【32文】BI抱を考える2【コブラツイスト】
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週プロにあったが馬場のインター初戴冠の時のブルーザーのギャラが二戦で一万ドルだったというのが驚き 最後まで実現しなかったのが
馬場対アンドレ、猪木対レイスのシングル戦だったなぁ。 2回やってるが更に猪木とドリーの試合見たかった
馬場とガニア、ロシモフは面白そう 政治的なもので実現しなかった“夢の対決”はいっぱいあるね。
もし新日本に坂口が移籍した時に No.2で支える条件として社長に就任していたら
馬場全日本と友好(協調)ムードになり、外国人選手のトレードとか出来なかったものか
…両団体がギスギスしていた70年代、想像してみたが無理だなw 最強タッグの時期だと思ったら、今日は馬場が天龍にフォールされた日だった。
あの日も感慨深かったけど、東京ドームで猪木がフォールされた時には
よく馬場の弟子に負けを許したなと、一番それを思った。
今になると政治活動でセミリタイア状態の猪木が勝つのは不自然極まりないんだけど
チョークスリーパーで天龍を落とした事が猪木の言い訳になるのかな?
試合では負けたけど勝負には勝ったみたいな…
でも、その時天龍が全日所属のままだったら結果は違ってたと思うし
シングル対決自体が無かったんだろうな しかし良く考えたら、猪木の乗っ取り事件がなかったとしても、72年に入るとプロレス人気は低迷して、視聴率は低下。
結局NETは「ウチに馬場も出してくれ」と要請し、
日本プロレスはそれに応じた可能性もあるね。
そうなるとやはり日本テレビは中継を中止して、馬場の独立を画策する。
日本テレビで馬場の新団体の中継が始まり、日本プロレスに残った猪木は、インター王者として君臨。
となるか、やっばりダラ幹とはうまくいかず、日本プロレスの看板を下ろして、新団体にリニューアルするか。
まあそんなところだったかも 日テレなんて全日本プロレス中継を金8にせずに土8にした時点で大したコンテンツと考えて無かったんだろうな >>906
それは考え方だけど、月曜日〜木曜日の平日でなく
土曜日の8時にもってきたというのは、それなりの格を重んじたとも言える。
金曜日はもうNETか放送してて、「太陽にほえろ」も始まってたからね。
全員集合の裏だったとはいえ、では月曜日なら水戸黄門があったし、木曜日なら「ありがとう」とか、当時は怪物番組揃い >>906
当初、日テレは「太陽にほえろ」を73年3月に終了し、プロ野球ナイター中継が始まる4月には、全日本プロレス中継を土曜8時から金曜8時に移動するつもりだったのではないかな。
ところが、「太陽にほえろ」が予想外の人気で高視聴率番組となったから止められず、全日本プロレス中継は、哀れにも、全員集合の裏番組で、且つナイター中継の雨傘番組という苦境に置かれてしまったと。 >>908
あのさあ。
72年7月にはすでにNETが金曜日夜8時に
「日本プロレス中継」を始めてるのに、
そこに「全日本プロレス中継」をぶつけるって
選択は、最初からないでしょw
何言ってるのよ。 >日本テレビが日本プロレス中継の撤退を表明し、番組は7月14日に最終回となります。翌7月21日から「太陽にほえろ!」が始まります。「金曜夜8時」のプロレス中継枠が空いたことで、NETはそれまでの月曜日に加え、金曜夜8時にもプロレス中継を始めます。これは7月28日からのことです。「太陽にほえろ」開始の翌週からのスピード対応でした。 >歴史が動いた「1972年7月28日」の翌日の1972年7月29日、ジャイアント馬場は、日本プロレスに辞表を出します。
ここがポイント。NETが金曜日8時に放送開始した
翌日に、馬場が辞表を提出してる、
つまりこの2つは関係があるのだ。
金曜日8時をNETに奪われた日テレが激怒して、馬場に早々の独立を促した、とも言われている。
「もし馬場がためらうなら、猪木の新日本プロレスを放送する」と言ったという説もある。
いずれにしても、馬場の独立前にすでに
NETの金曜8時放送は始まってたということだよ。
歴史も知らずに適当なことを書かないで。 力道山は『先生』と言われたが、BIは『先生』とは言われないな。 WWFヘビー級選手権 (79年11月30日 徳島市立体育館)
×ボブ・バックランド(28分16秒 体固め)○アントニオ猪木
*王座移動 猪木が第9代王者に
WWFヘビー級選手権 (79年12月6日 蔵前国技館)
アントニオ猪木(27分19秒 ノーコンテスト)ボブ・バックランド
*裁定に納得せず王座返上
一連の王座移動劇はWWFの公式記録に載ってないらしいね‥
年末のMSG定期戦で猪木とバックランドの間で王座決定戦が行われると思われたが
バックランドはボビー・ダンカン相手に防衛戦を行っている。
オールスター戦後に馬場が2度目のNWA世界王座を戴冠した事への対抗だったのかな?
2010年WWE殿堂入りした猪木だが、WWF王者としてではなく
アリ戦を評価されてのものだった。 >>910
日本プロレス中継は三菱ダイアモンドアワーだったよね(銀座三愛ビルのオープニング)
試合の合間に三菱の『風神』でリング上を掃除してたのが懐かしい。
あれは大相撲の土俵を箒で均しているのを参考にしたんだろうけど
高度成長期の宣伝効果は絶大だったろうね
撤退後も三菱は、金曜8時「太陽にほえろ!」のスポンサーだったような記憶がある >>910
NETは猪木追放後でも週二回放映に踏み切ったってことなのか
馬場をNETに出せるならそれもアリか
実際には馬場が日プロやめてしまったが >>916
NETの週二回放送は直ぐに終わって金曜8時一本になったはずだけど
一時期はTBSの国際プロレス・東京12chの海外プロレス・日プロ若手中心のプロレスと
被る時期は忘れたが、一週間に何度もプロレス中継があったなぁ 月曜8時はNETの中継なくなったから、
そこで全日本を中継する手もあったけど、
さすがにそれはしなかったな。
月曜、金曜がダメで、土曜に落ち着いた。 >>917
総合、K-1を大晦日に3局放送した2003年みたいなもんだな
隆盛のジャンルはテレビが飛びつく 力道山がブームを起こした第1期黄金時代は知らないけど、
馬場がインター王者に君臨し、坂口が鳴り物入りで入団
猪木が東プロから復帰した67年頃から71年までが
日プロの第2期黄金時代になるのかな?(日本の右肩上がりもこの頃まで…)
この隆盛の時代にこそ経営陣がレスラーの給与面や引退後の配慮する団体であったら
崩壊はなかったかもしれないね。
いつしか大衆娯楽だったプロレスがマニアの世界になってしまった‥w 69年前半、日本プロレス中継は毎週30%越えの大人気。だが夏のNET中継開始以後は、中継過多により、20%台に落ちる。
以後70年、71年とプロレス人気は徐々に下降していく。NETの放送は馬場派猪木派の対立も呼ぶ。
そして結果的には、NETの中継に関する問題で日本プロレスは崩壊していく。
先のことを考えず、放映料目当てにNETの中継を
許可したことが日本プロレスを衰退、崩壊させた。
グレート東郷の新団体の中継を阻止するため、とも
言われているが、馬場猪木の揃った日本プロレスに、その必要があったただろうか。 >>920
力道山存命時のワンマン社長エース体制から脱却して現場と運営が二分化、
エース格のレスラーは練習と試合に専念。社長は経営に注視して、会社の在り方としては
本来望ましい状態を迎えたハズなのに、経営は杜撰で選手は派閥争いや上層部への不満を
拗らせる。
社長とエースの分担化は新生UWFでも実施されたが、金銭問題諸々でおじゃん。
プロレス界って、こういうとこが他のプロスポーツには遠く及ばずで、未だに小劇団レベルの
運営体制で止まってる感があるな。 今の新日はそれを脱却してるけどな
良い意味でも悪い意味でも 経営陣が現場レスラーより低報酬でやれるのならうまく行ったんだと思う
王や長島より球団社長が取ってないだろうが
馬場や猪木より吉の里が取ってたらもやもやするだろう
神が前田とどの程度の差だったかによるのかも
その点、社長兼エースというのは問題が出ない体制なんだよね 現場と経営の二分化が最初から行われていたのは国際プロレスだったが
吉原がレスラー上がりだったからか、テーズ戦で敗北を飲ませた草津をいち早く
役職付きのフロントに入れマッチメーク権までも与えてしまった。
この草津への待遇が後の小林離脱へとつながるんだな(今なら一発アウトのパワハラで)
また吉原自身も他人のアドバイスに耳を傾けない頑固な性格(ある意味ワンマン)で
団体浮上のチャンスを自ら潰していった感がある。 ロジャース・テーズ・ドリーと挑戦してきた馬場が
ブリスコからNWA王座を奪取した日か、、
3日後にはダブルタイトルでPWF王座に箔を付け防衛するも
さらに4日後には奪回され、1週間天下に終わった。
おそらく春と秋の猪木vs小林&大木戦がなかったら、この移動劇もなかったかもね G・馬場(日本人)のNWA世界ヘビー級王座奪取→1週間で転落。
夢を達成したら、夢は醒める。 フォール勝ちしてNWA奪取し、フォール負けでベルトと星を返した馬場と
フォール勝ちしてWWF奪取し、無効試合でベルトを返上した猪木
…性格の違いが出てる こっそりノーテレビの豊橋で王座を返してしまう馬場
というのも性格が出てるといえば出てるような。 1974年というのは猪木が凄い勢いで株を上げた年だったから
日テレとしては大々的に馬場の快挙を報じて、しら〜っと転落させ
清水アナも「残念ながら豊橋大会で…」と言葉少なにアナウンスしたんじゃないかなw
豊橋は見たかったけど、他のNWA移動劇(負け試合)はテレビ中継されてるよね >>928
猪木も、WWWF王座奪取後、リターンマッチ(初防衛戦)の蔵前で
バックランドにフォール負けして返せば良いモノを、他の選手の乱入
→無効試合→返上なんてことをするからWWWFもヘソを曲げて、
猪木の王座奪取を認めなかったという噂を聞いた。 PWFやNWFのお手盛りのタイトルだったら分かるが
世界3大タイトルだからね〜
猪木はUWA世界も反則移動で返したw >>927
ベルトの貸し出しという悪しき慣習を作った罪は大きい >>926
週プロにもあったが猪木とドリーの名勝負の日でもある >>931
あれは手が込んでいたな。
●シンの乱入の隙に、バックランドが猪木を
ロープにアトミックドロップしてカウント3。
●しかしこれに新間寿が「フォールは無効で猪木の防衛」と発表。
●これにバックランドが猛抗議。紛糾。
●猪木が「返上」を宣言。
新日本側の新間寿に一度「猪木の防衛です」と
言わせた後、猪木自身が返上する二段構成で
ベルトの返却のわざとらしさを削いだ。
当時のプロレス雑誌には
「新間さんが猪木びいきでアンフェアだった」という
ファンの抗議の意見が載っていたw 今日はキニスキーが馬場からインターを奪取してちょうど半世紀
NWA王者時代は取れなかっただけにNWA王者は下りてからがむしろ強いのハシリか 猪木がバックランドからWWF奪取したのが徳島、
しかもシン乱入の結果というのが新日の最大の譲歩だったのかね
これが蔵前でピンフォールだったら印象が違うしな 乱入ありで王座が移動はいかんよな。
ビッグタイトルであればあるほどいかんよ。
乱入あったら即ノーコンテスト、乱入者は罰金、出場停止何日間、
みたいなPWFルールがあってしかるべきだろうが、
そういうのは考慮もされなかったことだろう。 猪木が奪取した時のWWF会長(78〜84年)が新間寿なんだよな〜 馬場は84年8月のNWA年次総会で第一副会長に選任され、
NWA崩壊まで務めた事になっている。(何年までかは?)
日本が主戦場で現役だから会長にはなれなかったみたい。 >>942
Gスピリッツの特集によれば86年の三月一杯で正式脱退 >>941
それがフックになってたんだよねえ。
新間が新日本の代表でなくて、WWFの会長だったから「会長の裁定で猪木の防衛と認める」という形になり、しかし猪木はそれを潔しとせず、王座返上と
いうストーリーができた。
バックランドが疑惑のフォールで王座奪還、としなかったところが巧妙。 その後のMSGでのバックランドとダンカンの試合を決定戦に見せるためベルトだけ持って先にリングに上がったり 馬場の3度にわたるNWA王座のキャッチボール、猪木もWWWFを取って返す、
を見ていた俺は、1984年、鶴田が二ックからAWAを奪取した時も、最後には
返すんだろ?と多可を括っていたら、二ック来日中、最後の挑戦をも防衛したの
には驚いた。 確かニックはリターンマッチの後も日程が残ってたからそこで返すための防衛戦追加も出来たんだよな 84年2月23日 鶴田がAWA初戴冠した日は、反則でも王座が移動するルールだった。
星を返すと思われた26日大阪府立は通常のルールで引き分けの初防衛
蔵前の試合より鶴田の息が上がっていた…ニック恐るべし!
シリーズのオフにはAWA圏内で防衛ロード
次期シリーズ3月24日蔵前大会のみに参戦したニックに今度こそ奪還されると思われたが
王者鶴田が反則負け防衛‥ブーイングじゃなく大歓声だった。 26日もインターを賭けてたからあそこで返せばインターも取られたんだよな
二年後にハンセンと同じダブルをやった時は逆にインターを取られた
また同じ26日ではセミで井上がチャボからインタージュニアを奪取 タイトル移動で思い出したけど、馬場が力道山の防衛記録を簡単に塗り替えたことを
面白く思わないグループ(反馬場派)を抑える為に
68年ブラジルをストッパー役に立て、70年はキニスキーが選ばれた。
特に70年はNET猪木派の勢いが増し、馬場のインター王座転落で奪回戦を猪木に
という計画もあったが、日テレ側がそれを阻止する為
万が一、猪木挑戦になってもセメントでねじ伏せることが出来る実力者
猪木に負け知らずでシナリオに全面協力する信頼のできる者
格の上からもファンが納得できるレスラー…
これら条件をクリアしたのがキニスキーだった。
猪木は69年NET放送時に三浦甲子ニ専務(後のテレ朝の天皇)に気に入られ
馬場を蹴落とし猪木を頂点にしたプロレスをNETの看板にする野望があった。
三浦は日テレ氏家社長とその領袖の渡邉恒雄とは新聞記者(政治部)時代から
終生のライバルだったことから、
日プロ内の派閥争い(日テレ馬場派対NET猪木派)は相当激しかったみたいだね。 馬場離脱後の年末シリーズにキニスキーとブラジルを呼んだのはその辺も意識なんだろうな >>950
門茂雄あたりが言ってそうな話だけど、
本当にそんなことあるのかね。
あの人、プロレスの秘密を暴露してるようで、
そうでもなくて、「プロレスでは常時セメント試合が行われている」ような前提で書いてるんだよね。 >>952
そうそう、出典はセメント大好きの門なんだけど
馬場が力道山の記録と並ぶ頃から「先生を冒涜するものだ!」とアンチ馬場派が
批判のトーンを高めていき、2局放送になると馬場派・猪木派の対立が激しくなったのは
想像できるけどね‥
あと、キニスキーを境に“ラフ&パワー”の馬場全盛時代から
ドリーやマスカラスの“スピード&テクニック”の猪木時代に移行した印象はあるね。 >>952
・リッキー・ワルド―はセメントマッチでタッグタイトルを奪って力道山に恩返しをした
・「新日復帰直後の藤波VS長州は1983年頃の試合と違ってセメントマッチそのものだった」と語ったのは
木村健吾である
なんて記述があるんだよね
こんな事を書かれているとあの人が書いた事も疑わしくなる 門は、試合の中で、レスラーがムキになる
「硬い」展開があったことを拡大解釈して
その試合が結末も含めて真剣勝負であると
言ってるんじゃないかね。
ワルドーがアジアタッグを取った試合も、記録見ると3本目はワルドーが豊登から取っていて、力道山には傷がついてないし。それに同じ会場の日大講堂で
2週間後に興行が決まっていたから、あきらかに
次回興行への「ヒキ」だった 猪木の口を封じる為にオープン選手権にシューターを揃えたのは
馬場のフィクサーと言われた「プロレス&ボクシング」編集顧問の森岡理右だよね
これは猪木がブック破りをしてセメント仕掛ける事への警戒からの布陣だから
セメント自体の存在は、門以外にも述べてる通りあるんだろう。 いかなる理由を付けようともそれまで条件は任せるとか散々大見得を切っていた猪木として不参加はそれ自体が決定的な失点だったよな
挑戦者の癖に自分から条件を付けるとは何事だって 当時既に漫画のタイガーマスクで覆面ワールドリーグ戦をやってたりしたわけだから参加しなかった猪木の方が分がない印象
もし参加していれば例え途中で脱落しても仕方なしと思われたかもしれないし >>956
オープン選手権みたいな例は別として
プロモーターは全て試合の結末を決めてるわけだから、それにレスラーが逆らうとしたら
「2度と使ってもらわなくていい」覚悟がある時だけだね。
例外として、プロモーター自体が真剣勝負をやれ、と言った場合はセメントもありうる。
力道山時代の前座試合とかね。 セメントとは違うけど、ダニーホッジは些細なことでキレて自分でも何をするか
わからないらしいね。
テーズ曰く、ホッジの目がトローンとしたら危ないと‥
試合後に我に返って謝罪したらしいが
感情をコントロールができなくなるみたいだと回想していた。 そういうアブナイ連中を敢えて囲い込むプロモーターもいたって事なんだよな
マクガークとかハフトとか ホッジが、シュートマッチとMMAについて語っている。
「自分がレスラーであるという背景がある以上、タップアウトさせる、首の骨を折る、
いかなる事をしてもその相手を処理せざる得ない
シュートマッチとはそういう“状況”なんだよ。解りやすく話そう
シュートマッチというのは俺が死ぬのかお前が死ぬのかそれだけだよ。
でも俺は死にたくないよ。そして私は相手が生きたいって言うなら生かしてやるよ。
リングに上がる前に相手がこういうことを仕掛けてくる、それを知っていたら
私だって対処の仕方は全部知っているよ。
そういった競技がMMAなのだろう。 でもシュートマッチは違うんだよ…」
要するにカネを取って見せるプロレスの試合でシュートを仕掛けるというのは
よっぽどの事や覚悟がないと、絶対やっちゃいけないことで
ルールのあるMMAとは違うという事なんだろう。
でも、シュート=セメント=ガチンコで理解していいのか、いまいち分からないw 不穏試合と言われた83年最強タッグの超獣コンビvsマスカラス兄弟
互いに技を受けようとしないで、膠着状態が多いギクシャクした試合だが
別にセメント仕掛ける訳でもなく、不穏という程でもないね
ブロディのメキシカン嫌いがそうさせたのかな‥
https://youtu.be/NxfgtrVUUwA シュートってのはMMAでも使えるサブミッションを含めた
相手を屈服させる行為の総称って事だろ
指を肛門や目に入れるのもそれ
MMAはあくまでもルールに沿う競技
昔はティムウッズが素人相手の余興で指食いちぎられたりしてたし
リアルにカタワになるような試合もプロレスでは時にはあったんだろう 今日はファンクスがBI砲からインタータッグ奪取の日
そして実は最後の最強タッグ参加日でもある 今日も不穏試合と言われた 猪木vsグレート・アントニオ戦の日
CSで流れてたMSGタッグ決勝の戸口&カーン戦でも
猪木がダウンしたカーンの顔面を蹴っ飛ばしていたのには驚いたw
BI砲がファンクスに負けた札幌の試合は観た記憶がないんだが
らしいコンビネーションがなかったんだろうね…
いつもはアイコンタクトだけで阿吽の呼吸ができるのが
この最強コンビの魅力だった筈
試合前から負けが確定していたから、バラバラになっても仕方ないんだけどね。
この年のWリーグ決勝の控室で猪木が馬場に対戦アピールした時から
馬場はインタータッグはあまり乗り気でなかったと語っている。 12月8日を調べてみると
1963年力道山が村田勝志に刺された日で、1980年ジョンレノンが暗殺され
川田利明の誕生日、釈迦が悟りを開いたのもこの日だとさ‥ >>971
海外武者修行時の馬場がリングに登場するなり
「ジャップ!」「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな!)」
学校で習うより前に『ジャイアント台風』で覚えていたよw >>967
BI砲が、ファンクスに負けたのが1971年の12月7日。
これ同年の7月1日(ゴールデンシリーズ)の対I・コロフ&D・サベージ戦から
5カ月もインタータッグ戦が行われていないんだよね。
BIの仲がギクシャクしていたせいもあるが、この年、ゴールデンシリーズの後の
サマービッグシリーズ、サマーミステリーシリーズにもタッグのタイトル戦が
組まれていない。
アジアタッグは6月17日のB・ゴールドマン&E・ゴリアスから12月1日の
ドリーファンクjr&D・マードックまで5月半。タイトルマッチって6か月、
防衛が行われない時は、没収じゃなかったっけ?
まぁ、これは秋にNWAタッグリーグを開催し、タッグのタイトル戦が
行われなくなったことも一因だが、サマービッグシリーズは、JブリスコとCマルコフを
組ませるわけには行かず、元AWA世界王者の、I・ボディックが全く期待外れだったからな。
少し使えればマルコフとのタッグでインタータッグ挑戦もあり得たかな? ブリスコとリベラが組んでアジアタッグ挑戦とか出来たんだろうが
思えばブリスコは日本ではタッグのイベントに全く出てないんだよな >>974
両シリーズともアジアタッグ挑戦者候補は
マルコフスチール組とか、スポイラーラモス組とか
いたけどね。
結局、アジアタッグの放送枠をUNにまわした感じしゃないのかね。
当時日本プロレスは「大都市大会場」でのみタイトル戦を行う、みたいな不文律があって、両シリーズともそれにふさわしい会場が2会場くらいしかなかった。
その1大会枠をNETが持ち、何を放送するかでUN戦を希望したのではなかろうか。 おっと、カーンのスレが立ってるんだね。
だけど日プロ出身者が“ひき逃げ”でニュースになるなんて悲しいよ、、
>>976
アジアタッグ王者の権威も吉村坂口組までだねw
それまでの挑戦者チームは、国際のIWA世界タッグや新日の北米タッグに挑戦しても
遜色のない実力者揃いだし、王者コンビも歴代日プロのエースを務めた顔触れ。
日プロ最後の王者が小鹿と松岡とは… 小鹿はBI時代でもパートナー次第ではアジアタッグ巻いても問題ないけど松岡は体格ルックス共にないな。 上田をインタータッグに回したので松岡しかいなかった感じかな
思えば上田はアジアタッグ経験の無い日本人では初のインタータッグ王者だったか 日プロ末期は馬場猪木坂口のトップ3が強すぎて他の選手が割り込む隙がないね。上で引退して席空けられるのが吉村しかいない。ミツヒライもかな?
上田や小鹿はせっかく凱旋してもポジションがない。こういう選手余りも派閥争いや分裂の原因だったのだろう。 坂口ですらベルトを巻けたのは猪木の離脱後
大木のアジアヘビーは名誉職的な感じか 日本プロレスのレギュラータイトルのチャンピオンは少ない。
力道山時代は、力道山以外は豊登がアジアタッグ取っただけ。
力道山の死後、吉村、馬場、猪木、坂口が
それぞれアジアタッグを最初のベルトとして獲得、
大木は極東、アジアとシングルを獲得。 >>983
遠藤が東洋太平洋みたいなタイトル力道山と取っていなかったかな?タイトル名忘れてるくらいだから防衛戦はお察しなんだろうけど。 >>984
遠藤幸吉は、力道山と組んで日本プロレスの初期(54年)
太平洋岸タッグ選手権をM・シュナーベル&L・ニューマン組から奪取、
2度防衛しているが、その後、行われていない(自然消滅か?)
また’56年にシャープ兄弟から世界タッグを奪取、リターンマッチで取り返されている。
力道山と東富士で55年にはハワイタッグも取って、やはり4度防衛したが、
定着しなかった。結局タッグ王座はアジアタッグに落ち着いたんだな。 >>984
遠藤は力道山とシャープ兄弟の世界タッグを獲ったことがあるはず
力道山と東富士でハワイタッグもあったと思う >>983
そういうツッコミはあると思ったけど、
「日本プロレスのレギュラータイトル」と書いてあるので。つまり日本プロレスのタイトルとして長年定着したもの。世界タッグ、ハワイタッグ、日本ヘビー、日本ジュニア、日本ライトヘビーなどのタイトルが
あるのは承知している。それを入れたら遠藤、東富士、駿河海、芳の里、吉原が一気にタイトルホルダーに加わる。
だがインター、インタータッグ、アジア、アジアタッグ、それにUNというところでいうと、1955年〜1971年の間には
力道山、豊登、吉村、馬場、大木、猪木、坂口
という7人しかタイトル獲得者はいなかった。 アジアヘビーは力道山の死の二年近く前から既に防衛戦は行われてなかったんたんだよな
亡くなった時も飾られていたのはインターのベルトとワールドリーグとアジアタッグのトロフィーだけだったし >>987
若いときでも時系列記憶があやふやなタイトルの記録を調べてくれて大変ありがたいです。勉強になりました。
こうして並べられると力道山はたとえ受けなくてもジュニアのタイトル戦を継続的に行ったりや自分の絡まない日本人選手同士のタッグタイトルなんかも作る余地は十分あったのではないかな。
あまりにも自分一人に集中しすぎて興行に展開がないというか展望がないというか。 世間的な人気が集中していたというのもあるだろうが結局は異邦人として自己の立場を守らねばならないという意識が強かったのかもな
それでも後半ではワールドリーグを決勝シードにしたりアジアタッグの比重を増やすなど明らかな負担軽減を行っているし >>989
インターに包含してアジアは発展的解消、みたいな広報していればよかった。
マスコミも入れ知恵すればよかったのに放置したもんだから
タイトルを作ったはいいが、取ったはいいが、あとは尻すぼみして消滅みたいな
ことが散々行われて誰もああまたねとしか思わなかったのはファンも含めて悪い。 新日版のアジアも自然消滅…?
IWGP開催にあたって封印だったかな? >>987
力道山が目指していたのはボクシングのような階級制の確立だったのか
或は中堅レスラーの不平不満を抑えるためのガス抜きだったのか
途中、NWAのジュニアヘビー級タイトルマッチはあったが
興行的にもメリットなかったんだろうな…
結局、藤波がブームを起こすまで日本マットには定着しなかった >>987
突っ込んでいい?
昭和41年5月〜6月、アジアタッグ王者ヒロ・マツダは?
(パートナー吉村) >>996
マツダは日本プロレス所属じゃないでしょ。
フリーだよ そもそもが>>981、>>982のフォローとして
書いたことなので、そこはご理解いただけると >>909 >>911
脳にプロレスの記憶しか詰まっていない可哀想な人たちだねwww レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。