市場主義は経済版の民主主義である。 第4市場 [転載禁止]©2ch.net
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反対にそれを批判する連中の正体は、官僚社会主義であり、
経済版の全体主義である。
市場の自由は参加の自由や経済のコントロールの民主化である。
官僚だけが経済をコントロールすれば良いと考えるのは、
経済のおける独裁、社会主義であり、国民の自由を奪おうと言う
考え方である。
/// 絶対平等主義ニッポンは孤立する 7 ///////////
日本人は賭けないで観ているから、「もう少し得点が入りやすいようにゴールを広げては」
などというが、ヨーロッパや南米人にはとんでもないことと思われるらしい。本来、賭けのための
競技だから、逆転や大穴が出なければ面白くないのである。そんなプロ・サッカーでも、いまや
恥じることなく話題にすることができるようになった。
賭け事の許容もまた、大きな文化思想の変貌を意味している。賭け事は結果の格差を作ることで
スリルを楽しむ行為である。それが広く認められるようになったのは、二十世紀の大半を覆って来た
「結果の平等主義」から、「楽しみ重視主義」へと世界の流れが変わったことを示している。
/////// 堺屋 太一 ///
/// 絶対平等主義ニッポンは孤立する 8 ///////
社会主義や民族全体主義が求めた「結果の平等主義」は急速に衰退し、「結果の平等」よりも
過程を楽しめる社会が重要になった。人々が好みに応じて楽しみの機会を持てるように多様な
娯楽を提供する。その中で、大衆の支持によって採算に乗るものこそ良いものだ、と考える
消費者主権の発想が、スポーツや文化芸術の社会にまで拡まったわけだ。
社会主義やファシズムは、崇高な理想を掲げたイデオロギーだ。だが、人類が二十世紀の大半を
費やし全世界を巻き込んで行った壮大な実験の末に辿り着いた結論は、大衆に選択を委ねる
「総資本主義化」である。このことに、失望を感じる人も少なくないだろう。しかし現実には、
それこそが豊かで楽しい世の中を創り出す最良の方法であったことは紛れもない事実である。
・・・・・
/////// 1997年刊 /// はい、そうならなくて残念でしたね。
おしまいにしてね。 なってるじゃん。
政府によるコントロールで防ぎます!だから国民は相応のコストを支払ってくださいね。
と言い続けた北ものが片っ端からコントロール不能に陥って
結局国民がツケを支払ってる。 おもしろいことに発生した余暇の楽しみ方の違いは余暇を楽しむ余裕をえた時期の社会的技術条件と時代性にも関係している。
最初に余暇を得た欧州の人たちは当時ようやく整備された新技術の成果である鉄道や汽船で遠くに出かけるため長期間の休暇をとるようになった。次に余暇を得た米国人たちは普及した自動車であちこちに出かけるレジャーが米国型休暇の過ごし方となった。
最近になってようやく余暇を得た日本では高度なエレクト口二クスを駆使した孤独な密室型の遊びであり自己満足の世界でしかない力ラオケやパチンコ、コンピュー夕ーゲームなどの日本が開発した代表的レジャーが一般的である。 古代末期も現在も資源環境の限界や人口の変動、技術の変化が必然的な関連を持って起こっている。
現代と古代末期との類似は物質文明末期の共通点といえる。ただ現代と古代末期との違いは現代が高度技術社会であることである。
飢餓に苦しんでいる本当の理由はモノ不足ではなくて力ネ不足である。というのは苦しんでいる彼らの生産品が大量生産品に押されて商業性を失ったからである。
人類の倫理と美意識が変わりつつあり、物材節約の倫理感と時間のうまい使い方をしている人がかっこいいとの評価を受けることになり、
工リート社員よりも遊び上手の知恵者がもてる傾向にある。余力スタイルとして資源消費型から感覚刺激型へ移りつつある。
いつの時代でも新しい生き方をまず体得するのは庶民である。 肝心なことは、今日の経営でも同じですが、情報というのは、持って来い、探してこいというだけで集まるものではありません。あの人のところに言いに行ったら、
必ず聞いてくれる、あの人はまじめに取り上げてくれる、あの連中はおもしろい、と思うところでないと情報は集まりません。
情報というのは、どれだけの人を雇うか、どれだけのコンサルタントをつけるかではなくて、持ってきた人に、「この人のところに来てよかった、
話に行ってよかった」と思わせることが大事なんです。そうでないと本当のことはわかりません。
チンギス・ハンの凄いところは、誰から好奇心を持って情報を一生懸命聞いたことです。チンギス・ハンは、
生涯モンゴル語しかできませんでした。ところが、あらゆる国の言葉、人種、宗教の人が、情報を持って集まってくる。
知識は客観的なほうがよい。倫理は主観的なほうがよい。
何が正しいか、この会社をどうしたいか、これは社長さんの主観なんです。人の言うことなんか聞く必要ない。
けれども知識は、「今の経済状態、ライバル会社の動向、自社の状態」というのは、絶対に客観的に冷静に聞かなければいけない。
ところが、人間は逆になりやすい。
チンギス・ハンは、倫理は自分が正しいと思ったほうに突き進む。けれども知識は客観的で、いいことも悪いことも、ライバルのいいところも世間の危険も、
みんな入ってくるようにしなければいけない。そのためには、悪いことを知らせに来た人を褒めてやらなければいけない。これが非常に上手だったのです。 「まず万博は、文化と経済、私たちの生活に大きな影響を及ぼします。1970年に開催された大阪の日本万国博覧会を例とすると、動く歩道、ワイヤレスフォン、
缶コーヒー、ファーストフードなどは、この万博で登場し、その後、私たちの生活に普及しました。またリニアモーターカー、テレビ電話、電気自動車なども登場しましたが、いまだ普及途上にあると言えます」
「開催都市にとっては、考えも及ばない発展を意味すると思います。大阪でも名古屋でもその後の約10年は発展しました。
パリとシカゴは輝かしい文化を創った例です。パリでは4回も万博が開かれましたが、ヨーロッパで一番文化の多い都市となりました。それまではむしろ文化と言えばウィーンでしたから」
「2010年以降、うまくいけば上海は世界の文化の中心になると思います。デザイナーたちもそう信じています。都市に地下鉄ができるとか、
ビルが建てられるとかは小さなことで、大きな文化の発展や情報発信の意味では、ずっと歴史に残る大きな出来事になるでしょう」 [「貯金しなさいは」間違っている]
たとえば郵便局に貯金をするとします。そのお金は「財投」に流れて無駄な道路や橋がつくられていくわけです。そこから返済原資がまわってくるはずなのですが、
赤字なので当然いつまでたってもお金は戻ってこないわけです。そんなところにお金をまわしても仕方がありません。そこにお金が流れなければ、無駄な道路や橋もできないのですが、それを知らないから、みんな郵便局に貯金しているわけです。
簡単な簿記を理解しておくと、こういった考え方はさらにクリアになっていきます。
僕の場合は実践で簿記を理解していったのですが、これからの若い人は三級程度の簿記の資格を所得しておくことをお勧めします。商業高校の生徒が取得できるくらい簡単ですし、気軽なエントリーとしてとっておけばいい。取る・取らないで後々けっこう違ってくるのです。
簿記ができると何が変わるのかというと、それは自分で「B/S・P/L」を作ることができるようになることです。
「B/S・P/L」の「B/S」は貸借対照表のこと。つまりバランスシートですね。これは会社の財務状況を示すときに使います。「P/L」は損益計算書のこと。「プロフィットアンドロス」の頭文字を取ったもので、会社の経営業績を示します。
このふたつを並べてみると、お金の動きが見えてきます。
そして自分の経済状況を「B/S・P/L」に置き換えると、いろいろなことがクリアになるのです。
僕の場合、一番クリアになったのは貯金に対する考え方です。
銀行の「B/S」を見たとき気付いたのですが、負債の部に定期預金や普通預金が入っており、資産の部に現金預け金という形で対照的に計上されていたのです。
要するに貯金したお金というのは、銀行や郵便局が個人から借りているわけです。だから銀行の「B/S」をみると定期預金や普通預金は「負債の部」に入っているのです。
つまり僕たちは、銀行にお金を預けているのではなくて、銀行にお金を貸し出しているわけです。「預けている」という発想から「貸している」という発想に切り換えなければならないことに気付いたわけです。 大変僅差(きんさ)の結果となった住民投票ですが、敗因は自民をはじめとする既成政党など反対勢力をひとつも味方にできなかったことだと思います。
それぞれに利権も因縁も思い込みもある人たちが、別々の理由で「とりあえず反対しておこう」という気になった。問題点は後で修正するからとりあえず賛成となれば、違う結果になったでしょう。
若い世代に都構想が必要と考えてくれた人が多かったようですが、なんとなく変えたくないという、高齢者の感情もありました
政治家引退を宣言しました。でも、戦いは続いていると認識してくれたら、橋下徹という人物の使い方はいろいろある。
大阪のためにも日本のためにも、もう一回挑戦してほしい。都構想の仕組みやメリットを改めて説明しながら、2、3年後にもう一回、住民投票をやる。
住民投票に将来見直し条項を明示するのもその一つでしょう。とにかくそこを突破しないと日本の自治制度を抜本的に変えることができないんです。
明治維新も1回では果たせなかった。1864年の「蛤御門(はまぐりごもん)の変」で長州藩が躓(つまず)いたが、
その後高杉晋作が盛り返した。奇兵隊を興して、もう一回体制を立て直してほしいですね。 おもろい地域、おもしろい地域というのをどうやって作っていくか。これから各地域の商店街も、だんだんと店の数が減る可能性が高い。
ところが今までの日本の行政が、大変間違えたのは、音楽堂や美術館を作る、ここもそうですが、必ず森の中へ作ったんです。
これは文化が衰える一番速い方法なんですね。文化的な町、世界的に有名な文化都市は、劇場や美術館がどこにあるか、たとえばニューヨークにカーネギーホールという、お聞きになったことがありますか、
有名なんですよ、カーネギーホールはどこにあるかというと、7番街という一番の商店街のど真ん中なんです。パリのオペラ座はどこにあるかというと、
サンチノーレというブチックがたくさんあるど真ん中にあるんです。売春婦が一番立つところにあるんです。ウィーンのブルーム劇場というのは、環状道路の真ん中にある。だから音楽会に行く人帰る人が商店街を歩くんです。
したがって商店街も流行るんですね。音楽会に行った人も帰りに飯を食うとかお茶を飲むとかできるんです。ところが日本は、明治の初めから、文化というものは大変崇高なものだと、ルノアールとかベートーベンしかないと思ってますから。
ですからそういうものと猥雑な商店街を一緒にするなんて恐れ多いと思ったんですね。これがこの、明治からの今日に至るまでのエリート官僚の一番悪いことです。それでなるべく商店街と分けて、遠い森の中、緑の中に作ったんです。
したがって音楽会に来た人は、飲まず食わずで帰らなくてはいけない。商店街には文化的な人が来ない。これからだんだんと商店街の土地も空いてくると、
もう一遍祭りを商店街に呼び戻さなくてはいけない。昔の殿様、昔の人は偉いから、必ずお祭りの御輿は商店街を歩いたんです。森の中から、まあ鎮守の森の中から出てきても必ず、商店街を歩いたんです。
ところが今はそういう発想じゃないですね。俺の縄張りはこっちだという仕掛けなんですね。こういったことから発想を変えていかなくてはいけない。そしてそれぞれのところに、うちはこれではやっぱり日本一だというものを考える。 日本の今までの規制の強いところではみんな日本を外してしまう。いわゆるジャパンパッシング、日本を飛び越えて、パスしていってしまう。
具体的な例を挙げますと、日本の国際空港というのは成田空港しかありませんでした。3年前にやっと関西空港ができました。ところが日本式のやり方をしたもんですから、どっちの空港もとっても値段が高いんですね。土地買収にも手間をかけ、成田空港なんていうのは、
たった8軒の人が反対しているだけで、第2次工事というのがもう20年近くも止まっています。その間に支払われた金利だけで800億円。1軒100億円も金を使ってるんですね。
別にその人にやったわけではないんですが、その人が反対しているから使えないままで土地も工事したものも置いてあるから金利がどんどん溜まる。800億円もかかる。
それが全部料金にかかるわけですから、大変割高で、ジャンボジェット機が1台およそ約100万円もかかります。関西国際空港も騒音公害を恐れて5キロも沖に出したものですから、大変埋め立てにかかってしまった。どっちも同じ100万円になってしまった。
ところが韓国やシンガポールや台湾あたりの飛行場は40万円とか30万円とか、日本の半分以下、3分の1くらいです。そうすると、なるべく日本に止まらないで、日本に飛行機を入れないほうがよくなる。
そういうことになって、今度はボーイングという会社が777−300という飛行機を作りましたが、これは14000キロ飛ぶ。ニューヨークから香港まで、日本に止まらないでいける飛行機を開発しました。というようなことになります。
船のほうも同様でして、今アメリカとの間で大問題になっていますのは、日本の荷役は夜やらない。
まあ復興中の神戸だけは特別やってますけれども、夜間荷役をやらない。その結果、日本に船を入れたら長い間停めなきゃいけない。大体コンテナ船を一日停め置きますと、600万くらいかかるわけですから、日本に置いたら損をする。
したがって、どんどん、釜山とか高雄とか香港とかそういうところに行く。1990年、ついこの間ですね、7年前には神戸港が世界一のコンテナ港だったのが、
地震の直前には、香港・シンガポール・高雄・ロッテルダムの次、で、地震が起こってもっと下になりまして、今は釜山のほうが上になっています。日本には小分けにした船しか来ないというような状況です −−金融、証券不祥事の背景は何か。
「日本の企業とクーデター以前のソ連共産党の組織原理に共通点がある。それは競争制
限とノルマ主義だ。ソ連では共産党一党独裁のもとで、いわば日本相撲協会に所属する力
士が優勝を争うように書記長や地区委員のポストを争い、日本では免許を与えられた会社
だけが証券市場を通じて利益獲得競争に奔走した。ともにプレーヤーの数が限られた組織
の中で内部競争させる仕組みだ。参入が制限された組織にいる限り、人間は生活が保障さ
れた。ソ連ではノーメンクラツーラ(特権階級)として一般民衆よりも水準の高い生活を
送ることができたし、日本では政府が決めた高い手数料や、低い預金金利で会社の利益が
確保され、社員は安定収入、管理職、役員は交際費使用権を得られた」
「もう一つの共通点であるノルマ主義は、ノルマを達成すれば特権階級の中で地位が上
がる仕掛けだ。したがってその組織に所属する人間は組織内部での評判だけを気にするよ
うになる。日本のノルマは前年比、他社比、予算比と三つの比較で決める『三比主義』で、
常にこれを上回るようにノルマが課せられる。これは全員が頑張ればハードルがさらに上
がるという”無限地獄”。しかも問題なのは評価の基準が数量なので、ノルマを達成するた
めに質の落ちる取引が増えた。ソ連では生産量を増やすために質の悪い家具や紙を作った
が、日本では企業が暴力団や料亭のおかみと付き合うことになってしまった。これが日本
社会全体の構造的欠陥で、官僚がからんでこうした土俵を作った。」 「1980年ごろまで企業の業績評価は営業利益に基づいていた。そこへアメリカのビ ジネススクールが『何が何でもその時、勝てばいい』という思想を持ち込んだこともあっ
て、80年代の半ばころからは金融収支とか不動産売買による利益を区別しない経常利益 の多寡に業績評価の基準が変わってしまった」
「営業利益と営業外利益の区別がないままノルマを課すから質が低下するのは当然で、 これが今日のバブル経済の原因になった。本来、経営者は『利益はこの程度』『社会的評価
はこれぐらい』といった企業の最終的な理想を公に示さなければならない。しかしその理 念を提示できないまま『三比主義』でノルマを課すからオイルショック以前はシェア競争
に明け暮れ、オイルショック以降は利益額競争に走った」
理念を説くだけでは体質は改まりにくい。現実的にどんな評価基準が考えられるか。
「利益の額でなく、取引の質を業績評価の基準とする『利益質基準』を導入すべきだ。ま
だ研究段階だが、利益質を外延性、継続性、好感度の三つの要素に分け、企
業があらかじめ設定した理念にしたがって三つの要素の加重のかけ方を変える。理念はキ
チンと社員に公表し、はじきだした利益質を人事評価に反映する必要がある。重要なのは
経営者が企業の理念と利益質の尺度を社員や社会に明確にし、理念の実現に強い意思を示
すことだ。そうすれば企業の体質はうんと変わる。それをしないで不祥事のたびに監査制
度を強化するのは最悪だ」
「外延性」・・・同じ取引額でもグループ内での取引は質が低く、外で稼いだ取引は質
が高いと規定する。例えば銀行でA支店の口座をB支店に移し替え、帳簿上、B支店の売
り上げを伸ばすのは外延性が低い。
「継続性」・・・ある利益が来年も再現できる質のものか、一過性の取引かを評価する。新
製品の販売は継続した利益をあげるから、一回限りの不動産売買による利益より質が高い。
「好感度」・・・その利益を得たことが好感を得たか、悪感情をもたらしたかを評価する。
好感度は「取引相手からの好感度」「従業員の好感度」「世間一般の好感度」の三種類がある 「うちの会社だけが突出して『利益質基準』を導入するわけにいかない」という反論が聞こえてきそうだが。
「それは理念がないからA証券会社が五千億円の利益をあげたからと言って、なぜ他
の証券会社までがそれに匹敵する利益をあげなければならないのか。もちろん企業は利益
をあげなければならないけれど、無限に利益だけ拡大するのが企業の理念とは思えない。
現に利益だけ追求してきた企業が今は赤字の危機に立っている例が多い。少なくとも85
年のプラザ合意までには同じような考え方が各業界にあった。薬品業界はすべて武田薬品
を目指していたわけではないし、アパレル業界でも森英恵や三宅一生がワールドやイトキ
ンと利益量競争など意識してはいないだろう」
堺屋 企業は利益追求体だが、質の高い利益を追求すれば、必ず長期的に繁栄すると同時に品格のある企業になる。利益質の第一の尺度は「外延性」だ。
企業の外から上がる利益が重要で、子会社への押し売りなどは駄目だ。
第二に技術開発で新製品を作り、さらに次の技術を生んでいく「継続性」。一度限りのもうけである土地転がしとは違う。第三は、仲間や取引相手、世間から受ける「好感度」だ。 ――「利益質」は決算書から読み取れるか。
堺屋 決算書ではわからない。経営者のための利益質決算書をつくろうと提案した。土地の転売など一時的利益なら1点、技術開発なら5点、
新規顧客の開拓なら3点などと加重係数を掛けて利益質ポイントを出す。それで人事評価をしようという提案だ
21世紀の企業社会はどのように変化しているか。
「生産手段を持つ個人の登場が世の中を変えていると思う。その場合の生産手段とは工
場とか資本とかではなく、知識、経験、感覚のことだ。デザイナーとかコンピュータプロ
グラマーを見ればよくわかる。彼らにとって一番大事な生産手段は製図台やパソコンでは
なく、自身が持つ知識や経験、感覚だ。つまり労働者と生産手段が不可分に結びついた職
業が急増している。これは単なる技術革新の結果ではなく、社会変革だ。そこには近代合
理精神の『モノをたくさん持てば幸せ』という前提の変化がある。近代工業社会での『合
理的』とは物材をたくさん生産するのにふさわしいという意味。だから産業革命以降の近
代合理精神のもとでは、製品を規格化して大量生産した。その大量生産を可能にするため
に企業は競って規模の拡大を図った」 私が就職を決定した一九五九年には採用側の協定で、「解禁日」は十月一日と決まっていた。来年三月卒業予定の学生たちは、六月ごろから各企業の採用説明会などに行き、夏休み明けからは目指す職場の人事部を訪問する。
このときも私は、大いに迷った。対象として考えたのは三つ、住友銀行と近鉄と通商産業省だ。近鉄には生まれ故郷でずっと暮らせるという利点があったし、銀行は初任給が高かった。
大阪の両親や、当時は広島国税局に勤務していた兄にも、何度も電話で相談した。まだ市外通話が申し込み制で、つながるまで一時間以上も待たねばならないこともあった。
しかし、こんな問題はだれに相談しても決まるものではない。父の意見も兄の話も、しばしば変わり、迷いが深まるばかりだ。そんなとき、ある人がこう教えてくれた。
「就職先に迷うのは、自分が何が好きかわかってないからです。そんなときには将来、いちばん何にでもなれる職場を選んでおくのがよいでしょう」
なるほど、そうに違いない。私はさっそく、各職場の経験者がどんな分野に散っているか調べてみた。結果は明白、官庁出身者が最も多様だ。官僚からは、政治家も経営者も、著述業も自営業も出ている。
戦後の混乱が残っていた一九五〇年代には、官僚でも転業失敗者は意外と多く、選挙に落選した人や、えたいの知れない団体に所属する人もいた。
そのころの私は建築設計と歴史が好きだったが、小説など書いたことがなかった。中学高校を通じて、漢文は得意だったが、国語や英語は苦手だった。政治にはあまり興味がなく、学生運動にも参加したことがなかった。
だから将来、自分が作家・評論家になるなどとは思ってもいなかった。そんな私が、文筆に興味を持つようになったのは、通産省に入って通商白書を書いてからだ。
特に、一九六二(昭和三十七)年度版の通商白書で発表した「水平分業論」が国際的な評価を得たことである ◎「好き」こそ「有利」
「日本には三十年間有利だった職業はない」という。
終戦直後には石炭産業が繁栄した。一九五〇年代前半には繊維産業や映画会社がブームだった。私が大学に入った五六年の売上高日本一の製造業企業は東洋紡績、株価が高かったのは東宝や松竹である。
私が就職した六〇年ごろには、ようやく重化学工業が伸び、製鉄、造船などが好評だったし、すぐあとでは石油化学や重電が人気会社になった。
しかし、これらの産業の繁栄が長く続かなかったことは、それぞれ解説するまでもあるまい。
そんななかで、長い間高い評価を保ったのは大手銀行である。製造業や流通業には波はあるが、銀行だけは大丈夫と思い込まれていた。だが、その銀行も今は大ピンチ、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行は国有化された。
「北海道では最高の就職口」といわれた北海道拓殖銀行もすでになくなった。その他の銀行も、多くは厳しいリストラに直面している。
職業は「有利」よりも「好き」で選ぶべきものだ。「秀才」といわれた者ほど「会社人間」の人生になりやすいのは「有利」な職場を選ぶからだ。
「有利」と思って入った職場が時代の変化で「不利」となったら、失望が大きい。「好き」で選べば、不利になっても「好き」が残る。そのぶん熱心にもなれるし、上達もする。どんな小さな分野でも、
その道の名人上手になれば尊敬と満足は得られる。それこそが人生の「有利」ではないだろうか。 「強欲」と「嫉妬」の選択
◎「合成の誤謬」
それぞれの個人や企業が、将来のために、あるいは後継者や周囲の人々のために、良かれと思う善行を積むと、結果としては社会全体が悪くなってしまうーこうした現象を、経済学では「合成の誤謬」と呼ぶ。
この最もわかりやすい例が、倹約・勤勉と不況との関係だろう。一般的には倹約も勤勉も人間の美徳であり、社会の良俗である。ところが、
みんなが倹約に努めれば需要は伸びず、勤勉に励めば生産が増え、結果としては売れ残りが大量に出て不景気に陥る。
こんなとき、人々はいちだんと倹約して将来に備えて貯蓄し、企業が経費を削減して生産性を上げれば、ますます不況は深刻になり、失業者や倒産企業が増加する。みんなが良いことをすればするほど、全体が悪くなり、互いを苦しめ合うことになるわけだ。
いわれてみれば当然のことだが、人類はそれを容易に信ぜず、国家財政でも同じことをした。その典型が徳川八代将軍吉宗だ。
開幕以来約百年、元禄中期(十七世紀末)まで成長を続けた経済も、元禄末期に入るとバブルが弾けた状況となり、次の宝永期には富士山の噴火(一七〇七年)や地震も相次いだ。
そんなとき、輿望(よぼう)を担って登場したのが八代将軍吉宗だ。吉宗は体も大きく気迫も十分だったが、やったのは倹約と統制である。自ら衣食を削って倹約に努め、早朝より政務に励んだ。また、世間にも倹約を強制、「
御庭番」というスパイを放って贅沢な商人や気ままな大名を取り締まった。投機を禁じ、政府批判を封じ、近松門左衛門の心中ものも上演禁止にした。 こんな政治が長く続けば、世の中が不況になるのは当然だ。享保十六年には米価が大暴落、そのうえ、値上がり期待で買いためる投機を禁じていたから、翌十七年にいなごの害が発生すると関西以西は大飢饉に陥った。
しかもこれで幕府の財政が大いに改善したわけではない。吉宗が将軍の座から退いたとき、相当の余剰金があったのは、倹約の成果ではなく、元文元(一七三六)年に行った貨幣改鋳の結果という。
頑固な吉宗も、倹約・勤勉の引き締め政策をあきらめて、インフレ政策に転じざるを得なかったのだ。
不況に引き締め政策を採ったのは、徳川時代の日本に限ったことではない。一九三〇年代初頭の世界大不況の際も、アメリカのフーヴァー政権は、財政赤字を増やすまいとして支出を大幅に削り、
不況をいちだんと深刻にした。フーヴァー大統領も、のちには復興金融公社を創設したり、ネバダ州にフーヴァーダムを建設したりする。八代将軍吉宗同様、倹約が不況を呼び、不況が収入を減らすという悪循環に耐えられなかったのである。
◎「私悪すなわち公益」
各人各社の正しい行いが社会という巨大な坩堝(るつぼ)で合成されると、人を苦しめ未来を破壊する悪行に変化するとすれば、その逆も成り立つだろうか。つまり、みんなが私利私欲を追い求めて悪行を働けば、
社会全体には良い結果が生じるだろうか。この問いに、「イエス」と答えたのがオランダ生まれの医師バーナード・マンデヴィルだ。
マンデヴィルは、一七一四年、イギリスで『蜂の寓話』と題する本を出版したが、その副題はなんと「私悪すなわち公益」だった。もちろん、ここでいう私悪とは犯罪のことではない。私益を追求して人々が行う自由気ままな行いを指している。人間は本来、強欲なものだから、
みんなが欲望を満たそうとすれば、おのずから「交換の正義」が生じ、全体の利益に通じるというわけだ 世界の思想史には、「人間の自由な行動は社会全体を悪くする」として、政府(国家)が統制または指導すべきだという考え方と、「人間の自由な行動こそ全体の利益を拡大する」という考え方との二つがある。
古くはプラトン、近くはマルクスやヒトラーが前者なら、司馬遷やアダム・スミス、現代のハイエクやフリードマンらは後者に入る。マンデヴィルは自由主義経済の論理を風刺的に表現したにすぎない。
二十世紀末の今日では、プラトンやマルクスのような国家統制主義は評判が悪い。右のファシズムも左の共産主義も失敗してしまったからだ。しかし、「合成の誤謬」の発見は、
各人の善意の選択が必ずしも全体の利益につながらないことも示している。人間はマンデヴィルが期待したほど完全に私利私欲に走らず、将来の心配や後継者への配慮をしてしまうからだ。
そうだとすれば、政府は常に人々と反対の方向に行動しなければならない。みんなが将来を不安に思って貯蓄するときには大胆にお金を使い、みんなが未来をバラ色と信じて散財するときには、
倹約に徹してお金を蓄え、市場から通貨を引き揚げるべきだ。このことをジョン・M・ケインズが理論的に言い当てたのは、一九三〇年代の大不況を経験したあとのことだ。
◎「私悪すなわち公益」
各人各社の正しい行いが社会という巨大な坩堝(るつぼ)で合成されると、人を苦しめ未来を破壊する悪行に変化するとすれば、その逆も成り立つだろうか。つまり、みんなが私利私欲を追い求めて悪行を働けば、
社会全体には良い結果が生じるだろうか。この問いに、「イエス」と答えたのがオランダ生まれの医師バーナード・マンデヴィルだ。 ◎私欲を公益にする仕掛け
人間が強欲・気まま・怠惰・嫉妬などの劣情を抱く存在であることは、すべての哲人賢者が認めている。今日までのところ、教育も宗教も国家の統制や宣伝活動も、この本性を改めることには成功していない。
そうだとすれば、各人がその欲するままに行動し、それが全体としての公益を成すような仕掛けをつくることこそ大事だろう。
今日、アメリカを中心に進められている自由主義市場経済は、人間の劣情の中で強欲と気ままとを許すものだ。
才能と努力と幸運に恵まれた者は高い収入を得て、「強欲」を満たすことができる。また、そのときどきの気分で職業や住居や結婚相手を変え、流行を追って衣服やスタイルを変える「気まま」も許されている。
これに対して西欧諸国に広がった福祉社会は、長期失業者を増やした。その中には、熱心に職を求めているとは言い兼ねる者もいる。豊かな社会は、「怠惰」にも寛容になり得るのだ。
自由な市場での競争が全体の経済成長を促し、その一部で社会の「安全ネット」を確実にすれば、強欲と気ままと怠惰の三つを同時に満たすこともできるだろう。
だが、自由な競争を認める限り、絶対に許されないのは「嫉妬」である。十七世紀のフランスの作家、ラ・ロシュフーコーもいうように、「嫉妬」ほど始末の悪いものはない。
金持ちを貧乏にしても、貧しい人々が金持ちになるわけではない。それでもなお、金持ちを貧乏にしたいという嫉妬は実に根強い。将軍吉宗が今も「名君」といわれるのは、
元禄の華やかな文化で稼ぎまくった商人たちに嫉妬した下級武士の支持を得ていたからだ。
結局のところ、未来の選択は、強欲と気ままを許すか、嫉妬に正義の裏づけを与えるか、いずれの私悪を取るかなのかもしれない。 「現代日本は軽い国家です。これを正視しなければいかなる議論もカラブリだと思います。たとえば、権力といっても権力ではない。自民党だって、握っているのはせいぜい利権というべきものといえるほどのものであって、権力ではない」。
明治以降の「重い国家」が日本史上の「怪物」であったとすれば、戦後の「軽い国家」はむしろ日本史における平常状態である、少なくとも、司馬はそのように見立てている。
この「軽い国家」への欲望は、今の日本社会でも消えていない。国家は道徳に干渉するよりは、最適化された行政サービスに勤しんでくれればよいというタイプの議論は、むしろ今日のグローバル化のなかで活気づいている。
ただ、司馬の「軽い国家」論はたんに経済合理性から来ているわけでもない。大阪外国語学校在学中にモンゴル語を学び、晩年にはモンゴルを舞台にして佳品『草原の記』を残した司馬は、
国家の歴史が蒸発した世界への憧れをずっと抱いていた。そこには、国家という拘束を忘れたいという欲望が認められる。 『土地と日本人』は、読み直してあらためて強い感銘を受け、また共感を新たにする。古くなっていない。
これを初めて読んだのは83年頃で、バブル経済の前だったが、例の「銀座でジュース一杯の値段が700円もするのは土地の値段が入っているからだ」という司馬遼太郎の批判的主張は、今でも意味と説得力を失っていない。
その当時も思っていたことで、今でも思っていることだが、日本の労働力のコストが高いのは基本的に土地価格のせいである。住宅ローンの過重な負担があるからだ。日本の物価が高いのは、土地賃料のチャージだけでなく、
土地価格の高負担を抱えた労働賃金のせいであり、そして不当に高額な公共料金と法外な税金のせいである。
日本の高コスト体質は土地問題そのものなのだ。コストが高いのは土地のせいである。
土地に対して労働者が無理に負担させられる部分(不等価交換)があり、それが一部は保有資産の含み価値に化けて企業経営を潤し
(それはまだ資本主義の枠内の話で労働者にも還元がある)、一部は土地を転売する不労所得者の手に入って浪費され、それが構造化されて資本が循環し、
日本の経営と行政の不問不動の前提条件となっているから、日本の労賃は高く、物価は高く、高コスト体質は已まないのである。
一般国民である日本の労働者は資本家によって搾取されてきたのではなく、土地を保有転売するブローカーによって収奪されてきたのだ。
土地問題さえなければ、日本の物価は安く、労賃も安く、日本の国際競争力もこれほど弱くなることはなかった。 80年代から一世風靡したポストモダンとニューアカデミズムの思想潮流がその代表的なものであり、 解体と脱構築を言い、差異を言い、規範の無意味と逸脱を唱え、
働くのをやめて遊べと言い、生産ではなく消費せよと日本人を洗脳していた。
戦後日本の正統的な社会科学、それは戦後日本の経済産業基盤を作り、戦後日本社会の担い手を作り出してきた社会科学であると言える。
印象としては大塚久雄の経済史学や丸山真男の政治学に代表されるものであり、市民主義とか進歩主義とか近代主義とか様々な呼び方でされる理論的立場であり、
そしてそれにマルクス主義(戦後講座派)が挑戦者として対峙しつつ一つの構造体を形作っている思想世界であり、具体的には岩波書店の看板に代表され、全体として戦後民主主義の理念
マルクスとウェーバーの問題意識に代わって、フーコーを筆頭とする現代思想の時代になった。
そして嘗ては「資本主義」を諸悪の根源だと批判していた者が、或いはその門下生たちが、いつの間にか 「国民」を批判し「近代」を呪詛する声で学界を蓋うような景観が出現するのである。
ニューアカデミズムの若い連中が(バブル崩壊後に経営破綻する)堤清二と結託して「差異」や「消費」や「情報」 を説法していた頃、
社会科学の中堅重鎮たちは「総力戦体制」を呪い、「近代の解体と脱構築」の「言説」に余念がなかった。
岩波文化人も含めて右から左まで、包丁と金槌を振り上げて「近代」と「 国民」の解体に精を出し、解体したと思しき机の上に「ジェンダー」と「マイノリティー」の言葉を置き土産に残していた 私や私以後の世代が西武/セゾン文化にきわめて多くを負っていることは、率直に認めておかなければならない。
確かに、それは矛盾を孕んだ文化戦略ではあった。大衆消費社会を批判する前衛文化を、大衆消費社会の担い手である流通産業が積極的にフィーチャーしてみせる。
詩人が流通産業を乗っ取って前衛文化をプロモートさせる、と同時に、そういう自己批判的とも言える姿勢が、
モダンなアメリカ型大衆消費社会を超えるポストモダンな日本型分衆消費社会に向けた新しい流通産業のイメージ戦略として
きわめて有効に機能する。このように、西武/セゾン文化は、自己矛盾にもかかわらず、いや、その自己矛盾によってこそ、
爛熟した資本主義の先頭に立ち、80年代をピークとして、日本の文化に大きなインパクトを与えるとともに、日本の消費社会を新たな段階へと導いたのだった。
もちろん、そうした矛盾ゆえに、西武/セゾン文化を批判するのはやさしい。文化といいながら、結局は宣伝に過ぎなかった? だが、企業に宣伝とまったく
無関係な文化事業を期待するほうがどうかしている。問題は文化事業の内容だ。それに関するかぎり、
堤清二のようなヴィジョンをもって文化事業を推進しようとする経営者は、「企業メセナ」という言葉が一般化したいまも、まだ現われていない 堤理事長
自分のビジネスがどれだけ価値を創造しているか、その価値が世の中の役に立っているか、最も抽象的なところまでビジネスを掘り下げて考えていくしかないでしょうね。偉そうに物を言う経営者もいますが、どれだけ新しく社会的価値を創造し、大きくしたのかが重要です。
中野
価値を大きくすることに意味があるのですね?
堤理事長
たとえば、畑をつぶしてマンションを建てて儲かっても、価値を大きくしたことにはなりません。人間にとっての付加価値を増やさないと意味がないのですよ。
中野
付加価値を高めるときに、最も大事なことは何ですか?
堤理事長
人がそれを使うこと、消費することによって幸せだと思うかどうかです。これにつきます。たとえば麻薬の場合、一瞬愉快になるらしいですが人間の価値は下がりますから、
付加価値にはならず減少価値となります。逆に、赤ちゃんをつくることは新しい命をつくることですから、最も価値のあることです お金をもうければ贅沢な暮らしができるからうれしいという人は、お金儲けが好きなのではなくて、贅沢な暮らしが好きなのだ。
お金儲けは入りを拡大すること、贅沢は出を大きくすることで、実は逆なのである」と書いている。「たかだか数十億円程度の売り上げしかない企業の経営者が、
派手なスポーツカーに乗り、豪華なマンションに住むようでは危ない。
その程度で講演会など話題に上る行動に走る人も没落しやすい。(入りを広げ、出を抑えるという)あくまでもお金儲けが好きでなくては、本当の巨富は得られない」とも。
でも、「お金儲けは汚いことではない。世のため人のためになる技術や組織を創り上げたものへの当然の報酬であり、そうであればこそ経済は成長し、世の中は楽しいのである そもそも特殊法人とは、戦後経済復興のため短期・集中的に住宅、道路、鉄道等の
基本的社会資本整備を行うために設けられたものであった。行政主導の社会資本
整備は、初期の工業化時代には必要だったといえる。しかし、国営・公営形態は、
経済が一定の発展段階に達すると逆に自由な競争を封じてしまう
/// 違法な存在の特殊法人 4 ////////
公団、事業団、公庫などの特殊法人が経済の領域から吸収している仕事は、金融、
建設、住宅、運輸、不動産、流通、保険、食品、レジャーの各事業、鉄道、空港、
道路その他の交通・運輸産業、農業・漁業・林業、その他通信、電力などほとんどの
産業分野に及んでいる。
進出していないのは自動車、電機、機械などの製造業ぐらいのものである(これらの
分野では、権力の経済侵蝕がもたらした高コスト構造に悲鳴を上げて、生産地を
海外に移転している)。しかも行政企業は、それぞれ進出した分野で支配的地位を
占めているのだ。
この結果、経済の衣を着た行政機関である特殊法人などはそのファミリーとともに
市場(経済)を狭め、あるべき税収を減らして国家財政と国民経済に致命的打撃を
与えている。
//////// 官制経済体制が国民のお金を食い尽くす /// /// 違法な存在の特殊法人 8 ///////
法が法を破壊している
これらの「公法法人」は実際、数千にもおよぶ子会社、孫会社、系列公益法人などを
作ってビジネスを展開している。いうまでもなくこれらの株式会社や財団法人などは、
商法や民法によって存立する「私企業」「私的団体」として都合よく扱われている。
わが日本という国は、国が設立し、国民の税金で運営されている「公法法人」が、
その金を私企業などの私的所有団体に持ち出し処分することを、ある法律によっては
禁じ、別の法律によっては認めているそういう国なのである。まさに、特殊法人などを
通じて法が法を破壊していることになる。
特殊法人の経理は正確には誰にもわからない。どんなに借金が膨らもうと不良債権に
漬かろうと、責任を問われる者がいない。民間企業のように「株主」に監視されることも
ないし、行政機関として議会で承認される必要もない。
子会社、孫会社がどんどん増える
特殊法人(や認可法人)はどんどん子会社(公益法人も含む)、孫会社などを作る。
株式持ち合いの関連企業を含めるとファミリー企業は約二〇〇〇社にのぼる。
その役職員数は本体を除いて少なくとも一〇〇万人と推計される。本体と合わせると
一五〇万人である。政府が大半の株を保有している旧特殊法人であるJRやJT
(日本たばこ産業)などを含めると、関連企業数はさらに一〇〇〇社以上増え、
就業者数も数十万人増加する。
特殊法人のなかには民間企業をほとんど丸がかえしているものもある。しかも、
特殊法人の事業は公共事業や委託業務が多く、特殊法人によって生計を立てている
企業は非常に多い。したがって、特殊法人関係の実質就業者数は二〇〇万人は
下らないはずだ。 小泉首相が進めている構造改革で本当に日本は再生できるのか。7年も前から構造改革の必要性を直言してきた衆議院議員である著者が調べあげた事実を基に検証すると――。日本の「経済」は極端にいえば、国と地方と合せて、
国民の税金と貯金、年金、保険積立金など350兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。つまり、
市場特有の拡大再生産機能によって生み出される果実はないに等しい。“市場”が死亡状態となり、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。
積もり積もったほんとうの借金額は1000兆円を超えている。日本再生の鍵は国家体制を官制経済から市場経済に移行させることである――。小泉首相は構造改革を経済政策や金融政策と混同していると批判し、
著者渾身の真の構造改革のための25のプログラムを提示する。日本を破産させる利権システムの全貌を踏まえた提言には、著者の日本再生への思いがこもっている
一般会計の裏に隠した318.7兆円の税金浪費「特別会計」、官制企業の打ち出の小槌「年金・郵貯」、お上がばらまく税金の大入り袋「補助金」…。国会議員である著者が、国勢調査権によって調査した日本の裏帳簿を暴く。
小泉流構造改革では日本は救えない! 「天下り官僚の退職金1億円以上」の腐敗を暴き、構造改革のなかでも最も中心をなすべき、特殊法人・公益法人など行政企業の廃止を訴える。 ラジコンの遊び場となった農道空港
農道空港は、昭和六三年に「流通の合理化」「農作業の効率化」が"目的"の「農道離着陸場整備事業」
として構想され、平成三年から八年にかけて八カ所が完成した。福島市の福島飯坂、岐阜県の
飛騨、岡山県の笠岡、大分県の豊肥、北海道の十勝西部、北後志、中空知、北見がそれだ。
これこそバラ撒き政治の端的な見本である。
総事業費一一二億八〇〇〇万円は当初、国が四九億円、都道府県が四三億円、市町村が二一億円ずつ
負担したが、政府は平成七年になって道、県、市町の負担分を事実上肩代わりすることにした。地方の
起債限度を負担分の五〇%までとしていたものを、九五%まで可能と変更し、しかも、その元利償還の
八〇%を国が交付することにしたのである。これは地方負担がきわめて少ない「農道」などと
ほぽ同様の負担率である。
予期された通り、野莱を運ぶ飛行機場などというバカげた話が現実に成り立つはずはなく、
平成一一年度の年間利用回数は福島飯坂で三七回、北見で一七回、中空知は一四回という
惨たんたる状況となった。仕方なく各地とも空港を「多目的利用」に変え、"スカイパーク"
などの名称を付けてラジコン競技やジャイロプレーンなどの遊び場に利用している。また
「ふるさと体験遊覧飛行」や「ふれあい空港」などとうたっての遊園やイベントにときどき
使っている始末だ。
農道空港は、予算の大部分を占めてきた農園整備や土地改良などの事業費が減少してきた
農水省が、「既得権益」を確保するためにひねり出したものといわれている。「既得権益」とは、
農水省の官僚や農林族議員のものである。「農業」や「農民」が大事にされているわけではない。
この事業は、農水省の会計課でさえクビを傾けたのに、旧大蔵省の査定を通ってしまったと
いわれる。旧大蔵省も既得権益には甘いのである。 /// 公共事業という名の収奪システム 24 /////
北海道新得町では、町長が社長になって「西十勝フライト農業公社」なる第三セクターを作った。
平成一一年の第一便は八月一八日、サヤエンドウ一一キロ、サヤインゲン八キロを積んで帯広空港
まで運び、大阪と広島へ空輸された。
これらは新鮮で、たいへん美味しかったというが、ある人がコスト計算をしたら、ひとサヤ
三〇〇円についたという話だ。陸上輸送と比べたコスト高から空便での「農産物の輸送増は
見込めない」といっているという。
私が訪れた平成一三年九月には、斎藤敏雄町長は「農業用に飛行機をとばすことは年に一二回
しかない、トラック輸送に比べてコストが高く、町の財政負担も大きい」と頭をかかえていた。
八カ所の農道空港の利用は平成一一年度に七三八〇回であったが、そのうち農業利用はわずか
六%の四五三回に過ぎない。財務状況はどこも悲惨だ。
福島飯坂は年間利用料収入がわずか四〇〇万円で、赤字の七五〇万円は福島市が負担している。
十勝西部では輸送による利用料はゼロ。体験飛行の収入が五〇万円のみである。
北見の場合もグライダー利用料が七〇万円のみで、赤字の八八〇万円は北見市が負担している。
豊肥では利用料収入二九〇万円、市の持ち出し二一〇〇万円という。すべて、空港の大赤字を
県や市町が負担する構図に変わりはない。 狭い日本に一〇〇の空港
公共事業を請け負う六〇万社にのぼる全国の土木企業に仕事を与える方法の一つが、空港建設
である。空港建設もまた広い範囲に予算を配分できる。滑走路やターミナルなどの本体部分の他に、
保安施設、駐車場、整備池、周辺道路、河川改修、区画整備、緑地整備、農地開発、騒音対策、
鉄道整備、通信設備、商業施設、土地不動産などの事業に金が落ち、利権が生まれる。
現在わが国にある飛行場は九三、建設中を含めると一〇一である。この中には地方の小規模なもの
(調布、大分県央、枕崎等)や民間空港、米軍のもの(三沢)、ヘリポートは含まれていない。
空港建設費は特別会計等で処理され、各空港の財務に計上されないため、一般に実際の財務状況は
きわめてわかりにくい。
しかし、建設費を別にして空港の運営だけを見ても、たとえば、庄内空港(山形)の場合は、
着陸料などの収入が三億円、人件費などを除く維持管理費支出が三億二〇〇〇万円余である。
大館能代空港のように収入一億円、支出四億円余というところもある。
国が第七次空港整備計画(平成八年度〜一四年度)で平成一二年度までの五年間に注ぎ込んできた
建設費は約二兆五〇〇〇億円。地方負担分はこの五分の一弱だ。しかし、この金額の大部分は
"使い捨て"なのである。
借金で賄われた建設費に対する国と地方の負担は年間約六〇〇億円に達している。こうした
コストが国際的にもダントツの空港使用料や航空運賃、そして、国民の税負担、"高狂"料金に
ハネ返っていることはいうまでもない。 /// 公共事業という名の収奪システム 33 /////
"空港は県のステータス"といわれる。静岡県島田市と榛原町の間に計画された静岡空港は、
県が事業主体の第三種空港として、平成一六年完成をめざして建設工事が進められている。
事業区域五三〇ヘクタールの半分以上はオオタカやノスリなどが生息する自然地帯である。
この建設計画に静岡県内の一般住民はほとんど関心を持っていない。利用する可能性が
ないからである。
伊豆から東寄りの人々は羽田の方が便利だし、愛知県寄りの人は第一種空港の中部国際空港が
建設中だ。静岡近辺は東名も走っているし新幹線も通っている。静岡空港が完成しても、
成田や関空、羽田といった国際線や過密ダイヤの空港とは繋がらないから、行き先は松山、
高知、熊本などの地方空港にせいぜい札幌、沖縄という路線だ。
県は開設可能性のあるローカル七空港と結べば一七八万人の利用が見込めるというが、県が
主体で設置する五七の第三種空港のうち、三大都市圏との路線以外で利用者が一〇〇万人を
超えるのは観光スポットの石垣島だけだ。机上の空論で「試算」を行い建設に突っ走るのは、
馬鹿げたことである。
県は建設費を二〇〇〇億円と言っているが、難航している用地買収の残り分や標高二一〇
メートルの山を八〇メートルも削り取った二七〇〇万立方メートルの土砂処理などで、実際の
総事業費は少なくとも五〇〇〇億円以上になるはずだ。あらゆる大規模"公共事業"と同様に
当初見込みの二.五倍から三倍の金が必要になるのである。ちなみに昭和六三年に開港した
岡山空港の場合も、当初見込みは八〇〇億円だったが、できてみたら二〇〇〇億円
かかっていた。 /// 公共事業という名の収奪システム ////////
静岡空港のような第三種空港の建設費に対する国の補助率は、本体が五〇%、附帯施設が
五〇%であるほか、地方公共団体の起債の元利償還に対しても国の交付措置が定められている。
国からお金をもらいたければ港を、ダムを、飛行場を造りなさいという仕組みになっているのだ。
とくに中央省庁出身の多くの知事たちは、地元に金を回す方法は、公共事業を推進することで
あることを、よく知っている。空港が必要なのではなく、公共事業が必要なのだ。
神戸空港は昭和五七年に建設構想が発表され、平成五年に神戸市が事業主体となる地方第三種空港
として政府の整備計画が決定された。平成一七年完成に向けて現在建設中である。総事業費は
三一四〇億円で、空港用地を含めて二七〇ヘクタールの埋め立てを行い、埋め立て地の売却や
埋め立て用に山を崩した跡地に団地造成を行って、事業費の大半を捻出する計画だ。
平成一一年春に、私がはじめて現地を視察したとき、すでに小高い山が一つ切り崩されていたが、
平成一二年末に行ったときもまだ二つめ(三つめ?)の山を切り崩し、その土砂を延々と海まで続く
ベルトコンベヤーにかき上げていた。空港本体の建設費は目下のところ五〇〇億円である。
神戸空港が完成すれば、阪神地区にはアクセス三〇分以内に関空、大阪空港に次いで三つめの
空港が出現することになる。現存の二空港でさえ運営が暗礁に乗りあげ、様々な問題が表面化している
ところに、どう逆立ちしても神戸空港が立ち行くはずはない。一刻も早く建設を中止しなければならない。 /// 公共事業という名の収奪システム ////////
羽田の国際線利用の遭を塞ぐ国土交通省
運輸官僚の主張が合理性をまったく欠いているのが、羽田空港の場合である。一兆五〇〇〇億円を
かけた沖合展開は完成し、すでに二四時間運用を実施しているのだから、夜間は国際便に利用する
のがもっとも合理的である。しかも三〇〇〇万人の人口を持つ首都圏メガロポリスの空港として、
成田の能力はあまりに過小である。
成田の年間発着能力が年一三万回なのに、ニューヨークはニカ所の国際空港で七四万回、ロンドンは
五九万回である。羽田を国際線に利用すれば、首都圏はニューヨーク、ロンドン並みの玄関口を
用意することができるのだが、羽田の国際線利用に踏み切れない。その理由はただひとつ、成田を
国際空港として建設してきた運輸官僚のメンツである。
一方、関西空港を経営する第三セクター「関西国際空港会社」(大阪府泉佐野市)の累積赤字は
平成一二年度末で一七三〇億円に達した。平成一〇年度末には一三三三億円であったから、二年で
四〇〇億円も膨らんだことになる。旧総務庁が平成一二年一月二七日に発表した同社の財務調査結果だ。
同社は空港島の建設費(一期事業分)にあたる一兆五〇〇〇億円の七割を借入金でまかなったため、
年間四〇〇〜五〇〇億円の金利負担に苦しんでいる。 /// 公共事業という名の収奪システム /////
平成一一年には黒字となり一五年には配当ができるという当初の約束には、ほど遠い現状だ。
需要予測は大幅に狂っている。着地料収入も予想を下回り、今後の伸びは期待できない。旅客ターミナル
ビルのテナントも撤収があい次ぎ、テナント料収入は減少傾向に転じている。関空会社の累積赤字は、
今後膨らむばかりで、解消される見通しは皆無といっていい。
関空でさえ赤字体質だというのに、平成一〇年には中部新国際空港建設が着工された。空港建設の
事業主体は、成田が公団、関西空港は第三セクターの特殊法人であるが、中部の場合、形の上では
民間がほぼ全額出資する株式会社になった。
国は特殊法人を通して資金を出すが、そのほとんどを将来の返済が必要な貸付金とせず、空港用地を
事業主体会社と共有するための代金として拠出する。このため当面は返済を求めないとされている。
総事業費は八〇〇〇億円で、そのうち三二〇〇億円は無利子資金。うち二一二三億円は国に頼る。
このほか四八〇〇億円の有利子借入金を使うが、これについても政府保証をつけるなど、国への
依存度が強い資金計画となっている。
東京―名古屋、東京―仙台の両航空便は、新幹線との競争力がないことが実証されて姿を消した。
中部新空港が関空以上の営業成績を出すのはまず無理で、国のカネをどんどん吸い込んでいく
ブラックホール的な事業となる公算が大きい。それなのに、なぜ中部新国際空港なのか。「中部エゴ」は
わかるが、旧運輸省がわざわざそこに一枚かむのには"政治"の見えない事情があるのだろう わたしの想像を遥かに超えた第一の要因は、消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術と、その空間、時間の均質化とその能力である。少なくともこの空間と時間の均質化の能力と作用は、
どんな勢力や集団によっても阻止されずに、地球上のあらゆる空間と時間を等価、均質化した。
つまり「隣り」と「遠隔」を等価にし、時間を等価にし、時間を同時化した。これは人工的に第二の自然として動かしがたいところまでもっていった。
しかもこれは科学的にいえばそれほど難しいものでもないし、思いつきを誇大な利潤・剰余価値に結びつけたと見做してもいいものだ。
この情況はわたしなどの貧弱な想像力をはるかに超えた。ことに学的には少しの思いつきを追ったにすぎないと思えることが莫大な富の権力に結びつきうるという事態の怖さを見せつけたとわたしには思える。
(『「情況への発言 戦後・・・テレビの民間放送局ができたときに官僚の手で「キー局」システムがつくられました。
このシステムは世界に類例のない珍しい制度です。
キー局システムとは、キー局だけに全国番組編成権を与えるというものです。
それ以外の放送局は、放映権はあっても全国番組編成権がない。
従って、大阪,名古屋,札幌,福岡などの準キー局は全国に放送はできるが、
それを行うには東京のキー局に「ぜひ全国放送に入れてください」と頼みに行かなければならない。
東京のキー局では地方担当ディレクターに
「大阪でつくるのはどんな番組化かね」と聞かれる。
「いや、これは若いデザイナーとエンジニアの恋の物語です」などというと、
「そいうものは東京でつくるから。大阪は細腕繁盛記かヤクザものでないとダメだよ。俳優は誰を使うの?」
「今、流行りの浜崎あゆみさんを使います」
「あ、それは東京で使っているから。大阪は吉本の漫才にしなさい」などと、こと細かく干渉します。
私も大阪や名古屋でいくつも番組をつくった経験があります。
関西空港を舞台にした「向かい風の朝」というドラマをつくったときでも、関西空港を舞台にしたドラマなのに、
「東京芝の大阪朝日放送東京支社スタジオで製作すること」という条件がつきました。
キー局システムは日本の大問題です。
Bs放送までもがキー局に割り振られたので、ますます東京一極に集中する方向にあります
他の地域、大阪や名古屋からも申請が出ましたが、免許が下りた8チャンネルはすべて東京都になりました 情報発信機能の東京集中は、放送や出版に関係する人を東京に集中させただけではない。
あらゆる分野の高級で最新のものが東京に集中しているような印象を全国に与え、
国民の東京憧れムードを煽る一方、地方には文化想像力がないような錯覚を植え付け
地方嫌悪の印象を助長した。そしてそれが原因となって、
今や地方にはファッションを生む雰囲気も、テレビ番組を造る能力も、
雑誌を出版する人材も全くないとの「神話」が作り上げられている。
だがこれは「神話」であって事実ではない。情報発信機能の欠如という不利を克服して
地方から新しい業種業態が起り、新しいファッションが生まれ、
有能なファッションデザイナーや建築家が数多く登場している。
ある総合研究所が調べたところでは、戦後の新業種新業態の発生や
流行したファッションの発生源はほとんどが地方であり、東京は人口比率よりも少ない。
ただそれが「流行」と認められるためには、
東京のマスコミが取り上げられた場合に限られる。
そしてそのためには東京の中心部、千代田、中央、港、新宿、渋谷の五区で
話題になる事が条件になっている。
同じ東京でも、台東区や墨田区ではマスコミが取り上げないのだ。
情報発信機能が東京に、それもごく狭い五区に集中したために
東京は地方の情報が入らない「孤独な巨人」になってしまったのだ。 今、若い人がみんな東京に住みたがる。口で聞きますと、やあやはり地方は緑が多くて家も広くて便利でいいですよと言っている人が、本当は東京へやってきてしまう。女性の方々も、自然豊かなところで伸び伸びと子供を育てたいのですとおっしゃりながら、
御主人が自然豊かたところへ行くと単身赴任になってしまう。これは一体何なのかというと、やはり情報発信機能なのです。東京にありますればテレビでもすぐ出るものですから、余り大したことのない、
珍しさのないお店でもすぐ情報が流れるものですから、私の住んでおります近所なんかでも、イタリア料理屋がテレビに出ますと、もう次の週から地方なまりの方の行列が物すごいのですね、これが二カ月ぐらい続く。
それぐらいのものは、地方にももっといいものがあっても、いやテレビに出たところだからというので来られるわけですね。
ところが、この政治行政機能の都市というのは必ず情報発信機能を持ちます、外交機能も持ちます、そういう多様性を持ちます。だからそういうものがもう一つできますと、そうしたら国会のあるところの町はこういう情報、東京はこういう情報、
じゃ大阪の情報も聞いてみよう、仙台の情報も聞いてみようというアメリカ型の多様化が起こるのですね。これがやはり私は重要なことだと思うのです。
今全国テレビ、特に東京のテレビにのりますのは、地方の問題は事件と事故と伝統行事とスポーツと選挙だけてあります。したがって、東京の者から地方を見ますと、地方というのは事件と事故と滅び行く産業しかないような感じがするんですね。これは私たちも、
例えば大阪でこういうイベントがあった、百万人出るようなイベントがありましても、それは東京では一切報道されません。逆に伝統行事であれば、わずかなものでも報道される。何か地方は古くさいというイメージ、これにあこがれて若者たちが集まってくる 今東京でテレビを見ていると,新しい文化は東京からしか出ないように思える。例えば,本来流
行は全国各地から出てくるものですが,テレビで取り上げられるのは東京都心部の5 区に流行が
伝播して以降です。地方で流行している間はほとんど取り上げられない。
また地方から全国に伝えられる情報は,大体,地場産業,伝統行事,選挙とスポーツ,それか
ら事故ですね。だから東京のテレビでは地方は選挙と事故ばかりで,全く文化果てる国のように
見える。地方でどんな芸術家がいるのか全然わからない。彼らはすべて東京にいると思ってしま
う状況です。特に,地方の行事を国際発信することが少ない。例えば,福岡の「アジアビエ
ンナーレ」という美術展は,パリの新聞には大々的に報道されましたが,日本ではわずかにパリ発
で報道された程度。皆様方もご存じないかもしれない。しかし地域の情報を新しい文化として発信す
ると,若者も「ああ,あそこへ行ったら,こういうファッションの仕事ができる」「あそこへ行ったら,
こういうロボットの仕事ができる」と思うようになる。地域の方も特色のある文化を育てて,それ
を日本国中や世界中に発信する。例えばアメリカですと,テネシーへ行くと草の根ロックンロール,
ニューオーリンズならジャズは世界一など,色々違いがあります。日本は,全部東京に右ならえと
いう中央集権的な文化状況となっているところが問題ですね。皆さん方も東京にお住みになっていると,北海
道や名古屋の野球チームが来たら観戦に行くことはあっても,北海道の管弦楽団が来ても東京
より良いから聴きに行こうと思われないですよね。これは日本だけの特殊なことです。だから,地
方局がいくつか連合して「うちは管弦楽団」「うちはジャズバンド」「うちはファッションショー」とい
うような育て方をして,それを全国に発信する。そういう機能を持ってもらいたいですね。
私は,日本万国博覧会以来,地方のイベントや観光開発などに携わって参りました。それらが
成功したのは,テレビが全国発信してくれたからです。テレビは重大な使命として,日本の多極化,
多角化を進める先兵になってもらいたいと思っています。 ソフト化というのはソフト自体が目標とした価値を持ったものになる時代です。
そうなると創造力を働かす社会、個性の社会になります。地域開発にしてもいかに個性を訴えるかで
す。だから東北にも北海道にも日本で一つしかない世界で一つしかないものを作らなければいけない。 これが今一番難しいところです
キー局システムという世界に類例のないシステムを作りました。これが痛烈なシステムで、キー局でないと全国放送番組編成権が無いのです。それで準キー局とい
うのは大阪や名古屋や福岡や札幌にありますが全国放送は出来るが、編成権は無いのです。それ以外は全国放送が認められません。中央のキー局を通さないと認められません
この全国放送番組編成権があるので、地方の局、例えば札幌の局で作った番組を全国に流してもらお
うと思うと、その系列のキー局に全国に流してもらうように頼みに行くのです。私も名古屋や大阪で経
験がありますが、そうすると地方担当ディレクターというのが出てきて、どんな番組か見せてみろとい
うことになる。これは東北地方を舞台にしたファッションブティックの女主人と若い会社員の恋物語で
すと言うと、そんなのは東京で作るから東北で作るのは止めて、東北は減反で困って飢え死にしそうな
貧しい村のストーリーを作らないと駄目だという話になる訳です。
従って全国の人が見ていると、文化は東京にしかないように見えるのです。東京以外の事が書いてあるのは事件、事故、伝統行事、スポーツ、選挙だけです。
この五つは上りダネと言わないのです。後は上りダネを書いては恥ずかしい。東京の新聞を読んでおられる方は地方の記事の中でこの五つ以外に、
どれだけ地方の情報が入っているかご覧になると、1カ月に1本も入っていません。それ位少ないです。
それで殺人事件とか交通事故とか事件や事故が起きると大きく出ます。そうすると新聞を読んだりテレ
ビを見ている人は東京以外の所では事件と事故と滅びゆく文化しかないように見えますから、全て東京
にあこがれて情報発信が統一される。これがいわゆる情報格差を無くするという政策です。これを徹底的にやった訳です。 【堺屋】 いまからちょうど百二十年前にカール・マルクスが現れて、
社会主義計画経済をつくれば、競争の無駄がなくなるという原理を発見して、
大論文を書いた。資本主義社会は自由競争があって、各メーカーがそれぞれ
自分の計画をつくって、物をつくる。だから過剰生産になり、恐慌となって、
倒産を呼ぶ。つくった物とか、その物をつくる施設が無駄になる。だから
競争経済よりも計画経済がいい。マルクスはこういうふうに発想したわけです。
ところが計画経済をやってみると、売れる物をつくろうという意識がなくなる。
そういう努力をしなくなる。計画によって割り当てられた量をつくれば、
つくったものは全部出ていくから、より質のいいものをつくろうとしなくなるんです。
中内功
しかしもし流通網が全世界に広がり、うまく機能していれば、戦争なんかせずに、経済的な交流によって危機を回避できたはずでしょう。
大東亜共栄圏のような経済ブロックなどつくる必要もなかった。世界中に飢えや貧困がなければ、戦争など起こらんわな。だから、流通を盛んにし、物流だけでなく、
情報の行き来も、人の交流も増やして相互理解、相互依存を深めていけば、戦争という非常手段に訴えなくても危機を乗り越えられるはずでしょう。
ところが生産を中心にすると、マルクスやレーニンが言ったように、大量生産がやがて過剰生産となり、恐慌がおこったり、あるいはその過剰生産物を消費するための市場を海外に求めて、植民地獲得のために侵略戦争を起こすという悪循環となってしまう。
だから、視点を変えることが大事なんや。アジアの中の日本と考えれば、工場がアジア諸国に移っていったって、空洞化やないわな。今まで東京にあった工場が仙台に行き、仙台から青森に行ったのと同じで、それが上海へ行ったり、
天津へ行ったりするだけのことや ケインズのような反マルキシストも、私は社会主義は嫌いだけれども人類の行き着く先は
社会主義に違いないと書いています
ところが80年代になるとこれは大変な間違いである事に気がつ
く。多様性を求めるのは決して人間の過ちではなくてこれは満足を得る本質である。だから規格統一の
世界だけでは人間の幸せはやってこないということが言われるようになる。しかもこの多様性を作るの
がコンピュータ技術によってどんどん安くなってくる。この結果、社会主義は目標を失って退廃が起き
るようになりました。目的が達成出来ない。達成出来ない目的を与えられて努力するものは必ず退廃し
ます。そしてその日の自分の利益だけを追求するようになります。これが末期のソビエト官僚の姿です。
それで社会主義の文化というものが滅びました。社会主義は戦争で負けた訳でも経済で崩壊した訳でも
ありません。文化が信じられなくなった。社会主義、共産主義等の掲げる理想というものを人々が信じな
くなったのです。そうなると即滅びます。これは明治維新の時に武士の文化が滅んだ。終戦の時に軍人
文化が滅んだのも全く同様です
自由経済民主主義しか残らなくなったのです。これがフランシス・フクヤマの言う
歴史の終わりなのですが、実は歴史は終わりません。後のものは全部駄目な事が立証されたから、自由経
済民主主義というのがグローバルスタンダードだという形で出てきた訳です。 日本がこれからどういう国になるか。ここが非常な問題であります。まず第一に考えなければいけな
いのは、この昭和16年体制の中での規格基準を止めるという規制緩和、基準の廃止、規格の廃止、これ
が第一の問題です。第二番目の問題として今言われているのは地方分権、つまり有機型地域構造の形成を止めるというこ
となのです。有機型地域構造の形成を止めるという事は、第一に東京一極集中を止めるということです。
従って地方分権になります。第二には地方分権になるという事は地域の格差を認める事です。つまり地
域格差を無くすという事はとりもなおさず個性を無くするという事ですから、個性の復活というのは格
差を生むという事です。従って今迄の逆をやればいいのです。逆といえば先ず地方からの情報発信を増
やすこと、次に地方に特定目的の施設を作ること、そして名物づくりをすること
そうしますと建て替え需要はあっても敷地は広げる必要がありませんから、地下鉄
も下水道もこれ以上造る必要はない。これが今の公共事業見直しの一番の根拠なのです。人口構造問題
から出ているのです。それでそろそろ公共事業を止めないといけない。
今迄は高齢化社会が来るまでに公共事業を充実して社会資本を充実しなければいけないと言っていたけ
れども、そんなことを言っていたら社会資本を作り過ぎになって、成金の親父が豪邸を建てたあまりサ
ラリーマンになった息子は固定資産税と修繕費で破産するというよくあるパターンに決まっている。だ
からもう止めなくてはならないというのが現在大きな問題になっている訳です。
当然、工場用地も要りません。この結果、急速に膨大な土地余り社会が生まれだしたのです。現在皆
様方の東北北海道でも山林は殆ど値打ちが無いですね。静岡県の方では山林を寄付するために汚職が起
きたという。ただでもらってもらうために役場の議員に金一封を包んだという事件まで起きました。東京辺りに住んでる人で山元にいた親父が死んだ。そ
うしたら何の利益もないのに固定資産税と道路修繕費が毎年来る訳ですから、これはたまらないという
ので、何とか寄付で受け取って欲しい。ところが村の方も寄付を取るとお金が上がらなくなって固定資
産税が無くなりますからなかなか受け取りません。 第122回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第2号
交通政策審議会 陸上交通分科会 鉄道部会 中央新幹線小委員会(第7回)
したがって、この問題の第2点は、リニア新幹線ができますと、今の国土政策を続ける
限り猛烈なストロー効果が起こって、名古屋や大阪は劇的に衰退するでしょう。そして、
需要が激減するに違いありません。これは大変奇妙な現象です。交通と通信が便利になる
と首都圏一極集中が進むというのは、日本だけの現象です。1980年以来、世界の主要
国で経済と文化の一番大きな都市が全国比重を高めた例は、全くどこにもありません 意味がわからね。尾張名古屋はトヨタでもつ。
ネット時代にリニア新幹線で経済活動かよw
養老院に行って文集の編纂に集中してくださいな。 首都圏一極集中の理由を考える時、一番考えなければならないのは東京のコスモポリタンということでしょう。
東京は沖縄から北海道までの日本人と、世界各国から集まった人によって構成されてるんですよ。
まあ地方都市にも外国人は増えてますが、東京はもっと進んでます。
それはどういうことかと言うと、人間関係が身分とか年齢とかその他の理由で、態度が変わらない
人間関係が出来上がった社会になっているということです。
「先輩なのにため口で」とか「店員なのに横柄」だとかという感じを抱いても
それが表に出ることは少ないのです。みんな敬語で接しないと嫌われます。
私もテレビでしか見ないような人とも接しますが、相手の方も丁寧で敬語は忘れずに接してくれます。
一方、東京を離れると中小零細の社長でも、お山の大将で「◯◯だが、すぐ来てくれ」という態度。
従わないと「生意気だ」「あいつはダメだ」ということになりやすいのです。
だから東京では外国人も暮らしやすいし、ビジネスも上手く運びやすいのです。
先輩後輩だの年齢だの経歴だのにうるさい地方が遅れる理由は、
かなりそこの人間そのものにあるように思います。 近代工業社会は「物財の豊かなことが人間の幸せ」と信じる社会である。
・・・そこでは人々は、・・・「まず教育を受けて所得の高い職場に入り、貯蓄して金利を得ながら物財を消費する」のを「健全な生き方」と考えた。
ところが、1980年代に入るとアメリカやイギリスでは「人間の幸せは満足の大きいこと」と考える発想が広まった。すべてを一変する知価革命のはじまりである。
ここでは、所得の高い大量生産の製造業よりも自己実現や対人接触の多い職場が好まれるようになった。満足の大きさを求める人々は、
「欲しい時に買い、あとで支払う」のが「利巧な生き方」と考える。このため、家計の負債が急増し、需要過剰経済が出現した。貿易赤字を必然とする構造である。
因果の関係を正確にいえば、まず石油をはじめとする商品価格の漸騰があり、これによってアメリカの景気が悪化、住宅不動産価格の下落を生んだ。それがサブプライム・ローンの破綻の原因になったのである。
では、何が商品市場での高騰を生んだのか。その主因は資源不足の予測とマネー(ドル)過剰の見込みである。・・・
そのため、短期の高利を求める投機に走る資金が増えた。そんな投機資金が商品市場を動かし、各種商品の暴騰を生んだのである。 今日の最大の問題は、世界経済の体質と構造の変化に、人類の知識と制度がついていっていないことだ。
つまり、改革の行き過ぎではなくして、改革の遅れなのである。
学校と教師の側が競争し、生徒と父母の方は選り取り見取りで好きな学校を選べるのがよい状態である。・・・
こういえばすぐ、「それでは高い月謝の支払える裕福な家庭の子女が有利になり、貧しい家庭の子女はよい教育を受けられない」という不公平論が出そうだが、必ずしもそうではない。
比較的自由な競争の認められている大学を見ると、月謝(授業料)の高い私立大学が優秀好評で、そうではない国公立が劣等不人気とは限らない。月謝の安い東京大学や京都大学は好評である。
一流国立大学の学生に裕福な家庭の子女が多くなっているのは、競争の不十分な(官僚統制の厳しい)小中学校や高校に格差があるからである。 日本では欠点を直すことに力を入れている。得意な科目を伸ばすより苦手科目を克服することで、全員平均点レベルの人間ができあがってしまう」と堺屋氏。「“個性のある人”は“クセのある人”といわれ、
“独創的”であることは“我流”だといわれる。先生に教えられることをそのまま覚える人がいい点を取り、いい点を取った人が官僚や政治家になる。このような個性のない人に改革は無理だろう」
また同氏は、規格大量生産時代に日本企業が「企業として利潤をあげるべき組織」から、「社員の幸せを一番に考える共同体」と変化してしまったことにも警告を与えている。会社としての利益より社員の居心地のよさを重視したことで、
企業は競争力を失い、企業内部での争いもなくすべく年功序列や終身雇用が当然となってしまったが、「これは企業に死をもたらす病のひとつだ」と堺屋氏はいう。
このような社会基盤の中、日本では個性のある人材が活躍できない場となってしまったが、「個性のある人材が生き残っている分野が3つある」と堺屋氏。
それは、カラオケを生み出した音楽の分野、個性的なキャラクターで世界中から注目を浴びているアニメーションや漫画の世界、
そしていまやハリウッド映画を抜いて世界最大の映像産業となったゲームである。このように世界に誇れる強い分野を持っているにもかかわらず、「日本のIT産業は個性的な人材が活躍しにくい分野となっており、そのため世界から遅れを取っている」と指摘する。
「米国の大学生で一番優秀な人材は、自分の個性を発揮したいために自立志向が高い。そして自分の個性で成功する自信のない人が弁護士や医者、また官僚などに流れていくのだ 「日本はインターネットが発達し,ブログも活性化している。しかし,発信数が多いのと,情報量が多いのは全く異なる。現在の日本は,発信数は多いかもしれないが,
情報に豊かさがない」とばっさりと切り捨てた。日本では同じ情報が何度もさまざまなメディアから流されるだけだというのだ。
その理由として日本では,情報が一方向からしか流れないことを指摘した。具体的には,官僚,東京,同業者からしか情報が流れない状況になっているのだという。
まず,官僚からの情報の例として示したのが少子化問題。この問題を取り上げるとき,他の先進国と比較し,「男性の権利が強く,女性が弱い国ほど少子化が進んでいる」
という結論が導き出されている。しかし,世界を見てみると,アフガニスタンやサウジアラビアが出生率の上位に来る。
逆にウクライナや白ロシアは出生率が低い。本当にこの結論は正しいのか。官僚は自分たちの論理を押し通すために,一部の情報しか出さないと断じた。
また「東京には情報発信能力があるが,情報(コンテンツ)はない」とも述べた。例えば,流行は地方で発生し,東京に入ってきて初めてマスコミが取り上げるが,地方で流行っている段階では誰も取り上げない。
スポーツや事故,選挙などの話は地方から入ってくるので,地方のことを知っている気になっているだけ。実際には,日本の全国で何が起こっているのか国民はほとんど知らない状況に置かれているとした。
最後の,同業者からしか情報が流れないという例では銀行を挙げた。「日本の銀行関係者は,どの国の支店に行っても同じ話をしている。ジョークまでも同じ」と皮肉った。
こうした環境に国民が置かれた結果,異説・異論が出ない社会になってしまったことが問題だと堺屋氏は指摘する。「最近の若者を見ていると,議論せず,お互いの長所を褒め合うだけになってきている」。
異説・異論が出ず,議論がない社会では,今後成長の糧となる独創的なアイデアは生まれない。
また独創的なアイデアを生むためには,情報の豊かさ,源の多さ,多元性こそが重要。これがない日本は,国家として非常に危険な状態だと懸念を表明した 近代文明を生んだ欧米の思想は、欧米に見習うことが進歩であり近代化だと信じて来た日本の考
え方とは大いに違っている。日本でも、十六世紀の戦国時代には過激なまでの独創力が発揮され
評価されたが、十七世紀初頭に徳川幕藩体制が確立して以来、あらゆる事柄が様式化され、パタ
ーン化された。先人のやり様を巧みに踏襲することが正統な流儀となり、個性は「くせ」といわ
れて嫌われ、独創は「我流」と呼んで軽蔑された。明治維新は、絵画から柔術まで多くの流派を
破壊したが、それに代わったのは欧米の近代文明を模倣する官僚主義、最初に欧米に知識や技術
を導入した高級官僚や帝国大学教授を「家元」のようにあおぐ人脈の形成であった。
ところが、自ら近代文明を生み出した欧米では、個性と独創、日本的にいえば「くせ」と「我流」
こそが、人類の文明と経済を発展させる進歩の源泉として尊ばれて来た。先人の道に習う「流派」
は、せいぜい「先生の偉業を伝えるレッスン・プロ」としてしか評価されない。 能力があって意欲のない人間ほどいやな奴はいない。能力がなくて意欲のある人間ほどかわいい奴はいない
・人間は所得の格差よりも消費の格差を嫉妬する
・一番の贅沢は世間の評判を気にしなくてよくなること
(人間がお金を求める4つの段階 第1:今日の飢えからの自由 第2:明日の不安からの自由 第3:未来の心配からの自由 第4:社会の評判からの自由)
・日本では独創を「我流」と呼んで軽蔑する
・インフレは経済問題だが、デフレは社会問題だ
(インフレの苦しみは大多数に降りかかる。デフレの痛みは少数者に集中する)
・組織人は人事評価で動く。社長の演説や社是で動くのではない
(社長が環境を重視せよといっても、人事評価が売上伸率で決まれば、社員は売上を伸ばすことに必死になる)
・起業に必要なのは憤りと実業化の志
・自分の特徴を客を喜ばせることに利用する
・組織における個人の権威は内部の「伝説」で決まる
・未来の企業価値を測るのは理想・構想・独想
・知識は客観的で、倫理は主観的な方がよい。経営者の陥りやすいのは、その逆だ
・未来への冒険に出発するのは、現状維持が不可能と分かったあとである
・人類の進歩の一つには、より怠惰に生きられる条件を創ることである
・教育を見れば、その国の人々が目指している未来像が見える
・辛抱強さの教育は、子供には嫌いなことを多くさせる
・利権化は誇りと尊敬を失う
・ホームレスのいない自由社会こそ、これからのあり様
・他人を支配したいのは、自分の正義を守らせたいから (正義感の強い人は、支配欲も強い)
・最も贅沢な需要とは、先行投資のことだ 資源不足が生んだソフトウェア文化
モノ不足ヒト余りの時代が長かったことは、もつ一つ重大な影響を残した。
資源を必要とするハードウェアよりも、人手によってその利用価値を
高めるソフトウェアが重視されることである。
世界中にあって日本にはないものは「都市城壁と手錠」といえる。
縄という汎用材で間に合わせ、手錠、首枷のような専用具はつくらなかった。
捕縛者の身体を傷つけず、かつ逃げられないように人間を縛ることは簡単
ではない。相手もプロの盗賊や間者になれば「縄抜けの術」などを心得て いるからなおさらだ。
このため日本では「縛り術」なるものさえ考えられた。これが徳川時代
中期以降になると様式化され、相手の職業(身分)、性別、年齢によって
十三種類にも分かれる。武士用、町人用、僧侶、女性など、それぞれに
型が決まっており、これだけを習熟するためにも三年の修業が必要とされた。
それでも、この国では、手錠という便利な専用具をつくろうという発想は、
ついぞ生まれなかった。ハードウェアに頼るのは、専門家として恥ずかしい ことだったのだ。
このことは、あらゆる面に見られる。外国の住宅は、食堂、居間、寝室と
機能的に分かれているが、日本の住宅は同じ形式の座敷が並び、ソフトウェア
(利用技術)によって食堂にも居間にも寝間にも使う。襖をはずせば大広間、
冠婚葬祭も自宅で行えるという便利さだ。
食事に使う道具も箸一つ。ナイフ、フォーク、スプーンからエスカルゴ専用の
ハサミまで並べる洋食とは大違いだ。その代わりに、茶道のようなソフトウェアが
発達した。モノ不足ヒト余りの徳川時代には、専用具に頼らず、ソフトウェアで
解決することが専門的知識と人格高潔の証と見られていたのである。 「型の文化」が生んだ教育大国
専用具に頼る欧米では、特定の専門家が器具を生産して供給すれば、他の人々はさほどの苦労もなくそれを利用できる。しかし、ソフトウェア
文化の日本では、消費者それぞれが利用技術を習得しなければならない。
当然、そのための伝授、教育が必要になる。このためにまず、伝授する
教師を大量に育成する必要がある。それを可能にするため、徳川時代
中頃からはソフトウェアの様式化、つまり「型の文化」が確立される。
武道にも茶・華道にも、囲碁将棋にも、読み書きソロバンの教育にも、
「型」が定められ「定跡」ができ上がる。「型」さえ覚えれば、まず基礎基本は
できるのだから、「型」だけ教えられる者でも初等教育の教師は務まる。
徳川時代後半に、全国の農村にまで寺子屋や武芸道場が広まったのは このためだ。
一方、一般庶民のほうも物財よりもソフトウェアを重視、子孫に金銀財宝を
残すよりも教育をつけることに熱心になった。幕末期において、すでに 日本が「教育大国」だったのもこのためであろう。
このことは、日本人の平等性と情報共通性を高めるとともに、
「生なりの文化」を純粋化するのにも役立った。万人に教えられる
「型」であれば、特殊技術の必要な、不自然な動作発想では 困るからである。
その半面、個性と創造力を抑圧することにもなった。まず先人の
定めた「型」を教え込まれ、「型破り」は禁止され、「我流」は 軽蔑された。「我流」こそ個性であり、創造である。 吉川英治の物語性の背後には、日常的な、ごく普通の生活から発する好奇心
があるのではないか。日常生活を送りながら体験するさまざまなこと。どんな
ことでもいい。あの時にけんかをしたら涙がこう出たとか、いや別な女はこん
なふうに涙をためたとか、そんな日々の生活の機微に大そう惹かれる気持ちが
物語性の細部を成り立たせている。
純文学作品だったら、それは第二義的でいいと思うようなささいなことかも
しれない。でも本当は大事なことなのだと思う。
男女の恋愛関係のなかでいちばんむずかしいのは三角関係なんです。三角関
係というものを最後まで追いつめていくと、どうしても死ぬか生きるかといい
ますか、相手を殺してじぶんの恋を成就するか、それじゃなければじぶんが死
ぬかというようなところに追いつめられるほどきついものです。
一人の女性をめぐって二人の親しい人間が葛藤するのが三角関係の小説で、
これは不倫小説とか浮気小説とはまるで違います。何が違うかというと、二人
が親しいこと、もしかしたら広い意味での同性愛に近いかたちで親愛感をもっ
ていることが三角関係小説の大きな特徴です。これがなければ、単なる姦通小
説で、トルストイの『アンナ・カレーニナ』とかフローベールの『ボヴァリー
夫人』みたいな小説になりますが、漱石が書くとそうはならないで三角関係小
説になってしまいます。
つまり三者三様にギリギリに追い詰められて、『こころ』の場合では親友は
自殺し、自分は下宿の娘さんと一緒になって暮らしますが、やがて年を経て明
治の終わりとともに先生も自殺して終わります。つまり、三者三様に自滅して
いくようにもっていく。大なり小なりそれが漱石の主題になってきます。 漱石は、誰もが認める知識人で、世間的に立派な人物とされていました。けれども、漱石自身の中では、他人に対して小さな虚偽を犯し続けている卑小な人間であるという思いがあったのではないでしょうか。
それで、自分の内面にさらにどんどん入り込んでいき、ますます世間とのギャップが大きくなっていく。
これは日本の知識人の典型とでもいうべき姿で、現代でもだっしゅつできていないのではないかと思います。
西欧ならば、この種のことで悩むことは、まずありえないでしょう。漱石がもっていたような倫理観、つまり日本の知識人における内向する倫理観とでも言うべきものは、西欧における倫理観とはぜんぜん違うものです。
もし西洋の小説なら、三角関係になったら、女がどちらかの男を選ぶ。しかし漱石の小説でははじめからそのような可能性は考えられていない。それが日本の後進性であり、西洋風の自我がそのまま日本には通用しないことを示すのだという インターネット、携帯電話と、コミニュケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、
これに逆行することはできないんですが、コミニュケーション自体が自己目的化したら、それはちょっと病気です。 テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
いま情報テクノロジーの支配する社会で、もっとも痩せているのが、「文学の言葉」です。「ケータイ」とインターネットの表現が、この国の人間の表現をおおいつくす時代が遠からず来る、
それが老作家のペシミズムです。しかも、そこに大逆転の時がありうる−世界的にその徴候が見えている−という思いも棄てられません。
そうなれば、若い層から実力ある働き手の層にまで、知的で柔軟な、言葉の革新をなしとげる新種族が登場するはず、と私は信じます。その革新の手がかりとなるのが、
この国の近代化でつねにそうであったように「文学の言葉」だと続けると、我田引水にすぎるといわれるかも知れません。
しかし、漱石のみならず、諭吉も、まず「文学の言葉」の人だったと考えて、かれらのもたらした流れを辿り直してはどうでしょうか?
私は永く「文学の言葉」で生きてきました。そしていま、社会の表現と認識の言葉をリードしてゆく層の人たちが、
「文学の言葉」と無縁になっているのを実感します。また外国の知識人が、日本の知識人の言葉をどこに見出せばいいか、戸惑っているのにも気付きます。 そうやって分けた石けんを持って、千葉県によく行って、食べものと替えてもらってました。
女の人は特にそういう感じをたくさん持ってたんだろうと思うけど、 垢じみて、お風呂で洗えないとか、
そういうことが当時はいちばん困ったらしいです。
いまから思うと、なんだこんなの、と思えちゃうんだけど、それはいちばんのことなんですね。
人間ってそうなんだなぁ、と思いました。なぜなら、食いものは、そこそこあれば、家庭は壊れないからです
つまり、おなか減っても、文化的なものが欲しいとか、この小説が読みたいとか、
そういうことのほうが明日食べるもんが心配だなぁっていうときでも、真っ先の欲求だってことは‥‥あると思う。
糸井 それは、いま、みんなが どういう順番で消費をしているかで類推できますね。
安い飯を食いながら、コンサートに行くやつがいますから‥‥。
吉本 ええ、そうなんです。 女の人の皮膚の化粧とか口紅みたいなものも、
こんなのはいいじゃないか、って男のほうからすると そういうふうに言いたくなることでも
あるわけなんだけど、それはちがうよ、と思います 僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。
俺だけにしか分からない」というのが、自己表出性。しかし「俺だけにしか分からない」と誰もが思うわけですから、その「誰もが」思う表出性が指示表出性です。
優れた作品(=優れた表現)というのは、ディスコミュニケーションを共有するものなわけです。
これが吉本の〈表出〉概念の根源です。〈表出〉の本質は、まずもって〈沈黙〉としての自己表出にあるわけです
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、
俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。
コミュニケーションは「指示表出」。
俳句は五・七・五の限られた文字の中に自己表出があって、小説は、筋として「指示表出」があって、
そこに価値が生まれ、間接的に「自己表出」がされている。純文学が「自己表出」で、大衆文学が「指示表出」
「沈黙」は〈自己表出〉であり、コミュニケーションに用いられる言葉は〈指示表出〉である。そして言葉の本体とはそのふたつが
縦糸と横糸として織り合わさったものであると。そしてより重要なのは「沈黙」の方であり、話された言葉はオマケでしかない。 文化芸術というものは、 人を強制したり、または、 人に導いたり、ということはできないんです。
つまり、もともと、役に立たないことです。 そのかわりに、自由度があるんですよ。
帰するところ、最も重要なことは何かといったら、自分と、 自分が理想と考えてる自分との、
その間の問答です。「外」じゃないですよ。つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
先生だったら「子どもに対して」ということじゃありません。 子どもに対してちゃんといい授業を見せる、
実行するということは主たることではないんです。 人に対して、というのは あとでいいんです。
自分と、自分が理想と考えるもの、そことの内的な問答が いちばん大切なんです。
先生だったら先生なりに「俺はどうなればいいんだろうか」と、考えていることが必ずあるはずです。
人になんか、わからなくていいんですよ。
自分だけの心の中に問答も反省も絶えずある、ということが、「自分そのもの」にとって大切なんです。
問答の道の行き帰りの回数が多くなればなるほど、そこが豊かになります。それは、最も価値あることです。
先生だけじゃなくて、何の職業であっても、 問答をくり返したそのことは、ひとりでに、自然に出てくるんです。
無理なんかちっともしてないところで、 完全に出るし、わかります。
子どもは鋭敏だから、なおさらよくわかるんだけど、 大人にだってわかられますよ。
自分の中の問答の行き来が豊富になって、 自分の中にたまっていくことが、いちばんです。
先生は、子どもに何か教える必要もないし、「おまえ、こうしろ」なんて言う必要もありません。
問答の道を豊かにくり返している先生が、ただ自然に振る舞っていること、
それが子どもにはいちばんいいんです。 その次の段階にくる恋愛は、三角関係の恋愛です。恋愛というのは対幻想であって、その恋愛が一時的な気まぐれの恋愛であろうと強烈な恋愛であろうと、
いずれにせよ、一人の男性と一人の女性、あるいは一人の男性と一人の男性、あるいは一人の女性と一人の女性のあいだ、つまり一対一のあいだにしか起こりえないのですけれど、
三角関係というのは三者の間に起こるので、これは矛盾なわけです。つまり、恋愛における矛盾、あるいは矛盾としての恋愛です。
三人というのは、共同性のいちばん原型にある関係で、恋愛感情とか男女の恋愛という対幻想とはぜんぜんちがいます。本来ならばちがうはずなんです。
ですから、三角関係における恋愛というのは大なり小なりごまかしであるか、二重操作であるか、あるいは一方の対幻想の場面ではもう隠しておく、そういうでしか成りたたないのです。しかし、この種の恋愛はしばしば起こります 財務省は次年度に発行する予定の国債を1年早く発行する「前倒し債」の上限額を、2016年度は48兆円に引き上げる方針を固めました。2015年度の当初計画に比べ16兆円増え、過去最高額となる見込み。
日銀の異次元緩和で市場に出回る国債が少なくなっており、需給の逼迫で金利が乱高下するのを防ぐ狙いです。現在、日本は国債で流動性を確保しているため、それが足らないという判断でしょう。
確かに国債の需要はありますが、これは国の債務を増やすことに直結するので、「禁じ手中の禁じ手」だと私は思います
一方で、日本の借金はそれほど大きいものではない、という錯覚を抱いている人もいます。
例えば、現代ビジネスは先月28日、『「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした』と題する記事を掲載しました。元大蔵省・財務官僚で経済学者の高橋洋一氏が国のバランスシートを分析した結果を紹介。
財政破綻を煽る通説は、バランスシートの負債側しか見ていないことや資産として政府内の子会社を連結していない問題点があるとし、それらを仔細に見ていけば日本の財政はマスコミや学者が言うほどに悪くはない、と指摘しています 私は以前から高橋洋一氏のことを知っています。「財務省が握っている特別会計がある」「いざというときのリザーブになっている」と、
高橋氏は20数年間ずっと同じことを主張し続けています。しかしながら、その間一度も、指摘している資産が借金返済に使われたことはありません。
国が強い意識を持って、財務省が握っているものを丸裸にして国の借金返済に自由に使えるのならいいのですが、結局のところ、「使えなければ意味がない」のです。死ぬときに貯金はいっぱいあるけどもっと使っておけばよかった、というのと同じです。
そして重要なのは、マーケットがどう見るか、ということです。「資産があります」と言われても、それを引っ張りだすことができず使えないのであれば、役に立たないものとマーケットは判断します。だからこそ、日本の国の格付けも落ちていくわけです。
もし「いざというとき」のための資産だというなら、それを使うルールを法律で定めるべきだと私は思います。「格付けがここまで落ちそうになったら、これだけの資産を取り崩して借金返済に充てる」ということを決めて、格付けが落ちないようにすべきです。
高橋氏の話は「ウケ」がいいのは間違いないと思いますが、結局のところ20数年間、リザーブの資産を引っ張りだすことができていないのも事実です。それが実現できなければ、どれだけ「実は、資産があって換金できる」と言われても机上の空論に過ぎません。
マーケットがどう判断するか、ここに焦点をあてるべきだと思います。 “フロー型収入”は、一回のみの売り切りでのお金の流れで、
たとえばWEBサイト制作で、納品後に制作費用が支払われ、キャッシュが一気に入ってくる。しかし1回のみである。
“ストック型収入”は、一気にキャッシュが入ってくるわけではないが、少しずつ収益が増えていくモデルで、たとえば携帯電話、スマートフォンなどがある。
今後の売上予測が立てやすく、利益を新たな投資にまわすことも容易である。
雇用されている場合もフロー型ビジネスといえます
フロー型ビジネスは、単発でその都度仕事を請け負う形のビジネスです。飲食店や美容室、ゼネコンなど、常にお客を取ってきて、手を動かしていないと収益に結びつきません
ストック型ビジネスは、電気料金、携帯電話、サーバー代など、仕組みを作って、契約者を増やしていけばいくほどお金が入ってくる形のビジネスです。
フロー型ビジネスとは違い、仕組みさえ作ってしまえば何もしなくても収入が蓄積されるため、非常に安定感があります。
フロー型ビジネスとストック型ビジネスを投資に当てはめるとすれば、フロー型はキャピタルゲイン狙いの投資、ストック型はインカムゲイン狙いの投資と言えます。
基本的にフロー型というのは、物を安く仕入れて高く売る事を目標としていますし、ストック型は、価値のあるものを作って使用料をいただくことを目標としています。 新たな文化を示すことだ。若者の感覚はまったく新しい。基調はキレイ、カワイイ、ヤサシイ。90年代から始まった文化で、それまでの日本の伝統からはかけ離れている。
無国籍で超時代、そして完全な平等性が特徴。ポケモンやセーラームーンが代表格だ。私はこれを『J感覚』と呼んでいる。勇気とか覚悟とかの武人の美徳は日本からなくなった。これは世界史的にも珍しい。
平等ということで云えば、日本には若い人々の間で下手を喜ぶ文化も生まれている。特別の強さやうまさはいらない。タレントにクイズをさせたり、
お笑い芸人に曲芸をさせたりするテレビ番組がはやるのは日本だけだ。非専門の下手を許容するやさしさともいえる。こうしたJ感覚をアジアの人々にもっと知ってもらうことが重要だ 現在はまさに世の中が大きく変わろうとしている時だ。十年前の「常識」が、
今や急速に「非常識」になりつつある。十年前、石油ショックの直後には、輸出は
伸ばすべきものであリ、輸入は抑えるべきものだと信じられていた。だが、
今では輸出は抑制すべきものであり、輸入こそ伸ばすべきものになっている。
十年前には日本は経済の流れ(フロー)こそ成長したが、経済の蓄積(ストック)は
まだまだ貧しいといわれていた。ところが今では、日本人の一人当たりの
資産は、アメリカ人の三倍以上にもなっている。鉄鋼や造船が基幹産業だったが、
今では衰退産業になっている。歯科医はよく儲かる職業だったが、今はもう
過剰だ。工業用地は不足していると思われていたのに、今では全国に十億坪も
あまっている。
この十年間で、世の「常識」は急激に変わっている。これからの五年間には、
さらに大きく変わるだろう。今こそ、世の「常識」を疑ってみる必要がある時なのだ。
///////////////////// 「競争の原理」 ///
空間的発想から時間的発想へ
第三は、若者の人口が少なくなる時代に入ったことだ。その結果、日本の社会は、
フローよりもストック(蓄積)の多い社会に突入するだろう。
日本長く「上り坂の人余り物不足」の時代を経験した。特に、太平洋戦争後の二十年間は、
住宅や道路などのインフラストラクチャーが極端に不足していた。このため、それが
固定観念と化し、今もストックが不足していると思いこんでいる人が多い。
しかし現実には、工場や店舗などの生産施設も、住宅、劇場、道路などの社会資本も、
すでに過剰になっている。したがって、日本の需要構造も、建設主導から消費中心に
変わらなければならない。それはおそらく、情報化が大いに進むことを意味しているだろう /// 最適工業社会の繁栄と限界 108 ////////
現在の豊かさよりも未来の 成長に利益を感じる者のほうがずっと多かったのだ。今日の日本も、そうした社会の
長い伝統と慣習ででき上がったものである。
ところが、いまや日本では、子供と高齢者の数は著しく接近、一九九八年には
逆転する見込みである。このことは単に、需要の構造や生活の形態を変えるだけ
ではない。過去の蓄積で生活する消費者を増やし、未来の成長に期待する人口を
減らす、つまり社会全体がフロー経済からストック経済に変わるのである。
温暖湿潤な風土に恵まれた日本は、フロー経済の社会であった。伊勢神宮の
社殿が二十年に一度建て替えられることに象徴されているように、住宅も道路も
家具、装身具の類も、フロー型になっている。その日本が、生産よりも蓄積の大きい
ストック社会を迎えるとなれば、社会環境と人間心理に重大な変化が起こるだろう。
生産組織に属すことのなくなった純粋消費者としての高齢者群の膨張は、この国が
はじめて経験する静かな革命である。
もちろん、これにも反対はあるだろう。生産者組織としての企業は純粋消費者の
意見を無視したいだろうし、供給者保護型に組織された官僚機構は、年金と施設に
高齢者を囲い込もうとするだろう。高齢者自身のなかにも、子女への愛情から現在の
消費意欲を抑えることを美徳と考える古い美意識を保っているふりをしたがる者が
少なくないだろう。日本的伝統のなかでは、つねに子供は優遇される立場にあったのだ /// 最適工業社会の繁栄と限界 110 ////////
しかし、日本人がもし、高齢者に対する愛情と人口構造の変化を理解する知恵を
持っているならば、これに対応した美意識の変化が起こるはずである。
これからの十年間、国際環境と社会の豊かさと人口構造の変化の三つの要素を、
どう消化して行くかをめぐって、日本は大いに悩むに違いない。それは、外国から
解答の与えられない問題という意味で、仏教文化を見た飛鳥時代やゼロサム社会に
直面した享保時代の悩みに似た深刻なものになるだろう。これからの日本人にとって
重要なのは、ここで再びこれを解決する日本的哲学を生み出すことではないだろうか。
<了> ・・・・・
世界一の資産大国・日本は対外不均衡や資産格差の拡大を是正できるか?経済構造の転換に対応して土地、税制、規制等の問題解決のため、いま何をなすべきかを示す意欲的提言。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 何が問題なのか-パラダイムの転換(世界一のストック大国・日本/ストック経済の背景と構図/数字と実感のギャップ-家計の高貯蓄/数字と実感のギャップ-地価高騰の影響/
金融改革の問題点/地価対策の問題点)/第2部 何をなすべきか-具体的提言
(日本型ストック経済とは何か/株価大暴落の教訓/ストック市場の規制緩和/資産課税の抜本的見直し/不動産の証券化/新しい時代の起業家活動/国際化と日本経済の問題) 日本の企業の中には、利益追求の機能体としての本来の姿を忘れ、従業員共同体になっていると
ころも多い。
・日本では人件費が低いことを前提として、さまざまなシステムができているため、清潔や手続き
や責任回避に人手をかけることには実の無頓着だ。ところが、人件費が上がってきた今日では、
これまでと同じ手法をとっていては、清潔や手続きや責任回避のための費用が思いのほか大きく
なってしまう。したがって、部署別分析と項目別分析のほかに、もう一つ、効果別分析というコ
ストの分析を考えてみる必要が出てきたわけである。
・今、日本の企業が直面している最大の問題の一つは、人余りの低賃金時代に確立された人手をか
ける業務様式を、高賃金時代にふさわしいものに見直すことだ。そのためにも、<コスト+適正
利潤=適正価格>という官僚主導型業界協調体制の中で生まれた「コストはかかるもの」「この
費用は仕方がない」といった感覚を変えなければならない
今や豊かになった日本や欧米先進国では、生産のために他を犠牲にする必要はなくなった。貧困
からの離脱は、人生の中の欠かせぬ一部ではあってもすべてではない。少なくとも、生産関係の
ために共同体の形態と相手を選ぶ必要性は急速に低下している。むしろ、消費の配分と共同化こ
そが共同体の基本となっている。つまり、共同の消費(家計)を持つことを楽しみとする者こそ
家族なのだ。
・「好縁社会」の概念は、生産関係よりも消費関係を重視したものだ。そんな世の中が前面に現れ
るようになったとすれば、「本当に日本が豊かになった」といえるだろう。 少子高齢化は従来地方の、過疎地域の問題と思われていたが、いまや都市の問題となった。最
大の問題点は団地の劇的な高齢化である。これは世代間の断絶であると同時に、近代工業社会の
ために造られた通勤型市街の悲劇(または当然の結果)と言える。
規格大量生産型住宅における規格化された生活を人々が受け入れなくなったので、若い人が団
地に入ってこなくなった。これを改めるには、規格大量生産型でない居住地域を造る必要がある。
建物を建て替えるとか花を植えるとかでなく、通勤型の住宅専用区域という発想を捨て、クリエ
イティブな住民の入るアトリエ住宅やスモールオフィス・ホームオフィスの可能な自由空間を拡
げるべきである。
もう一つの問題は、特に東京において合計特殊出生率が極めて低い(全都道府県で最低)こと
である。これは東京が生きた都会になっていない、全人生(ライフ・サイクル)上の楽しみのな
い街になってしまっているからである。安全、平等、効率だけを追求してきたおかげで、東京で
はまともな人生を送れなくなってきているのである。
その最大の原因は、我が国の官僚が人生を規格化していることにある。その考え方は近代工業
社会の中で一番有用な人は、しっかりと教育を受け、大量生産に寄与できる能力、意欲、体力を
持つことであるという考え方であった。「健全な人生」とは、社会的に有効な知識と技能を修得す
る教育を受けてから、規格大量生産型の職場に終身雇用で就職し、一定の貯蓄をしてから結婚、
そのあとで金利を得ながら出産し子育てをする。この順序で、人生が規格化された 現在、少子化の著しい国・地域が2種類ある。
第1は、ルーマニア、ポーランド、ウクライナなど旧共産圏の東欧諸国、もう1つは韓国、台湾、シンガポール、日本そして中国都市部など東アジアの工業化した国・地域だ。
140911sakaiya ところが、この2つにははっきりとした違いがある。東欧諸国は35歳以上の女性の出産が極端に少ない。出生率がまずまずのロシアでも、35歳以上の出産数は少ない。社会主義体制を採るキューバも同様である。
日本やドイツは少子化国だが、35歳以上の高齢出産数はロシアやキューバを上回る。社会主義国家では子育ても「社会化」した。それが高齢出産を減らすらしい。
一方、東アジアの工業化した国・地域では、24歳以下の若年出産が著しく少ない。例えば日本は、女性1000人当たりの出産数は19歳以下で4人、20〜24歳で32人である。韓国の場合は僅かにそれぞれ2人と16人にすぎない。
これに比べて先進国の中で出生率の高い米国は19歳以下が42人、20〜24歳が103人である。フランスや英国も別表のように若年出産が多いのである。日本の若い女性が欧米並みに出産してくれれば、日本の長期人口問題は大幅に緩和されるはずだ。
では日本をはじめ東アジアの工業化した国・地域では、なぜ若年出産が少ないのか。各国が工業化の過程で「人生の規格化」を進めたせいだろう。 日本の出生率は「1.27」で、世界的に見ても極端に低い。少子化を食い止めることは喫緊の課題となっています。
まずは若年層の出産を増やすことが、日本の少子化対策の第一歩だと思います。そのためにも、高校生や大学生の出産が良くないことだと考える倫理観を変え、むしろ学生出産を歓迎する社会の雰囲気をつくることが大切です。
若年出産を奨励すれば、1世帯あたり4人ぐらいは子供が産める。そうなれば、親だけでなく、兄弟間で助け合いながら暮らすことができます。
家族の絆が生まれ、世代を超えた付き合いや人脈を築けるメリットもある。いまのように自殺者や孤独死が後を絶たない寂しい世の中にはならないでしょう。
もちろん、若者が産み育てやすい社会環境の整備や経済的支援も不可欠です。例えば、大学に託児所を設けて、学びながら子育てできる環境をつくれば、親に責任感が芽生え、就職しても自立した社会生活が送れるはずです。
子育て資金については、親が24〜26歳ぐらいになるまで、月に20万円ほどの公的な奨学金を貸与する制度を作ればいい。後に返す奨学金なので、「子ども手当」のように財源が痛むこともないでしょう。
今後10年間、若年層の出産が増え、出生率が「2.0」まで回復すれば、少子化問題はほぼ解消されます。「2.08」という数字になれば、永久に人口が変わらないといわれています。
出生率の増加による経済効果もかなり期待できます。死蔵している1400兆円の個人資産は相当に動くでしょうし、日本経済が活気づくことは間違いありません。
日本の若者に改めていいたい。学生結婚・出産、婚姻前の妊娠は決して恥ではありません。知価革命によって、欲しいときに満足するモノを買うというライフスタイルが進んだように、
子作りの年齢も一様にする必要はありません。自己責任において自由な子育てや人生の順序を組み立てられるような時代になっていることを、再認識して欲しいと思います。 我々の若いころは、感情論で話をすることは恥ずかしいことでした。たとえば会議で同僚から「君の意見は感情的だ」と言われると
「違います、データがあります」なんて言い訳をしたものです。ところが80年代以降は、「あなたの言っていることは単なる数字。
住民感情はそんなもんじゃない」と言われたら一発で負けなんです。主観や感情が科学的数字に勝つようになってしまった
人間は 所得の格差よりも消費の格差を嫉妬する 嫉妬を正義にした愚かさ
それでもなお、一つだけは日本人にとって大きな魅力が、この国には残っている。
それは、平等主義の故に嫉妬を正義として主張できることだ。
現在の日本の正義を作り上げて来たものの一つは、嫉妬である。1970年代からの
日本は、あらゆることを犠牲にして、国民の中に渦巻く各種の嫉妬に迎合して来た、
といっても過言ではない。
たとえば、年功序列で賃金が一斉に上昇する制度は、抜擢される者を嫉妬
しなくても良い、という利点がある。高額所得者に高率の累進課税をかけることで、
低額所得者は溜飲を下げることができる。
嫉妬を正当化する横並び平等主義は、排除されるべきである。
腹の立つ土地成金は、超高率不動産所得税と地価税でやっつけた。それでも
残す奴からは相続税で大部分を取り上げる。豊かな者は悪評を蒙り、貧しい
庶民は慰めが得られる。
こうした社会的な嫉妬が、日本の政治、日本の社会構成、日本の経済条件に、
非常に大きく影響している。そしてそれが、官僚統制の大きなテコにもなっている
のである。
それというのも、1970年代から、新聞やテレビをはじめとしたマスコミが、嫉妬に
基づく主張に安易な正義感を付与してしまったからだ。
嫉妬は人類が持つ最悪の劣情である。劣情に基づくシステムは悪しきシステム
である。だから、日本が本当に魅力ある国になるためには、嫉妬に基づくシステムを
排除する方向に動かなければいけない。
/// 堺屋 太一 著 /// ・・・・・改革によって失われる第三のものは、社会の均質性だろう。いやむしろ、
均質性を打ち破り、個性と創造力に富む社会を創ることが、平成改革の狙いでもある。
まず、少子化が続くと、相当多数の外国人が入り込んでくるのは避け難い。また、
人口の地域集中化、過疎と過密の極端な進行、そして産業技術ワンセット主義の
放棄にともない、社会の均質性を維持することは難しくなる。その結果、日本国民の
間でも、美意識と倫理観の共通性が失われることになるだろう。
これまでの日本では、たとえば勤勉は善だ、清潔なのはよいことだ、そうみんな
信じていた。人間の美意識というのは、本来は地域や習慣、職業や個性で違う
ものだが、今日の日本では驚くほど均質的になっている。
美意識と倫理観の均質性が失われると、消費の規格化、標準化も失われる。
このことは、米国社会に見られるような多様な文化や慣習を生む一方、
ローコストの生活を可能にすることにもなるだろう。
いまの日本では、小学生ですらブランド品を持たないと修学旅行に参加できない
ような雰囲気になっている。こんな社会心理は不幸であり不便だ。個人が自らの
好みで選んだものを堂々と発露できる情況にならねばならない。
美意識と倫理観が共通なら、国を管理する上では楽だが、尺度が共通なだけに
嫉妬を生みやすい。そしてその嫉妬が正義を粧って主張されるとすれば、
みんなが不満と脅えを持って生きることになるだろう。 国民の側にも、役人に任せておけば安心、という意識が根強くあります。どこかで、役人を尊重しているのです。民の選んだ人よりも、試験に合格した人を尊ぶということです。 民に選ばれる人は、民が落とせます。
「あのブランドも、もうダメね」とみんなが感じたら商品は売れなくなります。代議士も投票されなければ落選します。だから、民に選ばれる人は、どうしても民に媚びるところが出てきて偉く見えない。
これに対して、試験に合格した人のなかから、同じく試験に合格した先輩が選ぶのが官僚です。たとえ大きな失敗をしても、民が彼らをクビにすることはできません。旧大蔵省の接待問題や、
外務省で起こったさまざまな疑惑を、思い出してみてください。結局何も変わっていません。仲間だけで許しあったのです。本当にそういう者に、
自分たちの社会を任せてしまっていいのか、いまこそ、よく考えてみなければなりません MX8JAKQ2 @窓際戦隊φ ★:02/09/15 06:28 ID:??? 作家で元経済企画庁長官の堺屋太一氏が中心となって、全国の
自治体が先進的な地方分権政策を競うインターネットのサイトが15日、
スタートする。
「全国自治体・善政競争・平成の関ケ原合戦」と銘打ち、堺屋氏が
「軍師」として全体に目を配り、事務局長役の「設営奉行」を
梶原拓岐阜県知事が務める。
サイトは「教育改革」「行財政改革」「環境対策」など十の分野ごとに、
自治体の参戦を呼びかけ、先進的な取り組みを発信してもらう。
自治体単位だけでなく、自治体職員や住民も意見を書き込める。
堺屋氏を中心とした委員会で高い評価を受けた自治体は表彰する予定だ。 今年2月、奈良県御所市名柄に世界初の郵便庭園が開かれた。
明治初年から昭和までの時代を象徴する郵便切手を大きく拡大、透明な衝立(ついたて)に並べて野外に展示する。これが設けられる「郵便名柄館」の本体は、100年ほど前に開設された木造洋館の旧郵便局を再生した産業遺産である。
昨年8月には、ここをあて名として「はがきの名文コンクール」が行われた。テーマは「ひと言の願い」、地元にある一言主神社にちなんだものだ。 これには全国から3万9500余通、5歳から101歳までの人々が応募してくれた。
ところが、応募された「ひと言の願い」はすべて内向き。最も多かったのは「死んだおじいちゃんおばあちゃんに会いたい」の類、次いで「家族の病気を治してください」や「平和な暮らしが続けられますように」である。
そこには将来展望を語り、明日への希望に夢膨らませる類のものはなかった。 「将来はサッカー選手になりたい」とか「宇宙飛行士志望」という少年も、「会社社長の大富豪」や「日本を導く政治家を目指す」という青年もいなかった。
予備審査員40人が探してようやく3通前向きなものが出てきた。「お寺の住職になりたい」という青年と消防士志望の少年、そして「ケーキ屋で近所を喜ばせたい」という少女である。
「はがきの名文コンクール」だけで世の風潮を断じるわけではないが、ここに示された「欲望の低さ」は、あらゆる場面に見られる。 まずは若者の間に広がる物欲の低下だ。20世紀のうちは家族も独身者も「豊かなモノ」に憧れ、衣料を買い込み電気製品を
そろえ自動車を買った。中年世帯は分譲住宅を探して展示場を回った。
だが最近は、あえて高級衣料や電気製品をそろえず、必要に応じてレンタルする人々も多い。自動車にしてからが「要るときにレンタルすればよい」という向きも増えている。
1980年代以降に生まれた「ミレニアム(世紀末)世代」は、モノを持つことにステータスを感じないらしい。 第2に、最近の若者には「未来への夢」が乏しい。90年のバブル景気の頃までは、年々経済は成長し、収入は増加した。
誰もが「明日は今日よりも豊かだ」と信じて夢を描くことができた。 だが90年以降の日本は経済も人口も頭打ち、よほどの努力と幸運に恵まれない限り、人生を変えるほどの飛躍はない。むしろ予測されるのは意外な転落である。人はみな臆病な心配性になってしまったらしい。
そのせいか、飛躍を夢見て海外に留学をする青少年もめっきり減った。欧米では今や日本からの留学生は「絶滅危惧種」、
中国や韓国人の大集団に圧倒されている。 だが何よりの気懸かりは40歳にして一度も結婚を経験していない男性の急増だ。
75年、私は40歳で結婚未経験の男性だったが、当時それはきわめて珍しかった。高校大学の同級生も役所の同期入省者もみな結婚経験者。多くは子持ちである。それだけに結婚を迫る圧力は四方から感じた。
ところが、2015年には40歳の男性の30%以上が結婚未経験者。生涯未婚で終わる男性は20・1%と予想されている。
なぜこれほど40歳男性の未婚が多いのか。その理由が経済的な問題や住宅問題でないのは明らかだ。日本人ははるかに貧しい時代に若くして結婚し、どんどん子を産んでいた。諸外国でも貧しい人々が早期に結婚、若い年頃で出産している。
それがなぜ、最近の日本人に限り40歳になっても結婚しない者が多いのか。
この理由は2つ。1つは結婚を強いる社会の機能がなくなったこと、もう1つは若者自身の結婚生活への想像力と決断力が欠如していることだろう。
実際、現在の日本社会の最大の危機は、社会の循環を促す社会構造と若者層の人生想像力の欠如、つまり「やる気なし」である。
「欲ない、夢ない、やる気ない」の「3Yない社会」こそ、現代日本の最大の危機である。 16年に入ると、日本をめぐる状況は急に厳しくなった。中国経済の減速と国際原油価格の下落で、経済は混乱し出した。
過激組織「イスラム国」(IS)や北朝鮮の動きも要警戒だ。国内の政治も一見は安定してみえるが、「次」が見えない不安がある。だが、何よりの重大問題は「3Yない」の社会風潮。世の雰囲気である。
今の日本は世界で最も「安心で安全で清潔で正確な国」だ。だがあまりにも安全清潔に徹する規制と厳格な基準の故に、人々の楽しみを奪い、やる気を失わせているのではないか。官僚、教育などの猛省を促したいところである 大阪の地盤沈下、どう立て直す 作家・山崎正和氏に聞く
「地盤沈下は、もう50年前からです。それから改善されないまま、今に至っています。そのころ、東京に追いつき追い越せという勢いで、堺市の海岸に重化学工業地帯をつくることばかり考えていたんですね。後追いはしょせん後追いで、追いつけなかったのです」
「そのうち高度経済成長が終わりを告げ、デザインやサービスといったソフトに産業の重点が移ってきているのに、大阪はそれについていけませんでした」
「その間、自治体はほとんど何もしなかった。財界が強かったからですね。関西経済連合会は、今でこそとても東京の経団連に及ばないが、当時は関西電力を中心に力のある企業がたくさんありました」
「戦前は、大阪市長に関一さんという人がいて、御堂筋をまるで飛行場みたいな巨大な道路にしたように、イニシアチブをとっていました。それが戦後は、無為無策です」 まず、昔といまとでは、企業の時価総額の考え方が違います。10年前まで、企業の時価総額は、次のように考えられていました。
――いまの事業計画に基づいて未来永劫経営したときに、得ることのできる利益の現在価値(NPV)。
しかし、これでは新しい経済構造にはついていけません
1. 従来のケインズ経済(国民国家内の閉鎖経済) 2. ボーダーレス経済
3. サイバー経済 4. マルチプル経済
このうち、「サイバー経済」は、文字通り、サイバー空間で取引が成立する経済。ECがその代表例である。
「マルチプル経済」は、このあとでも説明があるが、要するに「数式上の仮説に基づいて、株価収益率(PER)、
ヘッジング、デリバティブなどのテクニックを使って資金を調達し、世界市場を動かしていく経済」である
「上場当時の売上は10億円台で、利益は1500万円台そこそこでした。ところが、上場してついた時価総額をご存じでしょうか。何と1300億円なのです。
これは、従来の企業価値からは説明できないでしょう。ただ、見えない大陸で新しいテリトリーを占拠したという発想からのみ、説明することができるのです
カリフォルニアやテキサスを占領した場合、そこにはどのような価値がつくか。それは、単なる荒れ地の土地代で終わるのではなく、
その土地の持っている潜在価値に対して時価総額が決まる」というわけである 以上のことが、同時に起きているのが現在の社会であり、その根幹にあるのがIT革命というわけだ
会社の規模からいえば、どこにでもある地場スーパーと同じ程度でしょう。でも、地場スーバーの場合、
どんなに業績がよくても、時価総額にするとマルチプルといってもせいぜい7、8倍。それに対して、
ライブドアの財務諸表は地場スーパーとたいして変わりがないのに、時価総額は4000億円にものぼるのです。
ニッポン放送買収騒ぎのときも、リーマンブラザースに依頼して転換社債という方法によって、
あっというまに700億円を調達してしまいました。銀行で調達しようとすると、
借りた金を返さなくてはならないが、これならば自分の時価総額で転換でき、借金も残らない」
「売上455億円の楽天が、なぜ3300億円のTBSに経営統合を仕掛けられるのか−−これもまた楽天のマルチプルが100倍以上と高いためです。
楽天の時価総額は1兆円を超えていますが、TBSは20世紀型の企業のためマルチプルがほとんどなく、時価総額は7000億円程度。
だからこそ、楽天が有利に経営統合の話を進められるというわけです 信長は安土城で相撲の興行をよくやりましたね。
その第1回目の相撲の興行が終わって、人がいっぺんに退散したらたちまち混乱して石垣から落ちて怪我人が出たんですよ。それで家来の丹羽長秀に「この次は怪我人が出ないようにしろ」と命令したんです。
そうしたら奉行たちが集まって、道路を広げたらいいとか、橋を付け替えなきゃいかんとかいろいろ議論をして、「費用もかかるし、時間もかかるけれど、いかがいたしましょうか」と信長に具申すると、信長は
「おまえたちは馬鹿だな。混乱するのはみんながいっぺんに帰るからだ。それを分散させる手を考えればいいじゃないか。最後に何か1つ付け加えれば、それを観るやつと観ないで帰るやつに分散するから混乱しないだろう」
といって、弓取り式というのを考え出したわけです。確かに最後に弓取り式をやると、それを観る人もいれば観ないで帰る人もいますから混乱しないんですね。
ハードではなくてソフトで解決する。これは天才的な発想だと思います。
2020年の東京オリンピックの新国立競技場の問題も、そういう柔軟な発想がないからお金ばかりかかってしまうわけですよ。あれは織田信長だったら500億円でできますよ 「時代」が古び産業が振るわず、財政が借金頼みの破綻状態になると、人口は都に集中し地方は極端に衰退する。それにも拘(かかわ)らず、
中央の官僚たちは前例踏襲の規制維持に安住し、地方の行政官は中央の指示にのみ従う。それが地方行政の安全で安易な道だと考えられているからである。
江戸時代の末期も、第二次大戦に向かう昭和10年代にも、そんな状態が生まれていた
第二次大戦後の制度では、そんな中央集権・地方追従型の政治行政を避けるために、
地方自治体の首長を選挙で選ぶ公選制にし、都道府県と区市町村の2段階の地方議会を設けて行政と予算を監視監督し、政策アイデアを練らす機関とした。
従って、府県議会や市議会などの地方議員は、それぞれの地域の代表的な職業に従事する人々が、仕事と生活の場を通じて知り得た情報を持ち寄って議論し、
地域の安定と振興に知恵を出し合う場であるはずである。
民主主義の伝統を持つ欧米でも、地方自治の形はそれぞれに異なるが、地方議員の機能と形態はほぼ貫かれている。
地方議員のほとんどは別に本業を持つ市井の職業人か、広域政治へ進出する「修行中の人々」で占められている この都道府県会議員や区市会議員の報酬などは諸外国に比べ断然高い。諸外国では地方議員は地域の職業人のボランティア活動と見做(みな)されており、報酬などは会議出席日の日当だけというのが多い。中には全く無給という例もある。
日本の地方議員の第2の特色は、ほとんどが男性で他に職業を持たない専業議員が多いことだ。
都道府県議会議員の91%は男性、その半数近くが専業議員だ。以前は農業や建設業者あるいは造り酒屋などの製造業を営む「地方名士」が多かったが、
今では議員専業者が断然多くなっている。中には2世議員も多く、地方議員の「家業化」さえ進んでいる。
これでは地方議員の地位を守ることが優先され、政策論議や地域興しの知恵が出ないのも当然かもしれない。
日本の地方議会の低調さを示すのには、次の数字がよいだろう。
各都道府県の知事や市長、区長らの首長が提出した議案を
この4年間1本も修正や否決をしたことのない「丸呑(の)み」議会が50%もある。また議員提案の政策条例が1つもない
「無提案」議会が91%、議員個人の議案への賛否を明かさない「非公開」議会が84%にも及んでいる(朝日新聞調査から)。
これでは地方議会から地方振興の知恵を期待するのは無理だろう。欧米では地方議会の会議を休日または夜間に設定、
一般の会社員や教員、ジャーナリストが参加できるようにしている。日本もそれに倣うべきではないか
高給を取り専業化が進む日本の地方議員は、それ自体が守旧の牙城ともいえる。これを崩す改革の第一歩は、
今年4月の統一地方選挙。地方議会の仕組みと人材を改め、地域の振興に一石を投じたいところである 社会における所得分配の不平等さを表す指標であるジニ係数は米国、豪州などについで高く、格差が大きい社会と言える。
自殺率も1990年代前半のバブル崩壊後急増し、現在もOECD加盟国の中で、韓国に次いで高い。最も低いのはギリシャなのは象徴的だ。
高い自殺率の背景は何か?日本人は心配性であり、社会に遊びの余地がなくなった。これは非常に危険なことである。飲酒運転取り締まりが厳しくなった結果、5万人以下の都市では飲食店がはやらなくなり、
夕方にはシャッター通りとなってしまう。明治期は強い日本、戦後は豊かな日本を目標にしてきたが、今「楽しい日本」をいかにつくるかが課題だ。
「大阪城で10万人による盆踊り大会を」(作家の堺屋太一氏)、「大阪で若者が集うゲーム大会を」(元東京都知事の猪瀬直樹氏 安倍政権が成長戦略の一環として構想している戦略特区にしても、そういった官僚たちの規制構造を打ち砕こうとするものだ。
まずは例外的に試してみて、日本経済の活性化に結びつくことを実証しようという構想なのだが、特区においてさえ、規制緩和にはことごとく官僚が激しく抵抗している。彼らの大義名分は、弱者保護と危険防止である。
しかしながら、官僚たちが禁じていることこそ、実は最も有意義なことなのだ。デリバティブがその典型である。
世界的にデリバティブ取引が普及したのは、1986年のビッグバンが契機だ。デリバティブとは、常に変動する社会の中で安定的な投資と経営をするために考え出された人類の英知の産物だ。
とかく官僚は、統制によって価格の安定を図ろうとするが、技術の変化や気象の変動にはついて行けない。旧共産圏の悲劇がそれを示している。そこで、価格の変化を許容しながら、経営と生活をより安定させるために考案されたのがデリバティブである。
たとえば服地を生産する際、将来的にその生地が安くなる恐れがあれば、先物で売っておけばいい。これがデリバティブの根源的な機能であって、いわゆる保険取引なのだ。
さらに言えば、経済を安定させるうえで基盤となる取引であって、これが存在しない世の中は実経済自体が投機的になってしまう。 そもそもデリバティブに属する先物取引は、江戸時代初期の大阪の米取引が世界最初の発祥である。来年の産米を今売ることで農民も年貢を集める大名も収入が確定できる。問題は来年できる米の品質が未定な点だ。生産地でも天候条件でも米の品質は異なる。
これを価格差に置き換えることで米の先物取引ができるようになった。この方式は今も全世界の商品取引に採られている。
ところが、統制好きの官僚主義者にはこれは理解できない。たとえば8代将軍吉宗は、米先物取引の効用を理解せずに取引価格に介入し、先物取引の規制を行なった。
このため、豊作の年には米価が大下落、翌年には農民の生産意欲が低下して大凶作になってしまう。官僚統制は結局、世の中を不幸にするのだ。
後世の人々に、綱吉治世の元禄時代と吉宗治世の享保時代のどちらに生きたいかと尋ねたら、元禄と答える人が圧倒的に多い。
貨幣を大増刷して金融緩和を進めた点でも綱吉の政治は今のアベノミクスと重なる。その結果、元禄には歌舞伎浄瑠璃、俳句、絵画などの文化が花開いた。
官僚統制の厳しい8代将軍吉宗の享保は、お庭番(密偵)がうろうろし、凶作とデフレが繰り返された嫌な時代である。 デリバティブのもう一つの利点は、価格の決定に誰もが参加できる点にある。たとえば石油のように、通常なら一般市民が値決めに参加できないものでも、デリバティブなら取引に参加することが可能だ。
たとえ現物の石油や備蓄する貯蔵施設がなくても、明らかに今の値段が高すぎる(安すぎる)と思えば、売り(買い)の注文を入れて、自らの判断が適切かどうかを占える。
えてして官僚的な政治は、規制・統制・取り締まりで面白くない世の中をつくりたがるものだ。対照的にデリバティブは、全員参加型の値決めで面白い世の中をつくるのに一役買っている。
だからこそ、官僚たちから規制を受けがちなのだ。それどころか、「デリバティブは投機的な行為だ」という悪宣伝もされる。
しかし、実際のデリバティブは、公開が原則で誰でも参加可能な取引であり、極めて公正なものだ。対照的に、官僚による統制や一部の大企業による値決めは、価格の決定権を市場から奪い、巨大な無駄を生む危険がある。そのことをわれわれはソ連で実見したはずだ。
選挙においては、より多くの人々が投票に参加するほど民意を的確に反映した結果がもたらされる。同じように、デリバティブも数多くの投資家が取引することで、民意を反映した価格決定が行なわれる。
デリバティブは万人が自由に参加できる公開公表の市場なのだから、選挙で投票に赴くように、気軽に利用していただきたい 日本が将来も自由と繁栄を保ち、世界の主要なプレーヤーであり続けるためには、
世界経済のグローバル化と国際社会の非軍事化を叫び続けねばならない。
そのためにはまず、自らが自由主義経済の体質になり、競争原理を貫く体制を築く必要がある」
「その第一は、過剰な金融取引や商品投機、そして誤った経済哲学と経済理論のせいである」
「世界の金融は、82年からイギリスのサッチャー政権が行った金融自由化からはじまった。
それが86年には『ビッグ・バン』と呼ばれるほどの巨大現象に」発展する。時を移さずアメリカでも金融の自由化が進み、株式等の取引手数料も自由化された。このため手数料は極端に低下し、
手数料収入では喰っていけなくなった証券会社は、短期の低利資金を集めて高利の長期投資に回す投資銀行と化した」
「金融市場は実に単純、それを動かす動機はただ二つ、『強欲と臆病』である。
…強欲は少ない資金でより多くの利益を得るための梃(レバレッジ)を生み、臆病は元利の安全を求めて保証取引を作った」「90年代、様々な金融技術が考え出され、
『金融工学』なる言葉もできた。だが、それらは所詮、二つの矛盾した目的を言葉巧みに繋ぎ合わせただけで、何一つ新しい価値を生み出していはいない」「90年代に拡大したデリバティブとは、
結局は危険付き利益のキャッチ・ボールだ」「サブプライム・ローンの破綻に発した金融危機が、全世界にまたたく間に広がったのには、21世紀の国際金融の脆弱にして巨大な広がりがあった」。
http://futennochun.cocolog-nifty.com/gungungunma/2011/09/post-6890.html 重要なのは、もっと日本の中で「人生とはそもそも何なのか」という議論をすることだ。なぜなら、世界中を見渡しても、お金をせっせと貯め込んで使わない国民は、日本人しかいないからである。
たとえば、リタイアしたアメリカ人は何をしているか? 釣りが好きな人たちは仲間とクラブを作り、オーストラリアでのマーリンフィッシング(カジキ釣り)など世界中に出かけている。
あるいは、メキシコ西部のバハ・カリフォルニア半島に囲まれたコルテス海という場所に行くと、ロサンゼルスやサンフランシスコから1500kmも南下してやってきたアメリカ人の船ばかりだ。
ヨーロッパの地中海やエーゲ海には、ノルウェー、スウェーデン、ドイツ、イギリスなどからジブラルタル海峡を越えてきたクルーザーやヨットがあふれている。
これらは決して「資産家の遊び」ではない。ごく普通の中流階級の人でも、趣味を高めていけばそうなるのだ。
しかし、日本人はそういう優雅な遊び方をしない(できない)。したがって「人生とはそもそも何なのか」「働いてお金を貯めるだけでいいのか」という議論を通じてしか、日本人の行動は変わらないと思っている。
その中で「人生を楽しむ」ことを国ぐるみで教えることも必要だろう。たとえば、カルチャーセンターのようなところで50歳以上の人たちを対象に、自分なりの人生の楽しみ方について具体的に手ほどきする講座を開くのである。 さらに政治が国民に対して「みなさん、お金を使って人生をエンジョイしてください」「悔いのないよう、やりたいことを全部やってください」「万一の時は、国がセーフティネットを用意しているので安心してください」というメッセージを流す。
日本人はかつて「貯めろ」と教えられてその通りにしたように、(皮肉を込めて言えば)“教育”すれば実行できる人たちだ。「お金を使い人生を楽しむ」という教育をすれば意外と簡単に変わり、欲望が出てきて消費に向かうと思う。
こうした議論に対する反発の多くは「それでも、いざという時はどうするんだ?」というものだ。つまり、国が信用されていないのである。だから大前提は、いざという時には国がとことん面倒を見ます、と保証することだ。
そのようにして1700兆円の個人金融資産が消費に向かうようにすることが、日本の経済政策の根本である。言い換えれば、20世紀型の金利やマネタリーベースをいじるマクロ経済政策ではなく「心理経済学」こそが
、いま求められている成長戦略の要なのである。 安倍首相からの圧力もあって企業側の対応も大変だったと思います。ベアは一時金と異なり構造的に残るものですから、今回はかなり腰が引けたことでしょう。
安倍首相など政府が期待するのは、「給料を上げる→使うお金が増える→景気が回復」という回転ですが、そもそもこの考え方が根本的に外れています。
今の日本でお金が余っているのは高齢者であって、勤労所得者ではありません。勤労所得者の給料を2%程度上げてみても、
ギリギリの生活を送っている層ですから、消費に回ることはほとんどないでしょう。
私は何度も指摘していますが、働いていない高齢者が握っている家計金融資産1700兆円の大部分を消費につなげるように、安心して使えるようにしない限り、
日本の景気は良くなりません。日本の景気とベアとは全く関係ないと考えるべきです。
安倍首相にしても、そのアドバイザーにしても、この点を理解していないのか、ずっと的はずれです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています