【32文】BI抱を考える2【コブラツイスト】
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>>308
AWAは縛りが無かったみたいだな。
って言うか、AWAがIWA構想の傘下に入ったんだっけw 国際の世界はむしろNWAに入れないという感じだったな
だからかテレビでの表記はIWAヘビーとかIWAタッグという感じになってた NWFって76年の後半あたりには
もう「世界」は付けてないんじゃなかったか? 1969年に創設されたIWAミッドヘビー級王座は
なぜか最初から「世界」が付いていなかった。 >>344
猪木は、異種格闘技戦を始めて、アリキック、延髄切りをプロレスの試合で使うようになってから試合内容が淡白になっていったと思う。
ロビンソン戦は、アリキック、延髄切りなしで試合を組み立てているので、今見ると新鮮に見える。 >>346
IWA王座が、PWFやNWFのように「世界」を外される要因はない。
テレビで、IWAヘビーとかIWAタッグと表記されたとしても、
ただ長くて画面に入りにくいからくらいの理由で端折られたんだろ。 >>347
NWFから完全に世界が外れたのは77年のハンセンの初挑戦の時だったとか >>334
ドリーファンクジュニアがNWA世界王者になったのを契機に、ファイトスタイルの主流がスピード&テクニックに移行したことで、馬場のファイトスタイルが古臭く見えてきたことも、日テレとしては誤算だったと思う。
加えて、馬場が理想のプロレスを見せると豪語して全日を旗揚げしたのに、馬場の一枚看板となった全日のリングは、予定調和丸出しで、視聴者を引き込みだての緊張感に欠けていたことも、日テレとしては誤算だったろうね。 >>351
完全ってどういう意味?
動画を見てる限りでは
76年9月のビリー・グラハム戦の実況の時点で
もうNWFに「世界」はついてないよ >>352
そういうこともあるけど、全日本はもし金曜8時の
時間帯に放送できてれば、もっと視聴率取れてたよ。
馬場猪木の抜けた日本プロレスのNET金曜8時枠でも、視聴率14%程度取れてたんだかは。 >>308 の訂正
新日本は75年新間と坂口がNWA加盟を承認されてるね。
条件は世界王座挑戦は認められず、全日はアンドレを招聘できない…ってw
しかし、ベルトから“世界”を外したのは76年8月シンとの防衛戦からとなってる。
おそらくアリとの対戦までは“世界”を名乗りたかったのかな? >76年8月シンとの防衛戦からとなってる
「から」じゃなくて「まで」だと思う 全日の最初期にこれまでの「手も合う」ライバル達と
決着を次々と付けてしまったのもまずかったかもしれないな、馬場は。
日プロの反則決着ばかりの桎梏(大袈裟か)を払拭したかったのかもしれないが
サンマルチノエリックブラジルキニスキーデスト、果てはドリーまでほぼ完全に勝ってしまう。
実質的な世界一みたいなもんだ。そりゃあ以後の展望が悪くなってくるよ。 >>354
確かに70年代の土曜8時っていうのはハンディキャップの大きな時間帯だったな。
4〜9月の日テレの土日午後8時は巨人戦と決まっていて、野球が中止にならない限り、プロレス中継は深夜枠に追いやられ、地方によっては放映されなかった。
10〜3月は、毎週定時に放映されるけど、裏にはドリフの全員集合や欽ドコが控えていた。
全日にとって不運だったのは、日テレが日本プロレス中継の後番組で始めた「太陽にほえろ」が萩原健一、松田優作等の新スターを生み出す人気長寿番組になってしまったこと。
放映開始当初、「太陽にほえろ」は1年程度の放映予定だったそうだから、73年4月に全日が金曜8時に引っ越していたら、NETのワールドプロレスリングと直接対決になっていたかもね。 >>357
いや、それはね。
もう日本プロレスでブラジルが大木に、キニスキーが坂口に負け、シークも坂口に負けたり。国際でもジョナサンが小林に負けたり、大物が値下げさせられた時期だからね。
馬場としてはもうカタをつけてくしかなかったですよ。これは。 >>359
PWFヘビー級王座38回防衛記録時、日プロ時代の主なライバルとの戦績
フォール、ギブアップ勝ち
対シーク(73年4月25日日大講堂)
対キニスキー(74年3月15日宮城県スポーツセンター)
対モラレス(74年6月13日東京体育館)
対エリック(74年12月14日日大講堂)
対ブラジル(75年3月11日愛知県体育館)
対ブルーザー(75年4月10日宮城県スポーツセンター)
対スピリット=コックス(76年12月7日九電記念体育館)
引き分け
対ドリー(74年1月30日東京体育館)⇔5分延長
対ブルーノ(75年5月9日日大講堂)
小林に負けたジョナサンは、挑戦者にもなっていない。 ジョナサン、73年1月に日大講堂で馬場と王座争奪戦をやって、負けてるのを知らないのかね 二代目ベルトに代わった74年での十四回防衛が一番凄い
しかもその内の二回はNWAとのダブルだし >>361
ジョナサンは争奪戦だからハズしたんだけど、決着はつけてたねw
猪木のNWF防衛戦で日プロが絡む選手はごく僅かだった。
ライバルじゃないけど、
対ラッド(74年3月21日クリーブランド=不可解なドロー)
(74年11月1日札幌中島スポーツセンター)
対コロフ(76年12月2日大阪府立体育館)
ライバル?でフォール、ギブアップ勝ち
対モラレス(78年7月24日広島県立体育館=内容で圧倒される)
(79年12月4日大阪府立体育館)
対マルコフ(78年11月1日愛知県体育館)
対ブリスコ(79年5月10日福岡スポーツセンター)
なんでブリスコは1度だけ新日に参戦したのかな? 争奪戦だけなのはスナイダーもそうだよな
オコーナーは力道山時代からの久しぶり
ブリスコについてはハンセンの著書においてフロリダと新日本の関係からで一度だけの約束と説明してたな >>360
その中でモラレスは日本プロレス時代、
馬場のライバルとも言えないなぁ。
1966年のワールドリーグに現役WWA世界王者として
一度だけ来日。公式戦でも馬場に負けている。
やはり、体格的、レスリングスタイル的に馬場向きではなく
猪木向きだった。
WWWF王者時代の1972年新春シリーズに日プロに特別参加が
噂され、猪木と対戦する予定だったんだな。 >>363
日プロ経験ありなら
テーズ、パターソン、ボルコフ、ダンカンとか
ループ(反則)、朴松男(リングアウト)以外はフォール、ギブアップ勝ちかな? >>362
その代わりに75年以降からの
防衛戦を行う頻度が落ちる
NWAを返したあとはテーマを見失ってる感じだ その年は最初にインタータッグを奪還し鶴田売り出しの比重も増している印象
もちろんNWA後の新展開も意識だろうが モラレスはベビーフェースだから猪木とも合わないよ。
実際かみ合わなかったし。
まあアリ戦以前の猪木とやれてたら多少は期待があるが。
それより1966年の馬場戦は、名勝負だったと言われている。
明石家さんまがこの来日時のモラレスを絶賛してる 66年の馬場モラレス戦って
栃木のどこかの学校の体育館でやったんだっけ?
インター王者とWWA世界王者の対戦なんだから
もっといい場所でやればいいのにw >モラレスはベビーフェースだから猪木とも合わないよ
それを言ったら、ドリー(少なくとも日本では)も、ブリスコも
ロビンソンも、マスカラスもベビーフェースだから、猪木とは合わなくなる(苦笑)
単純にベビーフェース対ヒールの闘いではなく、スピードとテクニック合戦も
プロレスの醍醐味だ。 モラレスは新日に4回来てるけど
4回ともくるタイミングが悪いんだよなw
ストーリーが作りにくい >>361
ジョナサンは日プロで馬場のインターにも挑戦してないよね(力道山には挑戦)
ワールドリーグの優勝戦では当たっているが…
全日ではヘーシンクの柔道ジャケットマッチで負け役と気の毒だった。
柔道ルールだから仕方ないが、試合後ヘーシンクはジョナサンを絶賛していた。
>>367
ホント、急にPWF防衛戦の頻度が落ちたね
74年から覆面10番勝負、75年インタータッグ奪還、76年から試練の10番勝負が始まって
興行の目玉が増えたからかなぁ >>371
いやドリーはNWA王者として、ある種の敵役もこなせるし、ロビンソンの場合はテクニックだけでも見せられるけど。
モラレスにそんな幅はないだろうよ。
猪木でいえばブリスコも79年の再戦はえらい淡白な試合だったし、日本プロレス時代のマスカラスとも
微妙な試合だった。
後、猪木ローデス戦も不発だったしね >>370
初来日のモラレスとなるとスナイダーとのコンビでアジアタッグ決定戦に出ているのも目に付く
両者ともこれが唯一のアジアタッグ戦だけに >>366
確かラッドの再戦は弓矢固めで2−1の勝利
モラレス初戦は逆かさ押さえ込み、2度目はバックドロップからフォール
マルコフは卍固め
コロフとブリスコはクイックだったと思う。
(新日は一本勝負の導入が早かった) >>376
それ以外の日プロ絡みのテーズ、パターソン、ボルコフ、ダンカンもフォール、ギブアップ勝ちだったな、ということ
テーズ、ダンカンはフォール勝ち、パターソンは卍固め、ボルコフは弓矢固めだった
(ボルコフが日プロ来たとき、もう猪木いなかったけど >>376
初めから狙ってたわけでもないだろうけど
猪木は1本勝負との相性が良かった
3本勝負全盛の東プロ頃から名勝負が多い ゴッチやアンドレなど、3本勝負でも1本渡してくれない相手。
小林、大木など、3本勝負に不向きな日本人対決。
やはり3本勝負が不向きなシン。
そして格闘技戦。
こうしたことの積み重ねで、「1本勝負の方が
緊張感、真剣味がある」という風潮に
なっていたね。
ただし猪木のプロレス名勝負は、やはり3本勝負をこなしていた時代に多く、1本勝負オンリーになると淡白感は否めなくはなった 猪木vsロビンソン戦はどうだろう?
3本勝負の1本目に、時間経過してからロビンソンが取ったから
残り時間が迫ってくるハラハラ感もあって感動の名勝負になったけど
1本勝負だったら、やはりフルタイムドローになるんだろうな〜
武道館に見栄を張ったからには劇的に勝って欲しかった >>380
あれは名コンセプトだったと思うけどね。
何故なら引き分けでありながら、まるで猪木が勝ったような印象て締めくくれたからね。
2本目を取った瞬間、アナウンサーが「猪木防衛成功!」とやったくらいだからね。 >>381
勝ったような印象より、負けないでくれた王座を守ってくれた感の方が強かったよ。
猪木が押されてた印象が強かったから…(個人的な印象だよ)
でも続きがある結末だったね
あの時期のドリー戦も続きが見たかったし、ウィリーとの続きも見たかった。 ただし最初を超える名勝負は無かっただろうな
猪木だけでなく新日本系は初対決を超える定番カードはあまり無いという意見があった
特に初対決がいきなり大一番の場合は 猪木ー小林
猪木ー長州は2回目の蔵前の方が好みだな てか猪木ロビンソンは2回目も引き分けだよなw
思い切って猪木が負け→奪回をやればいいけど、どうもそこまでロビンソンを信用しない気がする。
そう考えるとあの1回でよかった。 後、ロビンソン自体も猪木戦以降、急速に
コンディションを悪くするんだよね。
膝が悪い、身体も太るで。 ロビンソンは猪木とやった時点でダブルアームスープレックスも必殺技の説得力を無くしてたな プロレススーパースター列伝でやってた
猪木がNWA現王者ドリーと激闘名勝負をやりとげ
次期王者候補のブリスコを圧倒して
実力日本一と認識されつつあったってホントなの?
