【32文】BI抱を考える2【コブラツイスト】
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
関係者でもなんでもない俺が立てた。
マイナー団体で伸びてくる選手が好きなんだ。 スレタイの『抱』を『砲』に直して欲しかったw
ここは内容が古すぎてなかなか伸びないけど、
貴重だから落とさないよう、ボチボチ書き込んでいきましょう。
1965年の力道山3回忌と思われる池上本門寺の集合写真(まだ胸像がない)
https://xn--zckzczcd7076bwdw.shiseiweb.com/wp-content/uploads/2017/09/riki3kaiki.gif
日本プロレス一団体時代で、猪木は渡米中
木村政雄や杉山恒治・草津正武(馬場の付人)等、国際旗揚げメンバーもいるね。
知らない人も何人かいるなぁ…
下段の両端2人の問題児が満面の笑みなのが印象的w >>3
集合写真とは言え、笑う場面ではないよね。
って、遠藤幸吉とユセフ・トルコも薄ら笑いを浮かべているが。 参列メンバーを記しておくと、
[前列左から]米良明久・鈴木勝義・北沢幹之・平野岩吉・大熊元司・草津正武
[後列左から]斎藤昌典・長沢日一・平井光明・長谷川淳三・小鹿信也・吉村道明・
豊登道春・ジャイアント馬場・ユセフトルコ・九州山義雄・遠藤幸吉・木村政雄・
上田裕司・本間和夫・田中政克・杉山恒治
長沢日一(秀幸)・平野岩吉と本間和夫を知らなかった。 1965年は第7回ワールドリーグで豊登が連覇して
その後、復活したインターナショナル王者に馬場が君臨し日プロのエースになり
年末(この数日後)に豊登の追放
翌年、この場にいなかった猪木を口説いて東京プロレス旗揚げ
吉原も写ってないが、遠藤と揉めてマツダと国際を設立するわけか…。
そういう意味では貴重な写真だな
あと韓国マットで大熊リンチ事件があったのも65年か 親父と話してる時「新日は猪木みたいなキチガイがいなくなってまともになった」って俺が言ったら親父大笑いしてたわ 猪木が面倒くさい病気になったみたいだよ
頑張れアントン 「世界一元気な糖尿病になりました」(2008年6月23日 IGF月寒大会でのコメント)
「元気があれば胆石も出来る!この胆石を2億円ベルトの飾りにしようと思っています」
(2011年1月7日 胆石除去手術後のコメント)
元気は精神的なところが大きい。
大丈夫だよ!猪木なら笑って乗り越えてきた。
https://youtu.be/-Ok6TiYwOWE 71年ワールドチャンピオンシリーズの期間中に、猪木は天国から地獄へ堕とされたな
UN、インター&アジアタッグの3冠を失い、1億円結婚式の費用も自腹で払う事に…
っていうか、日プロを追放された東郷が新団体計画をNETに匂わせたのが発端で
その後のダラ幹、お家騒動へと繋がっていくわけだよな
国際プロのテーズvs草津戦も然り
力道山死後も東郷と関わった事が日本マット界全てを狂わせた・・かな?
https://stat.ameba.jp/user_images/20190629/18/tsukutsuku1104/c2/fa/j/o0430101714485245943.jpg?caw=800 >>3
高千穂若い!(まだ本名?)
とっちゃん坊やな>マサ
当時は大卒のプロレスラーて珍しいか。
(写真の中だけでも、マサの他に坂口や吉村がいるが) てか、その三回忌の写真で存命なのはカブキ・小鹿・北沢くらいかな?
マティ鈴木や田中忠治に遠藤幸吉なんて生きてるのか知らないわ
写真には写ってないけど日プロ出身者では、
猪木・坂口・藤波・木村健・Kカーン・百田…
新日勢は長生きだな〜 初期のBIは、馬場の体固めは多分16文で 猪木は殆どアバラ折りなんだな。 >>24
テリー・ファンク・ジュニア?
Jr.の意味を知らんかったのかな?
単純に若い方(弟)をジュニアと思ったか。 >>24
この頃はファンクスって言わないのね。
どうでもいいがクイズ番組多いな プロレス中継の試合は BIがファンクスにストレート勝ちしたインタータッグだな 数年後にはファンクスがインタータッグ戴冠。
NWAチャンピオンのドリーって、日本で何回
防衛戦や馬場への挑戦をしたんだろう? >>30
合計4回
猪木、馬場、猪木、坂口
2度目の来日以降に
馬場が挑戦していないのは謎 本当は坂口のところが猪木の予定で、NWA世界&UNヘビーのダブル選手権だった。
日プロも76年にはUN王者になり倍賞美津子と結婚した猪木をエースに据えるべく
本格的にシフトチェンジしていたのかも…
それともNET主導で王者を招聘していたとかね
でもドリーがキニスキーだったら馬場の連続挑戦もあったのかな? 猪木追放事件直前の
日プロの方針転換はいろいろ興味深い
それまでほとんどタッグを組まなかった
猪木と坂口を組ませて売り出そうとしてたり
内紛がなかったら
昭和47年以降の馬場、猪木、坂口の関係や王座の推移はどうなってただろう >>32
ダブル選手権ってもう引き分けがミエミエだな。 >>34
ドリー対猪木、三回続けて引き分けって、客がシラケる。
テリー乱入でドリーの反則負け(NWAは移動せず)、
猪木のUNは防衛という線もあった。 >>33
1972年中に、猪木&坂口でアジアタッグ王者に。
猪木はP・モラレス(72年新春シリーズで対決が内定していた)、
H・レイス、テリー・ファンク、マスカラスあたりとUN戦を行っていただろうな。 >>33
少なくとも、大木のインターや高千穂のUN、大木&上田のインタータッグ等
この悪夢のようなベルト移動は無かった。
日プロ時代はインター王者&ワールドリーグ優勝者がエースの証だったから
春に馬場挑戦を直訴した猪木を72年にどう扱うのか…興味あるね〜
すんなり猪木エース路線にしたら大木が反乱を起こしたした可能性もあるな >>30
NWA防衛戦は31氏がレスしたように4回で、
馬場への挑戦(インター)は、70年夏の1回だけだな。 馬場って不思議と
ドリーとのシングルを避けてる気がする
96年頃まで全日に参戦してたのに
馬場ドリーのシングル戦は75年が最後 >>41
最終戦、東京体育館の馬場対テリーのインター戦につなげた、とも取れるな。 この頃のテリーって
大舞台で馬場のシングルに挑戦する程の格ではない
当時の専門誌でも東京大会は
馬場対ドリーのダブルタイトル戦だろうと書いてた >>43
最終戦の東京体育館、馬場対テリーではチケットが
売れなかったんだろうな。
急遽、アジアタッグを持って来た(当初は、その予定なし)。
12月1日、名古屋で猪木&吉村対ドリー&マードックのアジアタッグ戦が
1−1から時間切れ引き分け。ドリーは再戦を要求。それが通らなければ
以降の猪木とのNWA戦をキャンセルして帰国するとまで主張。
それで最終戦にダブルタイトル戦となった。 まあアメリカにアジアタッグのタイトル持って帰っても何の意味もないしな。
昭和新日の北米タッグも同様。なんで北米のタイトルが極東の日本にあるのかと。 >>44
そもそも馬場対テリーだけで売れるはずがない
当時の感覚なら同年に同じ場所で3000人の超不入りに終わった
馬場対イワン・コロフよりもカードが弱い
リアルタイムで見てた人の方が
「日プロは何を考えてるんだ?」と思った人が多かったんじゃないかと思うが
当然、興行をやる側もそのことは承知してないわけがないから
その裏に何らかの事情があったと思うんだよなあ 猪木の除名が無ければあるいは吉村が返上して猪木・坂口で決定戦に望んだのかも
それにしても現役のNWA王者を決定戦に使うという点にも当時のアジアタッグの格の高さが伺える >>47
ちなみに猪木&坂口対ドリー&マードックは11月29日、横浜文化体育館で対戦。
日本組が1−2で敗れている。三本目、ドリーが坂口をフォールした決め技は
今でいう、「投げっぱなしジャーマン」というか、真後ろから相手の胴を
抱え込んでのバックドロップ。12日に、このカードでアジアタッグ争奪戦に
なったら、日本組はリベンジ成功となったわけだが。
それにしてもドリー&マードック組は強かった。破壊力でファンクスを上回るほど。
普通のシリーズだったらインタータッグ挑戦権ありだったな。 実際には吉村・坂口で取った事で坂口>猪木を強調した感じに >>49
坂口一人でドリーとマードックから1本づつ取ってるからね
試合後も感動的だったし
あの日が坂口の頂点だったかもしれない 猪木、日本プロレス最後のシリーズは
12月1日、名古屋、アジアタッグ with吉村VSドリー&マードック
12月4日、仙台、UN、VSマードック
12月7日、札幌、インタータッグ、with馬場VSファンクス
12月9日、大阪、NWA,UNダブルタイトル、VSドリー
12月12日、東京、アジアタッグ(再戦) with吉村VSドリー&マードック
というタイトルマッチの連戦になるところだった。 >>50
試合後もドリーを押さえ続ける吉村の姿も感動的
後に確執を生む大木がセコンドで祝福しているのも面白い 大木の場合、大試合にさりげなくセコンドについていた印象があるw >>57
BI砲対サンマルチノ&デヌーチ,
WWWFの元インタータッグ王者チームであり、
インタータッグを賭けても可笑しくない一戦だったなぁ。
デヌーチはNWFやオーストラリアIWAの世界王者にもなったのに、
日本では、今ひとつ、ふたつくらいだった。 >>57
猪木とサンマルチノが獲られる→獲るをしているのが意外。
クーデター直前までは猪木推しの流れが強まっていたのかな? >>59
12月1日に馬場が上田を問い詰め、3日に猪木派の計画を猪木抜きの選手会で
公表しているから
それ以降、猪木は天国から地獄 四面楚歌の状態
何も気付いていない日プロ幹部は、この日まで猪木推し
一気に馬場と同列まで持っていくつもりだったろうね。 71年末には2団体だったのに10ヶ月で4団体になり
2枚のチケットで全て見れたのが4枚必要になり、プロレス冬の時代へ突入する事に…
《72年10月の各団体メンバー》
日プロ⇒坂口、大木、吉村、上田、小鹿、高千穂、ヒライ、松岡、桜田、羽田、
木村、小沢、伊藤、大城
海外修行中が、星野、永源、安達、戸口、林
国際プロ⇒小林、草津、井上、田中、寺西、鶴見、デビル、大剛、稲妻、八木、
米村、大磯、珍
海外修行中が、木村、浜口、大位山 (藤井=ヤスフジイは除名)
(奄美はデビュー前)
新日⇒猪木、豊登、小鉄、柴田、木戸、北沢、藤波、荒川、浜田、来栖、Dタケシ
(藤原はデビュー前)
全日⇒馬場、杉山、大熊、駒、クツワダ、佐藤、百田、肥後、藤井
(鶴田はデビュー前) >>63
日プロ勢海外行きは戸口が72年12月、他4名が73年1月
Dタケシはその頃いない。木原、佐藤がまだ辞めてなかったかも
肥後全日移籍は73年1月か2月 >>64
そうでしたか
適当な記憶に頼っちゃいけなかったわw
4団体のメンバーをみると、大エースはいないけど複数エース制?を敷いていた
国際プロレスが一番バランスが良さそうだね。
この時期はブルクラを招聘してるし、全日のデスト&ブッチャーに負けてない 国際は最も羽振りが良かった時期だな
年末には馬場を草津の前に歩かせる事も出来たわけだし しかし10月からTWWAプロレス中継は日曜夕方30分枠となり以降1時間枠に戻ることはなかった ‘72年4団体暮れの外人選手は
日本プロレスは、KKコックス、Mストンパーと言ったインター挑戦経験者と
ザ・カンガルーズらシリーズを通して参加、GキニスキーとBブラジルが後半戦特別参加。
国際は、同じくMミラノ、レッドバスチェンらにブルーザーとクラシャ―が特参。
全日はデストロイヤー、ブッチャー、サイクロン・ネグロら
新日は、日プロに参加したことがある中堅のカール・フォン・ストロハイムと
ジョニーロンドスら(^^:
日プロと国際はビッグネームを招聘したが、翌年の新春シリーズはガクッと落ちた。
前者は、マスクマンシリーズと題して、スポイラー(ドン・ジャーデン)、
ミスターX(ジム・オズボーン)、素顔でビリーレッド・ライオンら。
国際は、やはりマスクマンのザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバード)、
ラリーへリングら、オットーワンズ(グランラバン名義)とケンパテラが
初来日しているのは特筆されるが。 >>66
吉原社長は、坂口が新日入りすることについてコメントを求められて、「ウチを見習いなさい。その一言です。」と答えたくらいだからな。 >>69
馬場からインターを奪った二人を参加させているところにも拘りを感じる >>73
全日の外人エースはジョナサンとシュナイダー。
まぁ4団体の新春シリーズの中では、一番、ビッグネームだね。
ただ、サンマルチノ、デストロイヤー、ブッチャーに比べると
馬場との因縁とか、名勝負となるとちょっと薄い。
全日は、旗揚げ以来、いちシリーズで日本プロレスだったら
単独エースが務まる選手を2名づつ招聘して、「力道山ベルト争奪戦」を
行っていたね。 おぉっ!
ジョナサンにスナイダーに
ゴードン・ネルソンまで!
女房を質に入れて
全戦同行したいわ!
73年1月というと3バカ入門前。
借り物道場で横浜文体から日大講堂gまでのオフの6日間にゴードン・ネルソンの駒、百田、佐藤昭雄らへの特別レッスンなどあったのだろうか? ゴードン・ネルソンの授業、本当にあったかもしれないねw
自分的には“まだ見ぬ強豪?”だったアルゼンチン・アポロ(ロッカの方が良かったが)の
アルゼンチンバックブリーカーが観れただけよかった。
このシリーズのアーカイブ映像が日テレに残ってないのが残念! >>69
キニスキーって日プロ残留か。
馬場の「引退試合」の一人だし親友っぽいから、サンマルチノやブッチャー同様に全日本設立時からのメンバーかと思っていた。 ブッキングされていつもの日プロに来てみたら
あれ、馬場も猪木もいないじゃないか。早いけど引退したのか? って感じじゃないのかな。 元NWA世界ヘビー級王者の来日でいうと、意外にも新日の方が早い(72年10月)
と言ってもゴッチvs猪木戦のレフェリーとしてテーズが来た!だけどねw
全日は73年新春ジャイアントシリーズ結集戦のオコーナーが最初かな
キニスキーは74年エキサイトシリーズが全日初参戦 >>79
>元NWA世界ヘビー級王者の来日でいうと、意外にも新日の方が早い
早い、と言っても、新日のゴッチ対猪木の2連戦(10月4日、10日)の
時点で、全日は旗揚げ(21日)前だったし。(^^: >>73
いやいや、日プロのほうが
怪しい魅力がありそうw
ビリーレッドライオンにも
覆面を被せたら完璧だった >>73
原爆男 ウィルバー・スナイダー
モルモンの人殺し ドン・レオ・ジョナサン
現在なら抗議デモ避けられない表記だよなw >>83
いやいや、どうも。こちらこそ無粋な突っ込み失礼しました。 >>75
スナイダーはこれが最後の来日なんだよな
結果的に三度だけだが >>80
前から疑問だったんだが
馬場とファンク一家って親密になるほどの接点は
海外修行時代とかにはなかったんだよな
やっぱり駒の頑張りだろう >>73
なんでバッファローかと思ったけど丑年だったんだね >>86
63年にドリーシニアが東郷に馬場をブッキングして貰い、いまだに語り草になるアーチ・ムーア戦へと流れる試合が行われている。
この時の馬場の態度がとても良かったことで、シニアはずっと馬場を気に入っていたということを後にジュニアから聞かされたと馬場は著者に書いている >>89
“原爆男”スナイダーもいいけど“鳥人”ホッジが好きだな〜
ジュニアヘビー級だったから日本ではあまりピックアップされなかったと思うが
60年代が全盛期のホッジと80年代が全盛期の鶴田が
74年サマーアクションシリーズ後楽園大会で30分フルタイムドローをやっている。
『試練の十番勝負』での決着を期待したけど叶わなかった…
https://livedoor.blogimg.jp/toukon_tetujin/imgs/5/3/532046cd.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/toukon_tetujin/imgs/1/6/16c24bd5.jpg テーズ、ゴッチを凌ぐともいわれるホッジのシュートレスラー面が
当時に強調されていたら違う見方ができたと思うけど
放映時は「なんだジュニアヘビーのレスラーと引き分けてる」鶴田に落胆したもんだった。
十番勝負の候補になってなかったからだろうし、やっても盛り上げが難しかったかな。 ホッジと言えば、1971年のゴールデンシリーズ来日時は
猪木のUN王座の初防衛戦の相手か?という期待もあった。
結局、それは知名度で勝るFブラッシーに持っていかれたが。
シリーズ中、猪木対ホッジ30分1本勝負はテレビ中継された。
(猪木のリングアウト勝ち) >>92
そのシリーズの馬場vsホッジは引き分けだった 【日プロ時代の猪木vsホッジ〜シングルマッチ】
69年1月11日 大阪府立体育館 30分1本勝負
アントニオ猪木(14分25秒 両者リングアウト)ダニー・ホッジ
71年5月29日 函館市慰霊堂前広場特設リング 30分1本勝負
アントニオ猪木(10分23秒 両者リングアウト)ダニー・ホッジ
71年6月25日 後楽園ホール 30分1本勝負
アントニオ猪木(13分44秒 リングアウト)ダニー・ホッジ
71年7月3日 岐阜・飛騨高山体育館 30分1本勝負
アントニオ猪木(14分13秒 両者リングアウト)ダニー・ホッジ
(これが全てだと思うが、70年ホッジ来日時はシングル対戦なし) >>94
70年ホッジ来日してませんな
67年国際ではタッグで対戦あるがシングルはなし 1969年暮れのNWAチャピオンシリーズにジュニアヘビー級王者として
来日した時、猪木がウエイトを落とし、ホッジに挑戦するという案があった。
馬場がドリーのヘビー級王座に挑戦することは決定していたので、
BI砲で、NWA世界2階級王座獲得だ!とかいうアドバルーンも上がった。 >>91
その頃は鶴田もジュニアヘビーのくくりに入ってたから、チャンピオンと引き分けは落胆にはならないよ。 年末にはマンテルのNWA世界ジュニアにも挑戦してたし >>98
いや、ホッジが超一流レスラーと思ってなかったので「落胆」したんだよ。
自分の知識が薄かっただけ。それとプロレスをスポーツだと思ってたし。
ただ当時は鶴田がデビュー二年三年でブリスコやドリーに好勝負してたので
このまま成長すればチャンピオンは確実だ、なんて誤解してたんだよ(笑) ホッジは馬場から負けなかった
数少ない大物レスラーの一人
フォールも取られたことがないんじゃないかな? >>103
フォールは取られたことがあると思う。
>>93氏が書いた71年のシングルマッチ、確か3本勝負で
1−1取り合っての両リンだったから。 >>100
12月にも馬場から奪還直後のブリスコの初防衛戦の相手に
ジュニアはヘビーにも挑戦できるという好例だが二階級に連続挑戦は日本では唯一の例か 71年5月27日高崎大会 45分3本勝負
ジャイアント馬場(1−1 両者リングアウト)ダニー・ホッジ >>102
大熊と田中忠治が写っているので1962年5月(大熊入門)〜65年末(田中退団)
さらに、大木が写っているが、彼は63年9月アメリカ遠征、そして力道山死亡(12月)
後、韓国とアメリカを65年まで行き来して、あまり日本には立ち寄らなかったという。
なら、62年5月〜63年9月の間だろうね。
真ん中は駒かな?
いや、彼は1970年1月にメキシコ遠征に出て,帰国は72年.
藤波は、1970年5月頃の入門だから、接点がないと思うんだが。
それを除けば、藤波、佐藤が入門した70年5月〜71年4月(大熊アメリカ遠征)
の間でしょう。藤波が正装して写真に写っているところを見るとデビュー後かと
思ったが、それは5月だった。これで、もう藤波と大熊は完全に袂を分かつ
ことになったなぁ。 >>107
なるほどね
上の写真は納得しました。
問題は下の写真だけど、駒にあご髭があるから
ビザの書き換えかなんかで一時帰国したのかな?
とすると70年年末か71年初頭になるよね
久々に会って林にからかわれている様にも見えるw 猪木が卍固めを使い始めたのは馬場がコブラツイストを
使い始めたのがイヤだった的な話があるけど
馬場はどういう意図で使い始めたんだろうな
猪木をかなり意識してた証左なのか
楽だから使い始めたのか 1968年12月6日、
インター戦で馬場がキニスキーにコブラを掛け、
キニスキーが苦し紛れにレフェリーを殴って反則負け。
同年12月13日、
猪木、卍固めを初公開する。
いくらなんでも、12月6日馬場が使った時には、
卍固めを習得していたと思う。
馬場も、猪木が新兵器を開発したからコブラを使い始めたのでは?
私はその時には、まだプロレスを見ていなかったんだが、
その前から、馬場はコブラを使っていたんですかね? >>110
馬場がコブラを使い始めたのは
猪木からのアドバイス
自分がキニスキーに使ってみたら効果があったからという理由 https://stat.ameba.jp/user_images/20190629/18/tsukutsuku1104/50/6f/j/o0750048514485224875.jpg?caw=800
「馬場さんが使い始めたから卍固めを開発した」と言った方がドラマがあるw
猪木の決め技を無断で使用するみたいな、プロレス界の暗黙のルールくらい
馬場も心得ていると思うよ。
自分もキニスキー戦以前は記憶にない・・(荒法師は2ヶ月後ドリーに敗れる)
ただ馬場のジャイアントコブラの方が効きそうな気がするんだけどな〜w 猪木は1970年の初め頃、坂口(当時、渡米中)の決め技
ハイアングル・アトミックドロップを使った期間がある。
(あまり威力はなかったが)
その年の春、坂口は新兵器(水爆固め)=ショルダーバスターを
ひっさげWリーグに帰国したが、これも流行らなかった。 >>113
馬場のコブラツイストで1番効いてそうに見えるのは、1985.2.5の東京体育館のシンにみまったやつ。異論はみとめる。 逆にインター資格戦でアルバート・トーレスに掛けられてる場面も強烈 全日本になってから馬場の技も多彩になった。
バックドロップやブレーンバスター、サイドスープレックスに足4の字、河津落とし…
日プロ時代に(自分は)見たことない
膝の負担からなのか、ジャイアントバックブリーカーはやらなくなった。 猪木が日プロにコブラで勝って復帰した日に
馬場はデストロイヤーにコブラで負けている 俺は初観戦で馬場のコブラを見た。決めたのではなく、デストロイヤーとのタッグでデスの四の字をフォローする為に使った。今思えば得したシーンだったな。 >>118
馬場に限らず、72,3年頃から多くの選手がバックドロップや
ブレーンバスターをやり散らかすようになったなぁ。
ドリーにしろ、マスカラスにしろ、坂口までやり始めた。 日プロ時代の馬場のコブラツイストは
両腕をしっかりクラッチしてたので見栄えが良かったが
全日時代のそれは単なる休憩にしか見えない >>118
ジャイアントバックブリーカーも見栄えが悪いし、説得力がないよ。
あれ、初公開は1969年Wリーグでの対クリス・マルコフ戦だろうが、
「何をやっているんだろ?」と思ったらギブアップした。
続くゴールデンシリーズでフレッド・ブラッシーが来襲。
馬場対Sマーフィ戦に乱入。怒った馬場は「(今度のインター戦で)ブラッシーを
カタワにしてやる!」と豪語。それでジャイアントバックブリーカーで勝ったのだが、
あの技では人をカタワに出来ないな、と思ったものだ(苦笑) >>118
日プロ時代は体固め自体が低空なボディプレスといえたからな〜。
全日はもう完全にいったん膝をついてから覆い被さる体固めだった。
技の数は増えても破壊力や説得力が消えた。 73年4月20日に日プロが倒産してから3団体時代に突入!
国際は別にして、新日は坂口が合流するんだけど
まだ豪華外国人レスラーが大挙来日する全日の方が勢いがあったし面白かった。
秋になるとテーズ・ゴッチの“昔の名前コンビ”に興味をそそられ、
11月には新宿伊勢丹前の猪木夫妻襲撃という思いもしなかったアングル
締めはパワーズからNWF世界王座を奪取(買収)ときて
PWF=全日、NWF=新日、IWA=国際と、3団体の看板タイトルが揃った。 >>101
74年はループやバックランドも来るなどアスリート系が多くきた印象
そういう時代にも鶴田は合っていた >>129
一方の新日は、1月からマクガイヤー・ツインズ
この兄弟がブリスコのNWA世界戦より視聴率が良かったらしいw
http://geta88kitty.cocolog-nifty.com/blog/images/2018/10/20/01_2.jpg
でも74年は猪木人気が決定的になった年だね。
2度の小林戦、腕折りのシン戦、大木戦が不評だったら
馬場(日テレ)も無理してNWA奪取していなかったかも… >>126
いや、まだだが、、そういうお前は義務教育を終えたのか?
だめだよ!ガキが、こういうところに紛れ込んでは。
ここはちゃんとした大人の社交場だ。(怒) >>126のようなヒネタ、孤独な人間にもスルーせず、
まともに向き合いレスをする私は、心の広い大人です。 >>132
いややな。
1969年の事をがっつり見たという事は、今米寿あたりでもおかしくないから聞いたのに、なんでそんな言い方するんだ。
これだからヒネタ大人はなぁ。
あ、俺が孤独な人間なのは正解だ。 いや、もう一回、カマッテやったんだから、もう良いだろ?(苦笑) >>133
暇だからカマッテやるよ。
米寿っていくつか知っているのか?
88歳だよ!
1969年のことを書いたから、その時、37歳でしたか?ってことだが、
その時、馬場がジャイアントバックブリーカーを初公開したのは、
小学校でも、上級生なら分かるよな?
「もう還暦を迎えましたか?」なら分かるが、なんで「米寿」まで行くんだよ?
そんなトンチンカンなことを書くいうアンタは義務教育を終えたのか?
と聞いんだよ(苦笑) >>124
ジャイアントバックブリーカーは、日本国内では貴方の説明が正しいと思う。
ところが、なんと馬場は63年海外修行の時から使っていたみたい、、
https://white.ap.teacup.com/corona/img/1284944710.jpg
『プロレス&ボクシング(63年7月号)』表紙の右下
ちゃんとコブラクラッチの体勢から膝を当ててる。
https://white.ap.teacup.com/corona/img/1284944914.jpg 河津掛けと河津落としって
ラリアットとランニングネックブリーカーくらい違う。 タイガースープレックスとオースイスープレックスくらい違うw プロレスだと河津掛けは防御技(力道山がルーテーズのバックドロップ封じに使った) 猪木もダブルアームとダイビングニードロップは
効きそうに見えなかったなぁ〜
特に新日系のニードロップは、膝が当たってないように見えた。
(つま先でエグっていたのか?)
唯一、キラー・カーンのダブルニーは説得力あったけど
レスラー仲間は口を揃えて全然効いてないと言う。
これがプロだな 猪木のあんまり効いてないけど浮遊感あるニードロップから
雰囲気と華麗さを抽出したものが藤波のドラゴンリングインなんだよ。 ジュニアはヘソで投げるバックドロップもやってたんだな NWA王者ドリーの兄弟コンビでさえストレート負けさせられたし
当時の日プロは兄弟タッグに厳しかったのか? >>148
兄弟タッグは別に関係ないと思うけど、
その時点でのランク付け(日プロの評価)じゃないかなぁ
テリーは伸び盛りだったが、まだ荒削りなところがあった。
しかし翌年はインター王座に挑戦するまでに成長…
あの頃のテリー・マードック・レイスの出世争いは面白かった
でも、BI全盛期とはいえファンクスがストレート負けは意外だったね
Hジェームスは言わずもがなw 41年前の今頃は、オールスター戦を予想してソワソワしていたなぁ〜
それ以降も何回か行われたけど79年8月26日は特別
テレビ中継も限られたニュース枠だったし、第2回大会も無かったし…
それが今となっては特別感を増すのか、2年後には国際プロレスも消滅して
新日全日は引き抜き合い興行戦争真っ只中
オールスター戦どころじゃなくなったw >>149
>しかし翌年はインター王座に挑戦するまでに成長
成長したかどうか、日本のファンには分からなかった。
日本プロレスが勝手に、シリーズ最終、東京体育館大会を
「馬場対テリーのインター戦」と発表したが、ファンは
「え?テリーかよ?(まだ力不足)」「ドリーではないの?」
という反応だった。実際、このカードではチケットが売れなかったらしく、
急遽、アジアタッグを追加したくらい。 >>151
テリーのインター挑戦は早過ぎた感があったけど、
少し前に猪木UNにマードック、翌年には坂口UNにレイスが挑戦
日プロとしてはワンランク上のインターでなく
追放しなかったら猪木UNにテリーをぶつけてたかも…
猪木がいればアジアタッグも空位じゃないし
馬場vsドリーのインター戦と、猪木vsテリーのUN戦
この2大試合で東体は埋まるだろうね >>152
10年後に東京体育館でやるとして
馬場×ドリーのPWF戦で4000人。
猪木×テリーのNWF戦で11000人、かな。 妄想だけど、もし猪木の除名がなかったらインタータッグ戦はどうなったかなぁ?
やっぱりファンクスがBIに勝ってベルト移動
大阪でNWA&UNダブル選手権はドロー
その後、東体でテリーに完勝してUN防衛、馬場はドリーと引き分け防衛
NET派の推しで、猪木坂口組でのインタータッグ奪回
猪木は馬場と戦わずして日プロのエースに…そんなシナリオがダラ幹にあったかも 昭和47年以降は猪木、坂口で売っていこうという意図が透けて見えてくるね
この時点で馬場のプロレスではそれまでの貯金はまだまだあったとしても
もう新しい客を呼べなさそうだからね 純粋な格闘スポーツではないにせよ
40が見えてきた選手が第一線でやるわけにはいかない。
馬場はそれほど先が長くない。これからは猪木坂口で行くよ。
これはその当時なら当然の感覚。
今はまあ50代のJリーガーやらがいるけれどね。 >>156
馬場の日プロ時代の人生設計は、38歳で引退してハワイで隠居だったから
4年程早いけど72年に決断…でも日テレが許さんだろうなw
まあ猪木がエースになったら、馬場はインター王座返上して全米行脚は理想だけど
それも無理だろうな
っていうか、鶴田も長州もスカウトされたのかな?
異種格闘技戦は?猪木vs小林戦は?…
やっぱりあの時分裂してプロレスが面白くなったから良かったよww 分裂したから面白くなった部分があるのは否定はしないが
スケール感では新日も全日も日プロには遠く及ばないのも事実
日本相撲協会や日本プロ野球機構が分裂するようなもんだからね >>159
なにしろ、自民党の副総裁が日本プロレスリング
コミッショナーをやっていたもんなぁ。 猪木は村松友視と二人で別府に行った際、
観光客のオバさんが「あ、ジャイアント馬場さんだ」とはしゃいだので、
「アッポー、アッポー」と手刀を振り下ろす真似をして喜ばせたそうな。
逆の状況で馬場が猪木に間違えられても、
馬場は黙りこくだけだろうからな
間違ってもアゴを突き出して「あんだこのヤロー」
とは、やらないだろ? 馬場は、羽田空港で初対面の高倉健に「馬場さん、どこ行くの?」
と声を掛けられても無視した男。(まぁ俳優、高倉健を知らなかったのだが)
猪木に間違えられたら、それこそガン無視だな。 >>160
しかもお飾りでなく実力ある政治家ばかり >>164
大野伴睦は明治大学出、坂口の先輩。
川島正二郎は専修大学出、長州の先輩。
椎名悦三郎は東大出、流石に出身レスラーは無し。
ちなみに大野の後を受けた川島は大野より一つ年上 >>155
そうなんだけど、そこにテレビ問題がからむから。
猪木が日本プロレスのエースになっちゃうと
日テレとNETの内容に差がなくなる。
当然日テレは日本プロレスに文句を言う。
それでも日本プロレスが猪木エースを強硬すれば、日テレは馬場の独立を促すだろう。
結局は分裂の流れ 当時は日テレもNETも、日本プロレスの主要株主になってなかったのかなぁ? >>168
プロレス雑誌の裏表紙にアサヒビールなんて今じゃ考えられないw 週プロで馬場のインター持ち出し未遂問題をやってたな
実際にやってのけたのはマスカラスのIWA王座だが そこまでインターに執着していた馬場。
しかし翌年、全日に日本プロレスが合流した時に
インター王座戦を開催しようとは思わなかった。
そうしておいて8年後に復活。 >>173
そんな事したら、新設したばかりのPWF王座が意味なくすよ、、 >>175
83年2月って、まだ佐山タイガーは辞めてないし、舌出し事件の前だが。 >>176
本当だ。読み直して気付いたけど、時系列が合わないね…
共に11月のインタビューだから↑↑に貼ったけど12月号か84年2月号だろうね。
指摘ありがとう! >>174
当時の馬場としてはインターを無視する事でPWFこそ真のインターの継承王座という感じに持って行ったつもりだったかも 当時は>>174の理由とは思ったけど、
大木に何度かインター防衛させてガス抜きさせた後、
王者を陥落させ、PWFとインターを統一に持っていく手はあったんだよね。
実際、1989年にはそうしてるわけだし。 >>181
とにかく明るい馬場?
下半身に何も着けていないw >>180
馬場もPWF新設がサンクコストになってしまったんだろうね。
こんなに手間かけて作ったのに、いまさらインターとなると……。
長年好きだった女性を諦めて違う女性と婚約したらば
前カノからヨリを戻してもいいと言われたらそりゃ困るだろうけどさ。
PWFのベルトをまた百田未亡人に返して
インターベルト本体だけを取り上げてPWFのベルトにしてもよかったとも思える。
その後インターベルトを豪華版で作り直してから原本を大木に返してもいいし。
インタータッグも事実不明な経緯でファンクスに来ているんだから
シングルでもやりようはあったはずだよね。 >>183
インタータッグは、アイアンクローシリーズ焼津大会で大木・上田組が
エリック・クラップ組に敗れ、その2日後に日プロが活動停止⇒海外流出
王者コンビは帰国後に解散⇒クラップがカールフォンスタイガーを指名して
王座を保持⇒アマリロでファンクスに敗れ王座移動
ファンクスも1度はKKコックス・サイクロンネグロ組に敗れるも再び奪回
10月9日蔵前で馬場・鶴田組の挑戦を受けることになるんだよね。
クローコンビから蔵前の師弟コンビ挑戦までは、単なるストーリーかもしれないけど
馬場はその後、アメリカでパク・ソンナンやカンフー・リー(小鹿)と組んで同王座挑戦
ファンクSr.追悼興行で再び鶴田と組んで挑戦するも失敗
サンアントニオの師弟コンビ3度目の挑戦で奪回、やっと全日本プロレスに
インタータッグ王座がもたらされた。 インタータッグこそ馬場が最も長く多く関わったベルトなんだよな インターシングルは大木の戴冠でケチがついたという思いがあったのかな。
まあ結局時間をかけだが、インター復活、PWFとの統一という流れにはなったけど 前スレで、日プロと新日の合併案を大木を使って潰した黒幕は馬場+日テレ説
というのがあったが、インター王座に未練があり新・日本プロレスになれば
猪木にベルトが渡り二度と全日には戻ってこない事を考えると妙に説得力がある。
(全日設立前には大木もメンバーに入っていたという佐藤の証言もあるし…)
73年に日プロ残党を引き受けることになり、上田や松岡には冷遇したかもしれないが
大木はメインで馬場と組ませたりセミでマッチメークしていた。
優遇程ではないまでも、インターのベルトを大木が保持していた事も関係あるのでは?
それでも防衛戦を許されなかった大木は不満を募らせ、全日を離脱し猪木に挑戦。
対戦成績1勝1敗1分の五分で終えた。
あのままWリーグの因縁で坂口とインター王座を賭けての抗争が始まると
馬場も焦ったと思う。
その後も国際で防衛戦を行ったが、猪木新日にさえベルトが渡らなければ
何とでもなると考えていたんじゃないかな? >>184
>王者コンビは帰国後に解散⇒クラップがカールフォンスタイガーを指名して
>王座を保持⇒アマリロでファンクスに敗れ王座移動
このへん、なんとも適当な進行。
解散したらパートナー指名しても認定される王座ってんだから。
それを措いても、スタイガー&クラップの時に一番乗りで獲らないとね。
ファンクスに先を越されるからなかなか帰ってこないんだよ。
ブッチャー&ルーファスジョーンズとかブラジル兄弟とかでも一発で獲れる。
草津&木村でも大木&金光植、ヒロマツダ&マティ鈴木でも大丈夫そうだ。 今後の興行日程のない日本プロレスでのベルト移動は、ある意味不可解。
ということは、この時点で全日本でのインタータッグ開催は視野に入ってた?
しかしそれなら、大木上田をそのまんま王者に
しておくのが一番確実なんだが。 >>186
UNも含めて三冠統一ってのはある意味で全盛期のインターへの再統合というニュアンスもありそう >>181
>アジア選手権を新日が新設する事になって、馬場が封印したアジアシングル王座を
>復活大木にインター王座を返上させたんだよね?
新日がアジア選手権を発表したのは昭和51年2月。
馬場がアジアシングル王座を大木に返し、その交換条件として、インター選手権を
返上させ、日本で決定戦を行ったのは昭和56年春。 >>187
>坂口とインター王座を賭けての抗争が
坂口をインター王者にさせ、猪木のNWFの下に置かせる、とかやりそうだもんな。 1980年代
猪木さんはホーガンとテクニック対パワーのスピーディーなプロレス(^ω^ )
馬場さんはハンセンブロディに凹られるお爺ちゃんプロレス(´;ω;`) >>191
新日がアジア選手権を新設した時には、馬場はアジアタッグだけを復活させた(76年)
って事は、黒磯のダブルタイトルでアジアを獲得してからアジアシングルを封印
それを大木に返し、インターを返上させる81年の写真か…
クロケットJr.やドリーがいて、右端にはインターのベルトがあるからね
分かり難いというか、間違った書き方してゴメン >>195
本当だ!ワルドーとやってるね。
オールアジアは防衛戦やらしてもらってるのに、
インター王座は認められなかったねw >>196
違う違う
ワルドーとの決定戦は9月の防衛戦がノーコンテストで王座預かりとなったから
2月29日付けでNWAから両王座復活が認められたので
アジアヘビーは最終保持者の大木が保持、3月ソウルで防衛戦
タッグはやはりソウルで極道が韓国組との決定戦に勝って王者に >>193
日プロ時代初NWA奪取の試合見てない馬場アンチ 77年10月 黒磯での試合はダブルタイトルマッチだよね。
この試合で勝った馬場は、PWF・アジア・インタータッグの三冠王者 >>189
大木、上田vs馬場、鶴田なら見てみたいな >>196
>インター王座は認められなかったね
日本ではね。
大木は日本プロレス崩壊後、昭和50年3月ソウルの猪木戦以降、
韓国でインターの防衛戦を行っている
51年なんか3月〜11月の8カ月で、7回。そして防衛戦の相手はデストロイヤー、
ブッチャー、マスクを付けているがクツワダ、高千穂と言った全日勢。 スタン・ハンセンはすごかったよ。
馬場のキックにあんなに見事に合わせに行くんだから。
あれこそ本当のプロ。 新日版アジアシングル&タッグも、何度か防衛戦見た記憶があるんだが
いつの間にかフェードアウトしたよね、、
(坂口とシン、あとシンが連れて来る3流のタッグパートナーが印象にある)
正式にはIWGP開催の時、まとめて封印されたんだろうな。 >>199
カマタにPWFを奪われた試合でもアジアヘビーを含めた三冠王って解説されてたんだよな
どうせなら2月の木村との対戦はアジアヘビーを賭けてほしかった >>201
大木のインターナショナル王座防衛記録を調べてみた。
72年12月4日広島県体育館
ボボ・ブラジル(1−2)大木金太郎
*大木が第9代王者に
73年1月12日北海道滝川市青年体育センター
大木(2−1)ビリー・レッド・ライオン
73年4月13日大阪府立体育会館
大木(1−1)フリッツ・フォン・エリック
75年3月27日ソウル奨忠体育館
大木(0−0)アントニオ猪木
75年5月23日ソウル奨忠体育館
大木(2−0)スーパー・デストロイヤー(ネイル・グアイ)
75年10月18日ソウル文化体育館
大木(2−1)マリオ・ミラノ
76年3月26日ソウル文化体育館
大木(1−1)ザ・デストロイヤー
76年5月18日ソウル文化体育館
大木(1−0)ザ・バラクーダ(マリオ・ミラノ)
76年5月19日ソウル文化体育館
大木(1−0)サムソン・クツワダ
76年6月20日全州市体育館
大木(2−1)タイガーマスク(サムソン・クツワダ)
77年5月22日仁川市体育館
大木(2−1)高千穂明久
78年4月12日ソウル文化体育館
大木(1−0)ドン・レオ・ジョナサン
78年8月2日ソウル文化体育館
大木(1−0)稲妻二郎
78年?月?日韓国⁇
大木(2−0)キラー・トーア・カマタ
79年12月17日韓国⁇
大木(⁇)フランク・ヒル
80年5月15日大宮スポーツセンター(国際)
大木(2−1)ジョー・ルダック
80年5月?日韓国⁇
大木(⁇)ジョー・ルダック
80年7月1日大阪府立体育会館(国際)
大木(1−0)ジプシー・ジョー
80年9月20日焼津スケートセンター(国際)
大木(1−0)ビル・ドロモ
80年10月4日近江八幡市立運動公園体育館(国際)
大木(0−0)上田馬之助
81年3月4日ソウル奨忠体育館
大木(1−0)ボブ・ブラウン
*記録では29度の防衛となってる。(不明の防衛戦9試合) ザ・デストロイヤーは、力道山、G・馬場、大木と3人の
インター王者に挑戦しているんだな!
他にはいないだろ?(ブロディ、ドリー、鶴田王者でも)
ドン・レオ・ジョナサンも、馬場に挑戦する予定(1967年)が
怪我のため流れて、力道山、大木の二人止まり。 テリーが馬場、ドリー、ブロディの3人に挑戦してるな ブラジルも力道山・馬場・大木とインター戦やってるが、
大木戦は挑戦試合じゃなく、決定戦と防衛戦だったね。 57年に来日したブラジルが力道山とインター戦やるのは無理だろ アジアヘビーの王者ではあったんだよな
ただし当時はアジア人限定という考え方だったのか >>208
テリーは気づかなかった。
ドリーの防衛戦、インターの決定戦だと勘違いしていた。
それより、インター3王者に挑戦した選手が他にいた。
フリッツ・フォン・エリック!!
対ルーテーズ、1958年4月25日、テキサス州フォートワース。
対G・馬場、1966年〜71年に掛けて数度
対大木金太郎、1973年4月13日大阪府立体育会館 >>210
57年東体のシングルマッチはインター選手権ばかりだと思っていたw
翌58年にインター王者を名乗ってるんだね。 ボボはでも、力道山、馬場、猪木と
東京の大会場でメインエベントでシングル戦を
やった、数少ない選手だな。
猪木ともワールドリーグで蔵前のメインがある。
ルーテーズ、ブラジルだけじゃないの。 鉄の爪のアイアンクロー、黒い魔人のココバット、鉄人の岩石落し、魔王の足4の字…
今のレスラーは何でもやるけど、このレスラーのこの技が出ると試合終了
それが魅力的でハラハラした。
60年代末のドリーファンクとロビンソンの出現で流れが変わったかな…
70年代以降も一撃必殺のラリアットやキングコング・ニーを見ると
やっぱり強烈にインプットされている。
単純な技ほどいいのかな〜 黒い魔神ボボブラジルって(辻)タイガーマスクのミスターノーのモデルじゃない?
黒が白に反転してるけど、強烈きわまりない頭突きが必殺技。
と考えたらゴールデンマスクってブラッシーがモデルか。 ほぼ実名で描かれた『タイガーマスク』の中で、ボボ・ブラジルは
なぜかポポ・アフリカだったw(九州地区を配慮したのかね?)
始まったのが1969年だから、馬場の全盛期だ! フレッド・ブラッシーは
力道山、馬場、猪木のシングルタイトルに挑戦しているね。
これまた、唯一の選手では?
それも、WWA,インター、UNと違うタイトルと言うのが面白い。 挑戦はブラッシーだけかもね。
シングルタイトルマッチをやった、という意味ではルーテーズも当てはまるが、力道山とは自分のベルトの防衛戦だったし 後、デストロイヤーは力道山、馬場とインター戦、
力道山、豊登とWWA世界戦、
猪木とワールドリーグ決勝をやっているね。 日米含めたメジャータイトル挑戦試合だと、
馬場はNWAロジャース・テーズ・ドリー・ブリスコ・レイス
WWAデストロイヤー・ブラッシー 、WWWFサンマルチノ
AWAガニア・ニックに挑戦している。
猪木はNWAドリー、NWFパワーズ、WWFバックランド(メキシコUWAは含めず)
NWAを封じられなかったらブリスコやテリー、ニック戦を見たかったなぁ
坂口はNWAドリー、WWWFグラハム
鶴田はNWAドリー・ブリスコ・テリー・レイス・フレアー・ケリー、AWAニック 鶴田はAWA転落後、マーテルとハンセン(Wタイトル)にも挑戦しているな。 天龍はNWAフレアー、AWAハンセン、WWFフレアー
日本国内の興行でWタイトル戦でなく純粋に3大王座に挑戦したのは天龍だけか
(AWAは黒に近いグレーだが) 猪木からNWF、馬場からPWFを奪取したハンセンって、やっぱり凄いな
鶴田からインターナショナル、三冠まで獲っている。 ファンクス道場の鶴田、ハンセンそしてバックランドは3人とも成功したな。 統一前の三冠に全て挑戦した最初はシークなんだな
最後のPWFは新設後の初防衛戦でいきなりだし 馬場のインターとPWF,猪木のUNに挑戦したのは
フリッツ・フォン・エリックくらいだな。 >>227
本来シークのPWF挑戦はなかったんだよな。
PWF初防衛戦の相手はNWA王者ドリーとのWタイトルマッチのはずが
トラクター事故?で負傷し、来日をキャンセル(程なくレイスに王座を奪われる)
急遽シークが呼ばれたんだよな
その前のシリーズでも直前にベアキャット・ライトの初来日がキャンセルされた。 >>217
ポポとだけ変えればいいものを何でブラジルをアフリカとまで変えたんだろうねw ポポ・アフリカは、“黄色い悪魔”から改心したタイガーマスクの
ドリルアホール式パイルドライバーで敗れた😀 >>229
結局ライトは新日本に参加なんだな
そういえばPWFの二代目ベルトの初披露は長崎でのブリスコのNWAとのダブル戦の時だったか ライトはブロディのような小難しい性格だったらしいね。
ブラッシーを破って黒人初の世界王者になり、その後失踪したのは
黒人差別による迫害にあったとされているが
WWAのシナリオが嫌でブック拒否した事が真相らしい。
新日に初来日した時はヒールターンしたばかりで、猪木との試合も無効試合
決着も見たかったけど、ロビンソン戦が控えていたからな〜
予定通り73年に全日本に来日していたら、馬場との巨人対決(198センチ)が見れたね。 あの時期の新日本は結構オールドタイマーを呼んでいたイメージ 馬場も全日旗揚げ後、外人選手が、それまでの日プロ参戦選手に
偏らないように、「まだ見る強豪」を呼んだんだね。
元WWA王者のマーク・ルーイン、不発だったがベア・キャット・ライト、
ミスターレスリング、地味なところでアルゼンチン・アポロ、スコット兄弟
の弟、サンディ・スコット。
しかし、「まだ見る強豪」って、 70〜71年、日プロと国際が競って、
招聘したから、75年の新日、ベア・キャット・ライト以降、いなくなった。
スターになったバックランドもフレアーも無名時代に来日していたし。 だから、75年以降、、79年ブロディ、80年ホーガンあたりが初来日するまでは、
「その団体にとっての、まだ見ぬ強豪」がいつ参加するかが興味の対象だった。
新日、全日にとってのビル・ロビンソン、全日にとってのガニア。
78年、全日に初来日したリック・フレアーは実質「まだ見ぬ強豪」だったけれどね。 いちいち訂正するのも恐縮なのだが
まだ見ぬ強豪、ね。 黎明期の新日は、無名や3流レスラーのオンパレードだったけど
バレンタイン・シーク・パワーズ・アンドレ等の大物もいたんだよね。
あと、超一流じゃないけどPパターソン・Sリーガン・Jトロス・Hブロンドス
ヘス&ショッツ・Aヤコブ…
カネック以前のメキシカンでは、HラミレスやEティニブラスがいたな〜
きわモノでは、マクガイヤー兄弟・Gアントニオ・Tジャコブス・アナコンダ…
テーズ&ゴッチ&ロビンソンは、新日のストロングスタイルをファンに浸透させ
(特にゴッチの神格化)全日との差別化をアピール
狂気に満ちたTJシンを育てながら、過激なプロレスというイメージも植えつけた
格闘技路線・WWWFとの提携時代には、全日の豪華外国人にも見劣りしなくなった。 ま、シンしか目立たないような陣容で、アンドレが異質なんだよね。 ハンス・シュミットも呼んでたな
極め付けはアントニオ・ロッカをレフェリーに呼んでのテーズとのNWF戦だろうが 全日の外人も、知名度が高いだけでショッパいの多かったからな。 >>240
ハンス・シュミットと一緒にブルート・バーナードも来てたな。
あのシャウト(奇声)は彼が最初なのかなぁ?
うるさいけど、バーナード・イアウケア・ブロディの6人タッグが見たいw >>242
いやあそのトリオはいいねえ。
さすがにブロディもイヤウケアにおれのギミックを使うなといえるはずはないし。
ブルーザー、レイス、マードックの金髪トリオも見たくなったよ。 ブルーザー、レイス、マードックの揃い踏みは、
昭和43年のダイナミックシリーズであったようだね。
後2者は初来日。
ブルーザー&レイスでインタータッグに挑戦した。 >>244
レイス初来日の時は、格からいえばブルーザー&オースチン組が挑戦なんだが
BIのインタータッグに挑戦したのはレイスだった。(勿論、レイスが負け)
レイス&オースチン組での負け役はオースチン
レイス&オースチン&マードックの6人タッグの負け役はマードックだった。
69年2度目の来日では世界王者ドリーと組んで猪木&吉村のアジアタッグに挑戦
(負けはレイス)
70年3度目の来日ではノンタイトルで馬場と引き分け
バレンタインと組んでアジアタッグに2度挑戦(1引き分け、1レイスの負け)
キニスキーと組んでシリーズ3度目のアジアタッグ挑戦(負けはレイス) 猪木追放後の次の来日で坂口のUNに挑戦
またアジアタッグでも今度は主役の立場でモンローと組んで挑戦 >>243
Fブラッシー、Tタイラー、Cマルコフの銀髪?トリオも魅力的 Fブラッシー、Tタイラー、Cマルコフ
この3人の揃踏みは、なかったね?
Fブラッシー、Tタイラーが第10回ワールドリーグ参加で
シリーズ中に、インタータッグ挑戦
Cマルコフ、Tタイラーが第12回ワールドリーグ参加。 日本最古のアジアタッグ王座に価値があったのは吉村&坂口組までだな。
吉村道明引退試合の日(73年3月3日)に、小鹿&松岡が王者になってからだよ
アジアタッグの価値が暴落したのは・・
もともとインタータッグが持ち込まれてナンバー2になったベルトだけど
挑戦者はエースと準エースが多かった。
馬場が獲得した初の王座(パートナー豊登)であり、最後に挑戦(パートナー小橋)したのも
アジアタッグだった。 クラシック(ス)でテリーやマードックの日プロ時代の映像あるのに、
レイスは観たことがない…
猪木・吉村vsドリー・レイスのアジアタッグなんか、今考えると夢のカードだね。 >>250
坂口離脱後の繰り上げ当選的なタイトルのバラまき方は最悪だったね。
プロレス誌にも、二流の王者たと二流の挑戦者による二流のタイトルマッチと叩かれたからな。 >>250
アジアタッグの価値が最も高かったのは唯一の王座だった豊登・馬場時代
シングルより復活させやすかったという点でもアジアタッグの利便性の高さが伺える >>252
プロレスファン的には、あれでプロレスの嘘、ブック性に完全に気づかされた出来事てあった。
ところが当時者のレスラーたちは全日本合流後に
「俺らをチャンピオンらしく扱え」と不満を持つ。 >>254
馬場は日本プロレス残党のタイトルホルダー達に対して完全無視を決め込んだけど、王座の価値を保つために、強豪外人を当てて防衛戦やらせて、片っ端から王座を取り上げていくべきだったと思うな。 >>255
残党達にスポットライトを当てさせず、一切防衛戦をやらせなかったのは
正解だったと思うけどな〜
むしろ負けブックを飲ます方が大変じゃないかな?
それに防衛戦なんかやらせたら、勝っても負けても(格を)認めた事になる。
どっちにしても時限爆弾みたいな連中なんだから、やらせなくてよかったよ。 >>255
持っていたのは、大木のインターシングル、上田松岡のアジアタッグ、高千穂のUNの三つ
インターは、ドリーかレイス、デスト
アジアタッグはブッチャー&Rジョーンズ
UNがマードック、ルーイン、イヤウケアとか
これくらいできっちり回収できたね。
>>256
格を認めることになる、けれども「無視」は王座の権威をおとしめることにもなるよ
痛し痒しだろうけど無視はよくなかったよ。
好きの反対は無関心、みたいなもので後で復活させるのはいかにもご都合主義だから。 >>257
アジアタッグは小鹿松岡じゃなかった?
まあでも、そのメンバーならタイトルの価値も復権するし
UN王座も鶴田へのクッションになると
外国人を挟むと残党の面子も保たれて、少しは大人しくなるかな?
…時限爆弾に変わりはないけどねw まあ2度くらい防衛させて面子を立たせてから
から引き剥がすやり方もあったけどね。
それも馬場的にはウザかったんだろう。
実行するならアジアタッグはデストロイヤー杉山組あたりに落ち着かせるのがいいか。
デストロイヤーなら外人だし、直接小鹿松岡から奪わせてもカド立たないかも アジアタッグくらいなら中堅のタイトルとしてやらせても良いが
大木のインターは、それを放棄して力道山ベルト争奪戦(後のPWF世界)
を数戦行って、獲得したのに、なぜいまさら、全日のリングで防衛戦を
やるんだ?ということになるね。
やるならPWFとの統一戦だ。 猪木は村松友視と二人で別府に行った際、
観光客のオバさんが「あ、ジャイアント馬場さんだ」とはしゃいだので、
「アッポー、アッポー」と手刀を振り下ろす真似をして喜ばせたそうな。
逆の状況で馬場が猪木に間違えられても、
馬場は黙りこくだけだろうからな
間違ってもアゴを突き出して「あんだこのヤロー」
とは、やらないだろ? >>260
なぜ防衛戦をやるんだ? っていうけどもNWAのチャンピオンが来て防衛戦をやる
と同じスタンスでかまわないと思うんだが。
統一戦としなくても第一回チャンピオンカーニバルにPWFチャンピオン馬場が
シードながら出たように、インターチャンピオン大木も別のゾーンからシードで
出ればよかったのではないかしらん。 インター王座は、韓国マットがNWAに加盟していたから防衛戦は認められたけど
国際プロでやった防衛戦は非加盟団体だから無効になるんだろうね。
81年に復活させる時もそれを理由に返上させているし…
だから73年に全日本がNWAに正式加盟したから、馬場の許可さえあれば
UN王者=高千穂もアジアタッグ王者=小鹿松岡も防衛戦は可能
それを認めなかったんだから、よっぽど嫌だったしリセットしたかったんだろうね。 インターは大木→レイス→馬場。
UNは高千穂→オコーナー→デストロイヤー
あたりの移動ていけたな。
その気になれば 日プロの残党からタイトルを取り上げる試合は地方でやって、ダイジェスト版をテレビ放映して、タイトル移動を周知せしめるという方法があるね。
負けブック飲まないなら、PWFルールだと言って、反則負け、リングアウト負けでもタイトル移動させればいいんだし。
タイトル移動させたら、馬場、杉山、デストロイヤー、鶴田が大会場でこれらの王座に挑戦すればよい。 日プロのタイトルを完全無視というならわかるが、インタータッグだけは開催してるからねえ。
ただ馬場鶴田の挑戦で引き分けでタイトル取れなかった時は、日プロの安易な移動劇を見せられた後だけに、爽やかな気持ちにはなったね。 三本勝負の利点が一番良く出ていた試合だったな
一本目の鶴田のジャーマン勝利が見事で ジャイアントシリーズで日本プロレスの
タイトル防衛戦をやるなら
●インター
大木2ー1イヤウケア
●UN
マスカラス2ー1高千穂
●アジアタッグ
マードックモロウスキー2ー1小鹿松岡
あたりはイケたな。 >>270
マスカラスがUN王者になると、蔵前の覆面世界一決定戦がUSとのWタイトルになって
デストロイヤーが2冠王になっちゃうね マスカラスの負けブックは大木以上に面倒くさいからパス。
UNは一気に馬場が獲って返上してしまえば猪木への嫌味になるけども
そこは控えると、ハリケーンとかで。 PWFベルトは馬場が海外で防衛戦をしやすいようにと、予備として2本造って
ドリーに預けていたら、勝手にインターナショナル王座を名乗りPWFベルトを使用して
防衛戦をやっていたらしいねw >>271
デストが直接高千穂に挑戦してもいいけどね。
外人だし 馬場が日本プロレスのタイトルとして欲しかったのは
インターとインタータッグだったろう。
しかし、大木はインターを離さない。
(取り上げる目的で強豪外人とタイトル戦を組んでも、それを放棄して
脱退しただろう。結局、そうなったが)
仮に大木&上田がインタータッグ王者のまま、全日に来たらどうしただろう?
まず、ファンクスあたりと防衛戦をやらせて、取り上げる。
あるいは、上田は遅かれ早かれ全日を離脱しただろ。
別に大木と組んでアメリカに行くわけではない。返上ということになる。
ファンクスが王者、あるいは空位になったインタータッグを馬場&鶴田が
挑戦することになっただろうね。 門茂男のプロレス365には、日プロ残党が全日に引き取られるに際し、タイトルホルダーが多すぎると全日が扱いに困るからという理由で、大木と上田が因果を含められ、エリック・クラップ組との防衛戦で負けブックを飲んだとあるな。
無冠になる上田は負けブックを拒否したので、大木が二本取られて王座転落。 >>276
その割には大木、上田はファンクスのインタータッグへの挑戦者に選べと主張しているな。 >>275
インタータッグは日プロ崩壊カウントダウンの中、なぜクローコンビに移動したのか?
閑古鳥の鳴く会場、選手会自主興行でNETのテレビ放送も打ち切りになり、
これ以上の活動が不可能なのは分かっていたはず。
勝手な想像だけど、芳の里が日テレと百田家に選手の今後の身の振り方を
打診していた中、全日との合併案の条件としてベルトの放出があったと。
一度に全部は不自然だから、タッグ王座のなかった全日が一番欲しいであろう
インタータッグの海外流出(と言っても、ベルトは日プロの金庫で保管=門茂男の証言)
韓国マットという保険がある大木は、インターシングルだけは拒否
UNやアジアタッグは合併後まで放置させても日テレとの3年間の個人契約を結べば
新日への流出も防げる。(その後、空位にして復活させる)
大木上田が保持していたら馬場の描く全日の未来像・鶴田が巻き込まれる恐れがある
それを嫌ってインタータッグ王座をクローコンビに移動させ
全日と太いパイプのできたファンク一家に預けるというストーリー
…想像し過ぎかなw >>277
ファンクスへの挑戦チームの片方は、日プロの元王者チームから出すべきと強硬に主張したのは上田じゃなかったかな。
馬場・鶴田組が挑戦する事への不満と、当日の興行権を馬場に横取りされた恨みとが相俟って、松岡と二人掛かりで馬場を殴打したと言われているが。 何をどうしても松岡はもちろん上田や大木はブックを飲めない等の理由で
離脱したはずと見做している人ばかりだけども
ちゃんとタイトルホルダーとして尊重して、出番を与えれば
彼らもなんとか自分を宥めてやっていけたかもしれない。
彼らに我慢が足りなかったのは確かだけどもね。 >>279
蔵前大会の興行権は門茂男が立ち上げたジャパンプロレスユニオン主催だったのが
東スポの横ヤリで全日主催になり、ユニオン顧問・沖識名レフェリーの引退式でも
一悶着あり、この日を境に門の馬場バッシング(殆ど捏造や誇張)猪木贔屓が始まる。
門も日本プロレスでコミッショナー代行として認定宣言してる頃は
馬場派でも猪木派でもなかったんだけどな… アマリロ時代のインタータッグには鶴田・ハンセン組も挑戦してたんだな >>280
馬場が日本プロレス離脱時点で
タイトルホルダーだったのは大木だけ。それもアジアシングルだけだし。
そんな急造タイトルホルダーを馬場は尊重する気はなかったんだろうな。
インター 馬場 →大木
インタータッグ 馬場&坂口 →大木&上田
UN 坂口 →高千穂
アジア 大木 大木
アジアタッグ 坂口&吉村 →小鹿&松岡 インタータッグはその間に坂口&大木も入るな
キニスキー&ブラジルとの決定戦の映像なんか見てみたい >>280
馬場が日プロ残党を冷遇したの見てたら、宥める価値があると到底思ってなかったんじゃない? >>280
残党合流組は、全日に吸収合併されたのを対等合併と思い込んでいたんだよ。
だからポスターの顔写真が小さいとかマッチメークが悪いとか不満ばかり…
馬場と人間関係の構築なんて所詮無理な話
その時は我慢してた小鹿や高千穂なんて、引退後は言いたい放題だからねw >>284
それは単に馬場離脱時との
馬場猪木→ファンクス→馬場坂口→
坂口大木→バレンタインクラップ→
大木上田。
こんなタイトル移動を見せられて、ファンは
プロレス不審に陥ったのに、当のレスラーは
「俺らを王者経験者としてきちんと扱え」とは。 日プロの残党たちは、馬場のところは日本陣営が手薄だから、自分たちがタイトルを手土産に参加すれば盛り上がるだろうという考えでいたみたいだね。
ところが、プロレスファンは、彼らがどんなタイトルを掌中に収めようが、タイトルホルダーとして認めていなかったし、馬場もそのことを察知していたから、残党たちの加入は迷惑で、海外で働き場所を見つけてくれという感じだったみたいだね。
末期の日本プロレスにおけるダラ幹どもの無能さと、残党たちの自惚れぶりには、興味深いものがあるね。 いやぁ、71年クーデターから73年日プロ合流辺りの話はいつ聞いても面白い。
残党の扱いについては、馬場は日プロ崩壊した時点で覚悟はしていた筈だけど
嫌でしょうがない。だけど新日の戦力になられても困るんだよな〜
ホント、ベルトを置いて海外にでも行って欲しかっただろうねw
あの9人は草津のいる国際に行っても揉めただろう… 大木が猪木との合流に同意してたら
インター 猪木
インタータッグ 猪木坂口
UN 坂口
アジア 大木
みたいになったのかな。
まあ結局、大木とは揉めそうだね >>292
と言うか、猪木が社長で坂口が副社長(専務?)で決まってたんだろ >>292
インター、同タッグ、UNが新日に渡ったら、馬場は
「新日はNWA加盟団体ではない!防衛戦を行う資格がない!」
とクレームを付けたと思う。 >>295
確か、芳の里個人(長谷川淳三)としてNWAに加盟していたから
防衛戦は出来たと思うよ。
芳の里を囲い込まないとダメだけどね >>187 スレにもあるように、あの時大木が合併案に賛成していたら
日プロのタイトル全てを『新・日本プロレス』に持っていかれる事になるね。
NWA王者や強豪外国人レスラーも招聘でき、NETも新たに中継する。
上田はクーデターで猪木と確執ができたから、海外か国際に活路を見いだすかな…
やはり不可解な日プロと新日の合併案拒否は、日テレと馬場が韓国帰国中の大木を
説得したのが真相なのかな? >>297
馬場は大木との合流は拒んでた。
ただ日本テレビは推進してたから、あるいは日テレが大木側と接触した可能性はないでもない。 というか大木の方からスポンサー筋を通して日テレにアプローチした、という感じだろうがね。
その際の引き出物としてインタータッグ、という
可能性はありやなしやだが。 >>297
>NWA王者や強豪外国人レスラーも招聘でき、
それは、どうかな?
「新・日本プロレス」の社長(プロモーター)は猪木=NWA非会員。
NWA王者は招聘、少なくとも防衛戦は行えなかったと思うよ。
>>296に「芳の里個人(長谷川淳三)としてNWAに加盟していたから
防衛戦は出来たと思うよ。」ともあるが、1973年2月3日にG・馬場の
NWA加盟が認められた。
「いち地区、いちプロモーター」の原則からすれば、オカシナことで
馬場の代わりに芳の里が外された、とは言わないが、もうこの時点で
芳の里は「死に体=興行能力無し」だと思われたのではないかな?
形だけでも芳の里を社長にして「新・日本プロレス」をやるかな?
それもないだろ?
ともあれ、「新・日本プロレス」にインターやUNの王座が移ったとしても
すんなり防衛戦は出来ないし、それに見合うNWA系強豪外人は招聘できなかった。
却って、馬場の妨害が大きくなっただろう。というのが俺の考え。 >>290
猪木追放→馬場離脱→坂口離脱→日本プロレス消滅、この流れが1年3月の間に起きるなんて、予想だにしなかった。
この時の事を振り返ってみると、TV局は数字(視聴率)を持っているレスラーとそうでないレスラーを冷徹に選別していたのに、日本プロレスのダラ幹や中堅レスラーたちは、タイトルホルダーになって、毎週ゴールデンでTV出演すれば、BI並みの人気者になれると思っていたのだろうな。
それにしても、猪木追放から日本プロレス消滅までの動きには、謎が多くて、おもしろい。 >>296
当初の合併案で芳の里を会長にするアイディアもその絡みかな
後にワールド大リーグ杯を巡り新日本と揉めたのも逸話だが >>298
馬場は独立以降は
最も肝心なテレビ視聴率が低迷してたから
日テレが大木をテコ入れにする案を要求しても
抵抗する力はないだろうな 芳の里は、日本プロレス崩壊→全日合流の流れの中で、NTVとNET(現テレ朝)、全日と新日を両天秤にかけて私腹を肥やしたみたいだな。 最悪のダラ幹と言われた遠藤幸吉も、上手いこと新日本に拾われたし…
潔かったのはプロレス界からキッパリ身を引いた吉村道明だけだな。 吉村は逆に、泥をかぶる前にさっさと足を洗ったという悪評も >>300
NWA王者のドリーは無理だとしても
末期にも来たブラジル、エリック、あたりの大物は継続したと思える。
全日にはサンマルチノ、ブッチャー、デスト
あとファンクファミリーのテリー、レイス、マードックが来るのかな。 NWA加盟で、PWF世界ヘビー級選手権は73年9月13日対レイス戦まで行われ
以降は世界の名称が使えなくなった。(夏のNWA年次総会で通達されたのかな?)
一方のNWF世界ヘビー級選手権は77年6月1日対アンドレ戦までで、
次の9月2日対ハンセン戦から単なるヘビー級選手権
この段階で、日本における世界王座は国際のIWAだけになるという…w 旧日本プロレスと新日が合流してたら
最初のシリーズ外人はエリック、クラップになってたのかな。
猪木対エリック。坂口対クラップ。
こういうスタートができると、シンを強引に売り出すこともなく。小林を引き抜くこともなかったかもね >>309
どうせ第15回ワールド大リーグ戦が開催されて、猪木が2度目の優勝するんだろうねw
国際プロレスでは草津との確執で小林は飛び出すはずだから、
飽和状態の新・日本じゃなく、馬場が選手補強で取り込むかもね。
シンもアトキンス経由で全日本に来ていたかも… >>307
>末期にも来たブラジル、エリック、あたりの大物は継続したと思える
どういう招聘ルートで?
猪木も坂口も、アメリカには顔が利かないし、NWA会員でもない。
ちょっと誤解していると思うのは、73年2月、日プロと新日が「合併」すると
猪木と坂口が発表、それが実現したら、旧・日プロの財産(招聘ルートとかタイトル)
が、みな新日に移行すると思っていないかな?あれは「合併」ではないんだよね。
まず「合併」なら、日プロ代表の芳の里と新日の猪木が会見に臨むべき。
あれは、日プロの坂口以下所属レスラーが日プロを離脱して(その時点でも、
日プロは存在している)、新日も、一旦、会社を畳んで、両者で新しいプロレス団体を
作ろうとしたもの。
一番大きい、芳の里が持っていたNWA会員権は、そのまま新日には行かない。
それで、前レスにもあったが、芳の里を会長に祭り上げるとか、上手く取り込もうと
したが、芳の里は、もうプロレス団体経営に疲れて引退しようとしていた。
なにが哀しくて猪木の団体に力を貸すんだよ?という気だったろう。
それもあって、NWAは、芳の里は、もうプロモーターをやめる気でいる。
日本の加盟者は馬場だけだ、と判断したと思う。
猪木だって、今さら芳の里に頼ろうとは思わなかっただろうね
(いや、思ったかも知れないが)
前にも書いたが、ブラジルあたりを呼ぼうとしても、馬場の妨害が入っただろう。
まだタイトル(インター、同タッグ、UN)の方は「好きにしてくれ」と
言われたかも知れないが。 >>311
結局、新・日本プロレスになっても新日本と同じで
ゴッチ頼りのロートルや2流3流レスラーを別名義で招聘することになるのか
AWAや欧州のビッグネームをNETマネーで吉原から譲り受けるのか
前途は全日より多難だな…
そうなると一気に新・日本内で日本人対決を解禁して総当たりリーグ戦の開催
優勝者の猪木が全日本の馬場に挑戦を迫り、、、一緒じゃんww >>312
まぁ、別にNWA会員でなくても、NWA系大物レスラーを
呼べないこともないけれどね。
新日がNWAに加盟する前(75年夏)に、Gキニスキーを74年か75年の
ワールドリーグに招聘しようとしたが、馬場が妨害したかどうかは
分からんが流れてしまった。
でも、ブラジル、エリック、キニスキーは、もうこの頃は下り坂だよね。
猪木とも手が合わなかったし。
サンマルチノは、逆に新日とWWWFが提携しても来なかった(苦笑)。
新日、猪木が呼びたかったのはファンク兄弟、ブリスコ、レイス、マードック、
マスカラスといったところだろうが、これは馬場ががっちり抑えていたから
無理だったね。 芳の里は、NWA系のプロモーターを猪木に斡旋するくらいのことはするよ。 おカネくれればね。 しかし
「馬場をNETに出しても日テレは怒らないと
思っていた、日テレ中継継続に何の疑問も持たなかった」
「坂口が猪木と合流して抜けても、NETは日本プロレス中継を系ぞしてくれると思っていたれ
芳の里は、経営者としてどうかしてないか?
前者に関しては特に、これさえしなければ
日本プロレスは存続していたはずで、何を考えていたのかと思う >>313
思い出した!キニスキーの招聘話はあったね。
でも今になって考えると、新間は正式決定する前にフライングで発表したり
最初から呼べない大物なのに、馬場に妨害されたと全日のイメージダウンを狙った
戦略を仕掛けたりするから本当かどうかは分からないよ。
>>314
芳の里がメンバーだから、NWAのプロモーターに頼んでブッキングする事は可能
ただ全日がNWAに加盟したから、馬場の顔が利くレスラーにはストップがかかり
反主流派のロスやニューヨークみたいな新日時代と同じようなメンツになるよ。
上の人が書いてるように、WWWFマクマホンSr.と提携しても
「馬場の親友だから、金で猪木の所へは行かない」と言ったサンマルチノや
NWA王者時代のレイスも新日から誘われたが同じような理由、信頼関係で拒否する
レスラーもいたね。 >>313
>ブラジル、エリック、キニスキーは、もうこの頃は下り坂だよね。
猪木とも手が合わなかったし。
手が合わなかったという事はないんじゃないかな
・エリック 海外修業中の猪木のシングル王座初挑戦(エリックの独立第一戦)
・キニスキー 日プロでの猪木の初のシングルマッチのメインの相手(テレビ生中継付き)
・ブラジル 日プロでの猪木の初の東京大会場のシングルメインの相手
これらの試合はそれぞれ評価が高い 今日はブッチャーの日本初タイトル戦の日
いきなり馬場のインターへの挑戦というのも凄い >>318
新日本はストロングスタイルで全日本はショーマンスタイルとか
誹謗中傷して見下していたのに
その全日本からブッチャーを引き抜くんだからねw
まあ猪木じゃなくブレーンの新間がやってる事だろうけど… >>315
なぜ日本プロレスが崩壊したのか? 馬場はかつて示唆深く、こう発言している。
「力道山は太陽、太陽の周囲を周っている惑星仲間が豊登以下の我々だ。
力道山の死後、日本プロレスは仲間意識が旺盛でそれが組織を伸び伸びとした
和やかムードにしていた。しかし、やがてそれが当たり前になり、伸び伸びは
野放図に、和やかさは甘えに変わっていった。」
猪木が除名され看板エースが不在になった事で、NETから中継存続の条件として
馬場の登場を迫られたんだよね。
「どっちを取るか」と言われれば、日本テレビが正解だよね。 今だから、日テレが逃げたから、結局それが引き金になって崩壊したから、などで
それが正解と思うのは無理ないけど
でも当時ならNETをとるのもありだと思うよ。
額は上だったらしいし
自分が幹部でも、もうこうなったら日テレは面倒だ、NET一本でもいい、と考えそうだ。 てか馬場が反対してるのに、NET登場を強行するかね。
そんなことしたら、馬場の反発→日テレとの結託、は
容易に想像できるのに。
それに何といっても当時は、金曜8時の視聴率がダントツだった。
それをわざわざ逃すか。 力道山のワンマン体制から協議制になったはいいけど、揃いも揃ってダラ幹連中は
大スポンサーの付いた日本テレビへの恩義、契約書の重要性を何だと考えていたのかね。
後にマサ斎藤が「契約書なんて紙きれ」発言で物議を醸したけど、
自分は誰のおかげで今日あるのか、わかって反対したのが馬場だけとは… 「日テレが高視聴率の中継を切るわけない」とか
「力道山の貢献を考えたら切るわかない」という
思い込みがあったのだろうね でも馬場の道義や筋みたいなものもどうかと思う。
NETへは出ない約束を破った日プロに憤りを感じる、これはわかるよ。
こんなことしてていいいのかな、となる。
でも会社の方針なら仕方ないし、馬場が役員で反対したかもしれないが役員会で決まったことでしょ。
馬場本人がNTVに恩義を感じていてもだ、だったら退社というのはな……
いくらなんでもテレビ局よりも直接にファイトマネーを出していた会社に恩義を感じてしかるべきだと思う。
ちょっとまずい路線に来てるが、もうすこし我慢を、と思うんだよ。
まぁ欲がらみでたきつけた奴がいたんだろうけどさ。 >>325
そら話の順番が違う。
馬場は反対はしても、会社の指示に従いNETに出た。
この時点で退社の意思はない。
日テレはこれに怒り、日本プロレス中継を打ち切り。
日テレは同時に、馬場個人に「新団体を立ち上げるなら支援する」と打診。
馬場は迷ったが、ならばと日テレは猪木の新日本にもアプローチをかける。
この状況で、ついに馬場は独立を決意、という流れだよ。
ちなみにこのような状況になっても、まだ芳の里は「馬場の引き留めは可能」と
考えていて、坂口は失笑したという。 なるほど、筋がよくわかった。
馬場は日テレになかば追い詰められた形なんだね。
おまえがやらないのならば猪木に、と馬場を脅す(急かすかな)というのも
えげつないし、えぐいね、日テレ。
新日を放映するなんて気はあったのかどうかしらないが。 あわよくばBIの再合体⁉
日テレは心理戦で全方位に駆け引きを掛けたねw
日プロの幹部連中を排除して、猪木には新日を畳んで馬場と合流させ
新団体の旗揚げ、大株主になり経営権に口を出せるようにする。
何しろ新日は1億円規模の経営赤字だったから坂口がテレビ局を持ってこなかったら
潰れていた。
これに成功すれば、下降気味だった視聴率も再び上昇が見込めるからね。
まあ新日にアプローチしたのも馬場の独立を促すためのもので、
乗っ取りのダーティーイメージのついた赤字だらけの猪木を
本気で放送しようとは思ってないよ。 72年7月にNETが、あろうことこか日テレの放送時間だった金曜8時に日本プロレス中継を始めたんだよね。
日テレはこれで完全に頭にきて、馬場に「あんたどうするの?独立しないならウチは猪木にするよ」と
脅し?をかけたんじゃないかね。 新日本プロレスが坂口が来ないで潰れていたらどうなっただろうね
当時30前後の猪木の引退は考えにくい
全日本登場ははないだろう、なぜなら坂口が新日本に来ないという事は
全日本入団という事だからそうなると日本プロレスと同じメンツになるだけ
馬場が社長の日本プロレスで軍門に下るのも考えにくい。。 さっさとプロレスに見切りを付けてたと思う
倍賞の旦那だから食うのにも困らないし
逆に日本プロレス界の未来が暗いものになる 馬場の独立は日本テレビと猪木の結託を防ぐためというのが一番の理由だろうな
規模的には日本テレビの方が大きいわけだし 一連の話を見ていて、ふと思ったのだが、NETは会社としての日本プロレスを芸能プロダクション、プロレスラーを芸人として扱おうとしたのだろうか? >>331
プロレスラーに憧れ17歳で力道山にスカウトされ切磋琢磨、厳しいしごきに耐え
やっとトップレスラーになり、これからという時に汚名を着せられ追放…
出世欲も負けん気も強い猪木が負け犬のままプロレス界に
見切りをつけるなんて思えない。
テレビ局が付かず、借金まみれになり新日が倒産しても(その時は嫁に援助して
貰うかもだが)
どんな手を使っても成り上がるまで引退しないと思うよ。
>>334
独立して急激な衰えは感じなかったなぁ
大まかに区切るとして、海外修行時⇒全盛時(インター獲得から72年退団まで)
⇒円熟期(全日設立から85年最後のPWF転落)⇒晩年期(一線を退いてから)とすると、
確かに強さからキャリアを積んだ巧さの時期にかかっていたけどね。
むしろ日テレ最大の誤算は、娯楽の多様化とゴタゴタ続きだったプロレス人気の低迷
度重なる猪木新日の挑発やイメージ戦略に馬場全日が上手く対応できず、
人気の面で持って行かれたって事だと思うよ。 レスラー馬場はデビューアルバムがやたら名作で
馬鹿売れしたロックアーティストみたいなもんなんだよ。
二作目以降も良い作品は出しているけどデビュー作は越えられず。
才能や技術はあったから長く続けられたけど、というか。 馬場の衰えというか、馬場のライバル格の外人レスラー、キニスキーブラジル、サンマルチノ、デスト
エリック、ブルーザーらが衰えてたからね。
相乗的に な落ち込みはあった。 最初のNWA奪取の頃は七十年代型のブリスコの動きにも付いていけたよな
その白眉が最後のジャンピングネックブリーカーで 動けることは動けてたが
日プロ時代と比べて
チョップの迫力が全然なくなった >>337
往年のライバルの賞味期限というか、馬場が最後に見せ場を与えたのは
キニスキー⇒75年Cカーニバル優勝戦
ブルーザー⇒75年荒縄マッチになったPWF戦
ブラジル⇒75年NWAブリスコ戦(73年世界王座争奪戦が限界だった)
エリック⇒75年馬場とのテキサスデスマッチ
デストロイヤー⇒76年覆面世界一Sデストロイヤー戦(72年世界王座争奪戦が限界)
サンマルチノ⇒81年馬場との友情タッグ(75年ダブルタイトルが限界)
ジョナサンもクラッシャーも日プロ時代の勢いはなく、
76年頃からブッチャーがメインに廻っていった感じがする。 ブラジルとエリックは「やらせないほうがよかった十番勝負」もあった。
あやうくキニスキーもUN挑戦するところだったし。
鶴田とメインで対戦させるべきじゃなかったな。
なんか鶴田からはこの人達に対するリスペクトがあんまり感じられない。 >>340
この人たちと馬場が、質の高い試合をできてたのは、やはり1970年までかなあ。
ブッチャーは、豪華メンバーを揃えたオープン選手権で軸にしたのに「おお、そうくるか」と思ったし、翌年のカーニバル優勝でさらに「おー」となった。
このあたり馬場は思い切ったな。 なんか、馬場と全日の話題ばかりだから…
新日(新間)のやり方は大嫌いだったけど、レスラー猪木は魅力的で好きだった。
73年に坂口が合流してやっと軌道に乗り、外国人選手も段々と知名度のある
レスラーが来るようになるが、猪木と手の合いそうなモラレスが来日した76年は
異種格闘技路線が始まった年で、猪木のレスリングスタイルが徐々に変化していく頃
その頃までにファンクス・レイス・ブリスコ・マスカラス等との試合が見たかったな。
逆に全盛期のアンドレを全日でも見たかった。
分裂しなきゃ、全部見れたのにな… 猪木もプロレスラーとして本当に充実してたのは1975年のロビンソン戦までで、後はスタイルも変わって
淡白な試合ぶりになったという説もある。
シンでもパワーズでもクラップでも、引き上げていい試合をやってやる、というガツガツしたものは消えた。
馬場も本当にいいのは1970年頃まで。
シビアに言うとそうなるね。 >>308
AWAは縛りが無かったみたいだな。
って言うか、AWAがIWA構想の傘下に入ったんだっけw 国際の世界はむしろNWAに入れないという感じだったな
だからかテレビでの表記はIWAヘビーとかIWAタッグという感じになってた NWFって76年の後半あたりには
もう「世界」は付けてないんじゃなかったか? 1969年に創設されたIWAミッドヘビー級王座は
なぜか最初から「世界」が付いていなかった。 >>344
猪木は、異種格闘技戦を始めて、アリキック、延髄切りをプロレスの試合で使うようになってから試合内容が淡白になっていったと思う。
ロビンソン戦は、アリキック、延髄切りなしで試合を組み立てているので、今見ると新鮮に見える。 >>346
IWA王座が、PWFやNWFのように「世界」を外される要因はない。
テレビで、IWAヘビーとかIWAタッグと表記されたとしても、
ただ長くて画面に入りにくいからくらいの理由で端折られたんだろ。 >>347
NWFから完全に世界が外れたのは77年のハンセンの初挑戦の時だったとか >>334
ドリーファンクジュニアがNWA世界王者になったのを契機に、ファイトスタイルの主流がスピード&テクニックに移行したことで、馬場のファイトスタイルが古臭く見えてきたことも、日テレとしては誤算だったと思う。
加えて、馬場が理想のプロレスを見せると豪語して全日を旗揚げしたのに、馬場の一枚看板となった全日のリングは、予定調和丸出しで、視聴者を引き込みだての緊張感に欠けていたことも、日テレとしては誤算だったろうね。 >>351
完全ってどういう意味?
動画を見てる限りでは
76年9月のビリー・グラハム戦の実況の時点で
もうNWFに「世界」はついてないよ >>352
そういうこともあるけど、全日本はもし金曜8時の
時間帯に放送できてれば、もっと視聴率取れてたよ。
馬場猪木の抜けた日本プロレスのNET金曜8時枠でも、視聴率14%程度取れてたんだかは。 >>308 の訂正
新日本は75年新間と坂口がNWA加盟を承認されてるね。
条件は世界王座挑戦は認められず、全日はアンドレを招聘できない…ってw
しかし、ベルトから“世界”を外したのは76年8月シンとの防衛戦からとなってる。
おそらくアリとの対戦までは“世界”を名乗りたかったのかな? >76年8月シンとの防衛戦からとなってる
「から」じゃなくて「まで」だと思う 全日の最初期にこれまでの「手も合う」ライバル達と
決着を次々と付けてしまったのもまずかったかもしれないな、馬場は。
日プロの反則決着ばかりの桎梏(大袈裟か)を払拭したかったのかもしれないが
サンマルチノエリックブラジルキニスキーデスト、果てはドリーまでほぼ完全に勝ってしまう。
実質的な世界一みたいなもんだ。そりゃあ以後の展望が悪くなってくるよ。 >>354
確かに70年代の土曜8時っていうのはハンディキャップの大きな時間帯だったな。
4〜9月の日テレの土日午後8時は巨人戦と決まっていて、野球が中止にならない限り、プロレス中継は深夜枠に追いやられ、地方によっては放映されなかった。
10〜3月は、毎週定時に放映されるけど、裏にはドリフの全員集合や欽ドコが控えていた。
全日にとって不運だったのは、日テレが日本プロレス中継の後番組で始めた「太陽にほえろ」が萩原健一、松田優作等の新スターを生み出す人気長寿番組になってしまったこと。
放映開始当初、「太陽にほえろ」は1年程度の放映予定だったそうだから、73年4月に全日が金曜8時に引っ越していたら、NETのワールドプロレスリングと直接対決になっていたかもね。 >>357
いや、それはね。
もう日本プロレスでブラジルが大木に、キニスキーが坂口に負け、シークも坂口に負けたり。国際でもジョナサンが小林に負けたり、大物が値下げさせられた時期だからね。
馬場としてはもうカタをつけてくしかなかったですよ。これは。 >>359
PWFヘビー級王座38回防衛記録時、日プロ時代の主なライバルとの戦績
フォール、ギブアップ勝ち
対シーク(73年4月25日日大講堂)
対キニスキー(74年3月15日宮城県スポーツセンター)
対モラレス(74年6月13日東京体育館)
対エリック(74年12月14日日大講堂)
対ブラジル(75年3月11日愛知県体育館)
対ブルーザー(75年4月10日宮城県スポーツセンター)
対スピリット=コックス(76年12月7日九電記念体育館)
引き分け
対ドリー(74年1月30日東京体育館)⇔5分延長
対ブルーノ(75年5月9日日大講堂)
小林に負けたジョナサンは、挑戦者にもなっていない。 ジョナサン、73年1月に日大講堂で馬場と王座争奪戦をやって、負けてるのを知らないのかね 二代目ベルトに代わった74年での十四回防衛が一番凄い
しかもその内の二回はNWAとのダブルだし >>361
ジョナサンは争奪戦だからハズしたんだけど、決着はつけてたねw
猪木のNWF防衛戦で日プロが絡む選手はごく僅かだった。
ライバルじゃないけど、
対ラッド(74年3月21日クリーブランド=不可解なドロー)
(74年11月1日札幌中島スポーツセンター)
対コロフ(76年12月2日大阪府立体育館)
ライバル?でフォール、ギブアップ勝ち
対モラレス(78年7月24日広島県立体育館=内容で圧倒される)
(79年12月4日大阪府立体育館)
対マルコフ(78年11月1日愛知県体育館)
対ブリスコ(79年5月10日福岡スポーツセンター)
なんでブリスコは1度だけ新日に参戦したのかな? 争奪戦だけなのはスナイダーもそうだよな
オコーナーは力道山時代からの久しぶり
ブリスコについてはハンセンの著書においてフロリダと新日本の関係からで一度だけの約束と説明してたな >>360
その中でモラレスは日本プロレス時代、
馬場のライバルとも言えないなぁ。
1966年のワールドリーグに現役WWA世界王者として
一度だけ来日。公式戦でも馬場に負けている。
やはり、体格的、レスリングスタイル的に馬場向きではなく
猪木向きだった。
WWWF王者時代の1972年新春シリーズに日プロに特別参加が
噂され、猪木と対戦する予定だったんだな。 >>363
日プロ経験ありなら
テーズ、パターソン、ボルコフ、ダンカンとか
ループ(反則)、朴松男(リングアウト)以外はフォール、ギブアップ勝ちかな? >>362
その代わりに75年以降からの
防衛戦を行う頻度が落ちる
NWAを返したあとはテーマを見失ってる感じだ その年は最初にインタータッグを奪還し鶴田売り出しの比重も増している印象
もちろんNWA後の新展開も意識だろうが モラレスはベビーフェースだから猪木とも合わないよ。
実際かみ合わなかったし。
まあアリ戦以前の猪木とやれてたら多少は期待があるが。
それより1966年の馬場戦は、名勝負だったと言われている。
明石家さんまがこの来日時のモラレスを絶賛してる 66年の馬場モラレス戦って
栃木のどこかの学校の体育館でやったんだっけ?
インター王者とWWA世界王者の対戦なんだから
もっといい場所でやればいいのにw >モラレスはベビーフェースだから猪木とも合わないよ
それを言ったら、ドリー(少なくとも日本では)も、ブリスコも
ロビンソンも、マスカラスもベビーフェースだから、猪木とは合わなくなる(苦笑)
単純にベビーフェース対ヒールの闘いではなく、スピードとテクニック合戦も
プロレスの醍醐味だ。 モラレスは新日に4回来てるけど
4回ともくるタイミングが悪いんだよなw
ストーリーが作りにくい >>361
ジョナサンは日プロで馬場のインターにも挑戦してないよね(力道山には挑戦)
ワールドリーグの優勝戦では当たっているが…
全日ではヘーシンクの柔道ジャケットマッチで負け役と気の毒だった。
柔道ルールだから仕方ないが、試合後ヘーシンクはジョナサンを絶賛していた。
>>367
ホント、急にPWF防衛戦の頻度が落ちたね
74年から覆面10番勝負、75年インタータッグ奪還、76年から試練の10番勝負が始まって
興行の目玉が増えたからかなぁ >>371
いやドリーはNWA王者として、ある種の敵役もこなせるし、ロビンソンの場合はテクニックだけでも見せられるけど。
モラレスにそんな幅はないだろうよ。
猪木でいえばブリスコも79年の再戦はえらい淡白な試合だったし、日本プロレス時代のマスカラスとも
微妙な試合だった。
後、猪木ローデス戦も不発だったしね >>370
初来日のモラレスとなるとスナイダーとのコンビでアジアタッグ決定戦に出ているのも目に付く
両者ともこれが唯一のアジアタッグ戦だけに >>366
確かラッドの再戦は弓矢固めで2−1の勝利
モラレス初戦は逆かさ押さえ込み、2度目はバックドロップからフォール
マルコフは卍固め
コロフとブリスコはクイックだったと思う。
(新日は一本勝負の導入が早かった) >>376
それ以外の日プロ絡みのテーズ、パターソン、ボルコフ、ダンカンもフォール、ギブアップ勝ちだったな、ということ
テーズ、ダンカンはフォール勝ち、パターソンは卍固め、ボルコフは弓矢固めだった
(ボルコフが日プロ来たとき、もう猪木いなかったけど >>376
初めから狙ってたわけでもないだろうけど
猪木は1本勝負との相性が良かった
3本勝負全盛の東プロ頃から名勝負が多い ゴッチやアンドレなど、3本勝負でも1本渡してくれない相手。
小林、大木など、3本勝負に不向きな日本人対決。
やはり3本勝負が不向きなシン。
そして格闘技戦。
こうしたことの積み重ねで、「1本勝負の方が
緊張感、真剣味がある」という風潮に
なっていたね。
ただし猪木のプロレス名勝負は、やはり3本勝負をこなしていた時代に多く、1本勝負オンリーになると淡白感は否めなくはなった 猪木vsロビンソン戦はどうだろう?
3本勝負の1本目に、時間経過してからロビンソンが取ったから
残り時間が迫ってくるハラハラ感もあって感動の名勝負になったけど
1本勝負だったら、やはりフルタイムドローになるんだろうな〜
武道館に見栄を張ったからには劇的に勝って欲しかった >>380
あれは名コンセプトだったと思うけどね。
何故なら引き分けでありながら、まるで猪木が勝ったような印象て締めくくれたからね。
2本目を取った瞬間、アナウンサーが「猪木防衛成功!」とやったくらいだからね。 >>381
勝ったような印象より、負けないでくれた王座を守ってくれた感の方が強かったよ。
猪木が押されてた印象が強かったから…(個人的な印象だよ)
でも続きがある結末だったね
あの時期のドリー戦も続きが見たかったし、ウィリーとの続きも見たかった。 ただし最初を超える名勝負は無かっただろうな
猪木だけでなく新日本系は初対決を超える定番カードはあまり無いという意見があった
特に初対決がいきなり大一番の場合は 猪木ー小林
猪木ー長州は2回目の蔵前の方が好みだな てか猪木ロビンソンは2回目も引き分けだよなw
思い切って猪木が負け→奪回をやればいいけど、どうもそこまでロビンソンを信用しない気がする。
そう考えるとあの1回でよかった。 後、ロビンソン自体も猪木戦以降、急速に
コンディションを悪くするんだよね。
膝が悪い、身体も太るで。 ロビンソンは猪木とやった時点でダブルアームスープレックスも必殺技の説得力を無くしてたな プロレススーパースター列伝でやってた
猪木がNWA現王者ドリーと激闘名勝負をやりとげ
次期王者候補のブリスコを圧倒して
実力日本一と認識されつつあったってホントなの?
前者は名勝負として名高いけど >>389
列伝に実力日本一云々という模写はなかったと思うけど
71年ごろなら猪木の方が圧倒的に名勝負が多かった
この時期の馬場の名勝負って馬場ファンからも語られてるのを見たことがない 【1971年猪木の主な戦績】
〜UNヘビー級選手権〜
対Jトロス(3月26日ロス=王座獲得)
対ブラッシー(5月31日札幌) 対ブリスコ(8月5日愛知) 対エリック(9月6日札幌)
対マードック(12月4日宮城=防衛後、返上)
〜アジアタッグ選手権(パートナー吉村)〜
対Bドロモ&Rハンター(1月25日熊本) 対Mマスカラス&Dギルバート(2月20日大阪)
対ゴールドマン&ゴリアス(6月17日宮城)
対ドリー&マードック(12月1日宮城=引き分け防衛後、返上)
〜インタータッグ選手権(BIコンビ)〜
対ストンパー&ケンタッキアン(1月7日大阪) 対マスカラス&アリオン(3月2日蔵前)
対Iコロフ&Dサベージ(7月1日大阪) 対ザ・ファンクス(12月7日札幌=王座転落)
〜第13回ワールド大リーグ戦〜
対ブッチャー(4月5日浜松=反則勝ち) 対デストロイヤー(4月7日大阪=タイムアップ)
対コックス(5月4日長野=両リン) 対デストロイヤー(5月10日四日市=フォール勝ち)
対ブッチャー(5月14日高松=リングアウト勝ち) 対コックス(5月17日姫路=アバラ折り)
対デストロイヤー(5月19日大阪=決勝第1試合 両リン)
その他、対Mマスカラス(3月6日群馬)
マスカラス(14分19秒=ダイビングボディプレス)猪木
猪木(4分13秒=アバラ折り)マスカラス
猪木(5分3秒=リングアウト)マスカラス
馬場の71年インター防衛戦は >>119 馬場の日プロ時代の最後の名勝負は蔵前でキニスキーにコブラツイストを掛けて反則勝ちした一戦の印象 >>390
実力の猪木、人気の馬場っていいかたを少し変えたのが
「実力日本一」じゃないかしらん。
その背後に「実力世界一」のゴッチがチラ見える、というのもあるのかな。 >>389
その頃はまだ馬場に並んだと思われていた時期
小林・坂口・大木との日本人?大物対決を制し、馬場だけが無視し続けた頃には
実力日本一は猪木だと思われていたよ。
梶原原作の『ジャイアント台風』の頃は馬場時代
『スーパースター列伝』では全日を軽く扱っていたし、猪木の時代 >>391
1971年の猪木の戦績なら第2回NWAタッグリーグ争覇戦優勝も挙げないと。
11月1日、東京体育館
アントニオ猪木&坂口征二(2−0)キラー・コワルスキー&キラー・バディー・オースチン >>395
黄金コンビ誕生が抜けてたねw
あと、猪木がレスラーとして一番輝いていた74〜75年のNWF防衛戦は、
可哀想なくらいシンと対戦している。(もったいない) 【猪木NWF選手権】
1974年
対小林(3月19日蔵前) V1
対ラッド(3月21日クリーブランド) V2
対シン(6月20日蔵前)V3
対シン(6月26日大阪) V4
対パワーズ(7月30日名古屋) V5
対大木(10月10日蔵前)V6
対ラッド(11月1日札幌) V7
対小林(12月12日蔵前) V8
対アンドレ(12月15日サンパウロ)V9
シンの挑戦を拒否⇒タイトル返上
1975年
対シン(3月13日広島=王座決定戦で破れる)
対シン(3月20日蔵前=両リンでシンの防衛)
対シン(5月19日モントリオール=引き分けでシンの防衛)
対シン(6月26日蔵前=猪木が勝ち王座奪還)
対テーズ(10月9日蔵前) V1
対ロビンソン(12月11日蔵前)V2 74年にはゴッチとも二連戦しているがNWFじゃなく実力世界一決定戦としてやってるんだよな >399
そりゃゴッチに1回負けなきゃならんからね。
NWF戦1回勝負なら引き分けだろうが、
ゴッチが体力的に時間切れ引き分けは難しいだろうし >>372
モラレス最後の来日は5年半振りだったが。
放送されたのはマシーン戦のみ。
しかも双方共に何の脈略も無いカード。
軍団抜けてマスク脱ぐかと注目集まってたマシーン。
試合後に若松が乱入してマシーンと乱闘。
この時のモラレスの存在は空気状態。
モラレスもせめて過去に対戦した猪木や坂口、藤波あたりとカード組めば良かったのに。
モラレスは何の為に毎日したのかわからなかった。
同じく来日したバックランドもそうだったが。
84年新春のローデスといい大物の無意味な参戦と結果的に活かし切れず。
全日でもそういう事はあったけど。 【馬場PWF選手権】
1973年
対シーク(4月24日大阪)V1 対シーク(4月25日東京)V2 対ブッチャー(6月14日川崎)V3
対ブッチャー(7月26日東京)V4 対オコーナー(8月21日札幌)V5
対ドリー(9月8日福岡)V6 対レイス(9月13日日大)V7 対エリック(12月13日大阪)V8
1974年
対ブリスコ(1月23日長崎=NWA&PWF)V9 対レイス(1月27日東淀川)V10
対田中(1月29日郡山)V11 対ドリー(1月30日東京)V12 対キニスキー(3月15日宮城)V13
対ブッチャー(5月16日大阪)V14 対モラレス(6月13日東京)V15
対テリー(8月9日蔵前)V16 対ブッチャー(9月25日横浜)V17
対ブッチャー(10月5日日大)V18 対マリガン(11月7日沼津)V19
対ブリスコ(12月5日日大=NWA&PWF)V20 対マルコフ(12月12日川崎)V21
対エリック(12月15日日大)V22
1975年
対レイス(1月20日東京)V23 対ブルーザー(2月6日カンサス)V24
対ブラジル(3月11日愛知)V25 対ブルーザー(4月10日宮城)V26
対サンマルチノ(5月9日日大=WWWF&PWF)V27 対ベーカー(10月14日松山)V28
対マードック(11月5日大田区)V29 >>397
シンは74年6月に腕を折られた(事になってた)からでは?
腕を折られて2ヶ月後に来日するわけにもいかない。
で、6月以降は治療に専念。
翌75年に復習の鬼と化して久々に来日。
そこで猪木を倒してタイトル奪取。
確かに説得力ある流れだね。
しかしあの時代にシン抜きとは。
シン人気で大半の会場が超満員札止め状態だったのに。
でも腕折りで猪木とシンとの抗争は決着付いて終了という流れだったのかな?
新日側はそういう思惑はなくてもファンの気持ちとしては。
その74年にはアンドレやシークが新日初登場してんだよね。 【馬場PWF選手権】
1976年
対マクダニエル(3月8日日大)V30 対ロビンソン(7月24日蔵前)V31
対ブッチャー(10月24日寝屋川)V32 対スピリット(12月7日福岡)V33
1977年
対ラシク(3月20日グリーンズボロ)V34 対ロビンソン(9月7日小樽)V35
対大木(10月5日大阪=PWF&アジア)V36 対パテラ(10月24日盛岡)V37
対大木(10月30日黒磯)V38 >>403
猪木はシンに負けて取られたのではなく返上後の決定戦でシンが取ったという形なんだよな >>407
それはテレビ生中継の関係もあった。
馬場大木を中継に収めるための配慮。 >>400
ゴッチが猪木への挑戦者の形になるのを嫌ったかと思ってた >>405
列伝では
猪木「シンの腕を折ってやったけどやっぱりそんな事はしたくないから今後シンの挑戦は受けない」
新間「しかしNWFはシンは実力者だから受けろと言ってます」
猪木「あんなシンのカタを持つなら返上だ」
シン&NWF「イノキはシンが怖くて逃げた」
でまた猪木シンやったらシンが正統派レスリングやって猪木もファンも面食らった。
上手くできてるな、列伝 >>405
列伝では
猪木「シンの腕を折ってやったけどやっぱりそんな事はしたくないから今後シンの挑戦は受けない」
新間「しかしNWFはシンは実力者だから受けろと言ってます」
猪木「あんなシンのカタを持つなら返上だ」
シン&NWF「イノキはシンが怖くて逃げた」
でまた猪木シンやったらシンが正統派レスリングやって猪木もファンも面食らった。
上手くできてるな、列伝 >>409
神に祀り上げた師であるゴッチを、NWFの挑戦者にはできないだろうw
馬場や猪木に力道山が挑戦するようなもの 捻って叩きつけるような独特のブレーンバスターだったんだよな
とにかく鬼門の広島伝説の一つで >>413
その代わりが翌年のテーズ戦か
おそらくはインターでの馬場・テーズも意識してたんだろうが 実力世界一ベルトは、ゴッチベルトだから取り返したけどね(説得力ないかな?w) 【猪木NWF選手権】
1976年
対パワーズ(3月18日蔵前)V3 対シン(8月5日蔵前)V4
対パク・ソンナン(10月10日ソウル)V5 対コロフ(12月2日大阪)V6
1977年
対シン(2月10日武道館)V7 対パワーズ(3月31日蔵前)V8 対アンドレ(6月1日愛知)V9
対ハンセン(9月2日愛知)V10 対パターソン(12月1日大阪)V11
1978年
対シン(2月3日札幌)V12 対スーパースター(3月30日蔵前)V13
対バックランド(6月1日武道館=WWWF&NWF)V14 対モラレス(7月24日広島)V15
対シン(9月21日品川)V16 対マルコフ(11月1日愛知)V17
1979年
対ループ(1月12日川崎)V18 対シン(4月5日東京=ランバージャック)V19
対ボルコフ(4月17日アレンタウン)V20 対カネック(4月22日メキシコ)V21
対ブリスコ(5月10日福岡)V22 対シン(8月2日品川=没収試合)Vカウントされず
対シン(8月10日ロス)V23 対ハンセン(8月17日カルガリー)V24
対シン(10月4日蔵前=オイルマッチ没収試合)Vカウントされず
対ローデス(11月1日札幌)V25 対モラレス(12月4日大阪)V26
対ハッサン(12月17日MSG)V27 馬場がシングルタイトルマッチやらなかったシリーズ
73年ジャイアントシリーズ
74年チャンピオンカーニバル
サマーアクションシリーズ
75年ブラックパワーシリーズ
サマーアクションシリーズ
サマーアクションシリーズ第二弾
ジャイアントシリーズ第二弾
オープン選手権
76年新春ジャイアントシリーズ
チャンピオンカーニバル
NWAチャンピオンシリーズ
サマーアクションシリーズ第二弾
77年新春ジャイアントシリーズ
エキサイトシリーズ
チャンピオンカーニバル
サマーアクションシリーズ
世界オープンタッグ
78年チャンピオンカーニバル
エキサイトシリーズ
サマーアクションシリーズ
サマーアクションシリーズ第二弾
世界最強タッグ
75年以降、1年8シリーズで半分以上のシリーズで
シングルタイトル戦をやらなくなった馬場 >>413
猪木は藤波に挑戦(IWGP),
馬場は、川田&冬木のアジアタッグに挑戦したけれどね(with小橋) その前に馬場は鶴田・谷津の世界タッグにも挑戦してたな(with木村) 【猪木NWF選手権】
1980年
対ハンセン(2月8日東京=王座転落) 対ハンセン(4月3日蔵前=王座奪還)
対ハンセン(5月9日福岡)V1 対シャープ(8月9日シェアスタジアム)V2
対ハンセン(9月11日大阪)V3 対ハンセン(9月25日広島)V4 対パテラ(9月30日武道館)V5
対ホーガン(11月3日蔵前)V6 対ダンカン(12月29日MSG)V7
1981年
対パテラ(2月4日大阪)V8 対ハンセン(4月7日鹿児島=没収試合コミッション預かり)
対ハンセン(4月23日蔵前=王座決定戦で勝利⇒IWGPに向け王座返上) 猪木の防衛戦で79年12月MSGでのハッサン戦が全く記憶にない。
グレート・ハッサン・アラブって、アイアン・シークのこと? >>423
シークのことだよ
少し前までは動画があったけど
ストロングスタイルっぽい試合で日本向けの攻防だった
フィニッシュだけはアメプロだったが >>425
前年のMSGシリーズでは途中棄権の長州と並んで
最下位だったのにな。 コシロ・バジリで新日と全日に来日してたよね
新日が第1回ワールドリーグで、全日ではレイスやホフマンと一緒で
テレビでの中継はなかったような気がする。 80年代に入って一挙にパワーファイターばかりになってる >>428
この時期に、60年代後半の全盛期の馬場がいれば面白かったと思う。 昔、ドリキャスの全日本プロレスソフトで「全盛期馬場」ってのがいて
かなり強く、動きも早かった。
アッポーとか、
ブッチャーに地獄突き入れられていつまでもなかなか起きない馬場、
せいぜいハンセン戦の初戦くらいしか知らなかった自分にはかなり新鮮に思えた。
その後YOUTUBEや若き猪木が父親に戯れてるようにしかみえない力に満ち溢れているような馬場の写真を見ると確かに全盛期の馬場が80,90,2000年代のトップレスラーをどうあしらって料理したか想像するのはとても愉快。
大谷「翔平」が大リーグで
マンガみたく投げ抑えたり、ホームラン連発してるの見たときは
馬場「正平」はあの時代にこうだったのか?と思ったりもしたりね。 >>430
全盛期の馬場と、超獣コンビ・人間魚雷コンビ・ウォーリアーズ・ベイダー等の対決‼
筋肉パンパンの馬場が32文で飛びまくるだろうなw 79、80年から猪木のNWFはシンからハンセンが常連の相手に。
80年にはハンセンもタイトル奪取。
そこからNWFは完全に猪木とハンセンの戦いが中心になった。
シンとはUWAのタイトルを巡る戦いに変わり。
新日からしたらシンもまだまだ必要。
だからシンも重宝されてた。
NWF=ハンセン
UWA=シン
ま、UWAはこの時代の新日には便利なタイトルだったね。
結果的に猪木とシンの戦いに一役買ったし。
また猪木が二冠という肩書きで箔も付いた。
1年の貸出しだったらしいけど。
1年経ったらしっかりとカネックに返したし。 NWFとUWAの二冠で売ってたら、突然IWGP構想を発表し、実質6年間シングルタイトル戦なしと、
極端な猪木 UWAのベルトは、安っぽく立体感のない感じで嫌だったな〜
その後の“呪われたIWGP” (大物プロモーターの死、暴動、タイガー離脱、クーデター等)
そもそも、乱立したタイトルを統合するを掲げていたのに
予選の最中、82年に藤波がWWFインター王座を獲得しているw
その予選も、世界各国で行いMSGで決勝戦の目論みがあったのに
各地域のプロモーターの協力は得られず、日本各地を巡業する従来型で
メンバーも興行スタイルもMSGシリーズと何ら変わらない。
ブッチャーを引き抜いた81年。 夏までに開催していればハンセンもいて
アンドレ・ホーガン・ボックと揃い、伝説の大会になったと思う。
時期はズレるが、全日の三冠ヘビー級王座の方が
国内の主要ベルト(インター・UN・PWF)を統一した感はある。
考えてみると、馬場が豪華外国人レスラーを独占したから
猪木の大物日本人対決や異種格闘技戦が始まったようなもので、
NWAにやっと加盟(1975年)したのに、挑戦すら出来ないから
IWGP構想が生まれた感じがする。 IWGPも当初の坂口案通りに、ロープ越しのブレーンバスターをかわして
逆さ押さえ込みか卍決着にしていれば、猪木優勝でタイトル化(IWGPタッグのように)
初代王者になり2回目以降のリーグ戦開催は無かったんじゃないの?
猪木のアレで、シナリオ描き直した気がするんだけどな…
いっそホーガンを初代優勝者じゃなく初代王者にした方が潔かった。 猪木のアレはマイナスの大団円だからな〜。
アレに整合性をつけようとあれこれやったあげく
IWGPはただのタイトルになってしまったし大会はどんどんしょぼくなった。 >>435
あそこでホーガンに勝っておけば、「翌年WWF王者になる男に勝った」猪木は真の世界一だ、という
説得力が出たね。
ところがホーガンに負けてしまい。翌年WWF王者になった彼にはもうフォール勝ちができなくなり、
「前年の仇を取れない猪木」になってしまった。
結果
ホーガンにリベンジできない猪木
ブロディにフォール勝ちできない猪木
前田と対戦しない猪木
と続き、猪木の限界ムードを高めてしまったね IWGPの時期に起きたクーデターも、日プロクーデター未遂に次いで興味深いなぁ
クツワダや梶原&トルコの新団体計画とか、、、
スキャンダラスで、人間関係や思惑が浮き彫りになる様は面白い。 鶴田試練の十番勝負も、第9戦の大木戦から1年半も空いたのは
例のクツワダ事件の影響を受けてのものなのか何なのか謎だな
対戦相手も若手のCテーラー、峠の過ぎたBブラジルのどこが試練なのか?
ドリー・ホッジやガニア国際ルートでバションなんかの方がよかった。 >>439
若手のCテーラーは、アマレス時代では、それこそ雲の上の
存在だったので、プロレスでは、それが逆転したことを
示したかったのだろう。
ホッジとは74年に確か、シングルで戦っている。彼も、さすがに
全日に来た頃は衰えていたから、78,9年にやるとしたら、ブラジル、
エリックと変わらないね。
鶴田試練の十番勝負も藤波飛龍十番勝負も、その途中で
ヘビー級王者になったからね。(UN,WWFインター)
王者が試練と言うのをオカシイし、
防衛戦もやらなくてはイケないし。 世界王座争奪十番勝負、覆面十番勝負が当たったから始まったんだろうが
名だたるレジェンド達の間合いの取り方やスタミナ配分、試合の魅せ方など
若いうちから鶴田は吸収したんだろうね〜
もっと早くに馬場がエースを譲っても、鶴田はこなせたと思うけどな。 >>439
マスカラス戦は十番勝負にしても良かった。
後は意外にめぼしい対戦相手がいない。 >>443 さんの言うとおり、田コロのマスカラス戦を入れればよかったね。 10番の最後は相応しい相手がいないなあ、だれがいいだろなあ
もう出尽くしたなあ、猪木やテーズは無理だしなあ〜
と思案、躊躇しているうちにみんな忘れてしまったんだろうな。
忘れた頃にふと思い出して。次のシリーズに、あ、エリックが来る、なら済ませよう、
って感じなんだろうな。
後付けも後付けなのだが、同シリーズにはブロディが初来日してる。
これで10番を〆ていたなら素晴らしい慧眼かつ大河的でよろしかったが。 >NWA王者テリー ファンク、WWWF王者ブルーノ サンマルチノ、AWA王者ニック ボック ウィンクルの当時の3大世界王者を筆頭に、ルー テーズ、バーン ガニア、ドリー ファンクJr.、ビル ロビンソン、アブドーラ ザ ブッチャー、ハーリー レイス、ディック ザ ブルーザー、アンドレ ザ ジャイアント、ザ シーク、大木金太郎、ラッシャー木村、そしてなんとアントニオ猪木。
これが十番勝負の候補だった。
サンマルチノ、ニック、ドリー、ブルーザー、シークに猪木、アンドレ、テーズが未対戦。
ドリーとはやれたはずだし、ニックもやれるタイミングはあった。シークはやる意味なし。
ブルーザー、サンマルチノもいい試合は難しかろう 天龍の10番勝負も企画されてたって雑誌書いてあった。
83年頃に。
結局は実施されなかったが。
もしあれば対戦相手は当時のトップどころ。
馬場 鶴田 ハンセン ブロディ シン ドリー スレーター デビアス リッキー マスカラス
こんな感じか。 >>445
最初のゴールデンタイムの内になんとか終わらせたという感じも Vガニア戦の前年、オープン選手権が既に試練になっているんだけどねw
vsマードック(時間切れ)、vsホフマン(フォール勝ち)、vs井上(時間切れ)
vsマツダ(時間切れ)、vs木村(両リン)、vs馬場(フォール負け)
vsブッチャー(反則負け)、vsジュニア(時間切れ)
この時キャリア2年程で素晴らしい戦績だと思ったけど
これが何年も続き“善戦マン”のレッテルが… 善戦マンと言われても馬場ブックに従ってるだけなので、本人はどうしていいか困惑したでしょう >>450
それを言っちゃあおしまいだよw
でも鶴田にリアルな気迫や猪木のようなパフォーマンスができたら
間違いなくBIを越えてたろうな 鶴田は身体能力は図体と比べたら抜群ではあるが
プロレス頭は新弟子以下だし
役者としては大根 鶴田がBIの上、はちょっとあり得ない。
高野が小橋くらい練習する、とか
ラッシャーが大仁田くらいえげつなくなる、とか
バーンガニアの髪がふさふさになる、くらいにありえない。 >>373
柔道マッチで勝ったヘーシンクが「オリンピックや世界選手権で戦ったどの選手より
強かった」とジョナサンを絶賛するなんて、体幹やバランスの事だと思うけど
ジョナサンが本気を出したらどんだけ強いんだよ・・ >>453
あと
星野勘太郎の身長が190cmになるとか。 鶴田がUN王者になった時点で十番勝負の意義はなくなった。 折り返しを前にUN王者になってるからブラジル・テイラー・エリック抜きの
7番勝負でもよかったかな 二代目タイガーみたいに立て続けにやるのもどうかだけど、鶴田や藤波みたいにのんびり消費するのもな もう少し早い時期にやってれば。
たとえば1974年なら
馬場
デストロイヤー
ドリー
テリー
ブリスコ
キニスキー
モラレス
ホッジ
ブッチャー
マードック
このあたりで一気にまとめられたね >>460
そのメンバーならいつでも対戦できたが、
やはり、ガニアとR木村が入ったのは大きかったよ。 鶴田対デストロイヤーというのは何回かあったはずだけど
特に面白そうな話は聞いたことがないね
力道山、豊登、馬場、猪木と対戦してきた選手だけに
何らかのストーリーを作っても良かったのに >>462
ガニアとは十番勝負でなくてもスペシャルシングルマッチをやればいいのでは。
そして日大講堂では馬場のPWF王座にガニアを
挑戦させないと。
なんて当時思ったな。 >>463
デストはまだ強かったけど、ベビーフェイスになってたからなぁ〜
『うわさのチャンネル』出てから凄みがなくなったよ >>464
おれもそう思ったよ。
10番の最初をガニアというのは重大さがあってよいのだけど、
引き分けはちょっと甘かったかな〜。
それよりも馬場戦をなんでやらないの? って感じが強かった。
馬場なら引き分けで納得できたと思うが。
のちにAWA戦でやったときは馬場もガニアも等しく年を経ていたわけで逆の「時期尚早」だった。 馬場としてガニアは自分は向きでないという考えもあったかな
それでもタッグで一度やってるんだよな
それぞれデストロイヤーにワフーと組むというなかなかに豪華なカード
ノーテレビだったので五年後の記念試合が初対決だと思ってる人も多いみたいだが 馬場から見れば
ガニアは「対戦していない大物外人」の最後の一人だったのにね
ハンセンやアンドレでは世代が違う そもそもガニアが日本でタッグマッチをやったのは全日本だけなんだよな
国際での試合は全てシングルだったというのも驚かされる
あのテーズも力道山時代はシングルか六人タッグだけで普通のタッグマッチはようやくその後 ビルロビンソンの全日初登場の時に、ワンマッチの特別参加にして鶴田の十番勝負を組めば、インパクト大きかったと思うけどな。 75年にロビンソンを新日にブッキングしたのも、その年国際と提携解消したガニア
(当初はゴッチ経由だと思っていた)
次回来日のギャラを巡って新日と決裂し、NWA主流派の全日へ来日する訳だけど
続けざまにAWAの“大ボス”ガニアとロビンソンの参戦は新鮮で興味深かった
ガニアは国際、新日、全日と見比べていたんだろうね 未来の有望株ばかりで十番勝負ができるーー
Bバックランド、BオートンJr.、Sハンセン、Tデビアス、Dスレーター
Kパテラ、Mジョージ、Eウイスコスキー、Sカーン、Mグラハム
中堅ロートルからも学んで欲しいーー
Dサベージ、KVスタイガー、Gスチール、Bシクルナ、Dデヌーチ
Rジョーンズ、Bブラウン、Bラモス、Tタイラー、Sアリオン >>470
ロビンソンの初来日時の蔵前を鶴田十番勝負にしてもよかったかもしれん。
馬場戦は次回次々回まで引っ張る、と。
ただ同じく蔵前のテリー戦がかなりの不入りで
鶴田メインじゃやっぱりだめだとなって馬場が出陣したのかもしれない。 小倉は館内の温度が高くて、いいコンディションで試合がてきなかったからなあ。
蔵前の鶴田ロビンソンならもっと好勝負になったかも。 試合とは関係なく、個人的なイメージだけの問題なんだけど
全日初登場のアマレススタイルが違和感あって嫌だったw
猪木戦の黒がスリムに見えるが、他の色でもショートタイツの方がよかった。
(76年コマネチのモントリオール五輪はわかるが…) アマレススタイルで出てくると、当時の感覚ではアマ=プロより弱い、という感じはあったね。 >>476
普通のスポーツ感覚で言うとアマチュアからプロ入りするから
職業にするプロの方が上のような気になるよね。
ところがプロレスとアマレスは基礎練習に共通点はあっても全くの別物
アマレス出身者を八田一朗氏がバックアップしたもんだから
誤解されるところもあったかな?
もしアマレスの延長がプロレスなら谷津や多聞はエースになってる。 馬場の世界王座争奪⇒サンマルチノ(ダブルフォール)
鶴田の試練の十番⇒ガニア(両者ノックアウト)
デストの覆面十番⇒マスカラス(アクシデントによる試合放棄)
藤波の飛龍十番⇒バックランド(小鉄の高速カウント)
初戦は何かと不透明な試合が多いが、ケチがついたのは7戦で終わった藤波だな。 http://tokyosightseeingguide.web.fc2.com/image1448.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/verdigris28/imgs/3/8/38e8fad1.jpg
1960年9月30日台東体育館(観衆6,000人)
日本ライトヘビー級王座決定予選 10分1本勝負
吉原(8分4秒 首固め)林
トルコ(1分51秒 逆エビ固め)平井
珍(6分10秒 片エビ固め)田中
大坪(4分53秒 腕固め)竹下
日本ライトヘビー級王座決定準決勝 15分1本勝負
吉原(両者リングアウト⇒抽選)トルコ
大坪(5分29秒 エビ固め)珍
新人戦 10分1本勝負〜馬場・猪木デビュー戦
大木(7分6秒 腕固め)猪木
馬場(5分15秒 股裂き)田中米
タッグマッチ 45分3本勝負
豊登・吉村(2−0)ジャクソン・ミチュール
オールアジアヘビー級選手権 61分3本勝負
力道山(1−1)リッキー・ワルドー
この日からBIの大河ドラマが始まるわけです。 >>480
デビュー戦がセミ前って、どんだけ期待されてたんだっていう 日本マット史上最強のBI砲って言われるけど、猪木が東京プロレスから復帰した時
秘めたる思いはあっても出戻りだから馬場をアシストして大人しくしていたから
あの絶妙のコンビネーションが生まれたんだと思う。
なまじ海外で自信をつけ武者修行からそのまま日プロに凱旋帰国していたら
16連敗のままの馬場に牙を剥いた気もする。
会社の方針は二枚看板でしばらく行く気でも、後の長州のように
「馬場さん!俺はあんたのかませ犬じゃないんだから挑戦を受けて下さい」とか
言い出しかねない…かな? 馬場 猪木デビュー60年か。
丁度今日より30年前のこの日に両者のデビュー30周年記念大会があった。
俺は横浜アリーナ行ったが。
できれば後楽園ホールも行きたかった。
でも同日デビューだから仕方ない。
両者のデビューの時、シンは16歳、浜口は13歳、ベイダーは4歳。
※ベイダー公式1956年生を基準。
またブッチャーは24歳、アンドレは14歳、ハンセンは11歳と。
※ブッチャー公式1936年生を基準。
当時は友人達と色々話した。
本当に懐かしい。
デビュー60周年で30年前は半分の30周年。
30年前にデビューして今『デビュー30周年』なんて騒がれるレスラーは皆無。
そんだけ馬場 猪木は偉大だった。
今のプロレスとは次元が違うから比較なんかできるわきゃないわな。 >>483
結局そうなったじゃないかよ。
東京プロレスでも馬場に挑戦したし、
71年にも挑戦してるし。
むしろ日本プロレスに素直に帰国してたら、何年後かにはエースに据えてもらってたかもしれない。 >>480
猪木の相手には
当時若手で一番強かった大木を当てて
馬場の相手には若手の誰でも勝てる
田中米太郎を当てているのが
その後の育成方針をしめしている
猪木は「年齢や体力を考えたら相手は逆だろう?」
と思ったらしい >>485
そうなんだけど、68年4月にコミッショナー川島正次郎のバックアップで
日プロに復帰してからの暫くの間は出戻りの禊期間として自らを戒め
あれだけ嫌った肥やし役を馬場の側面から全面サポートしたから
今日まで語られる最強のBIコンビが誕生したってこと。
猪木が1本ずつ取って取られ、3本目に馬場がオイシイところを決めるパターンが
マッチメーカー吉村の基本ストーリーだったからね。
東京プロレスが無く禊もなかったら、あのコンビが誕生していたかもわからないし
組んでもバラバラで、鉄壁のコンビネーションプレーも無かったかもしれない。 いや東京プロレスがなかったら、
元々仲が悪くもなかったわけだし、同期の友情コンビで
やれてたよ。 そもそも「鉄壁のコンビネーション」でもなかったし、そんなに熱心に肥やし役をやってたわけでもなかった。
69年のインタータッグ、スナイダーホッジ、ブルーザークラッシャー。どれも最終戦は3本目は
猪木が卍固めでピンを取ってる。
BIは猪木は脇役、というのは嘘で、実際は
「馬場はインターシングルがあるんだから、タッグは俺を主役に」と言わんばかりの試合が多かったよ ちなみに馬場猪木のインタータッグ戦
3本目にフィニッシュを取った回数を数えたら
馬場 14回
猪木 16回
やっばり猪木の方が多いじゃないのww >>488
同期の友情コンビが豊登の口車(「今の日本プロレスは馬場を中心に廻っているから
お前の居場所はなく、噛ませ犬にされるだけ。こっちに来ればお前はエースで
社長にもしてやる」)に、簡単に乗るかな〜
やはり同期なのに力道山の対応の違いや、いつも自分の前を行く馬場に対しての
激しい嫉妬心はあったと思う。(「そんな事は知ってるよ」と言われそうだけど…w)
インタータッグの3本目は猪木の方が多いのは知らなかった。(これは失礼しました)
自分が観た印象では、猪木が躍動感一杯に試合を引っ掻き回し、ここぞで馬場の重厚な
必殺技で仕留めるイメージがあったもんだから、記録を見せられたら意外だった。 猪木が3本目フィニッシュでない場合も、
サンマルチノやエリック、ブラジル、デストロイヤー、スナイダーと、インターシングル挑戦の超大物とフォールを取り合ってるから、全然サポート役という感じではなかったよ。 BI砲のインタータッグの名勝負でよく紹介されるのは
スナイダー&ホッジ、ブルクラから奪回した試合、マスカラス&アリオン。
皆、3本目、猪木が卍固めを決めている写真だね。
逆に、インタータッグを取られた試合、上記の前2者+ファンクス戦では
馬場が決勝フォールを取られている。 猪木が直接第8回ワールドリーグに参加してたら、
本人の不満があろうとなかろうと、明確に馬場に次ぐ二番手にランクされたのは確実。
東京プロレスに行ってエースになって戻ってきたから、エース経験者としての扱いをせねばならず、
ダブルエース的な扱いになり、「インタータッグでは主役」、シングルでも「インター挑戦者にはシングル勝たないが、極力フォール負けもしない」というような配慮を受けたと思う。 力道山が何故か8ヶ月も寝かせたBI対決
1961年
5月25日 富山市体育館
馬場正平(10分00秒 フルネルソン)猪木寛至
5月27日 岐阜市民センター
馬場正平(5分30秒 逆エビ固め)猪木寛至
6月10日 徳島市体育館
馬場正平(9分50秒 エビ固め)猪木寛至
6月16日 八幡市黒崎安用体育館
馬場正平(8分5秒 エビ固め)猪木寛至
6月20日 別府市市民温泉プール
馬場正平(9分19秒 エビ固め)猪木寛至
6月28日 大阪府立体育館
馬場正平(11分17秒 エビ固め)猪木寛至 1963年
4月25日 豊岡市総合グラウンド
ジャイアント馬場(12分3秒 体固め)アントニオ猪木
7月19日 リキ・スポーツパレス
ジャイアント馬場(17分21秒 体固め)アントニオ猪木
7月28日 静岡三島大社境内
ジャイアント馬場(2−1)アントニオ猪木
馬場(12分6秒 体固め)
猪木(2分18秒 体固め
馬場(2分48秒 体固め)
8月3日 大阪府岸和田市港市場
ジャイアント馬場(2−1)アントニオ猪木
馬場(10分27秒 体固め)
猪木(5分15秒 体固め)
馬場(1分22秒 体固め)
8月9日 足立区体育館
ジャイアント馬場(10分26秒 体固め)アントニオ猪木
8月16日 リキ・スポーツパレス
ジャイアント馬場(2−0)アントニオ猪木
馬場(11分45秒 体固め)
馬場(4分8秒 体固め)
9月4日 愛知県刈谷市営球場
ジャイアント馬場(2−1)アントニオ猪木
馬場(12分6秒 体固め)
猪木(2分18秒 体固め)
馬場(2分48秒 体固め)
9月23日 秋田県大曲市営競技場
ジャイアント馬場(14分5秒 体固め)アントニオ猪木
9月28日 福島県営球場
ジャイアント馬場(11分55秒 体固め)アントニオ猪木
10月22日 栃木県足利市月見ヶ岡体育館
ジャイアント馬場(12分00秒 体固め)アントニオ猪木 インタータッグのフィニッシュにも顕著なように
「馬場も猪木も顔を立たせる」ブックの連続になって、かといって馬場と猪木は戦わない。
ということで日本プロレスのマッチメイクは硬直化していったね。 何度もでる話だろうが、もし力道山が生きていたら
馬場と猪木をどうするつもりだったんだろう。
もちろん後継者にするのはわかるが、観客動員力や人気を見極めてから対決させ
それに沿って勝敗のシナリオを描くんだろうな・・?
自らの引退後は馬場を、70年代は猪木をエースにするのは想像できるけど、
同じく競わせた大木の処遇も考えるだろうし…
まぁ16回も対戦させてるんだからダラ幹みたいにやらせないって事はないと思うが
その手本を見せてくれなかったから
後の世代交代がスムーズに行われなかったことになるんだよな。 力道山がいつまで現役をやる気だったかによるな。
1965年あたりでサッサと引退するなら
馬場をエースに立てるだろうけど、
1969年、45歳あたりまでトップで粘るなら、
その後は一気に猪木をエースに持って行くかもしれんし。
本人の体力及びプロレスへの執着心の問題だな。
実業が大成功して、プロレスは二の次になってたかもしれんし そのかわり一本取られるのも猪木の役割になってない? >>500
インタータッグBI砲
馬場がフォール取った回数 23回
馬場がフォール取られた回数 15回
猪木がフォール取った回数 26回
猪木がフォール取られた回数 12回
フォールを取った回数は猪木が多く
フォールを取られた回数は馬場が多い。
BIは猪木が脇役、は完全に印象間違い 馬場は
「吉村さんや坂口とのタッグは良かった」と回想する割に
暗にBI砲のことを振り返りたがらないのは
猪木に対してプレッシャーを受けてたからなんだろうな 記録を見るとBI砲のイメージが変わってくるねw
確かに70年頃から馬場の力の衰えは顕著だが、この頃はまだ人気の面では馬場だった。
71年になると猪木がUNを奪取して「同じ団体に二人のチャンピオンがいるのは
おかしい。UN王者とインター王者のどちらが強いか戦いたい」発言
時期尚早判断になるが坂口とのコンビでNWAタッグリーグも連覇
人気女優との1億円挙式で人気実力の面でも馬場に並んだ感じがする。
この71年が、両雄というか日本プロレス界の分岐点になるんだね…
72年に袂を分かってからは、猪木の目の敵のような激しい口撃が始まる訳だが
全盛期にズレがあるんだから、この時期に戦えばどうなるかは
ファンとしては大体想像できる。(74〜75年頃迄はドロー、それ以降は猪木かな?)
当時の日プロの若手、高千穂・戸口・安達は揃って馬場有利
日プロ経理部長の三澤正和氏は、ナチュラルには馬場が強いと発言
ユセフトルコに至っては84年時点で馬場が勝つと著書に書いてあるw
(トルコは猪木についたり馬場についたりしたから、何とも…) >猪木がUNを奪取して「同じ団体に二人のチャンピオンがいるのは
>おかしい。UN王者とインター王者のどちらが強いか戦いたい」発言
おかしいっちゃおかしいけど
だったらUN王座挑戦とかすんなよ、結果わかんなかったのかよ、ってツッコミしてみる。 >「同じ団体に二人のチャンピオンがいるのはおかしい」
おい!おい!オールアジアチャピオンの大木の立場はどうなんるんだよ!?(苦笑) 69年ワールドリーグ以降、猪木と馬場の格の調整は大変で。なんとか同格の印象を持たせようとシングルの
UN王者も与えたが、今度は「チャンピオンが2人いるのはおかしい。雌雄を決しよう」と言い出されるのだから、幹部にとっては本当に厄介な存在だったね、猪木は 馬場と猪木のライバル関係だけじゃなく、UN王座を目玉にするNETが絡んできたから
そこのエース猪木が主張するのは当然の流れではあるよな。 ほんと、>>508 さんの言うとおり大木の立場は?だねw
その二人がいなくなって、棚ボタだが日プロのエースの座が転がり込んで
力道山所縁のインター王者にもなれたんだから
新日本との新会社なんて嫌がる気持ちもわかる。 大木は末期国際でも
ラッシャー木村の後釜で棚ぼたエースしてなかった? >>511
508のいいたいことは、大木は無視だよな? やっぱりな〜
というものだと思うが、大木も持ち上げ方ひとつじゃなかったかと思わないでもない。
新会社でインター王者かつワールドリーグ優勝、の絶対王者を
1年くらいやらせれば本人満足してあとは猪木坂口に道を譲ってくれる……となるかもしれず >>513
“バカとハサミは使いよう”って事で納得したかな?
力道山襲名を反故された事を根に持っていそうな気もする。 >>511 >>513
大木は、観客動員数や視聴率で馬場、猪木と遜色ないと思い込んでいたのが痛すぎる。
韓国では大人気で、どこに行っても会場は満員だから勘違いしたのだろうが、アンタが日本プロレスのエースじゃ客は呼べないと、大木を諫める人はいなかったのだろうか。 >>512
大木は80年国際時代の4大タイトルマッチで対戦した
ニックとのAWA世界戦を自分のベストバウトに挙げていた
原爆頭突きにキーロック、たまに足4の字やブレーンバスターを繰り出すくらいで
特に石頭への鉄柱攻撃やイス攻撃を喰らってもケロッとしている場面は
会場を大いに沸かせていたなぁ >>516
ニックボックウィンクルとのAWA世界戦も面白かったけど、74年の猪木とのNWF世界戦も面白かったな。
ニックと猪木それぞれの対大木戦を見比べると、ニックも猪木も大木の頭突きを受けて立つスタイルなんだけど、受け方と試合の終わらせ方にそれぞれの個性の違いが表れているのが興味深いね。
70年代後半〜80年代前半に、猪木とニックのシングルマッチが実現していたら名勝負になっていたと思う。
ニックと猪木の対大木戦に比べると、馬場の対大木戦は味気なくてつまらなかったな。 >>517
大木が73年に全日を離脱して、インター王者としてPWF王者馬場とNWF王者猪木に
挑戦状を出したけど、馬場への挑戦は日テレとの契約が残っていたから
すぐに引っ込めたんだよね
猪木との一戦は、背景とか含めても個人的には大木のベストバウトだと思ってる。
1年後の馬場戦は、試合の数日前に大木のお母さんが亡くなり葬儀の準備とかで
精神的に参っていたし、馬場も大一番を横取りされたブッチャーの執拗な攻撃で
頭部を負傷してコンディションはよくなかった。
両試合とも大木の頭突き対バックドロップ&ランニングネックブリーカー1発での決着で
味気ない内容なんだけど、表情の作り方や試合後に見せた涙の抱擁シーン
全て猪木の方が馬場を上回った気がした。
この頃に猪木vsニック戦があったら
対テーズ戦・対ロビンソン戦を足して2で割ったような試合じゃなかったかな? 大木のアジアヘビー王座は個人的な名誉タイトルといった感じだったからな
むしろアジアタッグの方が実働王座といった感じでそれを返上した時点で大木の日プロでの立場は完全に名誉的な物となった
後にはインターとインタータッグでもそうなったが 極東ヘビー級王座はなんで止めてしまったのかな
日本で1回だけ防衛戦をやってたのに やはり力道山も持っていたベルトというのが大きかったか >>520
極東ヘビー級王座なんか雑誌で見た記憶があるくらいで全く忘れていたよ。
調べてみたら、大木が力道山の死後に正当な後継者は半島生まれの自分だから
インター王座に挑戦資格があるとか言い出して
代替案を提示したのが極東王座で、韓国で芳の里と決定戦を行い
大木が初代王者になってるね
しかしマイナーな挑戦者やその価値に疑問を感じてwいつの間にか消滅状態に…
BIが日プロ離脱するまではアジアヘビーと言えば大木金太郎だったが
インターを獲得して格の落ちるアジアを封印したんだね。
でもアジア王座こそは、シングルもタッグも師匠力道山が選手権大会を開催して
創設した日本プロレス界で一番古く、由緒ある王座なのにね 力道山もインターを奪取した後は扱いに困った感じでしたね
かといって豊登に譲るというのもしなかったしで最後の防衛戦も死去の二年近く前
そしていつのまにかアジア王座はタッグが主流に 大木は、日本プロレス社長だった豊登から、NWA世界王座かそれに匹敵する王座を獲得したら力道山の襲名を認めるという約束を取り付け、67年に韓国でのWWA世界王座に挑戦した。
そして、世界王座を奪取し、短期間ではあるが世界王者となった。
大木は、この実績を楯に、日プロ首脳部に力道山襲名を求めたが、襲名を約束した豊登は退職し、王座も失っていたことから、力道山襲名は認められなかった。
力道山襲名がかなわず失意の大木が、坂口征二の日プロ入りで序列が下げられるのではとの疑念にも囚われていたところ、TBSプロレスを旗揚げしたG東郷から大木に、エースとして迎えるとの誘いがかかった。
大木は日プロに辞表を出し、TV生中継でTWWA世界戦が行われていたTBSプロレスの会場に足を運んだが、後援者(東声会の町井氏とも言われる)に止められTBSプロレス入りを断念した。
(その後、大木を誘った東郷を、ユセフトルコと松岡厳鉄が宿泊先で襲撃するという事件が発生した。)
大木が東郷の誘いに応じた根底には、関知していなかったとは言え、力道山襲名の約束を反故にする形となったことがあるとみた日プロ首脳部は、大木の不満を抑えるため、アジアヘビー級王座を復活させ、大木を王者にしたと言われている。 >>524
韓国でMルーインを破りWWA世界王座を奪取、そのまま日本に凱旋されては
力道山襲名問題を持ち出されるから、帰国前のロスでの防衛戦で日本プロレスが
Kゴッチに依頼してタイトルマッチに介入させ、挑戦者Mデビアスを勝者に導いた。
ゴッチに提示された条件は日本プロレスの長期間に渡るコーチ役(ミック博士の説)
大木がロープに振られるとセコンドのゴッチが足をすくいデビアスの勝利という
伏魔殿らしい王座移動劇で大木は無冠になった。
帰国しても豊登は追放され、大木の襲名問題をバックアップしていた児玉誉士夫も
日プロのクリーンアップ新体制で去っていた。
それでも一度は世界王者になったから、おっしゃる通り大木の不満を抑えるためにも
アジアを復活させたようだね。 大木はどうでもいい
韓国人以外は誰も興味ないから
馬場と猪木に興味があるんです >>525
どっちにしろ、ロスのWWAだって、いつまでも大木を
世界王者に認定したり、日本に帰させる気はなかっただろう。
力道山しかり、豊登しかり。
逆を言って、日本側の意向で、ロスの王座を変えさせられるものか?
また大木の防衛戦の相手も当初は、スカル・マーフィの予定が、
急にMデビアスに代わったそうだ。これはロスの意向だろうね。 >>525
>>528に追記だが、大木対MデビアスのWWA世界戦(67年7月)時、
カール・ゴッチとデビアスはWWA世界タッグ王者だったのだ。
実に分かりやすい。 >>524
当時の大木は吉村とのアジアタッグ王者だったのでそのまま移籍されれば尚更に問題だったろう >>524
>大木は、日本プロレス社長だった豊登から、NWA世界王座か
>それに匹敵する王座を獲得したら力道山の襲名を認めるという約束を取り付け、
>67年に韓国でのWWA世界王座に挑戦した。
さらっと書いているが、豊登は1966年の1月には、日本プロレス社長と
選手会長を辞任している。新社長は芳の里が就任。
大木が韓国でWWA王座を奪ったのは67年の4月(5月説もあり)
その時、豊登は東京プロレスから、国際に移ろうとした時、もう完全に
日プロとは完全に関係が切れている。
そんな豊登との約束が有効だと思ったのかな? >>531
豊登とかそういうレベルの話じゃなくて、
韓国の朴正煕大統領及び、日韓協力を推進する当時の日本の政治家、右翼のバックアップがあったんだよ。
世界王座獲得を取れば、この人たちが力道山襲名を日本プロレスに強く要請するような動きがあった。 児玉誉士夫はロッキード事件のイメージしかないけど
在日右翼の神のような存在らしいね 「力道山」の名跡は大きなものだろうが、
誰か大木の他に襲名を望んでいたのかが疑問だ。
また日プロに襲名権(?)があると考えるのもオカシイよ。
野球の永久欠番みたいなものなのかもしれないが
家元制度じゃないんだし、大木が望めばそうさせてやってもよかったのに。
すでに馬場体制で順調も順調だったんだし。 >>534
だから、力道山襲名問題は日韓両国の政治的駆け引きがあり
朴正煕大統領や在日ヤクザの超大物まで巻き込んだプロジェクトがあったという事
『史論−力道山道場三羽烏』にも大木の第二次武者修行(64年9月〜65年6月)の
64年10月16日 ヒューストンでNWA世界王者ルーテーズに挑戦した時に
大木がテーズにセメントを仕掛けて返り討ち(半殺しの目)にあった。
セメントでも最強のテーズに仕掛ける事自体が箔をつけるための愚挙であり
朴側は少なくとも東郷だけでなく、事前にNWA本部もしくは
テーズに話す必要があった(通したところで断られただろうが)とある。 >>495
8か月も寝かせたっていうけど、一方が海外なんだから無理でしょうよ・・ >>536
デビューから8ヶ月後にBIの初対決が組まれた >>532
>韓国の朴正煕大統領及び、日韓協力を推進する当時の日本の政治家、
>右翼のバックアップがあったんだよ
それほど大きなバックアップがあったなら(俺もそういう噂は聞いたが)、
豊登あたりが日プロ社長辞任したあとでも、大木は「力道山」を襲名できたと
思うがね?(苦笑) ミック博士が、こういう説を唱えた、
『史論−力道山道場三羽烏』にこう書いてあった
という前に、少しは自分で考えたら、いかがなモノか? >>538
そんなもの、すでにジャイアント馬場がエースとして君臨してて
新力道山が誕生したら厄介に決まってるだろ。
ファンも歓迎しないのは明らかだし。
それに日本プロレスのコミッショナーも自民党副総裁の川島正次郎。
簡単に推進派には屈しない 大体1965年以降は右翼→暴力団とのつながりは排除という
ご時世で、右翼の後ろ盾を得ようとしてる時点で大木は時代錯誤だし >>535
朴大統領がプロレス、大木の大ファンで、彼が「力道山襲名」を
望んでいたことまでは想像に難くない。
しかし、3段目以降の「テーズに仕掛ける事自体が箔をつけるため」とか
その一戦に愚挙であり「朴側は少なくとも東郷だけでなく」、
朴大統領が絡んでいた、というの小泉悦次の想像(妄想)の粋を
出ていないなぁ。(苦笑) 例えば木村政雄や草津正武が、あるいは大熊元司が
力道山を名乗る、ということについてなら
大木が半島出身者として異議を申す、のはわかるような気がするが
大木が名乗りたいというならそうすればいいんじゃないかと思うんだよ?
まぁ百田夫人は憤慨するかもしれないけど、史実どおりに息子がレスラーになったとしたらば大木は譲るだろうし。
そもそも大木が力道山をリングネームにしても
その瞬間エースと目されたり集客力が増えたりはまったくないと思うんだけどね。 当時力道山が半島出身であることはオープンになってないよ。
大木が力道山襲名したら、「何で大木なんだ?」ということになるわね。 新日の「4代目タイガーマスク」だって
初代に比べれば、人気、実力とも遥かに劣る。
大木が力道山を名乗っても、その名を汚すだけだったろうに。
まぁ半島にちなんで「金剛山」がいいところ。 力道山は長崎出身になっていたし、死ぬまで出生の秘密はタブーとされていたが
密入国で力道山(大野伴睦)に拾われた大木は最初から半島出身のままだしな。 仮に襲名できたとして、ルックスやファイトスタイルはそのままだったのだろうか >>547
変えようがないでしょw
黒のロングタイツもピンとこないし、
空手チョップを使っても比べられるし…
師匠に鍛えろと言われたパッチギ一本
頭突きの金ちゃんが似合ってるよ。 >>540
538だが、いや、、俺が「それほど大きなバックアップがあったなら
大木は「力道山」を襲名できたと思うがね?(苦笑)」と書いたのは、
結局、大木は力道山を襲名できなかった=そんな韓国の朴正煕大統領及び、
日韓協力を推進する当時の日本の政治家のバックアップなんかなかった。
あったとしても芳の里レベルで跳ね返した、というのを>>532さんに
皮肉交じりに書いたんだよ(苦笑) >>549
違うよ。韓国の大統領や右翼のバックアップが
大きな力でも、当時の日本テレビ、川島コミッショナーの力の方がより圧倒的に強大だという話でしょ。
第一時期的に、右翼や暴力団排除の時代だしね。 大体、今で考えたって、韓国の文在寅大統領がプレッシャーかけて、日本のプロスポーツを動かせるかって、それは無理だろうに。
まして当時の韓国の国力は今とは比較にならないほど弱い。韓国大統領=強大な力、と考えるのが間違い >>550
いや、そんなに言っていることは違わないと思うが、、、(^^: 小泉悦次本によれば、韓国の朴大統領は、
大木が「力道山」を襲名し、韓国で、文字通り
力道山的なヒーローになることを望んだ、とあるが、
それなら、韓国だけで「力道山」のリングネームでリングに
上がることなら可能だろう。
高千穂がアメリカで「ヨシノサト」を名乗ったのと同じ。 ジャンボ鶴田日本デビュー戦から47年ですね。
【73年10月6日 ジャイアントシリーズ開幕戦〜生中継 後楽園ホール (観衆2,800人)】
15分1本勝負
松岡巌鉄(10分25秒 体固め)羽田光男
20分1本勝負
大熊元司(11分24秒 体固め)肥後宗典
タッグマッチ 20分1本勝負
駒&ヒライ(1−0)佐藤&百田
駒(16分36秒 体固め)百田
30分1本勝負
サムソン・クツワダ(13分40秒 体固め)ザ・ビースト
サンダー杉山(7分14秒 反則)フレッド・ブラッシー
大木金太郎(10分55秒 体固め)マイク・ローレン
ミル・マスカラス(12分33秒 回転エビ固め)高千穂明久
鶴田友美(12分53秒 体固め)ムース・モロウスキー
タッグマッチ 60分3本勝負
馬場&デストロイヤー(2−1)マードック&オーディ
マードック(9分39秒 体固め)デストロイヤー
デストロイヤー(2分46秒 体固め)マードック
馬場(4分16秒 体固め)オーディ 鶴田の日本デビュー戦、テレビで見ていたよ。
キャリア半年くらいだから仕方がないが、
ムース・モロウスキー相手に戸惑っていた。
実況のアナウンサーが「馬場が、通路でこの試合を
見守っていましたが、今、【見ていられない】という表情で
控室に戻りました」と辛口に伝えていた。
まぁ馬場は自分の試合が近づいたから、控室に戻ったのかも知れないけれど。 >>555
流が鶴田の名勝負bPに挙げた試合だったんだけどそんなんだったんだ。
この二ヶ月くらいあとのミッキードイル戦はクラシックでみたけど
たいした試合じゃなかったしね。 俺も観たけど、清水(徳光?)アナの実況までは覚えてないなぁ
確かに蔵前と比べたら動きがぎこちなく見えた。
日本マットデビュー戦のプレッシャーや、米国と日本の観客の反応の違いにも
戸惑いを感じたんじゃないかな?
相手も大型のモロウスキーだったから
最後の人間風車も見栄えの良いものではなかった。
馬場も我が子の初舞台でも見るような気分だったろうね
大木・松岡・駒・クツワダ・杉山…
今だったら3万の入場料でも観に行きたいよw >>553
日韓関係のために日本のプロレスを差し出そうとしたとも言えるな
つまりそのためなら日本のプロレスなどどうでもいいって感じで >>554
日本プロレス残党組では、上田、小鹿、伊藤が試合なしか。
この3日後、蔵前で上田と松岡が馬場を殴打する事件が起きたのか。 >>561
68年に東郷が大木をTBSプロレスに引き抜こうとした時だな。 >>560
上田松岡の馬場殴打事件は都市伝説のように言われてるけど本当なのかなぁ〜
10月9日の創立1周年大会は、当初7日に門茂男のユニオンと全日の共催で行われる予定で
蔵前国技館はユニオンが押さえていた。
ところが馬場は10月14日に新日が同所で開催する『世界最強タッグ戦』の主催者に
東京スポーツが名を連ねている事が面白くなく、山田隆に「ウチの蔵前も主催して
貰えるように社長に話してもらえないか」と要望
東スポの井上博社長は、かつての部下(門は一時期東スポ記者)が専従のユニオンを嫌い
「ユニオンとの共催なら協力できない、馬場君のところが主催なら協力する」との
方針を決め、これを聞いた馬場はユニオンとの約束を反故にし
9日に全日名義で蔵前を借りて東スポのスポンサードを取り付けた。
この馬場の裏切りに門も呆れたが、交換条件として大会ポスターに
「沖識名引退記念興行」と入れる事、インタータッグ挑戦者の1人を
日本プロレスの選手にすることを申し入れユニオンは共催から外れることを妥協した。
しかし馬場は大木や上田では客が集まらないと、これもまた反故にした。
沖識名引退セレモニーは行われたが、餞別があまりにも少なかった事に上田が激怒
武闘派の松岡と共に全日を去り、大木もシリーズ一杯で離脱した。
>>561
これ以上日本のマット界と関わらないようにと、68年日プロに手切れ金を貰いながら
国際のブッカーをやっていた東郷が許せなくて
松岡トルコが襲撃したとされてるが、実際に手を出したのは松岡と言われている。 純然たる全日本の最初の蔵前大会は翌年の馬場とテリーのPWF戦の時か
とにかくこの頃から蔵前とテリーの因縁の深さも注目だが 高千穂や小鹿より、松岡や横内のように謎が多くて
いつの間にか表舞台から消えたダークなレスラーに凄く興味がある。
上田・松岡・横内の関係性とか・・
あと、東郷が力道山以降の日本マット界にもたらした影響とかもね 松岡には俺も興味ある。
後輩いじめで鳴らした男が、72年の帰国から73年の全日本合流、離脱、
その後をどういう心境で過ごしたか >>535
>朴正煕大統領や在日ヤクザの超大物まで巻き込んだプロジェクトがあった
遅いレスだが、小泉悦次の『史論−力道山道場三羽烏』を出典としているが
これ小泉も文中で「推測だが、、」とか「大木の世界選手権を手配したのは
私は朴大統領だと睨んでいる」という表現で、断定はしていないよ。
もし、キミに上記の説を裏付ける確かに証拠があるなら、聞かせてもらいたいが。 >>567
『Gスピリッツ』にプロレス史の記事を寄稿している一条真也氏が「朴正煕大統領府や
在日ヤクザの超大物まで巻き込んだプロジェクトでした」と断定している。
裏付ける証拠も何も、そんな大昔の話は自分の思い込みや想像で書き込むと
間違って伝わる可能性があるから、資料や書物に頼るしかないと思い
また「知ったか」と思われるのも嫌だから出典は書くようにしていたんだけど
出典を書けば>>539さんのように言われるし…
どうしたものかねw >>564
83年に引退したのに84年にはレフェリーとして蔵前に登場してるし、言われてみれば蔵前とテリーはいろいろあるんだねぇ。 日プロ時代には蔵前に出てなくてドリーでも来日第一戦だけなんだよな
そして三度目が鶴田とのNWA防衛戦で四度目が大ブレイクのオープンタッグ >>566
松岡と上田は47年前の今日を最後に全日を離脱
アメリカに活路を見いだそうとしたが、横内が全米プロモーターに
松岡は“危険人物”というお触れをだしたためアメリカに渡ったものの
いい仕事にありつけなかった。
かつて上田と松岡はファイトマネーの未払いでトージョー・ヤマモト(PYチャン)の
腕を折ったという武勇伝もマイナスにしか作用しなかった。
松岡は上田・林とともに間垣部屋の力士出身で仲は良かったが、上田と横内も親友
68年にはファンクスのアマリロ版NWA世界タッグを奪取している。
ところが松岡は横内のことを全く信用しておらず、
上田と別れた原因も横内の評価の違いからで、松岡はレスラーを廃業
帰国後栃木県でちゃんこ屋を始めた。
上田は仕事が見つかるまで関川(ポーゴ)に借金して繋いだが、71年に日プロのシリーズで
知り合ったリップ・タイラーのとりなしで何とかなった
結局、上田も関川も横内の口車で多額の費用を散財したらしい。 松岡は横内とも仲悪かったのね。
結局この稀代のパワハラ男は、日本プロレス末期の
6シリーズ、半年強の活躍?のみか。 横内はアメリカでも嫌われ者で、レイスの奥さんにケチをつけたかなんかで
レイスに足元に拳銃をぶっ放されたとか。
試合でいうと、日本人による日本人に対する裏切りギミックの先駆者で
69年国際に来日してから約1年、ゴング誌の不人気投票でトップだったらしく
最期は82年12月15日(力道山の命日)パリ郊外の運河に自動車に乗ったまま落ちて死亡
その後日本人ヒールは上田に継承された。 松岡横内のリアルヒール軍で国際あたりに出たら面白かったが、揉めてたのか。 >>568
> 『Gスピリッツ』にプロレス史の記事を寄稿している一条真也氏
誰だそれ? 今日はその上田が遂に因縁の蔵前のメインで馬場と対戦した日 >>578
その2ヶ月後、同じ蔵前国技館にハンセンが登場するわけだ。 >>578
確か大木も試合はしないけどもOBの顔でリングに上がってたよね。 馬場のシングル名勝負は、初めてNWAを奪取した1974年のブリスコ戦が最後で、それ以降はなかったな。
大木、ロビンソン、シン、上田、ハンセンと猪木の名勝負の相手を引き抜いてシングルで対戦してたけど、猪木ほどのインパクトは残せなかった。
1982年のハンセンとの初シングル戦を名勝負と言われるけど、衰えた馬場にしてはよくやったという程度のものだったな。 >>581
マスクドX(サイレント・マクニー)は、一応アトキンスの弟子になるのか
兄弟子シンの推薦らしいけど、もれなく弱かったw >>582
後楽園の馬場vs上田戦はインパクト残したと思うがなぁ〜
名勝負かどうかは別として…
なんかスッキリしなかった五寸釘マッチのオマージュになるのかな? なんですぐそうやってレッテル貼るかな?
全日ファンのおれから見ても、悔しいが>>582のいうことは正しいぞ。
70年代以降の相手で猪木のそれより好勝負したのはVSブッチャーだけと思う。
VSレイスはありかなと考えるが猪木とは当たってないようなもんだし。
馬場VSドリーあるいはテリーなんて困った試合ばっかりだっただろ。
猪木ならもっと単純にいい試合になってたよ。
もちろんVSブラジルエリックキニスキーのあたりは馬場の方がはるかに優れているな。
きっとこんな意見もアゴオタとかいって切り捨てるのかもしれんが。 大会場でメインを何回も張ったり
テレビで視聴率とってるカードの方が何倍も価値は高い
後楽園ホールや田舎の小さいところでいくら盛り上がっても
所詮は内輪での出来事でしかない >>582
どうかね。
馬場ハンセンは少なくとも猪木ハンセンよりも
エキサイティングマッチだったよ。 後、猪木がブリスコやモラレスとやったら、馬場以上の名勝負は確実と思ったら、意外に淡白な試合に
終わったという、逆の面もあるね >>585 >>588
60年代は、全盛期を迎えていた馬場の方が、テーズ戦、キニスキー戦、ブラジル戦、エリック戦と圧倒的に名勝負は多かったと思う。
しかし、70年代に入ると、身体能力に衰えが見え始めた馬場と入れ替わりに、猪木が全盛期を迎え、小林、大木、坂口、シン、ロビンソン、アンドレ、ハンセンと名勝負を繰り広げたと思う。
ただ、80年代に入ると、猪木もコンディショニング不良による衰えに伴い、名勝負と呼べる試合は減っていき、特に、無理をして引き抜いたブッチャー、マードック、ブロデなど全日本の常連だった外人レスラーとインパクトある試合は残せなかったと思っている。
他方、馬場も80年代に入ると肉体的な衰えは隠せないものとなり、名勝負と呼べるレベルのものは残していないと思う。
新日本から引き抜いたハンセンとのシングルマッチにしても、鶴田戦、天龍戦と比べれば、衰えた馬場のレベルにハンセンが合わせているのがありありで、60年代の全盛期の馬場のファイトと比べれば、とても名勝負と呼べるものではないと思う。 馬場のハンセン戦はあくまで「年の割には頑張った」というレベルの話だからね
32文もネックブリーカーも往年の面影はなかった
猪木に例えるならベイダー戦みたいなものか 馬場は76年以降は動きが衰えたのは事実で、
79年のレイス戦なども、お約束ファイトの集大成という感じで、自分はあまり評価していない。
逆に馬場ハンセン戦は大変評価している。
60年代のキニスキー、ブラジル戦に負けないスケールと、それを上回るスピード感。
ハンセンが馬場に合わせて全日本的なファイトをすると事前に言われていたのが、
逆に馬場がハンセンのスタイルに合わせたことに感動したし。
なお、ハンセンと「あれだけのスケールの試合をやれる」のがジャイアント馬場であることを再認識させられた。 ハンセン対アンドレを見て、「こんなスケールの試合は日本人にはできないだろう」と思ったら、
馬場ハンセンがそれをやった、という感動があったよ。
なんせ当時は「ハンセンがまともに攻撃してきたら、馬場は壊される」と言われてたんだからね。 という風に興奮してるのは、1982年の東京体育館の馬場ハンセン戦を生観戦したからかもしれんが。苦笑
ちなみに前年の蔵前のMSG決勝、猪木ハンセン戦も見ている。それからハンセンボック対猪木藤波もね。 >>590
双方の全盛期が違うんだから、当然そうなるよね。
馬場のファイトスタイルも日プロ時代のダイナミックさが年々薄れ
テクニックで補うスタイルになったし、現に技のレパートリーが増えている。
84年7月のハンセン戦なんか、肉体的には圧倒されているのは誰の目にも明らか
でも最後はクイックにもかかわらず蔵前国技館を大熱狂させたから
衰えても培ったキャリアで名勝負は作れるんだなと思ったよ。
(名勝負じゃないと言われれば、それまでだが・・)
猪木も延髄斬りを多発するようになって衰えを感じたなぁ〜 猪木は体力の衰えの前に、76年のアリ戦。
あれ以降、プロレスのスタイルが変わって、
プロレスの名勝負が少なくなった。
82年以降は、体力の衰えで内容がさらに落ちた。
馬場は76年から81年はどんどん内容が落ちた。
繰り返すが、逆に82年のハンセン戦から84年に
かけては、充実していたように思う 馬場キニスキー、馬場エリック、馬場ブラジル戦も、日本プロレス時代の初期対戦はともかく、
日本プロレス後期、全日本に入ってからの戦いだったら、断然馬場ハンセン戦の方が内容が良いと思うけどね。
後、猪木にしても、ブロディとやった85年は
復調してたような記事がするな。 >>596
猪木も馬場も
その頃には目新しい対戦相手がいなくなった
猪木の場合は相手がいないからこそ
他ジャンルに手をつけてるし
馬場の場合はシングルに関しては意欲すらない感じだ 自分の馬場vsハンセンの生観戦は最後の蔵前の二戦
やはり奪還戦でのラリアットへの十六文カウンターは最初から見たかった場面だけに感動 >>595
猪木対ロビンソン戦は、アリキック、延髄切りなし試合が組み立てられていて新鮮だったな。
猪木のピークは、この試合の時だったかもね。 >>595
馬場×ハンセンは一度は馬場が勝たないといけなかった、PWFを取られていたし。
そこで自分がブックを書いたとして考えていたのはラリアットより先に
「マッハのタイミング」でランニングネックブリーカーを決める、というものだったが
小包固めで決めるのは本当に凄いと思った、プロは違うと。
あれは名勝負というべきだし、じじつ馬場の最後の名勝負じゃないかな。 >>600
延髄斬りも攻守逆転の繋ぎ技の頃はよかったけど、79年頃からフィニッシュ技になり
80年代に入ると多発するんだよね。
この技で決まった名勝負というとパッと思いつかない…
>>601
個人的名勝負の定義は、感動が有るか無いかだったから
馬場のシングル最後の名勝負では84年7月31日のPWF奪回戦で同意
タッグでは89年最強タッグの馬場&木村vs天龍&ハンセン戦か、
94年3月のハンセン&馬場vs三沢&小橋戦
これ以降に感動した馬場の試合はないなぁw ハンセン&馬場vs三沢&小橋戦ならむしろその年の最強タッグの仙台大会の方が上の印象
特に最後に何度も繰り返しフォールに行く所とか ハンセン&馬場なら武道館のvsウイリアムス&ブーバーが最高 1970年12月のインター王座をめぐる馬場対キニスキーの2連戦が、全盛期の馬場が集約されたベストバウトではないかな。
2戦目のフィニッシュがランニングネックブリーカードロップであれば完璧だっただろうが、それがなくても、ひとつひとつの技にスピードと力強さが感じられる名勝負だと思う。
ハンセン戦は、力の衰えた馬場が、それでも頑張っているというのが前面に押し出され、ひとつ間違うとコミックプロレスになりそうなところ(いかりや長介のお爺ちゃんが加藤と志村の悪ガキに襲われているコントのように見えてしまう。)、全盛期の馬場を見た者にはどうもなぁ、という感じがして受け入れ難い。 全盛期の馬場を思わせるというのはやはり馬場がチョップを打ち下ろすたびに会場がワッショイワッショイとやりだすところなんだよな
ああいう身体と身体でぶち当たるというのがまさに全盛期の馬場の醍醐味だった感じなだけに 全盛期の馬場と全日での馬場は
チョップの迫力が全然違うね
全日時代に馬場のチョップの迫力で客がどよめく
なんて光景は見たことがない >>605
俺は1970年12月のキニスキー戦だったら
1982年2月のハンセン戦の方を評価するけどね。
1967年のキニスキー戦ならハンセン戦の上位に置くけど。 1968年のキニスキー戦は見ていない。
ビデオもないしね。
1970年のキニスキーはすでに42歳。1967年に
39歳で馬場と戦った時の迫力からは落ちていた気がする 馬場というレスラーを高く見るか低く見るかで
ハンセン戦の評価って違ってくるな
馬場を高評価してる人の方が
ハンセンとの試合を低く見てる傾向が強い それもあるかもしれないけどね。
82年のハンセン戦は、開幕16文キック、あえて関節技の集中攻撃を仕掛けるという、馬場の試合作りの妙に唸ったんたよね。
これは若い頃のチョップやキックに迫力がありました、というのとは違う感動でね。
そもそもチョップの迫力とかパワフルファイトという話だったら、1963年のコワルスキー戦あたりがダントツたと思う。 全日本を旗揚げして以降はプロモーター馬場の手腕が高まり、それにつれて、プロモーターとしての実力がレスラー馬場の身体能力の衰えを補填するという色合いが、次第に濃くなっていったと思う。
そして、1978年にカマタにPWF王座を明け渡したところで、レスラーとしての馬場は終わっていたのではないだろうか。
事実、全日本では78年頃から、日本人選手を押しのけてブッチャー、ファンクス、マスカラス等の外人レスラーが主役となってシリーズを盛り上げるようになり、レスラー馬場の衰えも、この外人主役の期間に一気に加速したように思う。
82年から始まった馬場とハンセンの一連の対戦も、プロモーター馬場が企画したレスラー馬場の復活劇にハンセンが付き合わされたという感じが拭えない。 「ハンセンは全日本に行っても本領を発揮できない」という世評を、馬場戦で覆したと思うけどなあ。
それにハンセンは馬場戦だけを軸にやってたわけではない。
テリーとの遺恨、そしてハンセンブロディ超獣コンビの結成と3本の軸があった。
ハンセンで見ても1982〜1984年は全盛期だったと思う。その後1985年〜1987年と不振の時期があり、
1988年天龍戦で復活、という感じてはないかな。 世代的に見て
最も盛り上がらなきゃいけない鶴田戦がなあ・・
この点を見たら「本領を発揮できない」という評も間違いではない 1982年〜1985年には鶴田とのシングルタイトルマッチないだろ。
まあこの2人はアマリロの同期ということで、やりにくいそうだったな。
馬場ハンセンの方が遥かにスイングしたのは確か 1982〜1984年は鶴田はブロディとのインター王座をめぐる攻防がメインストーリーで、1985年に入ると長州戦が焦点となり、ハンセンとのタイトル戦が
実現したのはようやく1986年。
ということで、旬の時期にやれなかったというのも大きいけど。 >>607
ハンセンの蔵前乱入の時の脳天唐竹割りは、プロレス嫌いなうちのオヤジも驚いてたぞ。 猪木はハンセンとグラウンド主体で戦ったが、
馬場はスタンド主体で戦った印象が強い。
ハンセンに対する戦い方は分かれていて
グラウンド主体=猪木、バックランド、ドリー、鶴田、長州、三沢
スタンド主体=アンドレ、馬場、テリー、天龍、
川田、小橋 鶴田とハンセンは同期の意地みたいな感情があって
互いにムキになるというか、馬場のようにどっしり構えての反撃じゃなく
バタバタして見えるから試合がキレイに見えない。
おそらく間合いのとり方の問題だと思うが、ブロディとの方がスイングしていた。 >>616
あの東京体育館のカードが鶴田×ハンセンだったと思うと、
ちょっと寒気がする。
それこそハンセンはやはり新日でしか……なんて言われたんじゃないかと。 >>619
その猪木の出世試合が54年前の今日
【東京プロレス旗揚げ戦〜1966年10月12日蔵前国技館(観衆11,000人)】
10分1本勝負
マンモス鈴木(6分03秒 体固め)大磯武
中川弘(7分39秒 逆片エビ固め)柴田勝久
15分1本勝負
木村政雄(12分42秒 逆片エビ固め)永源勝(=遥、デビュー戦)
竹下民雄(25分26秒 体固め)寺西勇
30分1本勝負
田中東八(=忠治)(25分26秒 体固め)高崎山猿吉(=北沢幹之)
バトルロイヤル決勝(8人参加)
田中(12分42秒 片エビ固め)寺西
30分1本勝負
ザ・ヘラキュリー(10分32秒 体固め)斎藤昌典
60分3本勝負
豊登&ディーン樋口(2−1)ジョニー・パワーズ&サニー・マイヤース
パワーズ(10分13秒 体固め)樋口
豊登(5分25秒 エビ固め)マイヤース
日本側(6分53秒 反則)外人側
時間無制限1本勝負
アントニオ猪木(31分56秒 カウントアウト)ジョニー・バレンタイン
この試合で猪木は、殺気に満ちた眼つきをバレンタインから盗んだといわれている。 >>614
不振の三年間は日本とアメリカの再編期に翻弄されていたという印象 馬場やテリーと手の合うファイトを続け、ブロディというパートナーがいた1984年までと違い、
1985年から1987年はブロディもなく、長州や輪島に手加減ファイトを強いられ、鶴田とは相性良くなく、AWA王者になって守りのファイトを身につけてしまったから、ハンセンにとっては不振な時代だったね 【ハンセン初来日〜75年ジャイアントシリーズの全シングルマッチ】
10月2日 日田大会
アントン・ヘーシンク(10分52秒 逆エビ固め)Sハンセン
10月3日 北九州大会
Sハンセン(15分46秒 反則)グレート小鹿
10月4日 壱岐大会
サムソン・クツワダ(8分21秒 片エビ固め)Sハンセン
10月8日 枕崎大会
アントン・ヘーシンク(10分8秒 エビ固め)Sハンセン
10月10日 別府大会
ザ・デストロイヤー(13分35秒 エビ固め)Sハンセン
10月11日 津久見大会
アントン・ヘーシンク(8分19秒 逆エビ固め)Sハンセン
10月13日 福山大会
サムソン・クツワダ(12分5秒 体固め)Sハンセン
10月14日 愛媛大会
Sハンセン(9分18秒 体固め)大熊元司
10月16日 米子大会
ザ・デストロイヤー(19分28秒 エビ固め)Sハンセン
10月17日 名古屋大会
ジャンボ鶴田(15分11秒 片エビ固め)Sハンセン 【ハンセン初来日〜75年ジャイアントシリーズの全シングルマッチ】
10月19日 秋田羽後町大会
Sハンセン(11分33秒 体固め)サムソン・クツワダ
10月20日 秋田大会
Sハンセン(10分 体固め)桜田一男
10月22日 江刺大会
大熊元司(7分5秒 体固め)Sハンセン
10月23日 岩手大会
グレート小鹿(18分27秒 エビ固め)Sハンセン
10月24日 弘前大会
Sハンセン(14分14秒 体固め)桜田一男
10月25日 秋田大会
サムソン・クツワダ(14分14秒 片エビ固め)Sハンセン
10月27日 大和大会
高千穂明久(10分2秒 エビ固め)Sハンセン
10月29日 下館大会
グレート小鹿(14分32秒 体固め)Sハンセン
10月30日 蔵前大会
ザ・デストロイヤー(12分40秒 足4の字固め)Sハンセン クツワダと桜田に1回ずつ勝ってるのは、それなりに評価されたからかな 同時来日のボビー・ジャガーズより評価されたんじゃないかな
最終戦のデスト戦はWメインのブッチャーvs鶴田、馬場vs大木の次の試合だからね。
名古屋の鶴田との初シングルは見たかった ハンセンを試験紙にするとこの頃の中堅は
子鹿=大熊>高千穂>クツワダ>桜田、でいいのかな。 73年デビューして、アマリロからフロリダに転戦した頃のハンセン
ちゃんとジョバーの役割をこなしてる
https://youtu.be/X3lK93Il_4I 今日は新日版世界最強タッグ戦(73年10月14日)の日
対戦カード
15分1本勝負…木村聖裔vs荒川誠(真)
20分1本勝負…リトル浜田vs藤波辰巳/藤原喜明vsクレイトン・トムソン
30分1本勝負…小沢正志&魁勝司vsエル・サント&ウェイン・ブリッジ/
山本小鉄vsアナンダ/木戸修vsボビー・ボルト・イーグル
45分1本勝負…柴田勝久vsビクター・リベラ
90分3本勝負…アントニオ猪木&坂口征二vsルー・テーズ&カール・ゴッチ 初来日のハンセンは『未完の大器』と期待されてたとか。
かなり前に週プロにその記事が掲載されてた。
初来日時は木偶の坊呼ばわりのイメージが強いハンセンだが。
見る人はしっかりと見ていた。
後々のハンセンはその見る人の予想を遥かに凌駕する存在になった。 >>633
こっちのスレではスタンウォリアーとかテキサスウォリアーとか書いて荒らさないのか?
450お前名無しだろ (ガラプー KK7f-rLih)2020/10/14(水) 16:43:47.59ID:tpn953OAK
ドンマイウォリアー
劣化ウォリアー
天国行ウォリアー
軽量化ウォリアー
新種ウォリアー
ぼったくりウォリアー
花嫁ウォリアー
自決ウォリアー
半額ウォリアー
マフィンウォリアー
共産圏ウォリアー
アースクエイクウォリアー
嘘八百ウォリアー
秀才ウォリアー
耳鼻科ウォリアー
佃煮ウォリアー
脅迫ウォリアー
ライダーウォリアー
歴史教科書ウォリアー
饅頭ウォリアー
パーティーウォリアー
鰻蒲焼きウォリアー
電報ウォリアー
緯度ウォリアー
ボンジョビウォリアー
和服ウォリアー
神棚ウォリアー
大百科ウォリアー
フェイクウォリアー
噴水ウォリアー
芋類ウォリアー
郵便局ウォリアー
害虫ウォリアー
確信犯ウォリアー
シナモンウォリアー
永久電気ウォリアー
名優ウォリアー 猪木・坂口vsテーズ・ゴッチ戦で初めて国旗掲揚と国歌吹奏やったんだよな…
こういうセレモニーが真剣勝負と思わせる新間の作戦だったんだろうけど、
全日は頑なにやらなかったw >>635
翌年になるけど、馬場のNWA世界ヘビー級王座防衛戦(対ブリスコ)と鶴田のNWA世界ジュニアヘビー級王座挑戦試合(対ケンマンテル)で、セレモニーやらなかったかな? 違っていたらすいません。 今確認したけど、74年12月5日日大講堂で東京吹奏音楽隊が演奏の中
バトンガールが出てきて4選手が入場、国旗掲揚・国歌吹奏があったねw
全日本の歴史の中で、たった1度?のセレモニーだったと思う。
記憶違いでした。 ゴメンなさい😂 >>635
だけどテーズゴッチにアメリカの国歌吹奏というのも
何だかなあで。テーズはともかくゴッチはアメリカ国籍じゃないでしょ。 >>638
テーズはハンガリー系のアメリカ人
ゴッチはドイツ出身だと思ったらベルギーらしいね
でもTJシンも国歌吹奏の時ばかりは大人しかった
あの最中に暴れた奴いたのかな… デスト戦後、ハンセン76年はニューヨークに遠征してMSGでブルーノの挑戦者に抜擢
ボディスラムを滑らせブルーノの首を折ってしまう。
それを「ウエスタン・ラリアートで首を折った」というプロレス的プロモートで
翌77年1月に新日本初登場[77年1月7日越谷市体育館〜猪木(11分17秒反則)ハンセン]
いきなり猪木とメインで反則負け。81年暮まで約5年間新日のドル箱カードだった。 >>639
国歌吹奏時に暴れる、とまではいわないが、
不遜な態度を示すのはアメリカの黒人くらいだなww >>640
この時の来日が新日および猪木でよかったよ。
もし全日に来ていたら、
「親友サンマルチノの仇をとる」として馬場が2−1で軽く勝ちそう。 >>642
そうか?新日でもこの時のハンセンは、
終盤に猪木にシングル3連敗。しかも全て
ノンタイトル戦で。
坂口、小林にもリングアウト負けしてるよ。 ハンセンが76年8月にニューヨークを去って、9月からはブロディがWWWF入り
ブルーノの抗争相手に・・
79年初来日初戦のバトルロイヤルでは5人掛かりのフォールを跳ねのけ
ファンの度肝を抜き、その日のタッグマッチで馬場からピンフォールを取っている。
初来日のインパクトで比べれば、ブロディの方がハンセンを遥かに圧倒していたが
ブロディのボスでありNWAの大物エリックがわざわざ来日した事の方が意味深い。
勿論、鶴田の十番勝負最終戦というのもあるが、これからのブロディの事や
デビューした自分の息子達の日本での処遇を馬場に念押ししたと思われる。
ただ4年前に鶴田を子供扱いしていたエリックが、現役最後の来日で
馬場の弟子に簡単に敗れたのは寂しいものがあるな。
全盛期の馬場のライバルで一番興奮した対戦相手が“鉄の爪”エリックだったからね。 ハンセンは77年1月の新日本来日でランクアップしたものの、まだ猪木には完敗、坂口、小林にも勝ちきれないレベル。
同年8月の来日で猪木のチャレンジャーとなり、小林には常勝するランクに。
だが79年1月のブロディはドクに圧勝、馬場鶴田にもノーフォールと、ハンセンを上回る印象を残す。
しかしこの年4月に来日したハンセンは、初戦で上田に完勝、坂口にも勝ち、アンドレと引き分け。
MSG決勝での猪木戦こそ完敗したものの、さらに
ランクアップする。
そしてついに80年1月、ハンセンとブロディは新日、全日に同時来日を果たす。
だがブロディはステロイド抜き?で大幅に減量して迫力が薄れて、馬場に挑戦も完敗。
一方ハンセンはラリアットを自らダッシュして決めるスタイルに完成させ、猛威をふるい、ついに猪木から王座奪取。
ここでハンセンとブロディの第一ラウンドは、
ハンセンの勝利に終わったといえる。 以降ハンセンとの差をつけられっぱなしだったブロディが、その存在感を示したのは1981年10月の
蔵前の興行戦争。
ハンセンがホーガンとのタッグでブラボー長州戦でお茶を濁したのに比して、ブロディは延期となっていたドリーとのインター戦で、ど迫力ファイトを示して「興行戦争の外人MVP」との評価を得る。
続く年末タッグ戦、すでに全日本移籍を決めていたハンセンは、彼にしてはさらっとしたファイトに終始したのに比べ、ブロディは「ここで俺が外人ナンバーワンになる」という気概に満ちたフルファイトを見せる。
だかしかし、ブロディがついに全日本のナンバーワン外人に輝こうかというその時、まさかのハンセン全日本移籍が明らかになる。
ブロディは悔しさを感じつつも、ハンセンが事前に仁義を切ったこともあり、「ハンセンブロディの超獣タッグ」でバリューアップさせていく道を選択する、 1982年。全日本に転出したハンセンは、馬場との相性もよく、完全に全日本のナンバーワン外人の座を確立する。
ハンセンのパートナーとして、一旦引いた形のブロディ。しかし超獣タッグを続けることで「実はハンセンよりブロディの方が凄い、強いのではないか」と
いう見方も、徐々に定着していく。
1984年あたりになると、両者の印象はほぼ互角となる。
そして1985年、ブロディはついに新日に転出し、猪木と対戦する。その直前、長州を袋叩きにしたブロディは、その問題児ぶりも含め、日本マットのナンバーワン外人としての注目度を獲得した。
以上、日本におけるハンセン、ブロディのランク争いを振り返ってみた。 >>639
>>641
昔見た猪木シン戦のTV中継で試合前の国家吹奏でシンがやたら神妙な顔で手を交互に動かしてた。それを一緒に見てたお父んに「シンが大人しくお祈りしてるよ」って言ったら「あの悪いシンでもそれくらい自分の国と国家を大事にしてるんやで」って言うてた。
猪木は君が代吹奏が流れている時は目を閉じて不動だった。
おっさんの昭和の良き思い出です。 >>647
そうだよな〜
ブロディが強いのはわかっているけど、ウォリアーズ初来日で自分に注目が集まらない
腹いせ?で長州の技を全く受けず、顔面にキックをぶち込み子供扱いした時は
レベルが違う強さを感じたし、いろいろ言われた猪木戦はどれもがハイレベルだった。
猪木というフィルターを通した事で、やっとブロディの凄さが認知されたというか
古巣全日ファンにも再認識させた感じがする。
ただ超獣コンビになるとテンポの早いハンセンが目立って、ブロディは余力を残して
戦っているのが見えるから損してるなと思った。
それがブロディのスタイルなんだけどねw
69年のBI砲×84年の超獣コンビの対決なんか見てみたいな。 >>644 訂正です。
ブロディ来日第1戦は1対2のハンディキャップマッチで
大熊&伊藤と対戦(5分4秒で伊藤をフォール)
それとメインのバトルロイヤル
馬場との初対決は川崎の馬場&デストロイヤー対イアウケア&ブロディ戦でした。 >>650
ブロディ自身も新日時代を経て変わってきてる
陰性寄りのキャラが陽性寄りになって戻ってきてる
表情が豊かになったし客を煽るようになってきた >>648
シンはインド国歌だったのかカナダ国歌だったのかな? >>650
新日本にきたら対戦相手のロープワークのスピードもバンプも桁違いによくなったから
ドロップキックの説得力が増したよね
全日本時代はなんかウダウダやってるだけっぽかったのが新日本にきてから色んな技の
説得力が増したような
受けの全日本なんて呼ばれてたけど新日本の選手のほうがうまいと思ったよ >>653
カナダ国歌なんか流したら「“インドの狂虎”じゃないのかよ!」とツッこまれるよw
>>654
技の説得力が増したように見えたのは、新日のレスラーが全日の対戦相手に比べて
軽量なのとスピーディーな動きをするから、
ブロディの技がヒットするとアクションも大きくなるよね
でも、いとも簡単にその動きに対応出来るから凄いと思うよ。
猪木もブロディと対戦した1年半が最後の輝いていた時期じゃないかな?
幻となった札幌の前田戦と大阪城のアンドレ戦が悔やまれる。
その後のブロディは、WWFの侵攻でテリトリー制を失った米マットから
プエルトリコを活動の拠点に全日に復帰を果たすが
ここでも、ほぼ決まっていた対ハンセン戦がなくなるんだよね。 >>654
ただ全日本時代でもブロディのスタイルは
どんどん変化しているからね。
チェーン振り回しのイヤウケアスタイルからら
ハンセンのスタイルを吸収して、スピード感も
加え、試合中に出す大技の数もどんどん増やしていった。1984年あたりのブロディは、すでに
完成形に仕上がっていたと思う。
その最高のタイミングで新日本に移籍したと思う。
つまり、ブロディ自体にぶっちぎりの力がある
全盛期だったんだね、1985年は 肉体的にも1985年のブロディは全盛期で、
86年、87年、88年と少しずつコンディションが
落ちていったのは、映像で確認できる。
1985年は39歳だったからね >>654
あと、新日時代でもランボーサクラダ戦を見れば、全日本勢の受け云々は、必ずしも断言できない気がするね。 その意味からしてもブロディのベストマッチはむしろ84年9月大阪での鶴田とのインター戦の印象 ブロディの試合はとにかくブックがクソすぎる
数えたことはないけど
樋口の失神の割合が一番高いのはブロディ絡みなんじゃないか?
ブッチャーの試合でもあんなに失神してないはずだぞ が、しかし・・失神したレフェリーを引き起こしてリング内に放り込むとか最初にやったの
ブロディじゃなかったけ?あれは胸熱(という感覚を芽生えさせてくれた)だった。 >>661
胸熱
お前これなんと読むのぉー?
ブロディは81年までは流血ヒール路線まっしぐら。
ポストブッチャーだった。
あの頃にポストブッチャーと言われたのは多かった。
ブロディ スヌーカ ジョー カマタ シーク シン
しかしハンセン移籍後は全日本にポストブッチャーは必要無くなった。
それでブロディはハンセンと並んで本格パワーファイター路線に。
以後もブロディは流血試合もそれなりに多かったが。
ハンセン移籍がブロディのスタイルや立ち位置も変えた。
ファンクス戦以外は流血ヒールスタイルは減っていったぞ。 >>658
ナガサキが新日本の選手てのは違和感ある
外人枠だよ >>662
487お前名無しだろ (ガラプー KK7f-rLih)2020/10/17(土) 20:13:36.81ID:ou03BEeLK
解熱剤ウォリアー
サワーウォリアー
泡立てウォリアー
狙撃ウォリアー
分断ウォリアー
作文集ウォリアー
姉妹ウォリアー
高角度ウォリアー
アップウォリアー
レモンケーキウォリアー
ライオンジェットウォリアー
肉食ウォリアー
アングルウォリアー
予定日ウォリアー
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爆笑ウォリアー
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コンビニエンスウォリアー
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伝染病ウォリアー
倦怠感ウォリアー
ハイライトウォリアー
中心ウォリアー
長身ウォリアー
ツーショットウォリアー
失神ウォリアー
執行猶予ウォリアー
食卓ウォリアー
営利ウォリアー
想定外ウォリアー 俺の中で80年代はポール・マッカートニーの逮捕とジョン・レノンの死で始まって
ブロディの死で終わった。
リアルタイムで力道山の死は知らないから感傷的にならないけど、
ジョンとブロディの死を知った時はショックだったなぁ〜
翌年の平成プロレスには「ウオッ!」「ウオッ!」ブロディがいないんだよな・・ ブロディはホーガン戦とウォリアーズ戦を残したまんまだった。
少なくとも日本のファンはそれを希望した。
ウォリアーズ戦はハンセンと組むのがベストだが。
最悪ハンセン以外でも。
ブロディとウォリアーズが同じリングに立つ絵を見たかったかんな。
でもブロディは負けブックは飲まないだろう。
だからパートナーもそれなりの相手じゃないと。
やっぱスヌーカが妥当かな。
スヌーカならフォールされずに引き分けでも納得でけるだろうし。
下手なパートナーだと引き分けになれば見てる側が納得でけない。
ブロディ、スヌーカ組 × ウォリアーズ
これで ヨッシャー 木村 494お前名無しだろ (ガラプー KK7f-rLih)2020/10/18(日) 17:55:38.88ID:2oTQn0OZK
新型ウォリアー
仕組みウォリアー
逃走ウォリアー
ハゲ親父ウォリアー
投資家ウォリアー
使い捨てウォリアー
県民ウォリアー
インターンウォリアー
奉仕ウォリアー
冗談ウォリアー
ダメ出しウォリアー
暴走族ウォリアー
飲食ウォリアー
組合ウォリアー
ライディーンウォリアー
鉢巻きウォリアー
権力者ウォリアー
セットアップウォリアー
泣き虫ウォリアー
ペットボトルウォリアー
靴墨ウォリアー
美形女ウォリアー
蟹味噌ウォリアー
消費税ウォリアー
喫煙ウォリアー
一気飲みウォリアー
アイパーウォリアー
洗濯ウォリアー
首輪ウォリアー
自営業ウォリアー
結核ウォリアー
バイトウォリアー
入院ウォリアー
山岳ウォリアー
残業中ウォリアー
留年ウォリアー
ドラマチックウォリアー >>660
最高傑作は鶴田がインター初奪取の蔵前だろうな
あのリングアウト宣告はオープンタッグの反則宣告に匹敵する絶妙さ 全日本の歴代マッチメーカーは、馬場⇒佐藤⇒?⇒渕⇒?
?は知らんけど、こんな感じかな… 町田の旗上げ前夜祭の日だな
挨拶文には10月7日、14日から全日本プロレス中継が始まっているとあるが
ハワイのシーク戦、アマリロのプロフェッショナル(レイス)戦、
ピッツバーグのFモルツ戦、他に馬場の日プロ名勝負で2週もたせたのかな…
https://blog-imgs-34-origin.fc2.com/w/r/e/wrestlingmuseum/P1030791_convert_20091030140844.jpg 新日本のゴッチ二連戦が全日本の旗揚げを挟撃するための物だと最近知った >>673
>新日本のゴッチ二連戦が全日本の旗揚げを挟撃
挟撃って、2戦目は大阪だよ。www
10月4日 新日、蔵前、猪木対ゴッチ(第1戦)
10月11日、新日、大阪、猪木対ゴッチ(第2戦)
10月21日、全日、町田、旗揚げ前夜祭
10月22日、全日、日大講堂、旗揚げ [1972年のカール・ゴッチ]
3月6日 東京 vs猪木…旗揚げ戦
3月10日 高崎 vsジョン・ドランゴ
3月14日 桐生 vsジム・ドランゴ
世界ヘビー級選手権
10月4日 蔵前 猪木(27分17秒 リングアウト)ゴッチ…王座移動(東京12chで放送)
10月9日 広島 猪木(27分43秒 卍固め)ピンパネール…初防衛
10月10日 大阪 ゴッチ(23分12秒 体固め)猪木…王座転落
[猪木以外のゴッチの対戦相手]
10月5日 京都 vsパット・ローチ
10月9日 広島 vsプリンス・クマリ
10月12日 山口 猪木・山本・柴田vsゴッチ・Sリーガン・Rピンパネール
10月13日 小倉 vsパット・ローチ
10月15日 枡築 vsシーン・リーガン
10月16日 宇佐 vsジョン・フォーリー
10月18日 大分 猪木・山本・柴田vsゴッチ・Sリーガン・Rピンパネール
10月20日 奈良 vsシーン・リーガン >>676
そうそう、10日の大阪大会も放送されたみたいだね。
マスターが無いのが残念だけど、過去に米国のプロレスを2期放送していた実績で
そのまま定期放送化されていたら新日(国際も)の歴史も変わっていただろうね。 BI対決が実現する!と本気で思った時
・90年2月に全日勢が新日ドーム大会に参戦したあとの流れ
・94年に猪木が引退カウントダウンを宣言した時
・95年4月のドームでの『夢の架け橋』
・96年6月の横浜アリーナでの『力道山メモリアル』 >>679
90年、ドームで全日対新日が実現して、その後週プロ増刊とかに見たいカードで「猪木、アンドレ」対「馬場、ハンセン」とか投稿したなあ。 アニマルウォリアースレ荒らしまくっているガラケーにマジレスするなよ 猪木vsゴッチ2連戦もそうだけど、レッド・ピンパネール(アベ・ヤコブ)の
元祖キウイ・ロールも観たかった
キム・ドクが何処でマスターしたのかも気になる。 キーロックを持ち上げたのはゴッチが最初かなぁ
その後はアンドレ、バックランド、ジョナサン、長州は崩れたか… ホッジの現役時代は、ジュニアヘビー級だった為か日本ではあまり評価されなかった
と言うか地味な印象だったけど、引退してから色んな文献で色んな逸話が出てきて
実は凄いレベルのレスラーだったんだなと思ったな
藤波がブームを起こす迄は、ジュニアは軽く見過ごされ気味だった気がする。 ホッジはヒロマツダとタイトルの行ってこいをやってたから
ヒロマツダ=<ホッジくらいに思ってた
ヒロマツダは当然馬場猪木よりかなり劣ると見たから
ホッジも連れ安してたのではないか。 >>684
1967年に来日したD.Lジョナサンが馬場のキーロックを持ち上げたという
都市伝説があるが(デラプロあたりに「馬場談」として載っていたとのこと)、
それは馬場がジョナサンにフロントへドロックを掛け、その体制で持ち上げた、
というのが真相らしい。 >>689
個性豊かなリングガイだったと思うが140kg以上あった自分を持ち上げたと書いていたような。
本当に持ち上げたのかライターの創作なのか馬場がジョナサン伝説を膨らましたのかは不明だがジョナサンならやりかねんというところが重要なんだろうね。
馬場はジェントルマンで無類の強さと才能を持つジョナサンのことをレスラーとしては尊敬しまくってて、プロモーターとして頭抱えさせられるというのが面白い。 日プロの頃「ジョナサンがエースの時は客が入らない」とか言われていたらしい。
一番面白いのは70年第12回Wリーグ戦に3度目の来日した時のエピソードで
4月3日開幕前夜祭の後楽園ホールからの生中継が“よど号乗っ取り事件”解決の日と
バッティングして、中継途中に何度もスタジオのニュースデスクに切り替わり
プロレス中継が途切れ途切れになったということ。
よど号事件とハイジャックバックブリーカーのジョナサンが被った訳だが、
技の名前が日本で名付けられたのは、それ以降という事なのかな?
またジョナサンに集客力が無いというけど、当時はプロレス中継が週に2回もあったし
大阪万博も開催されプロレス人気も下降気味
豪遊してアグラをかいていたダラ幹の無策もあったのでは?
あと馬場がいつまで入信していたのか知らないが、モルモン教徒という共通点があるね ハイジャックバックブリーカーは日本の記者(櫻井さんか山田さん?)がよど号事件に乗っかって名付けたと思う。海外ではなんと呼ばれてるのかね?
クツワダの回想ではジョナサンに担ぎ上げられた時思わず悲鳴を上げてしまったとあったな。小鹿もジョナサンにはまるで歯が立たなくてなんて言ってた。
他の使い手はスーパースターが有名だけどセッド・ビシャスも綺麗に使ってた。クルクルと回りながらリングに飛ばされる選手は実に面白く絵になった。
新日に来た時なんてデカいんだと思ったセッド・ビシャスだけどダニー・スパイピーより小さいのね。全日に来てたらあんまり目立たなかったかもな。 1970年5月29日の第12回ワールド大リーグ戦を調べてみた。(日大講堂=観衆7,500人)
Wリーグ決勝戦 60分3本勝負(ゲスト解説:A猪木)
ジョナサン(25分51秒 体固め)馬場…ドロップキック
馬場(4分18秒 体固め)ジョナサン…フライングネックブリーカー
馬場(3分26秒 体固め)ジョナサン…32文ドロップキック
*馬場4度目の優勝。2本目のネックブリーカーはドリー戦以来2度目
タッグマッチ30分1本勝負
○猪木&ヒライ(8分50秒 アバラ折り)マルコフ&●ロイヤル
坂口征二(5分29秒 体固め)ダッチ・サベージ
20分1本勝負
山本小鉄(19分32秒 両者リングアウト)ターザン・タイラー
ザ・コンビクト(2分28秒 体固め)戸口正徳
ポール・ジョーンズ(8分11秒 首固め)高千穂明久
大熊元司(11分25秒 体固め)パンピロ・フィルポ
15分1本勝負
永源遥(13分32秒 両者リングアウト)林牛之助
安達勝治(11分25秒 逆エビ固め)轡田友継 >>694
確かにジョナサンの試合は淡白で面白味がないね。
ヒライがセミに出ている、と思ったら吉村が欠場か!?
この第12回ワールド大リーグは序盤、
馬場より大きいザ・コンビクトが話題の中心になって
高千穂、大熊あたりを蹴散らしたが、さすがに馬場、猪木には
通じなかった。最終戦で戸口に勝って憂さ晴らしかな? >>694
永源と林の試合はなんなんだ。
前座の最初の方の試合で両者リンクアウトなんて有り得ないだろ。 前年の第11回大会は、NETの定期放送も始まり視聴率確保のために
猪木の格上げや初優勝にも関連性があったと思う。
誰がシナリオ書いたか知らないが、地方興行で動員力のあるブラジル・モンスーンの
格を落とさずダークホースのマルコフを持ってきたのは見事
決勝トーナメントでエース馬場と引き分けたブラジルに傷はつかず
モンスーンにいたっては中盤の山本小鉄戦での「大番狂わせ」
ジャイアントスウィングからのフライングボディプレスを寸前でかわされ
フォールの小鉄を場外に吹っ飛ばすがスリーカウント入り、アクシデント的に脱落
同じ日、馬場はマルコフにジャイアントバックブリーカーで完勝
ブラジルより落ちるがモンスーンも格は維持されてるから
第14回大会もエースとしてマッチメークが組めた。 1969年5月16日〜第11回ワールド大リーグ戦 (東京都体育館=観衆9,000人)
Wリーグ決勝Bブロック 30分1本勝負
アントニオ猪木(17分45秒 卍固め)クリス・マルコフ
*猪木初優勝
Wリーグ決勝Aブロック
ジャイアント馬場(時間切れ両者失格)ボボ・ブラジル
タッグマッチ30分1本勝負
○坂口&吉村(17分18秒 背骨折り)メディコ3号&●アンドリュース
20分1本勝負
ゴリラ・モンスーン(2分31秒 ベアハッグ)大熊元司
ペッパー・ゴメス(9分59秒 体固め)山本小鉄
星野勘太郎(10分57秒 逆エビ固め)メディコ2号
ボビー・ダンカン(6分37秒 片エビ固め)永源遥
15分1本勝負
松岡巌鉄(12分13秒 回転エビ固め)北沢幹之 >>694
>*馬場4度目の優勝。2本目のネックブリーカーはドリー戦以来2度目
2回目は前年暮れのロスでのエリック戦
かなり不格好だったからわかりにくいけど >>697
第11回Wリーグ戦でのモンスーンは、開幕戦で馬場にピンフォール勝ちしたのが唯一の見せ場で、以降は、猪木、大木、更には山本小鉄にピンフォール負けという結果で冴えませんでしたね。
第12回のWリーグ戦は、馬場が巻き返して優勝しましたが、猪木も、唯一人、リーグ戦でジョナサンにピンフォール勝ちして前回優勝者の面目躍如しましたね。 >>700
ロスの“空中首折り落し”はタイミングが合わず、ジャンピングスリーパーから
強引に引き倒すように叩きつけたと記されているが、
ジョナサンに決めた時も写真を見る限り同じような感じだね。
https://white.ap.teacup.com/corona/img/1265926190.jpg
第12回大会は、初来日でインタータッグを奪ったターザン・タイラーの絶不調と
グレート・アントニオの2匹目を期待したコンビクトのメッキが
大会序盤で剥がれたのが痛かった。 >>702
いや、この試合は見ていたけど、ジョナサン戦の「ジャンピングスリーパー」はかなり派手に決まったよ。 >>703
日大講堂はロンドンのロイヤルアルバートホールを模した造りらしいです。
一度はあの独特の会場の3階席あたりで観たかったなぁ〜
全日初期のビッグマッチや、新日もWリーグや吉田光雄デビュー戦で使用
未だに語り草のテーズvs草津戦もここだったw
>>704
ネックブリーカーというと、馬場が三沢からフォールを許したのも
トップロープからのダイビングネックブリーカーでしたね。 俺は83年に
馬場ドリーx猪木ホーガンが見たかった。
忖度で馬場組の勝ちか。 >>705
力道山デビュー戦も日本初暴動も日大講堂 >>706
さすがに猪木ホーガンの勝ちだろw
そのかわり、ハンセンブロディ対猪木ホーガンは、
超獣組の勝ちでバランスを取ればいい >>706
79年に新日本プロレス主導で発足したようなコミッショナーじゃなく
3団体が納得できる統一コミッションがあったら
年末だけでもテレビ局が交互に放映できるタッグの交流戦・対抗戦が行われ…
…こんな夢を何度見たことかww
プロレスの暗黙ルール(ブック)破りは厳禁‼
(違反した場合、テレビ局に膨大な罰則金が請求される)
ちなみに国際プロレスもコミッショナー傘下になるが
ローカル局で年末タッグリーグもなかったし、二階堂進に認定宣言を依頼したのも
80年後楽園の4大タイトルマッチの1度だけ(お車代が高かったらしい)
国際の場合は団体混合タッグ対決になるかなw >>706
その3年前でそんな感じのカードなら
馬場ドリー×猪木ゴッチとかになるかな。
また3年後なら
馬場デビアス×猪木マードックとかどうかしらん。 >>711
プロレス団体は所謂、芸人の集まり…芸能プロダクションだよね、そこにまっとうなコミッショナーとかつかんだろ >>713
今は理解できるけど、あの頃は馬場も「主旨は賛同する」ような発言をしていて
ファンから見ると機運が高まる雰囲気もあったから期待もしたもんだよ。
まぁ出来レースの仕組みがわかると、新日と国際が手を組んで
全日だけを陥し入れているような感じだった(BI対決と同じで、馬場は本音を言えない) テレ朝と日テレの両方に話をつけられる人物がいればよかったんだがね
テレビ局を抑えたら馬場も猪木も文句は言えない >>701
12回大会の途中で大木がジョナサンを韓国に連れ出してアジアヘビー戦で負け役をさせていたとか
それで以後の韓国での興行支援を拒否されてしまったとか >>716
>12回大会(昭和45年)の途中で大木がジョナサンを韓国に連れ出してアジアヘビー戦
大木対ジョナサンのアジア戦は、翌昭和46年の4月だよ。
いくらなんでも、ワールドリーグの途中で、決勝戦進出候補外人を
韓国に連れ出して、負け役をさせないだろ? >>690
カリフラワーアレイの写真で、
コックスとマスカラスの間にいるのは誰だろう‥ >>719
716のこと、ドクがトークショーか本にでも書いたの?
カブキとか、もう記憶力が衰えて、昔話でも事実誤認が多いよ。 >>717
78年にはインターナショナル選手権でもジョナサンに勝ってるね >>206 >>720
問題が発生した日時と選手は間違えている可能性はあるが大筋ではあってるということかな?
実際に起きたこと>シリーズの目玉選手を休日に無断で韓国へ連れ出し興行を行い負けさせた。結果その後の興行協力を断られた。
全日本と金一道場の提携が終わった経緯でアジアヘビーじゃなくてインター、日プロじゃなくて全日本の記憶違いかね。
全日本の興行スケジュールと韓国での大木の興行照らし合わせるとすぐ判りそう。
本当にワールドリーグ戦ジョナサン連れ出しも大木だったらやりそうで怖いところが約50%程ある。
>>722
亡くなった今の所の最後の奥さんはこういう詐欺まがいの事から猪木を遠ざけて守った功績があるという人もいるよね、
猪木の金と名前目当てで近づいた人で自分が先に死んじゃった人だとばかり思ってた。 >>723
全日の時の韓国インター戦は、第6回Cカーニバルにジョナサンが参戦したから
その時にソウルに寄ったんだね
(チャンカーでの大木対ジョナサンは両者リングアウト) 馬場<金ちゃんに一回極められた事があって、金ちゃんはそれをそこら中に言いふらすんだもん
参っちゃうよ
俺はその10倍はあんたを極めてるよ >>725
後輩の馬場に人気でも収入でも負けてるんだから
言いふらす気持ちもわかるが、プロレスは極めっこじゃないしね 日プロの若手だけでガチ最強を決めたトーナメント「関西の牙」
決勝で上田馬之助が星野勘太郎を腕固めで破り優勝
星野「あの試合では負けたけど、その後の道場の極めっこでリベンジは果たしてるよ」
上田「星野が道場でリベンジしたと言いまわってるけどそんな事実はないから!」
昭和のレスラーのプライドの高さが窺い知れる
「ガチで強い」「(客は呼べなくても)ガチなら勝ってる」というのは
昔のレスラーにとって、心の拠り所なのかもな 上田はホッジを極めたとか吹かしまくってるけど、Uとの戦いじゃその片鱗さえ見れなかったな
ただ身体がデカいだけのトロい動きの腹の出たオヤジでしか無かった
日プロ時代だって道場の極めッこなら身体がデカい方が有利だろ
上田のセメント最強説なんてその程度じゃないの >>725
>>726
それだってプロレスの試合中にいきなり腕を極めてきたんだよね。
そんなもん自慢にはならないよww 道場最強とか、ケンドーナガサキが一撃で
KOされた後では笑い話 >725
うろ覚えだけど
「おれはその何倍も胴締めでギブアップを取ってるんだけどな」
だったような気がする >>729
めちゃくちゃ片鱗見せてるぞ…
ただテレビに出る試合ではラフファイトで応じていただけて。
前田vs上田とか、序盤は完全に極めっこの展開なのに生中継始まったくらいの時間で突如の反則暴走負けだったりするんだよ… >>731
競技でボクシングの間合いで打撃でKOされたのがそんなにおかしいのかお前は
桜田は道場最強じゃなくて喧嘩っ早くて有名なんだろ?少しは考えてから述べろ 岩釣が全日に道場破り(?)に来たときの話で
「ナガサキを出すまでもなかったか…」という馬場の科白があった
あれは脚色とは思われるが、道場でも弱くはなかったんじゃないかと。 >>734
駒沢のあの試合は、ナガサキ自身も舐めてかかったと認めているな。
とにかく捕まえて倒し、関節を極めれば勝てると思っていたが
捕まえる前に左フックを食らい、立ち上がって再び捕まえに行ったが
また一発いいのを食らってKO負け。
「最大の敗因は甘く見ていたことだ」…と。
喧嘩をさせたら最強と言われた男が、バーリ・トゥードに挑んだのは47歳の誕生日
キックボクサーの間合いも研究せずに突っ込んで行ったらこうなるよ。 キンボスライスみれば喧嘩最強もMMAじゃ通用しないのわかるだろ 猪木が異種格闘技(プロレス)なんかやったから、MMAで醜態さらす勘違いレスラーが
蔓延ってしまったようにも思う(強さを求めたのか、金目当てか知らないが)
少し実績残せたのはブロックレスナーぐらいか… >>736
ニコ・ゴルドー戦の試合後、ジェラルド・ゴルドーに「このままだとナガサキはフレージャーに負けるだろう、オンリー・ツーパンチだ」って言われてるのよね 初期新日の起爆剤になった、新宿伊勢丹前襲撃事件の日だ
シナリオありきが、ビルホワイト?の証言では途中からシンがマジになったらしいね
翌日の東スポ報道も桜井が現場にいた野次馬からの通報で初めて知って
猪木の自宅で取材した写真が掲載されている。
これが大阪府立の腕折りに続くわけだが、
シンが一躍ヒールレスラーのトップに認知された頃だね あと猪木とニックが最後に対戦した第1回NWAタッグリーグ決勝の日
(70年11月5日 台東体育館=日テレ放送)
60分3本勝負
ニック(33分30秒 体固め)星野
星野(15分20秒 体固め)クイン
時間切れ引き分け⇒10分間の休憩
(この時星野が水を飲もうとし、猪木が「飲むな!」と怒鳴ったのは有名な話)
延長戦 時間無制限1本勝負
猪木(12分9秒 卍固め)ニック
ニックと猪木のシングル初対決は10月4日熊本で行われ(ノーテレビ)
アントニオ猪木(14分43秒 コブラツイスト)ニック・ボックウィンクル
2度目の対戦は10月21日仙台大会でNET放送 60分3本勝負
ニック(0分11秒 体固め)猪木
猪木(0分22秒 コブラツイスト)ニック
猪木(26分50秒 反則)ニック
馬場とニックのシングル対決はこのシリーズではなく、前回64年の初来日の時
7月21日小名浜大会 45分3本勝負で1対1から時間切れ引き分け(初対決)
2度目は8月21日リキスポーツパレスで45分3本勝負。 馬場が2フォールを取る ニックは74年に国際プロレスに来た時にマイティ井上にサマーソルトドロップで負けてるな >>742
その時の井上は、IWA王者になったか、なる直前でしょう?
ニックに勝っても不思議はない。
井上のIWAの初防錆戦の相手も、AWAタッグチームでありながら
ニックではなく、レイ・スチーブンスが選ばれた。 スチーブンスはニックより背が低いからマイテイの相手に相応しいと判断されたか >>743
馬場も猪木もなかなかフォール勝ちできなかった
ニックに、ノンタイトルで井上が勝つのはやはり
納得できない部分もあったけど。
ガニア、ロビンソンと引き分け、ニックに勝ちと、
この時期の井上は凄いね。
ただし後年、全員にリベンジ負けしているが >>738
やっぱりダンスバーンとか桜庭とかヒザ抜けてもシウバと善戦したマレンコはダメなの >>743
スチーブンスの国際プロ初参戦 最初の試合がマイティのIWA挑戦(74年11月4日後楽園)
このシリーズは3度シングルマッチが組まれ全て井上の勝利
スチーブンスは引退後、マイティとの初戦が日本におけるベストマッチと語っている。
ニックのシングルは井上と2度対戦し1勝1敗、木村には反則勝ち、草津と引き分けw >>745
>馬場も猪木もなかなかフォール勝ちできなかったニックに
いや、64年、70年来日時に普通に勝っているでしょ? >>741
>ニックと猪木のシングル、10月21日仙台大会でNET放送 60分3本勝負
この試合は、テレビで見て、よく覚えている。
1本目は、試合開始直後、猪木が飛び出したのをニックがドロップキック3連発で
先制フォール11秒。2本目、同じようにニックがドロップキックを仕掛けるが、
これは外されコブラに切って落とされ22秒でタイ。
3本目は、テクニック合戦になったが、その前後のドリーやブリスコに比べると、
やはりニックは落ちたよ。で、パートナーのジョン・クインが乱入して反則負け。
確かにニックはタッグリーグ決勝戦に進出するなどレスラーだとは思ったが、
世界王者級とは思えなかった(ニックが健闘というより、同タッグリーグにエース格
として来日したEラッドとRジョンソンが不甲斐なかった)。
「ゴング」にこんな記事が載っていたよ。「ニックはアメリカでドリーのNWAに数度、
挑戦しているが、日本でG・馬場のインターに挑む資格はあるか?(いや、ない!)
それほどインターは権威がある」この70年の来日時でニックは36歳のちょっと手前。
まぁレスラーとしては年齢的にピークだった。レイスやマードックがその後、
成長することはあっても、ニックは伸びしろがないと思ったよ。
74年の国際来日時で40歳。この時もAWAタッグ王者として来日したが、
印象は薄かった。そのニックが75年にAWA王者になったのは意外だったなぁ。 >>749
だから「なかなかフォール勝ちできなかった」と
書いてるじゃないのよw
猪木も70年の時は上にもあるように、3本勝負で
2フォール取れてない >>751
貴方のように3本目までの記憶はないけど、速攻で取って速攻で取り返した
あの試合は妙に印象に残っている。
それと第1回の決勝戦が日本テレビ放送というのも意味深だね
第2回からはNET中継で、試合後にリング上で倍賞美津子が紹介されていた。
あと、ガニアの後継 AWAベルトはロビンソンが巻くものとばかり思っていたよw ニックの全くブリッジしないフロントネックチャンスリードロップの映像って無いのかな >>618
まあリアルタイマーではないが
あれ程動きが速い馬場さんは見た事無い
何で普段のリングであの動きをしなかったのか
あとハンセンを叩きのめしたのも謎 >>752
面倒な奴だな!
>猪木も70年の時は上にもあるように、3本勝負で2フォール取れてない
上って、>>741のことだな?よく見ろよ。
70年猪木対ニックは、2勝。そのうちひとつは1本勝負で
>10月4日アントニオ猪木(14分43秒 コブラツイスト)ニック・ボックウィンクル
ギブアップは「フォール勝ちではない」なんて言い訳はするなよ!(苦笑)
もうひとつは、10月21日仙台大会で60分3本勝負2−1(3本目反則)だな。
64年、馬場とニックのシングル対決は俺も見たわけではないが、
1勝1分け、その内、「8月21日リキスポーツパレスで45分3本勝負。 馬場が2フォールを取る」とある。
馬場、猪木が4回戦って、2回フォール勝ちを収めた。
これで「なかなかフォール勝ちできなかった」と言えるか?国語を学び直した方が良いよ。
もう、相手にしないから反論するなよ。 >>756
猪木も「3本勝負で2フォール取れてない」と
書いてるのに、30分1本勝負の話を持ち出してどうすんだよw
てかそこまで意地はる話題かねw ちなみに井上がニックに勝ったのは3本勝負。
なので猪木の3本勝負と比べるのは妥当性があるはず。
「なかなか」フォール勝ちできなかった、とか
「3本勝負では」とか、こちらも注釈つけて
書いてるものを無視して、「国語を学び直せ」とはねえ。 ニックの相棒ジョニー・クインも、日本ではタッグ屋の印象で終わったね。
MSGでケンタッキー・ブッチャーの名でサンマルチノと抗争していたから
シングルでも活躍すると思われていたけど、
国際にビッグ・ジョン・クイン名義で来日し、ラッシャー木村に挑戦したくらいで
やっぱり目立ったのは77年にクルト・フォン・ヘスとのコンビで
IWA世界タッグを戴冠したことだった。
84年のIWGP参戦も猪木と久々の再会で少しは期待したけど、全く活躍できなかった。 ニックは馬場と猪木に早々と寝ちゃったため過小評価されちゃった感がある。
来日のタイミングや団体が悪かったのも拍車がかかった感じ。所々の良いところはあるけれどね。
既にトップ中のトップだった馬場もニックに初めて会ったときから自分よりずっと先輩で格上の選手として接する位、関係者の評価は高いのにな。ファンがニックの良さをはっきり判ったのは鶴田からAWA取られるまで待たなきゃいけなかった。 馬場、猪木は若くしてトップに立てたのに比べて
ニックは年上なのにかなり遅咲きだからなあ
60年代とかはニックはどんな活躍してたんだろう?
あまり語られてない >>761
ニックの最古の記録は54年8月22日メンフィスでの対レイ・ヴィルマー戦
父親のウォーレンが、いきなりの檜舞台には立たさず
テネシーで試運転させたと思われている。
その後、北米のあちこちを回りサンフランシスコで最初の脚光を浴びる。
(62年11月10日カウパレスでWスナイダーと組んでK渋谷&M荒川から世界タッグ奪取)
63年10月からオレゴン地区に入り64年2月20日遠征してきたNWA王者テーズに挑戦
引き分けて6月までここにいて、そして初来日となる。
丸1年後オレゴンに滞在したのがミスター・カジモト。すなわちアントニオ猪木だった。 >>757=758=スップ Sd12-Oc6r
キミ、見苦しい。
意地を張っているのはそっち。
国語だけではなく、すべて学び直した方が良いよ。 猪木とニックのシングルは遅くても80年頃に見たかった。
90年12月に浜松アリーナでエキシビション組まれた。
しかし猪木欠場で実現せず。
ニックは地味に大きくて体もしっかり作っていた。
テクニシャンでもパワーはかなりあったとドリーが言ってた。
またウォリアーズをリングでネチネチ制裁とか。
こういう事はガチの強さがないとできない。 70年のタッグリーグの時だ。
馬場ヒライ対ニッククイーンの対戦で、
ニックが3本目の決勝フォールを取ったんだよね。
それもショルダースルー一発で。
馬場が決勝フォール取られるなんてことはないから
驚いたわ。
決勝もラッドジョンソンが進出と言われていたのが、ニック組になったし。
その頃から地味だが「実力者」という雰囲気は確実に出てたよ。 >>765
翌年のUN選手権1本目の決まり手も、ショルダースルーじゃないけど
似たようなフィニッシュだった(コブラツイスト狙いを強引に押し倒す)
こんなのでフォールか?と思った。
ニックの場合ショルダースルーからのフォールまでが早いよね。
タッグリーグは何で馬場は猪木と組まないんだ? 当時はそう思ったよw
考えてみるとミツ・ヒライのレスラー人生でも、最初で最後の大舞台だったね 鶴田に王座取られた試合も、ニックのショルダースルーからフォールのタイミングが、無茶苦茶速かったんだよね。 >>718
カブキ凱旋試合の相手ジム・デュランか、或いはWWEジム・ロスかな? >>766
70年の第1回NWAタッグリーグ戦で、星野勘太郎はフライングヘッドバットでブレークしたね。
このシリーズは、猪木に華を持たせるために企画されたシリーズだったけど、終わってみると、星野のためのシリーズになったね。 他スレでは出生がどうのとか言ってるけど、そんなのはどうでもいい。
一度は馬場&星野や小鉄の凸凹コンビも見たかったな〜 猪木は国際と合同興行した時、ダニー・ホッジにナックルパンチ喰らってKOされたんだっけ >>772
日プロ来日時だったと思う。
何かでキレて猪木をノックアウトしたらしいねw
脇を締めたボクサーパンチで、、 >>772
アメリカじゃなかったっけ
なぜかホッジが言うには前触れもなく突然猪木が仕掛けて来たらしい ホッジは性欲が満たされてないと試合中にキレることがあったと
上田馬之助が語っているw
その手のエピソードは、他にもあったような… 猪木はオクラホマでホッジのジュニア王座に挑戦していたとか wiki ではテリーのオリジナルになっているテキサスクローバーホールドを
1973年に猪木が使っているね‥(テリーがいつ開発したのか知らないが)
https://livedoor.blogimg.jp/jabura9136/imgs/4/a/4ac2074f.jpg >>777
似てるが腕の入れ方・両足首のまとめ方が違う。
テリーのも恐らくそうだろうが、
アマレスのアンクルホールド(うつ伏せ相手を両足首を絡めてひっくり返し、回転させてポイントを奪う技)からの発展かと。
(プロレス的には仰向け相手の足側から攻め入ることも可)
少しムリがあるが、写真の猪木の方は多分吉原かゴッチとのトレからの技と推測します。
テキサスクローバーの方がポピュラーなのは、両方多少ムリがありながら、それでもクローバーの方がアマレスのアンクルホールドなどからの流れに沿い易くかつ仕掛ける際のプロセス・攻防に華があるからかと思われます。 >>777
この技に限らない話だけど技自体は古代からあって、実践的でないや見栄えがが悪いなどの理由であまり使われずに埋もれすっかり忘れ去られたときに変わり者が再考案する。
車輪の再発明みたいなことを繰り返しているのではないだろうか? テキサスクローバーはマレンコが「秘蔵の技」として後楽園かどこかで紹介したことがある。
当時、なんだテリーのあれじゃないかとビミョーな空気が流れた(個人的に感じた)記憶がある。
パクリではなかったかもだが、逆にレスリングのアンクルホールドを知っていればテキサスクローバーはその発展形として着想し得る技でもあるとパクリ疑惑?残念反応のマレンコには同時に理解とその創意工夫へのリスペクトを覚えた記憶があります。 ヒットマンのシャープシューターは、新日本来日時に盗んだんだろ?
WWE(WWF)ではアレンが延髄斬り流行らせたり、
アナコンダバイスやゴートゥスリープ等々、日本の技が蔓延っているな。
大昔からあるSTFもジョン・シナがフィニッシュ技の一つに使っている。 >>785
長州のサソリをスパーリングで試して(あ、これマジで足極まっちゃうからヤベーわ…)と思ってわざと組み方を逆にしたのか、それとも何となく形を真似ようとして素で間違えてるのか、それが気になる >>787
どっちの可能性もあるだろうね。
ただクツワダが掛けると腰高になるから、大型レスラーには相応しくない感じがする。
体型的にこの技は長州にピッタリなんだろうね
長州はクツワダの2年後、ゴッチに伝授された。 レトロファンの間でも殆ど話題にならないのが第3回NWAタッグリーグ戦w
決勝戦が坂口高千穂の九州コンビと地味すぎるハミルトン兄弟(72.10.31大阪)
高千穂の出世試合と言えるのかもしれないが
ダブルメイン第1のホッジvs松岡のNWA世界ジュニア戦の方が見応えがあった。
https://livedoor.blogimg.jp/norarinhouse/imgs/4/7/4758de61.jpg
総括してみると第1回は猪木が星野の格を、第3回は坂口が高千穂の格を
ワンランク上に押し上げたというか…
タッグリーグは年々、大会の規模や外国人レスラーがショボくなっていった印象がある。
また、第2回第3回のシリーズ終了後に猪木と坂口が挙式をあげたというのも
その後のマット界再編に少しは影響を与えたのかな?
(馬場夫人の元子さんと、坂口夫人の利子さんが犬猿の仲という噂)
https://livedoor.blogimg.jp/norarinhouse/imgs/6/f/6fc6dcb1.jpg
タッグリーグ戦が成功するには1局独占中継でやらないと
テレビ局の思惑等が出て、チーム編成がおかしな事になるね。
年末タッグリーグが定着するオープンタッグの大成功まで、あと5年か… オープンタッグまで「タッグリーグは当たらない」ジンクスがあるとされていたけど
今見るとNWAタッグリーグが当たらないのはメンバーに問題があるのは明白。
日本側はいうにおよばず、外人も強力メンバーとはいいにくい
オープンタッグのやる気あり具合は外人見ただけで段違いだもの。
NWAタッグリーグの頃の外人なら
ブルクラ、ブラジルジェームス組、デストライオン組が来てる感じだからね >>790
秋の長期シリーズじゃ難しかったんだろうね。豪華外人を揃えるのは。
第二回は年末開催だったら
●ドリー、テリー組
●サンマルチノ、デヌーチ組
●マードック、タイラー組
●パドーシス、スタインボーン組
●馬場、猪木組
●坂口、吉村組
●大木、上田組
●星野、山本組
これに
●コワルスキー、オースチン組 残留
くらいでやれたかも。 >>791
71年にファンクスのリーグ戦参加は無理だろうな
ドリーがNWA世界王座を保持していた。
レイス、テリー、マードックの中から1チーム結成できたらおもしろい。 >>791
このメンバーで、全日の最強タッグ戦のように
日本、外人チーム総当たりなら、かなり話題になっただろうが、
(と言ってもファンクス対サンマルチ、BI砲対坂口の絡みくらいだが)
ワールドリーグのように日本対外人なら、普通に71年ワールドチャピオンシリーズで
B1砲が前半戦、サンマルチノ組、後半ファンクスと対戦したのと同じ。
日本側にもBI砲に対抗できるチームがないなぁ大木&坂口でも駄目。 第2回NWAタッグリーグは、猪木&坂口組の売り出しだよね。
おそらく翌72年には(猪木追放がなかったとして)、吉村が退いて、
このチームがアジアタッグ王者に就いていた。 >>795
追放がなくても猪木坂口のアジアタッグは無いと思うよ
日本テレビが猪木の3冠王(UN、インター&アジアタッグ)を阻止すると思う。
その代わり第14回ワールドリーグは猪木3年ぶりの優勝かな?
アジアタッグは吉村が引退して大木坂口が戴冠するとバランスが取れる。 >>792
実際にファンクスは71年の暮れに2週間のスケジュールで日本プロレスに参戦してるけどな。 >>796
>日本テレビが猪木の3冠王(UN、インター&アジアタッグ)を阻止すると思う
と言っても1971年3月の時点で猪木は、すでに3冠王なのだが、、
猪木&坂口のゴールデンコンビを売れ出さない手はないよ。 黄金コンビをプッシュしたけど東京体育館ガラガラだったんだよね
実数2000〜2500人だったとか >>798
そうでしたねw 71年の猪木は3冠王でした。
アジアタッグを吉村と保持していたのを忘れていました
NETでは馬場NGだからインタータッグは放送できなかったんだね。
この流れだとクーデターさえなかったら…悔やまれる。 なまじ猪木にUNを取らせたことで、猪木のインター獲得の目は無くなったとも言える。
しかもテレビ局2局かからむ複雑な状況。
クーデターがなかったとしても、1972年、1973年。
どこかで日本プロレスは煮詰まったのでは >>802
煮詰まることが目に見えてたから
猪木は71年の時点で対馬場戦と日本人対決を訴えたんだよ
日本人対外人の路線で限界が来てることは
当時の雑誌を見ててもよくわかる
「また、前に来た外人かよw」という投稿が多い テレビ中継の試合組んで馬場に恥かかせて、自分の人気上げようという魂胆見え見えの猪木
それがわかってたら対戦なんてする訳ないよな、馬場にとって何のメリットもない >>802 >>803
猪木が低迷するプロレス人気を危惧して、純粋に馬場への挑戦を表明し
プロフェッショナルとしてアングル通りのプロレスやろうとしていたのか?
セメント仕掛けても目の上の馬場を引きずり降ろそうとしていたのか?
その辺が分からないんだよな…
団体対抗戦なら金を積んでも勝たなきゃ意味ないけど、
同一団体内だから尚更
口では「一度くらい負けても、また挑戦すればいいんですから」とか言ってたけどね。 猪木に「その先」を考えた言動があるかどうかを考えてみて。 >>806
69年のNWA世界2連戦で沖識名がシナリオ作りで困窮していた時、マネージャーとして
同行していたシニアが「日本のトップである馬場には花を持たせドローマッチでも
構わないが、ナンバー2の猪木ともドローではNWA王者としてのプライドが許されない。
猪木にはきっちり勝って、チャンプの強さを日本のファンにアピールしたい!
2試合とも連続ドローではファンも消化不良を起こすだけだろう。
それとこれは小耳に挟んだ話だが、猪木は不意を突いてセメントを仕掛けてくる
危ないスカンク野郎というじゃないか⁉」このようにシニアに詰め寄られ
沖は困惑した。
シニアはユセフ・トルコも猪木の親衛隊長と思い、不利なレフェリングと猪木の
不意を突いたセメント仕掛けを阻止する為に、愛弟子のハーリー・レイスと共に
セコンドで目を光らせ、レイスには「猪木が不穏な動きを見せたら直ぐさまリングに
駆け上がり奴(猪木)を潰せ!」と厳命を発していた。 【門茂男メモから抜粋】
これは虚実混じった門の話だから、どこまで信用していいか?なんだけど
おそらく馬場派レスラーや幹部の間でも『猪木は信用ならない』があったんだろうね
この話が本当なら誰かがシニアにタレ込んだ訳だから。
まあ独立してからの猪木の成り上り方を振り返ると、明らかに無理難題・イメージ戦略
プロパガンダでファンを煽動し、馬場を貶めていったからねw 日プロ時代にBI対決しようとしたら、負けた方のテレビ局のダメージが大きすぎて出来ないよね。
やれる可能性としたらどちらかの局の撤退と馬場の国内セミリタイアのタイミングを合わせてやるしかない。
うまく馬場から猪木へのエース交代ができても当時の猪木じゃ観客動員や試合内容に不安ありすぎる。更に本国でのポジションが高い連中やガチンコの実力者が猪木に良い格好ばかりさせる訳もなく、善戦マン猪木が誕生する可能性が高いと思われる。 二局放映問題が本当にややこしかったなあ。
日テレ1局放送なら、馬場→猪木のインター王者交代もできたと思うけど、2局放送で、両局とも「猪木エース」になっちゃうと、日テレはアドバンテージがなくなるから、馬場エースにこだわったはず。
結局馬場インター、猪木UNの体制を維持していくしか、やりようがない。
そういう事情から言うと、馬場に早期引退の意向があっても、それを認めてしまうと、日テレもNETも
同じレスラー陣容になってしまうので、これも日テレは反対したんじゃないか。
どうやっても煮詰まってしまう。 二局体制といっても4には全部出るけど10には馬場が出ないという
変なバランスとはいえないバランスだからよけいにおかしいんだ
4が馬場坂口吉村 10が猪木大木
みたいな班分けがあったらまだ綱引きができただろうが10からしたら
馬場を出せ、をしつこくしつこく要求するだろうしね >>811
>4が馬場坂口吉村 10が猪木大木
それではインタータッグ(BI砲の試合)もアジアタッグも
放送できなくなっちゃうよ(苦笑)
大木もよく韓国に行ってしまうし、10が猪木と大木だけ
というのは不安だね。
元々、10には、馬場のみならず坂口も出ないと言う
取り決めだったと記憶している。
まぁそれでは、弱いので出るようになったのだろうが、 4にも10にも馬場猪木は出る。
ただしインターシングルとタッグ、ワールドリーグの決勝の放映は4に限る。
みたいな取り決めだったら、猪木と馬場のエース交代も柔軟にできたんだろうが。 流れとしては最初の取り決めが、馬場&坂口、インターシングル&タッグ、
ワールドリーグ公式戦&優勝戦を日テレ独占中継
NETは猪木・吉村・大木を中心に、ヤマハや上田等の中堅、UN、アジアタッグ中心
だったのが、71年にはワールドリーグ公式戦のみ解禁
年末に猪木追放で坂口登場
72年4月馬場登場⇒日テレと大スポンサー三菱電機が激怒して中継打ち切り決定 >>816
69年7月からNET中継が始まっているから、70年最初のWリーグから公式戦と坂口登場を
強行?させているのか・・(遠藤のゴリ押しかな)
関係ないけど、9月30日ダイアモンドシリーズ愛知大会で
山本小鉄vsスティーブ・リッカード戦があるねw 72年のワールドリーグ優勝者をどうしたか、見当もつかない。
また馬場猪木同点で、今度は猪木優勝か。
猪木が単独で決勝に出るが、外人に負けるか。
意外にも坂口が決勝進出するか。
どれもいかんな。
馬場か猪木の途中負傷欠場しかないか。 外人に優勝させる時代ではまだないとはおもうが、その外人の顔によるよなあ
モンスーンは違うし、ブッチャー、マードックではまだまだ。
キニスキーかエリック、ブラジルが来ていたら、ありうるか 487 お前名無しだろ (ワッチョイW e36d-0zgZ) 2020/10/01 11:32:30
>>482
いつから?力道山の時代からだね
格闘技にしろ、リング上では無くとも事前に会見やらで舌戦を繰り広げるのは普通
プロレスに何を求めているんだ?
503 お前名無しだろ (ワッチョイW 8324-yKFi) 2020/10/01 20:18:42
>>487
力道山がどうしたってw
どうでも良いけどゴング創刊年(1968年)のバックナンバーがヤフオクで古書転売業者に衝撃を与えた一円落札されて早一年w
流センセ曰く、十数年前には200人位いたカイコプロレスマニアが鬼籍に入って今は50人くらいに減ったからじゃない?
新たな世代交代の懐古マニアも出てこないしねぇ、だってwww
大暴落では〜い、レトロプロレス終了ーーー( ´,_ゝ`)プッ
https://aucfree.com/m/search?from=2019-11&o=t2&q=%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B0+1968&to=2019-11
この後、この年代の出品・落札履歴なんかも殆んどナシw
数年前は一札3000円位で落札されてたのに昭和レトロプロレスアイテムの超大暴落っぷり見てると馬場崎町ダノン猪之木町だのってこの辺は「本当に」オワコンだなw
市場は正直だからな
679 お前名無しだろ (ワッチョイW 8324-yKFi) 2020/10/05 12:02:42
>>503 のソース拓取ったから啓蒙ついでに貼っとこう
http://imepic.jp/20201109/423720/js5T
ゴング創刊号(1968)年の各号がついにオクで一円落札に…(笑)
流智美先生曰く「この辺のプロレスの懐古ネタってのは、ただ知ったるだけで何も生まない。
他の娯楽・スポーツジャンルのレトロソースには大概は後世のファンにとっても教示・教訓的な要素があるけど、プロレスにはそれが全く無いから、それを掘り下げてみようっていうマニアも出てこないんだよ。」ですと。
馬場だの猪木だの木村だの、彼らがやってきた事績のどこを探しても、今さらそれを語って人間的な深みを増すような要素は皆無だからね。とつけ加えた(笑)
浅薄な懐古ヲタ系全日本&スターダムヲタが日夜ネットに碌でもない書き込みして、愚にもつかない日常・人生を送ってきたのがそのもの確たる証左だな >>812
力道山と東郷が組まなかったら、東海岸の一流選手が来日しない→マンネリ化が加速→力道山の衰えでプロレス消滅かな。
他のラインで外人呼んでも馬場がブレイクしないので力道山死亡でやっぱり消滅コース。
馬場全盛時代BI時代に新日全日猪木全盛時代みんな無かった時間軸へGOか。 >>820
猪木に「決勝はキミに進出させるが、優勝させるわけにはいかないので、
負けてもいいレスラーを言ってくれ」と頼むしかないかなw
キニスキーかカールゴッチと言いそうだがw
次シリーズのUN戦でリベンジする条件で、何とかならんかねw 結局 BIは袂を分かつ運命なのかもしれないけど、NETの参入がそれを加速させたね。
>>818
確かに72年に猪木が在籍してたらマッチメークが難しくなるね。馬場の連覇も⁇
同率首位で3回もBI対決がなかったら変だし、負傷で馬場の棄権も不自然に映るかなぁ
国際ではロビンソンが連覇しているから
下り坂だけど馬場派モンスーンが意地を見せて優勝もありかなw 13回のワールドリーグで、馬場猪木が16.5点で、
外人側のデストロイヤー、ブッチャーは13点という風に
無茶苦茶に馬場猪木の地位を上げちゃったから、
外人を勝たせるのも難しいのは確かでね。
まあ日本プロレスも本当に、次のことを考えず、いや考えられずに
その場の取り繕いでいっぱいいっぱいだったんだろうねえ >>807
仕掛けてきた時のためにシニアとレイスが目を光らせてたはいいが
猪木にも引き分けるわけにはいかないって話はどこに行ったんだ
結局猪木ともドロー防衛やってるじゃん
しかもそのうち一戦はジャーマンで一本取らせてるし 出戻りの猪木がNo.2やっていることに不満を抱いている選手たちも多かったしな。
天から降ってきたようなキャラの立ちまくった最高のタッグチームに2局のテレビ中継による空前の好景気、でも内部はバラバラこの先進む道が無い。 >>820
猪木が日本プロレスに残っていたとして
1972年のワールドリーグで優勝しても納得がいく外人
>キニスキーかエリック、ブラジル、
この辺は、もう下り坂だし、手垢が付いている。
ただひとり
ビル・ロビンソン >>827
不満抱いてたのって大木金太郎、吉村道明あたり?
出戻りと言っても人気で猪木に勝てないからどうしようもねえな >>826
日プロとしてもNETのエースになった猪木にも負けさせる訳にはいかないから
その辺はシニアとの交渉だろうね(特別ボーナス支給するとか?)
試合自体は、新兵器のフライングネックブリーカードロップと
スピニングトーホールドで取り合ってのタイムアップという
沖が裁いた古いパターンのシナリオと
トルコがコントロールしたノーフォールマッチの斬新なシナリオが
新旧の対比になり、結果 猪木の名勝負として語り継がれることになったね。 >>828
ロビンソンは、74年AWAガニア・75年NWF猪木・76年PWF馬場
3年連続して蔵前でビッグタイトルに挑戦しているのが何気に凄いな
69年に全米に進出して、NWAドリーとは2度の引き分け試合
72年だと30代前半だから、75年の猪木戦より良いコンディションじゃないかな、、 46年ぶりに見たw
PWFヘビー級選手権 (1974年1月30日 日大講堂)
ジャイアント馬場vsドリー・ファンク・ジュニア
https://youtu.be/c8KxenjMkF8 1971年12月インタータッグ選手権vsファンクス見たかった >>834
ジュニアって負けブック飲まないよな
シングルで負けたの見た事無いわ >>837
82年にブロディにフォール負け
73年に馬場にリングアウト含みの3本勝負負け >>834
馬場くらいデカイとダブルアームやバックドロップ喰らうのは危険だな。
ダブルアームが一瞬滑ってうっかりタイガードライバーになりかけてる。 >>838>>839
樋口吹っ飛ばされた間に幻の3カウントあるけどな
最後のバックドロップをコーナーを蹴って返すの下手すぎ
https://www.youtube.com/watch?v=qpttYHUdtd0 シングルじゃないけど、
82年のファンクス対ハンセンスヌーカで、
ドリーがスヌーカに完全フォール負けしたのは驚いた。
別に前哨戦でもなかったし、その後のリベンジもなし >>834
東京体育館のフルタイム戦とくらべると
約4年で馬場の動きが随分遅くなってるのがよくわかるなあ そんなドリーは馬場のPWFベルトを無断使用(海外遠征用に預けていた)して
テキサス・カンサス版インターナショナル王座の防衛戦を…w
https://livedoor.blogimg.jp/kingaron/imgs/2/b/2b0194d4.jpg
思えば 馬場のPWF王座(争奪戦含め)に挑戦したレスラーで、今も存命なのは
ファンクス・ハンセン・ブッチャー・シン・ラシク・マルコフ・パテラ
それとスーパーデストロイヤーIIを名乗ったSスローターくらいで
インターナショナルの方は全滅かな?(Sアリオンがハッキリしない) >>844
>インターナショナルの方は全滅かな?
PWF挑戦と被るなら、ファンクス、ブッチャー、マルコフがいるが、
純然にインター「だけ」に挑戦した選手なら、そうなるかな? [ドリー初来日からシングルでの負け試合(69〜85年までの試合記録)]
73年9月8日(福岡)PWFヘビー級選手権で馬場にリングアウト負け
75年12月6日(東京)オープン選手権でブッチャーに反則負け
81年10月9日(東京)インターナショナル選手権でブロディに反則負け、王座移動
82年4月21日(大阪)インターナショナル選手権でブロディにフォール負け
83年12月8日(宮城)最強タッグ夢の対決でブロディに反則負け 72年のWリーグに猪木が出ていたら、猪木とトルコ等の猪木グループは、馬場は2年連続で優勝したから猪木に優勝させろと要求しただろうね。
NETも使って、日プロのダラ幹にプレッシャーかけて、ダラ幹は猪木優勝を容認したのではないかな。
その場合、外国人のトップはモンスーンではなくバレンタインで、馬場はリーグ戦終盤のブッチャー戦で負傷しリーグ最終戦を欠場して、又は同点の4者によるトーナメントでブッチャーと両者リングアウトとなって、猪木対バレンタイン戦が優勝決定戦となり猪木が勝って優勝じゃないかな。
ただ、この時のダラ幹の対応が原因で、馬場は日本プロレスを離脱し、水面下での日テレのバックアップを得て、新団体を設立となったのでは。
そして、猪木はダラ幹たちの使途不明金を追求して日本プロレスから追い出し、出戻りの猪木アゲに不満を持っていた、大木金太郎や、芳の里・吉村道明の子分たちは、馬場の新団体に移籍となって、結局、同じ結果になっていたような気がする。 いいねぇ!ジョニー・バレンタイン
70年に日プロ初参戦でキニスキーとのコンビでBI砲に挑戦した時には
後輩のキニスキーが気を使ってたらしい。
なんせ46年スタニスラウス・ズビスコにスカウトされたんだからね
新日本ではJパワーズよりJバレンタインと猪木のNWF戦が見たかったんだけどね
https://stat.ameba.jp/user_images/20190605/06/faito3ds-2019/bf/da/j/o0939127514431321821.jpg?caw=800 >>848
やっぱり少ないな
しかもフォール負け一回だけって
オープン選手権でも馬場にフォール勝ちしてるし、元NWA王者でもテーズやキニスキー、レイス、ブリスコなんかはフォール負けブック飲んでるのに、ドリーは何故フォール負けを拒否したんだろう >>851
ドリーは70年代までは
全日最強外人だからね
貫禄では現役NWA王者以上だった
簡単には負けさせられないよ
ただしオープン選手権以降はその設定を生かせてなかったのも確か
シングルでの見せ場がタッグリーグ中の夢の対決ぐらいしかなかった >>849
まあ馬場負傷欠場→猪木優勝のパターンしか
なかったと思うけどねえ。
馬場猪木の同点も3度目だと、もう2人が対戦しないことが不自然だし。
それかもうワールドリーグ自体を廃止するしか
手がなかったかな。 突然思い出したが、1971年のワールドプロレスリングで「来週はNWAタッグリーグの決勝戦の模様を
お届けします」と告知があって、衝撃を受けたことがある。
その時点で決勝進出者は未確定で、馬場吉村組にも
進出の可能性があった。
「もし馬場組が進出したら、NETは放送できるのかな」と、子供ながらに疑問に思ったものだ。
そして馬場組は最終戦で、3本勝負の1本でも取れば、決勝に出られる状況だったが、コワルスキー組に1本も取れずに惨敗して、決勝進出は猪木坂口組になった。
そしてワールドプロレスリングで猪木坂口対コワルスキーオースチンの決勝戦が中継され、猪木組が優勝した。
この時子供心に初めて、プロレスに対する疑念が生まれた。「馬場が出場できないNETが決勝中継する以上、馬場組が進出できず、猪木組が優勝することはら最初から決まっていたのではないか」と。
馬場猪木の対立、2局放送体制には、こういう問題があった。 >>854
なかなかのベテランですね。その頃は疑念を抱く年にはまだ無理な年でした。
>>849
馬場は連続出場を切らすことはできないでしょう? 本人はきっと負けブックよりも飲めない。
ハンセンブロディのパイルドライバーで連続出場が途切れたのはその十何年後だもん。
猪木を優勝させるのに、連戦して引き分け、(あとの試合で)勝った方が優勝のパターンも三度目だときつい、みえみえ。
ちょっとした改変で、@猪木(引き分け)外人、ここであぁ馬場が勝って優勝か、と思わせておいて
A馬場(ノーコンテスト両者失格)外人
B猪木が再試合で外人に勝つ、みたいな小手先の技を使えばなんとか。 >>856
馬場の連続出場は日プロ時代は全然問題にならないのでは?本人もずーっと後の3000試合連続出場に気づいてなかったし。
自伝その他で連続出場絡みで書かれている事だとアルバート・トーレスのヘッドシザースで失神し翌日休みだと思ったら豊登に即出場を頼まれたことや、
逆にインフルエンザで欠場しろと言われてるのに強行出場したエリックとのインター戦なんかがあるね。このどちらかでも休んでおれば連続出場は途切れてた。
あと日プロ離脱表明後、当然のように欠場する可能性も十分あったかな?大エース馬場が欠場すると地方のプロモーターに恨み買っちゃうから無理か。 >>857
確かに日プロ時代は連続出場は気にしないかもしれないですね。
でも、体調悪で欠場やむなしとウソ診断で休みはちょっと違いますよ(笑)
まぁ後に全日では外人のスケジュール都合で散々やってるけど。 >>854
サンタクロースの正体を知ったときのようなエピソードですね。
>>854
勝ち点4者による優勝決定戦バージョンで、今までにない、生中継の枠内で収まるバージョンとして、こんなのは如何?
第1試合は猪木がバレンタインに勝利。
第2試合は、前日の試合でブッチャーのイス攻撃により負傷した馬場が、ケガをおして出場しブッチャーと対戦するも、負傷箇所を凶器も使って執拗に攻められ、リングドクターの判断で無念の敗戦。猪木とブッチャーによる決勝戦は、猪木が凶器攻撃に苦しみながらも、ブッチャーの隙をついた一瞬の丸め込みで勝利。 >>856
となると結局、馬場猪木が同点で決勝進出、
馬場の試合は勝利寸前に外人の乱入(ブッチャーあたり)で両者リングアウトになり、
猪木がその外人に勝って優勝、という、後のプロレスでよくある乱入パターンを使うしかないのか。
しかし何故か、日本プロレスでそれをやっちゃおしまいという気もするんですがね。 >>857
1500回連続出場の時点で表彰を受けてるからそれはない >>859
同時に私の案を考えてました。苦笑
まあそのパターンはありですね。
いずれにしても苦しい。笑 日本人同士はやらないって不文律はリーグ、トーナメントやるには不便すぎるよな
しかもタッグでも適用とか 力道山vs木村戦は別にして、日本人対決というパンドラの箱を開けたのは
73年国際のS小林vsR木村戦なんだよな
翌74年に猪木vs小林戦から第1回ワールドリーグでの坂口戦…
全日は75年の馬場vs大木戦からオープン選手権での日本人大物対決
リーグ戦総当たりになったのは76年第4回Cカーニバルからと一番遅かった >>864
実は、日本プロレスで馬場がインターナショナル王者になった後、馬場対吉村道明のシングルマッチ(ノンタイトル)が2度行われています。
1回目は1966年で時間切れ引き分け、2回目は1968年で、馬場が逆さ押さえ込みで勝利。
1回目は第8回ワールドリーグ戦の前夜祭、2回目はシリーズ開幕戦で、大雪のため外国人レスラーの到着が間に合わず急遽組まれたもので、猪木がレフェリーを務めました。 ワールドリーグ決勝のそれまでにないパターンを考えた。
馬場猪木が同点、これはデフォルトにする
そして外人は単独トップ選手Xがひとりだけだったとする
これでは10回や12回のパターンを使えない
ところが公式戦の点取りでXは馬場は反則負けしているが、猪木とは引き分けている
コミッショナー裁定で日本陣営の優勝を期すためと称して猪木の優勝戦進出。
だめかな? >>865
馬場がインター王者になってから、当時の四天王吉村と対戦してたんですね。
それは知らなかったなぁ
時間切れとクイックでの敗戦だと、自分の格もそれほど落とすことはないし
ベテランの吉村だからこなせたんだろうね
もし68年に猪木や大木とだったら、セメント仕掛けはないにしても
どうしても感情的な部分が出るから危険だねw >>867
馬場対吉村戦は、1回目はWリーグ戦の前夜祭で出場選手の顔見せ的色合いが強く(他に外人同士の試合もあった)、2回目は外人選手が間に合わないための窮余の策で、いずれもファンサービスの花相撲の色合いが強かったようです。
ですから、S小林vsR木村戦以降の日本人対決とは一緒にはできないのですがね。 >>866
クラッシュギャルズ時代に似たようなことがあったような >>868
いやいや、自分の中では大人になってから吉村の存在の大きさに気付かされたから
馬場vs吉村はエキシビションレベルでも見たかったなぁ‥
66年の暮れには馬場とインタータッグを獲得しているし、
ゴッチは力道山より吉村を評価しているんだよね。
G+のクラシックで確認できる試合は6試合あるけど、シングルのゴッチ戦以外
全てタッグマッチでパートナーを引き立てるヤラレ役に徹してる。
ゴッチのジャーマンもコックスのブレーンバスターも、初めて喰らったのは吉村
外国人レスラーからも信頼されてたんだろうね(ブレーンバスターで失神?したけど) >>864
国際の日本人エース対決は斬新だったけど、それが後々に団体崩壊に繋がるんだよな
不透明決着にしとけばいいものを、はっきりと勝敗つけちまったもんだから
小林>木村というレッテルが張られ、小林離脱→猪木に敗北、3段論法で
国際最後のエース、ラッシャー木村は猪木より弱い、そして猪木は馬場に勝ってない
そんな弱っちい団体誰が観に行くかと >>865
その試合が馬場の対吉村戦初勝利。
力道山時代を含めると馬場対吉村戦は
馬場の1勝2敗7引き分け。 >>870
誰か忘れたが自伝で外人控室に当日のマッチメイク張り出しで吉村と当たると判ると喜びの声が上がったと書いてた奴がいたな。
逆に大木の場合は悲鳴が上がる。 力道山とか馬場のチョップなら胸板で受けることができるし、頭でも手加減できるが、大木の頭突きは頭にモロだからなあ
そらテーズのスマッシュで血祭りにされるわ >>871
マッチメークは草津なのかな?
でも、ダブルアームにブレーンバスターにバックドロップで決着とは…
いろんな意味でいい時代だw
>>873
一応、ダラ幹メンバーの一人だけど、吉村を悪く言う後輩レスラーはいたのかなぁ
74年10月の猪木と大木の対決には日プロOBとして「遺恨をマットに持ち込むなら
試合を止めろ」とメッセージを送ってるね
2人の性格を知り尽くしているし、プロレスを大事に思っているのが伝わってくる。 >>866
馬場猪木が同点で、外人側は単独決勝進出というのは
あるかもしれないが。
その場合は巴戦にするかもしれない。
たとえば1戦目が馬場対ブッチャー。
この試合で馬場が勝つが、ブッチャーの反則で
戦闘不能になり、ここで棄権となる。
2戦目で猪木がブッチャーに勝ち、
馬場には棄権勝ちということで、猪木優勝。
馬場も、この形なら連続試合出場は認められる >>875
吉村は73年春に引退したのが、「日本プロレスの
ドサクサに巻き込まれたくなくて逃げ出した」と、
残留した連中から批判されたようだ。 >>875
いやいや、猪木大木因縁の対決を煽る絶妙な相の手だろ。
プロレスで試合が決まったってことはブックも決まってる事くらい理解してるだろ。
プロレス辞めてもプロレスしてるのが素晴らしい。 ダラ幹で思い出して調べてみたが
まだ遠藤幸吉って存命だったんだな
素でビビったわ >>875
猪木は日プロ改革計画時に馬場との密約を破り吉村も追放しようとしてた。
吉村は外面は中立だが心情的には馬場に近かったのと巡業部長とマッチメーカーという現場の二重責任者だったのを嫌ったかな。 吉村を残したら社長になってしまうからじゃないのかな?
日プロというかその頃の日本の会社社会なら年功序列的に。
当初はそうならなくてもそのうち吉村を担ぐ連中も出てくるかも知れないし。
いきなり猪木なり馬場なりが社長になるためには
吉村を残していてはならない、となるよ。 時系列で話の内容が変わったりするから、改革という名の乗っ取りに思えてしまう。
猪木一人の計画とは思えないんだよな
木村昭政がブレーンで動かしていた気もするが…
まあ、クーデター話は繰り返しになるからやめとこうかな しかしよく考えたら、仮に72年のワールドリーグを猪木優勝でかわせても、その後鶴田と吉田光雄の長州が
日本プロレス入りしてきて、馬場派と猪木派の分裂は避けられなかったかもしれんね、 現在のWWEが参考になるかもね
一つの団体にRAW、SMACKDOWN、NXT 等の別ブランドがあって
WWE王座、世界ヘビー級王座、NXT王座、ユニバーサルもあったかな?
各々でストーリー展開している。
マンネリ化したら入れ替え戦も行われるし、
合同で開催される巨大イベントのレッスル・マニアもある。
日本プロレスも猪木を除名なんかせずに
日テレ=馬場派プロレス、NET=猪木派プロレスと別ブランドにハッキリ棲み分けする。
鶴田や吉田のスカウトは、各々でテレビ局が補強
年に1度の交流・対抗戦はノーテレビ(PPVがあれば契約視聴できるんだけどなw)
BI砲は発展的に解体され、インタータッグは日テレ側に返上
NET側も独自にタッグ王座を新設、外国人レスラーのブッキング等は
各ブランドカラーに合わせ日本プロレスが行うが、世界王者は両方に参戦
…どっちにしろ視聴率と観客動員で方向性が明確になり、淘汰されるのかな?
でも、ダラ幹の中にマクマホンはいないし団体分裂と何ら変わらないか‥
アホな妄想でしたww >>852
全日に限らず70年代中盤迄は最強レスラーだと思った。
60分フルタイムの多さもそうだけど、常に試合をコントロールしているように感じたし
対戦相手がブリスコや鶴田のようなアマレス出身者だろうと
ロビンソンやホフマンのような欧州勢のキャッチ・グレコの猛者だろうと
格闘ベースのない馬場だろうと、ドリーは自らのスタイルを崩さず対応していたし
標準以上の試合に仕上げている。おそらくゴッチとやってもそうだろう。
それでいて「馬場、次にやれば勝てる」「猪木、最後に卍固め出せば獲れる」
そういう風に思わせる試合を連続してこなすんだから…
フレアー以降の王者とはレベルが違うんだよな ドリー、ガニア、サンマルチノが三代王者だった時代って
若はげ、はげ、薄毛(のちズラ)というトリオだったんだな。 >>884
馬場猪木坂口大木に、鶴田が加わってきたら
日本陣営が強力になりすぎて、それに見合う外人を呼ばないとならないから、どちらにしても
日本プロレスはマッチメーク的に破綻したかもね。 >>888
だから一団体二部制のような、WWEみたいなブランド分けして
競わせることが出来ないか考えてみたんだけど‥
結局、新日と全日に分裂するのと一緒なんだよねw >>889
見えます。同じ団体ながら馬場をショーマンと自分はストロングスタイルと言って怒られる猪木の姿が。
猪木は新日初期馬場に何度かこの件で呼び出され、ユセフ・トルコを連れていき櫻井が勝手に書いたと言い訳してたとトルコが言ってた。
新日全日に分裂したから鶴田の衝撃的なデビューや藤波のドラゴン伝説タイガーマスク誕生があったのだろうと思うので分裂も功罪両面あるな。 BI砲対テーズ、ゴッチとかブッチャー、シークやハンセン、ブロディ組
とかが見たかったな >>889
それやるには馬場、猪木が黙って従うカリスマが必要だな
力道山亡き後ではどの道無理だ >>891
BI砲は分裂したけど、日プロが崩壊して外国人レスラーのシャッフルができたら
面白いだろうな〜
73年だと馬場vsロシモフ・ガニア・ゴッチ、猪木vsブリスコ・マスカラス・ルーイン
小林vsサンマルチノ・ブラジル…ww >>884
そこまでやるなら、猪木がダラ幹相手に延髄斬りするブックが必要。 >>893
これ
>小林vsサンマルチノ・ブラジル…ww
面白いかも >>893
猪木対マークルーイン
馬場対ジョニーパワーズ
坂口対キラートーアカマタ
小林対アレックススミルノフ
いや、全然夢の対決ではないんだけど、
なんとなく見たかったw 日プロ末期にありそうでなかった 坂口対エリック戦とか
映像が残ってない馬場対テーズ戦 >>893
外人のシャッフル、それがいちばんあってほしかったシナリオだな。
単純に入れ替えても旗揚げ戦が
馬場×ゴッチ 猪木×テリー(サンマルチノよりこっちかと)
1年後が
馬場鶴田×テーズ+ゴッチ 猪木坂口×ドリー+マスカラス
国際が小林×キニスキーとか 週プロにあったが馬場のインター初戴冠の時のブルーザーのギャラが二戦で一万ドルだったというのが驚き 最後まで実現しなかったのが
馬場対アンドレ、猪木対レイスのシングル戦だったなぁ。 2回やってるが更に猪木とドリーの試合見たかった
馬場とガニア、ロシモフは面白そう 政治的なもので実現しなかった“夢の対決”はいっぱいあるね。
もし新日本に坂口が移籍した時に No.2で支える条件として社長に就任していたら
馬場全日本と友好(協調)ムードになり、外国人選手のトレードとか出来なかったものか
…両団体がギスギスしていた70年代、想像してみたが無理だなw 最強タッグの時期だと思ったら、今日は馬場が天龍にフォールされた日だった。
あの日も感慨深かったけど、東京ドームで猪木がフォールされた時には
よく馬場の弟子に負けを許したなと、一番それを思った。
今になると政治活動でセミリタイア状態の猪木が勝つのは不自然極まりないんだけど
チョークスリーパーで天龍を落とした事が猪木の言い訳になるのかな?
試合では負けたけど勝負には勝ったみたいな…
でも、その時天龍が全日所属のままだったら結果は違ってたと思うし
シングル対決自体が無かったんだろうな しかし良く考えたら、猪木の乗っ取り事件がなかったとしても、72年に入るとプロレス人気は低迷して、視聴率は低下。
結局NETは「ウチに馬場も出してくれ」と要請し、
日本プロレスはそれに応じた可能性もあるね。
そうなるとやはり日本テレビは中継を中止して、馬場の独立を画策する。
日本テレビで馬場の新団体の中継が始まり、日本プロレスに残った猪木は、インター王者として君臨。
となるか、やっばりダラ幹とはうまくいかず、日本プロレスの看板を下ろして、新団体にリニューアルするか。
まあそんなところだったかも 日テレなんて全日本プロレス中継を金8にせずに土8にした時点で大したコンテンツと考えて無かったんだろうな >>906
それは考え方だけど、月曜日〜木曜日の平日でなく
土曜日の8時にもってきたというのは、それなりの格を重んじたとも言える。
金曜日はもうNETか放送してて、「太陽にほえろ」も始まってたからね。
全員集合の裏だったとはいえ、では月曜日なら水戸黄門があったし、木曜日なら「ありがとう」とか、当時は怪物番組揃い >>906
当初、日テレは「太陽にほえろ」を73年3月に終了し、プロ野球ナイター中継が始まる4月には、全日本プロレス中継を土曜8時から金曜8時に移動するつもりだったのではないかな。
ところが、「太陽にほえろ」が予想外の人気で高視聴率番組となったから止められず、全日本プロレス中継は、哀れにも、全員集合の裏番組で、且つナイター中継の雨傘番組という苦境に置かれてしまったと。 >>908
あのさあ。
72年7月にはすでにNETが金曜日夜8時に
「日本プロレス中継」を始めてるのに、
そこに「全日本プロレス中継」をぶつけるって
選択は、最初からないでしょw
何言ってるのよ。 >日本テレビが日本プロレス中継の撤退を表明し、番組は7月14日に最終回となります。翌7月21日から「太陽にほえろ!」が始まります。「金曜夜8時」のプロレス中継枠が空いたことで、NETはそれまでの月曜日に加え、金曜夜8時にもプロレス中継を始めます。これは7月28日からのことです。「太陽にほえろ」開始の翌週からのスピード対応でした。 >歴史が動いた「1972年7月28日」の翌日の1972年7月29日、ジャイアント馬場は、日本プロレスに辞表を出します。
ここがポイント。NETが金曜日8時に放送開始した
翌日に、馬場が辞表を提出してる、
つまりこの2つは関係があるのだ。
金曜日8時をNETに奪われた日テレが激怒して、馬場に早々の独立を促した、とも言われている。
「もし馬場がためらうなら、猪木の新日本プロレスを放送する」と言ったという説もある。
いずれにしても、馬場の独立前にすでに
NETの金曜8時放送は始まってたということだよ。
歴史も知らずに適当なことを書かないで。 力道山は『先生』と言われたが、BIは『先生』とは言われないな。 WWFヘビー級選手権 (79年11月30日 徳島市立体育館)
×ボブ・バックランド(28分16秒 体固め)○アントニオ猪木
*王座移動 猪木が第9代王者に
WWFヘビー級選手権 (79年12月6日 蔵前国技館)
アントニオ猪木(27分19秒 ノーコンテスト)ボブ・バックランド
*裁定に納得せず王座返上
一連の王座移動劇はWWFの公式記録に載ってないらしいね‥
年末のMSG定期戦で猪木とバックランドの間で王座決定戦が行われると思われたが
バックランドはボビー・ダンカン相手に防衛戦を行っている。
オールスター戦後に馬場が2度目のNWA世界王座を戴冠した事への対抗だったのかな?
2010年WWE殿堂入りした猪木だが、WWF王者としてではなく
アリ戦を評価されてのものだった。 >>910
日本プロレス中継は三菱ダイアモンドアワーだったよね(銀座三愛ビルのオープニング)
試合の合間に三菱の『風神』でリング上を掃除してたのが懐かしい。
あれは大相撲の土俵を箒で均しているのを参考にしたんだろうけど
高度成長期の宣伝効果は絶大だったろうね
撤退後も三菱は、金曜8時「太陽にほえろ!」のスポンサーだったような記憶がある >>910
NETは猪木追放後でも週二回放映に踏み切ったってことなのか
馬場をNETに出せるならそれもアリか
実際には馬場が日プロやめてしまったが >>916
NETの週二回放送は直ぐに終わって金曜8時一本になったはずだけど
一時期はTBSの国際プロレス・東京12chの海外プロレス・日プロ若手中心のプロレスと
被る時期は忘れたが、一週間に何度もプロレス中継があったなぁ 月曜8時はNETの中継なくなったから、
そこで全日本を中継する手もあったけど、
さすがにそれはしなかったな。
月曜、金曜がダメで、土曜に落ち着いた。 >>917
総合、K-1を大晦日に3局放送した2003年みたいなもんだな
隆盛のジャンルはテレビが飛びつく 力道山がブームを起こした第1期黄金時代は知らないけど、
馬場がインター王者に君臨し、坂口が鳴り物入りで入団
猪木が東プロから復帰した67年頃から71年までが
日プロの第2期黄金時代になるのかな?(日本の右肩上がりもこの頃まで…)
この隆盛の時代にこそ経営陣がレスラーの給与面や引退後の配慮する団体であったら
崩壊はなかったかもしれないね。
いつしか大衆娯楽だったプロレスがマニアの世界になってしまった‥w 69年前半、日本プロレス中継は毎週30%越えの大人気。だが夏のNET中継開始以後は、中継過多により、20%台に落ちる。
以後70年、71年とプロレス人気は徐々に下降していく。NETの放送は馬場派猪木派の対立も呼ぶ。
そして結果的には、NETの中継に関する問題で日本プロレスは崩壊していく。
先のことを考えず、放映料目当てにNETの中継を
許可したことが日本プロレスを衰退、崩壊させた。
グレート東郷の新団体の中継を阻止するため、とも
言われているが、馬場猪木の揃った日本プロレスに、その必要があったただろうか。 >>920
力道山存命時のワンマン社長エース体制から脱却して現場と運営が二分化、
エース格のレスラーは練習と試合に専念。社長は経営に注視して、会社の在り方としては
本来望ましい状態を迎えたハズなのに、経営は杜撰で選手は派閥争いや上層部への不満を
拗らせる。
社長とエースの分担化は新生UWFでも実施されたが、金銭問題諸々でおじゃん。
プロレス界って、こういうとこが他のプロスポーツには遠く及ばずで、未だに小劇団レベルの
運営体制で止まってる感があるな。 今の新日はそれを脱却してるけどな
良い意味でも悪い意味でも 経営陣が現場レスラーより低報酬でやれるのならうまく行ったんだと思う
王や長島より球団社長が取ってないだろうが
馬場や猪木より吉の里が取ってたらもやもやするだろう
神が前田とどの程度の差だったかによるのかも
その点、社長兼エースというのは問題が出ない体制なんだよね 現場と経営の二分化が最初から行われていたのは国際プロレスだったが
吉原がレスラー上がりだったからか、テーズ戦で敗北を飲ませた草津をいち早く
役職付きのフロントに入れマッチメーク権までも与えてしまった。
この草津への待遇が後の小林離脱へとつながるんだな(今なら一発アウトのパワハラで)
また吉原自身も他人のアドバイスに耳を傾けない頑固な性格(ある意味ワンマン)で
団体浮上のチャンスを自ら潰していった感がある。 ロジャース・テーズ・ドリーと挑戦してきた馬場が
ブリスコからNWA王座を奪取した日か、、
3日後にはダブルタイトルでPWF王座に箔を付け防衛するも
さらに4日後には奪回され、1週間天下に終わった。
おそらく春と秋の猪木vs小林&大木戦がなかったら、この移動劇もなかったかもね G・馬場(日本人)のNWA世界ヘビー級王座奪取→1週間で転落。
夢を達成したら、夢は醒める。 フォール勝ちしてNWA奪取し、フォール負けでベルトと星を返した馬場と
フォール勝ちしてWWF奪取し、無効試合でベルトを返上した猪木
…性格の違いが出てる こっそりノーテレビの豊橋で王座を返してしまう馬場
というのも性格が出てるといえば出てるような。 1974年というのは猪木が凄い勢いで株を上げた年だったから
日テレとしては大々的に馬場の快挙を報じて、しら〜っと転落させ
清水アナも「残念ながら豊橋大会で…」と言葉少なにアナウンスしたんじゃないかなw
豊橋は見たかったけど、他のNWA移動劇(負け試合)はテレビ中継されてるよね >>928
猪木も、WWWF王座奪取後、リターンマッチ(初防衛戦)の蔵前で
バックランドにフォール負けして返せば良いモノを、他の選手の乱入
→無効試合→返上なんてことをするからWWWFもヘソを曲げて、
猪木の王座奪取を認めなかったという噂を聞いた。 PWFやNWFのお手盛りのタイトルだったら分かるが
世界3大タイトルだからね〜
猪木はUWA世界も反則移動で返したw >>927
ベルトの貸し出しという悪しき慣習を作った罪は大きい >>926
週プロにもあったが猪木とドリーの名勝負の日でもある >>931
あれは手が込んでいたな。
●シンの乱入の隙に、バックランドが猪木を
ロープにアトミックドロップしてカウント3。
●しかしこれに新間寿が「フォールは無効で猪木の防衛」と発表。
●これにバックランドが猛抗議。紛糾。
●猪木が「返上」を宣言。
新日本側の新間寿に一度「猪木の防衛です」と
言わせた後、猪木自身が返上する二段構成で
ベルトの返却のわざとらしさを削いだ。
当時のプロレス雑誌には
「新間さんが猪木びいきでアンフェアだった」という
ファンの抗議の意見が載っていたw 今日はキニスキーが馬場からインターを奪取してちょうど半世紀
NWA王者時代は取れなかっただけにNWA王者は下りてからがむしろ強いのハシリか 猪木がバックランドからWWF奪取したのが徳島、
しかもシン乱入の結果というのが新日の最大の譲歩だったのかね
これが蔵前でピンフォールだったら印象が違うしな 乱入ありで王座が移動はいかんよな。
ビッグタイトルであればあるほどいかんよ。
乱入あったら即ノーコンテスト、乱入者は罰金、出場停止何日間、
みたいなPWFルールがあってしかるべきだろうが、
そういうのは考慮もされなかったことだろう。 猪木が奪取した時のWWF会長(78〜84年)が新間寿なんだよな〜 馬場は84年8月のNWA年次総会で第一副会長に選任され、
NWA崩壊まで務めた事になっている。(何年までかは?)
日本が主戦場で現役だから会長にはなれなかったみたい。 >>942
Gスピリッツの特集によれば86年の三月一杯で正式脱退 >>941
それがフックになってたんだよねえ。
新間が新日本の代表でなくて、WWFの会長だったから「会長の裁定で猪木の防衛と認める」という形になり、しかし猪木はそれを潔しとせず、王座返上と
いうストーリーができた。
バックランドが疑惑のフォールで王座奪還、としなかったところが巧妙。 その後のMSGでのバックランドとダンカンの試合を決定戦に見せるためベルトだけ持って先にリングに上がったり 馬場の3度にわたるNWA王座のキャッチボール、猪木もWWWFを取って返す、
を見ていた俺は、1984年、鶴田が二ックからAWAを奪取した時も、最後には
返すんだろ?と多可を括っていたら、二ック来日中、最後の挑戦をも防衛したの
には驚いた。 確かニックはリターンマッチの後も日程が残ってたからそこで返すための防衛戦追加も出来たんだよな 84年2月23日 鶴田がAWA初戴冠した日は、反則でも王座が移動するルールだった。
星を返すと思われた26日大阪府立は通常のルールで引き分けの初防衛
蔵前の試合より鶴田の息が上がっていた…ニック恐るべし!
シリーズのオフにはAWA圏内で防衛ロード
次期シリーズ3月24日蔵前大会のみに参戦したニックに今度こそ奪還されると思われたが
王者鶴田が反則負け防衛‥ブーイングじゃなく大歓声だった。 26日もインターを賭けてたからあそこで返せばインターも取られたんだよな
二年後にハンセンと同じダブルをやった時は逆にインターを取られた
また同じ26日ではセミで井上がチャボからインタージュニアを奪取 タイトル移動で思い出したけど、馬場が力道山の防衛記録を簡単に塗り替えたことを
面白く思わないグループ(反馬場派)を抑える為に
68年ブラジルをストッパー役に立て、70年はキニスキーが選ばれた。
特に70年はNET猪木派の勢いが増し、馬場のインター王座転落で奪回戦を猪木に
という計画もあったが、日テレ側がそれを阻止する為
万が一、猪木挑戦になってもセメントでねじ伏せることが出来る実力者
猪木に負け知らずでシナリオに全面協力する信頼のできる者
格の上からもファンが納得できるレスラー…
これら条件をクリアしたのがキニスキーだった。
猪木は69年NET放送時に三浦甲子ニ専務(後のテレ朝の天皇)に気に入られ
馬場を蹴落とし猪木を頂点にしたプロレスをNETの看板にする野望があった。
三浦は日テレ氏家社長とその領袖の渡邉恒雄とは新聞記者(政治部)時代から
終生のライバルだったことから、
日プロ内の派閥争い(日テレ馬場派対NET猪木派)は相当激しかったみたいだね。 馬場離脱後の年末シリーズにキニスキーとブラジルを呼んだのはその辺も意識なんだろうな >>950
門茂雄あたりが言ってそうな話だけど、
本当にそんなことあるのかね。
あの人、プロレスの秘密を暴露してるようで、
そうでもなくて、「プロレスでは常時セメント試合が行われている」ような前提で書いてるんだよね。 >>952
そうそう、出典はセメント大好きの門なんだけど
馬場が力道山の記録と並ぶ頃から「先生を冒涜するものだ!」とアンチ馬場派が
批判のトーンを高めていき、2局放送になると馬場派・猪木派の対立が激しくなったのは
想像できるけどね‥
あと、キニスキーを境に“ラフ&パワー”の馬場全盛時代から
ドリーやマスカラスの“スピード&テクニック”の猪木時代に移行した印象はあるね。 >>952
・リッキー・ワルド―はセメントマッチでタッグタイトルを奪って力道山に恩返しをした
・「新日復帰直後の藤波VS長州は1983年頃の試合と違ってセメントマッチそのものだった」と語ったのは
木村健吾である
なんて記述があるんだよね
こんな事を書かれているとあの人が書いた事も疑わしくなる 門は、試合の中で、レスラーがムキになる
「硬い」展開があったことを拡大解釈して
その試合が結末も含めて真剣勝負であると
言ってるんじゃないかね。
ワルドーがアジアタッグを取った試合も、記録見ると3本目はワルドーが豊登から取っていて、力道山には傷がついてないし。それに同じ会場の日大講堂で
2週間後に興行が決まっていたから、あきらかに
次回興行への「ヒキ」だった 猪木の口を封じる為にオープン選手権にシューターを揃えたのは
馬場のフィクサーと言われた「プロレス&ボクシング」編集顧問の森岡理右だよね
これは猪木がブック破りをしてセメント仕掛ける事への警戒からの布陣だから
セメント自体の存在は、門以外にも述べてる通りあるんだろう。 いかなる理由を付けようともそれまで条件は任せるとか散々大見得を切っていた猪木として不参加はそれ自体が決定的な失点だったよな
挑戦者の癖に自分から条件を付けるとは何事だって 当時既に漫画のタイガーマスクで覆面ワールドリーグ戦をやってたりしたわけだから参加しなかった猪木の方が分がない印象
もし参加していれば例え途中で脱落しても仕方なしと思われたかもしれないし >>956
オープン選手権みたいな例は別として
プロモーターは全て試合の結末を決めてるわけだから、それにレスラーが逆らうとしたら
「2度と使ってもらわなくていい」覚悟がある時だけだね。
例外として、プロモーター自体が真剣勝負をやれ、と言った場合はセメントもありうる。
力道山時代の前座試合とかね。 セメントとは違うけど、ダニーホッジは些細なことでキレて自分でも何をするか
わからないらしいね。
テーズ曰く、ホッジの目がトローンとしたら危ないと‥
試合後に我に返って謝罪したらしいが
感情をコントロールができなくなるみたいだと回想していた。 そういうアブナイ連中を敢えて囲い込むプロモーターもいたって事なんだよな
マクガークとかハフトとか ホッジが、シュートマッチとMMAについて語っている。
「自分がレスラーであるという背景がある以上、タップアウトさせる、首の骨を折る、
いかなる事をしてもその相手を処理せざる得ない
シュートマッチとはそういう“状況”なんだよ。解りやすく話そう
シュートマッチというのは俺が死ぬのかお前が死ぬのかそれだけだよ。
でも俺は死にたくないよ。そして私は相手が生きたいって言うなら生かしてやるよ。
リングに上がる前に相手がこういうことを仕掛けてくる、それを知っていたら
私だって対処の仕方は全部知っているよ。
そういった競技がMMAなのだろう。 でもシュートマッチは違うんだよ…」
要するにカネを取って見せるプロレスの試合でシュートを仕掛けるというのは
よっぽどの事や覚悟がないと、絶対やっちゃいけないことで
ルールのあるMMAとは違うという事なんだろう。
でも、シュート=セメント=ガチンコで理解していいのか、いまいち分からないw 不穏試合と言われた83年最強タッグの超獣コンビvsマスカラス兄弟
互いに技を受けようとしないで、膠着状態が多いギクシャクした試合だが
別にセメント仕掛ける訳でもなく、不穏という程でもないね
ブロディのメキシカン嫌いがそうさせたのかな‥
https://youtu.be/NxfgtrVUUwA シュートってのはMMAでも使えるサブミッションを含めた
相手を屈服させる行為の総称って事だろ
指を肛門や目に入れるのもそれ
MMAはあくまでもルールに沿う競技
昔はティムウッズが素人相手の余興で指食いちぎられたりしてたし
リアルにカタワになるような試合もプロレスでは時にはあったんだろう 今日はファンクスがBI砲からインタータッグ奪取の日
そして実は最後の最強タッグ参加日でもある 今日も不穏試合と言われた 猪木vsグレート・アントニオ戦の日
CSで流れてたMSGタッグ決勝の戸口&カーン戦でも
猪木がダウンしたカーンの顔面を蹴っ飛ばしていたのには驚いたw
BI砲がファンクスに負けた札幌の試合は観た記憶がないんだが
らしいコンビネーションがなかったんだろうね…
いつもはアイコンタクトだけで阿吽の呼吸ができるのが
この最強コンビの魅力だった筈
試合前から負けが確定していたから、バラバラになっても仕方ないんだけどね。
この年のWリーグ決勝の控室で猪木が馬場に対戦アピールした時から
馬場はインタータッグはあまり乗り気でなかったと語っている。 12月8日を調べてみると
1963年力道山が村田勝志に刺された日で、1980年ジョンレノンが暗殺され
川田利明の誕生日、釈迦が悟りを開いたのもこの日だとさ‥ >>971
海外武者修行時の馬場がリングに登場するなり
「ジャップ!」「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな!)」
学校で習うより前に『ジャイアント台風』で覚えていたよw >>967
BI砲が、ファンクスに負けたのが1971年の12月7日。
これ同年の7月1日(ゴールデンシリーズ)の対I・コロフ&D・サベージ戦から
5カ月もインタータッグ戦が行われていないんだよね。
BIの仲がギクシャクしていたせいもあるが、この年、ゴールデンシリーズの後の
サマービッグシリーズ、サマーミステリーシリーズにもタッグのタイトル戦が
組まれていない。
アジアタッグは6月17日のB・ゴールドマン&E・ゴリアスから12月1日の
ドリーファンクjr&D・マードックまで5月半。タイトルマッチって6か月、
防衛が行われない時は、没収じゃなかったっけ?
まぁ、これは秋にNWAタッグリーグを開催し、タッグのタイトル戦が
行われなくなったことも一因だが、サマービッグシリーズは、JブリスコとCマルコフを
組ませるわけには行かず、元AWA世界王者の、I・ボディックが全く期待外れだったからな。
少し使えればマルコフとのタッグでインタータッグ挑戦もあり得たかな? ブリスコとリベラが組んでアジアタッグ挑戦とか出来たんだろうが
思えばブリスコは日本ではタッグのイベントに全く出てないんだよな >>974
両シリーズともアジアタッグ挑戦者候補は
マルコフスチール組とか、スポイラーラモス組とか
いたけどね。
結局、アジアタッグの放送枠をUNにまわした感じしゃないのかね。
当時日本プロレスは「大都市大会場」でのみタイトル戦を行う、みたいな不文律があって、両シリーズともそれにふさわしい会場が2会場くらいしかなかった。
その1大会枠をNETが持ち、何を放送するかでUN戦を希望したのではなかろうか。 おっと、カーンのスレが立ってるんだね。
だけど日プロ出身者が“ひき逃げ”でニュースになるなんて悲しいよ、、
>>976
アジアタッグ王者の権威も吉村坂口組までだねw
それまでの挑戦者チームは、国際のIWA世界タッグや新日の北米タッグに挑戦しても
遜色のない実力者揃いだし、王者コンビも歴代日プロのエースを務めた顔触れ。
日プロ最後の王者が小鹿と松岡とは… 小鹿はBI時代でもパートナー次第ではアジアタッグ巻いても問題ないけど松岡は体格ルックス共にないな。 上田をインタータッグに回したので松岡しかいなかった感じかな
思えば上田はアジアタッグ経験の無い日本人では初のインタータッグ王者だったか 日プロ末期は馬場猪木坂口のトップ3が強すぎて他の選手が割り込む隙がないね。上で引退して席空けられるのが吉村しかいない。ミツヒライもかな?
上田や小鹿はせっかく凱旋してもポジションがない。こういう選手余りも派閥争いや分裂の原因だったのだろう。 坂口ですらベルトを巻けたのは猪木の離脱後
大木のアジアヘビーは名誉職的な感じか 日本プロレスのレギュラータイトルのチャンピオンは少ない。
力道山時代は、力道山以外は豊登がアジアタッグ取っただけ。
力道山の死後、吉村、馬場、猪木、坂口が
それぞれアジアタッグを最初のベルトとして獲得、
大木は極東、アジアとシングルを獲得。 >>983
遠藤が東洋太平洋みたいなタイトル力道山と取っていなかったかな?タイトル名忘れてるくらいだから防衛戦はお察しなんだろうけど。 >>984
遠藤幸吉は、力道山と組んで日本プロレスの初期(54年)
太平洋岸タッグ選手権をM・シュナーベル&L・ニューマン組から奪取、
2度防衛しているが、その後、行われていない(自然消滅か?)
また’56年にシャープ兄弟から世界タッグを奪取、リターンマッチで取り返されている。
力道山と東富士で55年にはハワイタッグも取って、やはり4度防衛したが、
定着しなかった。結局タッグ王座はアジアタッグに落ち着いたんだな。 >>984
遠藤は力道山とシャープ兄弟の世界タッグを獲ったことがあるはず
力道山と東富士でハワイタッグもあったと思う >>983
そういうツッコミはあると思ったけど、
「日本プロレスのレギュラータイトル」と書いてあるので。つまり日本プロレスのタイトルとして長年定着したもの。世界タッグ、ハワイタッグ、日本ヘビー、日本ジュニア、日本ライトヘビーなどのタイトルが
あるのは承知している。それを入れたら遠藤、東富士、駿河海、芳の里、吉原が一気にタイトルホルダーに加わる。
だがインター、インタータッグ、アジア、アジアタッグ、それにUNというところでいうと、1955年〜1971年の間には
力道山、豊登、吉村、馬場、大木、猪木、坂口
という7人しかタイトル獲得者はいなかった。 アジアヘビーは力道山の死の二年近く前から既に防衛戦は行われてなかったんたんだよな
亡くなった時も飾られていたのはインターのベルトとワールドリーグとアジアタッグのトロフィーだけだったし >>987
若いときでも時系列記憶があやふやなタイトルの記録を調べてくれて大変ありがたいです。勉強になりました。
こうして並べられると力道山はたとえ受けなくてもジュニアのタイトル戦を継続的に行ったりや自分の絡まない日本人選手同士のタッグタイトルなんかも作る余地は十分あったのではないかな。
あまりにも自分一人に集中しすぎて興行に展開がないというか展望がないというか。 世間的な人気が集中していたというのもあるだろうが結局は異邦人として自己の立場を守らねばならないという意識が強かったのかもな
それでも後半ではワールドリーグを決勝シードにしたりアジアタッグの比重を増やすなど明らかな負担軽減を行っているし >>989
インターに包含してアジアは発展的解消、みたいな広報していればよかった。
マスコミも入れ知恵すればよかったのに放置したもんだから
タイトルを作ったはいいが、取ったはいいが、あとは尻すぼみして消滅みたいな
ことが散々行われて誰もああまたねとしか思わなかったのはファンも含めて悪い。 新日版のアジアも自然消滅…?
IWGP開催にあたって封印だったかな? >>987
力道山が目指していたのはボクシングのような階級制の確立だったのか
或は中堅レスラーの不平不満を抑えるためのガス抜きだったのか
途中、NWAのジュニアヘビー級タイトルマッチはあったが
興行的にもメリットなかったんだろうな…
結局、藤波がブームを起こすまで日本マットには定着しなかった >>987
突っ込んでいい?
昭和41年5月〜6月、アジアタッグ王者ヒロ・マツダは?
(パートナー吉村) >>996
マツダは日本プロレス所属じゃないでしょ。
フリーだよ そもそもが>>981、>>982のフォローとして
書いたことなので、そこはご理解いただけると >>909 >>911
脳にプロレスの記憶しか詰まっていない可哀想な人たちだねwww このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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