【32文】BI抱を考える2【コブラツイスト】
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関係者でもなんでもない俺が立てた。
マイナー団体で伸びてくる選手が好きなんだ。 スレタイの『抱』を『砲』に直して欲しかったw
ここは内容が古すぎてなかなか伸びないけど、
貴重だから落とさないよう、ボチボチ書き込んでいきましょう。
1965年の力道山3回忌と思われる池上本門寺の集合写真(まだ胸像がない)
https://xn--zckzczcd7076bwdw.shiseiweb.com/wp-content/uploads/2017/09/riki3kaiki.gif
日本プロレス一団体時代で、猪木は渡米中
木村政雄や杉山恒治・草津正武(馬場の付人)等、国際旗揚げメンバーもいるね。
知らない人も何人かいるなぁ…
下段の両端2人の問題児が満面の笑みなのが印象的w >>3
集合写真とは言え、笑う場面ではないよね。
って、遠藤幸吉とユセフ・トルコも薄ら笑いを浮かべているが。 参列メンバーを記しておくと、
[前列左から]米良明久・鈴木勝義・北沢幹之・平野岩吉・大熊元司・草津正武
[後列左から]斎藤昌典・長沢日一・平井光明・長谷川淳三・小鹿信也・吉村道明・
豊登道春・ジャイアント馬場・ユセフトルコ・九州山義雄・遠藤幸吉・木村政雄・
上田裕司・本間和夫・田中政克・杉山恒治
長沢日一(秀幸)・平野岩吉と本間和夫を知らなかった。 1965年は第7回ワールドリーグで豊登が連覇して
その後、復活したインターナショナル王者に馬場が君臨し日プロのエースになり
年末(この数日後)に豊登の追放
翌年、この場にいなかった猪木を口説いて東京プロレス旗揚げ
吉原も写ってないが、遠藤と揉めてマツダと国際を設立するわけか…。
そういう意味では貴重な写真だな
あと韓国マットで大熊リンチ事件があったのも65年か 親父と話してる時「新日は猪木みたいなキチガイがいなくなってまともになった」って俺が言ったら親父大笑いしてたわ 猪木が面倒くさい病気になったみたいだよ
頑張れアントン 「世界一元気な糖尿病になりました」(2008年6月23日 IGF月寒大会でのコメント)
「元気があれば胆石も出来る!この胆石を2億円ベルトの飾りにしようと思っています」
(2011年1月7日 胆石除去手術後のコメント)
元気は精神的なところが大きい。
大丈夫だよ!猪木なら笑って乗り越えてきた。
https://youtu.be/-Ok6TiYwOWE 71年ワールドチャンピオンシリーズの期間中に、猪木は天国から地獄へ堕とされたな
UN、インター&アジアタッグの3冠を失い、1億円結婚式の費用も自腹で払う事に…
っていうか、日プロを追放された東郷が新団体計画をNETに匂わせたのが発端で
その後のダラ幹、お家騒動へと繋がっていくわけだよな
国際プロのテーズvs草津戦も然り
力道山死後も東郷と関わった事が日本マット界全てを狂わせた・・かな?
https://stat.ameba.jp/user_images/20190629/18/tsukutsuku1104/c2/fa/j/o0430101714485245943.jpg?caw=800 >>3
高千穂若い!(まだ本名?)
とっちゃん坊やな>マサ
当時は大卒のプロレスラーて珍しいか。
(写真の中だけでも、マサの他に坂口や吉村がいるが) てか、その三回忌の写真で存命なのはカブキ・小鹿・北沢くらいかな?
マティ鈴木や田中忠治に遠藤幸吉なんて生きてるのか知らないわ
写真には写ってないけど日プロ出身者では、
猪木・坂口・藤波・木村健・Kカーン・百田…
新日勢は長生きだな〜 初期のBIは、馬場の体固めは多分16文で 猪木は殆どアバラ折りなんだな。 >>24
テリー・ファンク・ジュニア?
Jr.の意味を知らんかったのかな?
単純に若い方(弟)をジュニアと思ったか。 >>24
この頃はファンクスって言わないのね。
どうでもいいがクイズ番組多いな プロレス中継の試合は BIがファンクスにストレート勝ちしたインタータッグだな 数年後にはファンクスがインタータッグ戴冠。
NWAチャンピオンのドリーって、日本で何回
防衛戦や馬場への挑戦をしたんだろう? >>30
合計4回
猪木、馬場、猪木、坂口
2度目の来日以降に
馬場が挑戦していないのは謎 本当は坂口のところが猪木の予定で、NWA世界&UNヘビーのダブル選手権だった。
日プロも76年にはUN王者になり倍賞美津子と結婚した猪木をエースに据えるべく
本格的にシフトチェンジしていたのかも…
それともNET主導で王者を招聘していたとかね
でもドリーがキニスキーだったら馬場の連続挑戦もあったのかな? 猪木追放事件直前の
日プロの方針転換はいろいろ興味深い
それまでほとんどタッグを組まなかった
猪木と坂口を組ませて売り出そうとしてたり
内紛がなかったら
昭和47年以降の馬場、猪木、坂口の関係や王座の推移はどうなってただろう >>32
ダブル選手権ってもう引き分けがミエミエだな。 >>34
ドリー対猪木、三回続けて引き分けって、客がシラケる。
テリー乱入でドリーの反則負け(NWAは移動せず)、
猪木のUNは防衛という線もあった。 >>33
1972年中に、猪木&坂口でアジアタッグ王者に。
猪木はP・モラレス(72年新春シリーズで対決が内定していた)、
H・レイス、テリー・ファンク、マスカラスあたりとUN戦を行っていただろうな。 >>33
少なくとも、大木のインターや高千穂のUN、大木&上田のインタータッグ等
この悪夢のようなベルト移動は無かった。
日プロ時代はインター王者&ワールドリーグ優勝者がエースの証だったから
春に馬場挑戦を直訴した猪木を72年にどう扱うのか…興味あるね〜
すんなり猪木エース路線にしたら大木が反乱を起こしたした可能性もあるな >>30
NWA防衛戦は31氏がレスしたように4回で、
馬場への挑戦(インター)は、70年夏の1回だけだな。 馬場って不思議と
ドリーとのシングルを避けてる気がする
96年頃まで全日に参戦してたのに
馬場ドリーのシングル戦は75年が最後 >>41
最終戦、東京体育館の馬場対テリーのインター戦につなげた、とも取れるな。 この頃のテリーって
大舞台で馬場のシングルに挑戦する程の格ではない
当時の専門誌でも東京大会は
馬場対ドリーのダブルタイトル戦だろうと書いてた >>43
最終戦の東京体育館、馬場対テリーではチケットが
売れなかったんだろうな。
急遽、アジアタッグを持って来た(当初は、その予定なし)。
12月1日、名古屋で猪木&吉村対ドリー&マードックのアジアタッグ戦が
1−1から時間切れ引き分け。ドリーは再戦を要求。それが通らなければ
以降の猪木とのNWA戦をキャンセルして帰国するとまで主張。
それで最終戦にダブルタイトル戦となった。 まあアメリカにアジアタッグのタイトル持って帰っても何の意味もないしな。
昭和新日の北米タッグも同様。なんで北米のタイトルが極東の日本にあるのかと。 >>44
そもそも馬場対テリーだけで売れるはずがない
当時の感覚なら同年に同じ場所で3000人の超不入りに終わった
馬場対イワン・コロフよりもカードが弱い
リアルタイムで見てた人の方が
「日プロは何を考えてるんだ?」と思った人が多かったんじゃないかと思うが
当然、興行をやる側もそのことは承知してないわけがないから
その裏に何らかの事情があったと思うんだよなあ 猪木の除名が無ければあるいは吉村が返上して猪木・坂口で決定戦に望んだのかも
それにしても現役のNWA王者を決定戦に使うという点にも当時のアジアタッグの格の高さが伺える >>47
ちなみに猪木&坂口対ドリー&マードックは11月29日、横浜文化体育館で対戦。
日本組が1−2で敗れている。三本目、ドリーが坂口をフォールした決め技は
今でいう、「投げっぱなしジャーマン」というか、真後ろから相手の胴を
抱え込んでのバックドロップ。12日に、このカードでアジアタッグ争奪戦に
なったら、日本組はリベンジ成功となったわけだが。
それにしてもドリー&マードック組は強かった。破壊力でファンクスを上回るほど。
普通のシリーズだったらインタータッグ挑戦権ありだったな。 実際には吉村・坂口で取った事で坂口>猪木を強調した感じに >>49
坂口一人でドリーとマードックから1本づつ取ってるからね
試合後も感動的だったし
あの日が坂口の頂点だったかもしれない 猪木、日本プロレス最後のシリーズは
12月1日、名古屋、アジアタッグ with吉村VSドリー&マードック
12月4日、仙台、UN、VSマードック
12月7日、札幌、インタータッグ、with馬場VSファンクス
12月9日、大阪、NWA,UNダブルタイトル、VSドリー
12月12日、東京、アジアタッグ(再戦) with吉村VSドリー&マードック
というタイトルマッチの連戦になるところだった。 >>50
試合後もドリーを押さえ続ける吉村の姿も感動的
後に確執を生む大木がセコンドで祝福しているのも面白い 大木の場合、大試合にさりげなくセコンドについていた印象があるw >>57
BI砲対サンマルチノ&デヌーチ,
WWWFの元インタータッグ王者チームであり、
インタータッグを賭けても可笑しくない一戦だったなぁ。
デヌーチはNWFやオーストラリアIWAの世界王者にもなったのに、
日本では、今ひとつ、ふたつくらいだった。 >>57
猪木とサンマルチノが獲られる→獲るをしているのが意外。
クーデター直前までは猪木推しの流れが強まっていたのかな? >>59
12月1日に馬場が上田を問い詰め、3日に猪木派の計画を猪木抜きの選手会で
公表しているから
それ以降、猪木は天国から地獄 四面楚歌の状態
何も気付いていない日プロ幹部は、この日まで猪木推し
一気に馬場と同列まで持っていくつもりだったろうね。 71年末には2団体だったのに10ヶ月で4団体になり
2枚のチケットで全て見れたのが4枚必要になり、プロレス冬の時代へ突入する事に…
《72年10月の各団体メンバー》
日プロ⇒坂口、大木、吉村、上田、小鹿、高千穂、ヒライ、松岡、桜田、羽田、
木村、小沢、伊藤、大城
海外修行中が、星野、永源、安達、戸口、林
国際プロ⇒小林、草津、井上、田中、寺西、鶴見、デビル、大剛、稲妻、八木、
米村、大磯、珍
海外修行中が、木村、浜口、大位山 (藤井=ヤスフジイは除名)
(奄美はデビュー前)
新日⇒猪木、豊登、小鉄、柴田、木戸、北沢、藤波、荒川、浜田、来栖、Dタケシ
(藤原はデビュー前)
全日⇒馬場、杉山、大熊、駒、クツワダ、佐藤、百田、肥後、藤井
(鶴田はデビュー前) >>63
日プロ勢海外行きは戸口が72年12月、他4名が73年1月
Dタケシはその頃いない。木原、佐藤がまだ辞めてなかったかも
肥後全日移籍は73年1月か2月 >>64
そうでしたか
適当な記憶に頼っちゃいけなかったわw
4団体のメンバーをみると、大エースはいないけど複数エース制?を敷いていた
国際プロレスが一番バランスが良さそうだね。
この時期はブルクラを招聘してるし、全日のデスト&ブッチャーに負けてない 国際は最も羽振りが良かった時期だな
年末には馬場を草津の前に歩かせる事も出来たわけだし しかし10月からTWWAプロレス中継は日曜夕方30分枠となり以降1時間枠に戻ることはなかった ‘72年4団体暮れの外人選手は
日本プロレスは、KKコックス、Mストンパーと言ったインター挑戦経験者と
ザ・カンガルーズらシリーズを通して参加、GキニスキーとBブラジルが後半戦特別参加。
国際は、同じくMミラノ、レッドバスチェンらにブルーザーとクラシャ―が特参。
全日はデストロイヤー、ブッチャー、サイクロン・ネグロら
新日は、日プロに参加したことがある中堅のカール・フォン・ストロハイムと
ジョニーロンドスら(^^:
日プロと国際はビッグネームを招聘したが、翌年の新春シリーズはガクッと落ちた。
前者は、マスクマンシリーズと題して、スポイラー(ドン・ジャーデン)、
ミスターX(ジム・オズボーン)、素顔でビリーレッド・ライオンら。
国際は、やはりマスクマンのザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバード)、
ラリーへリングら、オットーワンズ(グランラバン名義)とケンパテラが
初来日しているのは特筆されるが。 >>66
吉原社長は、坂口が新日入りすることについてコメントを求められて、「ウチを見習いなさい。その一言です。」と答えたくらいだからな。 >>69
馬場からインターを奪った二人を参加させているところにも拘りを感じる >>73
全日の外人エースはジョナサンとシュナイダー。
まぁ4団体の新春シリーズの中では、一番、ビッグネームだね。
ただ、サンマルチノ、デストロイヤー、ブッチャーに比べると
馬場との因縁とか、名勝負となるとちょっと薄い。
全日は、旗揚げ以来、いちシリーズで日本プロレスだったら
単独エースが務まる選手を2名づつ招聘して、「力道山ベルト争奪戦」を
行っていたね。 おぉっ!
ジョナサンにスナイダーに
ゴードン・ネルソンまで!
女房を質に入れて
全戦同行したいわ!
73年1月というと3バカ入門前。
借り物道場で横浜文体から日大講堂gまでのオフの6日間にゴードン・ネルソンの駒、百田、佐藤昭雄らへの特別レッスンなどあったのだろうか? ゴードン・ネルソンの授業、本当にあったかもしれないねw
自分的には“まだ見ぬ強豪?”だったアルゼンチン・アポロ(ロッカの方が良かったが)の
アルゼンチンバックブリーカーが観れただけよかった。
このシリーズのアーカイブ映像が日テレに残ってないのが残念! >>69
キニスキーって日プロ残留か。
馬場の「引退試合」の一人だし親友っぽいから、サンマルチノやブッチャー同様に全日本設立時からのメンバーかと思っていた。 ブッキングされていつもの日プロに来てみたら
あれ、馬場も猪木もいないじゃないか。早いけど引退したのか? って感じじゃないのかな。 元NWA世界ヘビー級王者の来日でいうと、意外にも新日の方が早い(72年10月)
と言ってもゴッチvs猪木戦のレフェリーとしてテーズが来た!だけどねw
全日は73年新春ジャイアントシリーズ結集戦のオコーナーが最初かな
キニスキーは74年エキサイトシリーズが全日初参戦 >>79
>元NWA世界ヘビー級王者の来日でいうと、意外にも新日の方が早い
早い、と言っても、新日のゴッチ対猪木の2連戦(10月4日、10日)の
時点で、全日は旗揚げ(21日)前だったし。(^^: >>73
いやいや、日プロのほうが
怪しい魅力がありそうw
ビリーレッドライオンにも
覆面を被せたら完璧だった >>73
原爆男 ウィルバー・スナイダー
モルモンの人殺し ドン・レオ・ジョナサン
現在なら抗議デモ避けられない表記だよなw >>83
いやいや、どうも。こちらこそ無粋な突っ込み失礼しました。 >>75
スナイダーはこれが最後の来日なんだよな
結果的に三度だけだが >>80
前から疑問だったんだが
馬場とファンク一家って親密になるほどの接点は
海外修行時代とかにはなかったんだよな
やっぱり駒の頑張りだろう >>73
なんでバッファローかと思ったけど丑年だったんだね >>86
63年にドリーシニアが東郷に馬場をブッキングして貰い、いまだに語り草になるアーチ・ムーア戦へと流れる試合が行われている。
この時の馬場の態度がとても良かったことで、シニアはずっと馬場を気に入っていたということを後にジュニアから聞かされたと馬場は著者に書いている >>89
“原爆男”スナイダーもいいけど“鳥人”ホッジが好きだな〜
ジュニアヘビー級だったから日本ではあまりピックアップされなかったと思うが
60年代が全盛期のホッジと80年代が全盛期の鶴田が
74年サマーアクションシリーズ後楽園大会で30分フルタイムドローをやっている。
『試練の十番勝負』での決着を期待したけど叶わなかった…
https://livedoor.blogimg.jp/toukon_tetujin/imgs/5/3/532046cd.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/toukon_tetujin/imgs/1/6/16c24bd5.jpg テーズ、ゴッチを凌ぐともいわれるホッジのシュートレスラー面が
当時に強調されていたら違う見方ができたと思うけど
放映時は「なんだジュニアヘビーのレスラーと引き分けてる」鶴田に落胆したもんだった。
十番勝負の候補になってなかったからだろうし、やっても盛り上げが難しかったかな。 ホッジと言えば、1971年のゴールデンシリーズ来日時は
猪木のUN王座の初防衛戦の相手か?という期待もあった。
結局、それは知名度で勝るFブラッシーに持っていかれたが。
シリーズ中、猪木対ホッジ30分1本勝負はテレビ中継された。
(猪木のリングアウト勝ち) >>92
そのシリーズの馬場vsホッジは引き分けだった 【日プロ時代の猪木vsホッジ〜シングルマッチ】
69年1月11日 大阪府立体育館 30分1本勝負
アントニオ猪木(14分25秒 両者リングアウト)ダニー・ホッジ
71年5月29日 函館市慰霊堂前広場特設リング 30分1本勝負
アントニオ猪木(10分23秒 両者リングアウト)ダニー・ホッジ
71年6月25日 後楽園ホール 30分1本勝負
アントニオ猪木(13分44秒 リングアウト)ダニー・ホッジ
71年7月3日 岐阜・飛騨高山体育館 30分1本勝負
アントニオ猪木(14分13秒 両者リングアウト)ダニー・ホッジ
(これが全てだと思うが、70年ホッジ来日時はシングル対戦なし) >>94
70年ホッジ来日してませんな
67年国際ではタッグで対戦あるがシングルはなし 1969年暮れのNWAチャピオンシリーズにジュニアヘビー級王者として
来日した時、猪木がウエイトを落とし、ホッジに挑戦するという案があった。
馬場がドリーのヘビー級王座に挑戦することは決定していたので、
BI砲で、NWA世界2階級王座獲得だ!とかいうアドバルーンも上がった。 >>91
その頃は鶴田もジュニアヘビーのくくりに入ってたから、チャンピオンと引き分けは落胆にはならないよ。 年末にはマンテルのNWA世界ジュニアにも挑戦してたし >>98
いや、ホッジが超一流レスラーと思ってなかったので「落胆」したんだよ。
自分の知識が薄かっただけ。それとプロレスをスポーツだと思ってたし。
ただ当時は鶴田がデビュー二年三年でブリスコやドリーに好勝負してたので
このまま成長すればチャンピオンは確実だ、なんて誤解してたんだよ(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています