50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part26
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>>741
その年の直近の出場の70年夏の高松商戦の二回裏にスクイズを決められてから(これが決勝点)、83年春の横浜商戦に決められるまで甲子園で28試合スクイズを許さなかった。 >>748
杉浦藤文監督は意外にも強攻策が多い監督
細かい野球のイメージがあるけどね 中京の投手は皆フォームが同じという印象がある。
78年のチームは硬軟織り交ぜた攻撃の出来る良いチームだった。チーム本塁打は
参加校でトップでPL戦でダメ押しのスクイズを決めた筈が。。暗転。 >>752
深谷弘次監督は細かい攻撃が持ち味の監督で、この世代は強打者も多かったから攻撃力は中京歴代でもトップクラスだったと思われる
PL戦での9回裏の投手交代ミスは、魔が差したとしか思えないな
一打同点のとこで黒木を投入、雰囲気に飲まれた黒木がストレートの四球でエース武藤を戻したが、あそこは武藤で通すべきだっただろうな オレが覚えてる中京の一番の番狂わせの試合といえば、昭和57年の選抜準決勝の二松学舎戦かな。
二松学舎の左腕市原(現監督)によもやの1−3の敗戦。
勝った二松学舎の青木監督が、試合後のインタビューで号泣してた。 絶対PL対中京になると思ってたのにニュースで二松学舎とかいうのが勝ったって流れてきて電気屋の街頭でおっさん達がええっ?てなってたのが面白かった。 >>747
中京は甲子園100勝目を達成したセンバツの大成戦でも
森田のホームランで1-0で逃げ切ったやん >>744
ギリプロ入りできないくらいの恵体の集まり
08春なんかまさにそうだった 鈴木誠也がメジャー希望らしいぞ
東京で産まれてドームから近い九段下の二松学舎で子供の頃から巨人ファンだったのに
江川があれだけ巨人に憧れて拘ったり
阪神が10年30億以上西武も引き留めに契約金だけで10億提示巨人は2年5億提示だったのに
巨人に憧れ拘った時代があったのに
今や巨人も魅力や影響力落ちてるな
野球事態が大阪桐蔭とソフトバンクの1強で飽きられてファンもウンザリだけど
今年はプロ野球はソフトバンクがほぼ絶望的で野球ファンでは盛り上がってるけど >>753
このときは杉浦氏は部長登録でベンチ入りしていたが、ワイシャツにネクタイ姿は似合わなかった。やはりこの人はユニフォーム姿がいちばんだった。 >>755
あんまり言われてないけど横浜商の方が安打多かった(横浜商9PL5) 中京の中の投手では巨人でも活躍した木村龍治が忘れ難い。88年の選抜宇部商戦で
あわや完全試合というピッチングだったのに、初安打後に逆転ツーランを打たれて
敗戦。ホームランボールを目で追いかける木村の表情が印象的。
>>753 深谷さんはこの敗戦で辞任。元々、杉浦藤文が63年以来監督をして66年の春夏
連覇を果たして翌年夏も準決勝前は連覇濃厚と言われながら、習志野石井のうまい牽制
等で敗戦。それから県内でも東邦になかなか勝てない時代もあった。その時代を脱した
ものの千賀を擁した76年の準々決勝でPLに大敗して辞任。54年の優勝監督だった深谷が
復帰した。深谷が育て上げた78年のチームだったが、秋季東海大会を圧勝しながら選抜は
出場辞退、夏は県準決勝の岡崎工戦と甲子園での箕島戦で劇的な逆転勝利を収めて、頂点
に駆け上がると思われたが、まさかの大逆転負けを喰らった。
杉浦の復帰後は野中が居た間に頂点を狙えたかもと期待を持たせたが、結局、頂点には
立てず。杉浦自身も前世紀に他界ぢてしまった。
>>761
76年の準々決勝でPLに大敗して辞任
誤りです。75年秋の中部大会で市岐阜商に敗退して選抜を絶たれて辞任が正しい
杉浦監督は、74年、75年の選抜で初戦負けに加え、75年選手権愛知県大会で国府に負けて批判が出ていた矢先に、市岐阜商に負けての引責辞任です
76年夏の甲子園は深谷監督で、事前のアンケートで優勝候補にPLをただ1人挙げていました 1978年夏大会は中京が大会随一の強さ言う人が多かったようだね
中京 県岐阜商が西か東か微妙な扱いで完全に西高東底の西日本大会と言われた >>762
ただし、杉浦氏は引責辞任といっても野球部から離れるわけではなく部長への配置転換だったから、年が一回り上の深谷さんが退任したら監督復帰するのはほぼ決まっていたと思われる
その杉浦氏も野中世代とともに1983年秋に42歳の若さで退任
退任の理由のひとつには健康問題もあった あの年は中京中学が閉校するタイミングで日本一になった。中高同時に日本一が
期待されたが果たせず。またその中学最後の世代(エース丹羽)も大府(槇原)、名電
(工藤)に勝てず影が薄かった。と言っても81年夏の予選で中京は大府に勝ったけど、
準決勝で愛知に負けたんだけど。因みに工藤は久方中で名古屋市で優勝していた。 1982年の池田は春までは42勝11敗3分打率291平均得点5・55平均失点1・82
箕島47勝3敗1分打率374本塁打35平均得点7・7平均失点1・8
1983年池田21勝3敗打率389本塁打21平均得点8・2平均失点2・4
畠山中心の守りのチームのイメージもたれるわなあの打線が打率2割台だったとか驚いた 原辰徳は巨人の全権まかされてて
原監督を辞めさせられるのは原辰徳だけらしいな
相模の若大将がいまや読売の独裁者かよ >>762
すいません、私の記憶では76年春の県大会で名城大付に4-8と敗れたあとに監督交代だったと思うのですが。
その年のゴング増刊の予選展望号や、週刊ベースボール増刊の選手権決算号にその辺りの経緯が書かれていたと思います。 中京の投手は金太郎飴みたいだと書いたが、その印象は千賀、武藤、黒木、所、
野中、紀藤、森で形成されたと思う。特に野中世代には広島で大活躍した紀藤や
アトランタ五輪で大車輪の活躍を見せた森が同期でいながら揃いも揃って右投げ
本格派で似たような感じだった。(武藤と黒木もそんなに違いがない)。ところが時代を
遡ると下手投げの金本(1年時の72年の甲子園で2試合連続完封で鮮烈デビュー)とか、
サウスポーの樋江井(70年ドラフト1位。濃人監督をして「湯口より樋江井だ」と言わしめた)
等、多彩な投手が居た。どうして金太郎飴化したのか。それとも曖昧な記憶が誤りなのか。
杉浦監督退任後も畔柳に至るまで大体似たような右本格派がエースという印象があるが。 二松学舎とPLの決勝では、PLがまた最後までもつれてサヨナラ勝ちするような試合をしてくれるのではないかと期待したが、
高知商戦、印旛戦と異なり、PLが先攻だった。PLはじゃんけんに勝てば先攻をとるので、じゃんけんに負けたんだろうね。
初回、いきなり先頭打者本塁打が出たりしたのは、そのうっぷん晴らしのように感じた。 中京は大学附属になってからは大型チームになったけどやらかすというか脆いイメージ
2017年のチーム鵜飼ていうスラッガーいて4人位本格派投手持ってたけど序盤最強チームか思ったら中盤から終盤に大量失点して広陵に大敗
2002年も前評判高かったのに西村に完封されたし2010年春も有原に敗け
広陵にやられまくりだな2010年夏も早実に21失点
2009年堂林の時くらいだな印象あるの >>771
同年の箕島とPLの奇跡持ち同士の対決は、どちらが後攻になるかを焦点に当てて楽しみにしていた記憶がある。 1978年夏、しれっと準々決勝まで勝ち上がった報徳に「さすがやなあ」と感心した。
前評判たいしたことないのに、なんかわからんけど試合終わったら
きっちり勝ってるみたいな。 1982年夏中京対広島商
アサヒグラフの写真は9回同点のチャンスで内野ゴロ
1塁にへッスラの森田だった
なぜか今も覚えてる >>761
88年木村世代は西脇監督が打力に凄い自信持ってたよね。春の東海大会決勝はホームラン4発など凄い打力だった。俺は実はこの代は野中世代より強かったと見てるけどどうですか? >>774
もう覚えてる人はいないかも知れないが、あのときの報徳学園には樽という外野手がいて、彼は前年夏に肩に重傷を負い、
医師から「利き腕の右肩を使ったらアカン、野球は止めるように」と強く警告されたにも関わらず野球を続け、一冬の間に
右投げから左投げに転向して、再び強豪報徳学園の外野のレギュラーの座をつかんだ秘話には感動したな。
右利きから左利きに転向とか並大抵の努力では無かっただろう。 >>774 でも8強の中で唯一覚えていない。もっと早く負けたチームの多くは記憶にあるのに。
一生懸命観ていた時代に8強チームが記憶に残っていてないのは只事ではない気配の消し方。
>>776
愛知県を離れていたので、意外ですとしか言えません。選抜3回戦で木村が劇的なピッチングと
敗戦をした印象は強く残った一方で、同時出場の東邦が準優勝したので中京の打力やチームとして
の強さは印象になく、夏に至っては予選の早い段階で負けたので、どういうチームだったかも
分からないまま。 >>776
88年の愛知県はハイレベルの3校がつば競り合いしていた
選抜準優勝でキク山田に機動力の東邦、選抜2回戦敗退ながら木村投手と強力打線の中京、投の板東、打の神野が軸の享栄
ところが、籤のいたずらで早い時期に中京と享栄が対戦してしまい、中京は木村が不調で板東のスリーラン始め6失点で打線も完封負けという意外な結果で完敗、その享栄も敗退してしまう
これで東邦で決まりと思われたが、準決勝で山田が乱調で名電に延長戦に持ち込まれ敗退
代表は2年生が多く例年より小粒と言われた名電になってしまった
その名電は甲子園で初戦で優勝候補の高知商に逆転勝ちしたものの、沖縄水産平良投手の変化球を打てずに3回戦敗退 >>779
享栄は準々決勝の杜若に1-4で敗北
その杜若を破って決勝進出したのが前年初戦敗退の名城大付
後にも先にも一度きりの決勝進出だったが、名電相手に延長に持ち込む大健闘だった 空気読まずにチラ裏w
昨日の中国大会一回戦
宇部商7-5出雲西
そー言えば、野中投手在籍中は宇部商との
対戦は実現しなかったんだな? >>770
自分的には中京が夏の甲子園出場候補筆頭だと思ってた。
享栄に完敗した翌日に
中日スポーツの一面か裏一面に
享栄・坂東の大きな文字が出ていたの覚えてる。 あの〜 自分40代なんですけど、
知ってる試合とか出てくるんで
このスレ参加してもいいですかねー?
ちなみに少年野球やる前の
84年センバツから記憶あります。 >>770
中京(愛知のほう)、好投手がいた世代はいっぱいあったのに、投手力に問題のあった堂林世代が久々の全国優勝になったのは面白いね。
あの代はとにかく打力が凄まじかったから、やはり投手力の不安を全員で補おうとする意識の高さがチーム力向上や勝負強さにつながったのかもね。 >>781
野中は広島商、尾道商、岡山南、関西と中国地区の学校とはよくやっている。
だから今、中国地区の高校で監督をやっているのは面白いめぐりあわせ。
だけど残念ながら宇部商とはやってないんだよね。
中京は宇部商と凄い因縁があるけれど。 >>773
PL-箕島の1982年選抜の対決は、自分もどちらが後攻になるかに注目していた。
9回、箕島が同点のチャンスを迎えた時は「また奇跡くるか?」と胸を弾ませたが、そうならなかったね。
一方、その3年前、1979年選抜準決勝では箕島が後攻になり、最終回に2点差を追いつき、最後はサヨナラ勝ちだったね。
箕島はそれまで「奇跡」のイメージはあまりなかったけど、今思えば、その後の数々の奇跡はこの試合から始まっているように思う。 >>774
単に籤運に恵まれただけという気もするけど
ね
8強に残れなかった高松商、仙台育英、横浜」、箕島の方が実力は上だと思った 相手が盛岡一、郡山北工、延岡学園だからな。
高知商業戦、三塁手の守乱から相手にこれでもかとまで攻め立てられて気の毒だった。 78夏の報徳学園は左腕手嶋の印象が強い
まとまった好チームだったけど、ベスト8で高知商業に虐殺された時にこれは優勝すると思ったな
自分の中では78高知商業が同校歴代最強なんだよな その高知商業に2−4で善戦した仙台育英の強さは本物だったんだな 当時の仙台育英のユニは今の慶應タイプより好きだったな 仙台育英は1981の代も戦力が揃っていて期待してたんだけどな
技巧派左腕・太田に豪腕右腕・甲谷 原野、寺島の強打者を揃えていたけど、初戦で鹿児島実に2−3で負けてしまった >>792
鹿児島実もこの代は大柄な山田投手を中心に強い世代だったから仕方がない
2回戦で九州同士の鎮西に負けたけど、事実上の九州チャンプ決定戦だった >>783
いいよ
俺も17歳だけどおっさんのふりして書き込んでる
>>791
神宮大会優勝してセンバツで優勝候補だった東北もいたし78年宮城はレベル高かったな
翌年変わったけどあの筆記体のユニフォームも好き
ちょうど青葉城恋唄流行ってたな >>791
東北のエースの薄木の評価は高く、江川2世の評もあった。
https://mobile.twitter.com/shinbun_supotu/status/1242034503599546368
実際、2回戦で優勝候補の高松商を封じ込んだピッチングは圧巻だった。まさか
次の準々決勝で消えるとは思わなかった。
一般には奪三振が凄く殆ど失点もなく関東大会を制した菊池(印旛)に注目が
集まっていたが、選抜初戦で優勝候補のPLに当たり、いいところなく破れた。
菊池は大学では活躍出来なかったが、東芝で活躍しソウル五輪に出場した。
選抜の時点での津田の注目度はそれほどではなかった。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 78高知商
自分も全国制覇するだろうと報徳戦で思った。
これは大会通じて明神の活躍が自分の心理面に影響したんじゃないかな。
なにしろ泥だらけのユニで真っ黒に日焼けした顔にこけた頬で眼光鋭く
タイムリーかっとばして、塁上で誇らしげに拳を振り上げる姿は中学生の自分には
威圧感に満ちており、テレビ画面越しにも怖かった。
「こりゃ、高知商の勢いは止められんわ」と
でも、明神は野球選手としてはこの夏限定の輝きだったようですね。 >>794
神宮大会では白武のいた佐世保工業に5ー0で完勝、決勝では次の夏に準優勝する高知商に3ー2で勝って優勝したんだよね。 >>796
土佐丸みたいなイメージだったよね。小学生だったけど凄えカッコいいチームだった。
>>791
仙台育英は有力校の一つに上がってたね。
選抜で優勝候補だった高松商に延長17回完封勝ち、高知商を決勝以外で一番苦しめたわけだから、評判通り力があったって事だね。
不思議だったのは大久保は県大会無失点で高松商も完封したけど奪三振が少なかったよね?
あれは何でなのかな。 >>795
いやいや、津田は選抜前の前評判も高かったぞ
初戦見て、大会一の右腕は津田と確信したわ
当時の津田は速球のコントロールが甘く、点は取られていたが、スイッチが入ったときの速球はえらく速かった
細かいコントロールさえつけば、プロでもエースになれる器だと思ったわ >>795
池永の名前さえろくに書けない奴のツイッターは恥ずかしい
津田は大会前から池永二世と言われて、東の菊池、西の津田という前評判だった ところで高校野球ファンにとって池永は犠牲者みたいな見方が大半だけど、
明徳の例の「甲子園が割れた日」でこの件を調べ上げたことがある元記者が
「池永はやっとったわ」と回想していた記事があったと思う。 津田の事で熱くなる奴が居て変だと思ったら薄木のスポニチの記事を紹介した
Twitterが池永が永池になっていた訳ね。リンクする際にヘッダーを見ていなかったわ。
まあ津田も3人の中に入っていた。一般の新聞やメディアでは薄木を外して
田中富生(南宇和)、菊池、津田、それに木暮(桐生)を挙げていたのが多かったかな。
石井や牛島の2年生はそれほどでもなかった。しかし、浪商の登場そのものがひさしぶり
だったので、牛島、香川に別の意味での注目はあった。 津田はたしかツネゴンと言われていたな。
崇徳の黒田もヒバゴンで有名になった比婆郡の出身なんで、何かそういう名前をつけられていたような。
その崇徳が原爆打線と言われたり、有名なサッシーもいたり、この頃のメディアのネーミングセンスは凄かったな。 >>802
大会総評では右の津田、左の木暮が高い評価だった
ただ、この2人は夏も甲子園に戻ってきたけど早い時期に負けた >>804
津田の南陽工も、木暮の桐生も味方打線が天理中西、県岐阜商野村と右の変則投手に完封されて負けた >>804
最注目の菊池は優勝候補筆頭のPL戦の初球にわざとバックネットに直接ぶつける暴投を
して自ら落ち着かせようとしたが、そもそもそう考える事自体が意識過剰で早々に失点し、
いいところなく4点取られて敗退し、評価を落とした。 78年 菊池(印旛)
79年 片岡(府中東)
80年 中島(柳川)、高仁(東京農大二)
81年 近江(星稜)
82年 日野(上尾)
あのころの選抜は期待外れの投手のオンパレードの感があった。 桜美林ってそういえば優勝後にドラマ仕立ての実況入りのレコード出てたな
あれ変な色モノお笑いレコードとか紹介されてもいい内容だった 笑 検索したら分かったわ
「嗚呼!深紅の旗 東京に還る 色鉛筆」でようつべで聞ける
懐かしいな >>807
>あのころの選抜は期待外れの投手のオンパレードの感があった。
ネットの普及と、一般の人の撮った映像も増え、
著名な選手が、甲子園での映像が初見になる事が少なくなったからね。 >>804
前にも書いたけど、1978年の選抜は第50回の記念大会だったのに、出場校は例年通り30校のまま。
記者が「何故、参加校数を増やさなかったのか?」の問いに「ナイトゲームや日程が延びて好ましくないから」と
大会会長が答えてた。
選抜大会はそれでなくても雨天順延が多いし、大会日程が延びるのを極力避けたかった。
それにこの当時は今と違って大会前に参加校が練習試合を行うことが認められておらず、練習試合、公式戦とも
3月27日解禁と決まってたから仕方なかったのかな。 >>807 片岡は打ち込まれて期待外れだったけどドラフト1位。
それより九州の奪三振王の池尻(久留米商)の方が期待外れだった。 76年選抜の崇徳高校の戦いぶりは、特に鉾田一戦を中心に既に語れてきた。しかし
準決勝の日田林工戦は余り語れていなかったと思う。日田は強打で鳴らすだけでなく、
73年夏に広商に決められたツーランスクイズをマスターして、新宮戦で鮮やかに決める
等機動力も抜群の強敵であった。試合は3回までに崇徳が2点をリード。しかし追う日田も
4回表に一死2、3塁の絶好のチャンス。ここで日田はツーランスクイズを仕掛ける。
それに気が付いた一塁の兼光は走者を無視してホームへ矢の様な返球をして2人目の
ホームインを阻止。同点の機を逸した日田は意気消沈し、裏に1点を失い勝負あり。
ツーランスクイズの成否に勝負の行く末が凝縮していた忘れ難いプレーだった。 >>814 2018年夏の近江の一塁手も兼光のようなプレイが出来れば金足農に勝てたのにね。
近江の選手全員、また大観衆誰一人としてツーランスクイズなんて予想していなかったから無理かな >>785
今年秋の中国大会で
宇部商と対戦してる >>806
昭和50、60年代の甲子園では、プレーボール直後の初球をバックネットにぶつける投手がたまにいたけど、
あれは、「男ドアホウ甲子園」の影響だろうな。 >>817
あれがどうメンタル面に好影響与えるのか、今だ謎。
ボールが一つ先行して投球が不利になるだけだと思うがね、、、 90年代以降はめっきり見なくなったが、最後にやったのは誰だろうな。86年防府商のピッチャーが初戦でやっていた気がするが記憶があいまい。 最初にやったのは昭和20年代の土佐の山本?投手と聞いたことがある。
やった投手で知られているのは鉾田一の戸田、練習のときだが中村の山沖かな。 >>817
「男ドアホウ」のアニメ版は、最初標準語だったのに、甲子園が舞台なのに関西弁でないのはおかしいとスポンサーからクレームが入り、関西出身でない声優が下手くそな関西弁使ったことで、視聴者からクレームが入り、また途中で標準語に戻すといった。本当にアニメ版はアホなアニメになったな。 逆だった
イカサマ関西弁→放送局が標準語にしろ!→今度は原作者が怒り関西弁に戻せ! >>819
1986年にやったのは防府商のピッチャーではなく、岡山南の加百ではなかったかな?
岡山南でこれをやったのは翌年の東森だったような気もして、おれも記憶が定かじゃないんだが。 >>823
何か記憶が曖昧だね。年は取りたくないものだ。東森といえば、報知高校野球で鼻の穴に500円玉が入るとか記事になっていたのを思い出すw 履正社を辞める岡田龍生って、あの泥んこ試合(東洋大姫路vs池田)の三塁手か。
初めて知った。最近の高校野球を観ていない事がバレる。 >>807
73年 飯田(銚子商)
75年 小川(習志野)
78年 菊池(印旛)
80年 高仁(農大二)
82年 日野(上尾)
84年 鈴木(明野)
86年 霜田(関東学園)
期待外れの投手、関東で多かった気がする。 吉田のドクターK(と当時は呼ばれなかったが)こと、宮下宗浩も前評判の割に大した
事がなく額面割れだった。 >>831
追加 75年 田村(小山) 東海大相模を抑えた下手投げだが天理にあっさり攻略された
82年 平沼(千葉商大付) も片鱗は見せたが期待外れ 75年選抜で最注目の投手は小川(習志野)と兼光(倉敷工)だった。小川はいいところなく
豊見城に攻略されて、また兼光は開幕試合で15失点の大炎上になり、額面割れ。小川は
夏に3試合連続完封したものの初戦で5失点、決勝で肩を壊し、投手生命はそこで終わり。 75年選抜のサンデー毎日の採点最高校はどこやった? >>834
807、831の文面の流れからして、選抜に限っての期待外れのリストだろうよ。 >>831
85小林(帝京)
86高村(宇都宮南)
87芝草(帝京)
この頃、秋は投手力が課題と言われたチームの投手がひと冬超え、選抜ですごい投手になっているケースも関東勢に多かった。 >>838
このカテゴリで一番はこの投手だろう
88小川(宇和島東)
出場校中最低の防御率の投手があれよあれよと優勝、しかも決勝戦は完封 >>836 サンデー毎日はチェックしていないが、本命が東海大相模、対抗が高知。
それに続いて習志野、倉敷工、報徳、池田あたり。組み合わせ抽選の後の毎日新聞
の4強予想で東海大相模、報徳と池田の勝者、高知の3つを的中。余り強いチームが
いなかった堀越が進出したブロックは掛川西だったような。この時は中京の評価も
それなり(剛腕といえば千賀もその一人と書かれていた)だったので相模のブロックに
強豪が集中した。その中でノーマークの豊見城が活躍した事が驚きだった。 >>841
堀越のブロックは加倉の柳川商を推していたと思う。
中京千賀についてはたしか「東海のキリン児」と書いていた。
第1ブロックは東海、中京、倉敷のゾーンはどこが進出してもおかしくない激戦区、強いていえば東海と予想している。もう1つのゾーンは習志野が総合力で上回り進出しそうだ、とあっさり書かれていたはず。 第66回大会(1984年)の鎮西って、
大会中に本部から厳重注意を受けたらしいけど、
そこまでマナーが露骨に悪かったの?
