【32文】BI抱を考える2【コブラツイスト】
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いや、もう一回、カマッテやったんだから、もう良いだろ?(苦笑) >>133
暇だからカマッテやるよ。
米寿っていくつか知っているのか?
88歳だよ!
1969年のことを書いたから、その時、37歳でしたか?ってことだが、
その時、馬場がジャイアントバックブリーカーを初公開したのは、
小学校でも、上級生なら分かるよな?
「もう還暦を迎えましたか?」なら分かるが、なんで「米寿」まで行くんだよ?
そんなトンチンカンなことを書くいうアンタは義務教育を終えたのか?
と聞いんだよ(苦笑) >>124
ジャイアントバックブリーカーは、日本国内では貴方の説明が正しいと思う。
ところが、なんと馬場は63年海外修行の時から使っていたみたい、、
https://white.ap.teacup.com/corona/img/1284944710.jpg
『プロレス&ボクシング(63年7月号)』表紙の右下
ちゃんとコブラクラッチの体勢から膝を当ててる。
https://white.ap.teacup.com/corona/img/1284944914.jpg 河津掛けと河津落としって
ラリアットとランニングネックブリーカーくらい違う。 タイガースープレックスとオースイスープレックスくらい違うw プロレスだと河津掛けは防御技(力道山がルーテーズのバックドロップ封じに使った) 猪木もダブルアームとダイビングニードロップは
効きそうに見えなかったなぁ〜
特に新日系のニードロップは、膝が当たってないように見えた。
(つま先でエグっていたのか?)
唯一、キラー・カーンのダブルニーは説得力あったけど
レスラー仲間は口を揃えて全然効いてないと言う。
これがプロだな 猪木のあんまり効いてないけど浮遊感あるニードロップから
雰囲気と華麗さを抽出したものが藤波のドラゴンリングインなんだよ。 ジュニアはヘソで投げるバックドロップもやってたんだな NWA王者ドリーの兄弟コンビでさえストレート負けさせられたし
当時の日プロは兄弟タッグに厳しかったのか? >>148
兄弟タッグは別に関係ないと思うけど、
その時点でのランク付け(日プロの評価)じゃないかなぁ
テリーは伸び盛りだったが、まだ荒削りなところがあった。
しかし翌年はインター王座に挑戦するまでに成長…
あの頃のテリー・マードック・レイスの出世争いは面白かった
でも、BI全盛期とはいえファンクスがストレート負けは意外だったね
Hジェームスは言わずもがなw 41年前の今頃は、オールスター戦を予想してソワソワしていたなぁ〜
それ以降も何回か行われたけど79年8月26日は特別
テレビ中継も限られたニュース枠だったし、第2回大会も無かったし…
それが今となっては特別感を増すのか、2年後には国際プロレスも消滅して
新日全日は引き抜き合い興行戦争真っ只中
オールスター戦どころじゃなくなったw >>149
>しかし翌年はインター王座に挑戦するまでに成長
成長したかどうか、日本のファンには分からなかった。
日本プロレスが勝手に、シリーズ最終、東京体育館大会を
「馬場対テリーのインター戦」と発表したが、ファンは
「え?テリーかよ?(まだ力不足)」「ドリーではないの?」
という反応だった。実際、このカードではチケットが売れなかったらしく、
急遽、アジアタッグを追加したくらい。 >>151
テリーのインター挑戦は早過ぎた感があったけど、
少し前に猪木UNにマードック、翌年には坂口UNにレイスが挑戦
日プロとしてはワンランク上のインターでなく
追放しなかったら猪木UNにテリーをぶつけてたかも…
猪木がいればアジアタッグも空位じゃないし
馬場vsドリーのインター戦と、猪木vsテリーのUN戦
この2大試合で東体は埋まるだろうね >>152
10年後に東京体育館でやるとして
馬場×ドリーのPWF戦で4000人。
猪木×テリーのNWF戦で11000人、かな。 妄想だけど、もし猪木の除名がなかったらインタータッグ戦はどうなったかなぁ?
やっぱりファンクスがBIに勝ってベルト移動
大阪でNWA&UNダブル選手権はドロー
その後、東体でテリーに完勝してUN防衛、馬場はドリーと引き分け防衛
NET派の推しで、猪木坂口組でのインタータッグ奪回
猪木は馬場と戦わずして日プロのエースに…そんなシナリオがダラ幹にあったかも 昭和47年以降は猪木、坂口で売っていこうという意図が透けて見えてくるね
この時点で馬場のプロレスではそれまでの貯金はまだまだあったとしても
もう新しい客を呼べなさそうだからね 純粋な格闘スポーツではないにせよ
40が見えてきた選手が第一線でやるわけにはいかない。
馬場はそれほど先が長くない。これからは猪木坂口で行くよ。
これはその当時なら当然の感覚。
今はまあ50代のJリーガーやらがいるけれどね。 >>156
馬場の日プロ時代の人生設計は、38歳で引退してハワイで隠居だったから
4年程早いけど72年に決断…でも日テレが許さんだろうなw
まあ猪木がエースになったら、馬場はインター王座返上して全米行脚は理想だけど
それも無理だろうな
っていうか、鶴田も長州もスカウトされたのかな?
異種格闘技戦は?猪木vs小林戦は?…
やっぱりあの時分裂してプロレスが面白くなったから良かったよww 分裂したから面白くなった部分があるのは否定はしないが
スケール感では新日も全日も日プロには遠く及ばないのも事実
日本相撲協会や日本プロ野球機構が分裂するようなもんだからね >>159
なにしろ、自民党の副総裁が日本プロレスリング
コミッショナーをやっていたもんなぁ。 猪木は村松友視と二人で別府に行った際、
観光客のオバさんが「あ、ジャイアント馬場さんだ」とはしゃいだので、
「アッポー、アッポー」と手刀を振り下ろす真似をして喜ばせたそうな。
逆の状況で馬場が猪木に間違えられても、
馬場は黙りこくだけだろうからな
間違ってもアゴを突き出して「あんだこのヤロー」
とは、やらないだろ? 馬場は、羽田空港で初対面の高倉健に「馬場さん、どこ行くの?」
と声を掛けられても無視した男。(まぁ俳優、高倉健を知らなかったのだが)
猪木に間違えられたら、それこそガン無視だな。 >>160
しかもお飾りでなく実力ある政治家ばかり >>164
大野伴睦は明治大学出、坂口の先輩。
川島正二郎は専修大学出、長州の先輩。
椎名悦三郎は東大出、流石に出身レスラーは無し。
ちなみに大野の後を受けた川島は大野より一つ年上 >>155
そうなんだけど、そこにテレビ問題がからむから。
猪木が日本プロレスのエースになっちゃうと
日テレとNETの内容に差がなくなる。
当然日テレは日本プロレスに文句を言う。
それでも日本プロレスが猪木エースを強硬すれば、日テレは馬場の独立を促すだろう。
結局は分裂の流れ 当時は日テレもNETも、日本プロレスの主要株主になってなかったのかなぁ? >>168
プロレス雑誌の裏表紙にアサヒビールなんて今じゃ考えられないw 週プロで馬場のインター持ち出し未遂問題をやってたな
実際にやってのけたのはマスカラスのIWA王座だが そこまでインターに執着していた馬場。
しかし翌年、全日に日本プロレスが合流した時に
インター王座戦を開催しようとは思わなかった。
そうしておいて8年後に復活。 >>173
そんな事したら、新設したばかりのPWF王座が意味なくすよ、、 >>175
83年2月って、まだ佐山タイガーは辞めてないし、舌出し事件の前だが。 >>176
本当だ。読み直して気付いたけど、時系列が合わないね…
共に11月のインタビューだから↑↑に貼ったけど12月号か84年2月号だろうね。
指摘ありがとう! >>174
当時の馬場としてはインターを無視する事でPWFこそ真のインターの継承王座という感じに持って行ったつもりだったかも 当時は>>174の理由とは思ったけど、
大木に何度かインター防衛させてガス抜きさせた後、
王者を陥落させ、PWFとインターを統一に持っていく手はあったんだよね。
実際、1989年にはそうしてるわけだし。 >>181
とにかく明るい馬場?
