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権勢誇示する秀吉の33通の家臣宛て書状見つかる

当時、最後で最大の難敵だった徳川家康との戦い、1584年の
小牧・長久手の戦いに関する書状では、徳川方から
織田信雄(信長の次男)の娘、家康の長男と弟らを人質に出す
和睦案が出されたが、秀吉は一度は拒絶したと記述。
後に受け入れたとの書状もあり、調査した東大史料編纂所の村井祐樹助教は
「詳細な情報によって(この時期の出来事を)時系列で追える意味は大きい」としている。
翌年(1585年)の書状では、秀吉が追放した家臣をかくまわないように指示。
信長の時代のように甘く考えれば処罰も辞さない−などの意の書状もあり、
主君だった信長をよびすてにし、自らの権勢を誇示している。



これか。確かにこれが正しければまさしく「家康の敗北」だわな。
信雄が勝手に終戦したという話も変わってくる