80年モスクワ五輪マラソン◆日本幻の上位進出◆
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78年あたりから10数年間、日本は間違いなく世界でもトップクラスの
水準を誇っていた。残念でならないのが80年のモスクワ五輪の不参加。
瀬古利彦&宗兄弟という強力布陣で、大きな故障とも無縁だった当時、
仮に参加していたら3人とも入賞を果たしていたような気もする。 79年の福岡国際は競技場内まで日本人3選手によるデッドヒートとなったマラソン史上
屈指の名勝負。この陰で、チェルピンスキーは競技場まで帰ってきながら、残り一周と
いうところで途中棄権。思うよな一投が出来なかった投てき選手が自ら足を踏み出して
「記録なし」にすることがあるが、それに似たケースかも知れない。 喜多秀喜もモスクワのチャンスだった。78年福岡2位。79年は別大で優勝。
ところが暮れの福岡で轟沈。
81年は東京(読売グループ主催のほう)で勝った後、ボストンで惨敗。
84年は北京で優勝した直後の福岡で沈没。
好不調の波が激しかったのが難点。但し、競り合いには滅法強かった。 喜多は同じ神戸製鋼の武富とライバル同士だった
79年の別大マラソンでは1位2位独占
武富はスピードが無い弱点を猛練習で補った
しかし武富もオリンピック出場の夢は果たせなかった
引退後は天満屋の監督になり4大会連続女子マラソン五輪出場の偉業を実現した ヒゲの鎌田も確か70年代後半の人。
同じカネボウの伊藤国光は80年の福岡が出世レースか。
いずれにしても、この時代は「夢」があった。
武富豊は選手・武富としても、なかなかのものだが、指導者・武富として、さらに光った。 旭化成宗兄弟の先輩が佐藤進
粘り強い走りで78年と79年の毎日マラソンで上位入賞した
翌年現役を引退しダイエーの監督に就任し無名だった中山竹通を一流選手に育てた
ダイエー廃部後スズキ陸上部監督に就任したが2003年54歳の若さで亡くなった
しかし最近になって恐ろしいことを知ってしまった
https://twitter.com/masahiro2010/status/1108149056268689408
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 佐藤と言えば「ヒゲの佐藤」こと佐藤市雄もいた。
ダイエーで言えば88神戸インターハイ5000m高校チャンピオンの熊谷勝仁が
中山のポジションに到達してくれるのでは、と楽しみにしていたのだが。 ダイエーは道浦も素質がある選手だったな
ダイエーが廃部になって住金化工に移る際に1年間広島県を拠点に活動してた時に
中国駅伝に地域対抗の部で参加して物議をかもした
この時1区を走って区間最下位の大ブレーキでスリリングな展開を演出した 道浦と言えば、3000m障害の高校チャンピオン?
確か和歌山北でしたか
90年の全国高校駅伝1区3位。記憶が曖昧ですが・・・・・ 当時の学生長距離界は日体大が全盛期だった
大塚正美の勝負強さはポスト瀬古と言われた
週刊誌で大塚が日体大の監督を批判していた 岡野監督。大松博文の甥。日体大の箱根駅伝優勝の10回のうち8回をこの人が
指揮しているが、名将と言う声は聞こえてこなかった。
「岡野が監督でなければ、あと2回は勝てた」の声までも。
昭和54年と57年の話か。
のちに亜細亜大学の監督に就任した大塚氏だが後任として就任した岡田氏に
「前監督は、ちゃんと引継ぎをやってくれなかった」と評された。 イケメン大塚氏は谷口浩美と同期。将来を嘱望されたのは大塚のほうだった。
瀬古・宗兄弟から中山・谷口・森下へと至る約15年間がニッポン男子マラソン
の黄金期。残念ながら、きょうびのマラソンに当時のような夢を見ることは
出来ない。 83年のMVPは悩ましい。大塚か、5区の岡か、6区の谷口か。。。。。 >>77
大塚は合宿所を抜けて一人で練習し週刊誌で岡野監督のパワハラを批判した
一時は箱根駅伝のメンバーからも外されたが部員たちが団結し逆に岡野監督を追放し集団指導体制を確立した
皮肉な意味で前監督の岡野氏がMVPだと思う モスト バイオレンス プレイヤー
M V P
岡野氏。当時まだ42歳くらい。
その数年前、新宅&中村孝生の件で揉め、二人は日体大に研究生として残らず
中村清監督&瀬古利彦のところへ走る。 今思うと昭和58年あたりが男子マラソンにとっては、一番いい時期だったような。
瀬古利彦が最も勢い盛んだったのは、この年だろう。 昭和五十五年だったからな。韓国光州デモ事件が有ったからな。 昭和55年の箱根駅伝MVPは誰が何と言おうが瀬古利彦。
裏のMVPが4区で流れを変えた中村孝生。 箱根駅伝5区で4年連続区間賞を取り元祖山登り男と言われたのが大久保初男
79年の福岡では前半独走したが雁ノ巣折り返し過ぎてから集団に捕まり82位でゴール
瀬古は優勝インタビューで「あの選手はいつも最初だけ早い選手ですから」と言い放った 2000年代山登り3傑の中で一番大久保初男にタイプが似ているのが柏原竜二。
ガムシャラに走るタイプはマラソンでは厳しいのでは。ある程度、飄々と走る部分
がないと長時間持たない気がする。 大久保初男。青東駅伝では最下位でタスキを受け全員抜きで首位に立ったことも。
79年福岡時は大昭和製紙所属。 本当に懐かしいな、しんたく・まさなり。
ひさとし、なんて時代もあったが。 田口淳之介容疑者、小嶺麗奈容疑者、自宅で逮捕の瞬間は.....
https://youtu.be/9g1TU6B9BAc しかも「かもり某」と「回顧趣味者」同士は全く会話していないという。
まあ、スキを衝いて100ゲット、ちゅうこっちゃ。 宗茂が78年別大マラソンで記録した2時間9分5秒6は当時世界歴代2位
この日から日本マラソン界の躍進が始まる
高橋尚子の98年アジア大会2時間21分47秒と同じくらいのインパクトがあった 78年の宗茂の快走に始まり、同年の瀬古利彦の福岡国際マラソン制覇。
ここから92年のバルセロナ五輪までは世界のトップレベルで勝負出来た日本マラソン界の
華やかな黄金時代だったと記憶しておきたい。 努力は無限と中村清は語り中距離の有望選手を根こそぎマラソンに転向させた
中村孝生や金井豊が中距離を続けていたら石井隆士以上の名選手になっていたかもしれない 中村清は高校時代400m選手だった篠田正浩氏を箱根駅伝2区に起用した人。 中村清は上司にしたくない男ではある。
しかし、傍観者の立場で見るとハチャメチャに面白い「おとっつぁん」である。 瀬古は選手としては良かったが指導者としては甘すぎる ミュンヘン2位。モントリオール3位。モスクワも9位。凄いなリスモン。
モスクワの時の10位がのちのビッグ・ネーム、キャステラ。 オリンピック2大会連続長距離2冠王のビレンが30キロまで先頭集団にいた ビレンはモントリオールでもマラソンで5位に入っているから侮れない。
ただ、モスクワではイフターに完膚なきまでにトラックでやられたから、後遺症があったかも。
ピークは確実に過ぎていたようだし。 箱根駅伝での瀬古利彦の雄姿をリアルタイムで見たかった。 瀬古vs新宅の黄金カードが80年に実現していたが、急遽NHKで実況生中継
したらしい。 岡野監督「SBに入った新宅と中村は裏切り者だ!日体大OB会を除名した」
↑
日体大の選手「あんた頭おかしいんじゃないか?見切りをつけられたんだよ」 日体大に研究生として残して、日体大の肩書のまま五輪に出させようと仕向けたと。
世迷い言だな。 新宅&中村コンビは中村清監督に傾倒したというのもあるかも知れないけど
「瀬古くんとぜひ一緒にやりたい」という思いが半端ではなかったようだ。
中村監督は、自分に懐いてくる者は可愛くて仕方ない性分だし、2人共エスビー
に行って良かったと思う。
箱根本番では、中村監督に傾倒しているのが明らかになっている事情など全く
関係なしに中村孝生が4区区間新で一気に流れを日体大に引き寄せた。
前年、取りこぼしてしまった日体大だが、大本命の貫禄で順当勝ち。
岡野氏は8回目の優勝監督となったが、これが岡野政権での最後の優勝でもあった。 79年のインカレ5000m
https://www.youtube.com/watch?v=Abb4gY9bzys
やはり3000SC専門の新宅の方がマラソン練習をしている瀬古よりも切れ味が上
中京大の川口孝志郎と福岡大の村越忍も健闘しています
二人とも1度社会人を経験してから大学に入学しています
この頃は大学に行きたくても家庭の事情で行けず仕事をしている人も多かったようです 帽子がトレードマークの川口孝志郎の懐かしい姿が目立っていた。
瀬古利彦が引っ張るレース展開は、見慣れない光景で新鮮味があった。
新宅は、やはり強い。もう40年も前なのか。雨の中のレースだったがクオリティ
の高いレースだったと思う。貴重な映像。up主に感謝したい。 社会人経由で大学に行った人が結構いた。早稲田は浪人して入学した人が多い。 80年の早稲田で言えば、2区瀬古、3区金井、9区小田、10区滝川がそうか。
滝川は日大には受かっていたが、どうしても早稲田に行きたくて仮面浪人して
早稲田を受験し直した。
瀬古&金井は高校チャンピオン。9区小田は中京大中京の監督になって神野
大地を高校時代に指導した筈の人だ。 >>158
へーえ。こういうスレッドがあったとは。
ちゃんと1000まで到達していたとは驚き。
内容が濃い。 >>159
また興味深いデータがあれば貼ろうと思います
宗兄弟の練習量の多さは伝説的で1日に120キロ走ったこともあったようです
「瀬古がマラソンの倍の80キロ走っているなら自分たちは3倍走ってやる」
宗兄弟というライバルがいなかったら瀬古の成長も無かったと思います 宗兄弟の1日120km超のウルトラ・ランは聞いたことがあります。
彼らは悲壮感なく飄々と、むしろイベントとして面白がっている節もあったようです。
瀬古利彦もニュージーランドで80km走っている筈です。83年あたり。
彼らは、やはり別格。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています