【天才】橋本宇太郎【火の玉】
95年前の2月27日は橋本宇太郎先生の生まれた日です。
激動の人生を歩んだ宇太郎先生に付いて語りましょう。 >>257
マジですよ。
善悪を超える気合の一着という評価らしいです。
当時、東西対抗の意識が強く、相手を何するものぞ
蹴散らしてくれんの気合がみなぎっているさなかで行われた
という背景があります。
団体対抗戦で全員が第1手目天元だったということもあったようで
新布石時代と東西対抗の両方の空気が融合してできた棋譜なの
かもしれないですね。
詳しい方補正をお願いします
読売新聞社主催の名人戦解説会で橋本師が語ったのですが、
第1期名人戦創設のとき、第1期の名人は呉清源さんを置くべきだと
主張されたそうです。当然日本棋院や新聞社の思惑があり、
実現は難しかったのでしょうが、橋本先生らしいお話でした。 日経の縮刷版を調べていたら宇太郎先生の人物評を
宮下秀洋プロが書いていた。前半はよくある「勝負師宇太郎」
についてなのであまりおもしろくなかった。
後半が興味深かったので紹介する。
九段は趣味人でもある。いっしょに虎ノ門アパートにいたころ、
橋本さんはよくあきもせずにコーヒーをつくった。ブラジル、モカ、
ジャワなどを調合して、天下一品、独特の風味をもつコーヒーをつくった。
それは街の喫茶店のものとくらべて段違いにすぐれていた。その
コーヒーづくりの先生といっしょにいたから、しぜん私の腕も
免許皆伝になった。それほど彼は納得のいくまで研究する一面を
もっている。ついでだが、そのアパートは女人禁制、四畳半という
よき時代の庶民向きの建物で、私はそこで初段になり、橋本さんは
五段になった。
彼はまた純情情熱の人である。同じアパートにいたころ、京都の
吉田操六段の内弟子であった現夫人と恋愛していて、京都へ行く
ときの楽しそうな様子、帰ってきたときの物足りないような素振り、
郵便受けの木箱からはみ出している恋人からの手紙をふところに、
急いで自分の部屋へ帰ったりするところなど、まさに人間味たっぷりの
橋本さんである。勝負師としては最高である九段の地位にあるが、
ほかの道を選んだとしても、現在に近い大成ぶりを見せたのでは
なかろうか。
>>6にも書いてあるが、
先生は夫人とコーヒーを飲んでいるとき、胸部大動脈瘤破裂でお亡くなりになった。
>>261を読んだとき、「好きなもの二つのそばでおなくなりになるなんて
幸せな死に方だったんだな」と感慨深かった。 東野某氏ね
お前が監修した宇太郎の詰碁集
答えどころか問題まで間違いだらけじゃないかよ
引退して反省してるつもりかもしれないが
絶対許さないぞ
同じ詰碁作家として故人の宇太郎に嫉妬したからか
わざとやったんか畜生 >>264
何ていう本ですか。私も詰碁歳時記とか奥の細道とか東海道五十三次とか
中仙道やってるので、教えてください。 >>264-265
「100万人の詰碁2 橋本宇太郎」講談社
ですね。
264さん、具体例を挙げて説明して頂けると
うれしく思います。 秀行師だったか、
「橋本さんは鳥のような華麗なサバキ、
梶原さんはキリでねじ込む徹底的なサバキ、
木谷さんは巌のような磐石の石サバキだった。」
と言ってたなあ。
どんな碁が頭にあったんだろう。 >>274
堪忍してください、許してください。 <火ダルマ秀行 >>265
>>266
「風と刻」だよ、知らない?
当時は激情に駆られたが全部やってみるとやさしくて面白い本ではあった
しかし残念は残念だ、悪い弟子を持って あまり言いたくはないが・・・・・
戦時中に本因坊に就位したとき
正当な挑戦権をもっていた木谷実の挑戦に対し
法外な対局料を言い立てて
木谷師の挑戦から逃げつづけたのは
いかがなものかとオモ。
生涯の汚点だと思う。 詳しく!
