【ジャイアントサービス】BI砲を考える6【アントン・トレーディング】
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個人的にこの王座といえば、で浮かぶのは
インターヘビー=馬場
インタータッグ=BI砲、BT砲
UN=猪木、鶴田
PWF=馬場(三冠統一前に鶴田に巻かせたかった)
NWF=猪木(坂口や弟子にも挑戦させて欲しかった)
アジアヘビー=大木
アジアタッグ=極道コンビ
何故か力道山・豊登や坂口が漏れたw >>200
後のバレンタイン&レイスの挑戦も吉村には苦しかったろうな
そしてその翌年にようやくレイスも自分がリーダーになってのはアジアタッグ挑戦 力道山は、昭和30年にアジアヘビー級王者に、33年にインターナショナル王者に
なったが、インター獲得後もアジアの防衛は並行して行っていた。
(まぁ37年1月から亡くなる38年12月まで行っていないが)
一人のレスラーが二つのシングル王者に一時的になるのは、たまにあるが
(G・馬場がNWAとPWF王者とか)、どちらかを失ったり、統一させるのが通常。
力道山のインターとアジアみたいに挑戦者の格によって並行して数年間、防衛するって
ちょっと他に例を見ないだろ。
今だったら、インター獲得後、アジアは返上し、決定戦を行い、豊登がセカンドチャンピオン
(二番手王者)になるんだが、、力道山は他の選手が王者というのは認めなかったんだろうな。
アジア王者になる前は、日本ヘビー級王者だったが、これは自然消滅。 統一戦ならともかく
自分がもってるタイトルを二つ賭けるのは意義がわからなかった。
もったいないしミドルリスクローリターンで危ないだろって。
オプションでギャラを1.5倍くれるならわかる、なんて昔思ってた。 >>203
ハンセンがAWAを取った時PWFは返上するかと思った マジかー涙。
疑ったわけではなく、すぐストロング小林でググっても
何も出てこなかったもので。 大晦日だったのか、、
昭和49年(1974年)は人気下降気味だったプロレスが面白かった。
猪木vs小林の大一番2戦に猪木vs坂口戦、秋の猪木vs大木戦と馬場のNWA初戴冠
一気に日本選手権の流れを期待したんだけど…
小林選手もこの年に全国区で注目され、一番輝いていたね。
あの年はカーペンターズと森進一をなぜか思い出す(笑)
ストロング小林選手ありがとう! ストロング小林もIWA世界ヘビー級王者になる前はUSAヘビー級チャンピオンだった
いつのまにか無くなっていたが >>203
大木の全日本でのアジアヘビーはインターの代わりだろうな
国際との対抗戦の挨拶でアジアヘビーのベルトを掲げていたが本心はインターでやりたかったんだろうな 前スレ終盤で、国内の試合において、リング上で場内マイクを使ったマイクパフォーマンス(TV局アナによるインタビューは除く)を最初にしたのは誰で、いつ頃かとの質問を書き込んだ者ですが、上記の疑問に対する回答が見つかりました。
それはおそらく、1974年12月12日に行われたアントニオ猪木対ストロング小林の2度目のNWF世界戦で、猪木の卍固めが決まりレフェリーストップで試合が終了した後、ギブアップしていないとアピールする小林に対し、猪木が「挑戦は受けるから何度でも来い。」と場内マイクのみ(TV実況マイクなし)でアピールしたのが最初ではなかったかと思います。 >>213
それなら、1973年7月、国際プロレスで
S小林対R木村のIWA戦に先立って、木村が、リング上で
(別にアナウンサーのインタビューを受けたわけではない)、
小林に挑戦宣言をしたのが先だと思いますよ。
6月29日の対マードックとの防衛戦の後かな? >>213
72年9月の田コロで坂口がシークに負けてUNを取られたときに
次の大阪で必ず奪還しますとアピールしたのが先ではないかな 田コロの坂口より前にも(TVマッチで)ありそうだけど、確認しようがないからな
>>213
2度目の猪木小林戦は、ゴッチが連れてきたコシキ・ジーンのポカも
試合を盛り上げるための演出だったのかは気になるw
あとアジア王座は、新日が新設しなかったら全日での復活はあったのかも… >>217
ブロディにフォール勝ちした時も同じ感じ >>215
それは、試合終了後、アナウンサーの
インタビューに応えたモノではなくて?
一応、前スレからの話題は
「マイクパフォーマンス(TV局アナによるインタビューは除く)」なのだが。 216の自己スレ
>新日が新設しなかったら全日での復活はあったのかも…
…新設しなくても、全日での復活はあっただろう >>220
本部席のリングアナのマイクで話してる
そもそもこの試合ではアナウンサーのインタビューはリング上では行われていない 今はアピールが相手や周りのれすらーにたいして啖呵を切るようなスタイルだが
昔は客席にたいしてのガンバリマス的なものだった。
いつ頃誰が変えたいったんだろう。 今でこそリング上の両者間でマイクアピールするのは普通の事になったけど
昭和の時代は「相手が近くにいるのになんでわざわざマイク使うの?」という声も少なくなかった 一番最初のマイクアピールは初代アジアヘビー級決定戦後のキングコングという説も リッキー台風でも引用してたな
プリーズワンモアチャンス! https://pbs.twimg.com/media/FIp3wUAacAY4_HP.jpg
シンの密偵ワイルドマンがどんなレスラーか知らんが、坂口相手じゃ良い試合は無理でしょう
ピート・ロバーツ、スティーブ・ライトの技巧派コンビと猪木木戸組の対決の方が余程期待できる >>228
うわさのチャンネルのデストロイヤーのほうに目を奪われた 80年代に入って、やたら新日で流行るようになった気がする。
後、日プロ時代から延長戦は多々あるが、観客の延長コールからの延長戦も
新日が最初じゃないかなぁ 日本プロレスは、日本側チャンピオン(G・馬場やBI砲)対外人強豪の
戦いで、両リン防衛もあったが、だいたい日本側が2フォール収めて防衛。
後の乱入や、不透明決着もなく、観客もまぁまぁ満足して帰った。
それが、新日、全日時代だと、強豪外人同士の試合が組まれたのは良いが、
決って両リン。そして乱入、レフェリー失神。客のフラストレーションが募り
「延長コール」が起こった。 >>231
>ライスとスープが別料金とはいえ
一枚目の写真には
〔サラダ・ライス付きで1200円」とあるけど? 例えば、両リンから延長戦になって、どちらかがリングアウトで勝つことがあるけど
結果が最初から決まっているとすると、両リンは演出で
客は手のひらで踊らされていることになるなw 疑問なんだけど、ディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキー
日本では"ブルクラ"の呼び名があるように、ブルーザーの方がリーダー扱いだが
アメリカでの評価はどっちが上なのか(梶原マンガではブルーザーが上っぽいが)
そう考えると、最後までBI砲と呼ばれた猪木は面白くないだろうな… その気持ちを忖度した週刊ファイトは猪木馬場と書き続けたんだろね。
さすがにIB砲とは書かなかったが。 >>236
BI砲は日プロで解体したんだし、70年代の途中から猪木馬場でいいんだけどね。
まあ、ハンセンの名前がいつも先にくる超獣コンビは同格扱いだったし >>235
やはり、アメリカでもブルーザーの方が評価は高いだろうね。
クラッシャーはAWA世界王者になったが、ブルーザーも同王者の他、
ロス、アトランタ、インディアナポリスでも世界王者に認定、セントルイスの
ミズリー王者にもなった。
1969年夏、ゴングの「読者の質問にレスラーが答える」コーナーにクラシャーが
呼ばれ、「ブルーザーは貴方より年下だが、なぜボス格なのか?」という意地の悪い
質問もでた。クラッシャーは「答えにくい質問だな」とか言っていた記憶がある。
この二人、格の違いをマザマザと現したのは、その来日時、ブルーザーは馬場のインターに
挑戦したのに対し、クラッシャーは大木のアジア王座への挑戦だったこと。
しかし、72年暮れに国際プロレスに揃って来襲した時、S小林のIWA王者に挑戦したのは
クラッシャーだけだった。ブルーザーは敬遠されたのか? ブルーザーの方が格上でIWA王座の挑戦なんかとんでもないって感じかな
問題の金網戦もブルクラの王座に挑戦する形だし ブルクラと草津小林の金網タッグ戦で暴動が起きたが、あれは金網から脱出した方が勝ちと
いうルールを観客が理解していなかったというのが理由とされていたが
Gスピでは、国際のエース二人が外人相手に成すすべなくKОされた不甲斐なさに
観客のフラストレーションが溜まったのも原因だと言ってた
吉原代表は所属日本人より外人を優遇する
そんな歪な団体がBIが旗揚げした団体に勝てるわけがない ブルーザーはプロモーターでありWWAのオーナーでもあったんだからそら格上でしょう。 馬場、猪木、ガニア、コロン、ワンツ・・・・・・・大仁田w
オーナーレスラーが最強なのはプロレスの道理。 雇われチャンプが大衆の支持を得てピープルズチャンプとなって
オーナーと対立できるまでになるとストーリーは楽しくなるよね。 ブルーザーの喧嘩試合は、馬場より力道山や豊登との方が面白くなりそうだね。
でもブルーザーとロジャースの二人は、呼びたくても呼べない大物という話があったような、、 初来日の二戦分のギャラはブルーザーの生涯で最も高いギャラだったとか ブルーザーの初来日の二戦は、インターナショナルヘビー級王座決定戦と馬場の初防衛戦ですね。
この二戦で馬場はブルーザーからピンフォールかギブアップ取りましたか?
馬場がブルーザーからピンフォール取ったのは、PWFの防衛戦が初めてだったような気がするのですが。 >>246
2戦目の蔵前での1本目で32文でフォール勝ち
43年、44年でもフォール勝ちはある >>245
アフィルス家の母親が土地成金(原爆実験場になったネバタ州の)で、
遺産相続したブルーザーも億万長者だったみたいよ。
>>248
今考えると第3回Cカーニバルは、オールディーズ総決算のようなシリーズだったね。
荒縄マッチになったブルーザーとのPWF戦
師弟コンビ対キニスキー&コワルスキーのインタータッグ
デストロイヤー対Mr.レスリングの覆面10番勝負
馬場対キニスキーのカーニバル優勝戦
WWWF&PWFダブル選手権になったサンマルチノ戦(ゼネストのw)
凄い面子が揃ったのに、同時期に新日が猪木坂口大木小林斎藤が総当たりする
第2回ワールドリーグ戦があったから、そっちに注目が集まった。 >>250
オールディーズ総決算か。
世界ヘビー級争覇戦に呼びたかったけど呼べなかった大物レスラー勢揃いでもあるね
サンマルチノを除いて。
ついでに全部に勝ってしまった。サンマルチノを除いて。 >>235
IB砲はきついんじゃないかな
それだと馬場の顔が立たない
BI砲なら年下という事で猪木の顔も立つ ブルーザーは死に方がちょっと情け無かったね
ベンチプレスやってバーベルが首に落ちて窒息って・・
ベンチプレスで潰れたら胸→腹→恥骨とバーベルを下にズラして言って最期にデッドリフトの要領で立てばいいんだよね
ベンチプレスで上がる重量ならデッドリフトなんか余裕だしね
それか最悪、床傷つけて良いから片手をバーベルから放せば傾いて床に落ちるからね >>253
> ベンチプレスで潰れたら胸→腹→恥骨とバーベルを下にズラして言って
ここまでは分かる。
> 最期にデッドリフトの要領で立てばいいんだよね
なんでそうなるのか全く分からん。 >>252
巨人の長島、王も長島の方が年上、入団も先だから
NO砲と呼ぼうとしたが、NO(ノー)だと
全く打たないみたいだからON砲になった。
長島はどう思ったかな?
*長島の「島」は現役時代の字を表記した。 流石にNOは不味いからONとしても長嶋のへのいいわけも、顔も立つわな >>251
同時に鶴田のライバルとなり得るヤングパワーも呼んでるんだよな
スティーブ・カーン
ボブ・オートン・ジュニア
マイク・ジョージ >>250
外人は豪華なのに使ってる会場がショボいところが多いんだよな
決勝が和歌山では・・
ここで話題的に新日に負けたことにから
外人の世代交代が進んで
本格的にブッチャーを押していく路線に変わっていく 巨人の星などで三番王、四番長島のイメージしかないので
その順番通りONと思ったのだが 3番長嶋、4番王で阪急山田から逆転サヨナラなんてこともあった >>262
そうか!?
三番王、四番長島でONだと思ったのか!
私は「3番、サード、長島」背番号も3のイメージが強い。 メジャーではかなり前から3番に一番良い打者を置くパターンが多かったし
最近は2番に一番良い打者を置くってのもある
そこら辺の考え方も時代とともに変わるんだよね >>259
1回が福井 2回が前橋 3回が和歌山
これはこれで味がある、4回も札幌じゃなくて青森とか盛岡、熊本なら路線継続だったな。 >>257
Wiki によると、ヤンキースのミッキー・マントル、ロジャー・マリスのMMキャノンが由来
通常は3番に王、4番に長嶋を配置していたが、試合によって打順を入れ替えたので
NO砲案も検討されたが、"不発弾"になってしまうので却下されたらしいw
ON砲(63年〜)の名付け親はデイリースポーツ
BI砲(67年〜)はON砲が由来だが、それ以前に豊登・馬場のTB砲(〜65年)があった。
BI砲は71年に解消されたが、73年馬場は再びアントンとタッグを組むことにww >>267
全日は新日に比べ営業が弱いと言われていたが、第3回大会までの優勝戦会場は
地方有力プロモーターへの挨拶周りというか、ご祝儀興業の意味合いもあったのでは?
それか、選手権試合をメインにして、会場を確保出来なかったのかも…
第1回大会では、優勝戦後に大阪府立と日大講堂でシークとのPWF2連戦があったし
第2回も大阪府立でPWFブッチャー戦、第3回は日大講堂でブルーノとのWタイトル
一応、大会場は押さえているんだよね。 >>250 >>259
馬場は米三大タイトルの現、前、元王者やトップコンテンダークラスを呼んで、自分とのカードを組めば客はついて来るだろうという考えが見え見えで、何をすればファンが面白がって集まってくるかという観点から考えていた感じはなかったな。たまに話題を提供したかと思えば、ヘーシンクだったしw
日本人対決にしても、スピード&パワーの大型外人レスラー路線にしても、軍団抗争にしても、馬場は常に、新日がヒットさせた企画の後追いしていたね。 >>270
>自分とのカードを組めば客はついて来るだろう
それも対モラレスあたりから怪しくなって
大会場の馬場のシングル戦なんてハンセンまで記憶にないくらい。
やってもたいして埋まらなかったろうけど74年にガニア戦とかを考えなかったのかな? >>271
対大木金太郎戦と対ビル・ロビンソン戦があったけど、新日がヒットさせた企画のパクリだったしね。
馬場には米マット信仰が色濃くあって、米マットの人気レスラーを呼んで向こうでやっていることをそのまま提供すれば、後は何もしなくても、ファンはありがたがって見に来るだろうという、殿様商売的感覚があったと思うな。
その顕著な例が1975年のオープン選手権で、招聘したレスラーは名の通ったレスラーばかりだけど、日本のファンを惹きつけるファイトを見せ、その後のシリーズで観客動員に貢献したレスラーは殆どいなかったね。 確かに両団体の初期は、新日の方がファン心理を掴んでいたけど
新日にしても苦肉の策が効を奏したというか、捻り出した企画がヒットした感もあるね。
ゴッチしかり、マクガイヤー兄弟しかり、シンや日本人対決しかりと
猪木新間コンビも、資金力や招聘ルートがあれば馬場路線に走っていたかもしれない
でも、今となっては全日の初期を無性に見たいんだよな〜 >>268
> BI砲は71年に解消されたが、73年馬場は再びアントンとタッグを組むことにww
73年に組んだか >>274は「?」の付け忘れw
73年に組んだか? クーデターがなく猪木が日本プロレスに残っていれば昭和50年前後には自然に猪木単独時代に移っていったんじゃないかな
ただ猪木の燃える闘魂の魅力というのは新日本プロレスならではのものだし
豪華外人相手に猪木がインター防衛線を重ねてもさほど魅力的な団体にも思えないかな ボブ・バックランド
ボブ・オートンJr.
ボブ・ループ
テッド・デビアス
ディック・スレーター
ディック・マードック
スタン・ハンセン
ファンクスは将来性のあるいいレスラーを送り込んでるけど馬場のライバルは自分達とブッチャー、レイスだけで十分というか他に奪われると困るからかブッキングしてこなかった >>278
NWAとの協力関係を確立し、ほぼ全国にネット局を持つ日テレのTV中継を得て順風満帆、メジャー感バリバリの全日本に対して、新日本は米マットとの協力関係は乏しく、TV中継をするNET(現テレ朝)も70年代前半はネット局が少なく、前途多難でマイナーな印象は否めなかった。
ただ、その結果、全日本のリング上は予定調和で緊張感に欠けた、痛快娯楽時代劇のような感じになったのに対し、新日本のリング上には独特な緊張感と暗さがあり、ハードボイルドドラマのような雰囲気が醸し出されてきた。
プロレスラー猪木の才能が大きく開花したのは、新日本プロレスの持つ独特の緊張感と暗さに因るところが大きいと思われるので、仮に日本プロレス離脱せず、順風満帆でエースになったとしたら、明るいけど軽くて緊張感や色気のない、鶴田みたいなレスラーになったかもしれないな。 全日本はテリー、マスカラス以降天龍革命で天龍が覚醒するまでファンを熱狂させる選手がいなかった >>280
猪木の覚醒は女房の倍賞美津子の演技力に影響された事も大きい
猪木は「美津子は最大のライバルでもあった」と離婚の時に言った位だし >>261
三番長島、四番王のイメージが強い?
何言ってるんだ?お前。
知らんくせに適当なこと言うなよ。 新日初期の営業は苦労したというからな、国際のストロング小林と間違えられたり
「猪木は日プロクビになって廃業しただろうが。インチキなポスターを貼るな」
みたいな屈辱的な蔑みまて言われたりしたとも >>280
入社して九州出身の奴だったかな?ちょっと記憶が薄くてすまんが
馬場をテレビで見たことなかった、全日中継して無かったとか聞いたことある。
日プロ時代も馬場は日テレだけ、猪木はNETでも放映されたので
日プロ末期は猪木の方が全国的知名度は高かったという説もある。 >>285
東京・大阪・福岡に関しては馬場より猪木のほうが上かもしれんが、
全国的には猪木は坂口やS小林より知名度が下だった。 >>286
例えば1970年における日テレ+NETってのとTBS単独の
エリアってのはどちらが広かったんでしょうか? 小林>猪木>馬場って知名度順でいいんでしょうか?
テレビ中継されても見られなければ認知されませんよね?
TBS国際プロレスってのはどれ程の視聴率だったかも気になります。 無茶苦茶なこと言ってるな。
知名度は馬場>猪木>小林に決まってるだろw
馬場は視聴率50%取ってた力道山時代の1963年に
凱旋帰国して、そこから毎週テレビに出てたんだし、
68年のインター戦なども視聴率36パーセントとか
取ってる大スター。アニメの「タイガーマスク」にも重要キャラで出てるから、子供たちの知名度も抜群。
その後日テレとNET2局に猪木が出てたといっても、
馬場とはその頃からの貯金の差がある。
いわんやストロング小林は、エースで君臨したのは1971年以降。その頃の視聴率は10パーセント前半程度で、ネット局が多かろうと、相手にはならない 後、最も重要なことだが
日本プロレス中継のネット局の方が
TBSの国際プロレスのネット局より「多かった」。
日テレ31局に対して、TBSは20数局。
俺の地元ではTBSネットの局で国際プロレス中継は
放送されていなかった。
当時は地方県には放送局が1〜2局くらいしか
なかったから、各局の番組を詰め込みで放送していた。だからTBS系の局でTBSの番組が放送されないことはよくあった 猪木が日テレに写せるといっても、馬場の後塵を拝す立ち位置だったから目立てなかったというのもある
だからこそ猪木は日プロに馬場と直接対戦させろと迫っていた。
馬場を試合で潰そうと不遜なこと考えていたのバレバレだから
上層部が対戦を却下したのは当然なんだよな 当時の格は猪木が馬場に挑戦して小林が猪木に挑戦していたのを見れば一目瞭然でしょ
挑戦は格下が格上に対してするもの
つまり馬場>猪木>小林
後にラッシャー木村が猪木に挑戦した時に猪木は
「後楽園ホールを埋めるのにも苦しんでいる団体のエースが挑戦なんて己を知れ」とこきおろしていた ちなみに自分の県ではTBS系列の局で
日本プロレス中継を同時ネット、NETのワールドプロレスリングを録画中継していて、国際プロレスは
1年だけ放送されて打ち切りになった。 しかし、74年の猪木小林戦が名勝負になったから良かったものの
不透明決着や不穏試合になっていたら、後の大木戦とかも無かったかもしれないな >>280
>全日本の全日本のリング上は予定調和で緊張感に欠けた痛快娯楽時代劇のような感じ
そうなんだしそれであればいいんだけど「痛快」でないところが困る。
>新日本のリング上には独特な緊張感と暗さ
そこに猪木の闘魂が燃えることで団円、というところなんだろう。
日プロでエースになってたら、若獅子から獅子か獅子王になったとも思われる。
「燃える闘魂」にはならなかったかもということ。
ちょっとずれるがドリーが若馬と名付けれてあの頭髪で若馬?
と、ちょっと苦しかったのとどこか通じる。 >>295
その意味ではまもなく四十年となる馬場・ハンセン戦はそれを超えたな >>289
だから知名度は観客の世代と住む地域で変わるんですよ。
現に私の動機は70年代後半まで馬場を知らなかったわけだし。
吉本新喜劇の役者を関東の方が知らないのと同義です。
楽天イーグルスのファンが広島カープの外人選手を答えられないでしょう。
ましてテレビが普及していない時代の視聴率と視聴者数には相違が生じますから。
知名度は≒視聴者数でしょ?
日プロを視聴していたのなら馬場=猪木でありNETの分だけ馬場<猪木となるのはおかしな話ではない。
小林>猪木であるならば小林>猪木>馬場となってしまう理屈です。
>>292
誰も格の話をしていませんよw >>296
新日旗揚げのゴッチ戦の時点でガウンに闘魂の文字を入れてるくらいだから
猪木の中にはそのイメージは前からあったかもしれない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています