で、ソースがある話ということで、2000年6月1日号の週刊文春「家」の履歴書より
「高校に入ってからプロになることを意識してペンを使いはじめた」
「里中満智子さんが高校生漫画家として紹介されているのを見て、同じ賞に応募
ところが箸にも棒にもかからなかった」
「大学に行ったほうが描く時間があると思い、進学
在学中にプロの漫画家になるつもりだった」
「入学が昭和43年。COMの新人賞に入選して、最初の連載が決まったのが大学に入ってすぐ」
「連載が増え、地方ではやっていけないと痛感して、大学3年の5月に上京」とあります

実際には昭和44年(1969年)、COM系列「ファニー」誌の連載開始前に、読み切りが2作
講談社「なかよし」に掲載されています。おそらく持ち込みで評価されたのでしょうね
ガロではなくCOMを足がかりに大手へ、という戦略は正しかったと思います

ところで、アニメージュによれば、大学時代、周囲に「漫画家になりたい」といえば
「漫画を通して何をするんだ?」
「漫画なら、ラジカルな思想をもつ白土三平のような漫画を描け」と言われるなど
多くの課題を山積みされて、悩むあまり、作品を描けない時期もあったとのこと
従来の少女漫画とはちがうものを描かねば、という意識は、この時期に生まれたものと思われます
そして出会った萩尾さんこそ「学びたい相手」「理想の人」だったのではないでしょうか