関西棋院地盤固めのための時間稼ぎだったのではないか知らん? >>281
戦時中の話だから関西棋院云々とは違う。
本因坊昭宇は通算三期在位。
一期目が戦時中の原爆直下の本因坊戦の時期
その後間をおいて二、三期目が関西棋院設立の前後。
んで挑戦忌避騒動が起きたのは戦時中。
当時の師の所属は日本棋院で関西棋院はまだ存在しない。
かろうじて方円社の残党が残っていたくらいか?
当時の本因坊の任期は二年制で変則だった。
さらに変則な規定があり任期の途中で挑戦手合次席者(?)の
認定挑戦権者はタイトル挑戦手合を申し込めるという規定があった。
只この挑戦手合規定には細則がなく対局料などの手合にかんする具体的な手続き規定がなかった。
挑戦権者であった木谷師が挑戦を申し込むと本因坊はその権威を根拠として挑戦者側に莫大な対局料を要求した。
両派それぞれ主張し論争となったがあまりに多額であったために木谷師は対局料を用意できず
本因坊サイドは一歩もゆづらないで
結局挑戦手合は実現しなかったそうな。 「木谷師は対局料を用意できず」というところに引っかかりを感じないか?
対局料は主催の毎日新聞が出すべきものだろう。
昔の棋戦は興行の色彩が強く、いい加減な運営をやっていたのだ。
当人にとってはいい迷惑である。様々な対抗措置を取らざるを得まい。 >>283
いやだから天下の毎日新聞でも用意できないほどあまりに法外な額だということさ。
そして木谷師の後援者にも用意できる金額ではなかった。 例えば戦後の本因坊任期短縮のように挑戦手合が後からいきなり相談無しで決められたって話しなら
確かにそうだが>283
挑戦手合いについては事前に規定されており木谷師に正当な挑戦権があるのは自明のことだった。
しかし本因坊は実現不可能な対局条件を提示して一歩も譲らなかった。
用意可能な対局料で妥協するとかいう対局へむけて譲歩する姿勢は本因坊にはなかった。
「ビタ一文欠けても対局しない」などとという姿勢をとったんだ。 >>283
逆じゃね?木谷師が用意できないのを見越して
新聞社じゃなくて木谷師が対局料を用意する方向にわざわざもってんたんじゃね? 正式な挑戦者でもないのにふざけんな、ってことでしょ。別におかしいことじゃない。
で、木谷がルールにのっとって、挑戦権者でもないのに挑戦したのに対し、
橋本もルール(厳密には規約の盲点)にのっとっての結果的忌避は無問題。
規約がそもそもおかしいし、そのおかしい規約を使って、本来なくてしかるべき権利を主張するわけだから、
本来なくてしかるべき理由で忌避するのはいい対抗手段だと思う。いわゆる意趣返しだな。
全然恥でもなんでもない。むしろひねった賢さを感じて痛快。
それよりも、ごしっぷですらない60年以上も前の出来事に対し、さもゴシップであるかのような書き込みをする
ほうがよっぽど品性よろしからずだな。 俺に言わせれば木谷も橋本も偉大だし、
聖人なんていないんだから今となってはどうでもいい。 >>287
寝言はやめれ木谷師は当時の規定にのっとった正規の挑戦権者だよ。
「正式な挑戦権者でもない」だなんて嘘はやめれ。
当時の規定上木谷師に挑戦権があるというのは誰もが認めてた。
本因坊側でも木谷師の挑戦権自体は否定していなかった。
>本来なくてしかるべき理由で忌避するのはいい対抗手段だと思う。いわゆる意趣返しだな。
>全然恥でもなんでもない。むしろひねった賢さを感じて痛快。
棋士ならば盤上で決着をつけるべきだろうに・・・・
あんた何いってんだ?
例えば日本棋院対関西棋院のような、組織対組織のような話なら
盤外での戦術もありだろうがね。棋士対棋士はそうじゃねーだろ。
マンセーばかりじゃ贔屓の引き倒しだぞ。 棋士対棋士の勝負であっても盤外で勝負の駆け引きが行われることもある
但しそれはあくまでも盤上での勝負があってこその話しだ。
盤上で勝負してこそ棋士だぜ。
盤上での勝負を避けるために盤外で戦術を駆使するというのは棋士としてはいかがなものか?
大体がこの話しについて橋本氏が回想録などでも多くを語らなかったというのは
内心忸怩たるものがあったと思われる。 木谷が挑戦手合い申し込みできたのは確かだが
橋本がそれを受けなければならないという規定がなかったのも事実だな
ちなみに橋本がそのときに要求したのは3万円(当時)
だいたい正式な挑戦者なら打たなかった橋本を不戦敗に出来るだろう
木谷が申し込んできたときは打ってやろうと思ったが戦時中だしやっぱりメンドクセとでも思ったんじゃない
またまた寝言ですか?>292
まるで巨人の空白の一日のような主張ですね。
贔屓の引き倒しはやめなよ。
>木谷が申し込んできたときは打ってやろうと思ったが戦時中だしやっぱりメンドクセとでも思ったんじゃない
今まで星勘定が悪く挑戦者決定手合で偶々勝ちを掴んだ本因坊が
今度やれば負けるかも?と考え対戦を忌避したってのが定説。
>>293
どうせ負けるから打つのメンドクセって思ったってことだよ
戦わなくてもいいときに戦えば紛れを増やすだけ、むやみに戦えばなんとやらだ
碁ではそう教えられるだろうに
ttp://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n19540607
『橋本詰碁傑作集』 誠文堂新光社 昭和42年 現代の棋士とどちらが強いのかは知らん。
けれど、時代を創ったこういう人たちには敵わんと思わせる凄みがある。
碁の勝負とは関係ないことなのか、勝負の本質に関わることなのか。 関山利一が一期本因坊になり、それに橋本が挑戦したのだが、
関山が体調の問題で一戦ほどしか打てず不戦敗となった。
関山の弟子の梶原が自分が打って勝ったら師匠の体調が
よくなるまで待ってくれとか言ってたのだが、
橋本が本因坊となったわけだ。んで木谷も兆戦を申し込んだ。
で上にも書いてあるように、規定などがなかったことから
橋本は5万の対局料を要求し、それを全額軍に寄付すると主張。
しかしまあその後第三期本因坊戦の正規の挑戦者である岩本薫とは、
毎日新聞が戦争で碁どころではなく、まったくバックアップしなかったのに、
師匠の瀬越と一緒に兆戦手合を実現させたわけだ。
そこで原爆下の本因坊戦というようなことになった。
とまあそんなこともあるから、木谷が申し込んだのは
関山の不戦敗のこともあってなのかもしれんし、
それなら受けることはないという考えだったのかもな。 冬の手合日、外の雪を見て橋本(宇)、
「そういえば二・二六事件の日もすごい雪でしたねえ」
「・・・」 (さすがに相槌を打てる者がいない。)
橋本、苦笑して(or何事も無かったように)目を盤面に。 今月はじめ、原爆下の対局の対戦相手である岩本薫先生の記念碑の除幕式が、岩本先生の出身地益田市で行われたそうです。橋本先生の記念碑とかはないんでしょうか。ご存知の方は教えてください。お願いします。 橋本宇の場合は関西棋院という記念碑もあるが。(「碑」はまずいか?) 「棋士の記念碑は残された棋譜。」
なるほど、含蓄のあるお言葉です。
さて、橋本先生の名局といえば、やはり昭和18年の呉清源師との三番碁の白番
持碁の譜でしょうか。本因坊戦ご本人もそのように言われてるようですし。
皆さんはいかが思われますか。
橋本先生生誕99周年&スレ立て四周年記念上げ
山田虎吉を覆面子に推薦したのは橋本宇太郎先生だったそうな。
虎吉の息子が将棋世界で語っていた。 橋本宇太郎先生の生誕99周年を記念して漢詩を作ってみました。
題昭宇先生 昭宇先生に題す
火玉轟音遭護灯 火玉轟音に遭うも灯(ともしび)を護り
昇仙清項安西方 昇仙に項(うなじ)を清めて西方を安んず
雨洗風磨芸神授 雨に洗われ風に磨かれし神授の芸(わざ)
米寿至巧千載光 米寿に至る巧(たくみ)は千載に光(かがや)く
漢詩の心得のある方は添削していただければ幸いです。 「本因坊秀策ドラマ化」という板がありますが、本当でしょうか?
宇太郎先生+鈴子夫人ならエピソード満載で朝ドラで半年くらいでも
できるのに。(日本棋院が賛同するとは思えませんが。) 囲碁関西の懸賞詰碁で囲碁関西賞に当選しました。
送付されたのは、橋本師の直門中最年長の現役棋士宮本直毅先生の扇子
でした。関西棋院が現存しているのも宮本先生のご尽力あればこそと思い
大切に使わせていただこうと思います。
その宮本先生を棋道に導かれた橋本師の功績に改めて感謝します。 宮本直毅も棋院運営には活躍したが、実績が今一なんだよね。 >>313
囲碁関西五月号で本田邦久九段が棋聖リーグに復帰して「不死鳥」とありま
したが、宇太郎先生は74歳で本因坊リーグ入り、七十台前半でも名人リーグ
で残留ですから、不死鳥以上でしょう。「怪物」としか言いようがない。
さて、この高齢リーグ入り記録は破られたのでしょうか。
これから岩田達明が破る、と面白いんだが。じゃなきゃ竹林本田を待つしかないな。 なにしろ棋聖戦の第1回目の頂上決戦が藤沢秀行と橋本宇太郎だからねぇ。
おふたりには本当、頭が下がります。
>>316
敗れたとはいえ、七番勝負のときおん歳69歳。
七番勝負(というかタイトル戦)登場最高齢記録を破るのは、竹林?
小林・治勲?イ・チャンホ?etc
さあ、誰か。予想してみましょう。 イ・チャンホとかは、若い時期に打ちすぎで。年取ったら無理だろう。
大竹名誉碁聖とかが長持ちしそうな気がするが。 今月の碁ワールドは宇太郎先生が3つの記事に登場しています。探してみて下さい。 >>320
棋譜の出ていた2つの記事はわかりましたが、もう一つはどこですか? >>321
フリガナがいっぱいのページです。
宇太郎先生の詰碁集で分厚いのって有ったかなあ? 読売新聞西部版で掲載されていた「橋本囲碁講座(橋本宇太郎講座に改題)」
は、昭和28年から平成6年まで12,651回にわたり連載されました。
亡くなられたときもストックがあったので、9月20日頃に終了しています。
連載1万回記念の出題で、正解者のうち、10名に揮毫色紙、30名にサイン
入り書籍が贈られるとのことで応募したところ、幸いにも揮毫色紙をいただく
ことができました。おそらく直筆だと思います。
「風と刻」によると橋本宇太郎講座1万回記念の祝賀会が昭和60年となって
いたので、先生78歳頃のものかと思います。 へえ、大阪版だけじゃなくて西部版にも掲載されてたんですか。知りませんでした。 宇太郎先生のひそみにならってか
関西棋院の男どもは女子院生に手をつけて
(それはいいんだが)院生をやめさせて嫁さんにしてしまう。
今村、湯川、森山、そして結城。勝間っていう無名プロもそうだ。
楊嘉源や黒滝正憲を見習えよ。
小林礼子・泉美の場合は院生の時から付き合っていたわけではないから。 鈴子夫人は入段してたはず。秀哉名人も入った入段披露式の集合写真を見た覚えがありますが。 そうか。
昨日たまたま日本囲碁規約を参照する必要があって
冒頭の
「財団法人日本棋院 理事長 朝田 静夫
財団法人関西棋院 理事長 橋本宇太郎」
の名前を何ともなしに見つめていたんだが、
命日だったのか。(合掌 ちなみに、61年前の今日、第三期本因坊戦第1局が終わりました。(白番岩本七段の五目勝ち)
同じ日に米軍の偵察機が撮影した広島市の写真があります。
第1局の対局場であった広島市中島本町の藤井氏の別邸も写っています。
この写真が撮られたとき、この建物にいた人たちの運命が12日後どうなったか
瀬越師、岩本師、橋本師は、見るに忍びない写真かも知れません。
棋士は認知症とかにはならないんだろうな。
でも、高血圧(例:木谷九段)とか脳血管疾患(例:橋本九段)とかには弱そう。 >>335
>棋士は認知症とかにはならないんだろうな。
根拠なさそう。
でも宇太郎先生がかくしゃくとしたまま逝かれたのは
本当にあの人に相応しいと思う。 認知症の始まりは頭を使うことを放棄した時からと言われてるので、
囲碁を続けてる限りはその確率は低そう。 中沢彩子(現姓池田)のホームページ(今は消えてる)によると
黒田幸雄さんは晩年ボケてたらしい。
石田章を破って棋聖戦七段戦に優勝したこともあるのに。 座隠談叢の棋士列伝によると対局中に昏倒して死んだ棋士が何人かいる。 対局中に具合悪くなって、事実上引退した後に亡くなったと記憶している。 棋士じゃないけど、竜騎兵も原稿書きの最中に発症し、
右手が利かなくなったんで左手で書き上げて、それから
病院行ったけど、っていうんじゃなかったっけ。
対局中の棋士が脳味噌の使いすぎで逝ってしまうというのとは
違うだろうが壮烈だな(合掌 棋道の昭和26年7月号を古本屋で買いました。(定価80円が500円でした。)
第6期本因坊戦1〜3局の解説を安永一さんが書いていました。ただ、棋譜が漢数字なので少々読みづらい。
第5局の「鬼の写真」も載っていました。できれば8月号も欲しい。
祝!生誕99年11か月(来月は生誕100年)
囲碁関西2月号に、宇太郎先生のことがちょこっと載ってました 祝!生誕百年。
>>346
普通、生誕100周年とは言わないでしょう。会社の創業とか団体の設立なら、○○周年といいますけど。
しかし、零時1分に書き込まれると、なかなか先手は取るというわけにはいきませんね。 モーツァルト生誕250周年
去年、よく見た記憶があったのでぐぐってみた
「周年」も使われてますね >349
確かに言うよな。頭痛が痛くないとか言うもんね。 百回忌は死んでから100年目(死んだ年の99年後)なのでまだ数十年先 しかし関西棋院は生誕100年イベントをする気はないのか? 「総帥」の肩書きは未だに使用されています。
橋本師の一生はまさにドラマですから。 補足
橋本師(又は鈴子夫人)を主人公にして、朝の連続テレビ小説やったらいいのに。
大恋愛で五段昇段が遅れたとか、原爆対局とか、関西棋院独立・昇仙峡の大逆転・
63歳十段獲得・第一期棋聖戦七番勝負登場とか、見所満載だと思いますけど。
原敬暗殺現場に立ち会ったなんて、フィクションを完全に超えてますよね。 朝の連続テレビ小説って、若い妙齢の女性が主人公と相場が決まってるんじゃないの? >>355
過去に男性主人公もの(「走らんか」とか)あったと思いますが。
やっぱり妙齢の女性主人公ということで、鈴子夫人を主人公にした方がよいでしょうか。 宇太郎先生の場合、生涯の1局て決めにくいよね。
原爆下の対局、昇仙峡の大逆転、本因坊防衛の局(賢島)、第十期十段獲得、第一期棋聖戦第二局、
最年長リーグ入りなど。橋本先生自身は、昭和18年の対呉清源白番持碁の局をあげて折られるけど。 橋本先生のスレがあったとは!
先生が趙vs片岡の本因坊戦の解説をされているところに偶然行き合わせ
高齢にもかかわらず矍鑠した姿と手の見えることに感心したのですが、
それから数ヶ月で亡くなったと知り今でも不思議な気がします。
死因は何だったのでしょうか・・・