昭和の暮らしを懐かしむスレ・25丁目©2ch.net
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久々にYoutubeで「ピカピカの一年生」のCM見た!
あれこそ昭和40年50年代で懐かしいよ〜
あんな子供最近見ないね >>734
冬のオリンピックは東ドイツやソ連が出てた頃が面白かった 歯磨き粉は名前のとおり粉だった
ひっくり返して蓋のほうのくぼみの溝にたまった粉を歯ブラシですくう
粉がつきやすいようbに歯ブラシを濡らしていた >>739
今のチューブも「歯磨き粉」以外に何と呼んだらいいか思いつかない >>741
正確には「研磨剤」なんだろうけどもうずっと歯磨き粉で定着してしまったからなあ
ドリフの「チャンネル回せば」とか、スマホの受話器を持ち上げるアイコンが通話の意味みたいなもんでしょ 歯磨き粉といえば、ラミネートチューブが登場した時は、子供心にも技術革新ってスゴイ!
(オーバーだが)と感動したっけ。 ダイヤル回して手を止めたとか、歌詞もね。
ダイヤルなんて回したことない人もこのスレいるんちゃうか >>743
昔の金属チューブだと最後の方は絞りきれなかったり、力入れすぎると尻から漏れたり(注:チューブのだからね)大変だったよね >>741
練り歯磨き
昔も練り歯磨きという人はいたんだけどね 絵の具のチューブを集めて台所のお玉で溶かし、鉛を集めた。貝殻に流し込んで貝の形に整形。
しかし悪臭は出るしお玉は使えなくなるし、怒られたなあ 絵の具で思い出したが今は「肌色」と呼称しないそうだ
うすだいだいとか言うんだと
こんなところにも言葉狩りの影響が >>742
「チャンネル回してハイ笑点!」は知ってるが、そっちは知らないかな たまに固定や公衆電話で市内通話すると、ボタンを押す回数の少なさと呼び出し音が鳴り出すまでの短さに感動する。 徳永の名曲レイニーブルーも意味がわからなくなってしまうのね ダイヤルしようかな
ポケットにラッキーコイン
ノートに書いたテレフォンナンバー♪
3行どれもこれも昭和 >>747
溶かした鉛をバイ貝の殻に流し込んでベーゴマに(略 昔のショートトラックは日本代表がメダルとっていた。 リアルで電話交換手を通して電話していた人はかなりの年齢だよね。
もうすぐ50だけど、さすがに親の話しでしか知らない。 電話の117時報はある人物の「ただいまから」「○時」「○じゅう」「○分」「○じゅう秒を」「お知らせします」を録音して組み合わせて流していた 117で思い出した
昭和の頃、大晦日の23:58ぐらいに117かけたら話し中のツーツーツーという音が流れて通話できなかったことがあった 番号忘れたけど3桁の数字をかけて電話切ってしばらくするとかかってきたね >>759
10年前に働いてたホテルの、その当時すでに物置になってる旧事務室に電話交換室あったわ。
昨日まで働いてたのに人だけがいなくなったような感じで机の上の備品や新聞紙もそのままで気味が悪かったな。 子供の頃いた町では電電公社とは別系統の町営の有線電話なるものがあった
なにぶん田舎で戦後になっても電話の普及率が上がらなかったので独自に設置したらしい
受話器をもちあげると交換手さんが「何番ですか?」と聞いてつなげてくれるという
昭和50年代なかばくらいに廃止された >>759
40代後半だが使ったことがある
でも手動電話が最後まで残ったのって
地方と言うか、ある程度の人口がいる田舎
人口が少なければ、さっさと切り替えるし
人口が多ければ、これもさっさと切り替える
中途半端な田舎ほど残った
でもって手動電話の時代に電話を引いた一般家庭の婆ちゃん家は
実は昔、金持ちだったのか? >>759
> リアルで電話交換手を通して電話していた人はかなりの年齢だよね。
自分の知る限りでは昭和50年頃までは交換台通す電話あったよ
勿論あまり使われてはいなかったが
ほとんど普通のダイヤル直通が普及してたが、わざと交換を通したい場合は、○○○番(交換台)にかけて繋いでもらう
確かこれだと通話終了時に料金を教えてくれたと思う、交換手が
うろ覚えだけどね 昭和50年ごろだと思うけど、電話帳と一緒に配られる「いろんな電話の使い方」みたいな小冊子に交換手を呼び出す通話のやり方も書いてあった。
項目があったということは、まだ使ってる地域もあったんだろうね。 田舎だが、
爺様の遺品の背広が仕立てで、
作った店のタグが付いてた。
タグには店の電話番号が入ってて、
市外局番が無くて、2桁か3桁の数字だった。 >>770
うちのすぐ近所にも、恐らく大正か昭和の時代に建てられた街路灯用のコンクリート柱が三本現存してる。
(区画整理や空襲があっても、この道幅は戦前のままらしい)
ちなみに、東京新宿の富士コンクリート社製となってるけど、(○○)××という電話番号表記。
東京の新宿でさえ、電話があるところが少なかったんだねえ。 >>772
既婚女性板の荒らしさん、ここまで遠征お疲れ様です >>773
そりゃ昭和30年代までは一般家庭(一般庶民)には電話は普及してないよ
勿論会社や商店、一部の裕福な家庭にはあったけれども >>774
その人既女だけじゃない
皆んな自分がいる板にいると思い込んでるけどいろんな板に来る 昭和16年生まれの母が10歳頃の家族写真に、居間の柱にベルが2つついた電話みたいなの映ってた。
戦前生まれだけど食べ物に困ったことないって聞いたから裕福だったみたい。
去年亡くなってしまった。 うちのオヤジは仁丹を愛用していた
オヤジ丸刈りだったから家でバリカンで散髪していた 小さい頃父の龍角散が遊び道具だったわ
缶に入った白い粉を付属の小さいスプーンでアイスみたいに丸く盛るの >>779
すごいね、うちの両親は戦中に父親が病死して生活一変したから
色々とあった。
でも昔の人だし、そんなんでも助けがあって生きて逝けたから
その時の思い出話をしてもグチったり苦労したなんて全く言わないね。
なんつーか父なんかは兵隊に行く年齢前に終戦しただけありがたいみたいな。 自分がガキの頃、扇風機にあたってるだけで、戦中育ちの親に、贅沢だ!とおこられた。 一口に昭和の暮らしと言っても、30年代の生まれと50年代の生まれじゃ全然違うよね 本当に「昭和らしい」のは30年40年頃までかな?
と思うけど、それは人それぞれなんだろうな、年齢によって。
昭和39年の東京オリンピック
、ケネディ大統領暗殺… まだテレビは白黒
電話はある家もあれば、呼び出し電話の家庭もあった。
会社や学校や病院や列車でおとなの男の人が煙草を吸ってた…
いかにも昭和らしいと自分は思うけどね 白黒テレビをリアルタイムで知っているか、などが分岐点かも。ビデオがあるのが当然みたいな書き込みは自分には違和感ありまくり。それ平成やろ?と思うわ、 >>787
父が昭和24年生まれで、子どもの頃に桟敷席がある映画館が田舎街にもたくさんあった話や、
大阪万博に友達と車で行った話を懐かしく話てくれる。写真はカラーで今の若者みたい。
青年期は高度成長期、壮年期にはバブルと楽しそう…バブルのあとは大変だったみたいだけど。 >>788
小学生時代が1980年代後半だった人でしょうね>ビデオがあって当たり前
モノクロテレビを知ってるのは50歳以上の人だと思う。
昭和47年くらいまでモノクロの番組の再放送があったそうで、「おそ松くん」「コメットさん」「おらあグズラだど」
曽我町子版オバQ、パーマン、月光仮面の記憶が断片的にある。 昭和50年代半ばくらいまでゲゲゲの鬼太郎のモノクロ版が再放送されてた気がするけど記憶違いかな
うちに白黒テレビがあったのは昭和40年代末くらいだった 俺の記憶では、昭和48年ごろに、関東の民法は100%カラー化を歌いたかったんだろう。
さんざん再放送されていた第一作のパーマンやウメ星デンカ、オオカミ少年ケンのような全話白黒のアニメ、魔法使いサリーやモーれつア太郎の白黒で製作された初期の回などが、なかったことのように放送されなくなった気がする。
また、みられるさ、と少し楽しみにしていたが、それっきりみられなくなった。 うちは父親が機械道楽だったので、昭和46年にカラーテレビ導入。
モノクロのをサブとして置いとけば喧嘩にならなかったのに、さくっとモノクロを処分した。
ちなみに、当時の大人…特に老人には、「カラーテレビはなんか疲れるから白黒は捨てるな」と言って
カラー導入後も自室でモノクロを見る人がいたそうな。
カラーの色使いでアニメの制作年は大体判る。
昭和40年代初頭の作品はぎらぎらと目に刺さるので、「あ、こりゃ年寄りは見たがらないわ」と思うし、
昭和40年代後半になると、だいぶ色合いが柔らかくなってる。 >>792
一部地域では、80年代くらいでも早朝のような隙間時間にモノクロアニメの再放送を行ってた様ですね。うらやましい。 ゲゲゲの鬼太郎はモノクロ版とカラー版でどちらが先か忘れたけど続けて再放送されてた気がする
昭和50年代の夕方4時くらいかな >鬼太郎
「呼子」は白黒だったと思ってたけど、
調べてみたらカラーだったのねん >>785
子供の事うちの父親になにかと贅沢は敵だとか
ほしがりません、勝つまではとか言われたwww
戦中は軍需の町にいたから余計そういう標語が身に染みてるんだろうな。 豆乳
烏龍茶
スポーツドリンク(ポカリスウェット)
昭和末期のほぼ同じころに出回った覚えがあるが
豆乳だけはイマイチメジャーになれなかったな まさか、21世紀になって鍋に使われるとはなぁ>豆乳
和食はダサくて、あと少しで洋食に駆逐され、21世紀にはソイレントグリーンのような必要な栄養素だけで成形された調理不要の食事になると思ってたっけ。 アンバサは最近ドリンクバーで見たなぁ
メローイエローは樽形のガラスボトルで飲みたい メローイエローの樽型ボトルに詰まったオホーツク海の水が実家にあるはずだ。
思い出して顔が真っ赤になった。 小学校の頃算数の授業で鶴亀算の問題がわからなくて
「あれだよな。えーと、なんだっけな。
ん〜。ちょっと難しいな。えーと、えーと、ちょっと難しいな。ん〜 ちょっと難しいな。」と言ったら
先生と同級生に笑われた。 中学で方程式教えるのになんで鶴亀算教える必要があったんだろう 掛け算の順序に固執したり九九を丸暗記しないと激怒したり、算数教育のガラパゴス化と非常識は想像を絶する。
よほど怖いドンがいたんだろうな。 インドが数学先進国になった背景には20*20まで暗記させる教育が奏功しているらしいが >>810
小学校の国語の授業で「擬音」
「擬音」の例を挙げなさいと言うのがあり
俺の前の前、ズシーン
俺の前、バシャーン
俺、ビビューン
って言ったら怒られた&笑われた シビビーンシビビーンシビビーン
ってあったな
逆転イッパツマンか ♪マーッハロッドーでブロロロローン ブロロロローン ぶロロロロローーーン! 知られざる世界をみて寝る、そんな小学生時代
素晴らしき世界旅行も好きだったな 驚異の世界に野生の王国。
民放から、ナレーションだけのがっつり科学番組は、平成の声と共に消えた。
ちくしょお。 笑点 サザエさん ミュージックフェア
月曜行きたくねえと鬱になる3大ED >>827
この木なんの木と、東芝日曜劇場のテーマもお忘れなく 日立のあの歌は、新バージョンを作ろうとしたら、歌い手のヒデ夕樹さんが亡くなっていたのが判明したんだよなあ。 うっかり、
「知られざる世界」まで観ちゃったもんなら・・・
オレ的に一番鬱なのは「日生のおばちゃん」のCM
日曜の夕方のニュースの合間に見ちゃうと堪らないものがあった 早く寝ろと追い出されても
襖の隙間から見えるウイークエンダーを布団の中からモゾモゾ 出題 [思いやり]
加藤芳郎「軽い…刀!」
田崎潤「重い…ヤリ!」
司会者「……はい、原点ですw」 今年の日立の新入社歓迎会て「この木なんの木」を歌う人はどれだけいるんだろう 社歌を歌うとか曲がかかるってのは古い大企業ならみんな同じなのかな
東芝、松下、NEC、IHIには仕事で行ってたけど、東芝と松下は昼や定時に放送されてた
NECやIHIの社歌って知らんからかかってても気がつかなかっただけかもしれん ふと思い出したこと
昭和の週刊・月刊マンガってジャンルや作者問わずほとんど全てのページのコマ割りにおいて、上下と横(右側のページなら右側)に余白があった
その余白に印刷された2行程度のちょっとしたネタを読むのが密かな楽しみだった
ある週刊マンガは編集部が決めた今週のテーマ(例:オカルト)が余白を埋めていた
また別のマンガでは読者の面白記事が投稿されるスペースとなっていて、週間MVPにはちょっとした賞金が出ていたと記憶
いずれも今のツィッターより短いたった数行のテキストだけど、それが数百ページともなると結構なボリュームになるんだよな
昭和末期から平成にかけて印刷技術が向上して印刷のズレがなくなったのか、作者の自己顕示欲なのかマンガの表現方法向上のためなのか、
何に起因するのかようわからんけど、それまで普通にあった余白がなくなってしまった
完全になくなったわけではなく、例えば右側のページなら従来であれば右側に縦一直線にあった余白が、
たったヒトコマが右側に目いっぱいはみ出たせいで余白テキストを重ねられなくなってしまった
なんのマンガか失念したがある時買ったマンガは数百ページ中、余白ネタがヒトケタしかないということもあった
あとページ下側に余白がないとページを入れられなくなる
巻末の目次を見てそのページに飛ぼうとパラパラめくる場合、従来はパラパラマンガのようにページがカウントアップしていたのに、
同様にほとんどページ数が省略されてしまったら目的の場所に飛ぶのも大変だった はみだしゆ〜とぴあね
一発ギャグとか募集とかいろいろあったなぁ 現在では読者コーナーそのものを廃した雑誌も少なくない。
あの、読者コーナーでトーナメントをする方式を考えたの、さくまあきらだと思ってたけど、戦前にあった「少女の友」
って雑誌が最初だったのね。
その雑誌では、編集者が「この人はもう十分実力がついた」と判断したら卒業と言われてトーナメントに参加する
資格を失う代わりに、グリーンルームという、優勝者だけでマターリと自分の得意分野を投稿するページへの投稿を
許されてた。
(さくまあきらは、優勝資格を点数で加算する方式にした)
そののちも文芸界で活躍してる人の中には、ここでのハガキ職人だった方もいるとか。 読者コーナーといえば文通相手募集というのがあったなあ
投稿者の住所がそのまま載せてあって希望者は直接手紙を送る あの余白ネタや読者投稿ページってまさに今のツィッターに通ずるものがあったよな
サブカルチャーと言っても過言ではなかった モーニングの柱と床下が好きだった。
送って採用されたこともあったっけ。
読者コーナーも、柱も床下も今はない。 >>843
友達が募集したらお約束通り不幸の手紙が来たw
話変わっちゃうけど、今は飲食店がチェーン店ばっかなのが寂しい
客席を綺麗な海水魚の水槽でずらっと仕切ってあった地元のレストランが懐かしい
もちろんリースだろうけど本当に綺麗に管理されていて水もガラスもピッカピカ
バブルっぽいバーにも水槽はあるけどそういうのとは全然違う
ウェイターは髪もピシッとセットしてあって、落ち着いたレストランだった
綺麗な魚たちを眺めながらサンドイッチを食べるのが大好きで親によく連れて行ってもらったな
今思うと昭和40年代で田舎にそんなお店があるのは珍しかったと思う
都会にはまだそういう店は残っているのかな?
長文&説明が下手でゴメン 家の近所の床屋がついに閉店しちゃったよ
昔ながらの床屋で主人ももうお爺さんだったからなぁ >>836
日立金属に勤めてる友人は、新婚旅行の時に、あの木をわざわざ見に行ってたなあ。
べつに義務付けられてるわけじゃないけどw あの木何の木のロケ地はハワイと北海道とあとどこだっけ? >>843
戦前じゃないけど、そういう少女雑誌の編集者には万年芥川賞候補みたいな文学青年崩れが多くて、多少文才のある田舎少女を上京させて食うのに血道を上げていた。
その筆頭が川上宗薫と水上勉。 >>854
そんな洒落たところじゃありませんw
かつては田舎なりに賑わってた街ですが、イオンができてあっという間に廃れてしまいました >>847
アクアリストの俺から言わせて貰うと
海水魚の水槽は淡水魚の水槽よりも手間暇がかかる
塩垂れと言って、塩分が水槽を汚すし、海草や水草の管理も大変で
見た目綺麗な水槽を維持するには、小さな水槽でも実は、
新車が一台買えるくらいの値段がかかってる事も珍しくない
そう考えると、大きな水槽だったり沢山あったりすると
自前水槽でもレンタル水槽でも莫大な金額がかかってると考えていい
バブル時代ならともかく最近は店内に綺麗な水槽を備えてる所は少ないんじゃないかな >>857
>>847です
実は昔ほんの少しだけ海水魚飼育を試みたことがあるのですが
維持費も難しさも半端なかったです(ノД`;)
今思うと平成まで続いたあのお店はやっぱり奇跡だったのかもしれません
仮に同じような店が今できたとしてもあの雰囲気は
若い子にはウケないかもしれませんねー 魚で思い出したが、学校の前でヤドカリやミドリガメを売ってる業者がたまに現れた
一度だけヤドカリを飼ったことが事があるが、水槽を外に出しておいたら逃げ出して行方不明になった ミドリガメ流行ったとき親にねだったけどダメだった
ナントカ菌がいるからよくないってってちょっと話題になったような
ヤドカリは飼いたかったけど売ってる店がなくて諦めた 今落語ブームらしいけど、昔は各町内に寄席があって今と比較できないくらい身近な娯楽だった。名人円朝なんかもよく寄席で見たもんだよ。 >>861
「めぞん一刻」(まんが)で
2人の掛け合いが「寄席より面白い」と言うシーンがあるが
当時、寄席と言う言葉が分からなかった。 中学生の頃だったかな?
田舎者には落語は遠い存在だったなぁ
笑点とNHKでたまに放送くらいしかなかったよ >>844
それで文通したことあるw
同年齢の人がちょうど趣味友募集してるのみて手紙出した。
ヤドカリは今ペット屋(熱帯魚屋)でペットとして売ってるね。
ちゃんとヤドカリフードとかも一緒に。 >>862
東京、大阪、京都みたいな栄えてた都市だけだよ。
豆腐屋みたいに全国津々浦々にあった訳じゃないよ。 ↑
昔を懐かしむハゲ
常に三年後を見据えたハゲ
↓ 日本のお母さんは
京塚昌子、山岡久乃、森光子に大きく分類されると思う
うちは山岡久乃だった ウチは京塚昌子
あの頃は母になると普段はお洒落とかしてなかったよな >>872
さてはおまえ母親の下着で抜いたりしたな >>870
ある意味今よりおしゃれだと思う。
スカート履いてブラウス着てサロンエプロンwとかして家事全般してたし。
ジャージとかスエットとかトレーナーなかったから。
夏はワンピース。着る物他にないのよと母が言ってたけどその通り。
だから女性らしい所作もしっかり身につけないといけなかった面もある。
年配の人は普段着も着物で家事してたし。 うちの祖母も着物で過ごしていたなー母は洋服だけど今程ラフではなかった
母が10代の頃は既製品が少なかったから、オーダーメイドの話をよく聞かせてくれた
私は一時レトロな古着にはまったけど、大抵がオーダーメイドでウエストが細くて入らなかったw
今とは違うオシャレなものが沢山あったけど泣く泣く諦めたことが多かったな〜 >>875
祖母の形見でもらった服、全部オーダーなんだけどどれも生地の質や仕立てがよくて驚くよ
もう仕立ててから60年くらいたつものだけど破れや穴、虫食いすらない
仕立てもだけど保管も丁寧だったんだろうな
シンプルだけど上品なデザインで自分でもよく着るんだけど
いつも扱い悪くて傷めないかビクビクしながら着てるw 母が洋裁習いに行って何かと作っていたうちとはレベルが違い過ぎw
祖母も昼は畑夜は裁縫で子供を食わせてきた人だからオーダーの服なんかないと思うし
見たこともないな。
昔はスーツなんかとても最初は買えないから、親族などから譲ってもらってたとかは
聞いたことがある。
スーツ着る仕事の人がまだあまりいなかったから。 戦前の主婦や女学生の雑誌なんか見ると、型紙やら縫い方やらが載ってんだよね。
洋裁店に行く人もいたけど、ご近所のおばちゃんや女学生のお姉さんに頼んで、買った生地を縫ったり
持ってる服をリフォームしたりもよくあったみたい。
原爆で死んだ女学生達の遺影を見ると、バケットハットのつばを跳ね上げて造花をあしらった帽子を
かぶってる子が結構いるんだけど、これは、中原淳一がデザインして、少女の友という雑誌に型紙と
縫い方を公開した、パンジーという帽子でした。
着てるワンピースのデザインも、中原淳一が描いたスタイルブックで見たことがあるデザインが多かった。
相当流行ってたんだなあ。 >中原淳一が描いたスタイルブック
最近買った女學生手帖という本に載ってました
他にはビーズ小物や人形の作り方等々、今見ても可愛いものばかり
当時の女の子たちが流行に乗り遅れまいと作る姿が目に浮かびます
うちの母はなかよしや少女クラブを愛読していて高橋真琴のファンだったらしいです
当時の付録は今とは違って上品で夢があった!と鼻息を荒くしていましたw >>879
中央が高橋氏で、左はモンキーパンチ氏。(5日前)
www.asahi.com/articles/ASL4H3F5TL4HUDCB002.html 高橋先生には個展等で何回かお会いしたこともありますが、肉筆画は100万円以上するので買えまへん。 なんかおかしいと思ったら、高橋葉介と混同していた。
「真琴・グッドバイ」という作品があるせいだな、うん。 >>879
パンジーという帽子は、「女学生服装手帖」(少女の友連載)に載ってましたね。
遺影で見ると、様々な色の布で作られたとおぼしきパンジー帽が。
造花の数や大きさも個性豊かで。
かぶってた子は勿論、作ったお姉様も原爆で死んだのかと考えると切なかった。
女学生のお姉様は、流行の最先端をご近所に伝えると共に、学校で教わったハイカラな西洋料理も教えて下さったとか。
>>880
モンキーパンチ氏は、最初は兄弟ふたりの合同作家だったんだそうで。 プロの画廊での個展を、そうとは知らずに公民館や美術館とかの展示と同じ、鑑賞目的でいってしまったら、見込み客だと思われて、モチーフとか一対一で説明してもらったんよ。先生ごめんなさい。 >>878
私が10代の時ですら型紙とか簡単ワンピースとか載ってたしw
それでシャツとかワンピース作ってたw
裁縫雑誌ではないけど、あれなんだっけ?母がたまに買ってたやつで
成人女性全般向けみたいな感じだった。
祖母なんかがお金のために夜に縫ってたのは羽織とかみたい。
今やそんなの普段着にしている人はほぼいないね。
綿も昔は貴重で半纏もなかなか着られなくて寒かっただろうなあ。 >>885
主婦の友や婦人画報とかいった本でしょうかね。
女学校や洋裁学校に通ってたら、ああいう本の縮尺型紙を自分のサイズに起こすことも出来るんですよね。 型紙が載ってる雑誌というと装苑とドレメが二大勢力で
洋裁する人はどちらかの雑誌に載ってる基本パターンを自分用にアレンジした原型作る人が多かった。
私は専門の勉強したわけじゃないけど洋裁好きで中学時代から装苑式で自分用の原型作ってた。
雑誌にはいろんなデザインの服の型紙が載るんだけど、そこには基本形の線も一緒に書かれてて
自分に合うサイズにアレンジしやすくなってたんだよね。
平成に入ってからだけど、装苑が型紙掲載をやめるというニュースはけっこうショックだった。 携帯が普及するまでは、彼女とか友達とかの家電の番号はみんな覚えてたのに、今では嫁の携番どころか、
自分の秘密の携番すら覚えてない。
かろうじて自分の家電は覚えてる。
キャッシュカード以外のパスワードなんか何一つ覚えてない。
津波で全部流された人は大変だったろうなあ。 自分、配偶者、家の電話だけは覚えている。
でも最近は友達と会おうよって話に電話使わないんだよね。
メールだけで待ちあわせとか行く場所とか決まるし。
スマホの人ならラインとか。 西瓜やトマトには塩をかけていた。甘さが足りなかったからかな。
キュウリもそうだったな。味噌をつけるとモロキュウ、酒のつまみになるから子供向きではなかった。 個人的主観だから他のみんなと違うかも
スイカは昭和の頃でも十分甘くて旨いと感じていたが、それをさらに美味にするため塩を
トマトはそのままじゃ渋くて食えた代物じゃないから、それを誤魔化すために塩を
俺はこんな感じだった
今は品種改良と物流網が進歩したから甘くて美味しいトマトも普通に店頭に並ぶようになったな 味噌と言えば胡瓜より茄子、茄子よりホタルイカと豆腐
朝っぱらから辛子味噌でグイーっと逝きながら
寄席と言えば駅近ミュージック
末期なら「前座のマドンナ」「トリのホイットニー」が定番
偶におフランス退廃ミュージックのセルフ亀甲職人
途中コント落語吹き矢でお笑い、その後に観客参加の尺八演奏
でパチンコメドレーで大団円 キュウリに味噌つけて丸かじりがオヤツ。
トマトに塩振って丸ごと食べるのもオヤツだった。
子供向きじゃないって?
もろきゅうなんて大人になるまで知らなかったしなあ。
トマトは普通においしかったと思うけどなあ。
今の品種改良が進み過ぎて甘くておかずにならないトマトよりもずっといい。
品種改良で野菜の甘さばかり強調してなんか気持ち悪いよ。 今のナポリタンと昔のナポリタンの味の違いはそこかな?
まあ、補正も入ってるんだろうけど。 ナポリタンはケチャップだしあんなもんでしょ
加熱用のトマトは今でも酸味強いし 子供の頃は、塩鮭も塩鯖もたくあんも滅茶苦茶塩辛かった。
生鮭のムニエルが食べられる日が来るなんて思わなかった。 >>898
あの頃の塩って、塩化ナトリウム99%のただ辛いだけのが主流だったからな
スポーツドリンクが広く知られる以前は「大汗をかいたら塩をなめればいい」という先人の知恵を見るにつけ、
あんなもん舐めても余計に辛いだけだろと思ってたw
ところがあんな塩辛いだけのゲテモノと忌み嫌っていたものでも、時々食いたくなるから不思議だ
強烈に辛い塩漬けの魚をお茶漬けにして食うと意外といけるんだわこれが あ、↑の三行目は、
「あんなもん舐めても余計に辛い(つらい)だけだろと思ってたw」ね >>902
あの牛乳コップは、実際はフェイク(ほんの一口分しか入ってないのに一杯入ってるように見える)なので
一般家庭で真似したらそりゃ吐くよ。
志村けんのスイカコントも、見えない方の果肉を薄くそいであるらしい。 ドリフの牛乳は、コップの内側に空間があって、隙間のわずかな部分にしか牛乳が入ってなかった。
スイカは薄ーく切ってあって、横から見るとバレるので正面からしか映さなかった。
それを知らんで真似して悲惨な目にあった奴が何人いたことか。 こういうことだよな 牛乳の液面
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■=ガラス(またはアクリル) >>905
底面はなし 側面だけに牛乳が入る
なのでグラスを傾けると空洞なのが丸わかり >>899
今の粗塩だって塩化ナトリウム含量はたいして変わらないよ。
目の前にある「ヒマラヤ採掘法岩塩ピンクロックソルト(パキスタン製)」の食塩相当量は100gあたり98.28gだ。 今日、でっかい洗剤下げて買い物してる人を見た
まだ売ってたんだなw >>898
冷蔵庫がない時代、塩漬けで保存して運んだりしてた時代の残り香だね。
親なんかはリアルで冷蔵庫無しで育ったから、昔はもっとしょっぱかったし
甘いものはものすごく甘かったと言ってた。
魚も甘いものもそうそう食べられなかったしな。 > 冷蔵庫がない時代、塩漬けで保存して運んだりしてた時代の残り香
そこから発展して
長野県は冬季五輪開催に伴ってインフラが整備され、今では都内から普通に日帰り観光も可能となったが、
交通網が発達する以前は「最も遠い県庁所在地」などと揶揄されていた
その長野で独自の食文化が育まれたのは自然の摂理と言えよう
塩漬けでいかに保存性を高めるかは言わずもがな、タンパク質を追い求めて昆虫に手を出したり、
果ては食ってはいけないとされる毒キノコですら毒抜きして食ってみたり
今でも長野には良い意味で食のガラパゴスが残されている
俺も何度か足を運んだことがあるが、ほんっと衝撃だったわw 美空ひばり
世代が離れすぎていたのでリアルタイムのファンというわけではないが、
「川の流れのように」は当時のガキの俺が聞いても名曲だと思ったし、
時代が平成に変わったタイミングで最高の有終の美を飾ったなという印象
中森明菜
体調を崩しテレビからはすっかり遠のいているが、現在はディナーショーをメインに活躍中
大規模なコンサートよりもファンとの距離を大事にする小規模なライブに力を入れているようだ
あの美声は健在で、かつての少年少女ファンを今も魅了する
特にライブ後半に披露した「80年代ヒットシングルメドレー」は大盛況だったとか
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美空ひばり享年52歳
中森明菜現在52歳
( Д ) 佐藤允や平田昭彦や中丸忠雄といった男優達も、平成生まれのうら若きお嬢さんの心を魅了する。
高倉健や菅原文太も、平成生まれの女性ファンがいる。
石原裕次郎が好きな平成生まれの女性は見たことがない。 時代の差
ひばりの頃は色んなものが変わり過ぎる位だっただろうし
明菜の頃は変わった後だし 82年組アイドルの爆発力はすごかったがその先駆として81年10月に「せんちめんたるじゃーはーにぃー♪」とデビューしたあの子の衝撃度は忘れられない 平成元年だけど伊代ちゃんがアイドルてんこもりの歌番組で
いきなり「悲しくてやりきれない」歌いだした時はびっくりした。意外によかった。
この曲をシングルで出すとかすごいスタッフだと思ったなぁ。 派手な企画力
ツッパリイメージ
芋ロリータ
奇妙な声
バイリンガル
太もも
81〜82年のアイドルで売れてる娘は何か特長が際立ってた バイリンガルと言えば早見優を思い出すが、初年度は売れずに苦労したんだよね
このまま埋もれるのかなと思った矢先、「夏色のナンシー」が驚異的なヒットを飛ばして遅咲き開花
その後大御所というほどではないものの、82年組の一角を担うポジションに
それにしても「夏色のナンシー」は名曲だよなあ
永遠のスタンダードといっても過言ではない 中森明菜もスローモーションは今ひとつだったけど、少女Aが大ヒットとなった
まぁ芸能界華やかな時代だったな 早見優のニックネームはキャシーなのになんでと思ってた >>929
本人が「キャシーに変えてもいいですか」って提案して「メロディに合わない」って却下されたんだって。 羽田空港で中華航空のトライデントを見たことがある。 >>907
ドリフの大爆笑のバカ兄弟というコントで長さんが仲本工事と共にボケを演じていた 伊右衛門のCMに3人出てるけど、
歳とって皆、似たような顔になっちゃったな >>898
>>899
昔のかっぱえびせんもむちゃくちゃ塩辛かった記憶
かっぱえびせん好きの友達の口のまわりが赤くなっていた 昔の食べ物がムチャクチャしょっぱかったってのは、
食べてた自分の、お口がお子ちゃまっだったってのも、
ある程度あるのかもしれん 桑田靖子は確かに微妙
でも歌うまいし、足キレイだったしなぁ >>937
それはないと思う。
物心ついた時から塩醤油大好きだったしw
今みたいにおこちゃまな食べ物もあまりなかった。
おこちゃまだってみんな親がほぐした焼き魚とか煮物、おひたし毎日
食べてた。 …魚系の塩物なんか、物によっては塩噴いてるレベルで辛かったよね。 作曲・編曲家の東海林修さん死去 85歳
https://www.asahi.com/articles/ASL575FMLL57UCVL01R.html
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180507003392_comm.jpg
「可愛いベイビー」「危険なふたり」など
歌謡曲から吹奏楽、アニメ音楽まで幅広く手がけた作曲・編曲家
テレビ番組でも活躍し、「シャボン玉ホリデー」の音楽や、「笑点」の
テーマの編曲も手がけた。作曲でも「愛の肖像」(野口五郎)などがある。 >>942
吹奏楽部だった俺にとっては「ディスコ・キッド」の人だなあ。
発表から40年を経た今でも人気の曲だよ。
知ってるやつは哀悼の意を込めて力いっぱい叫べ。
ディスコ! >>935
川に流れてゆく仮面ライダースナック・・
あれマズかったよなあ
食べずに捨てる奴(カード目当てで)多数で社会問題に >>944
あの頃のカルビーは、田舎のローカル菓子メーカー。
創業者は明治生まれ。
その時代の田舎の大人の脳みそでは、「子供が美味しいと思う味=甘味」だったんだろうね。
子供も塩味のスナックが美味しいと感じるなんて思っても見なかったと思う。
でも、あの仮面ライダースナックの大成功がなければ、今でも量販店とかで細々売られるローカルメーカーでしかなかったと思うよ。
当時の小遣い3日分もする高価なお菓子が捨てられてるのを見て、「一体何があったんだろう?」と思ってた当時の幼稚園児より。 >>945
当時20〜40代(昭和一桁〜20年代生まれ)と思われる企画、開発スタッフもこどもの頃の戦中から戦後に、甘いものに飢えていた世代でもある。
今から考えるとジュースもなにもみんな味が濃く、甘かった。(バャリースなど) >>920
往年のひばりファンからすると、川の流れのようにや愛燦々はイマイチ。
やっぱり、花笠道中や真っ赤な太陽、悲しい酒や人生一路がひばりらしいんだよね。 あのあたりは「べつにお嬢が歌わなくてもいいじゃん」って歌ではあるな。
それでも自分の世界に引っ張り込んでいるのはさすがだが。 まあ、さすが秋元康はそのへんきっちり計算して押さえてくるよな()
別に川の流れが悪いわけじゃないけど
あの秋元作詞の歌がひばりの代表曲のように言われるのはめちゃめちゃ違和感ある >>945
同時期にバーベQ味出てたのになぜそれを採用しなかったのか
あれなら捨てる子供はいなかったろうに・・・
コストが合わなかったのかな >>950
あの歌詞で
そろそろ逝きそうな感じがあった >>954
しつこいけど、明治生まれの田舎の人の、子供が美味しいと思う味覚=甘味という固定概念が原因。
あの味は覚えてるけど、鯛あられと呼ばれてる鯛型の飴を絡めた揚げスナック菓子の甘味を薄くした感じだった。
お小遣いの問題で一年に一度食べられるか否かの幼稚園児にとってはまずくはない味だったけど、メーカーも
時代が大量消費の飽食へと移り変わってたり、子供も塩味スナックを美味だと感じたりという時代の変化には追いつけ
なかったろうし…
まさか、飽きて食べずに捨てる子がいるというレベルで売れるということも、田舎のローカル菓子メーカーには想定でき
なかったのだろうと思った。 当時は情報面でも交通面でも、東京と広島の距離は遠すぎた。
東京と広島の子供の価値観や親の躾、消費スピードの違いも完全に読み違えてたと思う。 >>945
ライダーカードとアルバム
今でも大切に持っています >>958
とびっきりのキャスターさんですね…
地元民です、よく見てました。
若い時、めちゃくちゃかっこいい
ご冥福をお祈りします。 >>954
バーベキュー味はライダースナックが廃盤になった後だと思う Nintendo64って昭和かな?
ソフトいっぱいでてCDも使えたらよかったのにね 歌手として大人気だったが
ドラマの寺内貫太郎一家も好きだった >>971
樹木希林が沢田研二のポスターを
見てジュリーと絶叫
山口百恵と沢田研二は人気があったからな。 DAVID BOWIEと Cyndi Lauper のLPは聞いてた。 …どーでもいいことだが、テレビジョッキーに出場して、口に含んだ牛乳を目から出したり、ミミズを蕎麦のように食ったり
ゴキブリを食ったりして白いギターをもらってた若者達って、今50代半ばから60くらいだよね。
還暦前後のおばちゃんでもきんどーちゃんを知ってるし。
もうそういうバカ野郎が還暦前後なんだなあ。 ごめん、ちょっと、いや、かなり論点ずれるけど
あの頃ってTVジョッキーに象徴されるように青少年はギター弾けて当たり前
または今は弾けなくともいずれできるようになるぐらいの大前提だったよな
俺は世代も違うしそもそもギターに全く興味無かったんだけど、
ゴキブリやミミズ食ってTVに出た世代にとってギターとはバイブルのような存在だったわけ? ギター弾けて当たり前、なんてことはなかったと思うけどなぁ ギター弾ける人なんてほとんどいなかったよ。
何か勘違いしてると思うw >>978
弾けた人、弾けるようになりたいと思っていた人もいるでしょうが、大抵はテレビに出たというステイタスで、
見栄え重視で飾っておくインテリアに過ぎなかっただろうなと思います。
…5分しか着用できない強化スーツを隠してた人もいたようですが。 夜のヒットスタジオでCasiopeaが共演
西城秀樹がCasiopeaの「SUN」を歌った
笑っていいともでCasiopeaの野呂一生と共演
「西城秀樹はフュージョンに詳しい」と思った。 住宅街の物干し台でトランペット吹いたり
男女が屋根瓦に上ってギターで歌ったり
今だったら通報ものだな 西城秀樹さん死去 大阪にも深い縁
https://i.imgur.com/bTQv4v1.jpg
https://www.mbs.jp/news/sp/kansainews/20180517/GE000000000000022633.shtml
なんばパークスがある場所は、かつて南海ホークスが本拠地とする大阪球場でした。
ここで1973年から10年連続で西城さんのコンサート。日本のソロアーティストで、
初めてスタジアムコンサートを行ったのが西城さんだったといいます。 西城秀樹の件は、広島では号外が出たし、紙面の割き方も衣笠祥雄と同じくらいだった。 乗用自動車の保有台数の推移
(軽自動車を含む) 各年3月末現在
平成 1年 30,712,558 平成 2年 32,937,813 平成 3年 35,151,831 平成 4年 37,310,632 平成 5年 39,164,550
平成 6年 41,060,611 平成 7年 42,956,339 平成 8年 45,068,530 平成 9年 47,214,826 平成10年 48,684,206
平成11年 49,968,149 平成12年 51,222,129 平成13年 52,449,354 平成14年 53,487,293 平成15年 54,471,376
平成16年 55,288,124 平成17年 56,288,256 平成18年 57,097,670 平成19年 57,510,360 平成20年 57,551,248
平成21年 57,682,475 平成22年 57,902,835 平成23年 58,139,471 平成24年 58,729,343 平成25年 59,587,242
平成26年 60,051,338 平成27年 60,517,249 平成28年 60,831,892 平成29年 61,253,300
ttps://www.airia.or.jp/publish/statistics/ub83el00000000wo-att/hoyuudaisuusuiihyou.pdf
ttp://www.arclink.co.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/mkc0003b6.png
一人あたりの車の保有台数は増えているわけで、今の若者は自動車により身近な世の中で暮らしている
昔は女で車を持っている人間は少なかったが、今は女でも結構持っている。圧倒的に車の所有は多くなっている。
お下がりによって無費用で入手可能な時代になった。PCスマホ車ブランド物なんでも普及し尽くした。
お爺ちゃんが車を買って、保険などの維持費はお爺ちゃん持ちで高級車に乗る20代が増えたこと増えたこと
若者はまとめサイトのお客様世代だから
心地の良い「離れ扇動」を真に受けメタに立って
「今の若者は昔とは違うんだ」ってアイデンティティに目覚めるんだけど、
アヒチルドレンの姿とテレビを盲信する老人の姿は同一のアチチュードですよ
ネットを使えば、若者はマーケッターの思惑通り操られてくれる昨今の状況がわかりますねえ
アフィサイトの没落と同時に、これまでの誘導情報から解放される若者が増えればいいんですがね 「若者のクルマ離れ」は東京限定の話だった、全国では20代の8割以上、30代なら9割以上の者が運転免許を保有 [転載禁止]c2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plusd/1429495646/
【速報】「若者の○○離れ」 ウソだった 出版社「昔の大学生は車を買ってた?アレは広告企画。当時でも無理」 [無断転載禁止]c2ch.net [759857947]
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1499531731/
運転免許 取得率 25〜29歳 男94% 女87% 持ってない男は知的障害者と判明 [無断転載禁止]c2ch.net [659060378]
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1504003719/
新社会人の75%が「車欲しい!特にトヨタ車希望」 [615579589]
http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1526465088/ 高い代金や維持費をかけてまで持ちたくないってだけで、今だって若者が欲しがる車なんか幾らでもあるよ
昔みたいにスポーツカーじゃないのは確かだけど。 西城秀樹は洋楽をライブで歌っていた
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