80年モスクワ五輪マラソン◆日本幻の上位進出◆
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78年あたりから10数年間、日本は間違いなく世界でもトップクラスの
水準を誇っていた。残念でならないのが80年のモスクワ五輪の不参加。
瀬古利彦&宗兄弟という強力布陣で、大きな故障とも無縁だった当時、
仮に参加していたら3人とも入賞を果たしていたような気もする。 >>161
半信半疑でしたが確証を持つことができました
安部友恵が100kmウルトラマラソンの世界記録保持者のだったことを忘れていました 宗兄弟のウルトラ・ランに増田明美も飛び入りで参加していたとか。
(何キロ走ったかは不明)。当時まだ19歳。「天才少女」「女瀬古」
などと言われ、期待の大きさにプレッシャーを感じて苦しんでいた
時期(直前の大阪で途中棄権)。
彼女は20代半ばくらいから吹っ切れた感じで、雰囲気がとても
明るくなった。 増田明美と言えば佐々木七恵。結婚して永田七恵。残念ながら故人に。
増田明美を指導した滝田監督(俳優・滝田栄の実兄)と、佐々木七恵を指導した
中村清は、恐ろしく仲が悪かった。 その頃の増田が貧血体質だったことを考えるとマラソンは時期尚早だったと思う
当時女子のオリンピックと世界選手権は3000mより長い種目はマラソンしかなかった
後の新谷にも言えることだが若い選手のマラソンは肉体的にも精神的にもダメージが大きい ロスの次のソウルにピークが来るような感じでやれば。。。。。。
増田明美は、それまでの女性ランナーのチョコチョコ走りの伝統(?)を
一変させるダイナミックなフォームで、当時としては画期的だった。
今、見ても見事なランニング・フォームだと思う。
五輪でも7位くらいは可能なポテンシャルを秘めていた。 1区石川。2区瀬古。3区金井。4区井上。5区甲斐。6区寺内。7区佐藤。8区金山。
9区小田。10区滝川。 >>169
リアルタイムで見ていたが北朝鮮の選手が終盤までトップグールプに付いていた
瀬古と同じくらい余裕がありそうに見えたが駆け引きについていけず5位でゴール
名前を確認するとチェ・チャンソブという選手だった チェ・チャンソブは75年に20歳の若さ(1955.7.18)でコシチェ・マラソンに優勝。
翌76年モントリオール五輪12位。だが、日本選手など有力選手がボイコットで欠場して
上位進出のチャンスだったモスクワ五輪で、大失速。20代半ばでピークを過ぎてしまった。
なお、75年と77年(2位。1位は同国のコ・チュンセン)と2度チェルピンスキーに先着
している強豪。 神宮外苑。故・中村清監督。佐々木七恵も今はもういない。
イカンガーを千切った電光石火のラスト・スパート。
う〜ん、やはり、瀬古利彦は日本最高クラスのマラソン・ランナーである。
と、しみじみ。 >>174
金井豊もSB食品の合宿で交通事故で亡くなっている
ワキウリが後にソウル五輪のマラソンで銀メダルを獲得して故・中村清監督に恩返しする 代々木公園を走っている姿を何度か見たことがある。
金井豊も谷口伴之も。 「しゃべりたい」という店に立ち寄ったのが最後の食事とか。
海の幸カレーと流氷ソーダが注文メニュー。
去年、私の父親が立ち寄って、ここで食事した。
網走から北へ30kmほど。かつて湧網線という全国8位くらいの赤字係数を
出していたローカル線が走っていたが、87年に廃止されている。 この時代はビデオテープが高価だったこともあり競技会の映像はあまり残っていませんね
8か国対抗陸上の10000mで瀬古が優勝した時の動画は上書きされたのでしょうか? バイニオをラストで千切ったレースでしたか・・・・・・ >>182
バイニオは6秒1遅れの位、ブラセンシアが2秒5遅れの2位。瀬古は最後の周回のみ
真面目に走ったレースだけど、残り200位の2段目のスパートでブラセンシアをちぎって、
織田ポールの辺りでは観客に笑顔で手を挙げる余裕の勝利だった。2年前にジグザグ走行
の結果、ラストでオルチスに子供扱いされたのとは全然違った。 当時24歳。若くてカッコいい瀬古利彦。モスクワ五輪ボイコットが改めて悔やまれる。 ほんと、モスクワボイコットがなければ
仮に結果が出なかったとしても次のロスにつなげられたのに 結果が出なくてもメダルの一角には届いていたと確信する。 ネイブールみたいに五輪イヤーに突然出てくる人がいる。 モスクワのメダリスト予想、たぶん誰も当たっていない。 >>188
そうかな。ボイコットが確定した後だと1,2位は妥当というか多くの人がメダルに絡むと
予想した面子。3−5位のソ連勢も上位に固まって来るのは前年のスパルタキアードから
予想通り。但し、大方の予想では5位のモセイエフが優勝候補でソ連勢の中では1番で、
2番が4位のコトフ、3番がジュマナザロフ。後はエチオピアのネディ、バルチャも優勝候補
に挙げられていたけど、ネディは7位に入っている(バルチャは棄権)。
勿論、6位や10位になったゴメスやド・キャスティラがそこそこ走って、その後、
大活躍すると思った人は少なかったと思うけど、専門家なら予想できたと思う。9位の
リスモン(2大会連続メダリスト)は言わずもがな。ビレンの一発を期待した人はゼロ
ではなかったけど、モントリオールの後、マラソンでまともに走った事がないし、トラック
もアップアップで途中棄権だと思う人が大半だったが、やはり棄権。こうしてみると、
史上稀に見るほど波乱の少ない大会だった。 強いて期待外れだった選手を探すと前年の福岡で瀬古・宗兄弟と死闘を演じたB.フォードが
途中棄権(イギリス3人が全員棄権だね)、10分台、11分台の2人(Koh, Choe)がダーク
ホースとして挙がっていたけど不発(27位、33位)だった北朝鮮勢、78年の英連邦大会の
覇者だったShahangaが15位に終わった事か。しかし、この辺を候補に挙げていた人は
相当マニアックな人だと思う。 日本がボイコットしてしまったせいか、驚くほど人々の記憶に残っていない大会だと思う。
「なまじ見ると癪だから、見るのよそう」と決め込んだ人も大勢いる筈。
ド・キャステラは駆け出しだから10位は大健闘だろう。この後、福岡に出て8位。
翌81年に大躍進を遂げて、以後、10年くらい世界のトップクラスの水準を維持した。
ロドルフォ・ゴメスは、モスクワ五輪が出世レース。途中、集団を抜け出した場面も。
実は前年の(79年)福岡国際にも出場しているが、目立った成績を残していない。
ゴメスは日本のマラソンレースに4回出場していることになる。 シャハンガは84年ロサンゼルス・マラソンを2時間10分台で制して最浮上した。
ロス五輪では不発。バルチャ・ネディのエチオピア勢は日本でもおなじみ。
バルチャは83年世界選手権(ヘルシンキ)でキャステラに次いで堂々の銀。
ネディは81年の読売グループ主催のほうの東京マラソンに出て喜多秀喜に
最終盤で千切られた。83年の東京(フジ・サンケイグループ主催)でも38km
過ぎまでトップ・グループの一員に。
コ・チュンセンとチェ・チャンソブの北朝鮮勢は片肺五輪なので6位以内は十分
狙えただろう。ボストンに次ぐ歴史を持つチェコスロバキアのコシチェで共に
優勝経験を持ち、1・2フィニッシュを3回やっている。2人共チェルピンスキーに
2度先着している事実からもダークホースに挙げないほうがおかしい。
こうして見ると案外、モスクワ前夜は、選手層が薄かった。アメリカが国単位では
一番力を持っていた時代。当時からするとケニア・エチオピア勢に席捲された感が
ある現代のマラソン界は「進化しすぎた」という印象がある。 モスクワ五輪の前年7月のプレ五輪ではモセーエフかモイセーエフかモセイエフか知らん
けど、そういう名前の人が優勝。胸差の同タイムで宗茂が2位。 >>193
あれは中々のレース。5人が一団となってトラックに入って1-3位が同タイム、4位がトップと
1秒差、5位が5秒差のレース。当時の夏レースにしては好記録の13‘20“が優勝タイムで、宗茂は
トラックに入った時は一団の最後尾だったが、最後のストレートで差して2位に食い込んだが、
トップにはわずかに及ばず。4位がモスクワ銅のジュマナザロフ、6位がモスクワ4位のコトフ、
8位に伊藤国光、10位に宗猛が入った。これだけの一団のゴールは空前絶後かも。 宗兄弟は小学校低学年時代は短距離のかけっこではビリが定位置だったらしい。
そのせいかスプリント能力に自信を持っていないが、宗茂は、ラストの競り合いに
実はかなり強い。同時代に瀬古利彦がいたせいで存在感を少し薄められているが
もっともっと評価して欲しいコンビだ。 宗兄弟の対戦成績は茂の12勝10敗らしいが、茂が勝つ時は僅差、負ける時は大差がつくのが
多かった。ワンツーフィニッシュは4回あったが茂の全勝、79年、83年の福岡は何れも茂の
逆転勝ち。79年福岡の瀬古を含めた3人の競い合いが有名だが、81年別大で途中大きく遅れた
茂が、風を避けるために蛇行してタイムロスをしていた猛とベアズレーに追い付き、最後の
スパートで茂が猛を下したのが面目躍如だった。 モントリオール五輪予選では猛の方が五輪出場を期待されていた
>>196
ベアズレーは急激に力を伸ばし翌年のボストンマラソンではサラザールと僅差の2位
しかしいつの間にか消えてしまった
真偽は定かではないが犬に噛みつかれたらしい ダイナミックな茂とコンパクトな猛。茂が意外にラスト勝負が強かったのは、なりふり構わず
「うがががが!」と力で持っていく走法が火事場のクソ力を生んだんだと思う。 茂は結構「勝てる」選手なんだなあ。78別大・79びわ湖・81別大・85東京・85北京。
猛のほうは、安定感(79福岡以降)と息の長さ、五輪実績。走法でなんとか見分けがついた。 宗兄弟と喜多秀喜は同学年だが、もうひとり同学年に服部誠という天才がいた。
インターハイ5000m優勝、国体5000m優勝、高校駅伝1区区間賞の長距離3冠王。
箱根駅伝2区で12人ごぼう抜きでトップに立ち東農大の往路優勝の立役者になった。
その1ヶ月後の別大マラソンで初マラソンを走り2時間13分40秒で2位になる。
しかしモントリオール五輪最終選考会のびわ湖毎日マラソンで惨敗。
実家の牧場を継ぐため23歳の若さで引退した。
s 服部の勲章は
1.高校4冠(IH,国体、駅伝1区に加えて相原も駅伝優勝)
2.箱根2区2年連続区間賞、区間新(瀬古に更新されるまで保持)
3.伝説の12人抜き(15校出場では遂に抜かれる事のなかった記録)
4.学生にして熊日30km, 中日スピード30kmを制覇
5.途中脚が吊って屈伸しても優勝(中日スピード30km)
6.初マラソン日本最高(74年別府2位2時間13分40秒。多分日本歴代12位)
7.75年福岡で8位(2時間13分13秒)で日本歴代9位にランクイン
くらいかな。
76年春のニュージーランド合宿の最終日のマラソンでは15分台でゴールして
13分台でゴールした宗兄弟に続いたけど、高橋進や陸連幹部の評価は何故か
あまり高くなかった。服部自身も過度の走り込みで体調を崩したとか。それで
期待された最終選考会のびわ湖毎日で不発で、そのまま引退して服部牧場を
継ぐ。勿体ないというかスパッとした辞め方でした。 横浜線の相原駅は東京都町田市にある。ややこしい。法政大学多摩キャンパスは、
ここからバスが出ている。 服部誠の最後の試合になった76年びわ湖毎日マラソンが伊藤国光の初マラソン
伊藤は体調が悪かったので完走を目標に走っていたら服部が歩いているのを見つけた
伊藤「どうしました?一緒に走りましょう」
服部「いいんだ 先に行ってくれ」
オリンピックに出場できるのは3位まで
4位はビリと同じなのだと伊藤は思った この大会の4位は浜田安則
39歳まで現役を続け引退後も指導者として山下佐知子・荒木久美・市橋有里らを育てた >>208
これ、本当?
あのレースでの伊藤の体調は知らんけど、途中まで3位辺りで一発の期待をされたけど、
後でグダグダになった試合。服部は早々に脱落していた。という事なのでこういう会話が
あったとしても伊藤の方が落ちて来て服部が抜く時。初マラソンの伊藤は何だかんだ言って完走した
筈(Wikipediaはグダグダで出鱈目だけど、確か2:31:05で46位)。服部は完走しなかった
ような記憶がある。
伊藤は既に75年の熊日30kmで当時の日本記録を更新し、駅伝で猛威を奮っていたので
初マラソンの76年毎日で期待されていたが、やはりニュージーランド合宿でも若手枠という
事で最終日のマラソンを30kmで打ち切った様にマラソンを走り切るスタミナが未だなかった。 >>209
宗猛は最初から体調不良で欠場かと懸念された。結局、出たけど、実況の最初の段階で
体調不良で駄目だと紹介され、最初から見せ場もなく38位。年末に日本歴代6位で走り、
ニュージーランド合宿でも好調だったので期待されていたが、肝心の選考レースでの
調整を失敗した。 >>211
80年代後半の陸マガか月陸に伊藤国光選手が過去を回想するシリーズがありました
雑誌は廃棄処分しましたので微かな記憶を頼りに書いていますのでご了承ください
選手の個人記録についてはマラソン資料館というホームページが信頼できると思います
服部誠選手の記録は2時間37分53秒で65位となっています 87年に箱根駅伝が本格的に放送を開始したが、その時のゲストが服部誠氏 カネボウというとオレンジのユニフォームのイメージがあったな。 瀬古が仮に中央大学に進学したら、石井隆士の後継者になり中距離が盛り上がったろうか。 中距離でも日本トップ級になれたが世界基準では通用しなかっただろう。
やはりマラソンでこその「世界の瀬古」 学生歴代10傑(日本人学生のみ)
http://home.384.jp/rokurouman/gakuseirekidai.html
1500mの石井隆士の記録3分38秒4が43年後の現在でも1位なのが凄い
石井が高校3年インターハイ800mで優勝した時の3位が1年生の瀬古 石井は箱根駅伝にも出場し4年生の時1区で2位以下に大差をつけて区間賞を獲得した
織田幹雄は石井にも瀬古のようにマラソン転向を勧めたが実現しなかったと書いている >>222
石井は色々と運がなかった。76年に現在も残る学生記録を出したのはモントリオール五輪
の代表が決まった後だった。1年大学に残ってワールドカップで日本記録を更新してから、
母校の秦野高校の教諭になったが、やはり高度な練習の持続は難しく、伸び悩んだ。そうこう
しているうちに五輪ボイコットがあった。ロス五輪前の83年末に中村清門下に入って5000の
代表入りを狙ったが、届かず代表入りの夢は叶わなかった。箱根の1区で区間新を作った
スタミナは5000を走り切るのに十分ではなかった。 >>223
しかしアンカーの1年の伊藤哲二がブレーキになり肝を冷やした。 伊藤哲二は昭和54年もブレーキやったった。区間12位。この年の日体大は「取りこぼし」 石井が独走し、伊藤がアンカーでもたついた1977年は日体大の4年ぶりの優勝であった。
しかしその功績者であった筈の野呂進コーチが年度末に退任し、4月から専修大の
コーチになって後に監督になって定年まで勤めあげる。
https://core.ac.uk/download/pdf/71799909.pdf
は興味深い。野呂氏が日体大に残っていたら新宅・中村の就職問題に端を発した
岡野監督を巡る日体大の混乱もなかったかもしれない。 新宅&中村コンビは日体大と絶縁したと言うことだろうか。 中村監督一派に取り込まれて恐らく早稲田サイドの人間と思われ 大久保こそ元祖?山の神だけど、大成出来なかった。山登りの走り方は無理があるのか、
山登りの名人と呼ばれた選手で大成したのは居ないと思う。今井がこれまでで最も
成功した例か。
大久保は全日本大学駅伝でも活躍したが、彼が3年の時の第6回大会では天才服部誠
と最長4区(前半の最終区間。当時はそこで一旦ゴールして5区以降の後半は別のレース
として行い合算して順位を出していた)で対決。4区で東農大の服部は6秒差で先頭を行く、
大東文化大の大久保を4kmでとらえ、デッドヒート。35秒差をつけて逆転ゴールした。
従って服部の方が格上だった。 大久保初男は駅伝こそ、もっとも能力を発揮出来た。
先手必勝。小細工なしに序盤からガンガン攻める。
箱根駅伝の4年連続山登り区間賞が印象深いが、青東駅伝で最下位から全員抜いて
首位でタスキリレーしたことでも知られている。本人は同学年の伊藤国光君を目標に
してきました、とコメントしている。
のちの山登りの選手では柏原竜二が、がむしゃらに走る走法という点において、
大久保初男ともっともタイプが近いと思う。 入賞0に終わったモントリオール五輪で現在の制度なら入賞相当の選手が二人いた
棒高跳びの高根沢威夫は降雨にも拘らず5m40を3回目に成功して8位
もう一人は男子10000m決勝7位の鎌田俊明
二人とも後に不祥事を起こして陸上界から姿を消したのが悲しい
あれからどうしているのだろう 佐藤市雄、北山義信、大槻ケンジらに期待してたときにくらべて、宗兄弟、瀬古がでてきたときにはホント期待したね。
西側はボイコットしたけど、コーや御別途は参加してた。。
マラソン陣営、柔道の山下、レスリングの高田は出してやりたかったね。 長距離選手は歯がきたなく虫歯の人が多くてげんなりした思いがある。。
ある五輪代表の女子選手も歯がきたなく、そのコーチも現役時代歯が汚かった。 >>239
大槻ケンジw
大槻憲一は72年福岡3位73年5位
77年の福岡で当時最強のロジャースに一人で付いた小柄の阪本峰照も印象に残る >>242
競技場前でマラソン2回目の瀬古に抜かれ全体の6位でゴール
>>243
78年のバンコクアジア大会に出場し北朝鮮2選手を破って金メダルを獲得
しかし猛暑の中で激走した疲れから不振が続きモスクワ五輪選考会は91位と惨敗
81年東京マラソンに出場し2時間13分22秒の自己ベストで5位(日本選手1位) 10000のスピードから喜多選手のほうが宗兄弟より期待してたのですが、マラソンとは違うのですね。
新宅選手が初マラソンの時、宗茂がついてこれるなら来てみろとばかりに飛ばしていった記憶があります。
時系列は無茶苦茶ですが、松尾正雄選手、浦川選手、吉沢洋選手、佐藤進選手、世利選手なども印象に残っていますね。 >>238
Wikipediaからの情報だと思うけど鎌田の7位は間違い。正確には予選3組7位(予選通過は
各組4位迄とプラス3人)。鎌田はキックがないので福士に似て最後で置いていかれる
タイプだった。 モントリオールオリンピックのマラソンでインドのシンという選手が上位を走っていた。
アントニオ猪木と戦っていた悪役プロレスラーと同じ名前で顔つきも似ていた。 https://m.youtube.com/watch?v=bB0pBGGfeUA
に結構まとまった動画があるね。これを見るとチェルピンスキーは1周間違えて余計に走って
いる。ショーターが後からゴールした選手に握手を差し伸べたのは覚えていたけど4位のガードング
だとばかり思っていた。それがチェルピンスキーとは。。テレビで見た時は地元のドレイトンを
良く映していたけど、この映像ではそれほどでもない。ドレイトンに僅かに及ばなかった
モセイエフとか、中盤健闘したシンとか、序盤トップで途中止まって屈伸していたロジャースとか
いつのまにか3位に上がったリスモンとか見所が多い。 >>250
ショーターが負けたのを初めて見た時だった。
モントリオールオリンピック以降急速に衰えて日本でマラソンをを走らなくなった。
ワードローのライオン顔は覚えている。
78年の福岡で瀬古喜多と並走してトップの宗茂を追っていた。 ショーターはモントリオールまで。それ以後はロジャースがアメリカの顔。
しかし、インドのシン11位というのも驚き。以後、インドとマラソンが全く結びつかない
のだが。 ショーターのwikipediaも間違っているね。オリンピックトライアルは72年も76年も勝っている。
どうしてこういうミスがまかり通るのか。オリンピックトライアルでは8秒遅れの2位だった
ロジャースはモントリオール五輪当時4人しかいないサブテン記録保持者(歴代4位かつ出場
者の中ではトップ)でショーターの有力な対抗馬だったけど、結果は40位。しかし五輪後3ヶ月弱
のNYCマラソンでショーターに3分以上の差をつけて2:10:10の好記録で圧勝。覇者の交代を
印象付けた。このれーすは村上龍の小説にも取り上げられている。
モントリオールのもう一人の対抗馬と目されたドレイトンもユニークな経歴持つ選手。
そもそもこの名前は電話帳から選んだ名前で本名はピーター・ビニュアックという
ウクライナ系のドイツ生まれの人で1958年にカナダに移住して、メキシコ五輪には
本名で出場している。69年は彼にとって飛躍の年で10月にデトロイトのmotor city
マラソンで世界歴代5位タイの2:12:00で優勝。このマラソンが余りにも福岡に近過ぎた
のか2ヶ月後の福岡の招待選手に選ばれず、自費参加。小雨の中、前半からリードして
世界歴代3位の2:11:12:8で優勝。しかし、その後、英連邦大会を棄権する等パットせず、
ミュンヘン五輪にも(多分)不出場。その彼が復活を印象付けたのが75年の福岡で雨の中、
チェトルとの二転三転するデッドヒートを制し、歴代5位の2:10:08:4を記録した。因みに
このレースでロジャースは3位。五輪本番では地元という事もあってロジャースと共に
ショーターの有力な対抗馬だった上に、小雨模様とドレイトンにうってつけの気候だったが
6位という不完全燃焼の結果だった。しかし、その後、福岡とボストンを連続して勝つなど
安定した成績を残した。 チェトルと言えば当時2時間2分台の世界記録を出して大騒ぎなった。
自動車のメーターで距離を測定していたので正式な方法で再測定したら2km以上も距離不足だった。
79年福岡に出場したコウシスも大会前2時間6分台を記録して注目されたが14位に終わった。 >>255
73年の毎日マラソンでショーターと一緒に来日した選手だね。
佐々木精一郎も前半は健闘していたのだが… >>254 Auckland, Choysa Marathon, Nov. 13, 1977だね。チェトルの記録は
2:02:24で11位が往年の名選手ファリントンで2:08:16(確か2位はファバだった
と思うが確認出来ない)で世界記録を大量に上回ったから再計測になった。
マラソンの距離計測は屡々不正確で81年NYCも後で距離不足で取り消しになって
いるし83年迄の東京はほぼ確実に距離が長過ぎた。更に80年代の北京はおそらく距離不足。
最近でも2015年のさいたま国際は誘導の失敗で距離不足、2015年3月の横浜マラソンも
距離不足と、日本でも全く信頼おけない。外国はかなりいい加減だと思って良いだろう。
驚くべきは77年の2分台よりもキプチョゲの記録が上であること。別次元の競技になって
いる。特にチェレンジ2の2:00:25は5キロ平均14:16でハーフ1:00:12だから、宗兄弟みたい
な双子でインチキリレーをしても敵わない。 中山2度目のマラソンとなった84ソウルでは先導者がコースを間違えるミス
があった。 北京は記録自体は公認されたが、距離表示にズレが生じているのはハッキリしている。
児玉泰介が当時の日本記録で走っている86北京では35kmから40kっまでが16分台
なのに、ラストの2.195kmが6分26秒(5km換算14分台)でカバー。
普通、大きくペースダウンしたのが、また大きくペースアップする展開は、ほぼあり得ない。
そこから距離不足を疑ってしまった。
中国のいい加減なところは、35kmは、だいたいこの辺だった、と大雑把にマーキングする
ところに現れている。私がマラソン・ランナーだったら、こんないい加減なマラソン大会に
絶対に参加しない。自らの適当さで、大会の権威を落としていることに主催者は気がついて
欲しいのである。 瀬古利彦は、意外に「持ってない男」なのかも。
・高校時代、役員の先導ミスで1周少なく競技場の外に出るハプニング
・モスクワ五輪、日本ボイコット
・83年東京国際、幻の世界最高記録(距離が長いと思われる)
自分の意思では、どうにも出来ないことばかりであり、不運としか言いようがない。
特にモスクワのボイコットは、日本に何の得ももたらさなかったことは強調しておきたい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています