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「【『もののけ姫』冒頭10分の完全攻略! 2 】 アシタカの受けた “呪い” の正体」
さて、タイトルが終わると、主人公のアシタカが登場します。
娘たちから「村の外れで異変が起きている」と聞いたアシタカが見張り台に登ると、村の境界線である “土塁” という石垣を破壊して “タタリ神” が現れます。
ここで描かれるタタリ神は、こんな感じなんです。
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これは、上から見た構図なんですけども。このタタリ神というのは、足が何本も生えていて、地面の上をすごい勢いで這い回っています。
こう見ると、案外、足が長いんですよね。
この、巨大なイノシシに蛇とかミミズのような妖怪が纏わりついたような状態がタタリ神なんです。
6本足のようにも8本足のようにも見えるのはなぜかというと、このタタリ神が “土蜘蛛” を表しているからなんですね。
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土蜘蛛というのは何かというと、もともとは、天皇家に従わなかった豪族や土着の部族に対する蔑称なんですよ。
「あいつらは土蜘蛛だ!」みたいな悪口を言っていたんですね。
そんな、天皇家の下に服(まつろ)わなかった人たちは “日本を魔界にしようとする怪物” として、源頼光によって倒されたという伝説が残っています。
つまり、宮崎駿としては「蝦夷族の王子アシタカが巨大な蜘蛛を退治した、という話が、伝聞を続ける内に歪んでしまい、権力者たちに利用され、源頼光の土蜘蛛退治になった」という世界を描いているんです。
こういった解釈は、宮崎駿としては一流のジョークのつもりで描いているんですけど。
残念ながら、このジョークも高級過ぎて、僕らには伝わらないわけですね(笑)。
この『もののけ姫』を作った頃から、宮崎駿は “高畑勲っぽく” なっていくんですよ。
つまり「誰にも分からなくてもいいから、とにかくやっちゃうよ?」と。
それはなぜかというと、あまりにも分かりやすく作ってしまったら、自分の中から「何かを作りたい!」というエネルギーが無くなってしまうことが分かったからなんですね。
なので、この頃から宮崎駿は、意地悪ということでもないんですけど「やりたいことは全部やるけど、その代わり、全部は説明しない」という作り方をするようになりました。 それ以前は逆だったんですよ。
『天空の城ラピュタ』の頃は、自分のやりたいことを我慢してでも、全てを分かりやすく描こうとしていたんです。
だから、ドーラも「こいつを連れて行った方が便利かもしれないねぇ」なんて、自分が思っていることまで独り言で喋っちゃうんですね。
こういった分かりやすい表現を多用する代わりに、アニメの中で描いて良いものと、描いてはいけないものとをハッキリ分けて作っていたんです。
ところが、『もののけ姫』からは「描いていいものや描いて悪いものなんてない! 子供達には全部見せなきゃいけないんだ! この世の中にあるエグいものも、全部見せるんだ!
……ただし、誰にでもわかるようには描かない!」というスタンスになったんですね。
なので、この土蜘蛛の描き方も、ちょっと分かりにくくなってます。
こういった要素も、宮崎駿としては「土蜘蛛といえば、東北地方の蛮族のことでしょ?」とか、「平安絵巻の中に蛮族退治のメタファーとして利用されているんだから、みんなわかるでしょ?」
みたいに、ウィンクするように見せているんですよね。
さて、そんなタタリ神に襲われた女の子たちを助けるために、アシタカは弓でタタリ神を退治してしまいます。
最初に目をバーンと射て、その後、眉間をドンと一発射て、殺してしまうんですね。
その結果、タタリ神の呪いは、アシタカの右腕に蛇のように巻き付いて、真っ黒なあざを残す。
そういう話が、冒頭3分くらいで、すごくスピーディに描かれます。
その後、村の長老の “ヒイ様” と呼ばれるお婆さんが現場に駆けつけてきます。
この「ヒイ様」というのは「お姫様」という意味ですね。
そして、ヒイ様が、ミミズとか蛇みたいなヌルヌルしたものが抜けて、今や巨大なイノシシの形に戻った神様に「いずこよりいまし荒ぶる神とは存ぜぬも、
かしこみかしこみまおす。 この地に塚を築き、あなたの御霊をお祀りします。 恨みを忘れ鎮まりたまえ」と言うんですね。
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つまり「あなた死体の位置に、そのまま巨大な墳墓を作って、ずーっとあなたの魂にお祈りを捧げます。だから、これ以上は祟らないでください」と言うわけです。
すると、死にかけた大イノシシの神様は、いきなり喋りだすんですよ。「穢らわしい人間どもめ。我が苦しみと憎しみを知るがよい」って。
そして、そのままドロドロと消えてしまう。 この時の、イノシシ神の声は、メチャクチャ良いんですよね。
これは、普通のマイクの他に、この神様の声を担当した俳優さんの喉にマイクを貼り付けて、喉の震えも同時に録音して、声と喉の震えの音とをミキシングして作っているそうです。
なので、その息遣いも込みで、ものすごく不気味な感じに「穢らわしい人間どもめ」という声になっています。
イノシシの神様は、そう言うと、ドロドロと溶けてしまうんですけども。これもまた、いやな溶け方です。
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溶ける時に、ニヤリと笑ってるような歯が見えるんです。
ここら辺の表現も、宮崎さんは全好調ですね。
宮崎さんは、Aパートから作画を開始しているので、序盤のAパートBパートの描写は、本当に「美しい」としか言いようがないんです。
前半1時間は、本当にすごい作画です。
イノシシの神様は、そのままは溶けて骨だけになり、最後の「呪ってやる!」という呪詛の言葉によって、アシタカは呪いをかけられたことになります。
さて、その日の夜、村の社(やしろ)の中で、会合が開かれます。
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この社の内部を見てもらうと分かるんですけど、部屋の壁の中央の部分に出っ張りがあります。
これは何かというと “御神体” なんですね。
この御神体に張り付くように、高床式の社が建てられているんです。
この出っ張った岩の正面の位置に机があるのわかりますか?
すごく低いテーブルがありますよね?
このカットでは、アシタカの影になっていて、ちょっと見えにくいんですけど。
つまり、普段、神様に仕えているヒイ様は、この岩に向かって座っているわけです。
だから、この岩が御神体であることがわかります。 このシーンの最後にアシタカが髷を切り落とすシーンがあるんですけど、そこでも、髷を切り落とした後、この机の上に置いて、一礼して去っていきますから、やっぱりこれが御神体だとわかるんですね。
なぜ今、この御神体を説明しているのかというと「この村は岩を祀っている」=「巨石文明がまだ残っている場所である」ということだからです。
実際に、日本でも、青森あたりで “ストーンヘンジ” のようなものが出土してます。
なので、アシタカの村が、今で言えば東北のかなり奥の方にあるというのがわかります。
そして、彼らは “大和朝廷に服(まつろ)わぬ人達” なんですね。
日本人が巨大な岩を祀っていた時代というのは、仏教渡来の遥か前なんですよ。
仏教のように、人間が作ったものであったり、人そのものであったり、修行した偉い人を祀っているのを拝むというのは、縄文的な世界から言うと邪道なんですね。
「本当にすごいものは自然の中にあるものであって、人間程度のものを拝んでどうするんだ!?」とか、「人間が作った程度のものを有難がってどうするんだ!?」というのが、縄文人の世界観なんです。
で、ありがなら、ものすごいカッコいい形の土器とかを作るという。
縄文人って、ちょっと独特のメンタリティを持っていたんですけど。
なので、彼らは巨石を神体として拝んでいるんです。
そして、部屋の奥にも、縄文土器が見えます。
この巨石文化という以前に、ここに縄文土器があることからもわかる通り、彼らは “縄文人の生き残り” なんですね。
ちょうど『もののけ姫』が作られていた1980年代から90年代に掛けて「アイヌであったり、もしくは東北の方に住んでいた蝦夷という一族達は、縄文人の生き残りではないか?」という説が、日本の考古学界では騒がれていたそうなんです。
これについては、僕もよく分からないんですが、現在では主流の説ではなくなっているそうなんですけども。
宮崎さんは完全にそれに乗っかって物語を作っています。
なので『もののけ姫』というのも、縄文人の話だと思ってください。
??
さて、「傷を見せろ」と言われたアシタカが、包帯を取ると、腕の傷がこういうふうに見えます。
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この傷痕の残る腕を見せるカットでは、バックにこれ見よがしに縄文土器が描き込まれています。
この縄文土器を見せることによって「はい、彼らは縄文人ですよ」と分からせているわけなんですけど。 その他に、もう1つの機能があるんです。
このタタリ神によって出来たアシタカの腕のウネウネしたアザと、後ろの縄文土器の模様、そして、最初にタタリ神が出てきた時に彼の身体中を這っていた蛇のようなウネウネは、どれもよく似ているんですよ。
そして、クライマックスに出てくるデイダラボッチも、身体の中に縄文的な模様がずっと動いています。
このデイダラボッチの設定資料を見ると「夜空が歩いてるようでもあり、歩く縄文土器のようでもある」と書いてあるんですね。
何が言いたいかというと、呪いを受けたアシタカの腕について、映画を見ている僕らは「これによってアシタカが苦しんでいる」とか、「これのせいでアシタカはもうすぐ死ぬ」と考えて見てしまうので、どうしてもそっちの方に引っ張られてるんですけども。
この、土器と一緒に見せられているアシタカのアザの模様というのは “縄文の神々のサイン” なんですね。
つまり「アシタカは呪われたと同時に、神々によって聖痕を与えられた」というサインでもあるんです。
彼は、この呪いによって、もちろんタタリ神にもなるんですが、ものすごい力を得ることもある。
アシタカは、このあざを受けてから、おヒイ様から「アシタカヒコ」と呼ばれるようになります。
この「ヒコ」というのは、古代の王子の尊称です。
ヒイ様というのは、この国の “宗教的な” 中心です。
要するに、この呼び方は「アシタカヒコこそがこの国の将来の長となる人物である」と認めているということです。
つまり、『もののけ姫』とは「その国の将来の王が、呪いであり聖痕でもあるものを与えられた」という話になっているんです。 最後、アシタカがたたら場で暮らすって言っていたけど
これはエボシ御前のいるたたら場?それともふるさとの村? 「【『もののけ姫』冒頭10分の完全攻略! 3 】 アシタカが村を追放された本当の理由」
呪いをかけられたアシタカは、村を出るしかなくなります。
というわけで、アシタカは自分の髷を切り落とします。
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アシタカの村の男達はみんな頭に髷を結ってるんですけども、これを切ります。
……もう「みんな何度も何度も『もののけ姫』を見てるでしょ?」という感じで喋ってるんだけど、大丈夫かな?(笑)。
はい、髷を切るシーンなんですけど、すごく小さい刀を使っています。
たぶん、この小さい刀が、この国に唯一ある “鉄” なんですよね。
おそらく、彼らは石器文化と青銅文化のちょうど間くらいの文明水準なんです。
アシタカが、後に旅に持っていく大きい刀みたいに見える武器や、女の子たちがタタリ神と戦おうとした時に抜いた大きい刀は、全て青銅製の “山刀” といわれるものです。
山刀というのは、山の中を歩く時に、邪魔な蔦を払うための杖と刀の間みたいなものです。
彼らには、そういった青銅文化しかなく、鉄というのは、ごく小さいものしか持ってないはずなんです。
なぜかというと、村人のみんなが刀くらいのサイズの鉄器を持てるほど膨大な鉄を製錬しようとすると、あの土地の近くに森なんか残っているはずがないからです。
鉄というのは「5トンの鉄を作るのに山1つなくなる」と言われるくらい、木を切らないと作れないものなんですよ。
なので、彼らが住んでいる場所からすると、鉄というのは、砂鉄を低い温度でなんとか溶かして、形にして、研ぎ出した、こんな小刀しかないのでしょう。
そういう文明だと思ってください。
アシタカは、そんな鉄の小刀で髷を落とします。
この「髷を落とす」ということは、「一族でなくなる」=「二度と帰れない」という意味なんですね。
そして、なぜ、彼がそうしなければならないのかを、ヒイ様が説明します。
ここでは、ヒイ様の表情込みで見てください。 http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613057/7104de551b48dd81bd099e7b10a985010ceb815e.png
ヒイ様は「西の国で何か不吉なことが起こっている。その地に赴き、曇りのない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ」と言います。
この言葉を聞いたことで、アシタカは西に行こうと決意します。
同時に、僕ら観客も、なんとなくそれで納得させられるというか、騙されてしまうんですね。
そもそも、なぜ、アシタカは村を去らなければいけないのか?
??
なんでヒイ様は西に行かせようとしているのか?
いや「呪いを解く方法が見つかるかもしれぬ」って言ってるんですけど、それって何の根拠があって言ってんのよ?
そんなふうに思うんですけど。
これね、この映画の最初の大事なポイントなんです。
アシタカは呪いを受けて、右腕にアザが出来た。
この毒が行く行くは骨にまで達して、彼は死んでしまう。
この死から逃れるために、西に旅をする。
これが『もののけ姫』のストーリー展開だというふうに、今の今まで、僕らは思わされているんですけど。
だけど、それだけなら、そもそも追放する必要なんてないんですよ。
だって「タタリ神が死んだ場所には塚を築いてちゃんとお祀りします」って言ってますから。
いやいや、そんなことはない。あの怪物は死ぬ時に「死んだ後も呪ってやる!」と言ったじゃないか、と思うかもしれませんけど。
ところが、この映画の中には、犬の神様とか、イノシシの神様とか、いろんな神様が出てくるんですけども、死んだ後で祟った神様は誰1人としていないんですよ。
この映画の中に出てくる神様というのは、たしかにすごい巨大な力を持っていて、身体も大きいんですけど、それだけなんですね。
テレパシーみたいな超常現象みたいなものは一切使えない。
まあ、唯一、シシ神だけが、ちょっと不思議な力を持ってるんですけど、他の神々は、そんなものを持っている描写がないんですよね。 もちろん「死んだ神々が、死後も続く呪いを残す」なんて描写も1つもありません。
乙事主もモロも、この映画の中で死にますけど、死んだらそれっきりです。
つまり、死後の呪いなんていうものは、この物語の世界にはないんです。
じゃあ、なぜアシタカは追放されたのか?
それはもう「ヒイ様が追放したいから」なんですよ。
なぜ、アシタカに呪いに関する話をする時のヒイ様が、ポーカーフェイスで語っているのかというと「演技しているから」なんです。
村人もアシタカも気がついてないんですけど、ヒイ様の心の中にだけ、ちゃんと理由があるんです。
それは何かというと、アシタカの呪いの正体というのは「死ぬこと」ではなく、「アシタカ自身がタタリ神になること」なんですよ。
アシタカは、これからゆっくりタタリ神になっていくんですね。
ついさっき村を襲った怪物と同じように、自分の痛みや苦しみに段々と耐え難くなり、自分の運命を呪うようになる。
たぶん、襲ってきたイノシシ神も、最初はそれを理性で抑えていたんですけど、徐々に徐々に、タタリ神になってしまった。
それと同じように、アシタカは次のタタリ神になる運命を受けてしまったんですね。
アシタカは、この後、戦に巻き込まれた時に、普通に弓を構えて矢をパーンと射っただけで、相手の侍の両腕ごと落とすほどの怪力を見せます。
それどころか、次の矢を射ると、相手の首がポーンと切れるんですよ。
これにはアシタカ自身も驚いているんですけど。
これは、この時点で、彼にはそういうパワーが与えられているからですね。
そして、それは聖なるパワーであると同時に呪いのパワーなんです。
呪いのパワーはアシタカを死に至る苦しみへと誘い、そして、聖なるパワーは彼の力を無限大に膨らませて行く。
アシタカは、タタラ場に行った時にも、傷ついたサンを担いで「どいてくれ! 俺は行くんだ!」と、本来は何十人掛かりでやっと開けられるような巨大な木の扉を、
1人で、それも片手だけでグーッと押し開けます。ここで使うのも、やっぱり呪いを受けた右手なんですよ。
??
これは何かというと「アシタカの中で、怒りとか悲しみとか不条理なものへの何かが吹き出すと、無限のパワーが出てくる」ということなんですね。 僕らは、こういった、アシタカが無限のパワーを、ある程度、意のままに使っているシーンしか見ていないので「そんなものか」と思ってしまうんですけど。
あれは明確にアシタカが段々と怪物になっていく途中を描いているんですね。
実は、この映画は、そんな「主人公のアシタカは、最後にはやっぱりタタリ神になってしまうのか? それとも、
人間のまま生きて行けるのか?」という葛藤が、もう1つの地下構造として仕込まれているんです。
だけど、それがなかなか伝わらない。
やっぱり僕、わからなくなっちゃった理由の1つは、タイトルを『もののけ姫』にしちゃったことにあると思うんですよ。
なので “恋愛モノ” に見えちゃうんです。
でも、違うんですよ。あれは、本来は『アシタカせっ記』というタイトルの、アシタカの物語なんですよ。
アシタカの心の中には、絶望や怒りというのがあるんです。
だけど、表面上は、無表情だし、すごくジェントルに描いてあります。
そして、こういった「礼儀正しい態度とは裏腹に、彼の中には深い絶望や怒りがある」ということは、あえて今回は描かないと、宮崎駿は言ってるんですね。
描かない理由は何かというと、映画を作っている最中に、司馬遼太郎と対談した時、宮崎さんが彼の言葉に感銘を受けたからだそうです。
「そうか! 弱音を吐くような人間は “弱虫” なんだ! 俺が庵野の『エヴァンゲリオン』が嫌いな理由がわかったよ! 僕は可哀想だ、僕は可哀想だって、あんなに泣きごとを言いやがって!」と。
司馬遼太郎から「本当に不幸な人間は、むしろ礼儀正しくなる」と言われて、宮崎駿は、本当に感動したそうなんですけど、その影響なんですね。
なので、アシタカの内面は台詞になって表れないんです。
『ラピュタ』のドーラみたいに「この方が便利かもしれないねぇ」みたいな独り言を一切言ってくれないんですね。
その結果、「アシタカがどんどん怪物になっていく」という描写も、表現としては怪物じみているんですけど、僕らとしては、スーパーヒーロー的な良いことみたいに思っちゃうんです。
だけど、それは違うんですね。
アシタカが、指先ひとつで相手の刀をグニャっと曲げて、最後は親指と人差指だけで刀をへし折るシーンとかも出てくるんですけど。
あれは完全に「怒りによって力が暴走していって、モンスター化している」という表現なんです。
最初は、アシタカも、落ち着いて自分の心をコントロールしていた。
「村から出て行け」と理不尽なことを言われても「わかりました」と言って、ため息を吐くくらいだったんですけど。 映画の後半では「興奮すると、どんどん力が暴走して、自分でも制御できなくなる」というところがハッキリと出てきます。
そして、おヒイ様は、あの村でただ1人それに気が付いているんですね。
怖いのは死んだタタリ神じゃないんですよ。
おヒイ様にとっては、これからタタリ神になり、人間でなくなってしまうアシタカこそが、一番怖かったわけです。
だから「アシタカは良い子で、たぶん、うちの村を継いで良い王になってくれるだろうけど。しかし、もうすぐ彼は、
痛みと恨みと自分に降り掛かってきた不条理に対する怒りで、怪物になってしまう。その前に村を追い出そう」と考えたんですね。
その上で、さらに「このタタリ神となる若者を、我々の村にタタリを押し付けた西にある大和の王の元に送り込んでしまおう」と考えています。
この時代の縄文人の考え方では、タタリというのは、誰かに返さないといけないものなんですね。
こういうのを「忌み返し」と呼びます。
何か忌むことをされた場合は、それと同じように相手を忌むことで返すのが、未開部族の間のルールとしてあるんです。
平安時代になってくると “式神返し” とか、もう少し体系化されるんですけど。
なので、おヒイ様は、すごいポーカーフェイスで “戦略兵器” としてのアシタカを、西の大和の国へと送りつける忌み返しを発動させたわけですね。
でも、アシタカも村人も、これには全く気が付いていません。
なので、アシタカは「西に行けば呪いを解けるかもしれない」と信じているし、「この村に、これ以上、呪いが感染らないように」と思ってしまって、自分自身が呪いそのものであるとは気が付いていないんです。
数週間か数ヶ月後には、アシタカもまたタタリ神となって、変な蛇みたいなウネウネしたものが身体にいっぱい巻き付いて、
西の国を襲うことになるだろうとは、わかっていないわけですね。
劇中には、たぶん、おヒイ様と同様に、それに気が付いていたかもしれない人物がもう1人出てきます。
それが、ジコ坊という、もう少し後で出てくる、なんかちょっと複雑な、ワケアリな設定のおじいさんです。
この人も、最初にアシタカに会った時「こんな鉄の弾がイノシシに入っていました。そのおかげで、私は呪いを受けました」と言う彼をしばらく見て、
急に「ここから西の端のもっと西の方に行くと、山の中にすごい神がいる。
その神に会えば、君の呪いもなくなるかもよ」と言うんですよね。
これはつまり「ジコ坊はジコ坊で、デイダラボッチという大怪物に、このアシタカという大怪物をぶつけることによって、退治しよう」と思ったからでしょう。
このように『もののけ姫』という作品は、個人個人が持っている思惑とか戦略とかを、あえてそのまま表現せずに、あくまでもアシタカの視点だけで見られるように作っているので、そこら辺がなかなか分かりにくくなっているんです。 >>610
エボシのいる村
故郷の村にはもう一生戻れない もののけ姫はエヴァの旧劇と同じ頃に放映されたんだっけか
どっちも作品のシリーズ史上最もグロく子供から大人まで 容赦無くトラウマを植え付ける劇薬映画という点では同じだな
だが、そこがいい >>584
とはいえこれくらい説得力のある解説をここまで分かりやすく語れる評論家が他にいるか?と言われるとねえ…。 >>584
岡田斗司夫は言ってることめちゃくちゃな時あるけど、バカに合わせて丁寧に論理立てて喋るから聞き手が岡田斗司夫の意見を取捨選択しやすいのは良いと思う >>618-619
セクハラインチキデブ本人ですか
デマ製造器さっさとジブリに訴えられろ 村内会議の席でアシタカが髷を自ら断髪した時に、同席した村の世話役らしきオッサンが静かに涙流したの見りゃ、呪いが解けたからじゃあ帰りますってのはリームーな問題なんだな、っつうの察せないのか……… そもそもラストシーンでもまだ右手に痣が残ってる時点で、呪いは完全には解けてない。
神殺しの片棒担いだ代償として帰るの諦めて呪いと折り合いつけて生きていくことにしたんだろ。 確かにうっすら痕は残ってたけどアザはシシ神が消してくれたんじゃないの?
アシタカが私に生きろと言ってくれた、って言ってるし
生きろ=死なない=呪いが解ける=アザは治った だと思ってた >>620
セクハラとデブはその通りだと思うが、インチキってどこ?
あんたが宮崎アニメに関してあいつより面白い評論書ければ信じてやらんこともないが。 「実はすごくエッチな『もののけ姫』の話」
では次は、“実はすごくエッチな『もののけ姫』”の話なんですけども。
村を追い出された後、アシタカは村の出口で自分を慕う少女・カヤに呼び止められます。
それでカヤは愛の告白をして「いつまでも、いつまでも、お慕い申しています」という事を言って、黒曜石で出来た小さいナイフをアシタカに渡します。
それでアシタカはそれを貰って、「私もだ、いつもカヤを思おう」と言うんですけども。
めっちゃイケメンの表情で、にっこり笑いながら言うんですね。
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それで「これからも、ずっとお慕いします」というのは どういう意味かというと、「生涯、他に誰とも恋をしません」という意味なんですね。
それで黒曜石の小さなナイフを渡されて、さわやかに笑うと。
で、女の人で、このシーンを、「アシタカのこういう所が好かん!」と嫌う人が かなりいるんですよ。
何でかっていうと、ここまで言われて、イケメンな感じで微笑んで、大切な黒曜石の小刀を受け取っておきながら、後でコイツは事も無げにサンに渡すんですね(笑)。
自分が次に好きになっちゃった女の子に。
同じ石田ゆり子が声優しているもんですからですね。
サンに、それも直に渡すんだったらともかく、犬を通して渡すんですよ。
「これをサンに渡してくれ」って言ったら、犬が「ガッテン承知!」って言ってサンの所に持って行って、そしたらサンが「まぁ!」って言って、その瞬間に女の顔になったりするんですけども。
それで「なんじゃ、このアニメは?」と、お姉さま方は怒るわけですよ(笑)。
確かに怒って当たり前なんですよ。
「私はまた時々 来よう」とか「来てくれ来てくれ」みたいな感じの事を両者が言うんですけども。
ラストでサンといちゃつく暇があるんだったら、呪いはもう解けたんだから、生まれ故郷の村に戻ってカヤに会ってやれよと。 「村に帰ってこんかい!」と怒る人が、ジブリの公式本にすら書いてあるんですね(笑)。
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『ジブリの教科書 もののけ姫』っていうジブリの公式本の、女性の研究者とかライターの人が「こういう所は許せん!」と書いてあるぐらい怒ってるんですけども。
ま、怒る気持ちは よく分かるんですけども、実はこのシーンは意味が違うんですね。
これは、すべて象徴なんですよ。
ここが宮崎駿が描く部分と描かない部分で、「必要な事はすべて描くけども、分かるようには描かない」というふうにやってる所なんですね。
村の外れに、夜中に女の子が忍んで会いに来て、そして自分の生涯恋をしない=貞操の印っていうのをくれるわけです。
これが どういう意味かっていうと、「二人は人目を忍んで○○○○した」って意味なんですね。
それで、その○○○○シーンを宮崎さんは描きたくないので、わざわざ「いつまでも自分は貞操を守ります」という小刀を渡す事によって、メタファーとして表現してるんですよ。
だから本当は、ここでカヤとアシタカは人目を忍んで○○○○しているので、カヤの中にはちゃんとアシタカの血筋は残っていて、それがあの一族の土面の形となって、アシタカ皇子の伝説となってかえっていくって話になっているんですけども。
宮崎さんは、こういうとき人一倍恥ずかしがり屋だから、描かないんすね。
それで、これは別のシーンなんですけども、『もののけ姫』の中にはもう一つ○○○○の話題が入っていて。
それはアシタカがサンに看病をされていて、傷が治って、何日も寝たきりの所から起きるシーンがあります。
岩屋の中ですね。
岩で出来た小屋みたいな所の中なんですけども。
アシタカがサンを見つめていると、サンは無防備な寝顔で寝ていて、オマケに足も見えているんですね。
それで、このシーンのコンテを見たときに、鈴木敏夫が「ピン!」と来て「これ、この二人は○○○○しましたよね?」ってふうに聞いたそうなんですよね(笑)。
そしたら宮崎駿って、こういう時には絶対に「いや、違う!」とか「そうです」って答えるんですよ。
「絶対に何か答えるんですけども、この件に限って宮崎駿は一切 答えようとしない」っていうのを、鈴木敏夫が凄く嬉しそうにラジオで言ってるんですけどですね。 いつも明確に「そうです」とか「違います」って言う宮崎駿が、こういう○○○○とかに関する場面だけは絶対に答えないと。
それで問い詰めると、「サンとアシタカがここで○○○○をしましたよね?」って聞くと、「そんなのワザワザ描かなくても分かりきってるじゃないですか!」って言ったそうなんですけども。
そういう事なんですよ。
宮崎駿が、今回の『もののけ姫』で取っている表現技法っていうのは、「カヤは夜中に会いに行く」というだけで、この部族にとっては「関係があった」と見なされるわけですね。
オマケにカヤは「連れて行って」とも言わないし、出て行くことに関してグズグズ言わないと。
それは何でかっていうと、「もう○○○○して、すでに子供を貰っているからだ」って意味なんですよ。
それでアシタカの血筋は残って、それはカヤが受け継ぐと。
なので、「そういう事もこのシーンを見て分からないようなヤツは、そもそも俺の映画が分からない」っていうね。
そんなモン、分かるハズがない(笑)。
僕は映画館で見ても分からなかったですし、VHSで見ても分からなかったですし、DVDで見ても分からなくて、今回のこの企画用にブルーレイでみて「あれ?」ってなって、「あ、そうか!」と。
それもやっぱり、あらかじめ鈴木敏夫がラジオで言っていた「サンとアシタカは、ちゃんと○○○○してる」っていうのを聞いた上で このシーンを考えると「あ、そういう意味なのか」というのが分かるように出来ているんで。
本当に必要な事は描く。
つまり、こういう部族で、別れで、夜に男女が会っているっていう事は、もう関係があったということだと。
だから “関係があった” という事実は描きたい。
しかし、それを表現はしたくないっていうですね。
この宮崎の描き方なんですね。
なので、この “アシタカ伝説” という、土面の所に「我らの先祖の偉大さ」みたいなものが刻み付けられているのは、それはカヤが血筋を残しているからであって。
宮崎さんも聞かれたそうです。
「何でアシタカは、もののけ姫のサンとイチャイチャするんじゃなくて、カヤの待つ村に帰ってあげないんですか?」と聞かれたそうです。
そしたら、「それは女性記者にも聞かれたし、アニメーターのスタッフの女の子にも聞かれたんだけども、そんなのは別に俺が描いてないだけだ」と。 「この映画の中で描いてないだけで、あの後でアシタカは村に帰ったかもしれないし、それどころかサンを連れて帰ったかもしれない」。
「サンを連れて帰って、カヤと会わせて、カヤとサンの両方を嫁にしたかもしれない」と言ってるんです。
「なんでかっていうと、それがこの世界だし、そういう話なんです」と。
「王族の話だから、そうなんです」っていうふうに言ってるんですけども。
やっぱり僕らは、「そういう事を言われてみりゃ、そうかな」と。
「あっ、古代日本の王だから、確かにそうかな」って思うんですけども、それを言われるまで思わないじゃないですか(笑)。
現代人の感覚で見てるから、「サンを連れて帰って、両方を嫁にするって何よ!?」って思っちゃうわけですね。
だから『真田丸』のなかで、「真田幸村って武将は、何人も何人も嫁がいて、側室がいた」って内容をNHKのドラマの中では一切それを描かないのと同じように、「描かなくても、分かっている人は分かっている」って描くのとの違い。
宮崎さんも、そこらへんは “そういう事” を描かないんだけども、「もしそこが気になるんだったら、アシタカは田舎に帰ったって事にしても構いません。 その時はサンも連れて帰って、嫁が二人という状態になったでしょう」というふうに言ってるわけですね。 でも何もカヤからもらったペンダントをサンにあげなくともよかったのでは
あれは完全に気持ちが移った表現だと思う アシタカのサンへの気持ちは単純な恋愛感情とは違うと思うがあの小刀あげたのは本当何故なんだろうな “エッチな”とか形容しちゃう段階でなんだかな、っつうw
>>632
自分の気持ちを込められる贈答品的な扱いが可能な体裁の良い物品を他に所持していなかったからじゃね?
あの状況じゃ「サンタソに相応しいブリリアントかつトレメンダスかつキュートなプレゼンツってなーにかにゃ☆」とかゆっくり考えてる余裕なんてないだろうし /i /{/'⌒'} }}Y/ / ,r-、ヽ, /
ノ、|、ヾ_,,ノ ノ ノ{ ヾ {^')) }フ/ / _/
\ヽ、 彡'`、、 'ー' ノ //",,゙ """ / ヽ
ヽ-、ミ‐-、、 、,r=‐'ー=、、,-‐'_ ヽ、 /ノ / 『味』 ウ・ こ
ミ/ ~  ̄ノ /\ /彡 "" |/ だ ソ・ の
/ ,' u ∪ ! ヽ | i、゙ー''"彡 /| ぜ を・ 味
、、∪ / ノ / _,,,...-‐‐ニ=,ノ,,/ ヽ、,,_ \ ,イ / | : つ・ は
ニ、=!, l_. レr=-ニ二、,,,.-'" ー、==-ヽ'"/ / ヽ : い・
、(・,)>ノ⌒ ∠,(・,)_く ゙` ヽ゚ノ`ー=、_ /// ∠ : て・
 ̄/""゙ ヽ ̄ ̄ \ヽ  ̄ ̄ // ノ る・
u 〈 、 u (ヽ //  ̄ノ
ヽ -' lj >、 // /  ̄ヽ、
/ヽー‐ 、 /'"´ 'i // / ∨ヽ/
^゙"⌒ヾ、 ,i| ,"__} // / /
ー- - ヽ_人`'′ // / /
/ i'゙' /-─‐‐''/_/_
、 _/-‐ヽ、___,,,, -‐‐  ̄
ー-、、,,__,-‐'//ノゝノ ノ ヽ\ >>631-632
あの時は死ぬ気でいるから形見に一番相応しいじゃん
サンに必要な人の心のこもったものだしな
アシタカがサンを見て美しいと言ったのとサンが小刀見て綺麗と言ったのは本質では同じよ
駿が男なんて〜って言ったのはその場では石田をあしらいたかっただけで深い意味での愛する人に贈る物だってアシタカも認識してるから渡したんだろう アシタカはカヤを地元の取り巻きのセフレ位にしか思って無さそう アシタカが地元に、カヤの元に帰らないのかと言う人いるけど
アシタカは掟で戻れないって事分かってないのかな?
呪いがなくなっても掟は変わらないのに 宮崎駿の考えたタイトルは「アシタカせっ記」だったそうだ
しかし周りに反対されて「もののけ姫」というタイトルになったそうだ
「アシタカせっ記」のほうが良いタイトルだと思った
あの映画の主人公はどう見てもアシタカだし >>641
パヤオはアシタカせっ記で決めてたのに鈴木Pが勝手にもののけ姫で発表したんだっけ
よくキレなかったよなw せっ記はどうかなあ…
ありきたりで、印象に残らない
かといってもののけ姫ってのもなあ 「せっ記」って言葉は宮崎駿が考えた造語
普通の人は「せっ記」って何?と思うはずだから印象に残ると思う せっに当たる漢字も創作だから変換出来ないし宣伝にも使いにくいし
もののけ姫では無くてもいいけどアシタカせっ記を却下したこと自体は正解だと思うぞ >>644
造語なのは知ってるけど、意味はありきたりでしょ
日本人は知的なので、そういう意味なのだと知れば、そのありきたりなタイトルに平凡なものを感じると思うよ 白雪姫やシンデレラみたいでインパクトあると思うけどな
タイトルがもののけ姫だからこそモロの血を吐いてるシーンがやっと出てきたって感じで強烈に印象に残る
英語版のprincessはなんか違う気がするけど 「宮崎駿の考えたこと」を勉強しないと楽しめない作品
それが一昔前の考え方だから世間の人にはなじめず、過去のものになっちゃうな 「【『もののけ姫』の読み方 1 】 エボシ御前は 女・毛沢東?」
エボシ御前の一番最初の登場シーンは、米の買い付けキャラバンから、タタラ場の牛飼いたちと一緒に帰って来る場面です。
この “牛飼い” というのは、当時の「士農工商エタ非人」という身分制度の中で、一番下だと言われていた “非人” と呼ばれた人々が就いていた職業なんです。
……まあ、この「士農工商〜」という身分の分類は「実際は、明治になってからの創作だ」というふうに、最近では言われてるんですけど。
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牛飼い達が牛を引っ張って、その上に米俵を乗せて、米を運んでいます。
考えてみれば、かなり裕福な村ですよね。
村人全員が米を食ってる村というのは、実は、なかなかすごいんですけど。
この最中に、キャラバンは山犬達の襲撃を受けるんですね。
その結果、戦闘が起こり、山犬の親分のモロはエボシから石火矢の攻撃を受けて手傷を負って、崖の下に落ちて行く。
この時に、自分たちの仲間、子分も、牛も、牛飼い達も、ずいぶん沢山、崖の下に落ちて行ったんですね。
それに対して、ゴンザという、いつもエボシの横にいる側近が「谷に落ちた者はどうします?」と聞くんですよ。
このゴンザというのは、エボシ御前が倭寇の妻だった頃からついてきている部下らしいんですけども。
でも、エボシはわざとその言葉を無視して「すぐに出発しよう。隊列を組み直せ!」と全員に号令を掛けるんですよね。
谷に落ちた者は、まだ生きているかもしれないのに。
どういう事かというと、治る見込みのない、言っちゃえば、身体障害者になっているかもしれない者たちを養う余裕は、タタラ場には無いんです。
だから、躊躇なく見殺しにするわけですね。
そして、エボシ本人は、こういった冷徹な人間であることが他のみんなにバレないように、かなり気を使っています。
だから、崖の下に落ちたコウロクという牛飼いが、アシタカに助けられて村に帰って来た時には「コウロク、すまなかったな」と、つまらない牛飼いの下っ端一人一人の名前を覚えているかのように、大袈裟に謝ったりするんですね。
だけど、ここでは謝っているように見えても、たぶん、この人は、また同じ状況になれば、平気で彼を見捨てると思うんですよね。 さらには、アニメとしてのクライマックスである “シシ狩り” のシーンで、彼女は地雷が仕掛けられた場所にイノシシ達をおびき寄せて、ドーンと吹き飛ばすようなことをしています。
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これは、その様子を見下ろしているエボシとゴンザです。
両者とも、目線が見えないように帽子で顔の上半分を隠して描いてますよね?
これは襲い掛かってくるイノシシ達を地雷原に誘い込んで吹き飛ばすという作戦なんですけど、この時、囮として、
エボシの配下のタタラ場の牛飼いなどの子分達を、地雷原のすぐ近くに配置しているんです。
それに向かって来るイノシシを爆弾で吹き飛ばすもんだから、彼らも爆弾の被害を受けるし、上から吹き飛ばされた巨大イノシシの死体も降って来るから、もう、ほとんど全滅の状態になります。
後に、イノシシと人間の死体が混ざってわからなくなるほどの死屍累々な光景の中、生き残った村人の一人が顔を隠して泣いているところを、アシタカが見つけるという、かなり悲惨なシーンがあるんですけど。
エボシというのは、最初から自分の部下を囮として配置することすら選択肢の1つとして考えているような人物なんです。
だから、そういう事態がいざ現実に起こっても、それを冷静に見ていられるんですよ。
このように、エボシというキャラクターには、もちろん“知性と優しさに溢れる良きリーダー”という側面もあるんですけど、同時に“目的のためには仲間を平気で犠牲にする冷たさ”という面もあります。
その2つを兼ね備えた人物として描かれてるんですね。
僕が思うに、このエボシのイメージ元って、たぶん、この人だと思うんですね。
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毛沢東です。
毛沢東というのは、圧倒的なカリスマ性と徹底的な合理性で国造りのためには容赦なく “文化大革命” などの破壊と殺戮を行いつつも、その一方では、農民の生活をただただ向上させようとした人でもあります。
なぜ、これがエボシのモデルなのかというと。
??
実は、毛沢東は、当時の世界の鉄鋼産業をリードしていたイギリスを「15年以内に追い越す!」と宣言して、
中国の村中にタタラ場(製鉄所)を作って、農民に製鉄を教えて、中国国内の鉄の生産量を飛躍的に上げようとした人なんですよ。
まあ、結果的には大失敗したんですけどね。 宮崎駿は、そういった毛沢東の過去の行いを踏まえて、『もののけ姫』に登場するタタラ場という共同体を、ある種の “共産主義の理想郷” として描いたんじゃないかと思うんです。
宮崎駿自身が青年の頃、10代後半から20代いっぱい、30代に差し掛かるまで、ずーっと憧れていた共産主義。
もちろん、今となっては、毛沢東とか中国共産党指導部の残虐性も問題点も、十分に暴かれてしまっています。
しかし、いわゆる “年老いた左翼” としての宮崎駿というのは「だからといって、いやあ、共産主義は間違いでしたね、中国共産党は間違ってましたねと、クルリと翻るほど、俺は軽い人間じゃねえ!」って思っているわけですね。
間違いがあるのだとすれば、その過ちを認めるというよりも「そういった過ちが、なぜ自分の中で起こったんだろうか? それは本当に間違いだったんだろうか?」と検証する。
それが終わるまでは、まだまだしがみつくつもりなんですよ。
そんな、青年期の毛沢東を、絶世の美女として表現したのがエボシであると、僕は考えています。
エボシというのは、さっきも話したように、人買いに売られて、倭寇の妻となって、親分も殺して、明から先端技術を盗んで、日本で独立国を作ろうとしたんですよ。
つまり、彼女は革命家であり、テロリストでもあるんですね。
彼女にとっては、王様も神様も邪魔なんですよ。
毛沢東自身も「宗教というのはアヘンだ」と言って、宗教、つまり神様の存在も全部 否定した人なんです。
だから、エボシにとっても、森の神というのは “単なる巨大生物” に過ぎないし、「自分は神の家系である!」と名乗る天皇家も “単なる政治家” に過ぎないんです。
「どちらも私の理想の国には必要ない。私の国というのは、全ての人間が平等で、合理的に組み合わさって生きていくんだ!」というのが、エボシの考えなのだと思います。
そんな「森の神様のような迷信には付き合ってられないよ!」という、徹底的な思想と共に、本当に武装までしてますから、まさにテロリストですよね(笑)。 終盤サンが小刀でアシタカの胸を刺すシーンで直後ハッとしてるのは何故?
アシタカがもう痛みも感じないほど呪いに侵されてると分かったから? 怒りに任せて大事な人を贈り物で傷つけるなんて最低なことしたのに気づいたからだよ
さっきまで我を忘れた乙事主にタタリ神になるなとか言ってたくせにその乙事主と大して変わらない真似してるんだからな いちからか?いちからせつめいしないとだめか?的なw 「【『もののけ姫』の読み方 2 】 サンはエボシ御前の娘だった?」
「サンはエボシ御前の娘だった?」
この説、ネットでも時々 見るんですけども、僕も前々から「エボシとサンは、母娘なんじゃないか?」と思っているんですよ。
まあ、ネットでそういった考察を書いている人も、みんな「根拠はないが〜」と注釈しているのと同じように、僕にも証拠は提示できないんですけども。
宮崎さん自身は、どこにもそんなことを語ってないし、「おしゃべりな鈴木敏夫さんが、どこかで不用意にそんな話をしていないかな?」って思って、
鈴木敏夫の発言もあらかたさらってみたんですけど、そんなことは一言も喋ってないんですよ(笑)。
ただし、証拠とまでは行かないまでも “不自然なこと” はあるんです。
何が不自然なのかというと、サンの生い立ちに関する設定です。
“もののけ姫” ことサンの生い立ちに関する情報は「森を犯した人が、山犬を恐れて、生贄として赤子を捨てて行った」というだけなんです。
それしか書いてないんですよね。
さっきも語ったように、エボシ御前にすら「外国に売られていって、倭寇の妻になって〜」みたいな設定があるんですよ。
あとは、ジコ坊とか、他のいろんなキャラにも山のように設定が付いているのに、サンだけは、たった1行だけなんです。
すごく不自然なんですよね。
あまりにも言葉足らずで、不自然。
おまけに、アニメ本編の中には回想シーンも出てくるんですけど、赤ん坊の頃のサンの描写は一切ないんですよね。
なので、僕としては「やっぱり、ここには何か語られない理由があるんだろう」と考えちゃうんです。
そして、もしサンがエボシの娘だとしたら、いろんなことに説明が付くんですよ。
エボシというのは、倭寇の頭目の妻となって、後にその夫を殺したくらいだから、当然、もしそこで子供が出来ていたとしても、あんまり愛情を持ってはいないはず。
「いや、女なんだから、産んだ子供には愛情があるはずだ!」と思うかもしれませんが、いやいや、エボシというのは、普通の女ではなく “女・毛沢東” だから、そこら辺はちょっと普通のメンタリティとは違うということも考えられます。
そして、エボシが率いるタタラ場には子供がいない。
これは、さっきも話したように、共同体全体に厳しい産児制限を敷いているからだと思うんですけども。 「自分たちのリーダーであるエボシ様自身が、大事な自分の子供を捨てた」あるいは「失った」とみんなにわかるようにしていたのなら、あの村の全員が「子供を作ってはいけない」というルールに納得していることにも、筋が通ると思うんですよね。
「エボシとサンは母娘関係である」と考えると、生みの親のエボシと育ての親の山犬のモロが激しく憎み合うのもわかりやすくなるんですよ。
というか、映画の前半で、モロはエボシに撃たれて怪我をするんですけど、それまでは、別に、モロがエボシ個人に強く恨みを持つような理由がないはずなんですよ。
ところが、2人とも、お互い名指しで、あんなに恨み合っている。
だって、モロなんかは「エボシを噛み殺すまでは戦いは終わらない」なんて言ってますから、あれはどう見ても “エボシ個人に対する恨み” なんです。
エボシにしてみても「捨てたはずの我が子を、モロという山犬が自分の子供として育てている」という現実は、まさに自分の罪の意識の象徴なんですね。
山犬に育てられた我が娘を見る度に、いくら、捨ててもういない子供だと思っていても、罪悪感が疼いてしまう。
僕は前から「サンの顔にある赤い模様が “入れ墨” であるとするのなら、誰が、何のために入れたんだろう?」って、すごく不思議だったんですよ。
解釈の1つとしては「サンが大きくなった時に、もう自分は人間ではないんだ。涙を二度と流さないんだと考えて、自分で彫った」と考えることも出来るんですけど。
この母娘関係を考えると「いや、捨てられる時に、この子は人間ではないという意味で彫られたんじゃないかな?」と、ちょっと考えちゃうんです。
とにかく、そこら辺で、モロとエボシの間にある感情は、サンとエボシの母娘関係を中心に置くことで、いろいろと説明がつくんですよね。
映画のわりと前半の方に、タタラ場の屋根の上でエボシ御前がアシタカと、ちょっといい雰囲気で話すシーンがあります。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614456/21d9054e1c4afe1884cb2ce395d76342f73ed03c.png
エボシは「ここに止まり、力を尽くさんか?」と言って、タタラ場で働いてくれるようにアシタカを口説きます。
そして、こう続けるんです。「古い神がいなくなり、森に光が入れば、ここは良い国になる。もののけ姫も人間に戻るだろう」と。
つまり「もののけ姫であるサンがエボシを憎んでいるのは、山犬のモロに憎しみを教えられたからだ」と彼女は考えてるんですね。
だから「モロを始めとした山犬達を殺せば、サンは人の世界に帰って来る」と思っている。
そして、このシーンの直後の、エボシを暗殺するためにサンが単身乗り込んで来るシーンでも、実は、襲いかかってくるサンに対して、エボシは本気で相手をしてないんですよ。
格闘術にしても剣術にしても明らかにサンより勝っているのに、周囲を槍を持った部下で囲んで逃げられないようにして、一向にとどめを刺そうとしない。
まるで、猫がネズミをいたぶるように戦うんです。
これ、なぜかというと、サンの体力が尽きて倒れるのを待って捕まえようとしているからです。 だけど、そういう表情は全く見せずに、いかにも「殺してやる!」という雰囲気で戦っているんです。
本当は全然 強いのに、相手にしてない感じなんですよ。
山犬のモロはエボシを深く憎んでいます。
しかし、そんなモロ自身もサンが人間の世界に帰ることを望んでいるんですよね。
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これは、モロとサンの別れのシーンです。
「私、乙事主様の目になる」と言って、サンがモロの元を離れる際に、ここで初めてサンがモロに抱きついて甘えるんですよ。
すると、モロも長いまつげの目を開いて、彼女を見る。「ああ、色っぽいオオカミだったんだなあ」というシーンなんですけど。
シチュエーションとしては、いよいよジコ坊とエボシ達の神殺しが始まって、サンは捨て身の乙事主について行くため、手傷を負って動けない母親のモロに最後の別れをする、といった場面です。
両者共「もう二度と会えない」とわかっています。
この時に、モロが「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが」と言うんです。
でも、モロは、それ以前にアシタカが「サンと共に生きる! あの子は人間だ!」と言った時には、メチャクチャ嘲笑ったんですよね。
「フハハ……。どうやって生きるのだ?」って。
つまり、モロというのは “本音を言わない人” なんですよ。
これ、アニメの中で一貫してるんですけど、ほとんど本音を言わないんですよね。
かつて恋人同士の関係だった乙事主というイノシシの神様と再会した時も「少しは話のわかるのが来た」とか、「もはや言葉も失ったか」と言うだけで、自分の内面的な本音というのを、絶対に言わない人なんですよね。
これは『「もののけ姫」はこうして生まれた。』というドキュメンタリーに収められている、モロの声優を担当した美輪明宏のアフレコの際の出来事なんですけど。
最初、美輪明宏は、このモロが乙事主に対して持っている複雑な感情に全く気が付かずに、普通に演技をしてたんですよね。
しかし、美輪明宏が「少しは話のわかるヤツが来た」という台詞を特別な感情を何も込めずに読んだ時、それを調整ブースで聞いていた宮崎駿は、なんかもうムズムズとして、
ついにはダーンと飛び出して、美輪明宏のところに駆け寄って、「うーん……」とか、少し唸ったかと思うと、「あのね、このモロは、昔、乙事主といい関係だったんです」と言うんですよ。
すると、美輪明宏は「はぁー? オオカミとイノシシが?」と言うんですけど、宮崎駿は「はい。そのオオカミとイノシシは、いい関係だったんです」と。 美輪明宏はメチャクチャ深く納得して、「ああ、なるほど」と、次の収録では、ほんのちょっと声色を変えたんです。
昔、恋人関係だった男女が「ついに言葉もわからぬようになったか」という時の、そんな相手を昔好きだった “自分に対する憐れみ” とか、「少しは話がわかるヤツが来た」と言う時にも、
高校生の女の子が彼氏が向こうから来た時に、友達に「あのバカが来たよ」と言うようなニュアンスが、ほんのちょっと入るようになったんです。
「……だったら、それをコンテに書いておけよ!」って思うんですよね(笑)。
でも、こういう大事な設定を、宮崎駿は書かないんですよ。
「モロと乙事主はもともと恋人関係だった」という設定は、もし、このアフレコ現場で宮崎駿が美輪明宏に言わなかったら、そして、それをたまたま日本テレビの取材班が撮影していなかったら、誰にも知られないままだったんです。
こういうことを、このオッサンは、しょっちゅうやるんですよ。
では、なぜ宮崎駿はそんなことをするのか?
この宮崎駿特有の作劇法とか、キャラクターを扱う上での本質については、後半の方で、理由込みで話をしましょう。
モロは、アシタカに対しては「フハハ……。どうやって生きるというのだ?」というふうに嘲笑いながらも、本心では、サンを人の世界に帰してもいいと思ってるんですね。
しかし、そのためには、エボシをどうにかして殺すことが大前提なんですよ。
エボシのいる世界5にサンは帰せない。
なぜかというと、エボシ御前というのは森の破壊者であって、人間の中でも特に悪質な存在だからです。
つまり、モロとエボシという大人の女2人は、両者とも、サンを救おうと考えてるんです。
エボシはエボシで「山犬達を殺しシシ神を殺せば森に光が入る。つまり、森が文明化され、人間の社会の一部になって、単なる天然資源の一部になれば、一度は捨てたはずのもののけ姫も、人間の世界に帰ってこれる」と思っている。
この映画は「1人の娘を救おうとする2人の母親が、両方から引っ張っている話」と考えると、ものすごくわかりやすくなるんです。
だって、モロとエボシはアシタカに全く同じ台詞を投げかけるんですから。
さっきも話したように、モロはアシタカに対して「どうやって生きるというのだ? サンと共に人間と戦うのか?」と嘲笑います
。
エボシも、これと全く同じ台詞を、タタラ場が襲われていることを伝えに来たアシタカに言うんです。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614458/6ad6501fb4378d8ab8f2c24b9c827288a9f3a22c.png これを見てください。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614460/ba8920e958922546748d9de8d225d5aa8fdbe58e.png
このシーンでエボシも、嘲笑うモロと全く同じ構図で、アシタカを嘲笑いながら「シシ神殺しをやめて、サムライ殺しをやれというのか?」と詰め寄るんですね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614461/69dd7bc0452562f8e6239a63b831aca525f73c36.png
左右の方向が反対なだけで、全く同じ構図で、同じ意味のことを言っている。
両者のこの台詞は偶然ではあり得ないんですよ。
作劇上、意味もなくこんなことをするはずがないんです。
2人は「私にどう生きろというのか?」、「あの子をどうしろというのか?」、「神殺しをやめて、サムライ殺しをしろというのか?」「それともお前は人間と戦うとでも言うのか?」と、それぞれアシタカに問い掛けている。
つまり、自分の娘の生き様を、2人の母親が、その夫となる人物に問いかけているんですね。
それも “反語的な問いかけ” なんです。
アシタカの答えがそうじゃないことを知りながら「そういうふうにしろとでも言うのか?」と聞いている。
これは要するに「お前はどこまでうちの娘のことを考えてんだい?」ということを “怖いお母さん” として聞いているわけですね。
それも、両者とも同じように、嘲笑いながら(笑)。
なぜなら、この2人は同じ立場に立ってるからなんです。
「母親であると同時に、部族のリーダーでもある」という立場に立っているんです。
こういうふうに考えたから、僕は「サンの実の母親はエボシなんじゃないか?」と思いました。
やっぱり、最初にも言いました通り、どこにも証拠はないんですけども。
「こう考えると矛盾がない」ということと、あとは、本来、大事な設定なはずの「乙事主とモロは実は恋人関係だった」ということを何も言わずに済ませようとしていた宮崎駿の作劇法から言って、そういう設定が隠してあってもおかしくはない、と。
でも「サンの実の母親はエボシである」ということを、モロもエボシも、サンに気付かせまいとしてるんですよね。
お互い2人の母親が「あいつを殺さないと我が娘の未来はない!」と信じて戦っているという構図になっているんです。 麻生のおっさんが自演に使用するアカウント(複数端末あるいは投稿代行ツールを使用しての自演もあるので要注意)
麻生
近鉄
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福井県出身浜松市在住
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甲子園へ行こうスレ(麻生&近鉄&名無しを併用:固定IDと単発IDを併用して自演)
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30歳以上が甲子園を語るスレ(名無し:固定IDと単発IDを併用して自演)
21世紀枠の有力候補スレ(名無し&ジグー 353359060690529&アウアウカー Sa 182.251.244.51 &アウアウカー 182.250.246.XX:固定IDと単発IDを併用して自演、議論誘導多数、スレ立ても、キーワードは洗濯機、クレヨンしんちゃん)
興行収入を語るスレ 名無し&ジグー 353359060690529&アウアウカー Sa 182.251.244.51 & アウアウカー 182.250.246.XX 紅の豚あたりから、宮崎は作品を韜晦するようになった。
一部のマニア、おたくはバカみたいに喜ぶだろうが、多くの客はなぞなぞに付き合いたいわけではない。
岡田がいろいろと読み解きをするが、知れば知るほど馬鹿馬鹿しいと思えてくる。
晦渋にしたことで高度になるわけでも上等になるわけでもない。
だが…、まあ、おたくは喜ぶだろうな…。
カリ城のときと同じだ。おたくは宮崎のあとをゾロゾロとついてゆく。 なんかさ、もう、被害妄想的っつうか、物語を楽しむ事じゃなく謎解き目的で観すぎて何度も周回してる内に目的地を見失ってしまったって感じ
マニア/ヲタ的な考察するのは悪い事ではないけど、盲目的に熱中して知らぬ間に自分が祟り神と化してしまわぬよう気を付けんとにゃ、って思わせる出来事だぁね☆ 岡田のは読み解きなんてもんじゃなく妄想だろ
こんなもん有り難がるくらいならぼけーっと見て気軽にアニメおもすれーとかなる方がよっっぽど高尚だわ
まじでセクハラ岡田豚と知ったツラして適当こく岡田ファンネル鬱陶しい 「【『もののけ姫』の読み方 3 】 モロは本当に人間を憎んでいた?」
次は「モロの秘密」という話ですね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614462/6a3c8ab5ee4daa1c1dcf8212b771b3b7e3b42f4d.png
これは、映画が始まってから1時間をちょっと越えた辺りのシーンなんですけど。
傷を負ったアシタカが、モロ達のねぐらで目覚め、外に出る。
すると、ねぐらの上に座っていたモロから話しかけられるというシーンです。
このシーンでモロ達の住処が出てくるんですけど、単なる山犬が住んでいるにしては、ちょっと不思議な感じの場所なんですよね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614468/db7768353378a78b78ef8cec0a5c5da70cc5bf79.png
これは、起きたアシタカがモロ達のねぐらの中に立っている様子です。
このモロのねぐらは、全てが岩で出来ています。
それも、床と天井と壁の部分が、それぞれ巨大な1枚岩で出来ているんです。
床も天井も水平なんですね。その上、横の壁もほぼ同じ角度に傾いています。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614466/654c53ca342c8c8b76b256b590546c0497116cc9.png
こっちは、その翌朝にアシタカが旅立つ場面です。
ここで、この不思議な岩で作られたねぐらの全貌が見えます。
見て分かる通り、完全に1枚板の水平な岩が上に乗っていて、それを両側の岩が支えている。
床の部分も張り出して、ベランダ状になっているんですよね。
これと同じ形のものを、どこかで見た気がするんです。
その答えは、大阪にあります。
大阪府の交野市にある磐船神社の “天岩戸” です。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614465/c293481d9e73d6663e4849fd6e6686371942c25a.png
これが、まあ、そっくりの構造をしているんですよ。
だからといって、「別にサン達が暮らしていたのは大阪だ!」というつもりはないんですよ。
そうではなく、これは “巨石文明の遺跡” なんですね。 アシタカが、もともと暮らしていた村も、先週に話した通り、青森の方でもほんのちょっとしか遺跡が残っていないような “巨石信仰” のある村でした。
縄文人達は、こういった巨大な岩みたいなものを、御神体として神様のように祀っていたと言われています。
つまり、アシタカ達の集落というのは、そういった巨石文明の末裔なんですね。
それに対して、モロがねぐらにしている場所はというと、劇中では何も解説してくれていないんですけど、こんなに水平な床や天井、全く同じサイズの岩で両側を支えていて、その上に水平な岩が乗ってるような洞窟なんて、自然状態で生まれるはずがないんです。
これはもう、普通に考えたら巨石文明の神殿というか、神様の座である “石座”(いわくら)みたいなものなんですね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614465/c293481d9e73d6663e4849fd6e6686371942c25a.png
これは、大阪府交野市の磐船神社にある天岩戸なんですけど。
イギリスにある “ストーンヘンジ” も、大体、これと同じです。
垂直もしくは同じ角度に立てた岩の上に、水平に岩の板を乗せることによって、神様の座を作ろうとしていたんですよ。
これが巨石文明の特徴なんです。
つまり、どういうことかというと、モロのねぐらというのは古代人の神殿なんですよね。
古代の巨石文明の時代には日本には “本当の神様” が住んでいたんです。
モロ達のような一族というのは、巨大な獣であり、おまけに人の言葉を話すことが出来たので、古代人達から崇められていた。
つまり、本当の神様だったわけです。
なので、神殿を作ってもらって、そこで祀られていたんです。
しかし、今や、そんなモロの神殿には、誰もお詣りに来ない。
これこそが「森が死んでいく」という言葉の意味なんですよ。
にも関わらず、モロは今でもここに住んでいるんです。
??
なぜかというと、モロは “犬の神様” だからです。
犬というのは、人類にとって、一番 古く、一番 忠実な友なんですよ。
そんな犬の神様だから、もう誰も訪れなくなった神殿に、今もなお、誰かが帰ってくるのを待ちながら、ずっと住み続けてくれているんです。
これが分かった時、僕「うわーっ!」って思って、もうマジで、金曜ロードショーを見ながら涙が出そうになったんですけど。
今でも、人々から忘れられた神殿に住んでいてくれるくらいなんだから、そんなモロが人間を嫌いなはずがないんですよ。
だから、赤ん坊のサンを育てたんです。 捨てられていた人間の赤ん坊を、わざわざ自分の娘として育てるくらいなんだから、むしろ、人間が好きなはずなんです。
彼女は “人間の行為” が憎いだけなんですよ。
サンを捨てたエボシが許せないだけなんですね。
だけど、普通の解説書とか、ジブリの公式本とかを見ても、全部「モロは人間を憎んでいる」って書いてあるんですよ(笑)。
もうね、この『もののけ姫』という作品に関しては、劇中の台詞を信じないようにしてください。
そこに映し出される “絵” だけを信じてくれれば大丈夫です。
というか、むしろ絵を信じた方が、どんな話なのか分かりやすいと思うんですよね。
こういった「かつては神殿と呼ばれていたはずの場所に、お祈りする人が誰も来なくなった」というのが、「森が死んだ」という理由なんです。
かつての森の神様を誰も信じなくなって、森を “単なる天然資源” としか見なくなったから、彼ら森の神様は、段々と身体が小さくなっていくわけです。
物語の舞台は室町時代。
この時点でモロは300歳で、乙事主は500歳。
なので、彼らが産まれた時代というのは、中国から日本に稲作や鉄が伝えられ、人々が「森には神様がいる」だなどと信じなくなった時代でもあるんです。
だから、おそらくは、乙事主もモロも、人々が自分たちを「神様だ」と崇めていた時代のことを、正確には知らないはずなんです。
たぶん、自分たちの親とか一族から「昔はそうだった」と言い伝えられて来たんでしょう。
??
なので、乙事主達イノシシの神様は、もう人間のことを信じられなくなり、自分たちだけで、まだ森の神々を信じている巨石文明がかろうじて残っている青森の方まで行こうとしていたんです。
それに対して、モロは「もう二度と人間が自分たちを信じることはないだろう」なんて口では言いながら、自分でも半分くらいはそんなふうに思っていながら、それでもやっぱり、かつて人間たちが自分たちに作ってくれた巨石神殿に住み続けている。
なんかね、そういう泣ける話なんだなって思ったんですよね。
そういった、森の中の神様を信じる巨石文明の生き残りは、もはや青森の果てにしかない。
そう思ったからこそ、乙事主たちイノシシは、劇中では “鎮西” と呼ばれた九州から移動していたわけです。
ちなみに「『もののけ姫』の舞台になったのは岡山だ」と言われています。
宮崎さんが岡山をスケッチに行って「ここを舞台にしよう」と言ったそうです。
これは “岡山舞台説” の1つなんですけど、僕も、たぶん、そうなんだろうと思っています。
というのも、もし、話の舞台が京都よりも東だったら、乙事主達イノシシの大群が京都を突っ切ったことになるわけですから。 あんな群れが、京都を突っ切れるはずがない。
ジコ坊が天皇から命令されているミッションは、もちろん「不老不死の力があるというシシ神の首を持ち帰る」ということもあるんでしょうけど、
なによりも「イノシシ神の大群が、京都に突入してくる前に、最前線である岡山で食い止めろ!」という命令もあったんじゃないかな、と。
そう考えると、全ての辻褄があってくると思うんですよ。
だって、巨大なイノシシの群れが京都を横断したら、ただでさえ、室町時代には権威の落ちきっていた、宮崎駿さんの解説によると「当時は自分のサインを売って、その日暮らしをしていた」という天皇家は、もう絶対に潰れてしまうから(笑)。
こういうのが『もののけ姫』の大きなお話の流れじゃないかと思います。
もう、この辺の「人間が許せない!」みたいなモロの台詞よりも、「モロ自身は、縁もゆかりも全くない人間の赤子、噛み殺してもいいはずのサンを拾って、ずーっと大事に育てて来た」とか、
「なおかつ、その愛してやまないサンを、いずれ人間の世界に返そうと思っていて、アシタカがそれの助けになると思い、少なからずの望みを抱いていた」という部分を見るべきだと思うんですよ。
アシタカがねぐらの中で、傷にうなされて寝ている時には、屋根の上に、ずっとモロがいたわけですよね。
モロは、アシタカが起きて来た時に「お前が一言でも唸り声を上げようものなら、噛み殺してやろうと思ったぞ」とか言うんですけど。
これがどういう意味かというと、アシタカは右腕が呪われているんですけど、モロもモロで、エボシの鉄の銃弾にやられて、死に掛けているんですよ。
両者共、全く同じ状況だったんですね。
両者共、自分がタタリ神になりそうなのを抑えているから、余計に苦しいんです。
この痛みを他者への恨みに変えれば、2人共、簡単にタタリ神になれて、楽になるんですよ。
でも、アシタカは、うなされつつも、それを恨みに変えずに必死に耐えていた。
そんなアシタカを見て、モロも「こいつと同じく、この痛みをタタリ神にせずに、ここで一人死んで行こう」と考えていたんだと思います。
……まあ、「エボシの頭だけは噛み砕いてから死ぬ!」とは言ってるんですけど。
つまり、モロは、自分自身の負の感情に負けずに、苦しみに耐えるアシタカを見て「可愛い娘を任せられる男だ」と見たんでしょう。
でも、宮崎駿は相変わらず、そういうことをアニメの中では全く書いてくれないんですよね(笑)。
そうではなくて、モロに怖い台詞ばっかり言わせるから、すごく怖いバアサンみたいに見えちゃうんです。
だけど、本当のモロというのは、いろんな人を冷静に観察しているような重要な役になっているんです。
だから、モロの声優を務めた美輪明宏は、宮崎駿から色々と設定を聞いた後、ものすごく喜んだそうです。
美輪明宏から「うわあ、そういう役なんですね。……でも、ちっともそれを書かないんですね」と言われた宮崎駿が「そう。書かないんですよ」と、嬉しそうに返すというやりとりが、ドキュメンタリーの中にも収録されています。 完全に荒らしだわ岡田豚コピペ
かぐや姫のスレでも同じことしてるよな 晒しなのか賞賛なのか啓蒙なのか注意喚起なのか、っつうw なぞなぞ映画というのは当たってる気がする
それをありがたがるオタク
分からなくても賞賛する通きどりの客
みんな分からない、俺は分かってるという映画評論家
ひどいもんだ 「『もののけ姫』のエボシ御前の謎と “タタラ場” に子供がいない理由」
今回は『もののけ姫』のエボシ御前の正体について語っていきます。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614469/334986e7a439e05bd82d56322f797f3516a3e1b3.png
エボシ御前については、浦谷年良さんが書いた『「もののけ姫」はこうして生まれた。』という本の中に書いてある事なんですけども。
これは、日本テレビから『「もののけ姫」はこうして生まれた。』というドキュメンタリーDVDが出ているんですけども、それの内容のまとめみたいな本なんですね。
それで宮崎さんの机の横には、コンテとか作画以外にメモが貼ってあると。
そのメモが面白くて、撮影班がどんどん撮っているんですね。
それで撮っているのを見ると、エボシ御前についてのメモがあったと。
辛苦の過去から、つまり辛い過去から抜け出した女性。
海外に売られ、倭寇の頭目の妻になる。
そこで頭角を現していき、ついには頭目(親分)を殺して金品を持って故郷に戻ってきた。
??
このとき、当時の中国の明で最新式の武器 “石火矢” を手に入れて日本に持ち込んでいる。
こういうのがエボシの設定です。
ポイントは、元々は海外に売られた悲しい女性であると。
ところがそこから倭寇の親分の妻になる。
つまり、美人なだけじゃなくて、かなり “やり手” な所があったんでしょうね。
それでドンドンのし上がっていって、ついには頭目を殺してしまい、倭寇の金を盗んで日本に帰ってきて、おまけに中国から最新の武器 “石火矢” という大砲を持って帰ってきちゃった、とんでもない女性です(笑)。
それでサムライの支配から自由な、強大な自分の理想の国を作ろうと考えている。
その為に目をつけたのが、“シシ神の森” だと。
シシ神の森というのは誰の領地でもないから。
「当時、土地というのは天皇の土地であったり、サムライの領地であったり、寺の土地であったり、全部、所有が決まってたんですけども、“シシ神の森” はシシ神に属しているので、ここを手に入れれば自分の国が作れる」というふうに書いてあるんですね。
これを読めば、何となくエボシって正義の人みたいに見えます。
確かに映画の中でも、売られた女の人を買い取って引き取って、ハンセン氏病などの病気で差別されている人たちも優しく介護して、仕事を与えるという事をしている。 そんな、凄い “いい人” に見えるんですけども、それだけでは説明できない矛盾というのが、エボシにはいっぱいあります。
たとえば僕が最初に気になったのが、やっぱり “タタラ場に子供がいない” って事なんですよね。
宮崎アニメの村のシーン。
??
たとえばナウシカの “風の谷” とか、ラピュタの “スラッグ渓谷” にしても、必ず子供たちが走り回ってるんですよね。
ところがタタラ場には走り回る子供もいない。
それどころが、母親に抱かれている赤ん坊すらいないんですよ。
それで、これに関して宮崎駿 自身は、当時の『もののけ姫』の映画のパンフレットの中では「いや、そこまで描いてる暇がなかったんですよ」って言ってるんですけども。
「描いてる暇がない」って言い出したら、ラピュタの時の方が忙しいし、それはもうナウシカの時の方が大変なんですけども(笑)。
やっぱり、描いてないには描いてないなりの理由があると。
何でかっていうと、タタラ場っていうのは開拓村だからですね。
開拓村っていうのは、アメリカの18世紀〜19世紀にはよくあった、開拓時代でようやく村が成立して、10年とか5年とかそれぐらいの年月しか経ってない村で、まだまだ戦闘状態みたいなものなんですね。
それでタタラ場に関しては、戦乱で家を無くしたり、親に売られた女の人たちを受け入れているんですけどですね。
子供とか老人という “働けない人” を、積極的に仲間に入れるほどの余裕が無い。
それだけの食料が無いし、働けない人を雇えないんですね。
まだ開拓村だから。
だから、外れにあるハンセン氏病の人たちの隔離された区画っていうのは、彼らは “石火矢を作る” という能力があるから、あそこで飼われているんであって。
どちらかというと、弱者には厳しい環境なんですね。
同時に、タタラ場は中で結婚している人もいるから、子供が生まれないはずがないと思うんですけども。
おそらく、凄く強い産児制限をしいてると思うんですね。
つまり、「子供を生んじゃいけない」っていう。
それと、男をバカにする文化。
このタタラ場の中の、男をバカにして、「女の方が強いんだ」っていう文化も、おそらく同じような理由で意図的にやっているんだと思います。
もっと大きい村になって、もう少し生活が楽になって、みんなの生活に余裕が出来るまでは、出来るだけ無軌道に人口が増えないように、かなり注意している。
これが、エボシ御前が “単なるいい人” っていうのに見えないなっていう矛盾点の一つなんですけどね。 イ`そなたは美しいなんてセリフがあったのに
ヂブリには超性格の悪い役立たずのブスが雇われてたぞどういうことだ^^# >>663
韜晦するようになったわけは、富野監督の影響じゃないかな?
彼は子供に大人気!って作品より、
大人が眉間に皺を寄せて熱く語り合ってくれる作品作りのほうを
選択したんじゃないのかな。
子供向けに対して、単に「気がすんだ」というのもあると思うが。
難解にするならオレのほうが…という負けん気もあったんじゃないか。
岡田なんてオタクはまんまとハマってしまってる。
いいお客さんだね。 そういやどうして子供をターゲットにすんの止めちまったんだ?
アニメは子供のって散々言ってたのに たしかにアニメは基本的には子供のもの
しかし大人も楽しめるアニメというアニメの新ジャンルもある
アニメを子供のものと考えてるところが宮崎アニメの限界点なのかもね 都合よくケモナー美女と出会ってイチャイチャしてえ〜と考えてる
おっさん向けのアニメだろう。 >>679
限界点(興行収入歴代1位)(アカデミー賞受賞) 2018年11月28日07:00
もしもハリウッドで『もののけ姫』が特撮映画としてリメイクされたら?
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51552175.html
これは余談というよりは、今回の本編でね。
『もののけ姫』の時に入らなかった話をちょっとしたいんですけども。
『もののけ姫』って、「話全体が、どういう お話か?」っていうのが、なかなか分かんないんだよね。
それで、「どうやったら分かりやすく伝えられるのかな?」ってふうに考えてて、ちょっと掴んだ気がするんだけども。
あれね、「『もののけ姫』がハリウッドでリメイクされたら、どういうふうになるのか?」って考えると、
ちょっとだけ分かりやすくなると思う。
「もしハリウッドで『もののけ姫』がリメイクされて、アメリカが舞台で、俳優もアメリカ人とかを出したらどうなるのか?」
って考えたら、逆に日本の『もののけ姫』っていうのが、どんなとんでもない凄い話だったかっていうのが分かると思います。
・・・
冒頭はですね、これはアメリカの原住民のインディアンの村。
インディアンって言うんだけども、これは言葉の正しい意味じゃないのは分かっています。
ただ “アメリカ原住民” とか “原住部族” よりは “インディアン” って言ったほうが通りがいいから。
だから今日はもう全部 “インディアン” って言い方で話すね。
そこら辺は、よろしくお願いします。
冒頭はアメリカの、もうカナダの果ての方に住んでいるインディアンの村と、そこを襲う巨大なワシ。
タタリ神と化したワシが、アメリカの北の果てに残っている先住民のインディアンたちの村を襲うわけです。
だいたいこんなイメージだと思って。
(タタリ神こんな感し?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/a/6/a6e445ab.png
こんなイメージのヤツが、アメリカのインディアン村を襲います。
「あ、あれは西海岸のシャイアン族のトーテムだ!」
“トーテム” っていうのは守り神だね。
インディアンの守り神の巨大なワシが村を襲う。
「なんで!? アイツがタタリ神になるなんて!」
「東から来たキリスト教の神に追われ、今やインディアンは、わずかに西海岸と北にだけに住んでいるに過ぎない」
「何か西海岸で不吉な事が起こったに違いない」
「アシタカよ、その曇りの無い眼(まなこ)で見てくるんじゃ」
そうやって “アシタカ” という名前のインディアンの少年が、ワシの爪によって呪われてしまった右手を
呪いながら村を旅立つ所から映画はスタートするわけだ。
・・・ 途中、インディアンの村を襲う騎兵隊に出会います。
騎兵隊がインディアンの村を襲っているんですね。
(村を襲う騎兵隊) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/5/9/59cde06d.png
それで、この騎兵隊に対して怒りをもったアシタカはですね、
先祖伝来のアメリカ大ワシか何かの羽が付いた矢でバーンと射ると。
そうすると、この騎兵隊の中心で、核爆発のような大爆発が起こる。
これはね、日本版のアニメ版の『もののけ姫』では首がすっ飛ぶぐらいの表現なんだけども、
ハリウッドでは「それぐらいじゃ分からないだろう」と。
アシタカにかけられた呪いが、どんなものかって分かるには、もうとりあえず火薬を山盛りで
大爆発させたほうが分かりやすいから、大爆発させて、それで騎兵隊たちは全滅するんですね。
こういう話にすると、「『もののけ姫』っていう作品が、実はどんな話だったか?」
っていうのが、ちょっと分かりやすくなってくるんだよね。
それでこの騎兵隊たちを退治した後で、アシタカがさらに西海岸のロッキー山脈を越えていくと、
ロッキー山脈の中ほどでセコイアの森がある。
(セコイアの森) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/0/9/0960dc05.png
ジャイアントセコイアって、木というよりは、たぶん生物としても地球最大なんだよね。
体積計算したら。
ジャイアントセコイアの森っていうのは、巨大な森です。
それの森と、その横で製鉄をしているインディアンの村に出会う。
「インディアンが鉄を作っているなんて!? まるで白い人間(ヨーロッパ人)みたいじゃないか!」
ってアシタカは驚くんだけども、彼らは製鉄してるんだ。
それでセコイアっていうのは、実はインディアンたちが定期的に切り倒さないと、
アメリカ大陸中がこのセコイアに飲み込まれてしまうんだ。
これは本当の事なんだけど。
ジャイアントセコイアっていうのは、北米最強の生物なんだ。
おそらく地球上最強の生物だと思う。 なんでかっていうと、ジャイアントセコイアっていうのは、だいたい低いヤツで80メートル、
高いヤツは100メートルを越えるんだよ。
これは本当の話で。
で、なんでそんなに高いのかっていうと、落雷を呼び寄せるためなんだ。
コイツらは雷を落としたいんだよ。
ジャイアントセコイアっていうのは。
それは何でかっていうと、ジャイアントセコイアっていうのは山火事がないと繁殖できないんだ。
ジャイアントセコイアっていうのは、周りにスポンジ状の硬い表皮があって、山火事の温度に耐えるんだよね。
中心部が生き抜けるんだよ。
オマケに被子植物で、山火事の温度でないと、その殻みたいな松ぼっくりがバキッと割れて中の種子が外に出て行かないんだ。
それで山火事でボーボー燃える山の風を、火事場の風を利用して、種子をそこらじゅうにバラ撒くという恐怖の生物なんだよな(笑)。
だからインディアンが適当な間隔で木を切り倒さないといけない。
今はセコイア公園っていうのがあって保護されているんだけども。
これは人間が繁殖してバーッと伐採したから無事だったんだけども。
こんなの下手したら、北米大陸で普通に繁殖できるような土地は、ジャイアントセコイアに支配されてても不思議じゃなかったんだよね。
それで、その山火事を起こすためにジャイアントセコイアは100メートルを越えるわけだよね。
その100メートルを越える木の高さになる理由っていうのも唯一つ、雷を落として周りを焼き払いたいから。
それで何で焼払いたいのかっていうと、ジャイアントセコイアって言うのはこの100メートルっていう木の高さに対して、根がメチャクチャ浅いんだ。
根っこが2メートルぐらいしか地面の底にもぐって行かないんだよ。
なので他の競合している植物、雑草レベルでもそうなんだけども、雑木林とか、そこらへんの小さい樹木ですら
ジャイアントセコイアが本来 得たい栄養っていうのを地面から吸ってしまうんだ。
だからジャイアントセコイアっていうのは、数年に一回 山火事を起こして、ジャイアントセコイア以外の種をすべて焼き払って、
それの上で繁殖したいと思っているので、木が高く高く伸びていって山火事を呼ぶという。
なんか、そういう恐怖の生物(笑)。
その恐怖の森の近くに住んでいるインディアンは、定期的にジャイアントセコイアを伐採して、
それで炭を作って火を起こして生活しているという設定にするわけだよな。
それで、そういうインディアンの製鉄村に襲い掛かるダイアウルフの生き残り。 ダイアウルフっていうのは、北米大陸に大昔にいた、もう絶滅してしまった巨大な狼。
今言われているのでは体調は2〜3メートルって言われてるんだけど、今回お話に出てくるのは何せトーテム神だから。
村のトーテム・守り神のシシ神みたいなヤツラだから、8〜10メートルぐらいの狼が出てきます。
だいたいイメージとしては、こんな感じかな。
(村のトーテムこんな感し?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/f/a/fa7f2ab4.png
これは『ランペイジ 巨獣大乱闘』に出てきた巨大狼なんだけども。
こんなのが特撮で出てくる。
もちろん今言ってるのは、全部、特撮映画の話だよ。
CG特撮でアメリカ大陸に現れると思ってください(笑)。
こういう狼が現れると。
それで、銃で部族のトーテムである狼を撃つ “エボシ” という名前のインディアンの女の人がいるんですね。
しかし、狼に育てられた少女が邪魔をするのであった。
こういうのが前半の展開になるわけだよね。
・・・
エボシは、日本のアニメ映画版の『もののけ姫』と似たようなものにするから、インディアンで元奴隷。
白人の奴隷として捕まったんだけども、見た目が可愛い女の子だったから、そのままスペイン人の愛人になった。
母国スペインに、ヨーロッパに連れて行ってもらった経験もあった。
それが南米ペルーに、ご主人であったスペイン人が総督として派遣された時に、夫のスペイン人総督を殺して、
他のインディアン奴隷たちと一緒に北米に逃げてきたという設定にします。
それでエボシはトーテムを倒し、アメリカ中の、巨大なワシとか狼とかそういう守り神たちを退治して、
インディアンの共和国を作って、白人に対抗しようとしてるんですね。
いちおうエボシの目安としては、アメリカ大陸の東海岸側はヨーロッパ人が支配しても構わない。
でもロッキー山脈の辺りから、いわゆる西側全てはインディアンの共和国として取っておこうという。
かつてカリフォルニア共和国とか、あとニューメキシコあたりが独立国としてやっていこうというような感じを、
エボシは考えているわけですね。
それで何でトーテムを倒そうとしているのかっていうと。
トーテムの、あの巨大な生き物の神々たちを倒すと、インディアンたちは
「俺たちが信じていたのは単なる迷信であって、巨大な動物を信仰していたに過ぎない。
それよりは銃を取ってエボシと一緒になってヨーロッパ人と戦おう」と考えるようになるから。 やっぱりインディアンが負けた理由っていうのは、インディアン同士の部族が対立して、共同戦線を張れなかった事なんだよ。
それで最後に “インディアン戦争” っていのがカリフォルニアであったんだけども、もう時期が遅すぎたんだよね。
エボシはそれを100年前に持って来ようとしてるんですね。
こういう話にすると、実は『もののけ姫』って僕が言った話とほとんど同じなんだけども、かなりダイナミックでしょ?
だから、わりと過激な話っていうのを『もののけ姫』は やろうとしていたんだ。
ほとんど『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に怪獣が合体したようなものをやろうとしてるんだけども。
・・・
さて、もちろんジゴ坊も出てくるんだ。
ジゴ坊は何かというと、バチカンから派遣された、エクソシズムを学んだ神父なんだけども(笑)。
エボシたちに技術と兵隊を与えるんだよね。
バチカンの持っている兵隊と、バチカンの持っている大砲を与えるんだ。
それでエボシは神の中の神・ビッグフットの殺しを決意すると。
このトーテムたちの一番の親で、巨大なサルのビッグフットってヤツがアメリカにいて、ソイツを殺そうと決意するんだ。
それで、さっき攻撃されたトーテムの狼のモロは、インディアン文明の終わりをアシタカに予言する。
「アメリカ大陸は、いずれ我々のような自然の神ではなくて、人が作った神(=キリスト教)に支配されてしまうだろう」と。
「風とか、雪とか、雨とか、山も、川も、すべて自然からの贈り物で神の世界だった。
だけど、おそらく それらは白人たちにとって支配すべき自然 “ウィルダネス(Wilderness)”
と定義されてしまうだろう」とモロはアシタカに予言する。
アシタカは「そんな時代が来るはずが無い!」とか一生懸命に言うんだけども、どんどん自信が無くなっていく。
・・・
それでハリウッド版シシ神のビッグフットは、こんなヤツ。
(ヒ?ック?フットはこんなヤツ) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/f/a/fa7f2ab4.png
このビックフットを倒すための最後の戦いが始まると。
それでカソリックが派遣した十字軍と、エボシたちが組織したインディアンの共同戦線は、連合してこのビッグフットと戦うと。
それで遂に登場するカソリックの新兵器ガトリング砲!
そのガトリング砲だけでも強力なのに、そこにペルーの銀山より取り寄せたスペイン銀貨を溶かして、
ジゴ坊が神父姿でエクソシズムをやって、その銀貨に祝福を与えて銀の弾丸にするんだ。 神父によって聖別された銀の弾っていうのは、魔物を倒すキリスト教の神の力を得てるので。
それで祝福を与えられて銀のブリット(銃弾)となった弾をガトリング砲にガーッと詰めて、
このガトリング砲でビッグフットをババーッと撃つわけだね。
それで遂に倒されるビッグフット。
数千発の銀の弾を撃ち込まれて、遂にビッグフットは倒されるんだけども、倒されたビッグフットは、
そこから巨大なキングコングになってしまったと(笑)。
(キンク?コンク?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/e/0/e0f13b55.png
さあ、どうなる!?
という。
・・・
多分、これをハリウッドでやったら、2時間30分ぐらいになる話なんだけども、すごくデタラメで過激な話でしょ?
これをこのままアメリカで公開したら、アメリカの白人層が凄く反発するのが分かるよね。
だって、自分たちが持っている「アメリカとは、こういうものだ」「建国神話とは、こういうものだ」っていうのと、わりと違ってる。
やっぱり「自分たちは侵略民族の末裔で、元々アメリカにいたインディアンたちに何をしたのか?」っていうのが明るみに出てしまうから。
それで『もののけ姫』って、そんな話なんだよ。
そんな話であって、「帝が、」とか言ってるやつも、ほとんど今話した映画の中で「バチカンが」って言ってるぐらいの文脈で使ってる。
だけども、それを巧みに分からないように仕込んでる。
アメリカを例にしてみて語ってみると、「うわ、その話は かなり過激だな」って僕らは分かるんだけども、
『もののけ姫』っていう日本のアニメにされてしまうと、わりと気が付かないようにされている。
そんな所が宮崎駿のすごい上手い所だし、鈴木敏夫もよく宮崎駿の「もっと描きたい」という気持ちを抑えたなと思うんだけども。
こんなふうに考えると、『もののけ姫』っていうのは、分かりやすくなるかどうかは分からないんだけども、
より面白く見れるんじゃないかなと。
これは「『もののけ姫』が面白くない」という意味じゃなくて、“横から見る目線”
として面白い見方も出来るんじゃないかなと思って紹介してみました(笑)。
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この記事は『岡田斗司夫ニコ生ゼミ』11月18日(#257)から一部抜粋してお届けしました。 結局説明したり別のもので置き換えないと分からない面白さなんだよな
宮崎駿であっても、誰かのために作った作品じゃないと面白くない 環境破壊について訴えるには、
ガキを何人も製造して産ませた奴が言えることじゃないよなw
発想が矛盾している
ほんとに環境について考えてるなら子供なんぞ無しでいるべきだ。 2018年10月26日 (金) 18:00
毎週日曜日、夜8時から生放送中の岡田斗司夫ゼミ。10月21日の放送では、日テレ系
『金曜ロードSHOW!』にて26日に放送される、宮崎駿監督作品『もののけ姫』の解説が行われました。
この中で、パーソナリティの岡田斗司夫氏は、本編を見る前に押さえておくべきポイントとして、
カヤやサンといった女性キャラクターとアシタカの「大人の関係」にまつわる演出技法を、具体的なシーンの紹介を交えながら語りました。
女性視聴者から反感を買った『もののけ姫』のシーン
岡田:
アシタカが村から追い出されることになった後、村の出口で、自分を慕う少女のカヤに
呼び止められます。ここでカヤは「いつまでもお慕い申し上げます」と愛の告白をして、
黒曜石で出来た小さなナイフをアシタカに渡します。アシタカはそれを受け取ると、
メッチャイケメンな顔でニッコリ笑いながら「私もだ。いつまでもカヤを思おう」なんて言います。
この「これからもずっとあなたのことを思います」というセリフはどういう意味かというと、
「この先の生涯、あなたの他に誰とも恋をしません」という意味なんですね。そんなことを、
黒曜石の小さなナイフを受け取ったアシタカは、爽やかに笑いながら言うんです。 でも、女の人の中には、このシーンが嫌いというか「アシタカのこういうところが好かん!」
と言う人がかなりいるんですよ。なぜかというと、アシタカは、女の子にここまで言われて、
イケメンな感じで微笑んで、大切な黒曜石の小刀を受け取っておきながら、後でその大事な小刀を、
事もなげに別の女の子にプレゼントするからなんですよ。カヤと同じ石田ゆり子が声優をしている
もんだから、ついつい好きになっちゃったサンに(笑)。これについて「なんじゃこのアニメは!」と、
お姉さま方は怒るわけですね。確かに、怒って当たり前なんですよ。物語のラストで「私も、また時々、
お前に会いに来よう」「ええ。来て来て」みたいな感じで、サンとイチャついてる暇があったら、
呪いはもう解けたんだから、生まれ故郷の村に戻って、カヤに会ってやれよ、と。
そんな「アシタカのこういうところが許せない!」という、女性ライターの方の怒りの声が、
ジブリの公式本である『ジブリの教科書』にすら書いてあるわけです。まあ、怒る気持ちはよくわかるんですけど。 足高は男のしょうもなさの表れている
キャラだったwwwwwwwwwwwwwwwww あの後離れて暮らすアシタカとサンの間に子供が生まれることはあったんだろうか? コダマっていうのは岡本太郎が作った午後の日のマネなんだろう アシタカ役の人は声優が本業じゃないけど上手いよな
サンが微妙だっただけに主人公のアシタカはしっかり演技できる人で良かったわ もののけ姫の言うとおりだ・・・・・・
まさしく人間はクズだ!!!!!!!!!!!!!!!
人間はゴミだ!!!!!!!!!
人間がゴミのようだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています