しかし実際のところ、噂されているのは

・鶴見が当初の契約切れに合わせて海外遠征を予定してしまっていたために
 日本を離れ、上田のパートナー役をいったん解消せざるを得なくなっていた

・馬場が全休した「83エキサイト シリーズ」は、「グレートカブキ凱旋シリーズ」で、
 当然不人気と思っていたこの馬場抜きシリーズが、しかし大人気で旗揚げ以来
 初の黒字シリーズとなってしまい、社長の座を追われていた馬場は日テレに
 「馬場がいなくても問題ナシ!」とされる事に慌てて、存在感を示せる大一番を
 見せなければいけない、と突貫工事で上田戦を設定した

・上田は当時さまざまな媒体で発言していたが、新日の新間氏や元子夫人に対して
 「プロレスラーじゃないくせに出しゃばり過ぎな奴らがいる」
 「全日は女にサイフの紐を握られている情けない団体」
 といった発言を繰り返していて、元子夫人が上田の「公開処刑」を命令し、馬場が従った

といったもので、実際81年に社長の座を追われた馬場はこの7月にインタータッグを陥落、
8月に奪還するものの9月にはハンセンにフォール負けしてPWFから陥落、年末の最強
タッグでも勝てず、翌年4月には欠場に追い込まれて連続試合出場記録もストップ、と
窓際に追いやられるムード濃厚で、この間に日テレにプッシュされた鶴田は8月に蔵前で
インター王座を獲得、翌年2月にはAWAを獲得、最強タッグは馬場とのコンビを解消して
天龍と組むなど、着々と進む世代交代路線にガッツリ乗っていました

この流れの中で、同世代の上田に一肌脱いでもらってなんとか日テレ路線と別の隙間で
存在感を見せようと馬場が奮闘していたというのはあり得る話のような気がします

なお、上田は猪木との釘板デスマッチでも腕を痛めつけられて敗退という結末を演じて
いましたが、もともと道場でのスパーリングに定評があり、得意の決め技は「腕がらみ」
だった上田からすれば、「自分が負けるなら腕をやられる負けがいい」と望んでいた
結果だったのかもしれないとすら思います