80年モスクワ五輪マラソン◆日本幻の上位進出◆
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78年あたりから10数年間、日本は間違いなく世界でもトップクラスの
水準を誇っていた。残念でならないのが80年のモスクワ五輪の不参加。
瀬古利彦&宗兄弟という強力布陣で、大きな故障とも無縁だった当時、
仮に参加していたら3人とも入賞を果たしていたような気もする。 モントリオール五輪以降、世界を引っ張ったのは米国のビル・ロジャース。 資本主義国はモスクワオリンピックボイコットしたな。 資本主義国はモスクワオリンピックボイコットした理由は共産主義国が有るからだ。 メダリストはチェルピンスキー・ネイブール・ジュマナザロフという面々だった。 モスクワオリンピックは各共産主義国が参加してたからな。 3位から5位までがソ連の選手。一番期待のモセーエフが5位でソ連勢の中では
最後方になってしまった。勿論悪い順位ではないが。
ジュマナザロフは前年の福岡で11位。日本勢のほうが正直格上の印象は否めず
メダルの一角に届いたのは間違いなかっただろう。 日本は日米同盟だからな。アメリカとソビエトは冷戦だったからな。 オリンピックは平和の祭典で国家紛争は全く関係ないから出てよかったのに。
出ると言って拒否されればそれこそソ連がオリンピック委員会から追放される 東欧は共産主義国だったからな。ルーマニアとブルガリアとハンガリーとチェコスロバキアと東ドイツとユーゴスラビアだな。 セバスチャンコーのようにどさくさまぎれに出ておけばな。 モスクワオリンピックは幻となったな。日本は幻の代表だな。 79年時点ではロジャース、瀬古、モセーエフ、宗茂、米国勢数名、宗猛。
やや後方にバーニー・フォード、チェルピンスキー、チェ・チャンソプ、
展開次第ではラッセ・ビレン。あとエチオピア勢。
ネイブールは80年に突如出てきた選手。 ヨーロッパは西側なら資本主義だったな。東側は共産主義だったな。 79年の福岡国際マラソンの動画を血眼で探しています。 モスクワオリンピックはアメリカが出てなかったよな? チェルピンスキーは瀬古の次にゴールしてただろうね
アメリカも当時はロス五輪が決まった事もあってマラソンブームだったからな
メダル独占はできなかったんじゃないか?
いまだにジュニア世界記録のチャパの9分台とか盛況だった 当時のソ連東ドイツなど東欧諸国がドーピングしていたことはもはや常識 瀬古が優勝した可能性高いが
チェルピンスキーはドーピングやってたくさいんだよね
国家ぐるみでドーピングやってたソ連に勝てたかどうかはわからないな
単純な実力なら瀬古で間違いないだろうけど チェルピンスキーは五輪以外ならば2時間16分程度にとどまるレースが多かった。
快走したのは2度の五輪以外では83年の世界選手権(ヘルシンキ)と、
日本人4人に負けているが2時間10分台でゴールした80年の福岡国際。 サラザールとかキャステラはまだいなかったんだっけ?
ショーターは衰えてた?
西側の選手にメダル独占阻まれたんじゃないか?
それとソ連のモイセーエフが当時の東側で一番強かったと思う >>48
キャステラはモスクワオリンピックに出場したが10位
同年の福岡では8位とまだそれほど強くなかった
翌年の福岡(瀬古欠場)で2時間8分18秒の実質当時の世界最高記録で優勝する
その後はロッテルダムでサラザールを破り優勝ヘルシンキ世界陸上も制覇した
ショーターは既にビジネス優先で河口湖30キロでは若手の大塚正美らに完敗した サラザールは80年のニューヨークが初マラソン。
ケニア勢がまだマラソンに本格参戦していない時代。
モスクワは片肺五輪だったのでエチオピア勢もチャンスだったがネディの7位が最高。 で、日本勢がモスクワ五輪出てたらどんなもんだった?
瀬古 金
宗茂 銅
宗猛 4位
くらいでどう? オランダのネイブールが銀メダル
翌年の青梅マラソンに招待出場したがオープン出場した瀬古に3分も離されてゴールした 織田幹雄氏によれば、瀬古は金、宗兄弟のどちらかもメダルに届いていた。
残る一人も6位以内には入っていた、と予想。
多少、身びいきもあるかも知れないが、6位以内3人全員入賞(当時は6位
までが入賞)という箇所は、同感。 アフリカ勢という言葉が日本の国内マラソンで言われ始めたのは
83年くらいからかな
イカンガーバルチャネディは毎回見掛けた気がする
ロス五輪時はケニアは入賞したヌザウ以外はこれといった選手はいなかったけど
第一回W杯マラソンで先頭集団がアフリカ勢+中山状態になったのは驚いた記憶がある 瀬古の師匠中村清監督はケニアからの練習生ワキウリを見てこう言った
「この男にマラソンを教えたら日本選手は誰も勝てなくなる」
無名だったワキウリはローマ世界陸上で金ソウル五輪で銀を獲得しケニア人留学生の礎を築いた ジブチという国が存在することをマラソンで知った。アーメド・サラとロブレ・ジャマ。
特にアーメド・サラの功績は大きい。
実際は85年あたりにメジャーになったので、いささか、このスレッドの趣旨とは
ずれているかも知れないが。 タンザニア・・・・・・・イカンガー、シャハンガ、マソング
エチオピア・・・・・・・バルチャ、ネディ
ジブチ・・・・・・・・・・・サラ、ロブレ 79年の福岡国際は競技場内まで日本人3選手によるデッドヒートとなったマラソン史上
屈指の名勝負。この陰で、チェルピンスキーは競技場まで帰ってきながら、残り一周と
いうところで途中棄権。思うよな一投が出来なかった投てき選手が自ら足を踏み出して
「記録なし」にすることがあるが、それに似たケースかも知れない。 喜多秀喜もモスクワのチャンスだった。78年福岡2位。79年は別大で優勝。
ところが暮れの福岡で轟沈。
81年は東京(読売グループ主催のほう)で勝った後、ボストンで惨敗。
84年は北京で優勝した直後の福岡で沈没。
好不調の波が激しかったのが難点。但し、競り合いには滅法強かった。 喜多は同じ神戸製鋼の武富とライバル同士だった
79年の別大マラソンでは1位2位独占
武富はスピードが無い弱点を猛練習で補った
しかし武富もオリンピック出場の夢は果たせなかった
引退後は天満屋の監督になり4大会連続女子マラソン五輪出場の偉業を実現した ヒゲの鎌田も確か70年代後半の人。
同じカネボウの伊藤国光は80年の福岡が出世レースか。
いずれにしても、この時代は「夢」があった。
武富豊は選手・武富としても、なかなかのものだが、指導者・武富として、さらに光った。 旭化成宗兄弟の先輩が佐藤進
粘り強い走りで78年と79年の毎日マラソンで上位入賞した
翌年現役を引退しダイエーの監督に就任し無名だった中山竹通を一流選手に育てた
ダイエー廃部後スズキ陸上部監督に就任したが2003年54歳の若さで亡くなった
しかし最近になって恐ろしいことを知ってしまった
https://twitter.com/masahiro2010/status/1108149056268689408
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 佐藤と言えば「ヒゲの佐藤」こと佐藤市雄もいた。
ダイエーで言えば88神戸インターハイ5000m高校チャンピオンの熊谷勝仁が
中山のポジションに到達してくれるのでは、と楽しみにしていたのだが。 ダイエーは道浦も素質がある選手だったな
ダイエーが廃部になって住金化工に移る際に1年間広島県を拠点に活動してた時に
中国駅伝に地域対抗の部で参加して物議をかもした
この時1区を走って区間最下位の大ブレーキでスリリングな展開を演出した 道浦と言えば、3000m障害の高校チャンピオン?
確か和歌山北でしたか
90年の全国高校駅伝1区3位。記憶が曖昧ですが・・・・・ 当時の学生長距離界は日体大が全盛期だった
大塚正美の勝負強さはポスト瀬古と言われた
週刊誌で大塚が日体大の監督を批判していた 岡野監督。大松博文の甥。日体大の箱根駅伝優勝の10回のうち8回をこの人が
指揮しているが、名将と言う声は聞こえてこなかった。
「岡野が監督でなければ、あと2回は勝てた」の声までも。
昭和54年と57年の話か。
のちに亜細亜大学の監督に就任した大塚氏だが後任として就任した岡田氏に
「前監督は、ちゃんと引継ぎをやってくれなかった」と評された。 イケメン大塚氏は谷口浩美と同期。将来を嘱望されたのは大塚のほうだった。
瀬古・宗兄弟から中山・谷口・森下へと至る約15年間がニッポン男子マラソン
の黄金期。残念ながら、きょうびのマラソンに当時のような夢を見ることは
出来ない。 83年のMVPは悩ましい。大塚か、5区の岡か、6区の谷口か。。。。。 >>77
大塚は合宿所を抜けて一人で練習し週刊誌で岡野監督のパワハラを批判した
一時は箱根駅伝のメンバーからも外されたが部員たちが団結し逆に岡野監督を追放し集団指導体制を確立した
皮肉な意味で前監督の岡野氏がMVPだと思う モスト バイオレンス プレイヤー
M V P
岡野氏。当時まだ42歳くらい。
その数年前、新宅&中村孝生の件で揉め、二人は日体大に研究生として残らず
中村清監督&瀬古利彦のところへ走る。 今思うと昭和58年あたりが男子マラソンにとっては、一番いい時期だったような。
瀬古利彦が最も勢い盛んだったのは、この年だろう。 昭和五十五年だったからな。韓国光州デモ事件が有ったからな。 昭和55年の箱根駅伝MVPは誰が何と言おうが瀬古利彦。
裏のMVPが4区で流れを変えた中村孝生。 箱根駅伝5区で4年連続区間賞を取り元祖山登り男と言われたのが大久保初男
79年の福岡では前半独走したが雁ノ巣折り返し過ぎてから集団に捕まり82位でゴール
瀬古は優勝インタビューで「あの選手はいつも最初だけ早い選手ですから」と言い放った 2000年代山登り3傑の中で一番大久保初男にタイプが似ているのが柏原竜二。
ガムシャラに走るタイプはマラソンでは厳しいのでは。ある程度、飄々と走る部分
がないと長時間持たない気がする。 大久保初男。青東駅伝では最下位でタスキを受け全員抜きで首位に立ったことも。
79年福岡時は大昭和製紙所属。 本当に懐かしいな、しんたく・まさなり。
ひさとし、なんて時代もあったが。 田口淳之介容疑者、小嶺麗奈容疑者、自宅で逮捕の瞬間は.....