前者は名勝負として名高いけど >>389
列伝に実力日本一云々という模写はなかったと思うけど
71年ごろなら猪木の方が圧倒的に名勝負が多かった
この時期の馬場の名勝負って馬場ファンからも語られてるのを見たことがない 【1971年猪木の主な戦績】
〜UNヘビー級選手権〜
対Jトロス(3月26日ロス=王座獲得)
対ブラッシー(5月31日札幌) 対ブリスコ(8月5日愛知) 対エリック(9月6日札幌)
対マードック(12月4日宮城=防衛後、返上)
〜アジアタッグ選手権(パートナー吉村)〜
対Bドロモ&Rハンター(1月25日熊本) 対Mマスカラス&Dギルバート(2月20日大阪)
対ゴールドマン&ゴリアス(6月17日宮城)
対ドリー&マードック(12月1日宮城=引き分け防衛後、返上)
〜インタータッグ選手権(BIコンビ)〜
対ストンパー&ケンタッキアン(1月7日大阪) 対マスカラス&アリオン(3月2日蔵前)
対Iコロフ&Dサベージ(7月1日大阪) 対ザ・ファンクス(12月7日札幌=王座転落)
〜第13回ワールド大リーグ戦〜
対ブッチャー(4月5日浜松=反則勝ち) 対デストロイヤー(4月7日大阪=タイムアップ)
対コックス(5月4日長野=両リン) 対デストロイヤー(5月10日四日市=フォール勝ち)
対ブッチャー(5月14日高松=リングアウト勝ち) 対コックス(5月17日姫路=アバラ折り)
対デストロイヤー(5月19日大阪=決勝第1試合 両リン)
その他、対Mマスカラス(3月6日群馬)
マスカラス(14分19秒=ダイビングボディプレス)猪木
猪木(4分13秒=アバラ折り)マスカラス
猪木(5分3秒=リングアウト)マスカラス
馬場の71年インター防衛戦は >>119 馬場の日プロ時代の最後の名勝負は蔵前でキニスキーにコブラツイストを掛けて反則勝ちした一戦の印象 >>390
実力の猪木、人気の馬場っていいかたを少し変えたのが
「実力日本一」じゃないかしらん。
その背後に「実力世界一」のゴッチがチラ見える、というのもあるのかな。 >>389
その頃はまだ馬場に並んだと思われていた時期
小林・坂口・大木との日本人?大物対決を制し、馬場だけが無視し続けた頃には
実力日本一は猪木だと思われていたよ。
梶原原作の『ジャイアント台風』の頃は馬場時代
『スーパースター列伝』では全日を軽く扱っていたし、猪木の時代 >>391
1971年の猪木の戦績なら第2回NWAタッグリーグ争覇戦優勝も挙げないと。
11月1日、東京体育館
アントニオ猪木&坂口征二(2−0)キラー・コワルスキー&キラー・バディー・オースチン >>395
黄金コンビ誕生が抜けてたねw
あと、猪木がレスラーとして一番輝いていた74〜75年のNWF防衛戦は、
可哀想なくらいシンと対戦している。(もったいない) 【猪木NWF選手権】
1974年
対小林(3月19日蔵前) V1
対ラッド(3月21日クリーブランド) V2
対シン(6月20日蔵前)V3
対シン(6月26日大阪) V4
対パワーズ(7月30日名古屋) V5
対大木(10月10日蔵前)V6
対ラッド(11月1日札幌) V7
対小林(12月12日蔵前) V8
対アンドレ(12月15日サンパウロ)V9
シンの挑戦を拒否⇒タイトル返上
1975年
対シン(3月13日広島=王座決定戦で破れる)
対シン(3月20日蔵前=両リンでシンの防衛)
対シン(5月19日モントリオール=引き分けでシンの防衛)
対シン(6月26日蔵前=猪木が勝ち王座奪還)
対テーズ(10月9日蔵前) V1
対ロビンソン(12月11日蔵前)V2 74年にはゴッチとも二連戦しているがNWFじゃなく実力世界一決定戦としてやってるんだよな >399
そりゃゴッチに1回負けなきゃならんからね。
NWF戦1回勝負なら引き分けだろうが、
ゴッチが体力的に時間切れ引き分けは難しいだろうし >>372
モラレス最後の来日は5年半振りだったが。
放送されたのはマシーン戦のみ。
しかも双方共に何の脈略も無いカード。
軍団抜けてマスク脱ぐかと注目集まってたマシーン。
試合後に若松が乱入してマシーンと乱闘。
この時のモラレスの存在は空気状態。
モラレスもせめて過去に対戦した猪木や坂口、藤波あたりとカード組めば良かったのに。
モラレスは何の為に毎日したのかわからなかった。
同じく来日したバックランドもそうだったが。
84年新春のローデスといい大物の無意味な参戦と結果的に活かし切れず。
全日でもそういう事はあったけど。 【馬場PWF選手権】
1973年
対シーク(4月24日大阪)V1 対シーク(4月25日東京)V2 対ブッチャー(6月14日川崎)V3
対ブッチャー(7月26日東京)V4 対オコーナー(8月21日札幌)V5
対ドリー(9月8日福岡)V6 対レイス(9月13日日大)V7 対エリック(12月13日大阪)V8
1974年
対ブリスコ(1月23日長崎=NWA&PWF)V9 対レイス(1月27日東淀川)V10
対田中(1月29日郡山)V11 対ドリー(1月30日東京)V12 対キニスキー(3月15日宮城)V13
対ブッチャー(5月16日大阪)V14 対モラレス(6月13日東京)V15
対テリー(8月9日蔵前)V16 対ブッチャー(9月25日横浜)V17
対ブッチャー(10月5日日大)V18 対マリガン(11月7日沼津)V19
対ブリスコ(12月5日日大=NWA&PWF)V20 対マルコフ(12月12日川崎)V21
対エリック(12月15日日大)V22
1975年
対レイス(1月20日東京)V23 対ブルーザー(2月6日カンサス)V24
対ブラジル(3月11日愛知)V25 対ブルーザー(4月10日宮城)V26
対サンマルチノ(5月9日日大=WWWF&PWF)V27 対ベーカー(10月14日松山)V28
対マードック(11月5日大田区)V29 >>397
シンは74年6月に腕を折られた(事になってた)からでは?
腕を折られて2ヶ月後に来日するわけにもいかない。
で、6月以降は治療に専念。
翌75年に復習の鬼と化して久々に来日。
そこで猪木を倒してタイトル奪取。
確かに説得力ある流れだね。
しかしあの時代にシン抜きとは。
シン人気で大半の会場が超満員札止め状態だったのに。
でも腕折りで猪木とシンとの抗争は決着付いて終了という流れだったのかな?
新日側はそういう思惑はなくてもファンの気持ちとしては。
その74年にはアンドレやシークが新日初登場してんだよね。 【馬場PWF選手権】
1976年
対マクダニエル(3月8日日大)V30 対ロビンソン(7月24日蔵前)V31
対ブッチャー(10月24日寝屋川)V32 対スピリット(12月7日福岡)V33
1977年
対ラシク(3月20日グリーンズボロ)V34 対ロビンソン(9月7日小樽)V35
対大木(10月5日大阪=PWF&アジア)V36 対パテラ(10月24日盛岡)V37
対大木(10月30日黒磯)V38 >>403
猪木はシンに負けて取られたのではなく返上後の決定戦でシンが取ったという形なんだよな >>407
それはテレビ生中継の関係もあった。
馬場大木を中継に収めるための配慮。 >>400
ゴッチが猪木への挑戦者の形になるのを嫌ったかと思ってた >>405
列伝では
猪木「シンの腕を折ってやったけどやっぱりそんな事はしたくないから今後シンの挑戦は受けない」
新間「しかしNWFはシンは実力者だから受けろと言ってます」
猪木「あんなシンのカタを持つなら返上だ」
シン&NWF「イノキはシンが怖くて逃げた」
でまた猪木シンやったらシンが正統派レスリングやって猪木もファンも面食らった。
上手くできてるな、列伝 >>405
列伝では
猪木「シンの腕を折ってやったけどやっぱりそんな事はしたくないから今後シンの挑戦は受けない」
新間「しかしNWFはシンは実力者だから受けろと言ってます」
猪木「あんなシンのカタを持つなら返上だ」
シン&NWF「イノキはシンが怖くて逃げた」
でまた猪木シンやったらシンが正統派レスリングやって猪木もファンも面食らった。
上手くできてるな、列伝 >>409
神に祀り上げた師であるゴッチを、NWFの挑戦者にはできないだろうw
馬場や猪木に力道山が挑戦するようなもの 捻って叩きつけるような独特のブレーンバスターだったんだよな
とにかく鬼門の広島伝説の一つで >>413
その代わりが翌年のテーズ戦か
おそらくはインターでの馬場・テーズも意識してたんだろうが 実力世界一ベルトは、ゴッチベルトだから取り返したけどね(説得力ないかな?w) 【猪木NWF選手権】
1976年
対パワーズ(3月18日蔵前)V3 対シン(8月5日蔵前)V4
対パク・ソンナン(10月10日ソウル)V5 対コロフ(12月2日大阪)V6
1977年
対シン(2月10日武道館)V7 対パワーズ(3月31日蔵前)V8 対アンドレ(6月1日愛知)V9
対ハンセン(9月2日愛知)V10 対パターソン(12月1日大阪)V11
1978年
対シン(2月3日札幌)V12 対スーパースター(3月30日蔵前)V13
対バックランド(6月1日武道館=WWWF&NWF)V14 対モラレス(7月24日広島)V15
対シン(9月21日品川)V16 対マルコフ(11月1日愛知)V17
1979年
対ループ(1月12日川崎)V18 対シン(4月5日東京=ランバージャック)V19
対ボルコフ(4月17日アレンタウン)V20 対カネック(4月22日メキシコ)V21
対ブリスコ(5月10日福岡)V22 対シン(8月2日品川=没収試合)Vカウントされず
対シン(8月10日ロス)V23 対ハンセン(8月17日カルガリー)V24
対シン(10月4日蔵前=オイルマッチ没収試合)Vカウントされず
対ローデス(11月1日札幌)V25 対モラレス(12月4日大阪)V26
対ハッサン(12月17日MSG)V27 馬場がシングルタイトルマッチやらなかったシリーズ
73年ジャイアントシリーズ
74年チャンピオンカーニバル
サマーアクションシリーズ
75年ブラックパワーシリーズ
サマーアクションシリーズ
サマーアクションシリーズ第二弾
ジャイアントシリーズ第二弾
オープン選手権
76年新春ジャイアントシリーズ
チャンピオンカーニバル
NWAチャンピオンシリーズ
サマーアクションシリーズ第二弾
77年新春ジャイアントシリーズ
エキサイトシリーズ
チャンピオンカーニバル
サマーアクションシリーズ
世界オープンタッグ
78年チャンピオンカーニバル
エキサイトシリーズ
サマーアクションシリーズ
サマーアクションシリーズ第二弾
世界最強タッグ
75年以降、1年8シリーズで半分以上のシリーズで
シングルタイトル戦をやらなくなった馬場 >>413
猪木は藤波に挑戦(IWGP),
馬場は、川田&冬木のアジアタッグに挑戦したけれどね(with小橋) その前に馬場は鶴田・谷津の世界タッグにも挑戦してたな(with木村) 【猪木NWF選手権】
1980年
対ハンセン(2月8日東京=王座転落) 対ハンセン(4月3日蔵前=王座奪還)
対ハンセン(5月9日福岡)V1 対シャープ(8月9日シェアスタジアム)V2
対ハンセン(9月11日大阪)V3 対ハンセン(9月25日広島)V4 対パテラ(9月30日武道館)V5
対ホーガン(11月3日蔵前)V6 対ダンカン(12月29日MSG)V7
1981年
対パテラ(2月4日大阪)V8 対ハンセン(4月7日鹿児島=没収試合コミッション預かり)
対ハンセン(4月23日蔵前=王座決定戦で勝利⇒IWGPに向け王座返上) 猪木の防衛戦で79年12月MSGでのハッサン戦が全く記憶にない。
グレート・ハッサン・アラブって、アイアン・シークのこと? >>423
シークのことだよ
少し前までは動画があったけど
ストロングスタイルっぽい試合で日本向けの攻防だった
フィニッシュだけはアメプロだったが >>425
前年のMSGシリーズでは途中棄権の長州と並んで
最下位だったのにな。 コシロ・バジリで新日と全日に来日してたよね
新日が第1回ワールドリーグで、全日ではレイスやホフマンと一緒で
テレビでの中継はなかったような気がする。 80年代に入って一挙にパワーファイターばかりになってる >>428
この時期に、60年代後半の全盛期の馬場がいれば面白かったと思う。 昔、ドリキャスの全日本プロレスソフトで「全盛期馬場」ってのがいて
かなり強く、動きも早かった。
アッポーとか、
ブッチャーに地獄突き入れられていつまでもなかなか起きない馬場、
せいぜいハンセン戦の初戦くらいしか知らなかった自分にはかなり新鮮に思えた。
その後YOUTUBEや若き猪木が父親に戯れてるようにしかみえない力に満ち溢れているような馬場の写真を見ると確かに全盛期の馬場が80,90,2000年代のトップレスラーをどうあしらって料理したか想像するのはとても愉快。
大谷「翔平」が大リーグで
マンガみたく投げ抑えたり、ホームラン連発してるの見たときは
馬場「正平」はあの時代にこうだったのか?と思ったりもしたりね。 >>430
全盛期の馬場と、超獣コンビ・人間魚雷コンビ・ウォーリアーズ・ベイダー等の対決‼
筋肉パンパンの馬場が32文で飛びまくるだろうなw 79、80年から猪木のNWFはシンからハンセンが常連の相手に。
80年にはハンセンもタイトル奪取。
そこからNWFは完全に猪木とハンセンの戦いが中心になった。
シンとはUWAのタイトルを巡る戦いに変わり。
新日からしたらシンもまだまだ必要。
だからシンも重宝されてた。
NWF=ハンセン
UWA=シン
ま、UWAはこの時代の新日には便利なタイトルだったね。
結果的に猪木とシンの戦いに一役買ったし。
また猪木が二冠という肩書きで箔も付いた。
1年の貸出しだったらしいけど。
1年経ったらしっかりとカネックに返したし。 NWFとUWAの二冠で売ってたら、突然IWGP構想を発表し、実質6年間シングルタイトル戦なしと、
極端な猪木 UWAのベルトは、安っぽく立体感のない感じで嫌だったな〜
その後の“呪われたIWGP” (大物プロモーターの死、暴動、タイガー離脱、クーデター等)
そもそも、乱立したタイトルを統合するを掲げていたのに
予選の最中、82年に藤波がWWFインター王座を獲得しているw
その予選も、世界各国で行いMSGで決勝戦の目論みがあったのに
各地域のプロモーターの協力は得られず、日本各地を巡業する従来型で
メンバーも興行スタイルもMSGシリーズと何ら変わらない。
ブッチャーを引き抜いた81年。 夏までに開催していればハンセンもいて
アンドレ・ホーガン・ボックと揃い、伝説の大会になったと思う。
時期はズレるが、全日の三冠ヘビー級王座の方が
国内の主要ベルト(インター・UN・PWF)を統一した感はある。
考えてみると、馬場が豪華外国人レスラーを独占したから
猪木の大物日本人対決や異種格闘技戦が始まったようなもので、
NWAにやっと加盟(1975年)したのに、挑戦すら出来ないから
IWGP構想が生まれた感じがする。 IWGPも当初の坂口案通りに、ロープ越しのブレーンバスターをかわして
逆さ押さえ込みか卍決着にしていれば、猪木優勝でタイトル化(IWGPタッグのように)
初代王者になり2回目以降のリーグ戦開催は無かったんじゃないの?
猪木のアレで、シナリオ描き直した気がするんだけどな…
いっそホーガンを初代優勝者じゃなく初代王者にした方が潔かった。 猪木のアレはマイナスの大団円だからな〜。
アレに整合性をつけようとあれこれやったあげく
IWGPはただのタイトルになってしまったし大会はどんどんしょぼくなった。 >>435
あそこでホーガンに勝っておけば、「翌年WWF王者になる男に勝った」猪木は真の世界一だ、という
説得力が出たね。
ところがホーガンに負けてしまい。翌年WWF王者になった彼にはもうフォール勝ちができなくなり、
「前年の仇を取れない猪木」になってしまった。
結果
ホーガンにリベンジできない猪木
ブロディにフォール勝ちできない猪木
前田と対戦しない猪木
と続き、猪木の限界ムードを高めてしまったね IWGPの時期に起きたクーデターも、日プロクーデター未遂に次いで興味深いなぁ
クツワダや梶原&トルコの新団体計画とか、、、
スキャンダラスで、人間関係や思惑が浮き彫りになる様は面白い。 鶴田試練の十番勝負も、第9戦の大木戦から1年半も空いたのは
例のクツワダ事件の影響を受けてのものなのか何なのか謎だな
対戦相手も若手のCテーラー、峠の過ぎたBブラジルのどこが試練なのか?
ドリー・ホッジやガニア国際ルートでバションなんかの方がよかった。 >>439
若手のCテーラーは、アマレス時代では、それこそ雲の上の
存在だったので、プロレスでは、それが逆転したことを
示したかったのだろう。
ホッジとは74年に確か、シングルで戦っている。彼も、さすがに
全日に来た頃は衰えていたから、78,9年にやるとしたら、ブラジル、
エリックと変わらないね。
鶴田試練の十番勝負も藤波飛龍十番勝負も、その途中で
ヘビー級王者になったからね。(UN,WWFインター)
王者が試練と言うのをオカシイし、
防衛戦もやらなくてはイケないし。 世界王座争奪十番勝負、覆面十番勝負が当たったから始まったんだろうが
名だたるレジェンド達の間合いの取り方やスタミナ配分、試合の魅せ方など
若いうちから鶴田は吸収したんだろうね〜
もっと早くに馬場がエースを譲っても、鶴田はこなせたと思うけどな。 >>439
マスカラス戦は十番勝負にしても良かった。
後は意外にめぼしい対戦相手がいない。 >>443 さんの言うとおり、田コロのマスカラス戦を入れればよかったね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています