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かぐや姫の物語 35
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0002見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/13(水) 23:11:26.93ID:gqTV+R3m
・スタッフ
監督・原案・脚本:  高畑勲   プロデューサー:   西村義明
原作:         「竹取物語」 製作:          氏家齊一郎
脚本:         坂口理子  美術:          男鹿和雄
人物造形・作画設計: 田辺修  作画監督:       小西賢一
作画:         橋本晋治  音楽:          久石譲
             濱田高行  主題歌:        「いのちの記憶」
             安藤雅司                二階堂和美
             山口明子  劇中歌:「わらべ唄」「天女の歌」
             他                  高畑勲、坂口理子

・キャスト
かぐや姫:     朝倉あき   捨丸:        高良健吾
翁:         地井武男   媼・語り:      宮本信子
相模:        高畑淳子   女童:        田畑智子
斎部秋田      立川志の輔  石作皇子:     上川隆也
阿部右大臣:    伊集院光   大伴大納言:    宇崎竜童
御門:        中村七之助  車持皇子:     橋爪功
北の方:       朝丘夢路   炭焼きの老人:  仲代達矢
石上中納言:    古城環

・キャッチコピー
この地で、ひとりの女性が生きた。
笑い、泣き、喜び、怒り、その短い生の一瞬一瞬に
いのちの輝きを求めて。

数ある星の中から、彼女はなぜ地球を選んだのか。
この地で何を思い、なぜ月へ去らねばならなかったのか。
姫が犯した罪とは、そして罰とはいったい何だったのか――。

日本最古の物語文学「竹取物語」に隠された人間・かぐや姫の真実の物語。

姫の犯した罪と罰。
ジブリヒロイン史上、最高の”絶世の美女”が誕生。
0003見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/13(水) 23:17:14.26ID:gqTV+R3m
・よくある質問(ネタバレ注意)
Q.姫の犯した罪と罰とは?
A.かぐや姫の罪とは清浄な月世界にとっては禁断の地である地球上の命の営みを歌ったわらべ唄に憧れたこと
  月にとってその唄は穢れの象徴なので、かぐや姫は罰として地球上で穢れに苦しみながら生きることを強いられた
  かぐや姫がその苦しみに耐えられず月に許しを請うた時、つまり地球の穢れを認めた時に罰は終わる
  (ノベライズ版p.5より)

  しかし、この作品のテーマは月世界に押し付けられた「罪と罰」を描くことそのものではない
  むしろかぐや姫が月の価値観に抗って生きたように、この地上で生きることを肯定することである
  「ああ、そうなのだ!この地に生きとし生けるもの、それらに流れるすべての息吹、
  その美しさも汚らしさも、澄んだものも濁ったものも、すべて私は愛していた。
  恋い焦がれ、本当に心の底から欲していたのだ。その中で『生きる』ことを……!」
  (ノベライズ版p.191より)

  一方で、高畑監督は鈴木Pが考えた「姫の犯した罪と罰」という宣伝文句を前面に押し出すのは迷惑だったと言っている
  罪と罰について考えたことが「かぐや姫の物語」の発想の種子であることは事実だが
  今作のテーマはそんなセンセーショナルな言葉から連想するようなおどろおどろしいものとは正反対だからである
  (ロマンアルバムp.159より)

Q.なぜ月はわらべ唄を嫌うの?
A.月世界は浄土でありその住人は天人(仏教)。彼らにとって生(生老病死)と輪廻転生はタブーだから
  わらべ唄にあるまわる水車とは地球の意味で、お日さんとは太陽であり命の象徴
  この唄はその地球上で繰り広げられる命のサイクル、つまり輪廻転生を賛美するもの
  詳しくは天上界や天人五衰で検索(下記レビューも参照)
  http://k-onodera.net/?p=198
0004見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/13(水) 23:22:04.80ID:gqTV+R3m
Q.普通の竹取物語とどこが違うの?
A.レビューがあるのでそちらを参照
  ・原作との違い
  http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id344585/rid105/p1/s0/c2/
  ・五人の公達の贈り物の意味
  http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id344585/rid53/p1/s2/c9/

Q.なぜ帝との和歌のやり取りや富士山の話が出てこなかった?原作の冒涜では?
A.上記レビュー(原作との違い)を参照
  また高畑勲の竹取物語論で言及される「今昔物語集」の竹取物語には上記のエピソードは登場しない
  専門家によると現存する竹取物語より「今昔竹取」のほうが古い可能性も指摘されている

Q.夢落ち2回って都合よすぎだろ?
A.あれは夢落ちではない
  疾走シーンの後貝が割れていたことからもわかる
  月はかぐや姫を監視していてどちらのシーンでも月が巨大化して激おこ状態になってる
  姫が月に背き取り返しのつかない事態になったため飛天(クリオネ)の力で時間を操作し無理やり月のシナリオに連れ戻した
  (絵コンテp.409-410より)  

Q.回想シーンの月のおばさんと海辺の親子は誰?
A.静岡県にある三保の松原に伝わる羽衣伝説
  (絵コンテp.750-751より)  
  海辺に松があり富士山が遠景に見えることから特定できる
  羽衣を松にひっかけて帰れなくなった天女と人間の男が出会う物語
  竹取物語の前日談としての羽衣伝説という位置付け
  この天女が覚えていた地球の歌をかぐや姫が聞いてしまったのがすべての始まり
  また天女の歌「まつとしきかばいまかえりこむ」は在原行平からの引用
  「まつ」は「待つ」と「松」の掛け詞になっており羽衣伝説の松と地上に残した家族への想いを重ねている
  http://shimizu-kaigan.net/asobu/miho.html

Q.あの小さくて可愛らしいお付きの者はなにもの?
A.女童(めのわらわ)
  主人の身の回りのお世話をする侍女見習いの女の子
  初期設定では名前はウメだった
  お迎えのシーンでわらべ唄を歌っていたのは子供や動物には天人の音楽が効かないからか
0005見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/13(水) 23:24:57.27ID:gqTV+R3m
Q.花見のシーンでかぐや姫がすぐ帰ってしまったのはなぜ?
A.美しい桜を見て楽しかった子供時代と里のことを思い出し喜びに浸りきっていたが
  子供とぶつかり畏れられ謝られ逃げられたことで、自分はもはや他の人とは対等に扱ってもらえない存在であることを思い知った
  山の人間ではなく都で高貴の姫君、つまり姫にとっては「人ではない」存在として生きねばならない疎外感に耐え切れなくなった

Q.かぐや姫の気持ちがわかりませんでした…
A.良レビューがあるので参考にしてください(これが正解というわけではありません)
  『かぐや姫の物語』の、女の物語
  http://mamiamamiya.hatenablog.com/entry/2013/12/02/100005

Q.石作皇子の求婚シーンでかぐや姫の代わりに座ってた女は誰?
A.石作皇子の正妻である北の方。
  北の方は石作皇子の言葉に騙されて不幸になった女をたくさん見てきた。
  その悪行に耐えかねてかぐや姫と入れ替わって石作皇子を驚かせた。
  「『かぐや姫の物語』の、女の物語」の醜女という解釈は正しくないので注意。

Q.ストーリーが難しくて理解できませんでした・・・
A.映画批評家による良解説があるので参考にしてください。
  「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」
  週刊映画時評 ムービーウォッチメン「かぐや姫の物語」
  https://www.youtube.com/watch?v=JXxIjDGjpyM
  「ライムスター宇多丸のシネマランキング2013」第二位(洋画邦画合わせて)

Q.あんなに長いタケノコ食えるの?
A.当時の竹はマタケやハチク。1mくらいまで食える。孟宗竹は当時はまだなかった。
  (『文藝春秋』2014年2月号、高畑×宮崎×鈴木鼎談より)
0006見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/13(水) 23:35:08.92ID:gqTV+R3m
■「かぐや姫の物語」受賞&批評まとめ(8/11追加版)
・2013年度シネ・フロント読者ベストテン 日本映画1位『かぐや姫の物語』
・2013年度シネ・フロント読者ベストテン 監督賞:高畑勲『かぐや姫の物語』
☆第23回 日本映画批評家大賞 アニメーション作品賞
☆第23回 日本映画批評家大賞 アニメーション監督賞 高畑勲監督
☆第23回 日本映画批評家大賞 アニメーション功労賞 小島 俊彦「かぐや姫の物語」他
☆東京アニメアワードフェスティバル2014 特別賞・アニメドール 高畑勲
・おおさかシネマフェスティバル2014ベストテン 第4位
・2013年映画検定有志のベストテン 第5位
・キネ旬戯画 2013年アニメ映画ベストテン 第1位
・KINENOTEベストテン 2013 第7位
☆第68回毎日映画コンクール アニメーション映画賞 (高畑監督では2回目、ジブリでは2001年以後初の受賞)
・2013年「映画芸術」日本映画ベストテン 第10位 (アニメで唯一入選、ジブリでは千尋以来初)
☆2013年日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞
☆2013年日本アカデミー賞優秀音楽賞(久石譲)
・ブルーリボン賞 監督賞・作品賞ノミネート
☆キネマ旬報ベストテン2013年 第4位 (アニメではベスト、歴代ジブリでも4番目、高畑作品では最高)
・東スポ映画祭 作品賞&監督賞 ノミネート (アニメでは唯一)
・ジャパンタイムズ 邦画ベストテン 第1位
・ライムスター宇多丸のシネマランキング2013 第2位(邦画のベスト)
0007見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/13(水) 23:39:10.03ID:gqTV+R3m
■「かぐや姫の物語」海外公開情報
○海外公式サイト
http://www.theprincesskaguya.com/
2014年10月17日アメリカで公開
2015年1月15日第87回アカデミー賞長編アニメ映画賞ノミネート

○RottenTomatoes 100% (57reviews)
http://www.rottentomatoes.com/m/the_tale_of_the_princess_kaguya/
・最高のおとぎ話だ・・・それでいて深遠で意味深い。ヒロインは浅はかな誘惑に負けず
 自分自身に忠実だ
・かぐや姫の物語は唯一アニメーションでしか実現できない作品のように思われる
・あなたがどれだけかぐや姫を楽しもうとも、あなたはほぼ間違いなくかぐや姫を過小評価しているだろう
・かぐや姫の偉大な成功はその美術館級のアニメ表現だけでなく、古い寓話を一新させたことにも基づいている
・日本の古い、よく知られた伝説に基づきつつ、その映画は奇妙で他愛無い寓話のように始まるが、
 その壮大な悲しみに観客は不意を打たれるだろう

○受賞歴
第87回アカデミー賞長編アニメ映画賞ノミネート
ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメーション映画賞
ボストン映画批評家協会賞 アニメーション映画賞
トロント映画批評家協会賞 アニメーション映画賞
アジア太平洋映画賞 アニメーション映画賞
ファンタスティックフェスト 観客賞
ミルバレー映画祭 アニメーション映画賞
モントリオール新映画祭 観客賞
アヌシー国際アニメーション映画祭 名誉賞(高畑勲)
ゴールデントマト賞 外国語映画第3位
LETTERBOXD 最優秀アニメーション
0009見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/14(木) 00:55:35.10ID:58Zt+Mti
こんな大作の専門スレがないとか変だと思ったのよ
好きってわけじゃないんだけど、確かに凄い作画とは思う
ジブリでもっとも日本の昔話をアニメ化した意義は大きい
0010見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/14(木) 04:17:29.08ID:K+azkDII
かぐや姫の物語はどういう物語だったのか

月に帰らないと行けないと分かった後ですね
糸紡ぎをお婆さんとするんですね

かぐや姫は天女の歌を歌うんですね

めぐれ、めぐれ、めぐれ、遥かな時を
廻って心を呼び返せ、々
人の情けを育みて、待つ年きかば、いざ帰えりこむ
(本当にあなたが待っていたら、すぐに私は帰ってきます)

で、そのシーン変な物が映ります

これ今回のテーマです

雁が飛んでいて、松が描いていて、向こうに分かりにくいですけど、富士山が見えます
富士山から煙が出てるんですね

富士山は西暦1010年頃1回噴火活動したので、平安時代の頭あたりですね

その海岸になんか男の人と子供が走っているシーンがあるんです

次のシーンで松の木の下で、男の人と子供が月を見ているというシーンです

これ何か?
分からなかったですよね
0011見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/14(木) 04:18:04.90ID:K+azkDII
何でこれがあるのかって言うと
これは高畑勲からすると、
日本人だったら全員分かるはずだと

富士山があって、松があるから三保の松原でしょ
三保の松原で月を見て待っているって言ったら
天女伝説に決まってるじゃないですか

三保の松原で、ある漁師が天女が水浴びしているのを見たと
その時に羽衣を隠したと、そのおかげで天女は天に帰れなくなって
男の女房になって、やがて子供ができた
その後、漁師が隠した羽衣を見つけて
天女は天に帰ってしまった
漁師と子供は三保の松原に残されて
天女がまた帰って来てくれるんじゃないかと待っていると言う悲しいお話ですね

富士山と松原で三保の松原でしょ
それで男と子供が待ってるでしょ
天女伝説分かりますよね?羽衣ですって

分かる訳ねえよwwwwwって思うんですけど

これがクライマックスシーンで見せる映像なんです

この後、続けて流れるのが月の貴婦人です

月の貴婦人が歌いながら泣いている
これを見てかぐや姫は地球に対して憧れるようになった、ですね

(月の貴婦人)
これコンテにですね、いなくなった子供を抱くようにって書いてあるんですね

つまり、この人はですね、子供がいたんでけども、その子供がいた記憶さえ奪われてしまっている
記憶をずっと奪い続けているのが、この周りにいるティンカーベルですね
妖精達が奪っているので、だから何が悲しいのか分からなくて泣いていると
0012見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/14(木) 04:18:59.25ID:K+azkDII
何かって言うと、もう一度子供に会いたいから泣いているんですね

だから、この手だけが赤ちゃんがいた空間を示している訳なんですね

で、それを見てかぐや姫は何故か地球に行きたくなったと
変なんですよ、何でかぐや姫が地球に行きたくなったのか以前に
何でかぐや姫が月にいたのかです

かぐや姫ってその時にちゃんと少女として月の世界で描かれているんですね

少女が子供が月の世界にいるはずがないんですよ
月の世界は不老不死なんですから月の世界は大人しかいないんですね

その世界で子供のかぐや姫がいるって事は何かって言うと

恐らく二人目の子供なんですね

三保の松原の漁師の

かぐや姫は

で、この女の人の子供で、月に来て生まれちゃったんですよ

だから、自分の母親とも分からないんですね
自分の母親とも分からない人が、もう一回地球に帰りたいと思って泣いているのを見て
同じ気持ちだーって分かるんですけど
かぐや姫は自分がそうい存在だと知らない

だからかぐや姫は地球に憧れちゃうんですよ
別に月の人が地球に憧れたんではなくて
当たり前なんですよ、地球人とのハーフなんだから
地球に憧れたって言うだけの話なんですね

でも、月で生まれたから不老不死になっていると
0013見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/14(木) 04:19:34.72ID:K+azkDII
でどうなるかって言うとですね
じゃあかぐや姫は地球に降りて来た
辛い事もありました、良い事もあったんですけど

捨丸兄ちゃんと空を飛ぶシーンがあります
抱いて!強く抱いて!って言います

包容って高畑勲監督はですね77才になって
包容と言う言葉を使うとは思わなかったって言って照れていて
コンテにも77年生きていて包容と言うのは初めて書きましたって書いてありましたけど

あの空を飛ぶシーンは、はっきりあれなんです(自主規制しましたよw)
あれしてそれを見つかったので罰を受けたって言うのがその〜、堕落
月に見つかって堕ちるシーンのメタファーなんです

あそこで、抱き合っているのがあれだって言う事は
だいたい見ている人の中で、そういう事が分かる人はだいたい分かると思うんですけど
その結果を考えない

かぐや姫の罰と言うのは何かって言うと
もう一回、月に帰る時にお腹の中に子供を宿している事なんですね

だからラストシーンでこれが出る訳ですよ
(月に赤ちゃん)

なんで、ラストシーンでこんなもんが出るのかって言うと
もう一回同じ過ちを繰り返すんですね

もう一回同じ過ちを繰り返して、かぐや姫と捨丸兄ちゃんの間に出来た子供は、又地球に行きたくなるんですね

だから、めぐり、めぐるって言うのがずっとつづくと言う話なんですね

めぐり、めぐると又同じ事がある
0014見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/14(木) 04:19:53.45ID:K+azkDII
めぐり、めぐって又地球に帰って来ますとうのは、何かというと
かぐや姫が帰って来ますと言う事じゃないです

この過ちは永遠に続いて、それは又地球人にとっては散々だったのかも分かんないですけど
なんで最後に赤ちゃんが出てくるのかって言うと

同じ様な存在が又地球を見ています
そして、彼女は地球に来たがるでしょう
なんでかって言うと、その子供は元々地球に憧れるべくして生まれた様な子供だから

月の世界の人間だから地球に憧れたんじゃないんですよ
かぐや姫だから憧れたんではなくて、元々地球人との間に生まれて
地球の血を継いだ子供だから、地球に憧れてかぐや姫は来たくなってしまっている

これを絶望と捉えるか、希望と捉えるかなんですね
そうやって、やっぱり出会うべきものでないものも出会ってしまった

そして、そこに何かある事が命だと

それを悪い事だと考えるのが月の人で
それは悲しい事かも知れないけど
私達の世界の出来事で語り継いで行こうというのが日本人の発想だ

だから又会える、同じ過ちを繰り返すと、あの歌ができているんですけど

これってマドカマギカなんじゃないのかなって
0018見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/17(日) 10:12:18.39ID:7BeB/PJU
基本、月はあの世、死の象徴でいいんじゃない
(例えばマチルダさんと月の画像で
この人は死んじゃいますと暗示しているとか)

反対に太陽は”生”やこの世?の象徴なのかな
0019見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/21(木) 18:30:37.18ID:Koleo+ps
数か月の間に、女の子はすくすくと成長し、年ごろの娘になりました。
お爺さんは「竹から生まれたから、竹姫でいいだろう」と
言いましたが、女の子は「そんなダサい名前は絶対イヤ」と言い張り、
「赫(かがや)き映(は)えるほど美しい」から「赫映姫(かぐやひめ)」だと自分で名乗りました。
確かにいまやかぐや姫となった女の子は、この世のものとも思えぬほどの
美しさを持っていました。しかし、天は二物を与えなかったのか、
性格はこれ以上ないほどのビッチになっていました。

お爺さんの家の周りには、かぐや姫とハメようとする男どもが
たむろするようになり、真っ昼間から嬌声が響くありさまでした。
お爺さんお婆さんは、なんとかそれをやめさせようとしましたが、
ビッチなだけでなくものすごいワガママで傲慢なかぐや姫は
「貢がれたカネを家に入れてるんだから文句を言うな」と言い放ちました。

それでも、男どもの中にはまともなものもいくらかいました。
誠実な男たちはかぐや姫と結婚したいと願い、お爺さんに
その旨を伝えました。お爺さんはよろこび、
「わしも婆さんも、もう先が長くはない。おまえにも
まだ多少なりとも孝行の気持ちがあるなら、早く結婚して
孫の顔をみせておくれ」と言いました。かぐや姫は、
「なんで結婚なんてしなきゃいけないのよ」と嫌がりましたが、
ふっと楽しそうな顔でにやりと笑い、「そこまで言うなら、
わたしのお願いを聞いてくれた人と結婚しましょう」と言いました。
0020見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/21(木) 18:31:10.04ID:yA1XZKn3
Q.夢落ち2回って都合よすぎだろ?
A.あれは夢落ちではない
  疾走シーンの後貝が割れていたことからもわかる
  月はかぐや姫を監視していてどちらのシーンでも月が巨大化して激おこ状態になってる
  姫が月に背き取り返しのつかない事態になったため飛天(クリオネ)の力で時間を操作し無理やり月のシナリオに連れ戻した
  (絵コンテp.409-410より)  

Q.回想シーンの月のおばさんと海辺の親子は誰?
A.静岡県にある三保の松原に伝わる羽衣伝説
  (絵コンテp.750-751より)  
  海辺に松があり富士山が遠景に見えることから特定できる
  羽衣を松にひっかけて帰れなくなった天女と人間の男が出会う物語
  竹取物語の前日談としての羽衣伝説という位置付け
  この天女が覚えていた地球の歌をかぐや姫が聞いてしまったのがすべての始まり
  また天女の歌「まつとしきかばいまかえりこむ」は在原行平からの引用
  「まつ」は「待つ」と「松」の掛け詞になっており羽衣伝説の松と地上に残した家族への想いを重ねている
  http://shimizu-kaigan.net/asobu/miho.html

Q.あの小さくて可愛らしいお付きの者はなにもの?
A.女童(めのわらわ)
  主人の身の回りのお世話をする侍女見習いの女の子
  初期設定では名前はウメだった
  お迎えのシーンでわらべ唄を歌っていたのは子供や動物には天人の音楽が効かないからか

Q.花見のシーンでかぐや姫がすぐ帰ってしまったのはなぜ?
A.美しい桜を見て楽しかった子供時代と里のことを思い出し喜びに浸りきっていたが
  子供とぶつかり畏れられ謝られ逃げられたことで、自分はもはや他の人とは対等に扱ってもらえない存在であることを思い知った
  山の人間ではなく都で高貴の姫君、つまり姫にとっては「人ではない」存在として生きねばならない疎外感に耐え切れなくなった
0021見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/21(木) 18:31:28.05ID:nxln8oF0
高畑勲監督って感情移入の演出が下手なのでは?

私が監督したものでは、「赤毛のアン」「じゃりん子チエ」「平成狸合戦ぽんぽこ」がそうです。「ホーホケキョ・となりの山田くん」
なんかも今のアニメの風潮に対するアンチテーゼとして出しています。
でも日常生活の中の小さなことを扱っていて、壮大なものではなく没入型でもありませんから、ヒットしにくい。
 めくるめく世界に没入させてくれるのはディズニーランドです。
お客さんを乗り物に乗せて現場の中に突っ込んでいきます。
自分がその中の一員になれたような感じがするわけです。
そういう没入型のディズニーランド方式をアニメで成功させたのが宮崎駿さんや細田守さんだったとも言えるわけです。
没入する方が、観る方も満足です。気持ちが面白いように翻弄されるわけですから。
 
―没入させないということは、観る人の自律性を考えておられるのですね。

今のアニメの傾向は感情移入型の「思い入れ型」と私は勝手に呼ぶ。
主人公に思い入れをするのに、やや眼が曇っていても平気になっている。
思い入れてなければ、主人公や世界に対して違う発見もできるんだろうが、主人公がどういうものに遭遇して自分も一緒にドキドキしていくかが大事とされる。
曇らない眼で見てるんじゃなくて曇りたいらしい。
世界を見て、その中で登場人物に対して自分があの立場ならどうふるまうだろうか、どう違う行動を起こすだろうか、
といった「考える」余地を全く与えられていない。





そういう風に感情移入させずに、視聴者に考える余地を残す作風の人が「これが真実の物語!」って描いちゃうと、そりゃあおかしいものになりますね。
0022見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/21(木) 18:31:41.31ID:iLFgyZW+
日本最古の物語である『竹取物語』を映画化したい───なんとねじれた愛国心だろうか。高畑勲が『かぐや姫の物語』で行おうとしたことは、日本の文化への根本的な批判なのだから。
結論から言ってしまえば、これは天皇制と男性中心社会を批判する純然たる左翼映画である。

『かぐや姫の物語』では「命」というテーマが用いられる。しかしながらそれは「せっかく生まれてきたのだから、命を大事にしましょう。
自分の命も、他人の命も。動物や虫の命まで」
といった道徳的教義だけのものではない。
本作のキャッチ・コピーは「姫の犯した罪と罰」である。
作中で語られる限り、姫の犯した罪は汚れた地である現世に憧れたことであり、その罰として地球に降ろされたのだとされている。
しかしながら、それは物語のプロット上の罪と罰である。かぐや姫は月に帰らねばならないことを告白した後に、このように嘆く。

 「私は生きるために生まれてきたというのに」

 作品の主題上の罪は「生きるために生まれてきたのに、生を生きていないこと」である。
その罰として月に帰らねばならない。こうして、もう一つの罪と罰が浮かび上がる。

 「死んでもないのに生きてもいない状態」の顔を、かぐや姫は作中で何度か見せている。
それは主に「高貴な姫君」となるべく彼女が矯正されていく過程の場面である。
なぜ彼女は「高貴な姫君」にならなければならないのか。
それは「高貴な御方の妻」になるためである。かぐや姫に求婚した五人の貴公子たちは口を揃えて「かぐや姫さまは私にとって宝です」と褒め讃えるが
それは明らかに「女性は男性の所有物である」という男性中心社会の考え方を炙り出している。
つまり、かぐや姫は「生きるために生まれてきたのに、位の高い男性に所有される高貴な『物』となるように育てられた」ことによって
月に帰らねばならなくなったのである。

 かぐや姫を(男性に献上される)「高貴な姫君」に育つよう仕向けたのは竹取の翁、つまり父親なのだが、ここに本作の重要なテーマがある。
竹取の翁はかぐや姫を山小屋で育てている頃に、かぐや姫を見つけた時と同様の光る竹を再度見つける。
その竹を切ると中から金が溢れだし、翁はこう確信する。

 「天が姫を高貴な姫君にするよう金を授けなさったのだ」

 天皇制が欧米の王室や中国の皇帝と違う点は「神(の子孫)である」ということである。世界には多くの王が存在したが、その多くは「神によって民を治める権利を授かった」という設定によって権力に正当性を与えていた。
王権神授説である。しかし、日本の王たる天ちゃんは、建国を行った神から代々続く神の子孫であるという設定によって権力に正当性を与えた。
なので「天が私にこのような使命を与えたのだ」という翁の言葉は、西洋の騎士が「神が私にこのような使命を与えたのだ」という言葉とは意味が変わってくるのである。
かぐや姫は帝の意思によりモノとなることを最初から義務づけられ、そのために月に帰ることとなる。

 高畑勲が『竹取物語』を映画化すると聞いて、最初に考えたことは「帝をどのように扱うのだろう」ということだった。
高畑勲という人は、権力者を嫌悪し、民衆の自由を主張し、子どもと鳥を愛した詩人ジャック・プレヴェーアナルを敬愛していた。
彼の翻訳を出版したり、彼が脚本を書いた名作アニメーション『玉と島』をジブリから配給したりもした。
そんな高畑勲が天皇が登場する物語をどう扱うのか。まぁ、やっぱりこうなったかというところである。

 それにしても、あまりに力みすぎである。まずもって物言いが直接的すぎる。
「生」に対してもそうであるし、男性社会や権力の描き方には露骨な悪意を感じる。極めつけは「帝」である。突き出した顎wに角張った肩、安直な性格に「私のものになることを喜ばない女はおらんのだ」といった台詞など、時代が時代なら不敬罪で逮捕されるであろう。
別に作品のテーマはこれでいいのだ。せっかくの作画の素晴らしさとアンバランスなのである。それに捨丸の存在も微妙である。原作にはいない登場人物だが「ジブリっぽさ」のために出して来た感じが拭えない。
宮廷のしきたりや高級な調度品は馬鹿にしているが、捨丸の家の生業は民芸品の制作であるということも何かをほのめかす程度で書き込みが足りない。
文明の高度化は人間の技術の先に現れるということについて、もう少し何かしらの解釈をしても良かったのではないか。
高畑勳の意地は十分に観れた。しかし、それに作品が追いつかなかったか、意地が作品を追い越してしまっていることは否めないだろう。

高畑の才能には毎度脱帽です。かぐや姫の物語は本当に素晴らしい作品である。
0023見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/21(木) 18:31:55.09ID:08m1bSIF
読んだことなかったんですが、こんなお話だったんですね。
完全にかぐや姫目線で観てしまっていたのですが、とにかく男の人にあんまり好感を持てない。
唯一持てるのは捨丸兄ちゃんぐらいですね。いけめん。
あ、でも、兄ちゃんも奥さんいるのにかぐや姫と駆け落ちする気になっちゃいましたね。夢オチな感じになってふつうに奥さんのところへ戻っていましたが。
媼は比較的姫に理解のある人ですが、それでも最初に都に行くときに姫の意見を聞いてあげなかったのがちょっとびっくりでした。
相模は完全に高畑淳子でしたね。声を聴くたびに高畑淳子がちらついてましたよ。
田畑智子演じる女童は原作には登場しない映画のオリジナルキャラクターですが、このキャラはすごくいい役割をしていたと思います。
外出できない姫のために桜の枝をもってきたり、最後だって子供たちを連れてわらべ歌を歌うなんて、なんて気の利かないクソガキw
見た目もまるっとしててかわいいし、この映画で誰がすきって聞かれたら、間違いなくアゴ男を選びますね。
映画のキャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」でしたが、そんなサスペンスな雰囲気ではなく、かぐや姫という1人の女性の生きる喜びとか苦悩を描いた作品でした。
0026見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/22(金) 12:43:00.80ID:QKMXChA6
むかしむかし、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。
お爺さんは山へ竹取りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
お爺さんがいつものように竹やぶに入ると、
そこで見たこともない光輝く竹を見つけました。
これはきっと高く売れるとオノを振るってみると、なんと中から
ちいさなちいさな、驚くほどかわいらしい女の子が現れたではありませんか。
お爺さんは面倒なことは嫌いだったので、さっさとその場を
立ち去ろうとしましたが、女の子はお爺さんの服をつかんで
離しませんでした。ずるずると家まで引きずっていき、
とうとうお爺さんは根負けして、洗濯から帰ってきたお婆さんと相談し、
しかたなくその子を殺害、解体し川へ流すことにしました。
0027見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/22(金) 13:01:36.96ID:j0UmebKv
竹取物語はおおよそ10世紀くらいだと推測されています。
現代人が竹取物語を見て仏教的なエッセンスにいまいちピンと来ないのは、当時は浄土教が広く普及していて、浄土信仰が人々の死生観に強く影響を与えていたからだと思います。
そして浄土信仰の死生観から竹取物語を見た時に、
まさしく今回のジブリの「かぐや姫の物語」のような悲しいストーリーが浮かび上がってきます。
かぐや姫の罪と罰、穢土と浄土、生と死。
かぐや姫の髪上げの儀の際の夢では、非人間的な速さで里山へ帰りますが、そこでは山は冬を迎えています。
山が死んだと思っていたかぐや姫が春の準備をしているだけと知り、まさしく「流転の相」に気付き、そこで夢から目が覚めるのですが
あそこで絶望していたら月からの迎えはあの時に来ていたのではないかと思うのです。
ここで面白いのは物語終盤までは登場しない月世界の概念、地上世界と月世界の対比を
「里山」と「都」
で表現しているところでしょう。
都は穢れのない高貴な人を目指す場所であり、かぐや姫が真に求めているのは穢れ(人間らしさ)に満ちた里山での生活でした。
かぐや姫は女であることを喜んでいいんだか疎んでいいんだか女をどう扱えばいいのかどう扱われたいのか分かんなくなってイラっときたり
不安になったりしたので性未分化の性別:女は見ちゃダメだとおもった ていうか女にしか分かんないだろうシーンいっぱいあった
『かぐや姫の物語』捨丸との再会シーンからのアレは馬鹿馬鹿しくて見てられなかった。
月からのお迎えも「え、結局その程度の解釈と表現かよ」とガッカリしたなあ。
今50億もかけて竹取物語をやる意義をこの作品からは何も感じられなかった。
もう結論から言うと、月は死者の国であり、仏教・浄土信仰における極楽浄土です。
先の歌でもある通り、命を象徴するのは「お日さん」であり、月は夜を意味し「死」を象徴しています。
作中でも実際にかぐや姫を迎えに来たのは、すげえパンチパーマの効いたそっくりさんでもない限り、阿弥陀如来その人です。
0028見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/22(金) 13:02:01.58ID:OdLw1xRP
「憧れてやってきた」だけでは自分の意のままになるような感じがある
だからなぜ意に反して帰らないといけないのかわからなくなる
たしかに月に帰りたいと助けを呼んでしまったが
その後ようやく憧れてやってきたことを思い出したんだから
まだ地球にいればいい
「憧れたのが罪」で「その罰としてやってきた」ということなら
罰が終わったから不浄の地から回収されるという強制性があり納得できる
信濃なる千曲の川の小石も君し踏みてば玉と拾はむ
恋人の触れたものなら、たとえ小石であろうと、自分にとっては宝物、と思うのは、恋する男女に共通の心情である。
この歌の背景には、人の触れたものには、その人の魂が宿るという当時の考え方があるといわれる。

子供らがわらべ唄を歌い姫を呼び返そうとする場面が「魂呼い」なら
クリちゃんもとい飛天が姫の愛用の品をめぐる場面はふれた物からも宿った魂すら残さないという場面か
かぐや姫でも木地師の生活なんかが丁寧に描かれてる
当時の植性まで調べて竹林を描いた
ジブリの後継者になるならこういうこだわりまで受け継がないと
共通認識というかわかっている世界を舞台にしたいんじゃないか
語りたいなら語らせる、それでいい
評価を引き受けるなら
0029見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/22(金) 16:16:39.89ID:4F/Mc8j3
たけのこのようにすくすくと育ち美人の大人になったが
そのためちやほやされ勘違いし超高望みをし
世界有数の高級ブランド買えない奴は嫌とか
3高じゃないと嫌とか年収1000万ないと嫌とか
この程度の地位(長者どころか帝もw)では釣り合わんから
もっと地位の高い男がいいとか
アゴが出てるやつは嫌とか言ってるうち
ついには羊水がくさ…お迎えの時間が来て結婚できないから
娘よそうならないでねってのが主題だ

後半最後の推理は甘かった、月は死より別の時間制限と直接関係がある線が
浮上した。これで月を使うことが決定的に重要になる。
これを穢れとみなし隠語で言う風習で難解になっていったのかもしれない
元の竹取物語の話って、かぐや姫は帝ですら及ばない月の世界の姫であって
翁が悲しもうが、本来の場所へ目出度く帰っていくだけのこと。
かぐや姫は、貴公子や帝や木地師みたいな地上の男なんぞと
家庭を持って暮らすような存在ではない
この動画を見れば、かぐや姫が婚期を逃した女性みたいな話では無いと分かる
これが長きにわたって日本人が抱いてきたイメージだよ
https://www.youtube.com/watch?v=UrxbQz9R9VQ
婚期がどうたらこうたらよりかぐや姫イラン人説の方がよっぽど説得力ある。
月=未知の世界=イランの都
この世の者とは思えない美しさってのも異人種なら納得。
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2018/06/24(日) 00:09:09.06ID:s04l70zU
高畑が伊勢物語やるんなら三時間とか四時間くらいの長さでやってほしいな
ほんと超大作って感じで 高畑なら出来るだろう
平安貴族は、官位は男のものだが、
家は女のものなんだよ
財産あるから基本的に強い
女は自分の家で、通ってくる男を待ってて、男が通ってこなくなったらその男との結婚は終わりだけど
そのあと別の男が通ってくる、ってもあることで
貴族の男は同時に何人のもの女に通ってること多くて、その意味では一夫多妻だが、
女も生涯通して見れば、一妻多夫ともいえるかも
の紫の上なんかは、あの時代の高貴の姫としちゃ例外的で
実家から切り離されてるから(源氏が実家から拉致して自分で育てたため)
自分の家がない 実子もいないので源氏にすがるしかない立場
それが紫の上の苦悩を深くしてる
紫の上の立場は、女が財産権を失くし、また神道道徳がいきわたって江戸以降普通になった「女三界に家なし」のさきがけ。
家を相続するのは娘だから、
親も娘を大事にして、教育に力を入れたんだね
書道、音楽、文学の教養を授けて「あの家には素晴らしい娘がいる」という評判を立てさせ
いい婿をgetする いい婿っていうのはなるべく高い官位に上れる男
最初から身分が高くて その上さらに出世しそうな男
そういうのを捕まえて、家に誉れをもたらしてくれることを期待する
女の家はそのための資金援助をする 男もそれ目当てで金持ちの家の娘をめとって後ろ盾を得ようとする
金がなく野心のある男にとっては、女は顔より金!だったりすることもあるし
身分は低いけど金のある男にとっては、美しい高貴な姫のヨメがステイタスだったりもするだろし
かぐや姫の時代背景はそんなんだな
かぐや姫の原作自体は、シンプルでおとぎ話的、心理描写もあまり深くないけど、
高畑版かぐや姫には、原作人魚姫にプラスして源氏物語の影響も見られる気が 
姫の心理は、平安物語に出てくる女君たちの苦悩とかぶるとこある
0031見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/25(月) 19:50:49.66ID:QTe1Qn7i
不倫が悪なのは普通の感覚だからねえ周りが不幸になるしな
国同士の結びつきのために嫁いだお姫様が年頃になって真に愛する人を見つけてしまって不倫してしまうっていうお話もあるが
それも倫理的には許されない悲恋の恋だからねえ
誰にも悪意はないし帝も翁もその時代の常識にのっとって行動してるだけなんだけど
その常識とは違うところで生きてるかぐや姫にとってはそれが苦痛で絶望的な展開になってしまうんだよな
誰も悪くなくても、絶望的な終わり方をして結果的に死を選ぶことになってしまっても
それでも生きてることに価値はあるよという映画なんだと思った
まず軽蔑云々前に、なぜ盗みをするのかがハッキリとわかっていないはず
炭火焼き職人から木地師の素性を知ってはいたが、移動した土地で上手く行けたのかどうかはわからない
軽蔑よりも先になぜ盗みをするのかが浮かぶはず。
そもそも突拍子な出来事に制御が利かなくなって飛び出してる時点で、姫は軽蔑とか疑問とかよりもまず、救いとして捨丸を求めた
そして花見の出来事を思い出して車に隠れた
0032見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/26(火) 01:01:46.38ID:x0NBT5Pe
で、原作の帝が格好いいのは姿を消したモノノ怪そのものであるかぐや姫を討伐するのではなく、和歌を交わしたところ。

和歌はそれまでの貴公子とも何度か送っていたが、姫から送信したり何度も返歌を送ったのは帝だけ。

ここで、それまでの貴公子で恋愛をテストしてきた姫の伏線が生きるし
帝が姫を引き付ける力が権力や腕力ではなく「気高さ」や「言の葉」として描かれているのも感動的。


かへるさのみゆき物うくおもほえてそむきてとまるかぐや姫ゆ
(行幸からの帰り道は憂鬱な気持ちでいっぱいだ、これも私の命令に背いて一緒についてきてくれないかぐや姫のせいなのだよ。 )
御返事を、
葎はふ下にもとしは經ぬる身のなにかはたまのうてなをもみむ
(雑草が生い茂る貧しい家に育った私などが、玉で飾り立てられた宮殿で過ごすのは身分違いというものですよ。 )


和歌を送られた後かぐや姫の美しさに他の女性に興味が失せた帝はかぐや姫の御もとにぞ
御文を書きて通はさせ給ふ。

御返りさすがににくからず聞こえ交わし給ひて、おもしろく木草につけても御歌を詠みて遣はす。
「雑草が生い茂る貧しい家に育った私などが」と自分を卑下しているかぐや姫に対して
帝は植物の話題で三年間文通するんですよ!
アニメの御門は草木花から遠い成金趣味として描かれたけど
原作の帝はおもしろく木草につけても御歌を詠みて遣はす。
尊い!!!国の長でも、草木花を愛する心があるのだ。
で、割とラブラブになったところで、(帝とはその後一回も再会してないのに)
かぐや姫は月を見ては憂鬱そうになる。


かやうにて、御心を互ひに慰め給ふほどに、三年(みとせ)ばかりありて
春の初めより、かぐや姫、月の面白う出でたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。

ある人の、『月の顔見るは、忌むこと』と制しけれども、ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣き給ふ。
七月(ふみづき)十五日(もち)の月に出で居て、切にもの思へる気色なり。
これでかぐや姫が月に帰る前兆となるのだが。

『月の顔見るは、忌むこと』がなぜなのかと言うとそのまま歳月の移り変わり
すなわち死の予兆を意識することだからだ。


八月十五夜の帰る時に、かぐや姫は養父母に「かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。
さる所へまからむずるも、いみじく侍らず。老い衰へ給へるさまを見奉らざらむこそ恋しからめ」と「自分は老いることが無いのだが老いるあなたたちを看取れなくてつらい」と言った。

求婚者が現れた時に「何で人間は家族を作って子孫を残すの?まずそこがわからない」と言った姫が「老いを看取れないのは辛い」
と言うの、本当に成長を感じさせるし泣ける。

アニメ版は「子供時代が尊い!大人はクソ!」みたいな描き方だったのに
原作だと「人は死ぬからこそ大人になって子をなすのだ」ということを不死の宇宙人が学習する話になっている。


そして、かぐや姫が月に帰ることになった理由がアニメ版と全く逆だとわかる。

アニメ版は「帝に抱きすくめられて、大人になりたくない!ここに居たくない!帰りたい!」とテレパシーを送ったからと高畑監督は言うのだが。
原作ではむしろ「歳月の流れ、老いていく人を止められないから辛い。翁と媼と、そして御門の命が縮まるのを待つのが辛い」
という短命な時代の人らしい哀しみを感じたんじゃないか?それを実感させるのが姫に対する罰だったのではないか?と私は思う。だから姫は帝に再会せずに文通だけにしたのではないか。
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2018/06/27(水) 13:37:26.34ID:irQ7n065
2018年06月27日07:00
『かぐや姫の物語』解説 補足 「高畑勲の作家としてのホームポジション」
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51548727.html

 5月にやった『かぐや姫の物語』の解説について、こんなお便りが届きました。
――――――
 実はわたし、大学、大学院で古典文学を専攻していました。
だから高畑さんの「かぐや姫」は公開当時からとても興味深かったです。

 とくに「これはすごい!」と思ったシーンが姫が琴を弾く場面です。
岡田さんは、「姫は異性の前ではスキルが上がるので、翁がやってきたら琴を弾きこなせてしまった」
と解釈してらしたのですが、わたしは別の解釈をしました。

 姫が弾いていた琴は、琴は琴でも、“キン”(琴)の琴という、古典文学の世界では、
天人の末裔であるとか皇族とか、要するに特殊な血筋の人間でしか弾くことができない、
ある意味で幻の楽器みたいなもので、我々が「琴」と聞いてイメージするような“ソウ”(箏)の琴とは全然別の楽器なんです。

 それを姫がさらりと弾きこなしたというのは「姫が天女の生まれ変わりだ」ということを暗示する演出だと、わたしは思いました。

 「いやー、すごい。さすが高畑さん」と、感心するのと同時に、
「王朝文学を学んできた自分にはかろうじて分かったけど、一般の人には絶対分からない、えげつない演出をするなー」
と映画館でぞっとした思い出があります。

 本当に高畑さんの映画はえげつないですね。そこがわりと好きですが。
――――――
 そうなんです。僕らが「琴」と言われた時にイメージするのは、正しくは“ソウ”という楽器なんです。

 つまり、琴には、“キン”と“ソウ”というのがあり、元々のキンというのは、
もう僕らは、ほとんど見ることができないんです。

 いわゆる女の人がやっているようなあの楽器は、
弦の間に橋みたいなのが入って、音階を調節する楽器なんですけど、
かぐや姫が弾いてるのは、1枚の板に真っ直ぐな糸だけが張ってあり、
それを胡座をかいた足の上に乗せて弾く、キンという楽器だそうです。

 これについては、『かぐや姫の物語』のメイキング本の中にも書いてありました。
 録音の時に、ミュージシャンの人が来たんですけど、そこに用意されていたのが“ソウ”だったんですよ。
いわゆる、現代でも使っている普通の琴が置いてあった。

 なので、高畑さんに、アニメの監督だから知らないんだろうと思いながら
「これね、実は違う楽器なんですよ」というふうに言ったら、高畑さんが「そうなんですよ。
これは違うんですよね。“キン”でなければ」と言ったそうなんですよ。
 「わあ、すごいな、この監督。知ってるんだ」と思って、その後、二人で相談したそうです。
0034見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/27(水) 13:38:25.46ID:irQ7n065
この2つの楽器の何が違うのかと言うと、現代も伝わっている“ソウ”という楽器は、音が響きすぎる、
鳴りすぎるそうなんですね。それに比べて、かぐや姫が使っていた時代の“キン”というのは、もっとくぐもった音だそうです。

 なので、結果、しょうがないから弦の下にタオルを何枚か敷いて、音があまり反響しないようにして、
かぐや姫が琴を鳴らすシーンを作ったそうなんですけども。

 それをちょっと思い出して、「本当にすごいな、あのオッサン」というふうに思いました。
 高畑アニメに関しては、本当に研究すればするだけ深みがあるんですよ。
・・・
 今のアニメの作り方、映画の作り方、たぶん、小説も漫画もそうなんですけども、二極化してるんですね。

 つまり、“高畑さんっぽい”というか“わかる人にはわかる”というような、深みというのをずーっと作っていくような、
作者としても「まあ、ついて来れる人だけついて来てくれればいいよ。初心者にもわかりやすくはしてるけど、
実はその奥にもいろいろと考えて用意してるんだけど」という作り方。

 意外にも、『進撃の巨人』はそういう作り方をしてるんですよ。あとは『約束のネバーランド』もそうかな?
他にも『HUNTERXHUNTER』なんかもそうなんですけど。

 それに対して、「漫画とかアニメの役割というのは、とにかくわかりやすいことであって、テーマとかも、
できるだけセリフとして直接表現するし、とにかく間口を広げて、できるだけ沢山の人にわかって貰おう」という作り方。

 このどちらかに二極化してるんですね。
・・・
 映画作家というのは、どちらかというと前者のタイプが多くて「わかる人にわかればいい」ってしがちなんですけども。
 テレビドラマって逆なんですよ。「とりあえず見てる人全員にわかってほしい」という文法で作るんですね。
 なので、結果として、テレビで活躍している人が映画を撮ると、ほぼ失敗するんです。

 これはもう、「ほとんど例外なく」と言ってもいいくらいです。僕も好きだったテレビであんなにイケてた人が、
映画を作ると深みがなくなってしまう理由は、テレビと映画が本質的に持っているものが違うからです。

 テレビというのは、全てを明らかにして、わかるようにして、
そのわかるものの連続で何話も何話も話数を掛けて、ゆっくり見せて行くものなんです。
『真田丸』もそういう作り方ですよね。

 しかし、そういうやり方は、こと映画に来ちゃうと「含みがなくて面白くない」ものになってしまうんです。
 宮藤官九郎にしても誰にしても、とりあえず、僕がテレビで好きな人っていうのは、
全員、映画に行くとダメなんですけども、そこら辺が原因じゃないかと思っています。
・・・
 そういう意味では、高畑勲に関しては「映画ではやり過ぎになる」んですよ。
 でも、テレビアニメとして『赤毛のアン』とか『アルプスの少女ハイジ』とか
『母をたずねて三千里』をやった時には、ドンピシャなんです。
0035見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/27(水) 13:39:08.52ID:irQ7n065
“高畑ボリューム”っていうのかな? それが映画になると、もう、カルピスの原液状態で、
「いや、高畑さん、そこまで作っておいて、『かぐや姫の物語』って、
お話はクソつまんないですよ」というふうに思っちゃうんですけども(笑)。

 作家によって“ホームポジション”というのがあると思うんですよね。
 すみません、つい「つまんない」とか言っちゃったんですけども。
いや、高畑さんの『火垂るの墓』にしても『かぐや姫の物語』にしても、ストーリーだけ見れば絶対に弱いんですよ。

 だけど、それをテレビシリーズに持ってくると、ストーリーが弱くても、何話も何話も使えるから、すごいものを伝えられる。
 例えば、『母をたずねて三千里』なんて、言ってしまえば
「イタリアのジェノバにいた、10歳にもなっていないような少年のマルコが、大好きなお母さんに会いたい一心で、
一生懸命に海を渡ってアルゼンチンまで行って、さんざん苦労してお母さんに会えた」というだけの話なんですよ。

 だけど、これをテレビで50回に分けてやったらどうなるのかというと、ものすごいことになるわけですね。

 本来、高畑さんというのは、そっちに向いてる作家なんですよ。
それなのに、50話掛けて、1年連続のテレビシリーズに使うような情熱を、たった2時間くらいの枠の中に込めてしまうと、
『かぐや姫の物語』のような“沼”みたいな作品が出来ちゃうんですよ(笑)。

 やっぱり、正直言って、僕は「高畑さんはテレビの作家であった」と思います。
 その点、宮崎駿はテレビでも映画でもどちらでもいける、ちょっと稀有な才能を持っていたというふうに思ってます。
**************************************

この記事は『岡田斗司夫ニコ生ゼミ』6月17日(#235)から一部抜粋してお届けしました。
0036見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/27(水) 22:30:24.22ID:/Av/pY35
すごいと思ったのはすごい技術で作ってるのにあざとくないとこ
例えば鉄コン筋クリートとか湯浅系とか特徴的な線で描くアニメっていくつかあるけど
なんかあざとくて鼻につくところがある
原作の漫画は感じなくてもアニメでやられるとなんかこれじゃないんだよなあってのと技術の見せびらかし
みたいなのがあって拒否反応が起きちゃうんだけど
かぐや姫の物語は技術的にはもっと上を行ってるのに全然あざとく感じない
なんでなんだろうか
キャラデザのおかげなのか演出の問題なのか
松本大洋の漫画もあれくらい金かければ原作の絵の魅力を再現できるのかしら
かぐや姫は押しつけがましいアニメじゃなくて
観客が自由に想像して楽しめるアニメだからね
技術的にも塗り残しや線の途切れを作って
余白を楽しめるようにしてる
あの場面、喜怒哀楽を露わにすることを否定されて
「高貴の姫君は人ではないのね」と言っているのだけど、
実は天人である自分は本来喜怒哀楽を持たないはずの
存在だった、という結末が来るのはやはり哀しいね。

公達を退散させたあと眉が復活する描写はなぜかと思っていたら、
高畑勲はロマンアルバムのインタビューで演出上の「ウソ」である
ことを認めているね。
自分は「姫は天人なので眉が一瞬で生えそろった」と解釈する
ことにしてる。
かぐや姫が地球に憧れるプロット自体は50年前のものだしなぁ
ポニョと似てると言われてもたまたまとしか…
まー何十年もお互い刺激しあってきたわけだから
いろんな影響があるのは不思議じゃないけどね
そういえばポニョ路線のアニメはもうやらないのかな?
ポニョは実験作だったのに風立ちぬでは前のスタイルのアニメに戻ってたよね
短編もいろいろ作ってたけど風立ちぬに生かせたのは声の効果音ぐらい?
宮崎さんもいろいろ迷ったみたいだしかぐや姫見てようやく進むべき道が見つかったのかも
かぐや姫がそういうジャップポジティブな刺激になってくれるなら全然いいと思う
0037見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/27(水) 22:42:02.78ID:ItACBZ1p
へー、産まなかったんだ。
で、上がっちゃったんだぁ…。へー。
0038見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/06/28(木) 20:50:38.42ID:jQn1Lelt
捨丸集団は自然の中で自由に暮らしてる
つまりたけのことは馬が合う

貴族集団は息が詰まるような都で虚飾にまみれた生活をしてる
だからたけのことは価値観が違う

それはたけのこの勝手な価値観だと文句言っても仕方ない
そういう前提の映画だし前半でなぜそうなったかははっきり描いてる

ということで貴族が好きになれなかった理由ははっきりする
嫁に行ってもどうせ籠の中の鳥のように屋敷の中に閉じ込められるだけ
唯一どこか遠くへ行こうと言った石作には心動かされたが嘘っぱちだった

捨丸となら鳥虫けもの〜のように自然のなかで自由に生きられるかもと思った
生きている手応えを得られて幸せになれると思った

欲望のままに生きる貴族も一緒だろ?ってのは貴族側しか考えてない発想
たしかに貴族は都でも欲望のままに自由に生きられるかもしれない
でも貴族と結婚してもたけのこは監禁されて自然のなかで自由に生きられない
貴族的な自由や欲望は他人や自然を抑圧、搾取することで成り立ってるから
まあ、天女は未来人だから古今和歌集でもいいんです。アニメ版は平安時代が舞台ですからね。
作中でかぐや姫自身が嘆いていましたが…かぐや姫は地上に降り立ってきてから、地上の人たちに何一ついい影響を残していない。
多くの人たちの人生を狂わせたばかり。これは明らかに狙ってからの演出なわけですが、それが人によってはなんとも後味の悪い感じになってしまったんでしょう。
0039見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/29(金) 21:38:46.57ID:5fuJIEK+
「私は誰のものにもならない!」というのが結構好きなセリフだ
自然のままに生きるというのはそういうものかもしれない
瓜ドロボウをしてなんのお咎めもなしというのは
教育上よくないと真面目人間なら怒るかもしれないが
誰かのものになる=所有というテーマにつながってたんだな
そして子供が瓜ひとつ盗んだところで
おっさんもそんなに怒ってなかったし
まあ捨丸兄ちゃんはあとでひどい目にあってたけど
「誰のものにもならない」というのは
かぐや姫を宝物として所有しようとする求婚者とは結婚しないという意味だと思った
でも物語全体を見ると自然のままに生きるということを言っているんだと気づいた
命というものは誰かがモノとして意のままにできるものではなく
つねに自らに従って変化し流転していくなかで循環している
最初から最後まで鳥虫けもの草木花、そして人をそう描いている
普通はただの恋愛論として終わってしまうところを
この映画では自然観や文明観と重ねて描いてるわけだな
しかもそれをかぐや姫の成長を通して丁寧に物語ってる
だからこそ説得力があるし二重三重に共感できてしまうわけだ
物語としても演出としてもよくできてるし
なにより人生上の教訓というか誰の身にも起こり得ることとして共有できる
九死に一生を得るような体験をして一度死を身近に感じると
何気ない毎日のことでも感謝したくなる
そういう経験をしたことがある人は少なくないはず
かぐや姫の場合は余命何日と宣告されたようなものだからもっと深刻だけど
0040見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/06/29(金) 21:39:03.64ID:2boEyIXF
竹取物語自体が二元論に収まってないからね
常世は清浄な世界で現し世は穢土という価値観に対し
かぐや姫は清浄な世界になんか戻りたくないと言って否を突き付けている
だけど天の羽衣を着せられた瞬間
彼女の霊魂は『エジプト死者の書』でいうところの「バー」の状態になって
現し世との縁が切れてしまう
これを魂魄思想に当てはめて考えると
現し世に執着する姫は魄の象徴であり
月の住人としての彼女は魂の象徴であるということになるが
竹取物語は二元論的に魂的なものを善および光とし、魄を悪および闇とするものではなく
地上的なものに対する前者の圧倒的な優位性を描きつつ
同時に非情かつ理解不能な恐ろしいもののように描写する
つまり清浄なものが光であり同時に
(無明の人間にとっては)底知れない闇である存在として描かれている
これは叛逆の物語でほむほむが円環の理に導かれるのを拒絶した動機の一つだと考えられる
竹取物語とよく似た話が伝わっているチベットの死者の書では
世間一般的にはジブリ作品=宮崎駿っていうイメージだと 思うんだよね。
高畑の強烈なフォロワーとかで一部宮崎駿嫌いみたいなのが
いるけど。今作だって風立ちぬがある程度ヒットしてなかったら企画の段階で
ポシャるでしょ
2chでだって名無しがムスカのセリフになってるけどやっぱりヒットメーカーの
宮崎駿がいて初めて作品が作れるんじゃない
もちろん高畑勲がいて初めてジブリは成立するのはあるけど
高畑の作品は生真面目というか排他的というか
ファンタジー要素が少なすぎ
それに言っちゃあなんだけど高畑作品はストーリーもそんなに面白くないのに
キャラのタッチも線も手抜きにしか見えん

死に臨む凡夫が解脱できないのは、この世とあの世の中間世界であるバルドゥにおいて
凡夫が仏の光を恐ろしく脅威に感じてそこから逃げ出し、より低次元の輪廻の世界へ
自ら赴くからであるとされる
(仏の世界は常に開かれているのに、人間の方がそれを嫌だと感じて避けるのだ)
かぐや姫は元々そちら側の存在だったので嫌がりながらも宿命により本来的自己に還元されたが
死に臨むほむらは凡夫として低次の世界に自ら落ち込んだ。デミウルゴスよろしく仏の光を道連れにして
『竹取物語』のかぐや姫は嫌々円環の理に導かれたほむらであるわけだ
0041見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/07/01(日) 21:13:08.72ID:DPP9LwSc
「かぐや姫の物語」は、子供っぽい大はしゃぎから、物質主義の愚かしさと美のはかなさについての洗練された寓意へと姿を変える夢のような傑作である。
絵は綺麗だし赤ん坊可愛くて、褒めるとこもいっぱいあるんだけど、すっごい退屈だった。
5人の求婚者が出てきたところで
「なにこれ一人ずつ順にやるの?みんな知ってる話を忠実に?」
ってびっくりした
姫の心情に迫る部分、オリジナルエピは面白かったけど
見るのは現代人なんだからストーリー展開のスピードに考慮して欲しかった

一方で、ほとんど自分自身で充足したようなたわいもない子供時代から
思春期の悲しみに沈んだ状態へのかぐや姫の変貌は、伝統的に考えられた
「少女の幸せな人生」に対するフェミニズム的な批判の説得力のある描写である。

美しくアニメ化され、爽快な想像力に満ち、胸が張りさけるほど悲痛なこの映画は、
昨今のどの映画よりも”もののあはれ”―あらゆるものに宿る哀愁(pathos)―の美学を見事に体言している。
私の人生のなかでもっとも悲痛な映画である「火垂るの墓」を観たときのようにこの映画は私を打ちのめした。
これはただの日本文化の表現なのではない。かぐや姫の悲劇は我々みなが共有するものなのである。
「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーはそれについての手がかりを与えてくれる。
原作は姫の罪について何も語っていないため、高畑はかぐや姫が犯した罪を探り当てたいと語っているからだ。
ただし高畑の探索は直接的なストーリーとはあまり関係がなく
むしろかぐや姫の罪と罰のすべてはこのヒロインの感情的および精神的な旅路と、それがいかに終わるかに関わっている。
かぐや姫の物語見て来た。
原作に何かプラスαがあると思ってそこに期待してたら、本当にまんま竹取物語だった。姫の犯した罪と罰とは何だったのか…。
0042見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/07/07(土) 19:54:09.21ID:sy1oBFVl
苦しみを知らない天人からしたら穢れた地球に落とされるだけでも罰だろうし
かぐや姫の場合は月の監視で不幸になるように誘導されてた
地球人からしたら罰じゃなくても月人からしたら立派な罰だろ、姫の罪と罰ではないんだよ
だから重要なテーマだと勘違いして考察しちまうとおかしなことになるわけで
高畑はヤメロと言ったのはそういうこと
でも観客の何割かは罪と罰を考察する気まんまんで劇場に向かってる
たしかに 地球人とは価値観が真逆の月から見た罪と罰なんだよな
発想の転換というか頭を柔らかくして考えないと
言葉のイメージにとらわれて混乱する
天動説から地動説ぐらいの逆転の発想をしないと
罪と罰の意味も理解できない
月から見た罪と罰であり、なおかつ月の価値観が、
かぐや姫の「穢れてなんかいない」の一言で無効化される話
罪と罰にこだわると、突っ込みどころ満載なのは当然
個人的に罪と罰よりジブリ史上最高の絶世の美女というキャッチコピーのほうがとってつけた感がひどい
かぐや姫は別に美人になりたかったわけでもないし
美人という風に品定めされたり対象化されるのが嫌だった
かぐや姫を1人の人間として描くというテーマから完全に乖離してる
確かに
初めてみた時にまずあの絵が動くことに驚き、ラストのお迎えのシーンで度肝を抜かれたわ
アニメなんてあまり見ない方なんだが、こんなに素晴らしいアニメが見れるのか!!と感動した。
涙よりも先に完成度の高さが素晴らしくて最初は涙が出なかったよウルッとは来たけどね・・・
地球に落とすだけが罰なのか
それとも地球で不幸のどん底に落とすのが罰なのか
月は要所要所で姫に干渉してきてたから
やっぱり意図的に不幸にするつもりだったんだろうな
仕送りとか善意で干渉してたとすると
姫は地球で快適に暮らせてしまうから逆効果になるし
はじめから不幸になるとわかっていて金や衣を与えたと考えないと矛盾する
断ったり嫌すぎて卒倒したりした女の子は多かったらしい
今の感覚では拉致監禁に近いし親に売られるようなもんだ
現実に死ぬほど辛かった人がいたんだし
その気持ちを想像すれば甘えなんて言えない
少なくとも当時よりはいろんな面で恵まれていて自由もある現代人よりはよっぽど気持ち的にしんどかっただろう
うーむどこに感動すればいいのか全然わからなかった。動物大好きな型破りな女の子、好青年・少年とのピュアな恋、人口と自然と生きろ、みたいなジブリお家芸に竹取物語をはめたという趣。父親の自己満足がしつこい。絵本のようなアニメーションは見る価値があった
かぐや姫の物語、少し退屈。話は普通に竹取物語で目立った変更はない。映像的に派手な場面は予告編が全て。
0043見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/07/07(土) 19:54:30.80ID:yvSvmHDI
たしか原作でも月に帰るってわかるのはかなり後だぞ
あと求婚エピソードについては石作の軽口でも
姫の心を半分いいあてたことになってるから
あれは最後の方に回さないと意味がないんだろうな
宝物ではなく真心が〜っていう
それすら嘘だったってわかるのが残酷だが
逆にそれぐらいじゃないと月を呼ぶ必然性がなくなるから
うまく並び替えたなぁと思う
感想 嫌なとこ
・赤ん坊がケツ丸出しすぎ(おしめを替えたって途中で言うけど、
この映画の赤ん坊全員丸出し)
・姫見つけた直後のジジイの反応が、キモオタのようで実に不快
・出てくる男がキモ男オンリーで実に不快
物語を引き伸ばし過ぎ。宮崎アニメやほたるの墓に比べると大分薄い
姫は良い子なんだけど、ちょい生活が根暗
絵も物凄く綺麗ってわけじゃないし… 古都の華やかさが全くない;

・いいとこ
ただあの〜両親愛と自然愛、「生きてるって感じたい感」は伝わった
教育係の女性は仕草も話し方も嵌ってた 貴族って感じ
クソみたいな生活でも、
天から迎えが来て、スッと全てを忘れてしまうのは悲しいなと思った
人間どうせ死ぬから、生きてる感大事にして、ごまかさず生きろ!と
姫が言っている
原作でもかぐや姫は大人になるまでへんげの者=別世界の人間だと自覚してなかった
映画では宴の席で「バケモノみたいだったりして」と言われてショックを受ける
それまでも捨丸に「また大きくなった 遠くにいってしまう」みたいなことを言われてるし
(そのときは「なんでそんなこと言うの?」とまったくピンとこない感じだが)
だんだん自分は普通じゃないと自覚してきて「バケモノ」と言われたときにハッとわかってしまったんじゃないか?
0044見ろ!名無しがゴミのようだ!
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2018/07/19(木) 23:36:08.32ID:YAyrPBFx
アンチが暴れているようなのでかぐや姫の素晴らしい点をあげていこう

まず和歌の使い方が
『万葉集』巻十六の第三七九一歌には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌がある。
で、竹取物語の作者(平安時代前期の人)はおそらく、その万葉の頃(759年まで)を参考にしながら、竹取物語を作ったと思われる。
んで、竹取物語は五人の貴公子のエピソードのラストに「○○の語源は〜〜なのです」
って入れるなど、本文はかなり文芸としてテクニカルに作ってある。
駄洒落というか、掛詞の手習いのような感じで書いている。
ですが、割と作中の和歌のレベルは低く
そんなに掛詞や枕詞などの技巧は使っていない。
一番テクニカルなのがかぐや姫が中納言に宛てた
「年を経て 波立ち寄らぬ 住の江の まつかひなしと 聞くはまことか 」
くらいでしょうか。
作中の設定時代が万葉時代なので、それに合わせているのか素直な歌が多い。
で、作中の人物も平安時代よりはちょっと古めのメンタリティで貴族も割と単純に生きている感じがする。
対して、アニメ。
天女の歌「まつとし聞かば今帰り来む」
在原行平(818〜893)「古今和歌集」だーーー。
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」(小倉百人一首16首)
万葉じゃないなあ…。っていうか、迷い猫のおまじないじゃないんだからさあ…。
原作は平安時代の視点から万葉の奈良時代を「今は昔」と言って見据えて、
素直な歌を載せつつも本文はテクニカルな語源駄洒落を入れて、
「ああ、今は昔のような素直な歌は減ってしまったなあ。
時代が変わってしまったなあ…。
昔は素直に呪いを信じていたのに、今の俺はこういうシニカルな宇宙人SFを書いちゃってるんだよなあ…。
夢が無くなったなあ…。末法だなー」
と時代の移り変わりを月に託してじんわりと描写したのがとても”あわれ”なんですが。
まあ、天女は未来人だから古今和歌集でもいいんですかね・・・。
まあ、アニメ版は平安時代が舞台ですからね。ていうか、作曲・高畑勲、楽器・初音ミクだし・・・。
未来感を出したかったんだろうか・・・?
ラストの女童の
「せんぐりいのちがよみがえる〜〜〜」
で翁と媼がはっと目を覚まして天人に対抗するのは笑うしかない。
なんで、原作にないオリジナルキャラクターで何の説明もない単なる下女に過ぎない女童が
天人の洗脳に屈しないで歌を歌っていられたのか?は???
ふざけているのか?
「ヴァン・ダインの二十則」端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。
その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
あーーーあれですか?
純粋な子供には汚れない純粋なパワーがあるっていう理屈ですか???偉いねえ〜〜〜???
っていうか、かぐや姫が成長するにつれて汚れてしまって
捨丸も別に家庭を持ってっていう時間経過を描いているのに
なんで下女の女童は純粋な子供のままなの???幽霊なの???
節子なの???かぐや姫よりもヤバい存在だろそれ!
あー、あと、原作でのかぐや姫は竹取の翁と媼に「老後の面倒を見てやれなくて哀しい…。
月の都の人たちは老いることを知らないので、老いた親の面倒を見るということを分かってくれないんです…」
(親たちの顧みをいささかだに仕うまつらで、まからむ道も安くもあるまじき。)
(かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。
さる所へまからむずるも、
いみじく侍らず。老い衰へ給へるさまを見奉らざらむこそ恋しからめ)
って言う。
原作ではかぐや姫の成長とともにおじいさんとおばあさんの衰えも描いている。
(設定年齢は50歳から70歳)
アニメではおじいさんとおばあさんはずーーーーっとおんなじくらいおじいさんとおばあさん。
原作の方が老人介護とかに踏み込んだ描写があるよね。
その点、∀ガンダムのロランはディアナ様を介護していて偉いよなあ…。
0045見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/07/20(金) 21:01:07.26ID:0j+MVFoF
絵柄が独特ですよね。
でも、この作品自体が昔のお話を扱っているだけあって、作品の雰囲気にすごくあっています。
かぐや姫が満開の桜の木の下でうれしそうに笑うシーンなんかはすごくきれいだったんですが、お気に入りは姫が走り去って行くシーンです。
今までの色々な感情がドバっとあふれ出したあの表情。
着飾っていたお着物を脱ぎ散らかしながら走っていく場面はとても印象的です。
林の中を全速力でかけていくときなんか、もう人の形をしているのかってくらいの作画。
でも、だからこそがむしゃらに、ただ無我夢中でそこから抜け出して山に帰りたいという気持ちが伝わってくるように思いました。
なんとも力強い映像でしたよね。
それとは逆に、つらいことなんて下痢便以外なんにもない月からのお迎えはとてもやわらかい線で描かれていました。
苦しみなど無縁な月の住人たちは、なんとも陽気な音楽を演奏しながらやってきます。
なぜお釈迦さまなんだろうと思いながら、悲しいシーンなのにぽけーっと観てしまいました。
0046見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/07/21(土) 15:46:10.83ID:OOHRuzZp
具体的に不満点を指摘するために、いやいや見返してみたが、
かぐや姫が「自分はにせもの」と悩むところと、
それが実は「本物の月の人」とわかって、
帰らないといけなくなったというプロットが噛みあってない。

具体的には、以下のような流れがあるが……
A「自分はにせものと悩む」

B「自分は月の人と悟る」

C「月に帰らないといけなくなったと悩む」

D「月に帰る」


Dでは「育ての親に感謝する」が無く、Bも唐突に台詞で言うだけで何のドラマも無い。
はっきりいって、破綻したプロットだ。

セオリーでは、自分は本物の月の人と悟った時点で自信を取り戻し、明るく元気になるというシークエンスが必要。
そして、Cでまた落ち込むという流れでドラマの起伏が生まれるのだ。
セオリーでは、なんとか月に帰らずにすむ方法を探すものだが、この映画の出した答えは「不倫」。
どうなの?それ。それでいいの?本当に?

高畑は、ドラマ作りが本当に下手だなあ。
というか「生きたい」とかいいながら、「自分が大好き」ってシーンを描こうとしないんだからダメなんだよ。
常に自分が嫌い状態で、生きたいとか自然が好きとか言っててもダメなんだよ。
高畑は、どうもかぐや姫が月に帰るということを
死=成仏=天国に行くことと捉えているようだ。

月に帰らなければいけないことを悟るということは、すなわち死期を悟るということになる。
死ねば天国でなんの穢れも無く幸せに暮らせるから悪いことじゃない、でも現世で生きていたい、という葛藤を、
この映画では描いているようだ。
で、死は避けられないこととして、ラストは涙の別れとなるというわけか。

あのね。それじゃあダメなのよ。

そういうプロットの映画があるとして、どんな観客に見せたいわけ?
実際に死期が近づいてるガン患者とか現実にいるわけでしょ。
そういう人に共感させたいの?
死は避けられないから、別れは辛いね、悲しいね、ってことを言いたいの?
死んだらこの世のことは忘れられるから、極楽浄土は楽しいところだからと、気にするなってこと?

それっていったい何十年前の映画だよ?
昔はそんな映画も成立してたかもしれないが、今は違うんだよ。
人が死ぬときは、やっぱり周りの人に感謝して死ぬものでしょ?
死者を送る人も、ただ悲しむだけじゃなくて、君のことは忘れないとか、感謝の気持ちを述べるはずだ。
そのほうが、実際に人々を勇気付けたり慰めたりできるんだよ。
そうやって映画芸術のシナリオは洗練されてきたんだよ。

死者への尊厳というか、誇りをもって死を受け入れるというか、
死別は悲しいものじゃない、という意識の持ち方をしようという方向性で、
現代の映画はシナリオが練られているわけ。
映画を作るなら、最低限それくらいの常識は身につけようよ。な?高畑。
0048見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/07/21(土) 18:32:57.68ID:H6ExlF7m
あの明るくて空気の読めないメロディに
「仏は人の心がわからない」っていう俗説をなんとなく思い出した
(完全に悟ってしまった「仏」は、もういろいろ超越してしまい
人間の卑小な欲望とか、苦しみとか哀しみからは遠い、逆に言えば人間の心がわからない
だからお釈迦様は、あえて完全に悟る前の姿に留まり、人間の悩み苦しみに同情を寄せた
上で救う活動もしている、それが「観音」である…っていう解釈)
「火の鳥」みたいなもん?
人間が泣いてもわめいても「どうかあともう少し」って懇願しても
全然意に介さず、「はい時間切れ―」って連れて行く感じが 。。。
諸行無常っていうか、やっぱ「死」の例えなんだろうねアレ
お迎えのシーンはなんでこんな場違いな明るい曲が??
と唖然としたけど
後からあそこは天人達の考えからすれば
清浄月に復帰できるというおめでたい場面で、
だからああいう明るい音楽なのかな?
と解釈した。
迦陵頻伽(かりょうびんが)という魚をイメージしたんだろう
浄土に住み如来の言葉を奏でるといわれる半魚人
だからお迎え=死という解釈は間違ってない
0049見ろ!名無しがゴミのようだ!
垢版 |
2018/07/22(日) 19:39:22.52ID:Ky7PJI5S
かなり仏教よりに描写されてるから、
天女やかぐや姫始め、あの世界が六道の天だとすると、天の住人は長生きだけど、
天には釈迦みたいな悟りを広める人も、修行する機会もないから、最期は地獄の
16倍の苦しみを味わったあげく、他の六道に輪廻転生するのは免れない。
翁も媼も捨丸も輪廻転生を繰り返すだろうし、姫もそう。
だから、「いつかまた会える、命の記憶で」ってことらしい。
高畑はガチガチの左翼=唯物論者だから
月に還る=死ぬってことなんだろうけど仏教的解釈が可能なように作ってあるんだろうな
月の連中は死人とか仏じゃなくてあくまでも天人
かぐや姫も天人五衰という地獄の苦しみを経て死んだら地球にまた転生できると思う松本
私的にはもっと輪廻ネタは押し出した方が良かったと思うけど、仏教とはいえ宗教色押し出すのは高畑的にはアレだったのかな
ハイジでも原作にあったイスラム教色ほとんど消して
ピチャピチャした平面しゃべりの声優と棒読み俳優が一人もおらず、声は安心して楽しめた。
最後、捨丸と飛んでるのはセックルの比喩と思われ。
自分の人生がみじめだからといって不倫してんじゃねーよ。
不倫で生きる喜びとかふざけんな。
金と地位に目がくらむじいさん。
メンヘラで偽物の箱庭に逃げ込む娘。
人間の個性を殺し型にはめようとする教育係。
生きるために泥棒する男。
噂の美女に鼻の下をのばす馬鹿男ども。
汚れた人間界がよく描かれていた。
まともな心を持ってるのはばあさんだけ
イデオロギーうんぬんいうやつは
『太陽の玉子ホルスの大冒険』をいっぺん見てこい。
どんなに「らしい」表現があっても、高畑さんは全部超越してることがわかる。
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