https://youtu.be/9g1TU6B9BAc しかも「かもり某」と「回顧趣味者」同士は全く会話していないという。
まあ、スキを衝いて100ゲット、ちゅうこっちゃ。 宗茂が78年別大マラソンで記録した2時間9分5秒6は当時世界歴代2位
この日から日本マラソン界の躍進が始まる
高橋尚子の98年アジア大会2時間21分47秒と同じくらいのインパクトがあった 78年の宗茂の快走に始まり、同年の瀬古利彦の福岡国際マラソン制覇。
ここから92年のバルセロナ五輪までは世界のトップレベルで勝負出来た日本マラソン界の
華やかな黄金時代だったと記憶しておきたい。 努力は無限と中村清は語り中距離の有望選手を根こそぎマラソンに転向させた
中村孝生や金井豊が中距離を続けていたら石井隆士以上の名選手になっていたかもしれない 中村清は高校時代400m選手だった篠田正浩氏を箱根駅伝2区に起用した人。 中村清は上司にしたくない男ではある。
しかし、傍観者の立場で見るとハチャメチャに面白い「おとっつぁん」である。 瀬古は選手としては良かったが指導者としては甘すぎる ミュンヘン2位。モントリオール3位。モスクワも9位。凄いなリスモン。
モスクワの時の10位がのちのビッグ・ネーム、キャステラ。 オリンピック2大会連続長距離2冠王のビレンが30キロまで先頭集団にいた ビレンはモントリオールでもマラソンで5位に入っているから侮れない。
ただ、モスクワではイフターに完膚なきまでにトラックでやられたから、後遺症があったかも。
ピークは確実に過ぎていたようだし。 箱根駅伝での瀬古利彦の雄姿をリアルタイムで見たかった。 瀬古vs新宅の黄金カードが80年に実現していたが、急遽NHKで実況生中継
したらしい。 岡野監督「SBに入った新宅と中村は裏切り者だ!日体大OB会を除名した」
↑
日体大の選手「あんた頭おかしいんじゃないか?見切りをつけられたんだよ」 日体大に研究生として残して、日体大の肩書のまま五輪に出させようと仕向けたと。
世迷い言だな。 新宅&中村コンビは中村清監督に傾倒したというのもあるかも知れないけど
「瀬古くんとぜひ一緒にやりたい」という思いが半端ではなかったようだ。
中村監督は、自分に懐いてくる者は可愛くて仕方ない性分だし、2人共エスビー
に行って良かったと思う。
箱根本番では、中村監督に傾倒しているのが明らかになっている事情など全く
関係なしに中村孝生が4区区間新で一気に流れを日体大に引き寄せた。
前年、取りこぼしてしまった日体大だが、大本命の貫禄で順当勝ち。
岡野氏は8回目の優勝監督となったが、これが岡野政権での最後の優勝でもあった。 79年のインカレ5000m
https://www.youtube.com/watch?v=Abb4gY9bzys
やはり3000SC専門の新宅の方がマラソン練習をしている瀬古よりも切れ味が上
中京大の川口孝志郎と福岡大の村越忍も健闘しています
二人とも1度社会人を経験してから大学に入学しています
この頃は大学に行きたくても家庭の事情で行けず仕事をしている人も多かったようです 帽子がトレードマークの川口孝志郎の懐かしい姿が目立っていた。
瀬古利彦が引っ張るレース展開は、見慣れない光景で新鮮味があった。
新宅は、やはり強い。もう40年も前なのか。雨の中のレースだったがクオリティ
の高いレースだったと思う。貴重な映像。up主に感謝したい。 社会人経由で大学に行った人が結構いた。早稲田は浪人して入学した人が多い。 80年の早稲田で言えば、2区瀬古、3区金井、9区小田、10区滝川がそうか。
滝川は日大には受かっていたが、どうしても早稲田に行きたくて仮面浪人して
早稲田を受験し直した。
瀬古&金井は高校チャンピオン。9区小田は中京大中京の監督になって神野
大地を高校時代に指導した筈の人だ。 >>158
へーえ。こういうスレッドがあったとは。
ちゃんと1000まで到達していたとは驚き。
内容が濃い。 >>159
また興味深いデータがあれば貼ろうと思います
宗兄弟の練習量の多さは伝説的で1日に120キロ走ったこともあったようです
「瀬古がマラソンの倍の80キロ走っているなら自分たちは3倍走ってやる」
宗兄弟というライバルがいなかったら瀬古の成長も無かったと思います 宗兄弟の1日120km超のウルトラ・ランは聞いたことがあります。
彼らは悲壮感なく飄々と、むしろイベントとして面白がっている節もあったようです。
瀬古利彦もニュージーランドで80km走っている筈です。83年あたり。
彼らは、やはり別格。 >>161
半信半疑でしたが確証を持つことができました
安部友恵が100kmウルトラマラソンの世界記録保持者のだったことを忘れていました 宗兄弟のウルトラ・ランに増田明美も飛び入りで参加していたとか。
(何キロ走ったかは不明)。当時まだ19歳。「天才少女」「女瀬古」
などと言われ、期待の大きさにプレッシャーを感じて苦しんでいた
時期(直前の大阪で途中棄権)。
彼女は20代半ばくらいから吹っ切れた感じで、雰囲気がとても
明るくなった。 増田明美と言えば佐々木七恵。結婚して永田七恵。残念ながら故人に。
増田明美を指導した滝田監督(俳優・滝田栄の実兄)と、佐々木七恵を指導した
中村清は、恐ろしく仲が悪かった。 その頃の増田が貧血体質だったことを考えるとマラソンは時期尚早だったと思う
当時女子のオリンピックと世界選手権は3000mより長い種目はマラソンしかなかった
後の新谷にも言えることだが若い選手のマラソンは肉体的にも精神的にもダメージが大きい ロスの次のソウルにピークが来るような感じでやれば。。。。。。
増田明美は、それまでの女性ランナーのチョコチョコ走りの伝統(?)を
一変させるダイナミックなフォームで、当時としては画期的だった。
今、見ても見事なランニング・フォームだと思う。
五輪でも7位くらいは可能なポテンシャルを秘めていた。 1区石川。2区瀬古。3区金井。4区井上。5区甲斐。6区寺内。7区佐藤。8区金山。
9区小田。10区滝川。 >>169
リアルタイムで見ていたが北朝鮮の選手が終盤までトップグールプに付いていた
瀬古と同じくらい余裕がありそうに見えたが駆け引きについていけず5位でゴール
名前を確認するとチェ・チャンソブという選手だった チェ・チャンソブは75年に20歳の若さ(1955.7.18)でコシチェ・マラソンに優勝。
翌76年モントリオール五輪12位。だが、日本選手など有力選手がボイコットで欠場して
上位進出のチャンスだったモスクワ五輪で、大失速。20代半ばでピークを過ぎてしまった。
なお、75年と77年(2位。1位は同国のコ・チュンセン)と2度チェルピンスキーに先着
している強豪。 神宮外苑。故・中村清監督。佐々木七恵も今はもういない。
イカンガーを千切った電光石火のラスト・スパート。
う〜ん、やはり、瀬古利彦は日本最高クラスのマラソン・ランナーである。
と、しみじみ。 >>174
金井豊もSB食品の合宿で交通事故で亡くなっている
ワキウリが後にソウル五輪のマラソンで銀メダルを獲得して故・中村清監督に恩返しする 代々木公園を走っている姿を何度か見たことがある。
金井豊も谷口伴之も。 「しゃべりたい」という店に立ち寄ったのが最後の食事とか。
海の幸カレーと流氷ソーダが注文メニュー。
去年、私の父親が立ち寄って、ここで食事した。
網走から北へ30kmほど。かつて湧網線という全国8位くらいの赤字係数を
出していたローカル線が走っていたが、87年に廃止されている。 この時代はビデオテープが高価だったこともあり競技会の映像はあまり残っていませんね
8か国対抗陸上の10000mで瀬古が優勝した時の動画は上書きされたのでしょうか? バイニオをラストで千切ったレースでしたか・・・・・・ >>182
バイニオは6秒1遅れの位、ブラセンシアが2秒5遅れの2位。瀬古は最後の周回のみ
真面目に走ったレースだけど、残り200位の2段目のスパートでブラセンシアをちぎって、
織田ポールの辺りでは観客に笑顔で手を挙げる余裕の勝利だった。2年前にジグザグ走行
の結果、ラストでオルチスに子供扱いされたのとは全然違った。 当時24歳。若くてカッコいい瀬古利彦。モスクワ五輪ボイコットが改めて悔やまれる。 ほんと、モスクワボイコットがなければ
仮に結果が出なかったとしても次のロスにつなげられたのに 結果が出なくてもメダルの一角には届いていたと確信する。 ネイブールみたいに五輪イヤーに突然出てくる人がいる。 モスクワのメダリスト予想、たぶん誰も当たっていない。 >>188
そうかな。ボイコットが確定した後だと1,2位は妥当というか多くの人がメダルに絡むと
予想した面子。3−5位のソ連勢も上位に固まって来るのは前年のスパルタキアードから
予想通り。但し、大方の予想では5位のモセイエフが優勝候補でソ連勢の中では1番で、
2番が4位のコトフ、3番がジュマナザロフ。後はエチオピアのネディ、バルチャも優勝候補
に挙げられていたけど、ネディは7位に入っている(バルチャは棄権)。
勿論、6位や10位になったゴメスやド・キャスティラがそこそこ走って、その後、
大活躍すると思った人は少なかったと思うけど、専門家なら予想できたと思う。9位の
リスモン(2大会連続メダリスト)は言わずもがな。ビレンの一発を期待した人はゼロ
ではなかったけど、モントリオールの後、マラソンでまともに走った事がないし、トラック
もアップアップで途中棄権だと思う人が大半だったが、やはり棄権。こうしてみると、
史上稀に見るほど波乱の少ない大会だった。 強いて期待外れだった選手を探すと前年の福岡で瀬古・宗兄弟と死闘を演じたB.フォードが
途中棄権(イギリス3人が全員棄権だね)、10分台、11分台の2人(Koh, Choe)がダーク
ホースとして挙がっていたけど不発(27位、33位)だった北朝鮮勢、78年の英連邦大会の
覇者だったShahangaが15位に終わった事か。しかし、この辺を候補に挙げていた人は
相当マニアックな人だと思う。 日本がボイコットしてしまったせいか、驚くほど人々の記憶に残っていない大会だと思う。
「なまじ見ると癪だから、見るのよそう」と決め込んだ人も大勢いる筈。
ド・キャステラは駆け出しだから10位は大健闘だろう。この後、福岡に出て8位。
翌81年に大躍進を遂げて、以後、10年くらい世界のトップクラスの水準を維持した。
ロドルフォ・ゴメスは、モスクワ五輪が出世レース。途中、集団を抜け出した場面も。
実は前年の(79年)福岡国際にも出場しているが、目立った成績を残していない。
ゴメスは日本のマラソンレースに4回出場していることになる。 シャハンガは84年ロサンゼルス・マラソンを2時間10分台で制して最浮上した。
ロス五輪では不発。バルチャ・ネディのエチオピア勢は日本でもおなじみ。
バルチャは83年世界選手権(ヘルシンキ)でキャステラに次いで堂々の銀。
ネディは81年の読売グループ主催のほうの東京マラソンに出て喜多秀喜に
最終盤で千切られた。83年の東京(フジ・サンケイグループ主催)でも38km
過ぎまでトップ・グループの一員に。
コ・チュンセンとチェ・チャンソブの北朝鮮勢は片肺五輪なので6位以内は十分
狙えただろう。ボストンに次ぐ歴史を持つチェコスロバキアのコシチェで共に
優勝経験を持ち、1・2フィニッシュを3回やっている。2人共チェルピンスキーに
2度先着している事実からもダークホースに挙げないほうがおかしい。
こうして見ると案外、モスクワ前夜は、選手層が薄かった。アメリカが国単位では
一番力を持っていた時代。当時からするとケニア・エチオピア勢に席捲された感が
ある現代のマラソン界は「進化しすぎた」という印象がある。 モスクワ五輪の前年7月のプレ五輪ではモセーエフかモイセーエフかモセイエフか知らん
けど、そういう名前の人が優勝。胸差の同タイムで宗茂が2位。 >>193
あれは中々のレース。5人が一団となってトラックに入って1-3位が同タイム、4位がトップと
1秒差、5位が5秒差のレース。当時の夏レースにしては好記録の13‘20“が優勝タイムで、宗茂は
トラックに入った時は一団の最後尾だったが、最後のストレートで差して2位に食い込んだが、
トップにはわずかに及ばず。4位がモスクワ銅のジュマナザロフ、6位がモスクワ4位のコトフ、
8位に伊藤国光、10位に宗猛が入った。これだけの一団のゴールは空前絶後かも。 宗兄弟は小学校低学年時代は短距離のかけっこではビリが定位置だったらしい。
そのせいかスプリント能力に自信を持っていないが、宗茂は、ラストの競り合いに
実はかなり強い。同時代に瀬古利彦がいたせいで存在感を少し薄められているが
もっともっと評価して欲しいコンビだ。 宗兄弟の対戦成績は茂の12勝10敗らしいが、茂が勝つ時は僅差、負ける時は大差がつくのが
多かった。ワンツーフィニッシュは4回あったが茂の全勝、79年、83年の福岡は何れも茂の
逆転勝ち。79年福岡の瀬古を含めた3人の競い合いが有名だが、81年別大で途中大きく遅れた
茂が、風を避けるために蛇行してタイムロスをしていた猛とベアズレーに追い付き、最後の
スパートで茂が猛を下したのが面目躍如だった。 モントリオール五輪予選では猛の方が五輪出場を期待されていた
>>196
ベアズレーは急激に力を伸ばし翌年のボストンマラソンではサラザールと僅差の2位
しかしいつの間にか消えてしまった
真偽は定かではないが犬に噛みつかれたらしい ダイナミックな茂とコンパクトな猛。茂が意外にラスト勝負が強かったのは、なりふり構わず
「うがががが!」と力で持っていく走法が火事場のクソ力を生んだんだと思う。 茂は結構「勝てる」選手なんだなあ。78別大・79びわ湖・81別大・85東京・85北京。
猛のほうは、安定感(79福岡以降)と息の長さ、五輪実績。走法でなんとか見分けがついた。 宗兄弟と喜多秀喜は同学年だが、もうひとり同学年に服部誠という天才がいた。
インターハイ5000m優勝、国体5000m優勝、高校駅伝1区区間賞の長距離3冠王。
箱根駅伝2区で12人ごぼう抜きでトップに立ち東農大の往路優勝の立役者になった。
その1ヶ月後の別大マラソンで初マラソンを走り2時間13分40秒で2位になる。
しかしモントリオール五輪最終選考会のびわ湖毎日マラソンで惨敗。
実家の牧場を継ぐため23歳の若さで引退した。
s 服部の勲章は
1.高校4冠(IH,国体、駅伝1区に加えて相原も駅伝優勝)
2.箱根2区2年連続区間賞、区間新(瀬古に更新されるまで保持)
3.伝説の12人抜き(15校出場では遂に抜かれる事のなかった記録)
4.学生にして熊日30km, 中日スピード30kmを制覇
5.途中脚が吊って屈伸しても優勝(中日スピード30km)
6.初マラソン日本最高(74年別府2位2時間13分40秒。多分日本歴代12位)
7.75年福岡で8位(2時間13分13秒)で日本歴代9位にランクイン
くらいかな。
76年春のニュージーランド合宿の最終日のマラソンでは15分台でゴールして
13分台でゴールした宗兄弟に続いたけど、高橋進や陸連幹部の評価は何故か
あまり高くなかった。服部自身も過度の走り込みで体調を崩したとか。それで
期待された最終選考会のびわ湖毎日で不発で、そのまま引退して服部牧場を
継ぐ。勿体ないというかスパッとした辞め方でした。 横浜線の相原駅は東京都町田市にある。ややこしい。法政大学多摩キャンパスは、
ここからバスが出ている。 服部誠の最後の試合になった76年びわ湖毎日マラソンが伊藤国光の初マラソン
伊藤は体調が悪かったので完走を目標に走っていたら服部が歩いているのを見つけた
伊藤「どうしました?一緒に走りましょう」
服部「いいんだ 先に行ってくれ」
オリンピックに出場できるのは3位まで
4位はビリと同じなのだと伊藤は思った この大会の4位は浜田安則
39歳まで現役を続け引退後も指導者として山下佐知子・荒木久美・市橋有里らを育てた >>208
これ、本当?
あのレースでの伊藤の体調は知らんけど、途中まで3位辺りで一発の期待をされたけど、
後でグダグダになった試合。服部は早々に脱落していた。という事なのでこういう会話が
あったとしても伊藤の方が落ちて来て服部が抜く時。初マラソンの伊藤は何だかんだ言って完走した
筈(Wikipediaはグダグダで出鱈目だけど、確か2:31:05で46位)。服部は完走しなかった
ような記憶がある。
伊藤は既に75年の熊日30kmで当時の日本記録を更新し、駅伝で猛威を奮っていたので
初マラソンの76年毎日で期待されていたが、やはりニュージーランド合宿でも若手枠という
事で最終日のマラソンを30kmで打ち切った様にマラソンを走り切るスタミナが未だなかった。 >>209
宗猛は最初から体調不良で欠場かと懸念された。結局、出たけど、実況の最初の段階で
体調不良で駄目だと紹介され、最初から見せ場もなく38位。年末に日本歴代6位で走り、
ニュージーランド合宿でも好調だったので期待されていたが、肝心の選考レースでの
調整を失敗した。 >>211
80年代後半の陸マガか月陸に伊藤国光選手が過去を回想するシリーズがありました
雑誌は廃棄処分しましたので微かな記憶を頼りに書いていますのでご了承ください
選手の個人記録についてはマラソン資料館というホームページが信頼できると思います
服部誠選手の記録は2時間37分53秒で65位となっています 87年に箱根駅伝が本格的に放送を開始したが、その時のゲストが服部誠氏 カネボウというとオレンジのユニフォームのイメージがあったな。 瀬古が仮に中央大学に進学したら、石井隆士の後継者になり中距離が盛り上がったろうか。 中距離でも日本トップ級になれたが世界基準では通用しなかっただろう。
やはりマラソンでこその「世界の瀬古」 学生歴代10傑(日本人学生のみ)
http://home.384.jp/rokurouman/gakuseirekidai.html
1500mの石井隆士の記録3分38秒4が43年後の現在でも1位なのが凄い
石井が高校3年インターハイ800mで優勝した時の3位が1年生の瀬古 石井は箱根駅伝にも出場し4年生の時1区で2位以下に大差をつけて区間賞を獲得した
織田幹雄は石井にも瀬古のようにマラソン転向を勧めたが実現しなかったと書いている >>222
石井は色々と運がなかった。76年に現在も残る学生記録を出したのはモントリオール五輪
の代表が決まった後だった。1年大学に残ってワールドカップで日本記録を更新してから、
母校の秦野高校の教諭になったが、やはり高度な練習の持続は難しく、伸び悩んだ。そうこう
しているうちに五輪ボイコットがあった。ロス五輪前の83年末に中村清門下に入って5000の
代表入りを狙ったが、届かず代表入りの夢は叶わなかった。箱根の1区で区間新を作った
スタミナは5000を走り切るのに十分ではなかった。 >>223
しかしアンカーの1年の伊藤哲二がブレーキになり肝を冷やした。 伊藤哲二は昭和54年もブレーキやったった。区間12位。この年の日体大は「取りこぼし」 石井が独走し、伊藤がアンカーでもたついた1977年は日体大の4年ぶりの優勝であった。
しかしその功績者であった筈の野呂進コーチが年度末に退任し、4月から専修大の
コーチになって後に監督になって定年まで勤めあげる。
https://core.ac.uk/download/pdf/71799909.pdf
は興味深い。野呂氏が日体大に残っていたら新宅・中村の就職問題に端を発した
岡野監督を巡る日体大の混乱もなかったかもしれない。 新宅&中村コンビは日体大と絶縁したと言うことだろうか。 中村監督一派に取り込まれて恐らく早稲田サイドの人間と思われ 大久保こそ元祖?山の神だけど、大成出来なかった。山登りの走り方は無理があるのか、
山登りの名人と呼ばれた選手で大成したのは居ないと思う。今井がこれまでで最も
成功した例か。
大久保は全日本大学駅伝でも活躍したが、彼が3年の時の第6回大会では天才服部誠
と最長4区(前半の最終区間。当時はそこで一旦ゴールして5区以降の後半は別のレース
として行い合算して順位を出していた)で対決。4区で東農大の服部は6秒差で先頭を行く、
大東文化大の大久保を4kmでとらえ、デッドヒート。35秒差をつけて逆転ゴールした。
従って服部の方が格上だった。 大久保初男は駅伝こそ、もっとも能力を発揮出来た。
先手必勝。小細工なしに序盤からガンガン攻める。
箱根駅伝の4年連続山登り区間賞が印象深いが、青東駅伝で最下位から全員抜いて
首位でタスキリレーしたことでも知られている。本人は同学年の伊藤国光君を目標に
してきました、とコメントしている。
のちの山登りの選手では柏原竜二が、がむしゃらに走る走法という点において、
大久保初男ともっともタイプが近いと思う。 入賞0に終わったモントリオール五輪で現在の制度なら入賞相当の選手が二人いた
棒高跳びの高根沢威夫は降雨にも拘らず5m40を3回目に成功して8位
もう一人は男子10000m決勝7位の鎌田俊明
二人とも後に不祥事を起こして陸上界から姿を消したのが悲しい
あれからどうしているのだろう 佐藤市雄、北山義信、大槻ケンジらに期待してたときにくらべて、宗兄弟、瀬古がでてきたときにはホント期待したね。
西側はボイコットしたけど、コーや御別途は参加してた。。
マラソン陣営、柔道の山下、レスリングの高田は出してやりたかったね。 長距離選手は歯がきたなく虫歯の人が多くてげんなりした思いがある。。
ある五輪代表の女子選手も歯がきたなく、そのコーチも現役時代歯が汚かった。 >>239
大槻ケンジw
大槻憲一は72年福岡3位73年5位
77年の福岡で当時最強のロジャースに一人で付いた小柄の阪本峰照も印象に残る >>242
競技場前でマラソン2回目の瀬古に抜かれ全体の6位でゴール
>>243
78年のバンコクアジア大会に出場し北朝鮮2選手を破って金メダルを獲得
しかし猛暑の中で激走した疲れから不振が続きモスクワ五輪選考会は91位と惨敗
81年東京マラソンに出場し2時間13分22秒の自己ベストで5位(日本選手1位) 10000のスピードから喜多選手のほうが宗兄弟より期待してたのですが、マラソンとは違うのですね。
新宅選手が初マラソンの時、宗茂がついてこれるなら来てみろとばかりに飛ばしていった記憶があります。
時系列は無茶苦茶ですが、松尾正雄選手、浦川選手、吉沢洋選手、佐藤進選手、世利選手なども印象に残っていますね。 >>238
Wikipediaからの情報だと思うけど鎌田の7位は間違い。正確には予選3組7位(予選通過は
各組4位迄とプラス3人)。鎌田はキックがないので福士に似て最後で置いていかれる
タイプだった。 モントリオールオリンピックのマラソンでインドのシンという選手が上位を走っていた。
アントニオ猪木と戦っていた悪役プロレスラーと同じ名前で顔つきも似ていた。 https://m.youtube.com/watch?v=bB0pBGGfeUA
に結構まとまった動画があるね。これを見るとチェルピンスキーは1周間違えて余計に走って
いる。ショーターが後からゴールした選手に握手を差し伸べたのは覚えていたけど4位のガードング
だとばかり思っていた。それがチェルピンスキーとは。。テレビで見た時は地元のドレイトンを
良く映していたけど、この映像ではそれほどでもない。ドレイトンに僅かに及ばなかった
モセイエフとか、中盤健闘したシンとか、序盤トップで途中止まって屈伸していたロジャースとか
いつのまにか3位に上がったリスモンとか見所が多い。 >>250
ショーターが負けたのを初めて見た時だった。
モントリオールオリンピック以降急速に衰えて日本でマラソンをを走らなくなった。
ワードローのライオン顔は覚えている。
78年の福岡で瀬古喜多と並走してトップの宗茂を追っていた。 ショーターはモントリオールまで。それ以後はロジャースがアメリカの顔。
しかし、インドのシン11位というのも驚き。以後、インドとマラソンが全く結びつかない
のだが。 ショーターのwikipediaも間違っているね。オリンピックトライアルは72年も76年も勝っている。
どうしてこういうミスがまかり通るのか。オリンピックトライアルでは8秒遅れの2位だった
ロジャースはモントリオール五輪当時4人しかいないサブテン記録保持者(歴代4位かつ出場
者の中ではトップ)でショーターの有力な対抗馬だったけど、結果は40位。しかし五輪後3ヶ月弱
のNYCマラソンでショーターに3分以上の差をつけて2:10:10の好記録で圧勝。覇者の交代を
印象付けた。このれーすは村上龍の小説にも取り上げられている。
モントリオールのもう一人の対抗馬と目されたドレイトンもユニークな経歴持つ選手。
そもそもこの名前は電話帳から選んだ名前で本名はピーター・ビニュアックという
ウクライナ系のドイツ生まれの人で1958年にカナダに移住して、メキシコ五輪には
本名で出場している。69年は彼にとって飛躍の年で10月にデトロイトのmotor city
マラソンで世界歴代5位タイの2:12:00で優勝。このマラソンが余りにも福岡に近過ぎた
のか2ヶ月後の福岡の招待選手に選ばれず、自費参加。小雨の中、前半からリードして
世界歴代3位の2:11:12:8で優勝。しかし、その後、英連邦大会を棄権する等パットせず、
ミュンヘン五輪にも(多分)不出場。その彼が復活を印象付けたのが75年の福岡で雨の中、
チェトルとの二転三転するデッドヒートを制し、歴代5位の2:10:08:4を記録した。因みに
このレースでロジャースは3位。五輪本番では地元という事もあってロジャースと共に
ショーターの有力な対抗馬だった上に、小雨模様とドレイトンにうってつけの気候だったが
6位という不完全燃焼の結果だった。しかし、その後、福岡とボストンを連続して勝つなど
安定した成績を残した。 チェトルと言えば当時2時間2分台の世界記録を出して大騒ぎなった。
自動車のメーターで距離を測定していたので正式な方法で再測定したら2km以上も距離不足だった。
79年福岡に出場したコウシスも大会前2時間6分台を記録して注目されたが14位に終わった。 >>255
73年の毎日マラソンでショーターと一緒に来日した選手だね。
佐々木精一郎も前半は健闘していたのだが… >>254 Auckland, Choysa Marathon, Nov. 13, 1977だね。チェトルの記録は
2:02:24で11位が往年の名選手ファリントンで2:08:16(確か2位はファバだった
と思うが確認出来ない)で世界記録を大量に上回ったから再計測になった。
マラソンの距離計測は屡々不正確で81年NYCも後で距離不足で取り消しになって
いるし83年迄の東京はほぼ確実に距離が長過ぎた。更に80年代の北京はおそらく距離不足。
最近でも2015年のさいたま国際は誘導の失敗で距離不足、2015年3月の横浜マラソンも
距離不足と、日本でも全く信頼おけない。外国はかなりいい加減だと思って良いだろう。
驚くべきは77年の2分台よりもキプチョゲの記録が上であること。別次元の競技になって
いる。特にチェレンジ2の2:00:25は5キロ平均14:16でハーフ1:00:12だから、宗兄弟みたい
な双子でインチキリレーをしても敵わない。 中山2度目のマラソンとなった84ソウルでは先導者がコースを間違えるミス
があった。 北京は記録自体は公認されたが、距離表示にズレが生じているのはハッキリしている。
児玉泰介が当時の日本記録で走っている86北京では35kmから40kっまでが16分台
なのに、ラストの2.195kmが6分26秒(5km換算14分台)でカバー。
普通、大きくペースダウンしたのが、また大きくペースアップする展開は、ほぼあり得ない。
そこから距離不足を疑ってしまった。
中国のいい加減なところは、35kmは、だいたいこの辺だった、と大雑把にマーキングする
ところに現れている。私がマラソン・ランナーだったら、こんないい加減なマラソン大会に
絶対に参加しない。自らの適当さで、大会の権威を落としていることに主催者は気がついて
欲しいのである。 瀬古利彦は、意外に「持ってない男」なのかも。
・高校時代、役員の先導ミスで1周少なく競技場の外に出るハプニング
・モスクワ五輪、日本ボイコット
・83年東京国際、幻の世界最高記録(距離が長いと思われる)
自分の意思では、どうにも出来ないことばかりであり、不運としか言いようがない。
特にモスクワのボイコットは、日本に何の得ももたらさなかったことは強調しておきたい。 64年東京オリンピックは幼かったので見た記憶はないが君原寺沢が福岡を走ったことを覚えている。 そもそもうまれてないっす。
60歳くらいっすか、、 君原は朝日国際の時代には朝日マラソンを走っていたが66年にIAAFの肝入りで国際
マラソンになってからは中々福岡を走る機会がなかった。その理由は66年、70年が
アジア大会に参加、67年にはプレオリンピックに参加、68年はメキシコ五輪から間がない
から等の理由だろう(69年の不参加は理由不明)。そのせいか招待選手に選ばれず、
ますます走る機会を失った。
初めて走ったのはショーターが初来日、初優勝を果たした71年で、この年(びわ湖)
毎日で自己最低の13位だった君原は不調で11位と70年までの最低順位の8位を下回って
見せ場もなかった。翌72年はミュンヘン5位の実績で多分招待されて、淡々と後方で
レースを進め5位(日本人2位)に入った。表向き、君原は翌73年に別府を優勝し、
アテネで引退という事になっているが、その後も走り続け、地元の福岡では活躍した。
実際、76年から78年にかけての福岡の順位は15,17,16と安定しており、特に78年には
五輪候補の鎌田に先着し、宗猛の次いで2時間17分07秒でゴールした。 バンコクアジア大会のマラソンで2連覇した君原は後のオリンピックで銀メダルと5位入賞した。
暑さに強い選手は大試合でも強いという見本を示してくれたと思う。 ショーターが主催者の応援旗を走りながら集めていたのはびっくりした。。 >>260
瀬古あるある。
・何故か日本選手権を取っていない。アジア大会も無冠。選手権と名の付くもので優勝
したのは79年のアジア選手権のみか。
・瀬古と言えばラストのキックの印象が強いが、意外と新宅、金井にはラストで競い負ける
場面が多かった。単純にキックだけの比較だと2人に及ばない。
・過集中のせいか、連戦が効かない。例えば80年でDNガランで日本新を作った後の試合
ではるある。
・何故か日本選手権を取っていない。アジア大会も無冠。選手権と名の付くもので優勝
したのは79年のアジア選手権のみか。
・過集中のせいか、連戦が効かない。例えば80年でDNガランで日本新を作った後の試合
ではバイニオと伊藤国光に大きく離され平凡なタイムで3位。
・時折、信じられない負け方。未だに謎なのは高3の高校駅伝1区でまさかの区間4位。
区間賞の小山英士から32秒も離される完敗。86年アジア大会10000も調整不足とは言え、腹痛
で歩いてトップから1分差の3位も事情を知らない人には衝撃だった。勿論、ロス五輪も。
・同時代のセブ・コーが貴族院議員になったり、ロンドン五輪組織委員長、IAAF会長を
歴任したのに、瀬古の実務能力のなさでそういった要職経験はない。JOC会長だって1年下の
山下。瀬古に声はかからない。
・もちろん、瀬古の珍解説は増田よりましとは言え、ワースト2.本当に競技経験者と
思いたくなる。 78年のアジア大会は開催地が二転三転したうえイスラエル参加問題で大きく揺れた。
結局イスラエルを排除して行われたが国際陸連は出場国を国際試合出場停止処分にした。
旧式のセックスチェックが行われ女子は恥ずかしくて泣いていたと新聞に書いてあった。
82年のアジア大会はニューデリーで行われダイジェストながら競技映像が見られた。
マラソンは阿部文明が銀メダルを獲得。野犬が選手を追いかけている場面もあった。 阿部文明。何十年ぶりかで、その名前を聞いた。
記憶に間違えなければ、87年びわ湖毎日マラソン優勝者。81年箱根駅伝2区区間賞。
駒澤大学だったと思う。 >>263
あなたの言う通り還暦の爺さんですw
記憶に残っている最初に見たテレビのマラソンは67年の別大毎日マラソンでした。
終盤まで二人が並走していて一人がスポンジを取りに行った瞬間スパートして優勝。
ずっと後になってから優勝は君原健二で2位が佐々木精一郎だとわかりました。 >>272
世界歴代3位と4位の大勝負ですね。21歳の若武者、佐々木のメジャーデビュー戦。 佐々木は若手のスピードランナーとして期待が大きかったが腹痛に悩まされたようだ。
メキシコオリンピックは君原が銀メダルに対して佐々木は途中棄権。
その後も走り続けたが復活できなかった。 佐々木精一郎のベストレースは世界記録を上回る記録でゴールした1967年の福岡国際
マラソン。IAAFの肝入りでマラソンの世界選手権と位置付けられてから2回目であり、
当時は第2回国際マラソンと呼ばれていた。そのレースの詳細はIAAFのページにもあるが
http://www.coara.or.jp/~hinoue/World/Fukuoka/1968_Fukuoka.html
の方がより詳しく分かりやすい。一言で言えば先行するクレイトンに猛烈な勢いで
追い付いた佐々木が5キロにわたる並走の後、34キロで後退せざるを得なかったのも
彼の弱点であった腹痛が起きたためであった。 別大マラソン(当時の別府マラソン)は68年まではテレビ放送されていた。
その後はNHKのラジオ放送になり79年以降ТBS系列でテレビ放送が復活した。 佐々木は翌68年2月の別府毎日も2:13:23の大会新で圧勝。世界歴代6位相当の好記録
であり、選考指定レース3つのうち2つを日本人1位かつ日本記録を更新して文句なく
メキシコ代表の資格を満たし、最終選考会の毎日マラソンを欠場した。一方で、急浮上
してきたのが采谷義秋で、年末の国際マラソンで6位(2時間14分49秒6,佐々木、4位の
蓬原正嗣2:14:40に次いで日本人3位)、別府毎日ではアジア大会チャンピオンで前回の
覇者勝つ東京代表の君原を40キロ付近で交わして2位(2時間15分22秒)、最終選考会の
毎日マラソンでも君原(2:14:46)を凌ぎ2:14:24で2位と安定した成績を残しながら
選考委員会は佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。
しかし陸連理事会はこれを承認せず、「4人とも同格の代表で、正補欠は7月の富士山合宿
のレースで決める」と決定。その後、また方針がぶれて「エントリー締め切り日(競技3日前)
にもっとも調子のいい選手を出す」と方針を変更。結局、コーチの高橋進の発言力と、
68年6月のウィンザーマラソン優勝を含めた外国レースでの実績、7月のメキシコ遠征中に
あった30キロと5000メートルマラソンで、それぞれ5位、9位と成績が振るわず、高地の順応性
が低いとの判断で、7月24日、采谷を補欠とする最終決定を発表した。
結果としては、最終的に救われた君原が銀メダルに輝いたので、成績だけを見ると
最終判断は正しかったと言えるが、選考の公正性は全くなく、禍根を残した。 >>278
この時の結果オーライが後々までオリンピック代表選考に悪影響を及ぼす。 瀬古利彦に一万で勝ったことのある森口達也を唐突に思い出した。息子が高校駅伝で7区区間記録保持者。 >>281
森口は瀬古と同期で、高校時代はIHにも出ていない。神戸製鋼に就職して、徐々に頭角を
表し、転機となったのはトラックでもトップクラスで初マラソン日本最高記録(75年別府、
2:13:10)を持っていた小沢欽一を練習で破った事と述懐していた。それを機に森口は
トップクラスになり、反対に小沢は一線から退いた形になった。彼が不運だったのは折角
代表に選ばれたのにモスクワ五輪がボイコットだったこと。翌年に5000の日本歴代2位
の13:26:55を記録したが、その後が続かずロス五輪代表には届かなかった。ラストの切れ味
のあるランナーだったと思う。 前日、瀬古利彦が2万で日本新を出しているけど、間違いなく、その疲れはあったと思う。 >>238
鎌田が出たモントリオール五輪の10000予選の動画
https://m.youtube.com/watch?v=kgjFguD7DgY
17分辺りから。ちょっと位置取りが後ろ過ぎて集団がバラける時に対応出来なかったね。
この映像は初めて観た。 ゼッケン72番の謎の男。
ショーターは若かりし頃はヒゲだったんだなあ。 >>288
初来日の71年福岡から五輪、歴代3位の福岡を経て、途中大便をして優勝して優勝した73年
びわ湖毎日までひげがあったから、寧ろ73年福岡でひげなしのショーターを見た時に違和感しか
なかった。 >>287
(ロス五輪マラソン前なので)インタビューが面白いね。彼の見立てではサラザール等
アメリカ勢は厳しく、優勝候補は瀬古とド・キャステラだけど瀬古推し。またダークホース
としてカルロス・ロペスを挙げている。まあ妥当か。 >>290
ショーターとロジャースは瀬古を高く評価している。
ショーターは瀬古がロス五輪ゴール直後に慰労している。 スティーブ・ジョーンズとド・キャステラの瀬古への評価もまた高い。 83ボストン優勝者・グレッグ・メイヤーも瀬古氏を高評価 もう一つ懐古スレが盛況なのにこちら過疎ですね。
少し話題を広げてみたいと思います。
大牟田の吉富兄妹のことを詳しく知っている人はいませんか?
他にも早熟だった選手がいたら教えてください。 詳しくはないけど吉富兄妹はある意味分水嶺だったね。悟選手以前の高校記録を作った
選手はまあランナーとして大成したけど、悟選手は1500とかで活躍する微妙。それ以降
に5000で高校記録を作った後藤、工藤、巽等以降はほぼ活躍出来ていない。吉富兄妹は
高橋進と確執があったみたいで、月陸にそれと分かるようにこき下ろしていた。高橋の
方が大人気ないけど。
早熟選手の生態は、1979年の日本選手権の800で2位になった今泉愛子(旧姓石原愛子)が
現在はライターになって、詳しく書いているよ。彼女の名前と陸上をキーワードにすると
twitterとブログが引っかかる。またブログには元祖早熟娘の深尾真美や同世代の早熟娘
の瀬渡加奈子(中学生時の1979年日本選手権3000を日本新で制した)や、その他、同世代の
トップ女子選手(織田道子、横須賀久乃、中村敏子等)との交友や現在が書かれているから
必読。 全米選手権で一発選考、それも5月ぐらいだったとおもう。
雨はマラソンやるきなし。。w 今や留学生が居るので端から無理で話題にもならないけど、あの頃はIH,国体の5000と高校駅伝の
1区を制すると3冠。吉富悟はそれに加えて高校新、チームとしても駅伝優勝だから5冠。
空前絶後かもしれない。(服部誠は4冠)。 吉富純子が日本の代表的ランナーとして活躍したのは船津中3年の1年間だけと言って
良い。その意味で早熟ランナーの中でもかなり特異で、後に復活して神戸ユニバーシアード
のヒロインとなった1年先輩の深尾真美とはかなり印象が異なる。70年代の女子中学生
は、この2人に限らず、坂梨智子を先駆として藤田佐恵子、石原愛子、瀬渡加奈子等の
様に毎年のように日本選手権の中長距離で上位を占める選手が現れた。
深尾が、吹田六中3年で日本選手権2位になって周囲を驚かせた翌年(深尾が活躍した
76年は高校長距離界を吉富悟が席巻した年でもある)、悟の妹の吉富純子が彗星の様に
現れて大活躍をした。まず6月の海外派遣選考会の1500で深尾の中学記録を破る4分26秒2
で優勝し、ワールドカップではアジア代表として4分24秒8に記録を伸ばし一流選手に伍して
7位になった。また10月の日本選手権では1500は惨敗したものの、800で2分10秒5だった
と思うが中学新で優勝。鮮やかなラストスパートだった。おそらく中学選手が優勝したのは
戦後初めてではなかっただろうか。(その後も瀬渡とか佐藤恵等の限られた選手しか優勝して
いない)。また年末には太平洋沿岸五か国大会の代表に選ばれ、(おそらく)サテライトの大会で
4分21秒9まで記録を伸ばした。この記録は75年に今野美加代にマークした日本記録まで
後0秒9に迫る堂々たる記録であり、今野の記録が長く残ったのと同様、長く歴代2位の
ままであった。
そんな彼女が大牟田高校に進学後、パッとせずIHの決勝にも残れないようになるとは
信じられない事であった。幾つかの要因が考えられる。そのうちの最大のものは吉富
兄妹を指導していた父親の体調不良と死去に伴うものであろう。また高校では1500
が競技として存在しない時代で、日本選手権を取ったとは言え比較的不得手の800に
集中しないといけなかった戸惑いもあったのかもしれない。増田の登場以降であったら
また彼女の青年になった後は、大きく異なっていたかもしれない。 皆さん丁寧にご説明して頂き感謝いたします。
陸上競技誌で高橋進氏は「八幡製鉄にとって吉富兄妹は高い買い物だった」とこき下ろしていました。
吉富純子が八幡製鉄入社後、自分にあいさつしなかったからと言ってこんな酷いこと書いていいいのかと憤慨したことを思い出しました。
高校駅伝で区間新記録を達成した西村義弘氏も八幡製鉄入りを断ったため高橋氏から嫌味を言われたそうです。
かなり異常な性格な人ですね。 調べた限りでは戦後、日本選手権を取った中学生は吉富純子、瀬渡加奈子、佐藤恵の
3人のみだね。開始3年目の隙間種目だった3000の瀬渡はともかく、伝統種目の800で
勝ち、海外で2回の自己新、それもそのうち1回はその年の世界で一番大事な試合だった
ワールドカップで強豪に臆せず挑み自己新、トップと12秒しか差がなかった。この勝負
強い吉富が佐藤恵並に女子陸上界の歴史に残る大選手にならなかったのは痛恨の極み。
3年下の石原愛子(今泉愛子)のブログを見ても、ああいった早熟選手がどうやって生まれる
のかは良くわからない。石原の場合は、集中力と身体の軽さは武器だったのだろうけど
ハードな練習が出来る程丈夫ではなかったと述懐している。 高橋進は、どうも好きになれないなあ。性格が欠陥あるんじゃないか?
80年代半ば、よくマラソン解説してたけど、その後のメイン解説になった宗茂さんの
ほうが遥かにいい解説者でしたわ。 >>299
高橋進の文章で西村義弘を評した以下のものがある。
「(前略)すべてを振り切って地元の新日鉄大分製鉄所に入った。(中略)西村もおしまいだと
いうささやきがあちこちにあった。当時私は新日鉄八幡にいて、本格的に競技に取り組む
決意があるなら八幡に転勤したらどうかと声をかけた。返ってきた回答は「気ままにこちら
でやりたい」。私は公然と、ああ、あいつはこれでおしまいだと指摘した。」
論評するまでもないが、こういった文章を公刊する辺りに高橋の性格が良く現れている。 「老害」という言葉があるが、高橋氏にふさわしい気がする。 高橋進は西村が不調だった頃「お前も田舎大名になり下がったな」と皮肉った。
しかし西村は地道に練習して83年と87年の別大マラソンで優勝して高橋を見返した。
西村は地元の日本文理大学陸上部監督として後進の指導を行っている。
https://www.e-obs.com/blog/nicecatch/ichimaino_shashin/201702/20151.html どうも高橋進を良く言う人がいない。それも自分が蒔いた種だから仕方ないか。
西村は地味に頑張った。長らく高校駅伝1区の区間記録を持っていた人と記憶している。
高橋氏をぜひ反面教師にして指導者としても活躍して欲しい。 >>295
工藤・巽というのは工藤康弘、巽博和のことですね。
後藤という人は、よく知りませんが。 >>307
81年のびわこ国体の5000で後藤芳文(中津工)が14:14:1の高校新で走っています。このレースは
IH1500障害の覇者の愛敬重之(四日市工)がハイペースでリードし、後藤と大庭幸治(埼玉栄)が
着く形で進み、愛敬も14:16:6の高校新、大庭も14:19:1の好記録でゴールしています。後藤は
(未だ高橋進がいたであろう)新日鉄八幡に就職しましたが、その後は聞きません。愛敬は
3000障害で活躍し、ユニバーシアードでメダルを取り、五輪までもう少しの選手でした。
(消えた天才に出ていましたね)。大庭もどうなったか分かりません。実はこの年のNo.1は
岩佐吉章(市川)でIHの1500、5000を圧勝していますが、国体は体調不良で予選落ちでした。
岩佐は順大、日産で活躍しました。 >>308
大庭幸治という選手は専修大学で箱根駅伝を走っていますね。確か4区でした。2区が森田修一で。 岩佐は箱根駅伝3区区間賞。2年連続。4年時に総合優勝。
愛敬は有名人。1500m優勝者というところが「時代」を感じさせる。
確か84年の秋田インターハイが3000m障害元年だったと記憶している。
ひょっとして愛敬重之は瀬古利彦の高校の後輩? >>310 はい。また愛敬のお父さんは有名陸上選手(IC,実業団の3000障害の優勝と箱根区間賞は
確認できた)だったので、当時親子鷹と呼ばれていました。 高橋進は良く解説をして文章を書きまくっていたけど、内容は単純で深みはないだけでなく、
情報収集力、分析力に疑問符が付いた。彼が得意になって語っていたのはマラソン持久力
指数としてマラソンタイムを10000のタイムで割ったものを使って10000の走力が大事としていた
事。指数は4.7くらいだが、当然10000の速い人は指数が悪く、マラソンベースの持久型は
指数が良い。極言すれば彼は10000が速ければマラソンが速い、としか語っておらず、夏マラソン
というものがない様な言い方であった。
モントリオール五輪でチェルピンスキーが優勝した事は驚きをもって迎えられたが、これは
彼の情報集力のなさとその発言力に依るところが大だと見る。実際、月陸モントリオール五輪
展望号で彼は多数の有力候補を挙げており、東独でもレッセとトルッペルの2人を挙げているが、
チェルピンスキーは含まれていない。実際には高橋が挙げた二人は代表漏れでオリンピックトライアル
(5月30日)で2:12:21:2の好記録で優勝したチェルピンスキーのみが代表になっている。記憶では
この記録は76年の年が明けてから五輪までの世界5位であり、優勝すると予想するのは
難しくても、出場権すらない2人をダークホースとするくらいなら当然マークしておかない
といけない選手だった。 愛敬はカーマニアで陸上の取材中もスポーツカーの話ばかりしていたw
全国高校駅伝では両足痙攣が起きて足を引きずりながら次走者にタスキを渡した。 モントリオールは、雨の中のレースで凄く気候冷涼に
見えた。 >>714
前年のプレオリンピックは気温36℃の猛暑の中で水上則安が優勝した。
モントリオール五輪予選も水上は宇佐美に次いで2位になりメダルを期待された。
ところが当日は雨が降り気温が下がり暑さ対策をしてきたのが裏目に出てしまった。
序盤から先頭集団のスピードについていけず後半追い上げたものの21位に終わった。 75年福岡上位の宗猛、服部、浜田がモントリオール五輪に出た方が良かったと思う。 >>317
まあね。しかし6、8、10位じゃ今でも選ばれない。 浜田は76年のびわ湖毎日で4位だったのでモントリオールの次点扱い。五輪後の77年
別大でもその年最高の2:13:57で優勝し、初マラソンの鎌田他の有力選手を退けた。
77年の日本選手権10000では喜多のラストスパートに屈したものの宗猛、瀬古を退け
2位(28:27:6)に入った。瀬古以外の有力選手が集まった2月の別大では宗茂の猛烈な
ペースに戸惑い8.5kmで腹痛を起こし後退、8位にまとめたものの新旧交代を余儀なく
された。しかし浜田の真骨頂は74年の別府で後半追い風にも乗り、30から35キロを
14分台で飛ばし、日本歴代6位の2:13:04:2で制したレースで現れた。それまではスピード
がありながら後半崩れるレースを繰り返していたが、これで一皮剥けた。尤も直後の
毎日で宇佐美に格の違いを見せつけられたり、プレオリンピックは不発だったりで、
安定したと言っても、惜しいレースが多かったのも事実で、それが代表入りを惜しくも
逃す事に繋がった。しかし引退レースの84年別大でも8位2:14:49にまとめ上げる辺りは
流石と言うべきか。引退後は指導者として活躍し、京セラの監督として実業団女子駅伝
で優勝した他、荒木、市橋等の五輪選手を含めて多くの選手を育てた。 別府毎日マラソンが別大毎日マラソンに改称されたのは1976年であり、それを期に別府
ー大分の片道コースのハーフマラソンが創設された。当初はジュニア限定であり、栄えある
第一回の覇者は年末の都大路10キロを29:29で走り切った西村義弘であり、その後を大いに
嘱望された。第2回の覇者は鐘紡の松元利弘で、追い風にも乗って当時としては破格の
1:02:37で走り切った。(この時の西村は4位であった。) 松元は75年から鐘紡のレギュラー
となっていたが、その頃は力不足もあり、駅伝でしばしばブレーキになったが、76年から
は安定し、年末の実業団駅伝でも区間賞を取った。鐘紡で鎌田、伊藤を継ぐ次世代エース
と期待されたが、鐘紡を退社し、順天堂大学に進学し、4年間箱根2区の重責を担った。
マラソンでの成功も大いに期待されたが、それはならず、諫早高校監督として辣腕を振るい
名を馳せた。 なるほど。名前は知っていましたが、ここまで詳しい経歴は知りませんでした。
ありがとうデスマス。 >>320
山下佐知子も浜田の指導を受けていたんだね。
浜田は72年の国際マラソンで日本選手で唯一24キロまでショーターについていった。
75年のびわ湖マラソンでは前半クレイトンの世界最高を上回るペースで独走し自滅した。
順位結果は悪くても世界のスピードに挑む積極的な姿勢は現在の選手も見習ってほしい。 浜田選手は「自分はもう若くない、だから積極的にゆく」という心構えが印象に残っている。 昔は実業団経由の箱根駅伝ランナーが多かった。顔つき見ても凄く雰囲気が
落ち着いていて、今の大学生と隔世の感がある。 >>326
駒沢の大八木監督も小森印刷を経て入学、3年で2区区間賞を取った後、4年では年齢制限
で走れなかったね。その他、日体大の中沢栄、順大の山田和人も実業団上がりだったと思う。
箱根組ではなかったけど、箱根組より強く、ユニバーシアード代表とか世界選手権代表になった
実業団上がりに村越忍(福岡大)、川口孝志郎が居る。教員率が高いな。 ショータ―のプロフィール
https://www.hmv.co.jp/artist_フランク・ショーター_200000000140104/biography/
弁護士以外にも多くの資格を持っていたんだな こんなの
https://m.youtube.com/watch?v=NYXg3069DXI
あったよ。1982年の別大。先行する西村義弘を逆転するホッジ。
本当は79年の別大で武富に肘を入れて0秒3差で優勝する喜多秀樹の映像を探していたけど、
ないね。ああいう走路妨害は今だと失格? 昔の人の名前がバンバン出てくるけど、意外と知っていて自分でも驚き。
というよりもトシを取ったのか・・・・・・・・ 今日の設楽は最後まで持たなかったけど、勇気のある仕掛けをした事に敬意を表したい。
スタート直後からの逃げは99年東京の高橋や79年福岡の大久保の様に大抵失敗するけど、
たまに成功する場合がある。北京五輪のワンジルもスタートから仕掛けてハイペースを
演出したけど、独走にはならなかったので、除外すると以下の例ではスタートから一人で
レースをしてそのままトップでゴールしている。
1969年福岡 ドレイトン
1973年福岡 ショーター
1985年 東京 宗茂
1985年 ソウル 中山
1986年 アジア大会 中山
1990年 東京 中山
1998年 アジア大会女子 高橋
辺りを思い付く。その他にも一杯あるだろう。ペースメーカーがいるとお目にかかれない
レースなので、近年で見る機会は減っている。女子の前田の様に中盤で飛び出すと有効で、
そのまま逃げ切る可能性が高くなる。 設楽を集団が追わなさすぎ。無名選手ではない。
「この男を逃がしたらマズイ」という勝負勘は働かないのだろうか。 MGCを見て日本選手だけでオリンピック予選をしていた時代に逆戻りしたと感じた。
ケニアエチオピア選手が出場していたら設楽と先頭集団を作っていたはずだ。
終盤で追いこす消極的な戦法ではとてもオリンピックでは通用しないだろう。 設楽は10km29分52秒で、決して無謀なペースで飛ばしていたわけではない。
中山だったら当然、同じような位置にはいたし(それ以上のペースかも)
瀬古利彦や宗兄弟、谷口浩美あたりも「この選手を大駆けさせたらマズイ」というのは
分かるから、当然設楽を追う。同じような位置にいるか、少なくとも少し離れた程度の
距離で、「逃がさないぞ」という姿勢は見せる筈なのである。
なにか10年ちょっと前の箱根駅伝1区で、スタート直後から飛び出した佐藤悠基を東洋
以外誰も追わずに最初の5km16分台という信じられないスローペースで入った時の
ような失望感が漂ったが、私だけではないと思う。 モスクワ五輪が終わった直後のNYCマラソンで初マラソンのアルベルト・サラザールが
2:09:41で優勝したのは衝撃であった。翌年の2回目のNYCで2:08:13の世界新(3年後に距離不足
で公認取り消し)で圧勝し、82年には何れも僅差ながらボストンとNYCを連勝し、世界最強の
名を欲しいままにした。また当時世界トップクラスの10000を27:25:61で走るスピードと相俟って
死角はないとまで言われた絶対王者であった。実際、瀬古が東京で2:08:38で復活勝利を遂げた
際もゴメス等多くの外国人はサラザールが最強と強く主張していた。しかし、その最強説は
脆くもロッテルダムの惨敗で崩れ、福岡で完敗するに及びロス五輪前にショーターをして、
期待出来ないと言わしめる程の評価の急落を招いた。 81年にサラザールが2:8:13の世界記録を出したときも瀬古は驚いていなかった。
DNガラン10000mのラストで瀬古はサラザールに4秒以上差をつけて勝っている。
中村清監督もサラザールはクロスカントリー中心の練習でスタミナが無いと言っていた。 キャステラはロッテルダムマラソンで優勝した時「ロペスは強敵だ」と明言している。
中村監督もロペスが37歳になっても衰えない練習方法を知りたがっていた。
ロス五輪前はマスコミの下馬評が高くなかったロペスだったがプロの目は凄い。 日本のマスコミのリサーチ不足。モントリオール銀でロス五輪直前にマメーデに次いで2位ながら
世界記録を上回る走力は脅威で、ロッテルダムの走りからして当然三番目の優勝候補だった。 ロス五輪の話になってしまいますが、銀のトレーシー、銅のスペディングって、下馬評にも挙がっていなかったですよね?
Wikiを見ると、トレーシーはロス五輪が初マラソンと書いてありますが、参加標準記録などなかったんでしょうか?創成期の五輪じゃあるまいし。 >>345
トレーシーはトラックやクロスカントリーが強く驚きはなかった。スペンディングは
正真正銘の無印。初マラソンを五輪にする一流長距離選手は珍しくなかったよ。
トレーシーは初マラソンでしたか。モントリオールだと長距離2冠のビレンが初マラソン
で5位になっていた。(もっと前ならザトペックは初マラソンで公認世界記録を破り
優勝で長距離3冠)。 と書いたけど、スペンディングは英国予選で2:09:57で走って優勝している。単に僕が
ノーマークだったのかも。トレーシーも改めて戦績を見ると大した事はないように
思うけど、単に僕が知っていただけかもしれない。
https://more.arrs.run/runner/1035 トレーシー
https://more.arrs.run/runner/5812 スペンディング >>347
90年東京国際マラソンはトレーシーが2位だったのか
スタートから中山が独走していたので全く印象に残らなかった
https://more.arrs.run/race/6521 スペディングはトラックに行き詰まりを感じてマラソンに転向したら自分にピッタリだった、
とのこと。
初マラソンは84年1月のヒューストンで優勝。次いでロンドンで2時間09分57秒で優勝
(ジュマ・イカンガー6位)と、一応、ロス五輪前は、その程度の知識はありました。
しかし、メダルの一角には食い込むなどとは全く予想すらしていませんでした。
スペディングの立派なところは、翌年のロンドンで2時間08分33秒を出したり、ピークは
過ぎていた筈の88年ソウル五輪でも6位に入賞したりと、息の長い活躍を見せていた
ところ。「渋い実力者」という表現がピッタリと思われます。
また瀬古利彦に2度の五輪で先着し、通算成績はスペディングの2勝1敗。複数回対戦
して瀬古利彦に勝ち越している唯一の選手と思われます(1敗は86年シカゴ=3位) で、ロス五輪銀のトレーシーは何とロス五輪が初マラソンですが、これは日本では絶対に
あり得ません。枠が空いていたから1万Mのアイルランド代表だったトレーシーがそのまま
マラソンを走ってしまったケースです。フィンランドのラッセ・ビレンが76年のモントリオール
で初マラソン5位になってますが、標準記録が設けられていなかったマラソンだから出来た
技でした。
結果的に初マラソンがベスト・レースになりましたが、銀メダリストになった後、調べてみたら
実力のあるランナーだったことを知って2度ビックリ。これはフロックでもなんでもないや、と
納得したものです。
ロペスの金メダルは、なおさら納得。そもそも優勝候補でした。37歳という年齢は気に
なりましたが、実際に見て走りが若々しいこと! 瀬古利彦が万全な状態でも勝てなかった
のではないか(この相手ならば仕方ない)と今でも考えています。 多分、ロス五輪出場者で2時間10分切った持ちタイムを持っていたのが12人で
(サラザールみたいに取り消された記録は除く)現在公認順だと以下のランキング
だったと思います。
1.ド・キャステラ 2:08:18=>5位
2.瀬古 2:08:38=>14位
3.ロペス 2:08:39=>1位
4.宗猛 2:08:55=>4位
4.イカンガー 2:08:55=>6位
6.ニーブール 2:09:01=>DNF
7.宗茂 2:09:06=>17位
8.ゴメス 2:09:12=>DNF
9.サラザール 2:09:21=>15位
10. J. Nazu 2:09:45 =>7位
11.A. Parametier 2:09:57 =>30位
11.スぺディング 2:09:56 =>3位
ニーブールのように昔の名前で出ていた選手を除くと割と順当な結果になっていますね。 ロス五輪の動画
https://www.youtube.com/watch?v=LVZG9iy9vAc
を見返してみると、35km手前で瀬古が遅れて、35kmの通過が1:48:22。ロペスは
2:09:21でゴールしているのでそこから5kmあたり14:31:9のハイペースで飛ばした
ことになる。やはり瀬古が万全でもついていけなかっただろう。 サラザールはボストンで2時間08分台で走ってますね。82年。
ああ、そうか、現在の基準だと下り基調のボストンは公認されないのか。
ベアズレーの記録も。
ただ、世界最古の歴史を持ち、コースの難易度も高いボストンを公認しないというのも
おかしな話であってね。
あ、83年のグレッグ・メイヤー(マイヤー)もボストンか・・・・・・・・・・・ >>353 ベアズレーもマイヤーも代表ではなかったので公認されたとしてもリストから
除外されていました。 なるほど。2時間08分59秒のロッド・ディクソン(NZ)も出したのがNYだったから
抹消されたと。 >>355
はい。ディクソンはダークホースでしたが見せ場もなく10位に終わりました。また
>>351
のリストには抜けがあります。ヒュー・ジョーンズ(英)は出てないのかと思いましたが、
12位でした。彼も入賞候補に挙がっていたと思います。 345です。
皆さま詳細な解説等々有り難うございました。当時は中学生で、塾の夏期講習をサボって抜け出し帰宅して慌ててテレビをつけたら、まさに瀬古が遅れ始めた場面で、それはそれはショックを受けました。 ジョーンズは世界記録も出したスティーブが有名だが
ヒューもなかなか。86年ロンドンでは瀬古に次いで
2位。 ヒュー・ジョーンズが第2回ロンドンマラソンの覇者でその時のタイムが2:09:24。
スペディングが第4回。第5回のスティーブ・ジョーンズを挟んで第6、第7回は瀬古、
谷口で日本人が連覇。日本人女子の優勝はない。日本人の優勝なんて今ではあり得ない
ので隔世の感がある。アテネ五輪の後に油谷が参加した際にペースメーカーのタイム
設定を聞いて終戦だった事にショックを受けた。
ロンドンマラソンが隆盛を迎える一方でポリテクニックマラソン(ウィンザーマラソン)が
苦境を迎え1996年で終了。50年代にはピーターズが3年連続世界新、60年代にも63年から
エデレン、ヒートレー、重松で3年連続世界新という輝かしい歴史持ったマラソンの終幕
は少し残念。 かつては3大マラソンだったのでは。ウィンザー・マラソン。残念。 かつては世界三大マラソンの一つだったコシチェマラソン歴代優勝者
アベベ・・ビキラや宗猛の名前もあるが近年はケニア勢で優勝を独占している
https://arrs.run/HP_KosMa.htm チェコスロバキア。1976年が宗猛優勝。皮肉にもびわ湖で惨敗してモントリオール五輪に
行けなかったのが幸いした。ここから巻き返しに転じていく。 しかし、その後も宗猛の成績は安定しない。
2か月後の福岡は19位と惨敗、77年の福岡も9位で大学2年の瀬古等に先着を許し、
78年別大は2位だったものの茂に3分半以上の差をつけられ影が薄く、4月のびわ湖
では茂に雪辱し優勝したものの、日本勢が上位独占をし、マラソン日本の復活を印象
付けた福岡では15位と惨敗。79年になってもびわ湖4位、スパルタキアード10位と
冴えないレースが続き、安定した成績を挙げる茂に大きく水を開けられた感じだった。
従ってモスクワ代表の最終選考会の79年福岡での下馬評では瀬古と宗茂はほぼ確実、
3番手としてスパルタキアードで惨敗したものの前年福岡2位の喜多が有利、伊藤と
宗猛なら経験の分、猛かという程度であった。その中で福岡での41km付近での猛の
スパートは瀬古を慌てさせ、一瞬勝負あったと思わせるインパクトがあった。しかし
結果論としてはスパートが中途半端ですぐ茂が追いつき、スタジアムに入るところで
瀬古も追いつき、勝負あったといったところであった。 79年福岡は猛の出世レース。40km通過と同時に仕掛け、一時は瀬古も引き離すが
余裕が残っておらず巻き返しを許す。競技場に戻ってからは、スプリント勝負では厳しい
ものとなった。とはいえ、ほぼ会心レース。茂に続いて猛も世界への扉をこじ開けた
マラソンとして記憶にとどめておきたい。 良く知られている通り78年別大の宗茂の走りは驚嘆という他はなかった。その僅か2カ月前
の福岡で何とブービー(52位)で2:37:45もかけてゆっくり走った。おそらく途中でレースは
止めて練習に切り替えたのだろうけど、それにしてもこの急変ぶりには驚かされた。そもそも
別大の前からレースを作ると宣言して、鎌田、伊藤、喜多等夏に従来の10000の記録を上回る
記録で走ったスピードランナーに対抗意識むき出しで攻めのレースを貫いた。レース経験の
乏しかった喜多は最初からハイペースの第1集団にはつかなかったが、旭化成vs鐘紡の意地
のぶつかり合いみたいなレースであった。4人のエースランナーの中で最初に遅れたのは
猛だったがうまくまとめて僅かに自己新で2位。鐘紡の2人はスタミナ不足、特に鎌田は
25km近くまで茂に着いたが終盤崩れて14分台で4位、伊藤も13分台で3位だった。ブービー
と世界歴代2位(70年代最高)を出した茂はそれですっかり自信をつけたのか、以降安定した
成績を残すようになった。まさにマラソン王国復活の記念碑的レースであった。 >>365
大会前に最も注目されていたのはマラソン2回目の鎌田だった。.
前年の6月30日10000mで日本初の28分の壁を破る27:48:63の日本新記録を達成。
更に7月5日には今度は5000mで13:25:41の日本新記録と破竹の勢いだった。
別大マラソン前に毎日新聞のインタビューで「伊藤君をマークします」と答えている。
記者から「宗兄弟は?」と質問されると「関係無い」と言い放った。
福岡国際マラソンで宗兄弟が不振を批判されていたこともあり刺激を与えたと思う。 78年別大にはもう一つの課題があった。76年春のニュージーランド合宿以来オールジャパン体制で
陸連が肝入りで強化している若手vsベテラン組の対決であった。前者には欠場した瀬古も
入るだろうが、宗兄弟、鎌田、伊藤、喜多と言ったメンバーであり、後者には77年の別大で
1、2位でモントリオール予選で4位、2位だった浜田安則、水上則安であった。別大では彼等に
加えて箱根1区で石井隆士の区間記録を破ったばかりの西広美が絡む形で序盤は進行した。
(正確には喜多は自重して後方待機だった)。しかし8km過ぎには旭化成vs鐘紡の対決になって
おり、以降旧世代は鳴りを潜める様になった。 西ちゅうと確か明治大学前監督。ほのぼのした雰囲気のおとっつぁん。 >>368 広美=>弘美
学年は宗兄弟、喜多、武富等と同期。全員北九州だからIHの北九州予選は勝ち抜けなかった
かな。それで井筒屋に3年勤めてから日大に入っている。順大の重成敏史は社会人から大学に
入った同期かな。重成は1500が強くアジア大会の代表になったりした石井隆士の好敵手だった
けど、箱根では西の方が上で西が区間新で走った時の2位が重成だった。大学卒業後の重成
はどうなったのだろう。(大学入学前は北見あたりの消防士だったような記憶がある。) 懐かしい名前だ。幻の元・世界記録保持者。「貴公子」といった風貌だった。 >>373
2、3年前から噂には登っていたからね。
かなりグレーなプロジェクトってイメージはあった。 1981年ニューヨークシティマラソン
https://www.youtube.com/watch?v=zg_eH29c7_g
2:08:13の世界最高記録でゴールした若き日のアルベルト・サラザール
後に距離不足で抹消されたが当時は世界最強のマラソンランナーと言われた >>378
でも、この後は大した記録も残せず、地元ロス五輪の時は優勝候補とは言えなかったよ。 いや、翌年のボストンでも8分台。気温も結構高かった。 サラザールは初マラソンでいきなり史上8人目のサブテンで優勝して以来、世界新を2回目
のマラソンで出すなど好記録(8分台、9分台)で4連勝し、83年の東京で瀬古が優勝しても、
皆、口を揃えて「でもやっぱり最強はサラザール」と言われていた程の選手。但し83年4月
のロッテルダムでまさかの5位、急遽参戦した福岡でも5位、アメリカのオリンピックトライアル
も2位で、すっかり株を下げてロス五輪に挑み、瀬古に続いて15位と惨敗。 今日では東京も含めて世界中でマラソンの賞金レースが行われている。
しかしこの当時はレースで金品を受け取る事はアマチュア規定に違反すると定められていた。
サラザールは81年に世界記録を更新した時に自分は裏金を貰って走っていると公言した。
日本陸連はまだ織田幹雄ら長老が健在だったのでサラザールの発言に強く反発した。
目の前にニンジンをぶら下げて走らされる馬のようだと陸上誌のコラムで皮肉っている。
そのくせ自分たちは78年の8か国陸上未決算というだらしなさだからマスコミに叩かれても仕方がない。 >>381
サラザールは瀬古をロス五輪の最大のライバルと見ていた。
83年の福岡国際マラソンは当初サラザールを招待していなかったが本人が出場を希望した。
世界記録保持者を一般参加にするわけにはいかず出場料を払い招待選手としてゼッケン1を用意した。 福岡では40kまたりで遅れて2時間09分21秒の5位だった。
瀬古利彦がらうと100mでジュマ・イカンガーを千切った伝説のレース。 >>384
そうだったね。
9分代で走ったとは言え、瀬古らライバルに完敗したというイメージが強かった記憶があったよ。
記録だけを見ると確かに安定して良いタイムを出していたんですね。 アルバイト皿洗い
デザートがカステラ
十万いかが〜
軽いスローペース >>387
83年福岡は40kmあたりでイカンガー、瀬古、サラザールの3人になって最強対決かと思ったら
サラザールが落ちてすぐ後ろでちょっと前に脱落した宗猛に捕らえられ、ゴール間際では
早々に脱落した宗茂にも抜かれて5位だった。茂の執念は凄く、伊藤よりかなり前に脱落した
けど、逆転に次ぐ逆転で4位になり三大会連続代表を手繰り寄せた。(一旦先頭集団から離されて、
また先頭集団に追いついた喜多の執念も見事だった。色々と見所の多いヒリヒリするレース
だった)。 >>390
茂は3位ですよ。2時間09分11秒。40kmでは先頭から5秒遅れていて厳しい状況
ながら、集団が割れたのを見て完全に復活してラスト2.195kmをしぶとく6分36秒で
カバー。で、猛が4位で2時間09分17秒。こちらも渋くサラザールに勝ちました。
惜しかったのは伊藤国光。2時間09分35秒で、わずか2秒ながら、当時の自己ベストを
マーク。力は存分に発揮出来たのですが、茂の火事場のクソ力にやられてしまった格好。
このレースの模様はyoutubeでアップされているので、今でも時々見返します。
瀬古利彦のラスト2.195kmは2分52秒。強い! イカンガーも見事でした。 >>391
あ、訂正有り難うございます。宗兄弟は競い合うとほぼ茂が勝ちますからね。 81年別大マラソンは3年ぶりに宗兄弟が出場して盛り上がった大会になった。
前半からハイペースで飛ばす宗兄弟にディック・べアズレーという伏兵がついてきた。
折り返しを過ぎて茂が遅れだし猛とベアズレ―との一騎打ちになると思われた。
ところが別府湾の強風が記録を阻み両者が風よけにされるの嫌い完全にペースが落ちた。
猛とベアズレーガ駆け引きをしているうちに茂が追い付きしばらく3人が並走した。
残り5キロで宗兄弟が申し合わせたように同時スパート。あっという間にベアズレ―を置き去りにした。
ラストはスプリントに勝る茂がゴール前で猛をかわして優勝した。 宗兄弟と互角に渡り合ったベアズレ―はやはり只者ではなかった。
翌年のボストンマラソンでサラザールとゴール前まで大接戦を展開する。
https://www.youtube.com/watch?v=FmzljrUrwKE
2:08:54の自己ベストでサラザールと2秒差の2位となった。
しかしその後はこれといった成績は残せずオリンピックにも出場していない。 僅か2秒差で気温20度超ですから、2時間07分台の値打ちがありましたな、ベアズレー。
しかし、81年の別大も茂はしぶといというか、転んでもタダでは起きないというか・・・・・・・
脱落してからモロイきょうびのマラソン・ランナーの多くに爪の垢を煎じて飲ませたいですな。 東京五輪は競歩に期待。
しかし、アフリカ勢は、なぜ競歩に進出しないのだろう・・・・・・・・・・・・・ >>397
競歩はルールが複雑な上にマラソンのような人気が無いからスポンサーがつかず高額賞金レースも無いからだと思う。
2021年世界陸上を最後に50キロ競歩の廃止が決定されているから経費をかけて選手育成する必要もない。 懐古スレッドは爆発的なレスを生み出すのは難しい。地道にゴール(1000)まで
到達して欲しい。 かもり、って良く知らない。実はこの板、今年から見るようになったんで。 非公認とはいえ、2時間を切る選手が遂に出現してマラソン界から「世界」はさらに
遠くなった。 >>406 リアルタイムで視れば分かるが鳩尾に入って進路妨害していた。 優しい顔して意外にえげつない喜多秀喜。反則スレスレだろう。 同じ神戸製鋼同志でも容赦ない。武富豊は2時間11分台がベストで地味に強かった。
しかし指導者になってからのほうが光を放っている。 武富は練習で喜多が40キロ走ったら自分は50キロ走るという負けず嫌いだったそうだ。 喜多がメモリード女子陸上部の監督になった理由は何か?
いつか天満屋に勝ち武富の鼻を明かしてやろうと思っているからか? 喜多さんの講演で参加者から「誰がいちばん強いか」という質問に、
迷わず「中山くんです。」と答えていた。
「全日本とかの合宿でどんなきつい練習でも、彼だけは5キロ14分台であがってくる。
あれはとてもじゃないけどかなわない。」
その中山さんの講演でおもしろかったのは、やはり参加者の質問で
「走ることは楽しいですか」という質問に、
「楽しくないです。走るのが楽しいなんていうひとは高橋尚子さんだけです。」
場内大爆笑。 タンザニアと言えばイカンガーを思い出す。
>>413
面白いですな。中山節炸裂の図。 イカンガ―が優勝した86年福岡国際マラソン
https://www.youtube.com/watch?v=ZUuIjVm4jcg
途中まで先頭を走っていた西本一也は80年高校駅伝1区区間賞や熊日30kmで日本最高記録で優勝するなど期待の若手選手だった 30km1時間28分46秒。このタイムからするとマラソンは、もう少し走れて良かった。 メキシコオリンピック記録映画「太陽のオリンピア」のマラソンシーン
https://www.youtube.com/watch?v=c4n_8hpkDEg
最後にゴールした選手はタンザニアのジョン・スティーブン・アクワリ かなり長期間30kmの日本記録を保持していたと記憶している。 モスクワは本気で金・銀・銅を狙える唯一の大会だった 30kmではマラソンの適正がはかれないという典型的な見本。 西本一也が高校駅伝で1区区間賞を獲得した時は中村清監督がスカウトに来たという。
http://mutumi.otemo-yan.net/e575472.html 瀬古&中山の方は無事1000まで到達出来ましたな。懐古スレで1000行くのは
大変なこと。
ほとぼりが冷めたら、また後継スレッドを考えましょう。宗兄弟や谷口浩美、森下広一
なども絡めて。当時の外国人強豪なども交えて。
とりあえず、このスレをプッシュすることにしました。 大久保初男氏のことも触れられていますが、しっかりと見切られていましたね。 引退した今だから語れる内容でしょうなあ。
瀬古氏と宗兄弟は「戦友」の関係ですな。 70年代の福岡は12時0分スタートだったのでNHKニュースと被っていた。
スタートをカットするかスタートを録画して途中から生放送に切り替えたりしていた。
瀬古の活躍で福岡の完全放送を望む視聴者の要望が強くなりスタート時間を変更された。 いつの間にか、福岡はテレビ朝日で中継するようになってしまったが、NHK時代がいい。 瀬古の東京国際で2時間8分38秒を出した頃の世界最高記録は誰が持っていたんだっけ?
80年代始め頃の8分台って、今の価値で言うと4分台ぐらいだろうか? サラザールの記録が抹消されたのが85年初頭だった。
キャステラは元・世界記録保持者ではあるけれど、リアル・タイムでは一度も
世界記録保持
者と呼ばれていない。84年秋にはスティーブ・ジョーンズが世界
記録を塗り変えているから。 瀬古さんモスクワ不参加だがソウルは強引に出場させてもらえたんだから
そう不運でもないと思う。 最盛期の始まりの時期の五輪を逃したのだから、やはり不運 青梅マラソン歴代優勝者
https://www.ohme-marathon.jp/record/
ロジャースが優勝した時「なぜ30キロのロードレースがマラソンなんだ?」と不思議そうだった。
青梅マラソン優勝者の名前を見ると確かにそう思う。
ミュンヘンオリンピック出場をほぼ手中にしながら失速した原嘉則も2回優勝している。 瀬古利彦が81年にオープン参加で1時間29分32秒をマーク >>443
それでも中村監督は厳しい評価を下した。
「コースのアップダウンを考えないペース配分のミス。前半早過ぎで70点」 スレ違う一般市民ランナーが瀬古見たさに接近し過ぎ
ていたレース 今思えば、ドーピングで国としては出られないロシア選手が、ドーピングに関わりないとされる選手だけ
個人として参加しているような形で、モスクワ五輪も、
日本代表ではなく、個人参加として出場する道もやってよかったかも。
その場合は渡航費なども自費だし、勝っても日の丸は上がらないしで、複雑だろうけど、
強かったという証明にはなる。 瀬古利彦と宗兄弟で上位確実だった幻の大会。
個人参加でも確かに出られるのならば良かったなあ。まだしも。 >>439
中継観ていたのでそれは確かに感じた。
まず最初の5キロがたしか15分50くらいだったが、
観た感じも実況も「そんなに遅いか?」という反応。
次の5キロが14分41じゃなかったかな。
そんなに極端に上げたら観てる方にもわかるハズなのに
そんな感じがまったくなかった。
エスビー陣営が計測したら最初の5キロが少し長かったらしい。 最初の5kmは15分58秒で10km通過が30分42秒。
エスビーの計測では、最初の5kmは本当は15分10秒との事。 翌84年からコースが変わる。距離がおかしいことに気が付いて変更の
必要性を感じたからだろう。 79年から始まった東京国際女子マラソンと同じコースだが毎年5キロ通過タイムだけが極端に遅かった。
陸連は5年も放置しておいて気付かないふりをしていた。
しかもコースそのものを変更したため終盤の上り坂の傾斜が更にきつくなった。 モスクワオリンピックは朝日新聞系列のテレビ朝日が独占放送の権利を獲得していた。
日本のオリンピックボイコットが決定すると朝日新聞は政府とJOCを猛烈に非難した。
朝日新聞と発行部数を競っていた読売新聞はモスクワオリンピックボイコットは当然だと書いた。
プロ野球の江川卓が野球協約の空白の1日を利用して巨人に入団したことを朝日新聞が批判し続けたことに対する恨みもあった。
そしてマラソン人気に目をつけて陸連幹部に金を積んで東京国際マラソンを開催した。 81年は読売グループとフジ・サンケイグループ主催の東京マラソンの2回開催。
82年以降は隔年開催。 わからんよ。
瀬古は、1980年に運をなくした。
だから、現在、リーダーをやれてるかも。
両方GETしてたら早死にしてたかも。
ラガー平尾がそうだろ。
あれもこれもできないって。 81年は第1回北京国際マラソンも開催され日本選手も数人参加している。
この年は著しく過密日程だったので選手から陸連に対して不満の声が上がった。
瀬古がデビューした京都マラソンは翌年の82年を最後に終了した。(のちに市民マラソンとして復活) >>456
ことオリンピックに関しては相変わらず不運が続いている瀬古さん あの頃の北京国際マラソンは、2分くらい足すと納得がいく。
児玉泰助 2.07.35. (セカンドベスト 2.10.34.)
谷口浩美 2.07.40. (セカンドベスト 2.09.34.)
伊藤国光 2.07.57. (セカンドベスト 2.09.35.) 35キロから40キロが16分台でラスト2.195キロが6分26秒。
おかしいと思うのは自然。但し記録は公認された。 瀬古さんがモスクワで金を獲っていたら国民栄誉賞を貰えてたかもね。 しかし、モスクワ五輪でのチェルピンスキーの薬がかった走り、
あれは当時の瀬古でも勝てたかどうか。
モントリオール五輪・金、モスクワ五輪・金、ヘルシンキ世界選手権・銅
薬をつかったレースではほんとに強かったからな。 ヘルシンキ世界選手権で地元選手のバイニオは5000m銅メダル10000m4位。
しかし翌年のロス五輪は10000m2位でゴールしながらドーピング違反発覚で失格。
後に自伝で世界選手権でも薬物を使っていたことを自白している。
ロス五輪はソ連東ドイツなど共産圏諸国はボイコットしている。 クスリやっていてもシロになってしまうこともあるわけですな。 だって、あの当時の東ドイツは
国をあげて取り組んでたからな。
短距離のマリタ・コッホの体なんか
とてもオンナの体とは思えん。
要は検査に引っかかるかどうかの勝負。 ドーピングに関しては今の世界のトップランナーのうち、かなりの選手がやっていると思うけどな。 ソ連はモスクワ五輪がピークだが前回モントリオール五輪でモセーエフ7位、ゴトスキー9位と健闘していた。 モスクワプレオリンピックのマラソンはモセーエフが優勝
宗茂が競技場内で前を走る選手を次々に抜いて2位
伊藤国光8位、宗猛10位、喜多秀喜48位 >>476
宗茂は意外にラストのスプリントが効く印象がある。短距離は小学校低学年時代はビリ
だったというのに。 モスクワ五輪銅メダルのジュマナザロフはプレオリンピック4位、同年の福岡11位。
モスクワ五輪4位のコトフはプレオリンピック6位だった。
宗茂はモスクワ五輪に出ていたらジュマナザロフには勝てたと思うと言っている。 正直、格が違うし、その点は私も同感。ちょっとピークを外しても入賞は堅かった。 >>482
81年東京国際マラソン(読売・日本テレビ系)に出場しています。
2時間12分31秒で5位でした。(優勝は喜多秀喜) ジュマナザロフの生涯ベストタイムはモスクワ五輪予選会の2時間11分16秒。
西側諸国ボイコットによる幸運の銅メダルだったと思います。 ただ五輪にピークを合わせた能力は見習いたいところ。 >>470
バイニオは86年のシカゴマラソン(瀬古が優勝した年)に出場していました。
2時間16分41秒で13位と平凡な記録でした。
この年はヘンリー・ロノ(78年長距離4種目世界記録達成)も出場しています。
しかし2時間19分12秒で26位と往年の超人的な走力は無かったようです。 バイニオって1万でも瀬古利彦に負けたことがあるような・・・・・・・・・ お薬を使っていない時もあるんだよ。
いつも使ってたら死んじゃうから。 見たい映像
1位 79年福岡国際マラソン
2位 80年8か国陸上10000m
3位 81年ボストンマラソン
4位 75年福岡国際マラソン
5位 78年別大マラソン >>492
八ヶ国陸上はコカコーラ陸上とも呼ばれていたな。 日本の陸上選手のユニフォームは白地に赤タスキのイメージが強い
近年のオリンピックでのユニフォームはどうも馴染めないな 出場して惨敗するよりボイコットして幻の金と言われた方が瀬古さんのキャリアにとっても
良かったかもね。 モスクワの五輪銀メダルのヘラルド・ネイブールのマラソン歴
80年アムステルダムマラソンで2時間09分01秒の世界歴代2位で初優勝
モスクワ五輪銀メダル後は82年ヨーロッパ選手権優勝
しかしその後は低迷が続くことになる
83年ロッテルダムマラソンはキャステラやロペスに大差をつけられて15位
ヘルシンキ世界選手権29位ロサンゼルス五輪途中棄権ソウル五輪13位
マラソン資料館参照
https://green.ap.teacup.com/kanchan42195/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) それでも銀メダリストの勲章を手に入れられた競技生活。悔いはないだろう。 リスモンほど長期にわたり安定した成績を残している選手はいない >>497
もし、ボイコットが無くても瀬古5位宗茂8位くらいの結果だったと思うわ。 >>513
真内は苦闘の末98年アジア大会で銀メダルを獲得し、世界陸上にも2度出場しました。
沿道で真内を応援していたのはマラソンに挑戦する前の安部友恵ですね。 ミルトンケーネス2:53.17.
自らのマラソン歴には含めていない。 練習の一環で出たのでマラソン歴に含めるかどうか躊躇している人は結構いるのでは。 1978年 ミルトンケーネスマラソン結果
1位 宗猛 2:20:10
2位 喜多秀喜 2:20:10 (公式には1位と同着)
3位 伊藤国光 2:20:17
4位 宗茂 2:22:27
68位 瀬古利彦 2:53:17
https://more.arrs.run/race/28318 アメリカはモスクワ五輪ボイコットを決定していたが一応五輪代表選考会を行っている
https://more.arrs.run/race/12354 1980年5月24日。ボイコット決定後だ。アメリカは選手層厚かったなあ。
当時の世界をリードしていた国だった。 ミルトンケーネスは、のどかで、いいコースだと思うけど、余りにも道が狭すぎる。
最初のうちに、ある程度前に出ておく必要性がありそうだ。 >>525
出場できないのに選考レース?何か意味あるのかな? 当時のアメリカはオリンピックの2か月前にマラソンの五輪代表選考会を行っていた。
過去の実績は関係なく正真正銘の一発勝負で上位3人がオリンピックに出場できる。
幻のモスクワ五輪代表選考会にはショーターも出場したが2:23:23.6で85位で終わった。 ショーターはモントリオール五輪後急速に衰えたのでは。 ショーターって五輪のとき
10000mも出て入賞してなかったかな。 ミュンヘン!
すると金メダルはあのラッセ・ビレン。
たしか世界新で金だった、かな。 >>532
ミュンヘン五輪10000m決勝は27分51秒32で5位入賞しています。
https://more.arrs.run/runner/4325
海外サイトを調べるとショーターはモントリオール五輪の年に疲労骨折したと書いてありました。
それでもマラソンで銀メダルを獲得しましたが、その無理が急落の原因だと思います。
78年の福岡にに一般参加選手としてエントリーしましたが体調不良を理由に欠場しました。 モスクワ五輪のマラソンアメリカ代表選手3人はいずれも福岡国際マラソンを走っている
選考会1位のサンドバルは78年37位、79年31位
選考会2位のダーデンは80年12位
選考会3位のヘフナーは80年11位 1980年代はアフリカ勢以外の国も勝負出来たけど、その後は現状の通り。
ケニア、エチオピアが本格的にマラソンに力を入れ始めたという理由だけかな?
そこにはドーピングという要素が大きく関わっているような気がする。 東西ドイツは東側のほうが圧倒していたイメージがある。 >>536
当時の第一人者といえばビル・ロジャースを思い浮かべるのですが、彼は選考レースには出なかったのですか? >>540
ロジャースは五輪選考レースには出場していません。
4月のボストンマラソンで平凡なタイムで優勝しましたが衰えの兆しが見えています。
https://more.arrs.run/runner/3748 表の右端のアクションのマークをクリックすると他の選手の順位やタイムも見られます。 >>541
じゃあ、その次の年にやっとロジャースに勝った瀬古は大したことないってことだな。 81年ボストンマラソン2位のバージンは80年1万m世界1位のスピードランナー
https://more.arrs.run/race/12324 80年のニューヨークシティマラソンで初マラソンのサラザールが優勝してロジャースの時代は終わった。
https://more.arrs.run/race/13198 サラザールも若くて颯爽としていたなぁ。
かなりのイケメンだし。 >>546
9位のディック・ベアーズリーてなんか聞き覚えがあるのですが、
どういうランナーかご存じのかたいらっしゃいますか? >>548
81年の別大マラソンに出場して宗兄弟と好勝負をして3位になりました。
https://more.arrs.run/race/14484
翌年のボストンマラソンではサラザールとゴール前まで激戦を展開し2秒差の2位。
この時の2:08:54が生涯自己ベストになっています。
https://more.arrs.run/race/12349 >>549
ありがとうございます!
記憶にあったのはボストンの方です。
モヤモヤがおさまりました。 わずか2秒差の惜敗。
当時は2時間08分53秒と報じられていた。
しかし、このスレ、ちょっと見ていないと、どんどんレスが伸びているなあ。 ゴール後のサラザールは脱水症状だったそうです。
映像を見ると4月にしてかなり日差しが強いですね。
https://www.youtube.com/watch?v=FmzljrUrwKE&t=514s 20度超でしたからね。
サラザールは本質的には暑さが不得手だったとか。 この映像、ゴールタイムと公式タイムが4秒くらいズレておる。 サラザールは82年ボストンマラソン優勝後、トラックで5000m13分11秒,10000m27分25秒まで記録を伸ばした。
https://more.arrs.run/runner/3990
瀬古は故障で走れず悩んでいた時期だったので焦っていたと思う。 瀬古はその年の秋から復活していきましたね。
9月の早慶陸上5000m(オープン)で13分36秒。
10月の全日本実業団で20000m日本新。10000mは森口に敗れ2着。
そして2月の東京国際マラソンを2時間08分38秒(日本最高)で優勝。
それにしても、あの頃は20000mの翌日に10000mとか
いまでは信じられない日程でしたね。 瀬古の足の故障を完治させたのは小林尚寿さんという盲目の鍼灸師でした。
瀬古が83年の東京マラソンで優勝した時にお礼の言葉を述べていました。 83年の東京の時が生涯のベストレースのように思える。 話がそれてしまうのですが、
中村孝生が瀬古のインターハイ3冠を阻止したレース(5000m)がとても印象深い。
大逃げを打った中村を「つぶれる」と思った瀬古は追わずに様子を見る。
3000m過ぎにさすがにまずいと思い追いかけるもなかなか縮まらない。
ラストは中村もペースダウンするもみごと瀬古を振り切り優勝。
格下が勝つには奇襲戦法しかないという典型的なレースでした。 >>552
日差しのせいじゃないよ
ドーピングのせいだよ >>561
孝生ちゃん、結構トラックでは瀬古はんに勝っているんですな。 >>563
79年ブレーメン4か国対抗5000mの結果
https://more.arrs.run/race/36705
中村孝生が13分33秒7で優勝
瀬古は13分34秒4で3位
中村の記録は92年に高岡に更新されるまで日本学生記録だった 学生時代の新宅は気性が激しく背中を触ったら張り倒された選手がいたとかいう噂 新宅と中村がモスクワ五輪に出場していたら何位だったと思いますか?
新宅は3000scで日本記録を更新していたから入賞できたと思います。
中村は得意の5000mでも決勝進出は難しかったと思います。 >>569
モスクワのときは入賞は6位までなので
新宅の3000mSCも難しかったかも。。。 日本歴代最強の3000m障害選手は新宅じゃないかな そういえば、その小山と新宅のおかげで
万年・日本選手権2位のひとってなんて名前だったっかな?
なんか瀬古の本で、瀬古が「そんなことだから◯○さんは万年2位なんですよ!」
て言ってしまったと書いてあったんだけど。 岩淵さんじゃなかったかな?
凄く人が好さそうな感じの。下の名前は確か「仁」
高校の教師で週末になると上京して中村監督の指導を受けにやってくるという
中村門下生のひとり。 >>574
そうです、岩淵さんです!
よくご存じでしたね。
ひとがよさそうな、というのもその本にそんなことが書いてあったような。
81年秋からの故障であせる瀬古に岩淵さんがやるだけやったからいいじゃないか
みたいなことを言ったら、瀬古が「そんなことだから岩淵さんは万年2位なんですよ!」
と言ってしまったという話です。(とんでもなく失礼な発言。)
小山さんと新宅に挟まれてある意味 悲運でしたね。 たぶん石井信(いしい・まこと)さんの「瀬古利彦の
42.195q」に登場していた方かと。
引退した時は瀬古氏から花束を渡されて。 >>576
まさにその本です。「瀬古利彦の42.195km」
35、6年前に買ったのかな。なつかしいなあ。 83年。イカンガーをラストで千切って勝った福岡
直後に読んだ思い出深い一冊。 岩淵さんの引退レースで花束を渡したのが瀬古利彦だった。 >>577
調べたらアマゾンで出てました。私はリアルタイムで瀬古さんの活躍を
知らないのですが安いので購入しました。 それは良かった。ワシはリアルタイムで瀬古さんの
活躍を見ていた世代。あの頃はワシも若かった。 宗兄弟が現役時代、陸上競技誌でシリーズ連載されたトークをまとめた本もアマゾンで売っています。
「振り向いたら負けや 茂と猛のマラソントーク」 中山竹通さんについて書かれた本も読んでみたいです。
何かお勧めの本がありましたら教えてください。 「瀬古さんのため息・中山くんの鼻息。」
タイトル名間違っているかも知れないけど、そういう本はあったようです。昭和後期。
残念ながら読んでいませんが。
中山氏は自伝を出したら実に面白い本になると思うんですがね。 >>586
ありがとうございます。
記者の方々で書かれた本のようですね。
さっそくアマゾンで注文しました。 「瀬古と中山をこよなく愛する記者云々」書かれてましたな 相手を殴るよりも精神的にダメージを負わせる男、
それが中村清。 父親が刺殺されるというショッキングな出来事にも
遭遇している中山氏 国鉄アルバイト時代とか不遇の時代を語って欲しい中山氏 国鉄のときはバイトの自分がいちばん働いて
職員はさぼってばかりいたって怒ってたね。
民営化されたときに「ざまあみろ」と思ったって。
そういえば、最近の若いひとは
「国鉄」て言葉を知らないだろうね。 京橋の国立映画アーカイブにて、五輪記録映画の特集を開催中。昨日のモントリオール大会を観ましたが、冒頭で男子マラソンのスタートを写しており、若き日の宗茂さんの姿を観ることができました。表彰台はチェルピンスキー、ショーター、リスモンですね。 リスモンはペース配分が上手くミュンヘン五輪銀、モントリオール五輪銅を獲得した。
モントリオール五輪では競技場内でカードングを抜いた。
モスクワ五輪9位、ロス五輪は35歳になっていたがそれでも24位。
その後も2時間12分~2時間14分台で走っていて稀にみる息の長い選手だった。
https://more.arrs.run/runner/6050 リスモン、ネイブールもロス五輪を走っていたんですね。70年代の選手というイメージでしたが。 ネイブールは80年に突然変異のように出てきた選手のような…… 後方待機戦術か。外れの要素の少ない選手だったようですね。 >>621
私は果実酒作りが趣味の一つ。キンカンの果実酒は風邪に効きますよ。
漬けてから1カ月で飲み頃。 あのね、そういうスレじゃないんですよ (´-ω-`) 83東京国際でゴメスの言い訳「下り坂での腹痛がなければ」に
日本陸連の誰かが「下り坂で腹痛なんて聞いたことがない」て
一蹴していたのが笑えたな。 >>629
高橋進さんでしたか〜
そう言われてみればそうかもしれません。
たしかにそのころのマラソン中継に出ていました。 80年代半ばくらいまで高橋氏の解説が多かった記憶が。 83年東京国際マラソンの映像
https://www.youtube.com/watch?v=FxsTVOfPeqI
瀬古と並走していたゴメスがお腹を押さえ後ろの宗猛が接近したのを見て瀬古がスパート >>632
これはゴメスというよりも、宗猛に対してのスパートだよな。 ゴメスのことは見切っているから宗猛対象のスパート
でしょうなあ。 なるほど。これは全く知らない裏事情でしたなあ。
表に公表しないほうが良かった? なぜ今頃になって、という気がしないでもないのだが。
帖佐さん。 893にあぽーん、て。
入社3年目の91年世界陸上(東京)で日の丸背負って走って、将来の大成、間違いなし
と予想したのだが・・・・・・・・・・・ ↑ これ、ひょっとして千葉祐一氏ですかね。東北高校から日体大行って、
びわ湖で2時間13分54秒で走っている(91年)
なんとなく、ですけど。 >>635
老害爺の自慢話をされてもねぇ。
移籍したほうがよかった可能性も高いし。 >>635
>「言い分はわかったが、金をもらって移籍したら陸上界から抹殺だよ。それは覚悟してくれ」
うわぁ〜 こんな発言したことをよく自慢げに語れるわ。今なら大炎上じゃないか? この発言、墓場まで持って行ったほうがいいとは思った。 生臭い話題はたくさんありますが気分が悪くなるだけなので今後はやめようと思います。 帖佐氏の没後に「ここだけの話」が噴出してしまうかも。 今頃になって、こういう秘話を語りだすことは、そろそろ死期が近いと自分で感じて
いるのかも知れない。
ところで、帖佐氏の功績って何だろう。 >>653
陸連幹部の移動はファーストクラスという慣例を作った。
今に残る教育大筑波大学閥を確固たるものにした。 88年の名古屋国際女子マラソンで解説をしていた帖佐氏の発言を思い出した
前回優勝者のビュースケンス選手に対して当時無名の趙友鳳選手が先頭に出た
実況アナウンサー「趙選手の走りをどう思われますか?帖佐さん」
帖佐氏「めくら蛇を恐れずというか」
実況アナウンサー「この番組中に不適切な発言があったことをお詫びします」
アナウンサーは放送中再三にわたり謝罪したが帖佐氏本人からの謝罪の言葉は無かった 帖佐くんは、自分の発言が失言であることに気付いて
いないから仕方ない(?) >>661
この年の順天堂大学は澤木啓佑ら5人が区間賞を獲得し圧勝。
当時は日大の黄金時代で宇佐美、大槻、鈴木従道ら強い選手が揃っていました。
http://www13.plala.or.jp/jwmiurat/taikai/42kai/42_m.html >>658
帖佐さんにとっては当たり前のようにつかってた言葉だからね。 >>657
プロレスで言えば両者リングアウトの関係 >>671
強引だけど政治力はあったと思うよ。
今ならパワハラで失脚してるだろうけど。 長門ちゃんも順天堂の大先輩・帖佐ちゃんをヨイショせざるを得ないな、こりゃまた。 >>673
中村監督とソリが合うひとなんていないのでは? 後続を1分以上離していて、最後尾とは15分以上の差! 中村清の天敵は早大OBの河野一族
一郎は中村を早大の監督をやめさせ弟の謙三はモスクワ五輪ボイコット決定した ありそうでなかった(ような気がする)中村清氏の解説
アナ「増田明美、20km通過。依然として先頭グループで快調です。どうですか、解説の
中村清さん」
中村氏「増田はねえ、素質は素晴らしいんですけどね、指導者の滝田がダメなんですよ。
増田の才能にワシの指導力が加われば世界の最前線で勝負出来るんですけどね。
この前もワシは大東文化の青葉くんに言ってやったんだ。『青葉くん、キミの指導では
米重くんを育てられないから、ワシに米重くんを預けてみないか?』ってね」 河野ふぜいでも会長になれるのか・・・・・・・・・・ 河野一郎の息子の河野洋平は陸連私物化を週刊新潮に暴かれて陸連会長8選を断念した
https://www.fujisan.co.jp/product/1138/b/237095/
帖佐氏は何故真相を語らないのだろうか?
自分に火の粉がとびかかるのを恐れているのか? 洋平は現在も陸連顧問として影響力を残しているばかりか長男の太郎が理事になっている
https://www.jaaf.or.jp/about/rikuren/meibo/
次代の陸連会長は河野太郎だろうな 学閥がないとダメなのかなあ。中山竹通会長だったら文句はないんだけども。 >>689
なんでお友だちの悪口を言う必要があるんだ?バカ? >>692
「中山竹通会長」という言葉だけで噴き出してしまった。
なんか似合わないよなあ。組織のトップとか。
監督やってたときも違和感あった。 佐々木秀幸さんは、どういう人なんだろう? 名前だけは聞いたことがあるが。 上にいる人が、なんか胡散臭い人に思えてくる今日この頃 東洋大学も指導されたんですね。この方は確かに立派
だったと伝え聞いています。 宗兄弟は陸連のアレとは無関係なんすかね。要職ちゅうのかな。 宗兄弟も中山も“高卒”だからね。
要職に就くにはある程度の学閥の力が必要。 国際陸連の理事も務めているとは。
困ったおっさんだ。 なるほど。いずれにしても横川氏は無用の長物。
年貢の納め時だ。 中山「ボクが会長になってもジジイ共を一掃しないと、日本陸上界は浄化しませんよ。
ま、ボクも還暦迎えた昔ならばジジイですけど」 中山氏で別に文句はないが。問題は本人に「陸連など
クソみたいなもんだ」の思想が宿っていて、誰がやる
かボケと考えている場合だ。 谷口氏は啓子前夫人との間に2児。その後、55歳にして1児。すべて男の子。 >>737
懐かしい選手ですね
https://www.youtube.com/watch?v=IxwI-3RVmWM
こんな凄い家族を持つ優輝くんには東京オリンピックで是非メダルを獲得してほしいです 人殺しの戦争がスポーツという平和な形に変わっても中村の戦いは続いている
戦後生まれの指導者がほとんどの現在では理解不可能だと思います 陸連会長を中村清がやっていたら、どうなっていたか。 最初に中村監督に対する批判がマスコミに出たのは81年頃の週刊文春だったと思う。
当時の藤枝昭英副会長がアジア選手権大会にオープン出場した瀬古をタレント気取りでけしからんと言って中村監督と口論になった。
その後も瀬古の大会出場をめぐり中村監督は陸連幹部と対立が続いていたようだ。
中村監督が瀬古を中距離からマラソン選手に転向させると言った時に陸連で賛成したのは織田幹雄氏だけだったという。 当たり前である。瀬古氏を聖火ランナーにしないでどうする? 1940年東京オリンピック 日中戦争激化のため返上
1980年モスクワオリンピック ソ連軍アフガニスタン侵攻し西側諸国ボイコット
2020年東京オリンピック 新型コロナウイルス拡散 >>768
1984ロスは東側諸国がボイコットしただろ 呪われてなんかいないよ。
ロスとソウルは自分の失敗だろ。 アメリカの都合でボイコットだったよね
今年の東京オリンピックもそうなるんじゃないか 書き方が間違った
アメリカの都合で東京2020は中止にしないって事 モスクワが何かの事情で1年延期だったらメダリストの顔触れにも変化があったのかも。 >>782
もしもモスクワオリンピックが1年延期されたら
金 キャステラ
銀 バージン
銅 サラザール
5位 宗猛
9位 宗茂
DNF 瀬古
クスリの入ったチェルピンスキーが負けるわけないだろ。
モスクワの映像を観ると日本勢が出ていてもかなわなかったと感じる。 ↑ ラストの2.195km、距離がおかしい感じがする。 40年前のマラソンなんてどこも正確じゃないような気がする。
瀬古が優勝した1983東京マラソンだって最初の5kmがおかしいし。 >>783
ただ単に瀬古を貶したいだけのにわかでしね。 >>785
薬チェルピンとロジャースと瀬古はいい勝負だったと思うよ。 クスリの効果とかまるで分からない。どのくらいの期間、効果を発揮出来るのだろう。
あと一応ドーピング検査でシロだった筈だが。 >>791
ソ連の3人は80年以降記録が伸びなかった 当時のアメリカ大統領はジミー・カーター
2002年ノーベル平和賞受賞 現在95歳 カーターがノーベル平和賞貰えるんならもっとふさわしい人物がいるかと。 中国は解体すべきだ。ウイグルやチベットは独立すべき。 ↑台湾で開催すれば中国が大会ボイコットする
人工雪で台湾冬季五輪実現 北朝鮮で冬季五輪開催とかそのうちあるのだろうか・・・・・・・ カリアゲくんはスポーツをしたことがあるのだろうか? >>850
共産圏の中ではビールの美味い国と聞くぞ ソ連が3位から5位までを占めた五輪だった。虚無感が。 ↑東京・三島間往復三島駅伝ちゅうのがあってもええな >>905
かもりのサインはオークションに出すと凄い値段がつくらしいな ↑この距離を1000セットのインターバルやるとええで ↑かもりが箱根駅伝の5区を走れば1時間6分では行けるで >>947
それ以降は、かもりと違って失速したがな ↑分かっていることは男だということとスーパースターということやな >>958
さらに成長してサイズが伸びているみたいやで >>963
かもちんは巨人症で成長が止まらないのかも知れんで >>964
そのうちに40cmくらいになっちゃうのか? >>970
競泳でも世界記録を簡単に破れるレベルらしいからな >>985
北朝鮮に関しては政府もかもりに相談するらしいからな >>987
たまに自家用ジェットが目撃されるらしいからな >>990
クルーザーもでかいのを何隻も所有しているからな このスレッドは1000を超えました。
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