テレビ中継でも映し出されてた? 75選抜は波乱なしの大会やったんか・・。
開幕試合の中京と倉敷工の壮絶な打撃戦には驚いたけど。
この試合っていわゆる「バカ試合」の範疇に入ると思う?
両チームの四死球が異常な数だったとも思えないし、エラー連発もなかったように思う。
ただ試合の流れが両校で大きく入れ替わったような感じだった記憶がある。 >>844
75年の選抜といえばなんと言っても、開会式の朝に出場辞退を決めた門司工業(現:豊国学園)だろうね。
門司工は決して野球部の関係者が不祥事を起こしたわけでは無く、野球部員とは関係無い一般生徒2人が
住居侵入と婦女暴行未遂で逮捕されたというものだった。
当時は選抜出場校の出場基準に「学校の品位」という項目があって、事件を起こした門司工はこの項目に牴触
してしまい、出場辞退を余儀なくされた。
野球部の不祥事じゃ無かったから門司工は対外試合禁止の処分を喰らうことは無く、夏の県予選に出場したが
準々決勝で敗退してしまい、甲子園はならず。
「学校の品位」という項目はその後消滅したが、門司工業は不憫だったねぇ。 >>845
71年の選抜でも似たような事があった。出場が決まっていた北海が青函連絡船に
乗っている間に一般生徒の暴行事件が問題になって辞退に追い込まれ、青森でUターン。
代わりに芦別工業が出た。 >>845
門司工業の話は何度も出て来るけど、事件を起こした一般生徒の逮捕が開会式当日の未明だったんだっけ?
あれ、もしも逮捕が1日後だったら、いや、あと6時間くらい後だったら、開会式で行進したのに辞退ってなことになったんだろうか? >>845 門司工は本当に気の毒だった。もっと酷かったのは事件の被害者(加害者ではない)宅に抗議の電話が殺到したこと。
「選手の気持ちがわからないのですか」「どうして我慢しなかったのよ」
当時の週刊誌の記事に書いてあった。
加害者は60歳くらいになってるけどどういう人生送ったのかが気になる
高校は卒業出来たのかなあ?
補欠校の佐世保工業が開会式の日に長崎を出発して初戦の静岡高と対戦。善戦してた。
>>847 開会式の朝に旅館に校長がやってきて事件の顛末説明と辞退することを話していた
マスコミのフラッシュに晒されて号泣している選手が本当に気の毒だったよ。
加害者と同じクラスの選手もいたはずだけどその後どんな接し方したのかなあ >>847
私の記憶では当日朝、未明だったと記憶してます。
なぜなら、門司工業は前日の入場行進練習には参加してたから。
開会式の行進後でも、当時の佐伯天皇の時代では多分、出場辞退になってたんじゃないかと思う。
何せ佐伯天皇は不祥事に厳しく、連帯責任を厳しく問うた人だったし。
門司工の事件の後も、マスコミから連帯責任を重視しすぎじゃないかと問われても「私の目の黒いうちは今のやり方を
変えるつもりは全く無い。私がいなくなってから変えればいい。」と言い放ち、その硬骨漢ぶりは際立っていた。
佐伯天皇こと佐伯達夫氏は1980年に死去したが、佐伯氏の死後、連帯責任は時代遅れとばかりに、段々と
連帯責任が緩められていったのは、ここの住人なら皆御存知でしょう。
1986年の夏、全国大会の期間中に愛知県代表の享栄高校のベンチ入りを含むメンバーが、写真週刊誌「エンマ」に喫煙する
場面を掲載されて、世間と大会本部が上を下への大騒ぎになった事件があったが、あのとき享栄高校が出場停止にならず、
関わった部員をベンチ入りから外し、補充をしないという措置を大会本部と高野連が受け入れたのを見て、時代は変わったなと
感慨深く感じた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています