るのが億劫だ。 頭痛治らず。とりあえず文字は追う気にはなれた。
眠くなるまで読もう。 数学者は理論を発明し、物理学者は真理を発見します。
しかし、数学者もまた、自らの創造した世界があまりにも美しいと感じた時には、
それを真理と見なして、発見という言葉を用います。 多くの人は、この中間に位置しています。
数学の厳密さに耐えられない時には、直感の利く物理学に頼り、
物理学の設定の難しさに疲れた時には、スッキリとした議論ができる数学に憧れます。
どちらか一方の立場に徹底したい人が、数学者になり、物理学者になるわけです。 数学は理想を、物理学は現実を扱います。
そして、物理学は、数学の言葉によって、現実の中に理想を、現実の似姿を見いだすのです。
物理学には、現実そのもの、自然そのものは決して扱えません。
それが物理学の宿命であり、私たち人間の限界なのです。 古代の哲学者たちは、周期的な宇宙大火が発生して宇宙は燃え尽きると考えていたが、
熱力学的な法則によると、宇宙は最後には秩序を失ってカオスに戻ってしまうらしい。 宇宙がまた同じように誕生すると考えていたけれど、
それには巨大なエネルギーが必要となる。 ふたたび地球が誕生し、生命が生まれるためには、
「エントロピー」の法則を逆転させるものが必要なはずだが、
それはどこから生まれるのだろうか。 美しいものははかなく脆い。
しかし美そのものは衰えることも、汚れることもない。 第六感?波長?
悪いが俺はそういう眉唾(まゆつば)なモンは一切信じねぇぜ。
クラスの女が、霊感がいいの悪いのって言い出すのを聞いてると虫唾(むしず)が走るのさ。 妙な宗教に勧誘しようったって、そう簡単にいかねぇってこと 無理に閉じ込めようとするとみんな抵抗するが、
じゃあどうぞお好きにというと大人しく戻ってくる。
人間ってのは天邪鬼なもんだ。 本当に霊感が強かったりすると、そういうのに憑依されちまうのかよ。 人間、生まれたばかりの時は誰だって没個性だ。
ところが成長期を迎え、自我ってやつが生まれ始めると、
没個性なのが許せなくなる。
人と違う何かを持ちたくなる。 …しかしだからと言って、学校で等しく同じことを習い、
同じ生活を強いられている自分に、
クラスの他の連中と違う何かを得られるはずもない。 すると最初に始めるのはルール破り、いわゆる反抗期だ。
みんながルールを守るから、自分だけルールを破って個性を示したい。 数学において証明された定理は、成立する範囲の中で永遠の価値を持っています。
一方、自然の観察からはじまる物理学は、観察精度が上がるにしたがって、常に更新されていきます。
理論の枠組みそのものまで改められることもあります。
そして、より本質的なものへと改善されていくのです。
これが物理学に終りが無い理由です。 数学は、自己を表現するためにあります。
物理学は、自分の外の世界を理解するためにあります。
物理学は直感により進歩し、数学はその直感を排除することで深まります。 医学の高度な研究に関わりたければ、生物の基礎が必要になり、
生物の高度な研究に関わりたければ、化学の基礎が必要になり、
化学の高度な研究に関わりたければ、物理の基礎が必要になる また、工学のどの分野においても、より高度な研究を目指せば、
物理学の基礎が絶対に必要になります。
そして、物理学の先端研究に関わろうとすれば、高度な数学が必要になり、
高度な数学の研究には、対称性や統一性を感じる美的感受性が何より必要になります。 数学は、ある対象を徹底的に“考察すること”からはじまりますが、
物理学は、ある対象を徹底的に“観察すること”からはじまります。 まず、“見る”ことが、すべてのはじまりです。
観察、あるいは観測と呼ばれる“詳しく見ること”が、仮説を立てるために必要な、
すなわち、実験を企画するためにもっとも重要な行為なのです。 心は薄いがまた遊就館を見たい。
初詣客が落ちついたら挨拶しに訪れようかな。 天皇陛下 85歳に
天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えられた。
これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見に臨み、戦争と戦後日本の歩みを振り返りながら
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」
と、平和が続いていることへの率直な心情を吐露した。 陛下は来年4月30日に退位して上皇となった後は、
全ての公務を新天皇の皇太子さまに譲るため、誕生日会見は今回が最後。
平和希求への思いや、長年にわたって陛下を支えた皇后(こうごう)さまについて語ったときは、
声を震わせる場面もあった。
会見では、自らの天皇在位や人生を旅に例え、
「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、
私を支え続けてくれた多くの国民に衷心(ちゅうしん)より感謝する」
と、国民に謝意を示した。
来年4月に皇后さまとの結婚から60年を迎えるに当たっては
「私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、
真心を持って果たしてきたことを、心からねぎらいたく思います」と語った。
戦後に米国から返還された奄美群島(あまみぐんとう)(鹿児島県)、
小笠原諸島(東京都)、沖縄県にも言及。
「沖縄の人びとが耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、
これからも変わることはありません」と強調した。
日本で働く外国人の増加にも触れ
「社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」
と述べ、多文化が共生する社会を望んだ。
次の天皇となる皇太子さまと皇嗣(こうし)となる秋篠宮さまには
「共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、
日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」
と新時代の皇室に期待を寄せた。 皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年2月23日 - )
御称号は浩宮(ひろのみや) どんなものでも、その「見える姿」からしか判断することはできない。
しかし見える姿がその真の姿と違うこともある。
そのとき、その見える姿を「仮象」と呼ぶ。
仮象にすぎないというのはつねに否定の言葉で、
君は本質を知らないね、
と暗に言われていることになる。 仮象の一つである錯覚を例に考えてみると、
たとえば真っ直ぐな棒を水の中にいれて横から見ると曲がっている。
水から取りだして見ると棒はやっぱり真っ直ぐだ。 ところで錯覚は避けられないものだ。
水の中の棒はだれが見ても曲がっている。
どうやら錯覚という仮象は、人間という動物が地球という環境で
生きていくために必要な誤謬らしいのだ。思想の世界にもある。 たとえば神が存在し、証明できるという議論は、古代から西洋のキリスト教社会では長く続けられてきた。
人間は自由であるかという議論もそうだ。
宇宙には始まりがあったのかという議論も歴史が長い。
こうした議論は宗教的、哲学的になり、科学的な探究の源泉となる。
そして決着がつかない。 真の世界は不可視のイデアの世界であり、
世界は仮象の世界にすぎないのだろうか。 仮象という概念は、二元論の世界観から生まれることが多い。
一元論では仮象を否定するか、仮象と真の姿を和解させる方法を必要とする。 資本主義の社会ではお金に購買価値がそなわっているように見える。
また労働者は自分の労働力を賃金で等価交換しているように見える。
しかしこうしたものが仮象にすぎないことを明らかにしたのがマルクスだった。 また、仮象という語には否定的な意味合いがあるが、
これを否定的でなく語るときには、現象と呼ばれることが多い。 身体を魂の牢獄と見なしていた古代ギリシアの教えは、
竪琴(たてごと)の演奏で魂を浄化していたと考えられた。
多数の文学作品の源泉となっている。 宗教的な音楽を聞くと、魂が浄化されるような経験をすることがあるが、
音楽と魂の結びつきは、文化の違いを越えて、遠くさかのぼるわけだ。 魂をできるだけ身体から浄化する必要がある。
魂は不滅であり、身体を「着替える」ようにして次の生を送るのだ。 罪を犯したものはある儀礼の手続きにしたがうことで、けがれを洗い流して、
共同体に復帰することが許された。
日本の禊(みそぎ)にもこの意味での要素は含まれる。
宗教的に聖なる空間に入るときには、この種の清めの行為が必要とされることが多い。 『旧約聖書』の世界では動物の血を使って聖なる場所が清められた。
キリスト教の世界でも洗礼を受けることが行われる。 自分では気づかずに抑圧していた無意識や罪の意識などは、
人間の精神の健康にとって妨げとなるものらしい。
告白という営みや精神分析のカウンセリングには、
こうした悩める魂に「カタルシス」を与える効果がある。 交換の手段にすぎない貨幣に価値があると思い込むことをマルクスは物神化(フェティシズム)と呼んだ。 人間の歴史は、物神化された貨幣にまつわる悲喜劇で綾取られているのだ。
金貨三十枚でイエスを売ったユダの物語からシェイクスピアの『ベニスの商人』
にいたるまで、文学の歴史は貨幣との因縁の歴史でもある。 リンゴを隣村の人の魚と交換したいとき、リンゴ一個で魚一匹と交換したいのに、
相手はリンゴ十個を要求したらどうなるだろう。
交換することができずに引き返すか、暴力を使って相手の持ち物を奪うしかないだろう。 そうなると自分の所有物を守るために相手と戦う決意が必要になる。
「万人が万人にとっての狼」という状態が生まれる。 しかし交換価値の尺度として認められている貨幣があれば、
魚とリンゴの交換価値はだれもが常識として知っていることになるだろう。
交換に必要なだけの貨幣をあらかじめ用意して、隣村に魚を求めにいくはずだ。 貨幣で購入するということで、人々は相手と直接にそのものの価値について
取引しなくてすむようになる。 貨幣は人々の直接の交渉を省くのであり、だれもが貨幣を介してしか人々と交渉しなくなる。
人間の間に距離を作るのだ。
しかしこの距離のおかげで、他者と安全な関係を作りだすことができる。
貨幣は引き離すと同時に、人々を結びつけるのだ。 現代の情報社会において貨幣は金属でも紙幣でもなく、銀行の口座の数字となり、
クレジットカードのデータとなった。
円やドルなどの為替(かわせ)で投機をすることもできる。 国際的な貨幣の投機が一国の経済を揺るがすこともあることを考えると、
グローバルになったこの世界において、貨幣はまったく新しい意味をもつようになった。 「貨幣」という言葉を使いすぎだ。くどい。
代名詞(こ、そ、あ、ど)を用いればより読みやすい文章になるだろう。
今後意識しておくべき。 一通り読んで顛末を見通したら書き込むのがベストだ。
今回はこの方法を取らなかった。情けない。 それほど「貨幣」という言葉に注意しなかったわけだ。
たった二文字だし、聞き触れているから気を抜いていた。 これがイデオロギーやカタルシスなどという横文字だったら意識は違っていただろう。
その要領で書けば重要単語の理解が深まる。実際そうだ。だから注意しておくべき。 重要単語の理解ではなく、ものの理解。
この辺の日本語表現にもどかしさを感じる。 どうも斜視なんだよなあ。
スマホいじってないのに。 病院で奇声発したり、意味がないところで不意に爆笑してたからかなあ。 その時は思い出し笑いばかりだったわ。
一部の患者とか見てて飽きなかったし、
なんか毎日必死すぎてその滑稽さに笑ってたわ。 そんな私も白夢の繭という曲を裏声で発声してましたわ。 年配の方は怖がるか、むしろ耳触りの可能性が高いな。 自分に懐いてくれる男の子と一緒に歌ってたわ。
青空のナミダとかツキアカリのミチシルベとか。 当代切っての情報収集コンビ、
ブルツェンとコッヘル 町の女の子の名前は全部知っているという、
ワイマール 昨年の砲弾運びレースで優勝した、
メルゲントハイム サブカルチャーとは、既存の文化的な権威に対抗するために若者や民衆の間で生まれた文化のことだ。
ロックやポップスなどの音楽はクラシック音楽に対抗するために生まれたし、
アニメや漫画は「高級な」映画や書物と競争する。
コンピュータ・ゲームはコンピュータというマシンの「正しい」使い方に抵抗する。
伝統的な文化がこうした「下品な」文化を逸脱したものとして嫌う傾向があるのは、
電車の中で漫画を読む若者に対する蔑(さげす)みの視線にも感じられることだ。 「高級な」文化は、成人男性を対象とするものと見なされることが多い。
そして女性の文化はどこか劣ったものと見なされがちだ。
あるいは女性には「女・子ども」の文化がふさわしいとされることもある。 男性にふさわしいもの、女性にふさわしいものが
社会的・文化的にあらかじめ規定されていると考えることに異議を申し立てているのが
ジェンダー論である。 ジェンダー論は男女の性差とは別に社会的な性の違いが暗黙のうちに存在していることに敏感なのだ。
「カルチュラル・スタディーズ」もこのジェンダーの視点から、少女漫画や女性雑誌などを研究する。
そしてこうした文化の価値を見いだし、新しい文化の作り手を生みだしていこうとするのである。 ペルソナ焦らすねえ
ゲームクリアしたからいいけど
完全版が来るんだろうか
とりあえず既存のパレス飛ばせる超セーフティモードないと
追加シナリオまで行く気にならんわ ラスボス撃破後、主人公服役期間に
追加シナリオはさむのだろうか 「観念」は思考の内容だから、人間の知性にとっては重要な意味をもつ。
古代ギリシアの時代から、人間が感覚や知性で認識したものはそう呼ばれてきた。 何かを見るが、その見たものの像は、目をつぶったり、後ろを向いたりしても、心の中には残っている。
これがプラトンのイデアという語にならって、観念(アイデア)と呼ばれるようになった。 近代の哲学の端緒に立つデカルトも、
感覚で認識した内容と、知性で認識した内容をそう呼んでいた。
精神の営みの産物はすべて観念を形成する。 しかしとくに注目されるのは、人間が経験によって獲得するそれとは別に、
人間が生まれつきもっている生得観念があると考えたことである。
存在とは何か、真理とは何か、思考とは何かなどは、
経験する以前から理解できると考えたわけだ。 人間が真理という観念をもって生まれてくるというのもおかしなことだ。
この生得観念の概念を批判するところから、イギリスの経験論と
科学的な心理学が始まることになる。 経験論では人間は白紙のような心をもって生まれると考える。
人間が成長の段階でさまざまな経験を積むことで、
もろもろの観念を構築するのであり、生得的な観念はないと考えたのである。
もちろん経験で得られるのは直接的で単純な観念であり、
人間はさまざまなものを連想したり、比較したりしながら、
複合的なそれを構築していく。
イギリスの経験論では人間のこの心理的な操作を詳しく考察したので、
心理学の基礎を築くことになったのだった。 この経験論をつきつめていくと、存在するのは思考するひとの自我だけであるという
独我論の原型が生まれてくることだ。 人間は外部との交渉のうちで印象を刻印され、観念を形成していく。
だとすると、存在するのが確実なのは世界だけだということになる。 独我論が生まれたのは、言語というものが観念を伝えるための道具のように考えられていたためだった。
19世紀頃まで、言語は固有の観念を間接的に伝える道具、
どこかできそこないの道具のように考えられていた。 そうだとするとだれもが孤立した<島>のように閉ざされていて、
言語は<島>を結ぶ頼りない橋のようなものとされてしまう。
しかし言語は観念を伝える道具にすぎないものだろうか。
言語によるコミュニケーションが可能になったことで、
初めて人間のうちにそれが生まれてきたのではないだろうか。 近代には人間の自立した観念の力を重視する観念論と、
人間を動かす物質的な世界の力を重く見る唯物論が対立した。
とくにマルクス主義的な唯物論は、人間の観念にはイデオロギーとしての
性格があることを指摘しながら、観念論を批判するようになる。 そうッスね。何事も因果応報です。
日頃の行いが悪いから泣き顔に針入れられんす。 文章を最初からずっと頭の中で反復する練習をしていくと、
やがてはとぎれずに暗唱することができる。
これは「記憶」されたデータであり、記憶はここでは情報である。
そして思い出していくには、それを朗読(声を出して読む)するのと同じだけの時間がかかる。 記憶にはもう一つの意味がある。
ある種の匂いをかいだとき、幼年期の一時期をありありと思いだした経験はないだろうか。
この「思い出す」という行為は想起と呼ぶべきなのだが、やはりこれも記憶の一種である。 ケツぴったりのラグパン
そこから毛のはえた腿の筋肉……
俺は奴を想い毎晩のようにセンズリに耽った。 町外れの丘の上に建っている高校への坂道を途中まで登ったが、息が上がって俺は、
肩で呼吸をしながら自転車を押して歩き始めた。
この道の先には高校しかなく、森に囲まれた道の両側に生えた雑草のから、彼岸花が赤い花を咲をしていた。
秋の空は薄く高く澄みきっている。 4K 焚き火BGM動画 くつろぎの3時間(癒し・勉強・作業用BGM)
https://youtu.be/tvNdPc7ed90 さっぱりと刈り込んだ頭、前髪をあげ、もみ上げをすこし伸ばしていた。
野郎臭く、精悍な顔つきのなかに、どこか少しイモ臭さのある横顔。
形のよい濃い眉毛に、体育会系の野郎だけがもつ独特の光が、その一重の瞳の中にあった。 生あるものはかならず死ぬ、
そしてあの世で永遠の命を授かる、
わかりきったことではないか。 せめて、自殺を大罪とする神の掟(おきて)さえなければ。 誰が(フーダニット)
どうやって(ハウダニット)
なぜ犯行したか(ホワイダニット)
あんまり多くの本読んでないけど、やっぱり注目するのはホワイダニットだね。 習主席「武力行使も選択肢」 米の台湾介入けん制
北京で演説「台湾は中国の一部」
中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は2日、北京の人民大会堂で台湾問題について演説した。
平和統一を目指すのが基本だとしたうえで
「外部の干渉や台湾独立勢力に対して武力行使を放棄することはしない。必要な選択肢は留保する」と強調。
台湾への武器輸出推進を明記した「アジア再保証推進法」を成立させた米国を念頭に介入を強くけん制した。
習氏の演説は台湾政策を武力解放から平和統一に転換した「台湾同胞に告げる書」の発表40年を記念した
式典で行われた。習氏は
「長期にわたる政治的対立は両岸関係が安定しない根源であり、先送りできない」と述べ、
早期統一を目指す方針を改めて表明。
「中華民族の偉大な復興へのプロセスにおいて台湾同胞を欠くことはありえない」と訴えた。
「台湾は中国の一部であり、いかなる勢力も変えることはできない」とも主張。
台湾問題で中国への揺さぶりを続けるトランプ米政権に対して、名指しを避けつつ介入しないよう求めた。
一方で、「(台湾と同胞と)手を携えて平和統一の目標を実現する」と述べ、
基本方針は平和的解決だと改めて明言。
「平和統一に向けて一国二制度は最良の方法だ」とも指摘し、
「国家主権と安全が確保される前提で、平和統一後も台湾同胞の社会制度や生活様式は十分に尊重し、
私的財産や宗教信仰などの合法的権利も保障する」と訴えた。
統一後に対する台湾の懸念を払拭し、米国寄りに傾かないよう配慮したもようだ。 社会の規範(き“は”ん)としての道徳というものにも歴史があることを示したのは
ドイツの哲学者ニーチェだ。 ニーチェは規範とされているキリスト教の道徳にも暴力や欺瞞が含まれていることを鋭く指摘する。
規範は「すべし」という道徳の力をそなえているだけに、ときに暴力的なものとなるのはたしかだろう。 規範という概念が、社会における「正常」と「異常」の違いに基づくものであり、
それが起立として、人々を調教する力があることを示した。 同性愛は自然に背く営みであり、規範に反するものとされてきた。
同性愛者は異常な人間として人々から差別され、抑圧されてきた。
しかし現在ではこのような差別は好ましいものではないことが
認められるようになっている。 「正常」と「異常」の違いは、それほど根拠のあるものではないことが多い。
ところがそれに逆らうことがなかなか難しい。
規範のもつ無言の力は、人々を従順な動物のように調教してしまうこともあるのだ。 >>700
正常異常・・・ しかしさ、はあちゅうとしみけんはなんかすごい
ご縁なんだろうね。。。 鎖国の記憶があるからなのか、日本では難民の受け入れは極端に少ないし、
受け入れた移民を差別することもあるようだ。 しかし移民と共生することは、社会と文化をさらに多様で開かれたものとするための
きっかけとなってくれるだろう。
これまで知らなかった世界に目を開かれることだってあるかもしれないのだ。 「共生」とは異質な人々とともに生きることだが、ともに生きるための知恵を学ぶことは、
ほんとうは日常の生活においても大切なことなのだ。 家族なら生まれてきてからの長いつきあいがあるから、
何も言わないでも意思が通じることがある。
でも学校や会社でそれまで共同で生活してこなかった人々とつきあうには、
異文化の人々とつきあうのと同じような心構えが必要なのだ。 他者の生活の経験の背後には、想像もできない歴史が隠されているかもしれない。
そこに知り合いのようにずかずかと踏み込むと、相手を傷つけかねないのだ。 メモ
「平成ネット史」
1月12日(土)
【前編】午後2時?3時
【後編】午後3時?4時 ままなろうとなかろうと、
正しいことをする、それが一番なのである。 あの日以来、俺はもっと苦しくなった。
あいつに近づきたくて、でもできなくて、俺は苦しかった。
会えないのは、あいつが他の友人達に囲まれているだけじゃない、
俺のほんとうの気持ちが、あいつに伝わるのが怖かったから。
その気持ちを知ればあいつはきっと傷つくだろう、
いや何より自分が傷つくのが怖かった。 俺は単純だ。
お前のひと言でさっきまでの憂鬱な気分はどこへやら、
この窓から見える高い青空のように、いい気分になった。 土曜日。
俺は部活が終わったあと教室に戻った。
西の空に沈みゆく陽は、やがてその熱を空を染める色へと変える。
西グランドでは野球部がまだ練習を続けていた。
金属バットが白球を打ち返す快音が響いてくる。 今二人の距離はどのくらいだろう。
手を伸ばせばすぐそこにいるのに、僕には触れることができない。 それから一カ月後、あいつは父親の転勤で、転校することになった。
俺はまだ気持ちを伝えられずにいた。
あいつが転校していった日、お前はふて腐れ、俺は何も言えず、ただ笑っていた。
夜になって、俺は一人泣いた。
今まで、ひとり秘密にしていた気持ちが後から後から、溢れてとまらなかった。 あいつがいなくなってからも、部活の帰り俺は夕陽に染まるグラウンドを眺めていた。
もうそこにはあいつがいないと分かっているのに。
お前はいつもと変わらず明るい、でもきっと寂しい。
ただ気持ちを言わないだけだ。 一度だけ、あいつとキャッチボールをした。
そのときの白球を僕はじっと見つめた。
この気持ちはとうとう言えなかったけど、今はそれでいい。
今日も夕陽は赭々と燃えていた。 夢板のこのスレをageると回線が落ちる現象って起こるのか?
飛躍してるし根拠のない原因だけど、投稿したら頻繁に起こるんでな。
人為的な操作を疑う。もしくはもうすでにスクリプトを組んであるのか…?
というわけで実験。 まあ少し暴言吐いたしな。
誰かが当然の報いだという理由で組んであるのかもしれない。
責任、さもなくばお前のパソコンを不便にさせるぞってな。 スレ乱立荒らしの意図はなんだったんだろう。
そこまでして夢板にこだわっていたのか?
頭のいい人の感覚は理解できないよ まだ回線落ちないな。
もうそういう系の陰謀は控えるか。
視野が狭すぎる。 江戸時代の日本の農村は、五人組を基本とする閉じた村落共同体で構成されていた。
農村では隣近所の人々はみんな知り合いだった。 守らなければならない掟のようなものは厳しかったし、
従わないと村八分のようなことになったが、
現代のように人々が孤立して原子のように生きる社会から見ると、
「共同体(コミュニティ)」の生活はどこか昔風だ。 共同体の生活がに耐えられるかどうかは、わからない。
伝統的な共同体が崩壊して、人々が都市に集まると、
人々は共同体の絆から解放されて、無名で孤独の生活を送るようになる。 孤独かもしれないが、人々のまなざしにさらされず、
プライベートな空間と時間をもてる気楽な生活でもあり、
自分のやりたいことを試す自由もある。
都市で無名のうちに暮らすということは自由になるということでもある。 資本主義の社会というものは、共同体が崩壊した後に、
自分の労働力を売らねばならなくなった人々を原動力とする社会の仕組みだ。
こうした社会ではかつての共同体の内部で人々を拘束していた身分や地位の
ようなものもほとんど消滅して、だれもが働かねばならないと同時に、
だれもが自分の欲望を自由に満たすことができるようになる。 かつての伝統的な共同体から離脱したが、
いまやメディアなどの力でもっと新しい共同体のうちに暮らすようになった。 日本人というアイデンティティをもって暮らしているし、日本という国で生活しているからだ。
この国民国家という共同体は、近代になって登場したものだ。
かつての村落の共同体とは違う性質のものであり、
「想像の共同体」というヴァーチャルな意味をもっている。 そしてこの意識が国外でも国内でも、ときに戦争や差別や厳しい抑圧を
もたらすことがあることは、過去の歴史が教えてくれることだ。
そしていまなお東アジアの隣国との間で、さまざまな軋轢(あつれき)を経験し続けている。 夢に果てなきうちは、道もまた果てのなきもの。
さえぎるものが在るならば、それは内なる「恐れ」、
ただそれのみである。 数学の発展、間違いきっかけに 世紀またぐ挑戦続く
科学技術史に残る偉大な発見や発明は、間違いや失敗をきっかけに生まれた例がたくさんある。
特に数学では、1つの難問に多くの数学者が世代を超えて挑み、間違いを乗り越えて大きく発展させてきた。
すぐに応用できる成果ばかりを求めて失敗を許さない風潮が強まると、研究に予算を投じても驚くような成果が
生まれなくなるかもしれない。 大阪市立大学の安本真士特任准教授は
「一見簡単そうなのに証明が難しい問題は、数学者をとりこにする」と話す。
そんな一例が「どんな平面地図も4色で隣接する領域が同じ色にならない
ように塗り分けられる」という「4色問題」だ。
この問題は英国のガスリー兄弟が1852年に提唱した。
以来多くの数学者が証明を目指し、100年を超えて論争の歴史を刻んできた。
まず英国の数学者、ケンペが1879年に「4色問題を証明した」と明かし、学界で話題になった。
証明には「帰納法」という手法を使った。
ある個数の国を含む地図が4色で塗り分けられるとき、その中に1つ新たな国を加えても4色で
塗り分けられることを示せれば、4色問題を証明できる。
新たに加えた国のまわりで「赤・緑・赤・緑……」などと続く国の列を1つのグループと捉えて
場合分けしていけば証明できる、とケンペは唱えた。 しかし1890年、英国の数学者ヒーウッドが
「ケンペの手法では4色で塗り分けられると証明できない例がある」と指摘し、
4色問題の証明作業は振り出しに戻った。
これを契機に数学界における難問として広く知られるようになった。
神戸大学のラスマン・ウェイン教授は
「ケンペの間違いは、よい間違いだった」と解説する。
決着がつくのは1976年だ。
米国で2人の数学者、アッペルとハーケンがスーパーコンピューターを使い、
4色で塗り分けられる地図の基本パターン約2000個を全て洗い出した。
国を色の並びでグループ分けするケンペの考え方をプログラムに応用した。
この研究は数学の証明にコンピューターを使う最初の例となった。
ケンペは4色問題の証明には失敗したが、コンピューターを使う数学という
新たな可能性を開く基礎を築いた。 間違いが新たな研究領域を生むケースもある。「平行線公理」の問題だ。
紀元前3世紀の古代ギリシャでまとめられた数学書「ユークリッド原論」は、
図形や空間を扱う幾何の前提として5つの条件を示した。
「点から点に線を引く」などの分かりやすい4つの条件に加え、複雑な条件が1つある。
「ある直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角αとβの和が180度未満なら、
2直線を延長するとαやβのある側で交わる」。
これが平行線公理だ。
「原論」が発行された当時から、平行線公理は前提条件ではなく他の4条件から
証明できると考える数学者は多かった。
以来何度も証明が試みられ、失敗に終わった。
17〜18世紀のイタリアでサッケーリらが、平行線公理に反する仮定のもとで矛盾が起きることを示そうとした。
ある直線の外にある点を通って元の直線と平行な直線は2本以上引ける、という紙の上では再現できない仮定だ。
直感的におかしいと分かるが、そこから起きる矛盾を厳密に示すことはできなかった。
19世紀になると新たな着想が登場した。
ロシアのロバチェフスキーとハンガリーのボヤイはそれぞれ独自に
「サッケーリらのおかしな仮定が成り立つ場合があるのではないか」
という考え方を前提に幾何学の理論を築き始めた。
2人の提唱した新たな幾何学は後に「非ユークリッド幾何学」と呼ばれるようになった。
当時はまだ「原論」に基づく幾何学で世界のあらゆるものが説明できると信じられていた時代だ。
科学哲学が専門の野家啓一東北大学名誉教授は「大きなパラダイムシフトだった」と指摘する。 1910年代、アインシュタインが一般相対性理論を生み出す際に大きな役割を果たした。
その後、日食の観測を通じて、宇宙には非ユークリッド幾何学でしか説明できない現象
が存在することが確かめられた。
1000年以上にわたり続いてきた平行線公理を証明する挑戦が、宇宙の理解に必要な科学を育んだ。
「間違ったことのない人とは、何にも挑戦したことのない人である」
とは、アインシュタインが残した名言だ。
間違いを恐れず手ごわい難問に挑んだ人々がいてこそ学問が発展することを、数学の歴史は教えてくれる。 Twitterでは千と千尋の神隠しの主人公は悪人だってツイートがログイン画面に出ててね、
あれありふれた病の元凶だわ。
そこから私の地獄は始まったのよ。
他の人のツイートにも反発したし(直接その人に意見は言ってないけど)、
言葉botと空リプで喧嘩してたわ。会話として成立してたもの。
あの辺が原因なのか、街ですれ違うの人を会話を過剰に意識してた懐かしい。 認識に縛られた結果だ
「ネットは辞めたほうがいいんじゃない?」
当然のアンサーだわ それに気づかなかったのは
まだオレが若きハムレットを真似ていたからであろう
そういう人が増えたくないと思って声かけても
結局自分が納得しないと、何言っても無意味なのよね
むしろ反発してしまうわ
洗脳って 「虚構」というのは、真実ではない見せかけ(虚)という意味と、
現実とは違う作り事(構)という意味をあわせもった語だ。
どちらにしても、事実からではなく、ひとが想像で作ったものという意味が
含まれている。 虚構がときに現実の真実の表現よりも、心の真実を語ってくれることもある。 ソクラテスは多くの対話編で、対話の相手に神話(ミュトス)を語るのを
やめてくれと頼んでいる。
神話という虚構ではなく、
対話によって語り手の論理が一貫しているかどうか、
矛盾がないかどうかを確認していくことで、
真理に到達しようとしたのである。 ところが西洋の社会はキリスト教という宗教に依存してきた。
最初は政治的な権力はそれと対立していたが、
やがては人々の心を捉えたそれに頼らずには権力が維持できなくなったのである。 周知のようにキリスト教の教義には、神の子の死と復活、処女懐胎(かいたい)のように、
虚構と見なさざるをえない物語がその核心にある。
そして西洋の中世から近代の政治理論には、
こうした宗教的な虚構が潜んでいるのである。
日本だって例外ではない。 だとすると、社会の機構そのもののうちに、
宗教的な虚構が入り込んでいることになる。 イスラームの世界を見ても、預言者ムハンマドが神から伝えられた言葉が、
社会の機構や法律の根拠とされているのである。 科学や学問によって真理を探究しているはずなのだが、
それでいて生活の根っこのところには
虚構が存在していることになる。 文学において虚構を代表するのは小説であり、
フィクションというとすぐに小説を思いだす。
ところが小説という文学のジャンルは、近代になってから登場したものだ。 もちろん中世までの時代にも、小説に該当するものがなかったわけではないが、
基本的に叙事詩や寓話(ぐうわ)として分類されるものだった。 小説が登場するようになったのは、共同体の枠組みから外れて、
個として社会のうちで孤独に生きる人々が自分の内面の心の動きに
関心をもつようになったことが大きく寄与したと考えている。 小説で描かれるごくふつうの人間の心の動きに自分の気持ちを読み込むようになったというわけだ。 書かれたフィクションは、読者がさまざまな形で自分の内面を読み込んでいくことで、
作者の意図を超えた広い世界を構築する力を与えてくれるのである。 Nobuo Uematsu (FFIX) - Esto Gaza
https://youtu.be/Wy5EFJgUL6Y わが国は「資源のない国である」と言えば、これは経済的、産業的の発言である。
しかし、その裏を考えれば、「人材だけが命、それだけを頼りに生きてきた」
ということになり、これは教育の問題となる。 その教育が崩壊してしまっては、わが国に将来はない。
戦争や天変地異で滅びた民族はない、すべては自己崩壊である。
天災人災はそれを促進したにすぎない。 青少年の教育、その充実こそ、
わが国が新世紀を生き延びるために残された唯一の方法である。
ただただ「あとは任せた」と言いたいために、太陽さえ出れば、
古びた行灯(あんどん)は不要である。 「この世の関節が外れてしまったのだ。何の因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!」
という王子ハムレットの嘆きは、他人事ではないのである。 この世の関節を嵌めるべく、今立ち上がらねば、望みは完全に失われるだろう。 人生は苦である。
釋迦が言われたように、生老病死一切皆苦、である。
ならば、それをたのしもうではないか。 遊ぶのではない、楽しみ、愉しみ、娯しむ、のである。
宿命を受け入れ、なおそれに甘んじることなく、
雄々しく潔く生きよう。 この世に挫折なるものは存在しない、失敗は人生の彩りである。 この世に成績をおさめた偉人らは皆、様々に漂いながらも、しかし初志を貫いた、
目指す方向は変わっても、一度限りの人生を精一杯に生きる、
という志だけは生涯変わらなかったのである。 人間の行うすべてに興味を持ち、あらゆる文化に肯定的に接し、
自分の学んだものを、歩んだ道をどうどうと他人に話せる、
そのような生き方をしていこう。 夕日に沈む街をながめながら、
心を解き放つかおりをたのしむ。
あぁ、最高の気分… やがて別れの時がおとずれる。
ゆえに今こそ、いつくしめよ。 天使の実はすでに熟した。
心を重ね、一つにまとめよ。 9mm Parabellum Bullet - ハートに火をつけて
https://youtu.be/pWH11t2JKds 9mm Parabellum Bullet - ガラスの街のアリス
https://youtu.be/uY-QrSbVRW8 近代という時代は、封建(ほうけん)時代の共同体が崩壊して人々が原始的な個人にまで分解され、
産業化が進んだ社会の中に大衆として登場した時代、民主主義と合理性が尊ばれる時代である。 宗教的なものを否定し、科学技術と資本主義的な市場の力で、
人間の生活がつねに改善され、未来に明るい希望を抱く時代でもある。 しかしこの「進歩」には両面がある。
自分の労働力を売らなければ生活していけなくなる。
労働は過酷で生活は苦しいために、近代に対する絶望も噴出する。 富は集中するのではなく、労働者が同時に消費者として商品を購入することで資本主義を支える。
労働者は搾取(さくしゅ)されるだけの存在ではなく、商品の購入者でもある。 人々がさまざまな欲望を満たすことができ、新しい欲望が次々と誕生してくる。 眠れなくて床から離れて頓服飲もうと思ったら、
うっかり就寝前の薬飲んでなかった。
飲むと頭痛が発すが、
横になっても気忙しくなった。
PCつけて画面と向き合っている今・・・
ああ、オレ精神病だから薬飲んでる。
飲まないと発狂しちゃうからね。
それで入退院繰り返したし。
まあ・・・2013年頃までの話だけどね。
いい意味でおっさんになったよ。 東京じゃいろいろ日常であるみたいだけど、
そういう人たちってそそのかされてやってるみたいだから、
安易に犯罪者や悪人ととらえるのはどうかなって思うが、
そんな戯れごとナシで普通に犯罪者だよな。
それをツイッターで煽るやつらもなんだかなあ・・・時代だわ。
だからそう、このレスはたわむれ。 思想はいろいろあるもんだ。
活発になったのは2010年頃か?
偉い人はもっと前に気づいてたとか?
一昔のネットのホームページで急に更新途絶える人とか、
ここはど〜この箱庭じゃ まあ、もういい時代だよね。
好き勝手「陰謀論」放ってもな〜んだこいつまだ悩んで迷ってるのかって。
わかってても、わかってても、どう伝えられず見守ることしかできないわ。
今をがんばれよ。 発表の技法はある程度時代が進んでから注目されだした。
ネットで真実なんてフヌケタお宅の議論だが、反論の余地はない。
自分でもよくわからないんだ。
今の子どもの一部が覚醒し始めたら、それは宗教でいさめるしかないんじゃないか。
最低限教育やしつけも必要だろう。
家によってはヤバいやつもこれから出るかもしれん。 テロ、な。
マスコミが安易に報道すればそいつを模倣犯として、
それに便乗するヤツも出てくる可能性はないとは言い切れません。
日本は法治国家だ。これは口酸っぱくしている。
見放されたからって憎しみを動機に甘えることはできるし、
(自分も人のこと言えないが)それでも、
ロックなんて考えるなよ・・・ 芸術作品による表現の規制は“金さえ動けば”これからさらに厳しくなるでしょう。
仮に上手く避けたものがあるとすれば、それを見た受け手が作品を過剰に解釈して、
陶酔し、作り手の意図をはるかに超えた固定観念に支配され、
その心理を動機に犯行に移してしまう・・・
ドイツの偉い人による演説で世界大戦勃発・・・
それは感情が支配しているのだ。 犯行も誰が、どのように、動機は?
もちろん動機に注目する。
こころを甘くみてはいけない。
むしろ大切なのだ。
動機を無視した罪をなじって、
やすやすと死刑に持っていってはいけない。
ただ、自分や親族が被害者になったら、
それは感情に支配されてしまう。
泣いて神にすがっても、おこがましいんだな。 法治国家をおびやかす者が現れたとき、日本は終焉をむかえるだろう。
政教分離の原則はいつまでも続くとは限らない。
現に生の声では陰謀論であふれている。
今は愉快犯か。悪意をもって嘘をついている者も少なからずはいる。
そのための世の中はズル賢く生きたものが勝ちなんだよ。
あぁ、オレは騙されている負け組のほうだよ。安心しな。 「夕闇通り探検隊」
とか熱い作品だよな。
R18じゃないよ。
文化的な作品だ。
雰囲気もいい。
ただ今と時代がミスマッチしている。
だから、今は別の作品を見てくれ。
日本の文化は別々に切りとって考えるものじゃない。
どんなことにも歴史があるんだ。
政治なんてバカげてくると思うよ。
今できることをしようというのは、すでにある主張だが、
私のこの考えは「虚数の情緒」にならっているのである。
だから、これは確かめ。自分のために。
暗示だといえば、そういうことと言えるでしょう。
“狙って”はいないよ。思わせぶりでごめんな。 天才ではなく、聖人になろう。
私は立派になりたいが、
立派な人間だとは生涯いえないだろう。
立派になりたい、
その気持ちがずっと続く・・・
そう考える人間って素敵なんだなって思う。
いつか報われるとか、それは抜きな。
ポジションが大切。 もうすでに3時をこえて4時近くになるか・・・
はよ寝にゃ・・・ ニュートンの物理学にいたって、近代の空間概念がきわめられるようになる。
人間も動物も何も存在しない空虚な空間が考えられて、
これを絶対空間と呼んだのだ。
万物が創造される以前の絶対空間という考え方には、神学的な含みがある。
この絶対空間は、神が創造し、神が見る空間なのだ。
その空間の中において、神が天地を創造して以来の絶対的な時間が流れるのである。 異議は、物理学の分野でもちあがった。
アインシュタインの相対性理論では、
空間は事物の存在と切り離すことはできない。
事物が存在すると、その重力で空間が歪(ゆが)むのである。
そして空間の中の時間も歪んでくる。
物体の質量とエネルギーが分離できないように、
空間と時間も分離できない。
何も存在しない絶対空間という概念そんものが否定される。 すべての物は存在することで、
ごく軽微ではあれ、空間にも時間にも影響を与えていることになる。 文化によって、あるいは人によって他者と会話するために
心地好い距離というものには違いがあるという。
日本の通勤電車のように身体がぴったり接触する空間は、
外国ではなかなか見かけない。
真っ直ぐな道路で人為的に区切られた都市の空間に住む場合と、
くねくねと曲がる自然な道の多い農村に住む場合では、
空間の把握方法も異なってくるに違いない。 社会主義と資本主義という冷戦の対立の構図が崩壊して、
すべての国が資本主義の原理によって支配されるようになった。
そしてこの資本主義という経済システムとなじみよい民主主義の原理が
多くの国で採用されるようになっている。 文化という面から見ても、「グローバリゼーション」は、
これまでの国際化とは規模の違うものとなっている。 グローバリゼーションが進むことで、自分のアイデンティティを日本人としてだけではなく、
アジア人として、地球人として感じ始めている。 地球の自然環境に国境というものはない。
ウクライナのチェルノブイリ原発所で事故が起きたときには、
隣接の諸国だけではなく、遠く日本にも影響が生じた。 家庭にある冷蔵庫に使われていたフロンガスは、
大気圏のオゾン層を破壊することがわかり、
使用中止になりつつある。 地球の温暖化はさまざまな異常気象の原因となり、
日本列島に到来する台風の数を増やしているらしい。 グローバリゼーションは世界を一つにした。
そのことは避けられないことだ。
アラブ諸国の動向から目を離すことはできないし、
イスラムについて学び、理解することは必須のことのように思える。 そしていままで知っていたつもりだったキリスト教や西洋の文化について、
さらに理解を深めることを求められている。 さまざまな文化の違いを人々に認識させた。
異質な文化との交流がさかんになると衝突も生じる。
「文明の衝突」という言葉が流行したこともある。 いくつかの問題がある。
アメリカ的な文化が地球を席巻(せっけん)したことに、
大きな反発が生まれるのは無理からぬことである。
世界の多くの国で、安価なコーラやハンバーガーなどの
ファーストフードを食べすぎて肥満や糖尿病になっている子どもが多いという。 それでも他なる文化に対する認識も深まってきたのはたしかだろう。 また、すべての国の市場原理が導入された。
1990年代のアジア通貨危機の際には、
一部の投機組織がタイやインドネシアの為替(かわせ)相場に介入して
巨額の資金を稼ぎ、経済と政治の構造を破壊しかけたのだった。 また世界銀行などは発展途上国の開発援助の条件として、
市場の開放を求めることが多い。
市場を開放するということは、
自国の農民や漁民たちと競争させるということだ。 これでは伝統的な方法で耕す農夫たち、漁民たちが不利になる。
市場原理が貫徹するということは、よいことばかりではないのだ。 こうしたグローバリゼーションに異議を唱える人々も多い。
正面から反対する人々も、別なるそれを求める人々もいるが、
現代の時代的な趨勢に背を向けて、過去の時代を懐かしむのではなく、
地球が一体となったことの弊害をただす道を探していく必要があるのは
たしかだろう。 「群集心理」という語は、群集となった人々は無責任で暴力的になり、
暗示されやすく盲目的に行動するという、
否定的な含意(がんい)で使われることが多い。 人間が集団に入ることで、それまでの抑圧が取り除かれて人間の無意識が
作動し始めると考える。
群集心理として否定的に描かれるのは、
人間が社会の中で抑圧してきた原始的な本能の"たか"が外れて、
ほんらいの破壊的な威力を発揮しはじめるということだ。 あらゆる人の心には原始的なものが眠っていて、
群れが形成されるとそれが目覚める。
原始的な群集は、一人の強力な指導者に支配された集団であり、
この指導者をあがめるとともに、この指導者を殺害して群れを
自分のものとしたいと欲望する。 形而上とは道のこと、形而下とは器のこと。
道とは形がなくて、目で見ることはできず精神で認識すべきものであり、
器とは目で見えるもののことだ。
だから形而上とは精神的なものであり、
形而下とは物質的なものである。 アリストテレスは『自然学』で物質的な自然について考察した後、
『形而上学』では存在そのものについて考察していた。
メタというのは、「後」という意味のほかにも「上の」「超えた」という意味もある。
形而上学とは超越的なものについての考察となってきたのである。 「平成ネット史」
今日 1月12日(土)
【前編】午後2時〜3時
【後編】午後3時〜4時 このうららかな陽光に包まれた平和な休日こそ、決行の日であった。 オレは顔を洗った後、じっと顔を見つめた。
男らしく調(ととの)えた髭は、大丈夫悪くない。
短く刈り込んだ頭はオレの精悍なイメージにピッタリだ。
帽子を目深(まぶか)に被れば、なおカッコイイだろう。 服装は上下ジャージだ。
ジャージこそ、決行の日のスタイルに最も望ましい服装である。
それも、やや小さめのサイズをピッチリ肉体にフィットさせることが大事だ。 このピッチリジャージのフィット感が五体に程よい緊張感を与えてくれるのだ。 軽いスニーカーを履いて腰には黒いポシェット。
ただそれだけの軽装で街を歩けば、
近頃流行のウォーキング族だと道行く人は思うだろう。
おっと、サングラスも忘れてはいけない。 しかしこれは、ただのウォーキングではないのである。
決行のウォーキングなのだ。 オレは今一度、鏡に写る自分の姿を見つめながら心に呟く。
(完璧だ……!) 小説は一段落読んで止め、少しの間夢想に耽る。
頭の中で物語の成りゆきを整理して、また読み始める。
気になる表現は手にしておく。
そしてまた続きを読み始めるのだ。 啓蒙の理論は、近代の初頭にあって西洋の社会の近代化に大きな役割を果たした。
1789年からのフランス革命は、人々が伝統的な国家の支配者を殺害して、
自分たちの力だけで国家を作り直すことができることを示した画期(かっき)的な出来事だった。 しかしその後の恐怖政治の時代が示すように、
理性に依拠(いきょ)するはずの啓蒙が惨禍(さんか)をもたらすことも明らかになってきた。 第二次世界大戦中のナチスのユダヤ人虐殺や原爆の投下が示したように、
啓蒙されたはずの近代は、かつてない大量殺戮(さつりく)の時代となった。 理性の名において実現された闇は、深いものだったことが明らかになってきたのである。 啓蒙のもつ進歩への期待を捨て去ることはできないが、
同時にその逆説にも目をつぶってはなるまい。 蒙は「暗さ」、啓は「ひらく」だから、暗がりに光をあてて明るくすることだ。
フランス語ではLumieres(リユミエール)と、「光」という語の頭文字を大文字にすると、
啓蒙という意味になる。
人々の無知を啓発することだから、考えようによってはおしつけがましいところがある。
それでも近代の初頭(18世紀)には、「前近代的な」ものから脱却しようとする真剣な運動が起きて、
それを啓蒙時代と呼ぶようになったのだ。 闇は、中世の時代よりももっと暗く、深いものが近代だった。 そういえば蚕養神社のおみくじは末吉だったが
読めば今の自分にマッチしている教えだった
ストレスにならない範囲で意識しておこう 考えてもみろよ
今まで一度だって、自分と同じような、
それでいてまともに話せるような仲間に
会ったことがないんだぞ? でももし……そんな仲間に
ひどいことを言われたり、
いじめられたりしたら…… そんなことを気にして仲間をつくる奴があるか?
そんなことを気にしてる奴を仲間と呼べるか? 君は、わかっているようだ……
生きるって言葉、そして、死ぬって言葉 そう、「止まってしまった」んじゃなくて
「死んでしまった」仲間たちのこと…… あなたという流星に出会うため
あなたはたった一度の輝きで、わたしを…… 小説や映画などで、「この描写はリアルだね」ってよく言うけれど、
“リアル”だということは、ほんとうは現実ではないということを意味している。 現実という概念は不思議なところがある。
現実を夢想と対比させたり、虚構と対比させたりする。 けれども生きているこの現実は、ほんとうにそれほど“現実”的なのだろうか。
そこから問題が生まれる。 たとえコンピュータによって作りだされた夢を生きているのだとしても、
現在のこの知覚を信じることしかできないということだ。 四角い塔が丸く見えていたとしても、そのように知覚されるならば、
その塔が四角いことが明らかになるまで、
その塔は丸いという知覚に依拠するしかない。 そして隣にいる友人にもその塔が丸く見えているなら、
それが少なくともぼくたち二人にとっての現実なのだ。 その知覚を共有する人が多くなるほど、その知覚の現実性は強まることになる。 ほんとうの現実を知覚していないのではないかという疑いは、
哲学の歴史と同じくらい古いものだ。 古代ギリシアで詭弁を弄(ろう)すると非難されたソフィストたちは、
人間には現実を認識することも、認識したものを他人に伝えることもできないという逆説
を語っていた。 洞窟の中に後ろ向きに縛られていて、背後から来る光が壁に映す像を眺めているようなものであり、
この洞窟から出て、太陽の光線のもとで真の存在を眺めない限り、
すなわち哲学の営みによらない限り、真の実在を認識することはできないと考えたのだ。 近代哲学では、認識する主体としての「われ」を前提としてものを考えるようになった。 真に存在するものは、この思考する「われ」がはっきりと認識するものだけに限られる。
このとき現実に存在するものがどのようなものであるかという現実の真の姿は問題ではなくなった。
主観によって認識された世界だけが現実の世界なのである。 ただ人間が認識する世界は、すべての人間に共通で客観的なものと見なされるようになった。
現実を認識する主体としての主観と、認識される客体としての現実の世界という
二元論的な構図が確立されることになった。 しかし人間が現実を認識することで、客観的な世界が作りだされる二元論的な構図は、
さまざまな問題を露呈している。 とくに、認識する主観である人間が、同時に認識されるべき客観である身体的な存在であることが、
この二元論には大きな問題をもたらす。
認識する主体である魂が病むことで、身体が病む場合があることも、
この二元論はうまく説明できないのである。 現代哲学は、認識する魂と認識される現実の事物という枠組みを破壊するための
さまざまな試みとも言える。 赤き火は聖と魔の2つのかお。
天から与えられし道具なれど、
それを用いし心に魔があらば、
天と地わかつ、わざわいとなる。 青き水は時とともにうつりゆく。
うつろい、ながれ、たゆたう。
しずかな時をゆるやかにうたう
そのさまは、われらが生に同じ。 黄色い大地は時にきびしく、
されど、時にやさしく。
大地にたてば、その体を知り、
大地あゆめば、その心を知る。 緑の樹はすべてのめぐみ。
命をもたらし、生をはぐくむ。
樹にいのり、樹にいだかれ、
日々をおくるが、われらの生。 人生のあらゆる苦労を嘗(な)めながら、すこしもそれを顔にださず、
運命の神が邪険に扱おうと、格別ひいきにしようと、
いつもおなじ気もちで受け入れる、そういう男だ。 文章をひたすら書くことで糧を得ていく。
最近はそんな些細なことが楽しい。 現実と虚構の区別はなるべくつけるけどね。
でもそれほど意識はしていないかなあ。
別に格好つけるわけでもないし、これは自慢ではなく自己満足だから。 人と比べるなんてそんな貧しい考えはお持ちではないのですよ。 いややっぱり決めつけなくてもいいんじゃないか。
今のように言葉を選ぶだけじゃ軽薄短小だし、ここで語れることには限界があるよ。
それでも一途(いちず)に求める過程が人間性を深めることだと信じている。 知識は求めてるようで求めていない。
川の流れのように生きているさ。 廊下ですれ違う瞬間、俺は小さく手をあげ、
あいつもそれに笑ってこたえてくる。 あいつはいつも、友達に囲まれていて、
二人きりで会うことはあまりなかった。 あの日以来、俺はもっと苦しくなった。
あいつに近づきたくて、でもできなくて、俺は苦しかった。 会えないのは、あいつが他の友人に囲まれているだけじゃない、
俺のほんとうの気持ちが、あいつに伝わるのが怖かったから。 その気持ちを知ればあいつはきっと傷つくだろう、
いや何より自分が傷つくのが怖かった。 18世紀から19世紀にかけて狂気について語られたあらゆる文献を渉猟(しょうりょう)して、
狂気についてどのような「言説(ディスクール)」が残されているかを明らかにする。
これは精神科医の語ったことに限らない。 狂者の残した文章、精神病院を規制する法律、精神病院で患者を治療する道具や方法、
狂気についての文学的な考察まで含めることができる。
そして狂気という概念はどのようにして作られたか、その時代に人々は何を狂気と考え、
何を狂気でないものとして許容していたかを明らかにすることができる。 このディスクール分析は無意識的なものまで考察することができるという意味では、
イデオロギー批判と共通するところがある。 その時代の人々の思想を、一つの「虚偽意識」として考察しようとする。
自由、平等、教養、学問などの理念の背後に隠されているほんとうの機能を暴こうとする。
ただしマルクス以来のその批判では、これらの機能を経済的な「下部構造」という視点から
批判することが多かった。
そのために結論がすでに決まっていることになってしまう。 またその批判は、その理念の無意識的なところを攻撃の対象とするために、
その攻撃の刃が自身に戻ってくることもある。
自分にはイデオロギーがないと主張するほど、イデオロギー的な議論はないものだ。 試みるのは他者の批判であるよりも、みずからの時代の認識であり、
自己認識を深めることである。
だから理論的に語られたことや理念のようなものに焦点を合わせるよりも、
もっと発話の根のようなところ、その発話を可能にした条件に注目する。 たとえば狂気についてのさまざまなイデオロギーを批判するよりも、
人々が何を狂気と考え、語ったかを分析しながら、
狂気に対する概念としての理性について考察するわけだ。
こうして狂気との関連において、
権力、支配、性、主体などの概念についても分析を深めていくことができるのだ。 古代の呪文よ、体を土と成せ。
暗黒の教義よ、血を水と成せ。
狂神の秘法よ、魂を炎と成せ。
盗みし指よ、命を人形と成せ。 人が魔道をもとむるは、その生きるがためなり。
人が夢をうみ出すは、その生きたがためなり。 「現存在(ダーザイン)」という概念は、『存在と時間』で提示したものだ。
存在について考察するためには、事物や他の人々との深い関係性のもとで
世界のうちに現に生きている人間のありかたに注目すべきと考え、
人間を現(ダー)存在と呼んだのだ。ダーは「そこ」という意味をもつ。 この世界との関係を考察するにはさまざまな方法がある。
たとえば生態学は自然環境と人間の関係の視点から
世界を考察するし、心理学はさまざまな事象に対する
人間の反応という視点から考察する。 近代の伝統的な哲学は人間が世界をどのように認識するかという認識論に重点をおいていた。
ところが現存在の概念のユニークなところは、主観と客観という二元論的な対立を
打破しようとすることにある。 世界のうちで主体として行動し、世界を認識する人間としてではなく、
世界のうちに投げだされて、この世界を生きる人間の実際のありかた
を考察しようとするのだ。 最初の視点は、人間が世界のうちで生きながらどのような気分を味わうかという視点である。
人間が世界のうちでどのような不安や欲望にかきたてられるかを考えるわけだ。 人間は世界を認識し、世界に向かって行動するが、
それ以前に人間は世界のうちに生きながら、
さまざまな気分を感じている。
憂鬱だったり、他人の目が気になったり、倦怠感を感じたり、
理由のない不安におびえていたりする。
あるいは夕暮れの中でかつてない幸福感を感じていたりする。 人間の行動や認識を抽象的に考察するよりも、
人間が世界のうちでこのように気分によって規定されていることから
考えるべきなのである。 第二に、こうした気分のもとで現存在は世界と他者とつきあい、
これを了解することができる。
現存在は他者や世界を了解すうことで、同時に自己とみずからの
生についても理解できるようになる。 (FF9のビビを思い出した。黒魔道士にまつわる話は集中して読む傾向がある) 第三に、現存在は他者との間でたがいに語りあい、理解の内容を確認することができる。
たがいに了解しあうためには、語らざるをえない。
語りあうことで自分の真の姿を示していくのである。 とくに気分の考察は、人間の現象学的な考察とあいまって、
重要な哲学的なツールとなった。
精神医学の分野などでも、人間の気分や夢などを考察しながら、
患者を治療に導く現存在分析などの手法が有効であることも
明らかになっている。 民主主義という政治的な体制は公開の場での討論によって市民が決定を下すシステムであり、
古代ギリシアのポリスで誕生した。
しかしこれが一般的な政治制度として確立されたのは、西洋の近代においてである。 啓蒙とは理性を公開の場で利用する行為であり、
共和国では言論の自由が必須である。
この言論の自由と公共性の原則は、
絶対君主によるそれまでの権威主義的な統治原則を
崩壊させる意味をもったのである。 こうして言論の自由、公開の場での討論、市民の参政権などの民主主義の原則が生まれた。 フランス革命で人間の自由、平等、同胞愛がうたわれたにもかかわらず、
参政権を認められたのは財産のある成人男性だけだった。
女性や貧困者は「人間」として公共の場で政治に参加することはできなかったのである。 性や財産にかかわらずすべての成年の市民が平等な参政権をもてるようになるまでには、
長い闘争の歴史が必要だったのである。 討論の場である議会は、さまざまな政党で構成されているが、
国民を代表するはずの政党が、国民の意見を正しく反映しているかどうかには、
大きな疑問がある。 またさまざまな圧力団体が議会での議論に影響を及ぼしていることも明らかになっている。 選挙制度そのものにもいろいろな問題があり、国民の票の価値すら平等ではないのである。 (とにかく顕正会の「若者はひたすら南無妙法蓮華経唱えてればいいんだよ」という暴言は許さない。仏教を馬鹿にするな) さらに現代の福祉社会では、公的なものと私的なものの区別があいまいになってきた。
ほんらいは私的な活動であった経済活動と市場に、国家が介入し始めたからである。 国家が市場においても、公的な事業体として行動し始めると、
それまでの市民的でなく公的なものだと感じられてくる。
こうして奇妙なねじれが発生することになった。 政府の役人は市民に対して説明責任を果たす義務があり、
市民はそれを監視していなければならない。 市民は政治や経済などのさまざまな分野で、
みずからのコミュニケーションのネットワークを構築して、
「公共性」を国家から自分たちの手に取り戻すことが求められている。 生き残った者が生きる希望を持つためには並々ならぬ活力が必要。 合理的であるということは、道理や理性に適(かな)っているということだ。 この合理性の基準を二つの道で考えている。
分析と総合である。 分析とは、複雑な事柄を他の事柄からはっきりと区別して、それをしっかりと認識すること。 要素がすべて明らかになったら、この要素がその事柄をどのように構成しているか、
鎖の環(わ)を一つ一つ繋いでいく。これが総合の方法である。 この明晰で判明な方法は、科学ときわめて親和性が強い。
科学的な研究は、合理主義に依拠して行われる。 だれもが納得して、それを追体験できるものでないと、科学的とは認められないのだ。 まず人間は理性的な生き物であるだけではない。
もっと別のもので動かされていることもある。 生産活動の場で、合理化が推進されてきた。
競争に勝つためにはもっとも無駄がなく、生産効率が高い方法が必要だからだ。
でもこの合理化が進みすぎると逆効果になることがある。 ベルトコンベアでならんで作業をすれば、自分のする一つのことに習熟すればよいので
合理的だと考えられてきた。でもこうした単調な作業方法は、労働者のやる気をそぐこと
が明らかになってきた。労働者がある製品を最初から最後まで作る方式のほうが、達成
感があり、製品に対する責任感が生まれる場合もある。 合理的な基準で判断することができないものを考慮に入れたほうが、作業効率が高く
なることもあるのだ。 この合理主義に真っ向から抗(あらが)おうという理論が流行することがある。
不条理という考え方だ。 神については語りえないことが多いことを指摘しながら、合理的な推論の限界を示した。
神秘的なものを合理的なまなざしで捉えることができないのはたしかだろう。 人生の合理的な目的という素朴な価値観に鋭い批判の目を向けたことも忘れられない。 環境に反発した感情の爆発、それが完全なトランスをもたらす。 それが生きようとする欲望であれ、他者を守ろうとする欲求であれ 自分の感情より誰かを助けたい気持ちの方が前にきてる
不安や孤独を感じる隙がないほどに
それが大切な人を守る強さ…か。 寝て食うだけ、生涯(しょうがい)それしか仕事がないとなったら、人間とは一体なんだ? 神から授かったこの窮(きわ)まりない理性の力。
それあるがため、うしろを見、さきを見おとし、きっぱりとした行動がとれる。
この能力、神に近き頭脳のひらめき、それを使うな。 国というものの必要性なんて、為政者が作った幻に過ぎない。 書物は一生の友
読み終わっても自分の魂の中に残り続ける 墓場にも行くのも同時だ
先立つことも先立たれることもない 「わかる」ことは面白い。
「わかっている」ことはつまらない。 自分が何のために生を受け、
自分が何のために存在するのか… それすらわからず、
ただ生を、存在を主張するように
声をあげるだけ… コスモスはギリシャ語で秩序のある状態を指す。
これに対してカオスは秩序を欠いた混沌とした状態を指す。 まずカオスがあり、その後に現在の世界と秩序が生まれたと考えられているのである。 またギリシャ人は星座を観察して、星がいかに規則的に運動するかに感嘆していた。
だからコスモスという語は、宇宙を指すようにもなったのである。 カオスからコスモスへというのは、ギリシャだけではなく、多くの民族の神話に見られる。
ユダヤ教の天地創造は、神が無から世界を造ったことになっているが、
カオスから造ったという説もある。 世界は秩序だけで造られているわけではない。
この脅かす力は、死や崩壊に向かう無意識的な欲望として機能する。
人間には有機体としての秩序ある状態から、
無機的な無の状態に戻りたいという欲望がある。 コスモスが崩壊してカオスになるときに、
巨大に快楽を味わうことができるのであり、
性的な快楽はそれを模倣するものだというのである。 情報工学や数学の分野で最近注目されているカオス理論は、
コンピュータを使ってさまざまなカオスの生成を考察するもので、
原初のわずかなゆらぎで、世界がまったく違ったものとなっている可能性
があることを示している。 恐怖は、生きるものがこの世に生を授かったときから
それらすべての心の中に、例外なく存在している 逃れることのできない死に気づき
それに打ちかつことができなかった時
恐怖は目覚める 死への恐怖は恐れるほどに増大していき
やがて死を認めたくないという苦痛を与え
生命への憎悪、生きるものへの嫉妬へ変化していく 増大した死の恐怖を止めることはできない
救うことができるのは、すべての破壊しかない この宇宙に存在するすべてのものの目的は、
滅びるためだけにあるということが そしていつかは恐怖に屈し破壊の道を選ぶ
つまり、すべてを破壊するために進化しているに過ぎない 破壊のために生まれてくるのなら
初めから存在しなくても同じ事
すべては矛盾でしかない 自ら出した答えを否定する必要はない
すべては真理であり、無こそがすべて 無に還れ…
逆らうことはない
それが生きるすべてのものの願い すべての文は、文章の流れのうちで意味が浮きあがってくる。
「コンテクスト(文脈)」なしでは、そもそも意味を解読することができない。 「あなたってばかね」と言われたとしても、それが「君のこと、好きなんだ」という告白
への返事なのか、誘ったコンサートのチケットを自宅に置き忘れてきたことへの返事
なのかでは、意味することがまったく違ってしまう。 「あるべきか、あらざるべきか」(To be, or not to be)というハムレットの呟(つぶや)き
には、古代ギリシアやキリスト教の存在論からの連綿とした伝統がひかえている。
そのことを知らずに、この言葉を聞いただけでは、ハムレットの言葉を真の意味で
理解したことにはならないかもしれない。 ゆとり教育で育った世代ですから、思想?とかよくわからんのですよ。 おくりびとに出てくる火葬場職人が放ったセリフには
訳知り顔で解釈してしまう 差異とは「違い」ということだ。
西洋の哲学はある意味では同一性の体制のうちにある。 つい同一性のうちでものを考えがちだ。
みんな日本人だろうとか、男らしくとか、若者らしくとか。
どこか同じところで相手とのつながりを見つけたがる。
でもこの<同じ>であることの認識の背後には、ある種の暴力が隠れている。 相手に自分と同じであることを強制し、違う者を一緒に排除しようと誘っているからだ。
いじめもこうした排除の力学に従っているわけだ。 だれかが何か意見を表明したとき、
その見解の問題点を指摘するよりも、
にこにこと笑って同意するほうが好まれる。 けれども魅了するのは、同じであることではなく、違うことではないだろうか。 同じ人間でありながら、どんなところが違うのか、
たとえばどんな幼年期を送ってきたか、両親はどんな人だったが、
自己史の差異こそが対話を作りだすのだ。 意見の違いがあるとしよう。
そのとき対話によってその違いをなくそうとすることも、できないわけではない。 意見の違いは、対話をすることで同じ意見に統一できるというわけだ。
ただしこうした考え方の背後には、対話によってある統一的な真理に到達することが
できるし、そのことに努力すべきだという考え方が潜んでいる。 一羽の雀(すずめ)が落ちるのも神の摂理。
来るべきものは、いま来なくとも、いずれは来る。 いつ死んだらいいか、そんなことは考えてみたところで、誰にもわかりはすまい。
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