【天才】橋本宇太郎【火の玉】
95年前の2月27日は橋本宇太郎先生の生まれた日です。
激動の人生を歩んだ宇太郎先生に付いて語りましょう。 >>157
普段苦手としている相手に急所で勝っているところが
橋本先生の勝負師といわれる所以
例1・先生は木谷実には相性が悪かった(戦後はコミ無し黒番以外以外では
ほとんど勝てなかったぐらいだ)。しかし、第二期本因坊戦で勝った方が挑戦者
の一番で木谷に勝ち挑戦者になった。関山の体調がおかしいことは二人とも
知っていただろうから双方とも「これに勝てば本因坊だ」と意識しながらの
対局だろう。そういう碁に勝てるところが橋本先生らしい。
例2・大竹英雄にはダブルスコア以上で負け越しているらしい。
しかし、第九期十段戦五番勝負と第一期棋聖戦最高棋士決定戦準決勝で
勝っているから大竹より弱いという印象はない。 (;FF[3]GM[1]AP[PocketGoban Ver 0.999]SZ[19]PB[橋本宇太郎]BR[七段]PW[木谷實]WR[八段]
TM[36000]DT[1943-03]EV[第二期本因坊戦]RO[リーグ]RE[251手完 黒三目半勝ち]SO[go base org]KM[4.5]
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(;FF[3]GM[1]AP[PocketGoban Ver 0.999]SZ[19]PB[橋本宇太郎]BR[九段]PW[前田陳爾]WR[九段]
TM[21600]DT[1975-02-13]PC[関西棋院]EV[第1期天元戦]RE[169手完 黒中押し勝ち]SO[gobase.org]KM[5.5]
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前田先生は1975年7月3日死去、享年68歳。
>>25
「藤沢(朋)との手合い(王座戦)が(昭和四十七年)七月二十七日、関西棋院であった。
その日の朝、瀬越が自宅で自殺していたのが発見されていた。対局直前、日経の記者を
別室に呼んで、瀬越の死を知らせ、「しかし、このことは藤沢さんには言わないように。」と
念を押した。藤沢の心情に波紋を起こさせないようにとの配慮である。藤沢は翌日東京で
瀬越の死を知った。
その碁は白番の橋本が八十八手で黒を潰した。」
この年、橋本は王座戦の挑戦者になった。
王座戦本戦トーナメントのベスト4に橋本と呉清源が勝ち残ったのは
瀬越師の自殺と無関係ではあるまい。 (;FF[3]GM[1]AP[PocketGoban Ver 0.999]SZ[19]PB[藤沢朋斎]BR[九段]PW[橋本宇太郎]
WR[九段]TM[21600]DT[1972-07-27]PC[関西棋院]EV[第20期王座戦]RO[本戦一回戦]
RE[88手完 白中押し勝ち]SO[日本経済新聞縮刷版]KM[5.5]
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観戦記より
15は32の方がよい。
25は27が要点、コスんだなら27は34であるべき。
「『35では36とアタマをたたきたかった』といったのは
新進気鋭の少年棋士趙治勲五段である。」
57は60にとんで84と天元を見合いにするくらいのもの。
68は当然とはいえ好着。70、72は巧み。74が痛烈。
65では74か77しかなかった。
85は投げ場を求めた。黒11-2と連絡しても白15-14とかかえられると
黒は右上を生きなければならず、中央の黒が薄くて勝負にならない。 図書館に戦前の「家の光」が所蔵されていたので橋本先生の詰碁を調べてみました。
>>141-143の通りだとすると連載は1931-32年の頃から始まっていることになるの
ですが、図書館にある一番古い号が1932年で、その詰碁欄には「出題 西川覆面子」
とあります。1934年9月号から1935年6月号までは欠号で、1935年7月号からは
すでに「出題 五段 橋本宇太郎」とあります。肝心なところがわからないわけです。
戦前の詰碁・詰将棋・詰連珠の掲載は1943年3月号で終わり。橋本先生が本因坊になる
直前のことです。戦後しばらくは詰碁欄がなく、再開したときは橋本先生担当ではあ
りません
詰碁の連載は「十数年続いた」とありますから、この「西川覆面子」が橋本先生
に詰碁の代作を頼んだのではないかと推測します。 今日早朝のテレビで昇仙峡を紹介していました。
当然ながら本因坊戦についてはまったく触れませんでした。
岩がごつごつしてるところですね。 ∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉 ∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉 晩年、新聞の囲碁欄に
「橋本先生に全盛期の7〜8割の力が残っていれば
楽にリーグ残留してるだろうに」
というような棋士のコメントがあった。
リップサービスだったのか、本音だったのか。 囲碁関西に載ってた橋本先生の言葉
「勝負は家を出るときには決まっている。
後は神様が盤上に再現されるだけ」 miya本人です^^;
この場を借りて自己紹介させてもらいます。。。出身は山口・・
彼女いない歴23年、趣味は勿論将棋、後は喧嘩と酒とオナニー
自慢は屋敷プロに平手で勝った事です・・・屋敷さんのファン
には悪いけど棋譜は随分バラマキましたよ 事実なので。。。
俺様は金かかってもいいから絶対結婚したい^^;
子供も7人以上ほしい。中出し、できるだけたくさん
したいもん・・
子供も好きやけど。。まだ童貞なんだ・・
好きな言葉は 脳みそぐつぐつ ですね ^^;
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄ 近日
昭和40年、本因坊戦挑戦者決定戦で山部俊郎に負けた碁をUPします。 (⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン (;FF[3]GM[1]AP[PocketGoban Ver 0.999]
SZ[19]PB[山部俊郎]PW[橋本宇太郎]
TM[32400]DT[1965年]
EV[第20期本因坊戦]RO[プレーオフ決勝]RE[233手完 黒中押し勝ち]KM[4.5]
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;B[mm];W[rj];B[ll];W[nl];B[on];W[nq];B[mp];W[rp];B[oo];W[pp]
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橋本先生の打ち碁の解説でよく出てくる言葉
「当然だが、好手」
当たり前のことが当たり前にできるのが鍛え抜かれた芸というものなのかな。 六十歳を過ぎてから番碁に6回出たのは誰にも破れない記録だろう
(十傑戦2回、十段戦2回、王座戦・棋聖戦各1回)。 早見えであっさりしていて体が弱くて詰め碁作りが得意―
若き日の宇太郎先生は井口豊秀(旧名秀一郎)みたいなもんだったんだな。
何が宇太郎先生を重厚な存在にしたんだろう。 そういえば、宇太郎九段の詰碁歳時記がCDで復刊されるみたいだな。
12月10日といえばもうちょっとか。
http://www2.tky.3web.ne.jp/~igodata/
一応お試し版をダウンロードしてみたけど、良さそうな感じではあるね。
色紙とかは、もう関西棋院にもないし、付録にも興味がそそられるわ。(^^;) 読売新聞の囲碁観戦記者が覆面子を名乗っていた頃
二代目覆面子は『西川』という人だったらしい(「囲碁」二月号による)
「西川覆面子」とはこの人のことだろうか? 西川勉氏が覆面子だったのは短期間だったらしい。
その期間が知りたい。 どうも調査ミスがあったみたいです。
戦後も橋本先生が詰碁欄を担当しているようです。
もう一回調べなおします。 ワシはこのぢぢいの本で碁を勉強した。
ともかくひたすら数多く練習問題が並べてある本で
読みやすかった。なつかしいな。 昔の詰め碁の本は1ページに2問出題されてるのが多い。
これはなんでですか?見にくいのに。おしえて古い人。 >>211 それがいいんだよ。一冊にたくさん問題があって得した気分。
うたろうの本は、読みにくさを解決している。最初は上段
だけを説いてゆく。そして、最後まで読んだら、ひっくり返すと
そこから続きが始まっている。そして最初のページまでもどって
くる。これを読むと、最近の一問一ページは、もったいない
かんじ。 74歳で本因坊リーグ入りを決めた一局
(;FF[4]EV[第37期本因坊戦]RO[三次予選決勝]PB[橋本宇太郎]
PW[石田芳夫]KM[5.5]DT[1981-10-29]RE[235手完 黒中押し勝ち]
TM[21600]
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;B[po];W[rl];B[om];W[qm];B[no];W[jn];B[in];W[im];B[jm];W[jl]
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;B[op];W[jn];B[dh];W[bi];B[jm];W[oc];B[hm];W[od];B[mj];W[lk]
;B[jk];W[lj];B[li];W[ki];B[lh];W[jj];B[jg];W[nl];B[ok];W[jh]
;B[kg];W[ih];B[pc];W[ob];B[pb];W[pe];B[rd];W[re];B[qd];W[ne]
;B[hg];W[mk];B[kl];W[ll];B[ro];W[rn];B[sn];W[rm];B[nj];W[kp]
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;B[sd];W[ra];B[qb];W[na];B[jb];W[or];B[fe];W[ig];B[he];W[pr]
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;B[an];W[ao];B[am];W[bo];B[ij];W[hh];B[gi];W[gh];B[fi];W[cj]
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;B[lf];W[ak];B[bk];W[aj];B[al];W[ab];B[aj];W[mh];B[ld];W[ec]
;B[eb];W[ee];B[ps];W[fb];B[gb];W[hi];B[hj];W[nq];B[mp];W[gg]
;B[hf];W[fd];B[ed];W[pk];B[ef])
>>217
感動の内容を具体的に書いていただければ
リーグ入りを決めた37期本因坊戦三次予選の
残り2局の棋譜も譜起しするかもしれません。
気分が乗れば観戦記の解説付きSGF譜を作ります。 「関西棋院の棋士やファンはたいへんな気の落としようであった。この七番勝負について、
前後二百通ぐらい手紙をもらったが、三対一に追い込まれたときには、もう勝負はどうでも
いいから立派な碁を打ってこい、関西棋院の将来などは頭の中から拭い去ってしまえ、
それは勝負が終わってから、改めて考えるべきことだ−というような手紙が多かった。」
−「囲碁専業五十年」
甲府昇仙峡で打たれた第五局。この一局に勝てばいよいよ本因坊だという意気込みの坂田
であった。坂田のファンは祝宴の用意までしていたのである。二日目の午後になって局面は
急迫していた。凄まじい気魄が対局室に満ちていた。
そんなとき新聞社のカメラマンが対局者に気づかれないように写した写真がある。橋本と
坂田が体を乗り出して盤面を凝視している姿が暗黒の中に浮かんでいる。不気味な殺気が
画面から溢れるような写真である。「赤鬼と青鬼の写真」といわれるものだが、これが有名に
なったのは、写真が対局室の凍りついたような空気を写し出していたからである。凄まじい
勝負であった。 −講談社「大系」・下 >>222
気持ちは分からんでもないが、
イラネーヨ。 最近の関西棋院の大物は挙動不審結城に往生際が悪い昌二・・・
瀬戸に期待。 あんまり先輩の話はいいたくないのだが、この人は呉清源さんと比肩されるだけに、
とても華麗な冴えた碁である。気合いの碁で、年齢の限界にきかかっている人とは
思えないくらいだ。いまでも一番勝負に強く、それには敬服させられるが、もう
持久力はなくなっている。 (坂田「勝つ」1965)]
1965年より後の実績は年齢の限界での余韻に過ぎないのかw(ちょっと意地悪に 詰碁の数は賞賛されるが、あまり質についての賛辞は聞かないな
自分は好きだけど >>229
>>141-143をお読み下さい、参考になれば幸いです。
つまり難解ものはほとんどどっか行っちゃったと?
あーあ 今日は命日、没後十年。
関西棋院、何か記念事業しろよ。 一度見聞きしたことは忘れない記憶力の持ち主が
原爆の惨禍を目の当たりにしたのだからたまらない。
毎年夏になると原爆症になったというが、今で言う
PTSDだろうな。 関西棋院大手合が終了した。
主催紙の大阪新聞と産経新聞に
宇太郎先生は大変な恩義を感じておられたそうだ。
もう大阪新聞は無い。 今日、教育テレビで将棋を指していた人は
この方の親戚でつか? リクエストしてくれ。
1975年以前のものだったら橋本宇太郎全集を図書館で調べてくる。 加藤正夫先生の訃報に沈んでいる。
平成16年12月30日12時33分、脳梗塞および合併症のため逝去。享年57歳。
その中で宇太郎先生の生涯が頭をよぎる。
名勝負、名棋譜、棋院創設、長寿、最期の風景。
なんて別格の人だったんだろうと。
加藤先生にもこの運があればと。 橋本先生も呉先生との十番碁の打ちかけの夜に大阪から
棋院運営に関する電話相談があったりした。
67歳で名人リーグ入りを果たした碁の観戦記を調べていたら
「終局直後、役員棋士たちが先生のもとに駆け寄って運営の相談を
始めた」とあった。
加藤先生より過酷な状況にあったことは間違いない。
宮本直毅九段が、お伴の旅の宿でふと話しかけられた中での人物評の部分を
回想〜列記した文章が、『橋本宇太郎の世界』にありました。
--------------------------------------------------------------------------------------
呉 清源
石の運びは一見平明に見えるが、状況によっては疾風迅雷、一刀両断のすごみがある。
一局のうちこちらのヨミにない手を必ず打ってくる。彼の宗教にうちこむはげしさと
ともに碁に対する執念が神仏のように迫力があった。彼こそ昭和の棋聖であり、名人
である。もう一度十番碁を打ってみたい気がする。
木谷 實
正確無比のヨミでしかもねばりづよかった。私とはまったく正反対の棋風。名人に
なれなかったのが不思議なくらい。もっと時流にあわせてさらさら打てばタイトル
くらい楽にとっていたと思う。碁の癖があり凝りすぎるところがあった。しかし
それが囲碁三昧かもしれない。
関山 利一
父君の盛利氏が熱心で私も可愛がられた。その縁で私が二段の時、盛利氏のたのみで
利一氏と七子で打ったが、翌年は三子になり、さらに一年後には二子で打った。
大変な棋才の持主だった。はじめは守勢一辺倒の碁だったが、四段の時から攻めに
重点をおくようになり、一挙に超一流の域に達した。彗星のごとく現れ消えていった
天才。
岩本 薫
小川のせせらぎのようにさらさらと打ち、また大地にぱらぱらと種をまくように打つ
といった調子でつかみどころがない。そうかといって安心しているとぱっと襲って
くる。飄々としていて油断のならぬ碁である。私の苦手である木谷九段には、めっぽう
強かったようである。
高川 格
平明流というか水の流れるような決して無理のない碁。形勢判断に明るく自分から
仕掛けないから私には調子のあわないところがあった。コミ碁というものに新境地
を開拓したように思う。
藤沢 朋斎
山を抜くような剛力。ツボにはいると手がつけられない。私もよくおしつぶされた
が、強いだけにちょっとリズムが狂うとすきができる。碁はヨミと力だけでは制し
きれないほど広く深いのである。
坂田 栄男
カミソリといわれるくらい鋭い切れ味は比類がない。私とは波長が合い、打って
いて碁の琴線にふれるようで楽しかった。昇仙峡の一局は、敗色が濃かったが、
相手にあせりのようなものがでて助けられた。七局目の賢島で私に勝運が傾いた
が、坂田九段が局後帰りぎわにあいさつにみえ、その姿にさわやかな印象を受けた。
半田 道玄
柔軟性にあふれた碁で盤上を宇宙とみて思考をこらすといった具合に、高僧の
風格があった。ふわふわとしているかと思えばどこまでもくねくねしているところ
があり、石の流れの裏に粘着力があった。もう少し長生きをしてほしかったが、
碁に燃焼しつくしたという感じで、すばらしい棋士であった。
山部 俊郎
才気煥発型で変幻の妙という点では注目に価するが、時にむら気があり損をして
いるように思う。この人に執念とねばりというものが加わっていたらと惜しまれ
る。
藤沢 秀行
独創性にあふれ棋才という点では古今比類のない大天才だと思う。彼より強い人
はいっぱいいるが、作品という見方からすると彼に及ぶものはめったにいない
のではないか。要するにひらめくのである。
林 海峰
勝つための条件であるヨミ、粘着力、形勢判断などどれをとってもバランスが
とれている。碁盤全体で打ってくるという感じで、スケールが大きい。
大竹 英雄
名人中の名人である。どこから突いてもスキがない。ただ気になるのは大竹美学
とかいわれているが、碁に美学などあるはずがない。盤上には勝負があるだけで
ある。もっと鬼気というものがほしい気がする。
>>244-247
乙。
一流を表現できるのは一流のみということか。
関山師の上達の様子は初めて聞いた。
秀行師の批評に唸った。 呉の「疾風迅雷」、高川の「平明流」、山部の「変幻」なんてのは誰がつけたんだろう。
みんな宇太郎師のこの批評からというわけじゃないだろうし。
「呉は疾風迅雷、坂田は快刀乱麻」なんてフレーズ格好いいよなあ。 呉清源師の自伝映画では、誰が宇太郎師役をやるんだろう。 >>240
リクエストしてみる。
関西棋院の存亡をかけた昭和最大の名勝負の棋譜をぜひ。
1譜だけというなら、カド番で勝利した棋譜をぜひ。。。。
>>252
ちょっと横着させてもらって棋譜ファイルのあるページを紹介します。
http://homepages.cwi.nl/~aeb/go/games/games/Honinbo/
ここの Hon-1951-1.sgfからHon-1951-7.sgfまでが宇太郎−坂田の
七番勝負の棋譜です。 >>252
どうもありがとうございます。
ほかにもいろいろあるんですね。
おいそがしいところ、ありがとうございました。 >>253のまちがいでした
すみません。
ではあらためまして、
>>253さん、どうもありがとうございました。 野沢竹朝が序盤で工夫しない橋本少年を一喝したのは有名だが
知人に将来性のある若手棋士を聞かれ、「橋本少年はものになります」
と回答していたのはあまり知られていない 初手天元を打たれた時にすぐに空き隅確保するのは素人 >>257
マジですよ。
善悪を超える気合の一着という評価らしいです。
当時、東西対抗の意識が強く、相手を何するものぞ
蹴散らしてくれんの気合がみなぎっているさなかで行われた
という背景があります。
団体対抗戦で全員が第1手目天元だったということもあったようで
新布石時代と東西対抗の両方の空気が融合してできた棋譜なの
かもしれないですね。
詳しい方補正をお願いします
読売新聞社主催の名人戦解説会で橋本師が語ったのですが、
第1期名人戦創設のとき、第1期の名人は呉清源さんを置くべきだと
主張されたそうです。当然日本棋院や新聞社の思惑があり、
実現は難しかったのでしょうが、橋本先生らしいお話でした。 日経の縮刷版を調べていたら宇太郎先生の人物評を
宮下秀洋プロが書いていた。前半はよくある「勝負師宇太郎」
についてなのであまりおもしろくなかった。
後半が興味深かったので紹介する。
九段は趣味人でもある。いっしょに虎ノ門アパートにいたころ、
橋本さんはよくあきもせずにコーヒーをつくった。ブラジル、モカ、
ジャワなどを調合して、天下一品、独特の風味をもつコーヒーをつくった。
それは街の喫茶店のものとくらべて段違いにすぐれていた。その
コーヒーづくりの先生といっしょにいたから、しぜん私の腕も
免許皆伝になった。それほど彼は納得のいくまで研究する一面を
もっている。ついでだが、そのアパートは女人禁制、四畳半という
よき時代の庶民向きの建物で、私はそこで初段になり、橋本さんは
五段になった。
彼はまた純情情熱の人である。同じアパートにいたころ、京都の
吉田操六段の内弟子であった現夫人と恋愛していて、京都へ行く
ときの楽しそうな様子、帰ってきたときの物足りないような素振り、
郵便受けの木箱からはみ出している恋人からの手紙をふところに、
急いで自分の部屋へ帰ったりするところなど、まさに人間味たっぷりの
橋本さんである。勝負師としては最高である九段の地位にあるが、
ほかの道を選んだとしても、現在に近い大成ぶりを見せたのでは
なかろうか。
>>6にも書いてあるが、
先生は夫人とコーヒーを飲んでいるとき、胸部大動脈瘤破裂でお亡くなりになった。
>>261を読んだとき、「好きなもの二つのそばでおなくなりになるなんて
幸せな死に方だったんだな」と感慨深かった。 東野某氏ね
お前が監修した宇太郎の詰碁集
答えどころか問題まで間違いだらけじゃないかよ
引退して反省してるつもりかもしれないが
絶対許さないぞ
同じ詰碁作家として故人の宇太郎に嫉妬したからか
わざとやったんか畜生 >>264
何ていう本ですか。私も詰碁歳時記とか奥の細道とか東海道五十三次とか
中仙道やってるので、教えてください。