下半身に何も着けていないw >>180
馬場もPWF新設がサンクコストになってしまったんだろうね。
こんなに手間かけて作ったのに、いまさらインターとなると……。
長年好きだった女性を諦めて違う女性と婚約したらば
前カノからヨリを戻してもいいと言われたらそりゃ困るだろうけどさ。
PWFのベルトをまた百田未亡人に返して
インターベルト本体だけを取り上げてPWFのベルトにしてもよかったとも思える。
その後インターベルトを豪華版で作り直してから原本を大木に返してもいいし。
インタータッグも事実不明な経緯でファンクスに来ているんだから
シングルでもやりようはあったはずだよね。 >>183
インタータッグは、アイアンクローシリーズ焼津大会で大木・上田組が
エリック・クラップ組に敗れ、その2日後に日プロが活動停止⇒海外流出
王者コンビは帰国後に解散⇒クラップがカールフォンスタイガーを指名して
王座を保持⇒アマリロでファンクスに敗れ王座移動
ファンクスも1度はKKコックス・サイクロンネグロ組に敗れるも再び奪回
10月9日蔵前で馬場・鶴田組の挑戦を受けることになるんだよね。
クローコンビから蔵前の師弟コンビ挑戦までは、単なるストーリーかもしれないけど
馬場はその後、アメリカでパク・ソンナンやカンフー・リー(小鹿)と組んで同王座挑戦
ファンクSr.追悼興行で再び鶴田と組んで挑戦するも失敗
サンアントニオの師弟コンビ3度目の挑戦で奪回、やっと全日本プロレスに
インタータッグ王座がもたらされた。 インタータッグこそ馬場が最も長く多く関わったベルトなんだよな インターシングルは大木の戴冠でケチがついたという思いがあったのかな。
まあ結局時間をかけだが、インター復活、PWFとの統一という流れにはなったけど 前スレで、日プロと新日の合併案を大木を使って潰した黒幕は馬場+日テレ説
というのがあったが、インター王座に未練があり新・日本プロレスになれば
猪木にベルトが渡り二度と全日には戻ってこない事を考えると妙に説得力がある。
(全日設立前には大木もメンバーに入っていたという佐藤の証言もあるし…)
73年に日プロ残党を引き受けることになり、上田や松岡には冷遇したかもしれないが
大木はメインで馬場と組ませたりセミでマッチメークしていた。
優遇程ではないまでも、インターのベルトを大木が保持していた事も関係あるのでは?
それでも防衛戦を許されなかった大木は不満を募らせ、全日を離脱し猪木に挑戦。
対戦成績1勝1敗1分の五分で終えた。
あのままWリーグの因縁で坂口とインター王座を賭けての抗争が始まると
馬場も焦ったと思う。
その後も国際で防衛戦を行ったが、猪木新日にさえベルトが渡らなければ
何とでもなると考えていたんじゃないかな? >>184
>王者コンビは帰国後に解散⇒クラップがカールフォンスタイガーを指名して
>王座を保持⇒アマリロでファンクスに敗れ王座移動
このへん、なんとも適当な進行。
解散したらパートナー指名しても認定される王座ってんだから。
それを措いても、スタイガー&クラップの時に一番乗りで獲らないとね。
ファンクスに先を越されるからなかなか帰ってこないんだよ。
ブッチャー&ルーファスジョーンズとかブラジル兄弟とかでも一発で獲れる。
草津&木村でも大木&金光植、ヒロマツダ&マティ鈴木でも大丈夫そうだ。 今後の興行日程のない日本プロレスでのベルト移動は、ある意味不可解。
ということは、この時点で全日本でのインタータッグ開催は視野に入ってた?
しかしそれなら、大木上田をそのまんま王者に
しておくのが一番確実なんだが。 >>186
UNも含めて三冠統一ってのはある意味で全盛期のインターへの再統合というニュアンスもありそう >>181
>アジア選手権を新日が新設する事になって、馬場が封印したアジアシングル王座を
>復活大木にインター王座を返上させたんだよね?
新日がアジア選手権を発表したのは昭和51年2月。
馬場がアジアシングル王座を大木に返し、その交換条件として、インター選手権を
返上させ、日本で決定戦を行ったのは昭和56年春。 >>187
>坂口とインター王座を賭けての抗争が
坂口をインター王者にさせ、猪木のNWFの下に置かせる、とかやりそうだもんな。 1980年代
猪木さんはホーガンとテクニック対パワーのスピーディーなプロレス(^ω^ )
馬場さんはハンセンブロディに凹られるお爺ちゃんプロレス(´;ω;`) >>191
新日がアジア選手権を新設した時には、馬場はアジアタッグだけを復活させた(76年)
って事は、黒磯のダブルタイトルでアジアを獲得してからアジアシングルを封印
それを大木に返し、インターを返上させる81年の写真か…
クロケットJr.やドリーがいて、右端にはインターのベルトがあるからね
分かり難いというか、間違った書き方してゴメン >>195
本当だ!ワルドーとやってるね。
オールアジアは防衛戦やらしてもらってるのに、
インター王座は認められなかったねw >>196
違う違う
ワルドーとの決定戦は9月の防衛戦がノーコンテストで王座預かりとなったから
2月29日付けでNWAから両王座復活が認められたので
アジアヘビーは最終保持者の大木が保持、3月ソウルで防衛戦
タッグはやはりソウルで極道が韓国組との決定戦に勝って王者に >>193
日プロ時代初NWA奪取の試合見てない馬場アンチ 77年10月 黒磯での試合はダブルタイトルマッチだよね。
この試合で勝った馬場は、PWF・アジア・インタータッグの三冠王者 >>189
大木、上田vs馬場、鶴田なら見てみたいな >>196
>インター王座は認められなかったね
日本ではね。
大木は日本プロレス崩壊後、昭和50年3月ソウルの猪木戦以降、
韓国でインターの防衛戦を行っている
51年なんか3月〜11月の8カ月で、7回。そして防衛戦の相手はデストロイヤー、
ブッチャー、マスクを付けているがクツワダ、高千穂と言った全日勢。 スタン・ハンセンはすごかったよ。
馬場のキックにあんなに見事に合わせに行くんだから。
あれこそ本当のプロ。 新日版アジアシングル&タッグも、何度か防衛戦見た記憶があるんだが
いつの間にかフェードアウトしたよね、、
(坂口とシン、あとシンが連れて来る3流のタッグパートナーが印象にある)
正式にはIWGP開催の時、まとめて封印されたんだろうな。 >>199
カマタにPWFを奪われた試合でもアジアヘビーを含めた三冠王って解説されてたんだよな
どうせなら2月の木村との対戦はアジアヘビーを賭けてほしかった >>201
大木のインターナショナル王座防衛記録を調べてみた。
72年12月4日広島県体育館
ボボ・ブラジル(1−2)大木金太郎
*大木が第9代王者に
73年1月12日北海道滝川市青年体育センター
大木(2−1)ビリー・レッド・ライオン
73年4月13日大阪府立体育会館
大木(1−1)フリッツ・フォン・エリック
75年3月27日ソウル奨忠体育館
大木(0−0)アントニオ猪木
75年5月23日ソウル奨忠体育館
大木(2−0)スーパー・デストロイヤー(ネイル・グアイ)
75年10月18日ソウル文化体育館
大木(2−1)マリオ・ミラノ
76年3月26日ソウル文化体育館
大木(1−1)ザ・デストロイヤー
76年5月18日ソウル文化体育館
大木(1−0)ザ・バラクーダ(マリオ・ミラノ)
76年5月19日ソウル文化体育館
大木(1−0)サムソン・クツワダ
76年6月20日全州市体育館
大木(2−1)タイガーマスク(サムソン・クツワダ)
77年5月22日仁川市体育館
大木(2−1)高千穂明久
78年4月12日ソウル文化体育館
大木(1−0)ドン・レオ・ジョナサン
78年8月2日ソウル文化体育館
大木(1−0)稲妻二郎
78年?月?日韓国⁇
大木(2−0)キラー・トーア・カマタ
79年12月17日韓国⁇
大木(⁇)フランク・ヒル
80年5月15日大宮スポーツセンター(国際)
大木(2−1)ジョー・ルダック
80年5月?日韓国⁇
大木(⁇)ジョー・ルダック
80年7月1日大阪府立体育会館(国際)
大木(1−0)ジプシー・ジョー
80年9月20日焼津スケートセンター(国際)
大木(1−0)ビル・ドロモ
80年10月4日近江八幡市立運動公園体育館(国際)
大木(0−0)上田馬之助
81年3月4日ソウル奨忠体育館
大木(1−0)ボブ・ブラウン
*記録では29度の防衛となってる。(不明の防衛戦9試合) ザ・デストロイヤーは、力道山、G・馬場、大木と3人の
インター王者に挑戦しているんだな!
他にはいないだろ?(ブロディ、ドリー、鶴田王者でも)
ドン・レオ・ジョナサンも、馬場に挑戦する予定(1967年)が
怪我のため流れて、力道山、大木の二人止まり。 テリーが馬場、ドリー、ブロディの3人に挑戦してるな ブラジルも力道山・馬場・大木とインター戦やってるが、
大木戦は挑戦試合じゃなく、決定戦と防衛戦だったね。 57年に来日したブラジルが力道山とインター戦やるのは無理だろ アジアヘビーの王者ではあったんだよな
ただし当時はアジア人限定という考え方だったのか >>208
テリーは気づかなかった。
ドリーの防衛戦、インターの決定戦だと勘違いしていた。
それより、インター3王者に挑戦した選手が他にいた。
フリッツ・フォン・エリック!!
対ルーテーズ、1958年4月25日、テキサス州フォートワース。
対G・馬場、1966年〜71年に掛けて数度
対大木金太郎、1973年4月13日大阪府立体育会館 >>210
57年東体のシングルマッチはインター選手権ばかりだと思っていたw
翌58年にインター王者を名乗ってるんだね。 ボボはでも、力道山、馬場、猪木と
東京の大会場でメインエベントでシングル戦を
やった、数少ない選手だな。
猪木ともワールドリーグで蔵前のメインがある。
ルーテーズ、ブラジルだけじゃないの。 鉄の爪のアイアンクロー、黒い魔人のココバット、鉄人の岩石落し、魔王の足4の字…
今のレスラーは何でもやるけど、このレスラーのこの技が出ると試合終了
それが魅力的でハラハラした。
60年代末のドリーファンクとロビンソンの出現で流れが変わったかな…
70年代以降も一撃必殺のラリアットやキングコング・ニーを見ると
やっぱり強烈にインプットされている。
単純な技ほどいいのかな〜 黒い魔神ボボブラジルって(辻)タイガーマスクのミスターノーのモデルじゃない?
黒が白に反転してるけど、強烈きわまりない頭突きが必殺技。
と考えたらゴールデンマスクってブラッシーがモデルか。 ほぼ実名で描かれた『タイガーマスク』の中で、ボボ・ブラジルは
なぜかポポ・アフリカだったw(九州地区を配慮したのかね?)
始まったのが1969年だから、馬場の全盛期だ! フレッド・ブラッシーは
力道山、馬場、猪木のシングルタイトルに挑戦しているね。
これまた、唯一の選手では?
それも、WWA,インター、UNと違うタイトルと言うのが面白い。 挑戦はブラッシーだけかもね。
シングルタイトルマッチをやった、という意味ではルーテーズも当てはまるが、力道山とは自分のベルトの防衛戦だったし 後、デストロイヤーは力道山、馬場とインター戦、
力道山、豊登とWWA世界戦、
猪木とワールドリーグ決勝をやっているね。 日米含めたメジャータイトル挑戦試合だと、
馬場はNWAロジャース・テーズ・ドリー・ブリスコ・レイス
WWAデストロイヤー・ブラッシー 、WWWFサンマルチノ
AWAガニア・ニックに挑戦している。
猪木はNWAドリー、NWFパワーズ、WWFバックランド(メキシコUWAは含めず)
NWAを封じられなかったらブリスコやテリー、ニック戦を見たかったなぁ
坂口はNWAドリー、WWWFグラハム
鶴田はNWAドリー・ブリスコ・テリー・レイス・フレアー・ケリー、AWAニック 鶴田はAWA転落後、マーテルとハンセン(Wタイトル)にも挑戦しているな。 天龍はNWAフレアー、AWAハンセン、WWFフレアー
日本国内の興行でWタイトル戦でなく純粋に3大王座に挑戦したのは天龍だけか
(AWAは黒に近いグレーだが) 猪木からNWF、馬場からPWFを奪取したハンセンって、やっぱり凄いな
鶴田からインターナショナル、三冠まで獲っている。 ファンクス道場の鶴田、ハンセンそしてバックランドは3人とも成功したな。 統一前の三冠に全て挑戦した最初はシークなんだな
最後のPWFは新設後の初防衛戦でいきなりだし 馬場のインターとPWF,猪木のUNに挑戦したのは
フリッツ・フォン・エリックくらいだな。 >>227
本来シークのPWF挑戦はなかったんだよな。
PWF初防衛戦の相手はNWA王者ドリーとのWタイトルマッチのはずが
トラクター事故?で負傷し、来日をキャンセル(程なくレイスに王座を奪われる)
急遽シークが呼ばれたんだよな
その前のシリーズでも直前にベアキャット・ライトの初来日がキャンセルされた。 >>217
ポポとだけ変えればいいものを何でブラジルをアフリカとまで変えたんだろうねw ポポ・アフリカは、“黄色い悪魔”から改心したタイガーマスクの
ドリルアホール式パイルドライバーで敗れた😀 >>229
結局ライトは新日本に参加なんだな
そういえばPWFの二代目ベルトの初披露は長崎でのブリスコのNWAとのダブル戦の時だったか ライトはブロディのような小難しい性格だったらしいね。
ブラッシーを破って黒人初の世界王者になり、その後失踪したのは
黒人差別による迫害にあったとされているが
WWAのシナリオが嫌でブック拒否した事が真相らしい。
新日に初来日した時はヒールターンしたばかりで、猪木との試合も無効試合
決着も見たかったけど、ロビンソン戦が控えていたからな〜
予定通り73年に全日本に来日していたら、馬場との巨人対決(198センチ)が見れたね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています