>>837
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ
この絶学無為の閑道人も、閑古錐も、学んだ法も、修した道も少しもちらつかせません。悟りだの迷いだの、禅だの仏だの、その影だに窺うことができません。
それは馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのか、さっぱり見当がつかない消息です。
妄想を除かず真を求めず、無明の実性即仏性……。
そこまでくれば、事更ことさらに妄想を嫌うことなく、また、真だからといって求める必要はありません。
迷いも当体がそのまま仏になる可能性をもっており、この生身の身体がそのまま、悟りの本体であるというわけです。
禅宗の第四祖、道信どうしん禅師の法を嗣いだ牛頭ごず法融ほうゆう禅師に、こんな話があります。
禅師が山中で独り、黙々と修行に励んでおられると、村人はいうに及ばず、通りすがりの人々までがその徳の高いことを知り、帰依します。
山の小鳥や動物までが、花や果物をくわえて、禅師の前にお供えします。それほど徳があったのです。
しかし、四祖道信禅師について修行をし、法を嗣ぎ、いよいよ修行が進むと、今度は人も寄りつきません。
黙ってさっさと行ってしまいます。
鳥も動物たちも知らん顔して通り過ぎます。どうしてでしょうか?
 あの方は偉い人だ! 高徳の方だ! と、他人からも鳥からも見透かされるようでは、まだまだ十分ではないというわけです。
「釈迦も達磨も伺い知れず」と言われるような境界が、八ッつぁん、熊さんにわかるわけがないのです。
京都妙心寺を開いた関山慧玄禅師は、大灯国師の法を嗣いで後、美濃の山奥、伊深の里で村はずれの荒れ屋に住んで、
里人たちの農作業を手伝ったり、子どものお守りをして八年間、下男として過ごされます。
京より勅使が来るまで、誰も気づくものがいなかったといわれています。