昭和時代のゲーム生活ってどんなのだった?
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パーティジョイのマリオゲーム4人でよくやったけど面白かったなぁ
大事にとっておいたのに価値を理解できない親父に捨てられたんだった
きっと今なら万近くで売れたのに 親の世代だとガキ大将みたいな存在がいて、近所の年のはなれた子供達がまとまって遊んでいたらしいが、さすがにそんな経験はないな
知らない奴と遊んだ経験はあるが、友達の友達か友達の兄弟だった ガキ大将って面倒見が良くて仲間がいじめられたら放っておけないような人間でないとなれなかったらしい
なぜかゲーム好きにはそういう性格の人が少ないな ある日住宅地を歩いていたら、大正生まれくらいの知らない婆様が「そこに友達がいっぱいいるよ!遊びな!」と言ってきて
何でこの人が俺の友達のことを知ってるんだろう?と思いながら行ってみたら単に学年も違う顔も知らない奴らがたむろしてるだけだった
婆様には「知らない奴といきなり遊ぶどころか話しかけるのすらキツい」というのがわからなかったんだろう たまに近所の子供で集まって遊んでたのう
3つ4つ上のあんちゃんにラジコン触らせてもらったりした
スパルタンXや北斗の拳のボスの倒し方教わったり
あと夏休みの子供会で海やディズニーランドに行ったりするのが楽しみだった スーパーに置いてあった魔界村をクリア出来た
(実は1周だけだけど英語読めないから意味わからない)
とクラスで自慢したら誰も信じてくれなくて喧嘩になった覚えが 団塊ジュニア世代でマンションなんかに住んでいると、
年齢層の違う近所の子どもたちで遊ぶシチュエーションはよくあったよ。
大抵は野球だけど、ファミコンが出てきてから、みなだファミコンをやって遊ぶのが一つの定番になった。 子供会っていう組織が未だによくわからない
同級生でも参加する人としない人がいて、俺はよくわからずに参加しない方を選んでしまった
子供会が廃れていった理由って色々あるんだろうけど、テレビゲームの普及って大きく関係している気がする
当時はリクリエーションより日々進化するゲームの方が新鮮に映った 子供の数が少なくなったのと共同体の帰属意識が薄れたのだろうネェ。
俺らが子供の頃は町の金持ちや企業家って町内のためなら
当然のように私財を提供したもんだケドもうそういうのも無いんデショ。 そういえば子供会ってあったな。参加するかしないか微妙な気分だったな
親しい友達と一緒と言うものでもなかったし
ただ子供会で参加した芋掘りは妙に楽しかった記憶がある
テレビゲームとは全く異なる楽しさだな 町内会に子供会があって、どっかにキャンプに行った記憶がある。
キャンプ場の公衆トイレが・・・だったのは覚えている。 >>559
昭和じゃなく平成初期だけど当時の子供たちは子供会行事をゲムボ対戦の機会として活用してた気がする
確かそんな行事を何度か見たことがあるけど子供たちが対戦ケーブルでゲムボやってる光景ばかり見た 海なし県なので夏休みは海が定番で、たまに遊園地
気前良くディズニーランドだった年は、出来たてのスペースマウンテンやビッグサンダーマウンテン
帰りのバスでドラえもんやキン肉マンの映画を流してた
あと公民館に集まった時にみんなで星矢視聴した
アスガルド編の最初のほうだったかなあ…何か百裂技を浴びせて勝つとこ 子供会って元々健全な青少年の育成のために発足されたらしいが、遊園地やアニメも含まれるのか
地域によって随分内容が違うんだな >>561
ゲムボって略し方は初めて見たが、ググってみたら結構ポピュラーなのね
自分の周りでは基本略さずに、受け狙いでゲボと言うことがあったぐらいでした もう高校生のお兄ちゃんだったからジービー(キリッダッタノヨw ゲムボは1988(昭和63)年時点で発売できる状態だったにもかかわらず創業100周年に合わせて発売するため翌年になった
結果的に昭和史にその名を刻めなかった クラスの医者の息子がファミコンを買ってもらえない代わりにボードゲームやテーブルゲームを沢山持っていて、
その中にテトリスのボードゲームもあったなあ、どういうルールだったかなあ、と思い出して調べていたら見つけた
このページにある「対戦型テトリス」だった
https://broad.tokyo/news/3534 小学生の時、誕生日プレゼントかなんかでボードゲーム『関ヶ原』を買ってもらったが、
難しすぎて訳が分からなかった。
子供はシンプルなゲームが一番。 ゼットガンダモのゲームブック買ったら
戦闘判定がボードゲーム持ってないと出来なかったおw そういやあ子供会の行事はそれそのものよりもGB持ち寄って対戦するのばっかり楽しみにしてたっけ
めっちゃ懐かしい平成2.3年頃だった 足漕ぎ車を持ち寄って10人ぐらいでF1レースごっこをしたことがあるのう
当時は公園が無く道路を使った
傍から見たら見たらちびっ子暴走族やな
点在する民家と田んぼしか無いような場所で車など殆ど通らない道だったが
思い返すと少々デンジャラスだったかも知れぬ ゲーセンとか半年違ったら進化が凄かったしな
とにかくゲームに限らず年単価でいろいろ進化してたよな
日本もつくば万博やったり敗戦はしたけど追いつけ追い越せと小坊の俺も感じた
親父は今からはコンピュータの時代が来るから補導とかしないでそう言う仕事に就けるように教育すればいいのにって言ってたな
まぁゲーセンはヤンばっかだったけど顔なじみになればいい人多かったけどなぁ RPGで主人公キャラに自分の名前を入れてた
これは今もかな? ゲーセンのゲーム≫家庭用のゲーム
だった頃
遠くのゲーセンに友達と自転車で行って
ファミコンの移植元のオリジナルのゲームをプレイしたら表現力に感動した 家族で行ったボーリング場で初めてアーケードのRタイプをやった
PCエンジンのIは余裕でノーミスクリア(コンバイラーまでね)できるのに
レバーに慣れなくてドブケラすら見れず終わった記憶 アーケードは人違いならぬコントローラー違いがあった
ディグダグなのにコントローラーがでっかいトラックボールのついた「五目ならべ」とか
「もし動かなかったら100円玉がパーだからやめようかな・・・」なんて思った子供が本当にいた
実際はちゃんとできる インベーダーのボタン移動は有名だね
俺には遊びにくかった あらし、ロッキー、風雲児、リュウ、ゼミナールといったゲームプレイヤー側のマンガが充実していた >>578
ファミコン少年団、ファミコンCAP、ファミコンジョーここらも見逃せない
「ファミコン」とつかないけど高橋名人物語もあった
あとファミコン探偵団ってのもあったけど、これはちょっとゲームプレイヤーの漫画とは言えないかも
ファミコンゼミナールは昭和63年初期には普通にゲームの中に入り込んだ漫画(主人公たちがゲームキャラになりきる形)になったのが残念だった >>581
ゼミナール後期と風雲児のドッドチェンジはちょっと違う
ドッドチェンジはあくまでプレイヤーとしてのスタンスには変わりない(つまりコントローラーを持っていたりスコアの概念がある)
ゼミナール後期はハナっからゲームの中にいて終始ゲーム内のキャラになりきってしまっていた 昭和のゲームライフといえばとにかくファミコンとつくものには飛びついた>>578>>580のマンガも愛読書だったし攻略本、ファミマガとかも
あとボードゲームなんかも買ったし文房具もゲームモノにこだわった
大事にしてたのに20年ぐらい前にクソオヤジに捨てられた
オヤジはそれ以前から「そんなもんゴミだ!捨てろ捨てろ」としつこかったけど新入社員研修の合宿の間に捨てやがった
おそらく今全部売れば何十万〜百万級の価値になるはずだっただけに恨んでも恨み切れない
そのオヤジももう死んだけどオヤジが大切にしてた歴史小説とかなんて1円にもならなかった(何百冊もあったけど)
どっちがゴミだよとつくづく思う ファミコン世代の俺らの中でお父さんが既に他界された人って多いのかな?
うちの親父、70過ぎてるけど、まだ全然元気だが。
iPhoneを使いこなしPayPayによる決済も俺より先に使い始めた。 >>584
うちもピンピンしてるよ80過ぎたけど
親父の機嫌が悪いとファミコンやってるだけでぶん殴られた
ついには目の前でフロにブン投げて沈めてぶっ壊す暴挙に出た
その後バイトして買いなおしたけど(高校生だったから)それすら容赦なく壊しやがった 父親に限らず母親も悪いことはなんでもファミコンのせいにするのがお決まり相場 うちの場合母親の方が
ピコピコうるさいとか言ってたな 無理解な親父のせいでゲーム開発したいという夢をブッ潰された少年たちが多かったんじゃないか?
俺の親父も「そんなもんは仕事じゃない!お遊びだ!」とかいって結局その手の学校に入れてくれなかった
結局一応コンピュータを教えてくれる学校には入ったけど単に「一応コンピュータを使う」だけのクソな仕事に就くことしかできなかった
にもかからわず親父は「お前の夢が叶って良かったな!頑張って働くんだぞ」と白々しいことを言いやがった
ちなみにその会社は1年で辞めた 思春期の子供が「家にいてもツマンネ」とか言って夜中の繁華街をほっつき歩いたり
不良グループや暴走族に入ったりするよりは、まだ家で徹夜でゲームしてるほうが
マシだと思うのだが。
あの当時の親たちは子供からゲームを取り上げて何をさせたかったんだろう。 ワイの爺は海軍の通信将校やってて、田舎にも怪しげな無線機が大量に転がってたな
そのせいか親父もゲームも目の敵にするようなことはなかったのう。時間には煩かったが 昔はドリフとかひょうきん族が目の敵にされて、次はファミコンが目の敵にされて、
アニメを見るやつはオタクだと言われ…
といろいろあったが、志村けんさんが亡くなった時は偉人扱いだし、
アニメも宮崎駿などで見る目が変わったし、
今は大人も子供もゲームしているからね。
あのときの非難は何だったの?って感じ。 >>589
当然勉強
小学生とかが遊ぶにしてもボール遊びとかいうちょっとも面白くないクソな遊びをさせたかったんでしょうよ
上の方で誰かさんが言ってたけどボールなんぞで遊ぶなら学校で充分
そっちの方が人数もいるし ジブリ映画も一般的な評価が上がってきたのもこの頃だよな。
普段、アニメ等に興味のない親父から「すごく評判の良い映画があるから観に行こう」
と強く言われて観たのが『となりのトトロ』だった。
確かに面白かった。親の言うこともたまには聞いてみるもんだと思った。
・・だがしかし!その後の同時上映の『火垂るの墓』で完全に心をへし折られた。
包帯ぐるぐる血まみれのお母さん、叔母からの冷遇。妹が空腹の末、正常な思考が失いドロ団子を食べたり
平和な時代にぬくぬくファミコンや漫画、アニメ、お菓子で育った少年にトラウマを植え付けるには十分過ぎる内容だった。
今思えば両方とも日本を代表するアニメ映画だし、リアルタイムで観れてよかったけど、
いくらなんでもトトロと落差ありすぎだろ、と。 >>591
>あのときの非難は何だったの?って感じ。
勉強の邪魔になると危惧したものの子供たちはそれに逆らってドリフも見たしファミコンもやりまくった
でも大人なってみればちゃんと就職して結婚して孫の顔も見せてくれた
つまり杞憂に終わったのでもう叩く理由はない
ジブリはどうかわからんけどドリフ(志村)には自分たちも楽しませてもらったからそりゃ偉人になる
>今は大人も子供もゲームしているからね。
そりゃ当然
あの頃のゲーム少年少女が今は父や母と呼ばれるようになった
自分たちがゲームで育った世代でありゲームは決して毒ではないことも知っている
あと任天堂が家族でゲームというコンセプトで開発してるから高年齢層でも親しみやすくなった
ファミコン時代は当時の大人(昭和30年以前の生まれ)向けはせいぜい将棋・囲碁・麻雀ぐらいしかなかった
特に囲碁や将棋なんて大人からすればCPUがヘッポコすぎて相手にならなかったからつまらなく感じただろう
あと野球やゴルフもあったけど操作すらままならないなんてこともあった >>591
全員集合はPTAで問題視された話は有名だけど、ひょうきん族にそんな話はあんまり聞いたことないな
実際ひょうきん族って視聴率しても30%を超えたことすらなかったぐらいで記録的に高かったわけじゃないし
テレビ史で見ればせいぜい中の上クラスにすぎないけど
「全員集合を土曜8時の王者から引きずり下ろした大金星」
で歴史に残る番組になったみたいなもんだし
しかもそれにしたって「ひょうきん族の大成」よりも
「ドリフターズの全員集合へのモチベーション低下による自滅」の方が大きいぐらいだから その後はカトケンが爆発的に面白かったのう
ひょうきんは懺悔とタケチャンマンとパーデンネンとアミダババアぐらいしか知らない
カトケンの頃になると自分の周りで見てたやつ皆無だったかもなあ
>>587
スーファミ以降になるとクロノトリガーやスパIIのサントラのガイルステージの曲は褒めてた >>594
宮崎事件のときはアニメ漫画ひどい叩かれてたよな
今じゃ政治家がアニメ漫画利用してるくらいだし
時代が変わりすぎてるわ コミケを特集していた番組で女性リポーターが
「皆さん!ここに10万人の宮崎勉がいます!」と発言をして
物議を醸した、なんて話聞いたことあるけど、ただの都市伝説だよね?
ネットはないけどビデオデッキはだいぶ普及していた頃だし。
誰かしら動画は保存しているはずだが、未だにその動画がネットにアップロードされているのを
観たことがない。 まぁ、ドラクエが流行る前から、PCでWIZとかやってたからなぁ。日本のお得意のモノマネで
凄いの作ったなぁー。って。ファミコンはチャンネル選択権の少ない学生には厳しい製品で。。。
ずっとPCばかりで、ドラクエVの流行も「ふーん、そんなんが流行ってるんか?」って感じ。
地デジになって漸くゲーム専用テレビが出来た感じ(遅ればせながらPS・SS自己流行の波) >>599
ブラックオニキス、Wizardry、ドラスレ、ハイドライドあたりか 加トちゃんケンちゃんのファミコン版出してほしかった 中学生にもなると、アニメなんて小学生が見るもんだ。ケッ!とか思っていた時代だった。
宮崎勤の事件もあって余計にアニメなんか見ないと思っていた。
その意識を変えてくれたのが、友達が無理やり貸しててくれた『天空の城ラピュタ』と『風の谷のナウシカ』だった。 近所でなんとなく集まった子供たち同士で一緒にファミコンやったり、
夏休みの夜、花火をやったり、皆で自転車で隣町の市民プールに行き
帰りに駄菓子屋に寄ってお菓子食べながらゲームやったり、など。
ファミコンをきっかけに色々楽しい思い出はあったな。
もうすぐ夏だから、そんなことをふと思い出す。 >>580
正式名は「ファミコンランナー 高橋名人物語」だから、ファミコン付いてるぞ >>601
カトケンやりたくてPCエンジン借りたわ
難しかった
当時から今もだけどドリフ好きでひょうきん族は一度も見なかった >>605
同じく
全員集合を最後まで見届けて、そのまま加トケンに乗り換えた
ファミコンはやりたくても土曜8時はドリフの時間にしてた 初めて家に来たファミコンソフトは親父のチョイスしたタイトルだったってケースあったよな?
うちは親父が子供達に内緒でファミコンを買ってきたので、当然ソフトも親父が選んだものだった
所さんのまもるもせめるもだった
コンボイとかじゃなくてよかった 所さんは自力クリアまでやったよw
何せそれしかなかったのでクソゲーと感じる概念がなかった(これも昭和あるあるだな)
もしコンボイを買ってきていたらコンボイを自力クリアするまでやったろう 最初の一本がハドソンのドラえもんで良かった…
あと本体のオマケでテニスが付いてた >>609
あの頃は今ほど巷にゲームが溢れてないし子供にとってはカセット1本4500〜6000円ですら高根の花
だからとりあえずやるしかないし、やっぱり新しいゲームはやってて楽しかったのは間違いないだろうね
クソゲーって解釈は後々になってできたものであって
逆に言えばあの頃リアルタイム期に小学生あたりにクソゲーなんて言われてたら、それこそどうしようもない真のクソゲーと言える
ある意味勲章か 忍者ハットリくん、スペランカー、バンゲリングベイ、チャレンジャー、たけしの挑戦状、
燃えろプロ野球
…などなど後に駄作扱いされるゲームも当時はワイワイ楽しんでいたよ。 たけしが駄作なのは認めるが他はそれなりに遊べるソフトじゃん 幼稚園の頃ひょうきん族を見てたが、裏で全員集合をやってるなんて事情もわかってなかった
チャンネルの決定権もないし親の選んだ番組を素直に見ていた
当時ってテレビが一家に1,2台の時代だから、好きな番組を見るのも難しくなかったか? 7時〜8時は各社アニメ放送で子供のゴールデンタイムだったからな。8時台は親の時間、9時からは映画番組でそれが終わると「子供は寝る時間だ!」的な。
夜なんて満足にゲームなんか出来なかったなあ。 >>612
たけしの挑戦状はやりごたえがあるとはいえ低年齢層にとっては難しすぎたかも
ハングライダーで飛ばなきゃならず鳥にドンで一撃死したり、何も知らずセスナで飛んで最後まで着いても山にドン
あとサル島ハマリなんてのもあった
ヘタすれば南太平洋チケットと宝の地図が必要ということすらわからず空港を飛び立って空中で勝手にドン!
あの頃はまだ日航123便から1年ちょっとだったし、今だったら不謹慎だとか言われそう
>>614
もしかして加トケンに乗り換えず最後までひょうきん族を見届けた?
ワシの周囲では昭和61年内でひょうきん族見てたほぼ全員が加トケンに乗り換えてた
因みにワシ本人は全員集合を最後まで見届けてそのまま加トケン >>612
忍者ハットリくんは名作だよ。一般的にも俺の中でも。
攻略のカギを握るのは超便利なムササビの術で
谷や池が多い面(10、12、14面)に使い、さほど地形が
難しくないステージでは温存してクリアし、次のステージで使う。
この駆け引きが好きだった。
あと、得点ボーナス高橋名人が2箇所あるけど、直前に黄金ハットリくん(得点2倍)
になるべく、計画的にちくわを集め、名人が出る直前に
19個にしておく。で、16面クリア時400万点を超えていると
達成感もひとしおだった。 燃えプロの対戦はマジで盛り上がったもんだぜ
バントホームランは有名でも他のバグ技はそんなに浸透してなかった頃 ハットリくんはジャンプがシビアすぎて無理だった
友達も含めて忍術が切れたらみんな池ポチャでクリアしてる人がいなかったわ 切り株でジャンプしたら
急に白黒になってびっくりした たけ挑は会社の帰りに飲みに行ったりとかして、子供ながらにおっさん気分を味わえたのだけはよかった
社長とか殴り殺せるところも 昭和ゲームあるある
バグがあってもそれはバグではなく裏技として許容された >>622
「殴り」はできるけど「殴り殺し」はできない
直接殴っても机の中に上半身はめりこむだけ(反対から殴れない)だから「殺す」には銃が必要。
コマンドの「しゃちょうをなぐる」は「なにをする わしゃゆるさんぞ」と怒って大量のガードマンを呼ばれるだけ >170
>「ゲームは遊ぶのは構わんが攻略本買い過ぎるな」
自力で試行錯誤しろって意味だったんだとしたら、良い教頭なのかも知れないね。 たけしの挑戦状と言えば、社長と話すコマンドに「きゅうしょくをする」があって近所の小学生の子が「きゅうしょく(休瑞E)」を「給食」と勘違いしてた
容量が小さすぎて使える文字の種類が非情に限られてた昭和のファミコンらしい勘違い
有名どころではDQの「つうこんのいちげき」の「つうこん(痛恨)」を「ツーコン(Uコン)」と勘違い >>624
16発殴れば倒せるぞ、社長。
で、反対側から殴る方法だが、右から机の角にちょうど落ちるようにジャンプすると、時々主人公が
少しめりこんで、机の中の社長に1発かまして、左からまた殴って、というのを繰り返せばいい。 燃えろプロ野球はTV中継視点と音声合成で話題になったけど、
流し打ち、引っ張りの概念すらないんだよな。
で、盗塁もベースに足をついて立ち上がらないとセーフの判定にならず(笑)、
そもそも盗塁が成功できるキャラも限られていた。
試合時間も40分くらいかかるしテンポの悪さも致命的。 ウチの姉が優等生で親父が補導員に選ばれセンコとゲーセンを回ってたな
俺も発見されて保護者は?って聞かれて保護者の親父を指差したよ
気まずそうにしてたな
でも親父は今からはコンピュータの時代がくるし将来これを仕事にする奴もいるだろうにって言ってたな
まさにその通り
40代で死んじまったけど 昔はゲーセン言っただけで不良扱いだった。
小学校の朝礼で怒らないからゲーセンに行った人は起立しなさいと言われたので、
正直に起立したら皆に白い目で見られたよ。
でも、ほとんどの男子はゲーセンに行ったことあるのに、立たなかったんだぜ?
卑怯だぜ!正直者が馬鹿を見るってこのことだぜ! 燃えプロの声が森田公一そっくりだった
昭和51年の「青春時代」で有名なトップギャプランの >>631
似たような経験ある。
白い目で見られなかったが多分バカにはされたと思う。
1988年2月に小学校の朝礼で担任が「今、ドラクエVってのが
巷で大ブームなんですってね!それ買った人、ちょっと起立してもらえるかな」
といわれたので俺は席を立ったのだが、起立したのが、(俺も含めて)全員勉強できないバカばっかりだったw
起立させた後、担任は一人ずつどういう方法で入手したのか聞いてきた。俺は予約。
当時の常識だと人気ファミコンソフトは後発のCD-ROMなどと違い
供給スピードが遅く、金があってもソフトが入手できない状態が1ヵ月以上続くこともザラだった。 >>634
手に入りにくいから強盗事件起こしたりとかしたのがいたから確認したんじゃないかと思うぞ 山下章だったか?がコンプティークで
「ファミコン版のグラディウスが売れていない、こんなに面白いゲームが売れなくてハットリ君やオバQのようなゲームが100万本売れるのはおかしい」
と書いていて
俺はそれを後に古本屋で買って読んだので、当時の大人はわかっていたんだなあ、と感じられた
ゲーム雑誌で提灯記事を書いてたライターも、「これはダメだ」とわかって書いていたんじゃないの? それは仕方なくね?
アニメで子供に浸透してるタイトルと
ゲーセンで有名だったタイトル並べたら
そりゃ子供はアニメの方のタイトルを選択するっしょ
オバQィウスとかにしたら売れてたと思うよ グラディウスは買いたくても売り切れてて買えなかったぞ ゲームを並べて数ヶ月、半年、一年と片っ端から遊べたら
子供だってハットリくんやオバQを捨ててグラディウスを手元に残すよ ハットリ君は確かコロコロだかで大特集もやってたしな…凄いゲームだぞー的な。
当時それなりには楽しんでプレイしてた気がするけど、改めてよくよく見るとクソゲーの部類だったよな。 当時のハドソンのゲームはビッグボーナス1つ逃したらもう取り返せない
あのゲームキング高橋VS毛利2大名人決戦の映画では8万ボーナスを取りこぼした毛利が
やたら小キャラを追いかけてチマチマ差を詰めてたけど焼け石に水
相手のミス待ちしかない
まあ本人もよくわかってるだけにガチンコなら絶対ああはしないでしょう >>642
100万点ボーナスとか流行ったよね
今は得点に意味なんて無くなってるけど 高橋毛利スターソルジャー対決の映画だけど
ラストでビッグスターブレイン直前のデライラを高橋名人がミスしたけどあれどう見ても故意だろ? 小学生のシューティングあるある
敵の攻撃にビビッって後ろに後ろに下がっていく
グラディウスはまさに最後にそんな心理を逆手に取って、まさかの閉まって二度と開かないシャッターがある
なすすべなくドッギャンギャンギャン!
1機失ってそれに気づけば御の字で大抵は2.3機パーにしがち 『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦 』の話だけど、
書籍を読んでも無敵ロムは間違いなく使われていたらしいが(映像でも確認できる)、
肝心の勝敗については毛利名人が完全勝利したという情報もあるんだが実際どうなの?
毛利名人が全く手加減をしなかったらしく会場にいた子供たち(ほぼ全員が高橋名人を応援)が
唖然としたとか。
映画にする際、流石にそれではあんまりだというので勝ち数では毛利、総合得点では高橋、
と両者に華を持たせる感じで編集した、とかいう話。
当時、会場でリアルで観戦した人の話を聞きたいと思うけど、
どなたかいらっしゃいませんか? あの映画は確か「ゼグ以外の隠れキャラを出したら反則負け」のはずなのに
毛利名人1UP取ってる(出すだけで反則なのにちゃっかり取ってる)から反則負けだろってよくツッコマれる
まあ1UPは得点の上では0点だし何機増やそうが1機ミスった時点で負け(そもそもミスしない)ってルールがあるから
実質無意味ってことでセーフという解釈なんだろうけど
専用のロム(無敵ロム)使ってるならそういった隠れキャラも出ないようにすりゃ良かったのに
ワザとツッコミどころ用意したんだろうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています