Aleph 庚
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
評論分が読めるようになるための近道は、
独特で難解な用語を根本から理解すること。
読解上欠かせない100語を厳選して収録。
定義およびその後が持っている思想的背景や、
押さえておきたい文脈などを複数提示する。
これらの用語を、ただ辞書どおりの意味ではなく、
もっと深い背景も含めて把握できれば、
評論文中での文脈をある程度推測する力がつくのではないか。
文章を読む<視点>が養える、「急がば回れ」を記述。 評論文の背景にあるものの考え方の基本を理解できるように、
こうした文章の書き手が前提にしている西洋の思想の伝統をさかのぼりながら
語意を考えるようにしている。
哲学的な解説が多い。
哲学というと面倒に思えるかもしれないが、
多くの文章は哲学の文脈を理解することで、
その意図するところがはっきりと見えてくるものだ。 各項目を読みながら、もっと新しい切り口や展開を考えて、
独自のバージョンを作ってもらえると、その用語がしっかりと身についてくると思う。 【アイデンティティ】
ポイント:
アイデンティティという語はそもそも、「この同じ(イデム)自分」という語から作られた。
アイデンティティを確立しているということは、この自分がどんな人間であるか、
自分が自分であり続けるというのはどういうことかを、自分がはっきりと納得しているということだ。 その根底には、自分がほかのだれでもなく、この自分であるのはなぜか、
世界にたった一人しかいない、自分にとってはかけがえのない自分であるのはどうしてか、
という大切な問いが含まれている。 切り口:
[顔]
人間のアイデンティティの最初の核になるものは何だろうか。
おそらくそれは顔だろう。
ぼくたちは自分だけの顔をもっている。
だからアイデンティティはまず、自分が自分だけの顔をもっているということに
かかっている。 でもとても皮肉なことなのだが、この顔というものは、自分には見えないものなのだ。
鏡に映っているぼくの顔は、ほかの人たちが見ている顔とは違うものだ。 アイデンティティの重要な要素であるこの顔をみずから見ることができないということは、
アイデンティティというものが、自分だけで確立できるものではないということを逆説的に
表現しているのだ。 自分がだれであるか、どんな人間であるかというのは、ぼくたちにとってはもっとも内的で、
他人とはかかわりのないものであるかのように思われるとしても、
その思い込みだけではアイデンティティは得られない。 自分のアイデンティティが、ほんとうに自分のもんとして納得できるためには、
ほかの人々から認められることが必要なのだ。 [名前]
同じことは名前についても言えるだろう。
だれもが自分の名前を大切にしている。
アイデンティティには「身元」という意味もある。 社会の中でぼくたちは、自分の名前で呼ばれることで、
自分が自分であることを確認しているし、納得することもできる。 それでいてこの名前というものにも奇妙な逆説がある。
名前というものはそんなに種類が多いわけじゃない。
同姓同名の人がたくさんいることは、電話帳で「小林秀雄」という名前を
探してみたらすぐにわかる。 評論家もいるし、画家もいるし、医者もいる。
みんな小林秀雄なのだ。 ここでも自己であることの核であるアイデンティティが、
社会のうちでの符号のようなものに託されていて、
社会の網の目の中でしか成立しないことが語られている。 [集団]
面倒なことは、ぼくたちは自分のアイデンティティを自分個人だけで
もっているわけではないということだ。 ときにある集団として、自分のアイデンティティを形成することもある。
家族や村のような共同体、武士のような身分が
このようなアイデンティティの核となることが多いが、
ときには国家のようなものもアイデンティティを生みだすことがあるのは、
オリンピックを考えてみればわかるだろう。 やがて他の星から人間とは異なる生物が到来したら、
地球人というのがアイデンティティの核になることだってあるだろう。 展開:
このアイデンティティというものは、
ぼくたちがかけがえのない自分であることの拠り所という重要な役割を
果たすものであるが、ときに<罠>をかける場合があることに注意しよう。 まずぼくたちはときに自分の自己性、アイデンティティを「確立する」ことに熱中すると、
自分の文化や伝統に思い入れをしたり、他なるアイデンティティを否定したり
するようになりかねない。 そもそもぼくたちに単一のアイデンティティがあると考えるのは、
間違いかもしれないのだ。 西洋の植民地では西洋の文化と現地の文化が複合して新しい文化が生まれた。
これをクレオールと呼んでいるので記憶しておいてほしい。
多なる文化が複合としてアイデンティティを構築している現代の文化と社会の
ありかたを示す概念だからだ。 日本の歴史の背後に、遠くペルシア、東南アジア、中国の長い歴史を思い浮かべて、
日本の文化の複合性を思い描いてみてはどうだろうか。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 走り書きで写したためレス2の評論「文」という正しい漢字、
レス22の行頭一文字スペースを空けてしまうケアレスミスをした。
今後もその様な事態は人間なので発生しかねない。
もしかすると気づかない部分もあるかもしれない。
気づいたら修正すべきだと指摘する。
(悠) ところで、何レスまでが保守可能なのだ?
もう少し書いてみるか。 【アイロニー】
ポイント:
ぼくたちはいつも自分の思うとおりのことを言うとは限らない。
思っていることと反対のことを言ったほうが、
相手がぼくの言いたいことがわかったりすることもある。
これがアイロニーだ。 黙れよ
もうそんな話聞きたくねえよ・・・
そういうの好きじゃない 皮肉やあてこすりなども、アイロニーの一種と言えるだろう。
道路に唾(つば)を吐いた友人に、
「君はなんとも礼儀をわきまえているね」
と言ったとしても、うっかりすると相手には通じないかもしれない。 それに濫用(らんよう)すると、嫌味な奴だと嫌われることもある。
もって回った言い方をしなくても、はっきり言ったらいいじゃないかと
反発されることもあるからだ。
なんとも言葉は難しい。 切り口:
[産婆術]
自分の考えていることと反対のことを言うことで、いったいどんないいことがあるだろう。
このアイロニーという語が生まれた歴史的な背景を考えてみると、
アイロニーを使うことは、相手にものを考えさせるすべとなることがわかる。 古代ギリシアの哲学者のソクラテスはポリスで知者として
知られている人々を次々と訪問した。 そしてたとえば美とはどういうものか、勇気とはどういうものか、
教えてほしいと頼んだのだ。
ぼくはまったく知らないからと。 すべての人に対してそう。。
ある意味あなたの欠陥なんだろうとは思うし、
それがあなただから嫌い 嫌いだけど、素晴らしい精神力とバランスと文句なんて
表立ってない行動力を持ってるよ 相手は勇(いさ)んでソクラテスに教えようとする。
すると知らないはずのソクラテスは、相手の言っていることに
矛盾があることを指摘する。
そして相手は、自分のうちに盲点があったこと、
知っていると思っていることを実はほんとうに知っていたわけではなかったことに気づくのだ。
ソクラテスはそのために「エイロニ」、
知っているのに知らんぷりをする奴と嫌われた。
ソクラテスが死刑にされたことの背景には、こうしたアイロニーの営みがあったわけだ。 でもこうしてソクラテスが作りだしたアイロニーという方法のおかげで、
そしてそれを記録した弟子のプラトンのおかげで、ポリスの住民たちと同じように、
ぼくたちは勇気とは何か、美とは何かをほんとうは知らないのではないか
という自覚に促される。
そして勇気とか美とかについて、自分でもう一度考えなおしてみようという
探究に誘われる。
これはアイロニーの力だ。
ソクラテスはアイロニーを駆使した対話によって、相手が知っていると思っていることを
実は知らなかったことに気づかせ、そこから真の知に向かって進ませようとした。
そして自分のことは真理を生みだすために手を貸す産婆のようなものだと考えていた。
アイロニーは産婆術でもある。 [真の認識]
ところでアイロニーには真理を生みだすだけでなく、
後になってその真理に気づかせるという皮肉な役割を果たすことがある。
たとえばぼくがそれまで長いあいだ親しくしてきた異性の友人に飽きて、
別れたいと思ったとする。そして
「こんな素敵な人と別れるなんて、ぼくはばかだよなぁ」
と言ったとする。 そのときぼくは本当に別れたいと思っているのだから、これはアイロニーの表現だ。
でも数年して、その人がほんとうにぼくのことを思って、
身をひいてくれたのだとわかったとしよう。
するとこのアイロニーの言葉は、実は真理だったことになる。
ぼくはその人と別れて、"ほんとうに"ばかだったのだ。
それがぼくの別れの言葉に含まれていたアイロニーなのだ。
こうしたアイロニーにおいては、見かけの表現と真実の事態が鋭く対立している。
そしてうわべだけの真実だと思われたことが、
実は真実だったことが明らかになるとき、
ぼくは自分の言葉のアイロニーの鋭さに大きな傷を負うことになる。 展開:
このようにアイロニーには創造的な力だけではなく、傷つける力がある。
アイロニーには鋭い棘(とげ)があるのだ。
アイロニーを語る人は、相手よりも高い目線から語ることが多いものだ。
でもアイロニーで相手を諫めようとしても、相手が反発を感じて
背を向けてしまったら、意味はなくなってしまう。
そんなときには、相手と同じ目線で語ろうとするユーモアやウィットを
用いたほうがいいのではないか、と考えてみるのも大切ではないだろうか。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 伸びるリードが出てから、もうめちゃくちゃ。
道路や歩道全部使って散歩。
犬が死んでも良いって考えなんだろう。 【アウラ】
ポイント:
キリスト教の聖画を見たことがあると思う。
聖者やイエスやマリアの頭の上に丸い輪のような後光がさしているよね。
あれがアウラなのだ。
周りの人々には後光が描かれていないので、
どこにでもいる人のように見えるけど、
アウラがついていると、特別な人、なにかありがたい人のように見えるはずだ。 切り口:
[個性]
聖者の絵では後光を書くことでアウラを表現することができたけれど、
現実の世界には後光をかついで歩いている人などいない。
でもぼくたちはある人とつきあっていて、その人に特別な力や強さを感じることがある。
その人が部屋に入ってくるだけで空気が変わってしまうという経験をすることがあるものだ。 これは個人的な愛着や印象だけに限るわけではない。
好きな人が部屋に入ってきたら、ぼくにとっては空気が変わるだろうけれど、
ほかの人にはその変化は感じられない。
アウラというのは、個人的な好みとは別に、
その人にかなり客観的に付着している力のようなものなのだ。
こうしたものをもっている人について、ぼくたちは
「あの人にはアウラ(オーラ)があるね」と認めるのだ。
ある種の強烈な個性でもある。 [オリジナル]
アウラという概念は、ドイツの哲学者のベンヤンミン(1892〜1940)のおかげで有名になった。
だからアウラという語が使われているときには、ベンヤミンの文脈も考えておく必要がある。
ベンヤミンはオリジナルな芸術と、複製された芸術の違いを強調するために、
複製ではないオリジナルな絵画には、アウラがあるが、
それが画集のように複製されたものだと、
ほんらいの作品のもつアウラが薄れてしまうことを指摘したのだ。 もちろん絵画の複製では原本の作品の肌理(きめ)も筆のタッチもほとんど再現できない。
かつて見たオリジナルの作品を思いだすために役立つくらいなのだ。
世界で唯一存在する作品のもつ「後光」が欠けているのは間違いない。
ただしベンヤミンはこの概念でたんにオリジナルの作品が優れていて、
複製の作品は価値が劣ることを主張したかったわけではない。
現代社会における大衆化の進行という、必ずしも悪くない効果が
あることも指摘していることを忘れないようにしよう。
高価な絵は秘蔵されてしまえば人の目から隠されるが、
画集であればだれにでも手に入れることができるだろう。
芸術はアウラを失うことで、現代にふさわしい大衆的なものとなった
という側面もあるわけだ。 [一回性]
アウラは芸術作品だけに登場するわけではない。
ぼくたちの生活においても、アウラが生まれることがある。
人間の生は一回限りで、二度と反復することができない性格のものだからだ。
たとえば秋の夕暮れに、真っ赤な夕日がつるべ落としのように沈んでゆくのを眺めながら、
二度と訪れないこの瞬間を享受することがある。
その瞬間に風景の中で自分の生の一回性を、まるで果物のように味わうことができるのだ。
その瞬間にぼくたちの生はアウラで満たされる。 このアウラは時が経っても消えないことがある。
夕日を眺めたのが、15歳の秋の法隆寺でのことだったら、
そしてその隣に大切な人がいたら、ぼくはその瞬間のことを
一生涯忘れないだろうし、その時刻の味を繰り返し味わうことができるだろう。
一回限りの生においてアウラは身体のうちに刻印されて、
繰り返し享受することができる大切な記憶とともに残されることもあるのだ。 展開:
ところで奇妙なことが発生する。
複製作品や技術的な工芸品でも、アウラが発生することがあるからだ。
ごく初期のコンピュータを考えてみよう。
博物館に収蔵されているコンピュータにはすでにアウラが発生している。
たとえばIBMがトイツで開発した初期のコンピュータは、まだ入力にカードを使う方式だが、
すでに歴史的な遺物としての雰囲気を漂わせている。
このコンピュータという量産品だけではなく、もはや稀少となった
このコンピュータの写真までが、不思議なアウラを放つのだ。
アウラのメカニズムにはまだ大きな謎が含まれている。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【アナロジー(類推)】
ポイント:
アナロジーは、異なる事物の間に、類似した関係を探そうとする。
古代のギリシアでは比例の関係で考えた。
2:4=7:Xなら、Xが14であることは、すぐにわかる。
同じような方法で、世界のさまざまな事象を、自分にとってなじみの事物からの
類推で理解しようとするのがアナロジーだ。
世界の認識は、この類推から始まるといってもいいだろう。
アナロジーは世界を認識したいという人間の欲望の表現なのだ。 切り口:
[モデル]
アナロジーは文学における比喩を作りだすだけでなく、
科学においても思考のモデルとして利用することができる。
たとえば原子核を取り巻く粒子の関係は、太陽系における太陽と諸惑星の関係を
モデルにして考えられることが多い。
そこでは中心にある重量の大きな物体が、重力を働かせて周囲の小さな物体をひきつけ、
回転させているからだ。
このアナロジーを宇宙に適用してみれば、その中心との距離と重力の大きさの関係から、
冥王星の行動を予測することなども可能になる。
アナロジーは科学において多くの発見をもたらす原動力となっているのだ。 [考えられないもの]
アナロジーは、ふつうの手段では考えられないものを考える手段として使われてきた。
たとえば、『聖書』でふつうには理解しがたいことが書かれていると、
ぼくたちが理解できるものに類推して解釈する長い伝統がある。
ただ文字どおりに読むだけでなく、ほかのものにあてはめても読まなければならない
とされてきたのだ。
それだけではなく、理解できないという事実に注目するためにアナロジーが使われることもある。
中世のキリスト教の神学では、神はぼくたちのあらゆる認識と創造の力をもってしても
認識できないものだと考えられていた。
その神の孤立した威力を思考するために、
神学者たちは「神とは……でないもの」という思考方法を採用した。
神について、人間や事物の類推から、さまざまな概念をあてはめてみる。
そして神はつねにその概念を超越したものと考えるのだ。
神がそれをどのように、どこまで超越しているかを考えることが、
神の特性と威厳を考えるための手段となるのである。 思考できないものを思考するために、まず類推関係を築き、
つぎにその類推関係がいかに成立しないかを考察し、説明する。
それが「思考できないものを思考する」ための方法だったのである。
ここではアナロジーは、高いところに登るための梯子(はしご)のように使われている。
最後の段を登りきったら、その梯子はもはや無用になるのだが、
そこまで登るためには、やはりその梯子が必要だったのである。 展開:
この類推は、比例のように確実な知をもたらしてくれるわけではない。
つねに正しい結論が得られる論理的な推論ではないからだ。
比例関係であれば確実に答えは計算できるが、あるものに類似しているからといって、
つねにそのものと同じような性質をもつわけではない。
古代ギリシアの哲学者プラトンの好きだった類推の一つを考えてみよう。
プラトンは船長が船を操縦する技術と、政治家が国家を統治する技術は似ているので、
アナロジーで考えることができると語っていた。
でも航海術と政治の技術にどのような類似があるのか、
うかつに議論が進められないことはすぐにわかる。 ぼくたちの認識はまず類推で動かされる。
それだからこそ、類推の危険性に自覚的であることが必要なのだ。
考えるときにはできる限り想像力を働かせて、豊富なアナロジーを試してみるべきだが、
そのアナロジーがもつ落とし穴には気をつけよう。
どこまで使えるアナロジーなのか、調べてみる必要があるというわけだ。 たとえば人間の身体がアナロジーに使われることが多い。
王は人間の頭であり、国民は人間の手足のようなものだというアナロジーは、
哲学でも宗教でもしばしば用いられる。
でもこのアナロジーの裏側には、
王権の正統性というイデオロギーがはりついているのはすぐにわかると思う。
アナロジーは考えるための道具であるとともに、考える道筋をあらかじめ作ってしまって、
思考の自由度を狭くする場合もあるのだ。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【異端】
ポイント:
異端という概念は、正統という概念と切り離せない。
正統的な教えに反していると非難される異端があるためには、
正統がなければならないし、正統という概念が生まれるためには、
正統的でない異端が存在していなければならないはずだ。
正統は異端との戦いのうちで作られていくものであり、
定規で線を引くように、異端を区別する正統的な教えが
最初からあると考えるべきではないだろう。 切り口:
[宗教的な異端]
異端という概念が西洋で確立されたのは、キリスト教の歴史において、
さまざまな教会会議での激しい論争のうちで勝利を収めた理論が確定される
ようになっていくプロセスの結果である。
何が正統と判定されるかは、その理論的な論拠だけでなく、
当時の政治的な背景にも大きく左右されることを忘れてはならない。
そもそも教会の会議を開催するのが、宗教的な権威ではなく、
ローマ皇帝という政治的な権威であり、
皇帝が何を支持するかが重要な役割を果たすこともあったのである。 後からふり返ると、正統な教義がもっとも普通的なものに見えるとしても、
どのような視点から見るかで、普遍性そのものが変わってくるのだ。
異端とされたアリウス派が正統な教義として定められていたら、
その後のキリスト教の歴史も正統的な教義も
ずいぶん別のものになっていたことだろう。 [他の分野の異端]
異端という概念はこのように最初は宗教的な領域で使われていたが、
やがて宗教以外の分野で主流派から逸脱する流れも異端と呼ばれるようになる。
政治の分野では、ソ連をスターリニズムが支配していた頃には、
スターリンの理論に抗する理論は異端とされ、多くの政治家が処刑されて姿を消した。
ナチス時代のドイツでも、ナチスの公的な理論から逸脱する派閥は異端として処分された。
文化大革命時代の中国で、毛沢東(もうたくとう)の理論から逸脱する政治家が処刑されたのは、
まだ記憶に新しい。 芸術の分野でも、その時点の主流派に対抗する流派は異端と呼ばれることになる。
古典派の絵画が主流だった19世紀半ばには、風景のまったく新しい見方を示した
印象派の画家たちは、異端として主流の展覧会から排除されたのだった。
ただし絵画や文学などの世界では、異端的な流派は新しい革命的な力を
そなえたものとして積極的に評価されることもある。
異端は正統という、こりかたまった既成の体制に攻撃を加え、
新しいものを創造する力となることもあるのだ。 展開:
正統と異端というものは、一つの制度への対応として考えるとわかりやすい。
ある制度として確立されたものは、その中心的なものを正統として表現することになり、
これに反するものは、異端として排斥される。
しかし異端にはこの制度を改造し、作り直していく要素がつねに含まれているのである。
既存の制度がその正しさと強さを輝かせるかに見えるとき、
その制度のうちに慣性のようなものが発生して、変化に抵抗するようになる。
正統として確立されたもののうちは、
制度の変革の芽をつねに摘んでしまう習慣が形成される。
制度のうちに多様性をもちこみ、正統とされたものを相対化することができるのは、
異端的な流れでなければならないのである。 ところで異端にはいくつかの落とし穴があることに注意しよう。
まず異端的な思想のうちには、異端であることで満足してしまう危険性がある。
あえて異を唱えることで満足してしまう危険性がある。
あえて異を唱えることに、存在理由を見いだす傾向が生まれることがあるからだ。
そして正統のもつ力を認識することができず、異端であることだけに
甘んじてしまうのである。 また異端であることは、正統になるための手段とされることもある。
みずから正統とされることだけを目指したり、
あるいは異端の流派の内部で、正統と同じふるまいを再生したりすることがある。
異端の流派が他の流派を排撃する方法が、
正統の流派とまったく同じであることも珍しくないのである。
巧みに異端であること、それもまた困難なことである。 今月の生活費が足りないかも…
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(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【一元論と二元論】
ポイント:
一元論と対立するのは二元論ではなく、多元論であるというべきかもしれない。
一元論とは、世界のすべてをある一つの原理で説明することができるという思想であり、
多元論とは世界のすべての現象は複数の原理で説明しなければならないという思想だからだ。
二元論は多元論の一つにすぎないとも言えるわけだ。
しかし二元論はプラトン以来、哲学の重要な思考方法となってきた。
ある意味ではぼくたちの思考に住みついた考え方なのだ。 切り口:
[哲学の歴史]
哲学の歴史が始まってからというもの、哲学は一元論にとりつかれてきたと言ってもいいかもしれない。
哲学の「祖」と言われるタレス(前六世紀)は世界を「水」であると断言した。
それまでは世界のさまざまな事象を説明するのはギリシア神話の役割であり、
自然の現象もゼウスをはじめとした神々の行為として説明されてきたのである。
たとえば人間は、運命を司る女神アトロポスが糸を切る瞬間に死ぬことになっていたのである。 しかしタレスの「水」から始まって哲学者たちは、
世界を一つの抽象的な原理で説明しようと試みた。
あるものは世界は「火」であると語り、
あるものは「存在」という一なるものだと考えた。
この一元論的な説明は、天の一者からすべての世界が流れだしたと考える
プリティノス(205〜270)の新プラトン主義の哲学などにも引き継がれる。
歴史の全体を「絶対的な精神」が実現するプロセスと考えたドイツ観念論の代表である
ヘーゲル(1770〜1831)の弁証法の哲学も、歴史を動かす要因を経済的なものに見定めようとした
マルクス主義の唯物論(ゆいぶつろん)も、同じように一元的な説明を試みる思想だといってもいいだろう。 [二元論の魅力]
しかし世界を一つの原理だけで説明するのはかなりの力技ともいうべきものである。
「万物は流転する」とヘラクレイトス(前六世紀)が語ったように、
この世界は変化の絶え間ない現象の世界であり、
この変動し続ける世界を一つの原理だけで説明するのは困難に思えるからだ。
そこで登場したのが、流転する現象の世界と、
変化しない理念(イデア)の世界を対立させるプラトンの哲学だった。
プラトンはこの変化し、生成する世界の背後に、変化と生成を可能にする不変の世界が存在すると考えた。
変動する世界も、このイデアの世界を模倣することで可能となると考えたのだ。 この二元論という思考は、イデアを「精神的なもの」、
変化する世界を「身体的なもの」と考えることで、心身二元論を生みだす原動力となった。
ぼくたちの精神は身体という牢獄にとどまっているが、
死とともにこの身体を離れて、イデアの世界に帰還することができるかもしれないと考えたのである。
近代の哲学の土台を築いたデカルト(1596〜1650)も、思考する精神こそがもっとも確実なもので、
身体は物にすぎないと考えた。 ぼくたちには、自分の身体とは別に精神というもおがあると考える癖がある。
これはどこの文化にも見られる共通した思考習慣であり、そのことは否定できない。
だから二元論という思考はどうしても捨てがたいのだ。
精神と身体だけではない。
ぼくたちの思考の習癖となっている二元論的な対立には、
善なるものと悪なるもの、光と闇、実在と仮象(かしょう)、絶対者と絶対でない存在、神と人、エロスとタナトス
など、さまざまな対立関係が思考の枠組みのように使われるのである。 展開:
一元論は、奇抜(きばつ)な議論を展開するには魅力的な方法になる。
なじみの世界が二元論的なものだけに、それを貫く一つの説明原理を提示することは、
この多様な世界を理解するためにとても役立つことだからだ。
そこではぼくたちの想像力と構想力が試されることになる。
一方では二元論は使いやすいものであるだけに、つい安易に用いてしまう傾向がある。
人間の世界は善悪だけで語ることはできないはずだとはよくわかっていても、
善玉と悪玉の対立構図はすっきりする。
それだけに二元論の枠組みのもつ安直さをどう補っていくかという工夫が求められる。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 別の読み物に集中しているのでこちらのチェックが疎かである。
平衡してやるのは(頭に湯気出るくらいなので)まだ難しい。 【イデオロギー】
ポイント:
イデオロギーは辞書では「人間の行動を支配する根本的な考え方の体系」
として説明されているが、否定的な意味で使われることが多い。
マルクス(1818〜83)は、さまざまな理論が科学的な装いのもとで、
資本主義の支配体制を擁護することを暗黙のうちに目的としていると考え、
これをイデオロギーだと批判した。
たとえば古典経済学は数学を使った客観的な科学であることを自称しているが、
実は資本主義を擁護する機能を果たしているというわけだ。
イデオロギーが意識的な形で使われて,体制擁護を直接の目的とするときには、
デマゴギーと呼ばれることが多い。 イデオロギーの特徴は、表面から見る限り、
特定の体制を擁護したり支持したりするものとは見えないことにある。
マルクスは、哲学のような普遍性を目指す理論も、
無意識のうちに体制を補強する役割を果たしていることがある点に注目したのだった。 切り口:
[諸刃(もろは)の剣]
ある理論をイデオロギーであり、意識せずに特定の体制を擁護していると批判することは、
その機能が無意識的なものであることを指摘する限りにおいて、
諸刃の剣のような役割を果たすことに注目しよう。
それが無意識的なものであるということは、批判された側にとっては、
特定の体制を擁護していることを否定できないということである。
だからある理論をイデオロギーと批判する側は、
相手の反論を禁じてしまうことができるという優位を手にする。 ところがこの優位はみずからに跳ね返ってくる。
その理論をイデオロギーだと批判された側は、
同じ論理をもって相手の理論をイデオロギーだと批判することができるのだ。
そして相手は、それに理論的に反論することができない。
マルクス主義はブルジョアジー(資本家階級)の理論をイデオロギーと批判したが、
すぐにブルジョアジーの陣営から、
マルクス主義こそがイデオロギーであると反批判されたのだった。 [終焉論]
イデオロギー的な対立はもはや終焉を迎えたという議論が、
アメリカを中心として第二次世界大戦後から活発になってきた。
さらに冷戦が終わると、社会主義と資本主義のイデオロギーの対立という構図は
もはや無効になったことも、この終焉論を後押しすることになった。
もはやイデオロギーではなく、実証的な科学の時代となったというのである。
しかし、イデオロギーが終焉したという議論そのものがイデオロギーとしての
役割を果たす可能性があることから目を背けてはならない。
これは資本主義の論理が世界を支配しているという事実的な確認と、
それが世界を支配することが望ましいという倫理的な主張をともに含むものだからだ。 [イデオロギーの外部]
このイデオロギーの理論については、
アルチュセール(1918〜90)の議論を忘れることはできない。
アルチュセールは、近代社会において人々が主体となるためには、
イデオロギーという枠組みを必要とすると強調したのである。
社会の中で生きるためにはさまざまな観念の枠組みを必要とする。
善悪、正義、責任などの価値判断そのものが、
こうした外部の枠組みのうちでしか形成されないのである。
一つの文化の中で生きるということは、
一つの価値体系のもとで生きるということであり、
それはだれもがあるイデオロギーの中で生きているということだ。
自分の議論にはイデオロギー的な要素はないと主張することは、
最悪のイデオロギーのうちに落ち込むことなのである。 展開:
だからといって、自分の思考の枠組みそのものであるイデオロギーを
そのまま受け入れてもよいということにはならない。
ぼくたちが無意識的にどのような思考の傾斜の上に立っているか、
どのように考え、どのように判断する傾向があるか、
それが文化的にどのように規定されているか、
これを考えることは思考にとっての重要な課題だからである。
イデオロギーを単純に批判することも、そのまま受け入れることも、
みずから思考するという課題を放棄することにほかならないところに、
イデオロギーの難しさがある。 【イメージ】
ポイント:
イメージという語は広がりの大きな語だ。
像、表象(ひょうしょう)、印象などさまざまな意味で使われるので、注意が必要だ。
イメージは、ほんものでは「ない」という否定的な意味をそなえている。
「イメージだけでものを言う」というように使われると、
本質を理解せずうわべだけを見ていると非難していることになる。
イメージは表層にすぎず、本質はその背後に隠されているというわけだ。
しかしぼくたちが何かを認識するとき、物そのものを把握することはできない。
外界(がいかい)の事物を認識する手段は「像」としてのイメージなのである。 切り口:
[模像(もぞう)]
このように外界の事物を把握するには、事物そのものでなく、その「像」によらなければならない。
プラトンは変動するこの世界の事物は、そもそも真なる実在を模倣したものにすぎないと考えた。
机は机のイデアのイメージを分かちもつことで机になるのだというわけだ。
だとすると、机の像を描いた絵画(かいが)は、実在よりも劣った事物を模写したものにすぎないから、
模写の模写、事物よりもさらに劣ったものだというわけである。
プラトンはこれを「模像」と名づけ、物そのものから二重に離れていると考えた。 [印象]
世界をイデアとそのイメージという二元論的な対立で考えるこのプラトンの哲学は、なかなか魅力がある。
でも外界を認識するには、この「像」によるしかないのもたしかだ。
ぼくたちは生まれてから、自分の身体をもって知覚してきたことをもとにして、
世界について判断をするようになる。
だから人間の認識にとっては、事物のイメージこそがもっとも大切な意味をもつ。
人間の判断の根拠は知覚されたイメージだけなのだ。 [思考停止]
こうしてだれもイメージなしでは世界を認識することができない。
ただし、イメージというものが無垢(むく)ではないことにも注意しよう。
ぼくたちは見えるものすべてを見ているわけではないし、
存在しないものを見ていると思い込むことがある。
見たと信じ込んだことで、考えまで左右されることもある。
像にはつねにある思い込みがまつわりついていて、
同じものについてそれぞれが別の像を抱いているかもしれないのだ。 たとえば湾岸戦争のときに原油まみれた鳥の写真が人々の目を奪った。
あとでこの写真はメディアの操作による「でっちあげ」であったことが明らかになったが、
まっ黒に汚れて飛べなくなった鳥のイメージが、湾岸戦争の正当性と、
戦争と環境破壊についての考え方を決定してしまったのはたしかだ。
ときにイメージはぼくたちから自分で考える力を奪い、他者の思想が押しつけられることもある。 [情報操作]
またアメリカの同時多発テロの後、崩れるツインタワーの映像がテレビで何度も映しだされた。
たしかに繰り返し放映する価値のある映像だったが、ツインタワーがテレビの画面を占領することによって、
ある情報操作が行われていたこともたしかだ。
アメリカ国民は悲劇の感情と報復の意思とを二つながらに感じ続けたはずである。
さらにあの映像が流されることで、ほんらいなら映されるべきなのに、
無視されることになった映像も多かったはずなのだ。 アメリカの大統領選挙ではテレビ討論が重要な役割を果たす。
2000年に行われたゴア候補とブッシュ候補の討論では、
ゴアがこれみよがしに溜め息をつくたびに、票が減っていったという。
現代の政治の世界は、メディアにおける政治家のイメージが選挙を左右するほどに、
イメージの力は大きくなっている。 展開:
テレビや映画では、ほとんど見えないほどのわずかな時間だけ、
明確なメッセージを伝える画像を流すことで、視聴者の無意識に訴えて、
広告したり政治的なメッセージを伝えたりするサブリミナルという手法が利用されることがある。 ぼくたちは無意識的な欲望には強く影響されるだけに、
思考の方向性そのものを決定してしまうイメージの力には
つねに警戒を怠(おこた)らないようにしたい。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【隠喩(メタファー)】
ポイント:
隠喩は比喩のなかではもっとも好まれるものだろう。
ここで主な比喩について確認しておこう。
あるものを「……のようだ」と直接に譬える直喩(ちょくゆ)だ。
「光陰矢のごとし」というのは、過ぎ去る時間の速さを飛び去る矢で譬えたものだ。
部分的なもので全体を代表させるのが換喩(かんゆ)だ。
新聞などではよく「ワシントンによると……」という表現を目にする。
これはワシントンというアメリカの都市がメッセージを発したのではなく、
アメリカ政府をその首都名で示したものだ。
また隠喩は、「……のようだ」と直接に語るのではなく、
それに類似したもので語る。
少女の涙を桜の花に譬えたとき、少女の眼から風もなくはらはらと薄いピンクの桜の
花びらが散り始めるかのような像が浮かびあがる。 切り口:
[起源]
隠喩は詩の作品で使われることが多い。
だから日常の散文的な言語にとっては、隠喩は付随的なもの、
なくてもかまわないものとされることが多い。
隠喩を使わなくてもコミュニケーションできるのはたしかだろう。
ただ隠喩というものはたんにあるものを別のものと比較して、
そこになかった像をつけ加えるということに限られるものではない。
語そのものに、隠喩としての性格があるのではないだろうか。 たとえば「魂」という語を考えてみよう。
昔の日本人は、人間には生命の源のようなものが宿っていて、
これがなくなると死ぬと思っていた。それが「たま」と呼ばれた。
この語が使われるとき、隠喩の機能が働く。
桜の木を桜と呼ぶのとは違って、はっきりと特定できる対象はないのに、
命の源のような存在を想定したからだ。 そしてさらにこの語の隠喩的に使ってさまざまな語が作られる。
ひどく驚くと「魂消る(たまげる)」というし、改心したときには「魂を入れ替える」という。
魂がまるで火のように、あるいは取り出して新しいものに変えることのできる
もののように考えられているのだ。
だとすると隠喩は言語の付随的な機能ではなく、
もしかすると言語の根っこのところにある起源のようなものかもしれないのだ。
だから隠喩は詩人だけのものではなく、
言葉が生まれるための原初的な体験そのものを指しているのかもしれない。 [働き]
隠喩はさらにぼくたちの思考方法を規定することがある。
たとえば指導する者を「頭」と呼び、使われる者を「手足」と呼ぶような比喩は多い。
人間の身体は隠喩の源泉でもあるのだが、それがぼくたちの思想を
規定してしまうことも考えておくべきだ。 また時を川のような流れで譬えることがある。
そうすると、時間は一方向に流れ去るものというイメージが生まれる。
するとぼくたちはもはやこのイメージでしか時間について思考できなくなる。
古代ギリシア人たちは、星の回転運動を観察した結果、時間を円でイメージしていた。
そして歴史は繰り返すものだと信じていた。
しかしいまやぼくたちにはそのような思考ができなくなっている。
それほど隠喩のもつ力は大きいのだ。 [別の思考]
反対にぼくたちは、隠喩の力で思考することもできるのではないだろうか。
ぼくたちになにかがひらめくとき、それは論理的な推論によって生まれたものではなく、
アナロジーや隠喩の力によるところが大きいのだ。
光を波の比喩で考えるのと、粒の比喩で考える二つの方法がある。
どちらも光の性質について多くのことを教えてくれる。 展開:
だからぼくたちは隠喩の力を活用するとともに、
隠喩が歴史的・文化的なものとして形成されてきたものであることも忘れてはならない。
真理を太陽の光でイメージするように、西洋の思考方法は西洋の伝統的な
隠喩の力で規定されているのだ。このことを自覚することは大切なことだ。
西洋の思考の枠組みを作りだしているもの、
西洋の思考の運動を背後で動かしているものがわかれば、
その思考方法につきものの落とし穴に落ちることを避けられるかもしれない。
反対に日本に特有の思考方法につきものの隠喩を理解することができれば、
ぼくたちの思考方法につきものの落とし穴のありかを見分けることができるかもしれない。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【エゴイズム】
ポイント:
ぼくたちはだれもが自分のことをかけがえのない人間だと感じたがっている。
このぼくは世界のうちでただ一人しかいないのだし、
ぼくが死んだらぼくにとっては世界も同時に消滅するからだ。
エゴイズムとは、自分にとって自分だけが重要だと考えるもので、
心理学的にも十分な根拠がある。 切り口:
[自己愛と利己愛]
ところがエゴイズムというのは、ふつうは非難の言葉として使われる。
自分を大切に思うことが、非難されるふるまいとなるのはどこからだろうか。
この問題を考えるには、18世紀のフランスの思想家ルソー(1712〜78)のように、
自己愛と利己愛を区別してみるといいだろう。
自己愛というのは、存在し続けようとする自己への愛情であり、
これを失うことは、その個人にとっては生きることの意味を失うことであり、
精神の病の兆候とも言えるものである。
ところが利己愛というのは、自分にとっては他人のことはどうでもよいと考え、
自分の利益だけを重視することだ。
エゴイズムにはほんらいはこの二つの側面が含まれるが、
利己愛と同じものとして考えられると、非難するための言葉となってしまうわけだ。 問題なのは、人間にとって自己愛は大切だが、それだけでは生きていけないことにある。
人間はだれもが最初は「寄る辺なき存在」として生まれる。
他人の助けなしにはそもそも生き延びることもできないのだ。
だから自己愛を実現するためには、他者の助けが必要であり、
他者への愛が支えとなっているのである。
その意味ではこの他者愛も、自己愛の一つの形である。 しかし利己愛の場合には、この他者への愛情の向け換えが
あまりうまく行われていないと考えることができる。
自己への愛情が強くなりすぎると、他者をたんに自己の利益の手段
としてしか見なされない場合もある。
これがエゴイズムの非難されるべき形である利己愛として示されるのだ。 [エゴイズムの矛盾]
エゴイズムの利己愛はこのように他者を自己の手段としようとする。
しかしそのことが他者にも明白になってしまうと、それはエゴイストにとっても損失である。
だからどこかで妥協しなければならないわけだ。
ぼくたちは社会のうちで、家族、友人、同僚たちなど、
さまざまな人々との関係のうちに暮らしている。
ぼくたちはいわばこの関係の網の目であり、
この網の目がとぎれてしまったら生きていくことができない。
エゴイズムはしかし、網のすべての糸を少しだけ自分のほうに引っ張ろうとする。
ただ、ちょっと力をかけすぎると、糸は切れてしまうものなのだ。
エゴイズムを貫くと、ほんらいの目的が実現できなくなるのが、エゴイズムの矛盾である。 展開:
利己主義の反対は利他(りた)主義と呼ばれる。
動物たちがときに利他的な行動をすることが動物行動学の研究でも明らかにされている。
近くに危険な動物がいることに気づいた母親のヒバリは、うまく飛べないふりをして
雛(ひな)たちを逃がそうとする。
自分の命を危険にさらしてまでも子どもたちの命を救おうとするこの行為は、
動物が利他的な行動をする証拠とされてきた。 ただしこれは自分の生命をリスクにさらしても、
自分の遺伝子を守ろうとする行動であるという「利己的な遺伝子」
の機能によるものであるという理論が提示された。
生物は自分の遺伝子を保存することを第一の目的としており、
利他的な行動をするのも、遺伝子が利己的な行動をするからだということになる。 これは利他主義のうちにも別の形で利己主義が潜んでいると考えるものであり、
動物の利己主義をさらに強調する考え方だ。
ただし人間や動物の行動には次元の違いがあることも忘れてはならないだろう。
ぼくたちは動物としてはもしかしたら遺伝子を守るように行動するのかもしれない。
しかし市民として、国民として行動する場合には基準が異なってくる。
遺伝子の利己主義的な解釈で、市民としての行動まで理解することができないのは
明らかだろう。 【エコロジー】
ポイント:
エコロジー生態学とも訳される。
人間を含む生物は、他の生物や自然の環境との相互作用のうちに存在している。
この関係を考察するのが生態学だ。
地球温暖化が重要な問題となりつつあるいま、
脚光をあびているといってもよいだろう。 切り口:
[生態系]
地球は自然にできた大きな温室のようなものだ。
気温は一定に保たれ、そこから脱出するエネルギーや物質は、
自然の力で細かにコントロールされている。
この緑あふれる惑星が存在し、ぼくたちがそこに生活しているうのは、
奇蹟のようなことなのだ。 この生態系のコントロールはしごく微妙なものであり、
地球を囲む大気から漏れだす物質やエネルギーが変動すると、
地球全体のバランスが崩れてしまいかねない。
いますぐでないとしても、ぼくたちの子孫の時代には大きな影響を及ぼすかもしれない。
それだけにぼくたちは気温やオゾンなどに注意を払う必要があるのだ。
生態系を考察するこの学問の重要性はそこにある。 [生物のバランス]
地球の生物の世界には微妙なバランスが存在している。
植物が光合成を行い、動物が植物を食べ、動物が動物を食べ、
そして死んで土に戻っていく。
この生物の生態系のバランスを崩すと、思わぬ被害が発生することがある。
たとえばそれまで生態系に生存していなかった動物を外部から持ち込むと、
生物のバランスが崩れることがある。
ブラックバスが池や湖を荒らしているのは有名だろう。
遺伝子組み換え大豆を導入すると、生態系に思いがけない変化が発生するかもしれない。
この病害虫に強い遺伝子をもつ大豆がむやみと繁殖し、
他の植物が生存できなくなることも起こりうるからだ。 動物生態学や植物生態学などは、こうした生物のネットワークにも眼を注いでいる。
杉の木を無計画に植林したために花粉が大量に発生して花粉症が流行するなど、
ぼくたちに身近な問題にも取り組む学問なのだ。 [環境保護]
エコロジーは環境保護運動の重要な手段となる。
環境を保護するには、「環境にやさしく」という掛け声だけでなく、
生態系についての詳細な知識と学問が必要だからだ。
現在では環境保護運動とエコロジーがほぼ同じようなものと見なされる。
エコロジストというと、動物生態学や現地の生態系を研究する自然科学者ではなく、
環境保護運動家を意味するようになったのだ。 このエコロジー運動は、自然保護を訴えるあまり、ときに過激な主張を伴うことがある。
ディープ・エコロジーという理論は、人間ではなく環境を保護することを重視する。
人間の生活という観点からの環境保護運動を、人間中心主義として批判するほどだ。 展開:
エコロジー運動の背景にあるのは、人間と自然の関係についての哲学の長い歴史である。
ユダヤ・キリスト教の伝統では、自然とすべての生物は人間のために作られたものであり、
人間が生物を殺して食べることは当然のこととされてきた。
人間が自然に手を加えることも、人間の役に立つ限り許容されてきた。
キリスト教の伝統のもとで発達した科学と技術の力は、
自然を改造することで示されてきたのである。 しかしこの西洋的な科学と技術への信仰が、
自然環境を大幅に損ねていることが明らかになるとともに、
人間と自然の関係が考えなおされるようになってきた。
核爆弾の製造は、それまで存在しなかった原子を核分裂によって
人為的に作りだしたという意味で、科学による自然の改変を象徴する出来事だった。
そして遺伝子操作は、自然の遺伝子に手を加え、予想もつかない状態で招く
可能性があるという意味で、科学による生命の改変を象徴する出来事となる。
人間にもエコロジー的なまなざしが求められる。 これは人間が置かれている条件そのものを改変する営みにほかならないからだ。
ぼくたちがまだ経験したことのない新しい事態が生まれつつあるのである。
このため自然と環境に向かう姿勢が、科学の対象となる中立的なものではなく、
ぼくたちの生き方にかかわる倫理的な性格のものとなってきたのだ。 【エロス/タナトス】
ポイント:
エロスというのはふつう性愛という意味で用いられるが、
現代思想の分野ではもっと広く、生命保存の原理というほどの意味で使われる。
もともとはオーストリアの精神科医フロイト(1856〜1939)の精神分析において、
人間が自己を保存しようとする本能的な衝動をもっていることを意味する。 これに対してギリシア語で死を意味するタナトスは、死の欲動の原理である。
ぼくたちは自己を愛し、他者を愛する強い欲望だけでなく、
ひそかに自己破壊的な欲望に動かされることもあるのだ。 切り口:
[エロスとナルシシズム]
生命保存の原理としてのエロスには二つの側面がある。
自己保存という生物学的な欲動としての側面と、性愛という非生物学的な欲動としての側面だ。
まずぼくたちは生存するためにご飯を食べ、水を飲む。
規則的な眠りも必要だし、適度な運動も欠かせない。
食欲のような欲望はぼくたちが生物として生きるために必要なものだ。
この自己保存の欲動が欠如すると、生存できなくなる。 これに対して広い意味での性愛というものは、生物学的な必要性に基づいたものではない。
ぼくたちはペットに人間よりも愛着することもあるし、異性に対する愛情も
生殖の必要性に基づいたものではない場合が多い。
このエロスはときに幻想のような性質をおびるのであり、
異性そのものではなく、異性の頭髪や足に欲望を固着させる
フェティシズムのような倒錯を生むこともある。 ただこの二つは完全に分離できるものではないのがおもしろいところだ。
人間の自己保存の欲動はナルシシズムをそなえているのであり、
この自己保存の欲動なしでは生きていけないのである。
ところがぼくたちが社会で暮らしていくためには、
自分のナルシシズムの一部を外に向け、他者に向けることが必要となる。
人間の性愛は、他者に向けられたナルシシズムを起源とするとも言えるのである。 [タナトスとマゾヒズム]
フロイトはまた、人間には不可解な死の衝動とも言えるものがあることに注目した。
交通事故など生命を脅(おびや)かす経験をした人が、それを繰り返し夢に見ることがある。
フロイトは夢は欲望の充足(じゅうそく)だと考えていたから、
これを夢に見ることは死を欲望していることになる、というのだ。
密かな自殺欲望を抱えている人のいることは、よく知られているだろう。
ぼくたちには自分の死を望むマゾヒズムが存在しているのではないかと考えたのである。 またフロイトは孫の一人遊びを観察していて奇妙なことに気づいた。
孫は糸巻をベッドの下に転がしてはオーと言い、
糸をひいて糸巻を取りだしてはダーと言って遊んでいたのである。
オーが「いない」と意味すること、ダーが「いた」を意味することが確認された。 赤ん坊に「いないいないばあ」の遊びをすると、
ふつうは「ばあ」のところできゃっきゃっと喜ぶ。
しかしフロイトの孫は「いないいない」のところで喜んでいた。
フロイトはそのことを、その頃母親が外出がちだったことから解釈した。
孫は母親の不在に耐えるために、糸巻を見えなくすることで、
母親の不在を自分の力の及ぶものとして喜んでいるようだった。
孫は母親を象徴的に「殺して」いたのであり、そのことによって自分を苦しめながら、
喜びを感じていたとも見られるのである。 展開:
このようにフロイトは生の欲動であるエロスと死の欲動であるタナトスを対立させて考えたが、
ここには奇妙な逆説がある。
フロイトは、エロスは人間が愛しあう人と一体になろうとする欲望だと考えた。
しかし同時に死には、人間が誕生する以前の原初的な一体性に戻るという意味がある
とも考えたのである。
だとするとエロスの欲動も死の欲動も、失われた一体性を回復しようとする
衝動だということになる。
エロスとタナトスは、人間を動かすさまざまな欲望の二元論だが、
実は原初の状態への回帰という一元論的な欲望の二つの姿なのかもしれない。 【演繹/帰納】
ポイント:
演繹は帰納と一緒に考えてほしい。推論の二つの主要な型だからだ。
演繹するというのは、まず一般的な法則を立てて、
それを個別の事例にあてはめる推論のやりかただ。
帰納というのは、多数の個別の事例をもとにして、一般的な法則を定める推論だ。
一般的な法則に"帰って"くるので帰納だと覚えるといいかもしれない。 切り口:
[演繹]
演繹はまず一般的な法則を立てる。
「人間は死ぬものだ。ぼくは人間である。だからぼくは死ぬ。」
この三段論法は前提が正しく、ぼくが人間という集合に所属することが確実であれば、
かならず正しくなる。
演繹とは、正しい推論のことであり、論理学とは正しい推論について研究する学問のことである。 ただし問題なのは、演繹は絶対に正しいとしても、それは推論の形式だけの正しさであり、
内容の正しさではない。
ぼくがもしサイボーグであったならば、人間という集合に属するものであるか
どうかは定かではなくなる。
医学がさらに威力を発揮して、臓器を交換しながら不死を実現できるようになるかもしれない。
その場合には死の定義そのものが変わってくるので、論理的な形式は正しくても、
事態を正しく示す推論ではなくなるかもしれない。 あるいは推論の背景にあるゲームの規則を変えるだけでも正しさは失われる。
1+1=2というのは、十進法の計算であるという前提のもとでだけ正しい。
二進法では1+1=10と答えなければならなくなる。
論理的な正しさというのは、いくつもの約束ごとに守られている場合だけに言えることなのだ。 [帰納]
帰納は多数の観察例を集める。
カラスを観察し、一羽のカラスが黒く、二羽目も黒く、千羽目も黒いとすると、
すべてのカラスは黒いという推論を定めることができる。
しかしこの推論は演繹とは違って、絶対に正しいとは言えない。
推論の形式にその結論の正しさを証明する力がないからだ。
だから一羽でも白いカラスが登場すると、この推論は間違っていたことが明らかになる。
帰納はつねに誤りになる危険性に脅(おびや)かされた推論なのである。 しかし考えてみれば、物理学などの自然科学で真実とされている法則は
どれも多数の測定と観察に基づいて構築されたものである。
幾何学などは初めに公理を立てて、定理を定めて順に演繹していく。
だから前提さえ認めれば、絶対に正しい体系ができるはずだ。
しかし観察に基づいた法則は、その観察に反する事実が出てくれば、
それは間違っていることになる。
観察に反しなくても、その法則で説明できない事実が確認された場合には、
もっと別の法則に代えられる可能性もある。
ニュートン(1642〜1727)の物理学はずっと正しい体系だと考えられていたが、
アインシュタイン(1879〜1955)がこの物理学では説明できない事実を指摘し、
それを説明できる新しい体系を提示したので、絶対に正しい体系ではなくなったのである。 また帰納に関しては反証可能性という概念を考えておきたい。
科学と哲学の関係について考察したポパー(1902〜94)は、
一つの事実でその推論の正しさが否定されるという帰納の欠陥(けっかん)
を逆手にとって、反証できることが科学の資格だと考えた。
科学の世界である発見を行うと、他の科学者がそれを反復してみて、
それが正しいことを検証した場合に限って、その発見が認められる。
同じ実験をしてみて、その発見に反する結果が出た場合には、
それは科学的には否定されるのだ。
たとえどんな立派な体系でも、他の人々が反復してみて、
その正しさを確認できないものは、客観的に検証できる方法がないので、
科学とは認められないことになる。 「展開:」続き
精神分析では患者が否定するということは、
無意識のうちにそれを肯定していることだと考える。
マルクス主義にはイデオロギーという仕掛けがある。
どちらも客観的に検証ができない仕組みになっているのだ。
だからポパーは、反証できる仕組みをそなえていないものは
科学ではないと主張するのだ。 展開:
また帰納に関しては反証可能性という概念を考えておきたい。
科学と哲学の関係について考察したポパー(1902〜94)は、
一つの事実でその推論の正しさが否定されるという帰納の欠陥(けっかん)
を逆手にとって、反証できることが科学の資格だと考えた。
科学の世界である発見を行うと、他の科学者がそれを反復してみて、
それが正しいことを検証した場合に限って、その発見が認められる。
同じ実験をしてみて、その発見に反する結果が出た場合には、
それは科学的には否定されるのだ。
たとえどんな立派な体系でも、他の人々が反復してみて、
その正しさを確認できないものは、客観的に検証できる方法がないので、
科学とは認められないことになる。 精神分析では患者が否定するということは、
無意識のうちにそれを肯定していることだと考える。
マルクス主義にはイデオロギーという仕掛けがある。
どちらも客観的に検証ができない仕組みになっているのだ。
だからポパーは、反証できる仕組みをそなえていないものは
科学ではないと主張するのだ。 【概念】
ポイント:
概念という語は、形而上などと同じように、
中国の古い文献から取られたものだという意味で、ユニークだ。
概とは升(ます)で粉などをはかるときに、余った部分をかき落とす棒を指す。
その升にはいるものだけを集める道具なのだ。
概念は知覚した対象のさまざまな表象のうちから性質の違うものをふるいわけて、
共通なものを取りだすという役割を果たす。
また西洋の言語では、概念という語は「つかむ」という動詞から作られていることも
興味深い。人間は対象を概念によって認識するが、そのとき人間はそのものを
手でつかんでいると考えるわけだ。 切り口:
[普通名詞]
その意味で概念は、ときに具体物を表す普通名詞と同じように使われることもある。
石という普通名詞には石と石でないものを区別する定義が含まれているので、
こうした名詞も概念と呼べるのだ。
概念は存在する事物だけでなく、「判断」や「意思」など抽象的なものを指すこともある。 [普通と個別]
この概念をめぐっては、長い議論の歴史がある。
ソクラテスは美という概念の定義を追求したし、
プラトンはそれに美のイデアという存在を割り当てた。
プラトンは真の意味で存在するのはイデアであり、
美しいものは、その美のイデアを分けてもらっているので
美しく見えるのだと考えたわけだ。
美しいものははかなく脆(もろ)い。
しかし美そのものは衰(おとろ)えることも、汚れることもない。 このプラトンの考え方を言い換えると、美という普通的なものが存在するから
個別の美が存在するのであり、個別の美は普遍的な美よりも一段階劣ったもの
だということになる。
概念が実在するのか、概念は個別のものから作られた抽象的なものにすぎず、
実在するのは個別なのか、という問題が争われたのだ。 [普遍論争]
中世の哲学論争に幕を下ろしたのは実在するのは概念ではなく概念は「名」にすぎない、
実在するのは個別であるという結論だった。
近代は概念の優位が転落し、ぼくたち個々の人間の地位が確認された時代だった。
たしかに人間という概念がどこかに存在しているというのは近代的な視点からは
おかしく見える。
人間が一人もいなくなった地球では、人間という概念そのものが不要になって、
消滅するかもしれない。
しかし人間が一人でも生き延びていれば、この人間が自己を思考するために
人間という概念は存族するだろう。 ぼくたちの思考は抽象によって生まれる概念で組み立てられている。
概念的というと、ときに具体性に欠けるという否定的な意味を含むことがあるが、
人間がコミュニケーションをするには概念に依拠(いきょ)せざるをえないのだ。 展開:
ところでぼくたちはたんに「人間」や「自由」のような個別の概念で考えるだけではない。
さまざまな概念が生まれるにあたっては、ぼくたちが世界をどのように眺めているか
が大きな影響を及ぼしている。
森に生えている樹木(じゅもく)を「木」としか呼べない人と、
その森が食物(しょくもつ)と薬の宝庫に見える人では、
森と樹木の概念そのものが違ってくるはずだ。
どのような概念を作っているか、そしてそれらの概念がどのように結びついているかは、
世界の見方を大きく変えるはずだ。 この概念の枠組みは、時代と社会ごとに異なるものだろう。
世代を継承することを重視した中世のイエと現代の核家族のイエでは
大きな違いがあることは、「家」という概念が日本の社会のうちでも
変化していることを教えてくれる。
また同じ時代のうちにあっても、インドの社会とぼくたちの社会では、
思考の基盤となる概念の枠組みが微妙に違っているかもしれない。
もしかして同じ概念を使いながら、ぼくたちはかなり違ったことを
言っているかもしれないのである。
インドの「民主主義」の概念と日本の「民主主義」の概念が違うとしたら、
ぼくたちはほんとうにコミュニケーションできているのだろうか。
これは翻訳された概念がほんとうに同じものかどうかという疑問とともに、
普遍的な思考に対する信念を揺るがす問いと言わざるをえないのだ。 【仮象】
ポイント:
ぼくたちはどんなものでも、その「見える姿」からしか判断することはできない。
しかし見える姿がその真の姿と違うこともある。
そのとき、その見える姿を「仮象」と呼ぶ。
見える姿が真の姿、その本質から逸脱していると考えるからだ。
仮象にすぎないというのはつねに否定の言葉で、君は本質を知らないね、
と暗に言われていることになる。 切り口:
[錯覚]
仮象の一つである錯覚を例に考えてみよう。
たとえば真っ直ぐな棒を水の中にいれて横から見ると曲がっている。
いくら目を擦っても曲がって見えるのだが、水から取りだして見ると棒はやっぱり真っ直ぐだ。
ああ錯覚だったのだとそれでわかる。
棒が曲がって見えるのはたしかで、これは否定できない。 [人間に固有の仮象]
ところで錯覚は避けられないものだ。
水の中の棒はだれが見ても曲がっている。
どうやら錯覚という仮象は、人間という動物が地球という錯覚で
生きていくために必要な誤謬(ごびゅう)らしいのだ。
人間に固有のこうした仮象は視覚の世界だけではなく、
思想の世界にもある。 たとえば神が存在し、それを証明できるという議論は、
古代から西洋のキリスト教社会では長く続けられてきた。
人間は自由であるかという議論もそうだ。
宇宙には始まりがあったのかという議論も歴史が長い。
こうした議論はときに宗教的な論争になり、
哲学的な議論になり、科学的な探究の源泉となる。
そして決着がつかない性質のものだ。
カントはこうした議論のことを、人間の理性に固有の仮象と呼んでいる。
これは闇の中で縄を蛇と見間違えた仮象とは違う性質のものであり、
いわば生産的な仮象なのだ。 [二元論]
この外見と誤謬の関係は古代のギリシアの時代から考察されてきた。
ヘラクレイトス(前六世紀)のように、ぼくたちを取り巻く変化と運動の世界が、
世界の真の姿なのだと考えるべきなのか、それともプラトンが語るように
真の世界は不可視のイデアの世界であり、
ぼくたちの世界は仮象の世界にすぎないのだろうか。
この対立する視点から、一元論と二元論が生まれることはすぐにわかるだろう。
仮象という概念は、この二元論の世界観から生まれることが多いのだ。
一元論では仮象を否定するか、仮象と真の姿を和解させる方法を必要とする。 [本質の現れ]
一元論のように仮象を否定するのではなく、仮象が本質を誤認したものである
という考え方そのものを批判する議論がある。
本質という抽象的な概念は、そもそも概念としてしか考えることのできないものだ。
人間という本質はそのものとしては姿を現すことはできない。
君やぼくがいて、ぼくたちを抽象した概念として、人間という本質が現れる。
だから本質はつねに個別なもののうちにしか現れないのであり、
本質が現れるとき、それはつねにどこか歪曲(わいきょく)され、
ずれているに違いない。
本質は現れるときにはつねに仮象に見えるはずなのだ。 展開:
仮象という現れの「正体」を暴こうとすることで、
新しい認識が登場するという役割にも注目したい。
資本主義の社会ではお金に購買価値がそなわっているように見える。
また労働者は自分の労働力を賃金で等価交換しているように見える。
しかしこうしたものが仮象にすぎないことを明らかにしたのがマルクスだった。
仮象の働きを考察することで、資本主義のメカニズムが解明されてきたのだ。 また、仮象という語には否定的な意味合いがあるが、
これを否定的でなく語るときには、現象と呼ばれることが多い。
人間にとって現れるものという意味であり、
ときには人間が認識する対象を指すためにも使われる。 フッサール(1859〜1938)が始めた現象学という方法は、
人間にとってのこの現れを手掛かりに、
人間の認識の構造を探ろうとしたのだった。
人間はさまざまな偏見をもって世界を認識する。
これについては「現象」を参照してほしい。 【現象】
ポイント:
現象とは現れということであり、それは世界が人間に「像」として立ち現れることを意味する。
古代ギリシアのプラトンの時代から、見えるものとしての現象には仮象という性格と、
真理という性格があった。
プラトンは人間が認識できる現象は、実在そのものではなく、
実在の仮象にすぎないと主張していたが、
プラトンの真なる実在(イデア)、アリストテレスの形相(エイドス)という語はどれも
「見られたもの」という意味の語から作られている。
真なる実在は、見られた現象という意味から離れられないのである。
真なる実在とたんなる現れというこの現象の両義的な性格は、
現代にいたるまで続いている。 切り口:
[本質と現象]
現象の概念のこの両義的な性格をうまく表現し、現象とは別に実在そのものを示す本質
のようなものが真理として存在しないことを示した、ヘーゲルの現象についての考え方を紹介
してみよう。
たとえば光を考えてほしい。
光の現象とは、湖の表面が輝き、夕焼けで空が赤くなり、樹木(じゅもく)から落ちる木漏れ日である。
しかしこれらの現象の外に、光そのもののようなものがあるのではない。
光の本質は、これらのさまざまな現象としてそのまま現れているのだ。
君が詩人だとしよう。
君の詩人としてのほんとうの力は、書かれた作品のうちに現れる。
君が「ぼくはもっと優れた詩人だし、ぼくの力はこんなものじゃない」
と言い張っても、君の真の力は君の作品のうちに現れたものでしかないはずだ。
現れとは、実在そのものではないだろうか。 ぼくたちは、何か隠された物自体のようなものや本質的なものがあって、
それが人間に仮象である現象として現れると考えがちだ。
ところがヘーゲルは、本質というものは現象しなければどれほどのものでもないと考えた。
本質あるいは真理は現象として現れるというこの洞察は鋭い。 [遠近法]
すべてのものは人間に現象として現れるほかない。
そしてすべての人にとって、世界の現れは異なっているはずだ。
二人の人が同じ草原を眺めているとしても、すでにその位置が違うし、
その人の視覚能力が異なれば、見えかたも違うはずだ。
それに個人的な経験と記憶の違いで、その風景に別の思い出を重ねているかもしれない。
だから同じものを見つめる無数の視点があり、その視点ごとに違った現象が現れることになる。 ニーチェはこの視点の違いに注目して、人間のすべての価値判断の背後には、
それぞれの人間に固有の遠近法があるのだと考えた。
人間が何かを認識するというのは、その人の遠近法に基づいて世界を切りとる
ということであり、人間の眺めている世界のほかに、真の世界は存在しないことを指摘する。
知覚そのものに価値判断が含まれ、それが人間という種や、その人の個人的な経験によって
彩色されているというこの視点は、真理という概念を相対化するという機能を発揮した。 展開:
ところでヘーゲルの現象の概念をひきついだのがフッサール(1859〜1938)の現象学という学問である。
現象学ではぼくたちの知覚のうちに現れる現象しか信用しない。
人間の意識は意識する行為と意識される対象という志向性の構造をそなえている。
すべてのものがこの構造のうちで解明されるのだ。
カントは認識する人間の知覚と判断の構造だけに注目していた。
カントは認識される現象そのものの性質にはあまり興味を示さない。
ところが現象学では、人間が認識した現象の性質そのものと、精神における働きにまで目を向ける。 たとえばフランスで現象学を展開したメルロ=ポンティ(1908〜61)は、
知覚という行為がどのようにして人間にとって可能になり、
どのような構造をそなえているかを詳細に研究した。
二つの掌を合わせるという行為から、切断した脚にまだ痛みを感じるような出来事にいたるまで、
詳細に考察できるようになった。
怠惰について、眠気について、目覚めについて、人間のあらゆる行為をその現実の現れから
考察する方法を編みだした現象学という方法の用途は無限だといってよい。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ ■勉強法コラム
均衡ある演繹法・帰納法的学習
http://examics.web.fc2.com/column/how-to-study/deduction-induction.html
要約
勉強をする際には、問題を解くための前提となる一般的・体系的な知識と理論を身に付ける演繹法的学習と、
それらを個別具体的な問題を通じてその知識と理論を自分で扱えるようにする帰納法的学習を上手く組み合わせる必要がある。
演繹法的学習は知識や理論を自明であることを前提に一般化・体系化して統合していくインップット的学習である。
帰納法的学習は問題演習を通じて個別具体的な事項に分解する分析・観察力を養成するアウトプット的学習である。
前者はその性質故に時間をかけて勉強する割合が高くなるが、後者は一度解いた問題は何度も触れて経験を多く行うことが肝要となる。
いずれも短い時間でよいので定期的な復習を日々の学習に取り入れることが必要となる。
両学習法は別個に独立したものではなく相互に関連し合い補足する関係にあるため、
バランスよく目的意識をもって勉強することを心掛けなければならない。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【形而上/形而下】
ポイント:
これは「概念」という語と同じように、中国由来の言葉だ。
『易経(えききょう)』でこの二つの語は対比的に定義されている。
形而上とは道のこと、形而下とは器のことというのが定義だ。
道とは形がなくて、目で見ることはできず精神で認識すべきものであり、
器とは目で見えるもののことだ。
だから形而上とは精神的なものであり、
形而下とは物質的なものである。
でも現在は、形而上と形而下という形ではほとんど使われなくなっている。
形而上的という用語は、現実に即さない抽象的な思弁を非難するために
使われるにすぎないのだ。 糖質はラベルに過ぎないと話したが、
やはり糖質らしい糖質はいる。
気のせいなのに、私の個人情報垂れ流してると主張する云々。
俺みたいなのも糖質。
月末の夜更け、早朝に非通知で電話するやつ。
どういう思惑か知れないが、
関わらない方が身のため世のため人のためやぞ。 それともFB経由か?凝ったイタズラだな。
かれこれ一年以上にはなるんだぜ? それに私は寝ている時は電源を切るポリシーを持っている。
ので、確実に出れない。
掛けるとしたら昼間にすればいいのだがん。グレンラガン。 彷徨う子羊に関わること 〜「多数の幸福」と「一個人の幸福」
「100匹の子羊の群れのなかで、1匹の子羊が彷徨い苦しんでいる。
1匹の子羊に関わることが他の99匹の子羊に不利益を与えてしまう。」
このような状況の下で、私が羊飼いであるならどのような行動をとるだろうか。
人間の幸福とはなんだろうか、社会の幸福とはなんだろうか。
答えのない答えを求めた人間観。 敢えて単純で抽象的な問いを自分自身に問いかけてみた。 コインチェックが取引を一時停止 仮想通貨取引所大手
仮想通貨取引所大手のコインチェック(東京・渋谷)は26日午後、
取り扱う全通貨の出金を一時中止すると発表した。
ビットコイン以外の12種類の仮想通貨の売買も中止している。
仮想通貨「NEM」の不正送金が指摘されたことを受け、
原因究明のために全通貨の出金停止に踏み切ったとみられる。
コインチェックの取引の一時停止を受け、仮想通貨は軒並み下落した。
情報サイトのコインマーケットキャップによると、
NEMの価格は5時間で約2割、ビットコインも約1割下落した。 コインチェックの仮想通貨不正流出、過去最大580億円
仮想通貨取引所大手のコインチェック(東京・渋谷)は26日、
利用者から預かっている約580億円分の仮想通貨が外部からの
不正アクセスにより流出したと発表した。
2014年に日本のビットコイン取引所だった
「マウントゴックス」が約470億円分を消失させて以来、
過去最大の仮想通貨の流出となる。 同日都内で記者会見を開いた和田晃一良社長は
「このような事態になり深く反省している」と謝罪した。
現在は一部サービスを停止し、再開の見通しは立っていない。
26日午前3時前に仮想通貨の一種である「NEM(ネム)」
のほぼ全額が不正に外部に送金された。
同日午前11時過ぎに社内で異常を検知し、全通貨の出金を中止した。
NEM以外の仮想通貨の売買も中止している。
NEMの保有者の人数は確認中としているが、
保有者には補償も含めて対応を検討するとしている。
NEMを同社が外部のネットワークと接続できる状態で管理していたことが、
今回の不正流出につながった。
同社のシステムが、外部から不正にハッキングされて盗まれた可能性がある。 金融庁や警視庁には報告済みで、他の取引所にNEMの売買の停止を要請している。
「不正流出が財務に与える影響は精査中」(大塚雄介最高執行責任者=COO)
としている。
コインチェックはビットフライヤー(東京・港)などと並ぶ国内大手取引所の一角。
取り扱う通貨の多さを売りにして利用者を獲得。
口座数などは非公表だが「預かり資産は数千億円規模」(業界関係者)とされる。
17年4月の改正資金決済法の施行で仮想通貨取引所は金融庁への登録を義務づけられた。
コインチェックは関東財務局に登録を申請中だが、まだ審査を通っておらず、
現在は「みなし業者」の立場で営業している。 「ヤミ」は「ヒカリ」と融合したがっているのだヨ…。 見えない相手とのやり取りでしか人格を保てないアワレな男
fairじゃないのよ…Openmasturbationで他人の事なんて一切考えていないの
関わりたくない。精々Pandemoniumに苛まれてなさい! トランプ流サプライズ、米朝首脳会談を電撃発表
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長の提案を受け、米朝首脳会談に同意したトランプ米大統領。
米韓両政府による8日の電撃的な発表は米国の内外に衝撃を与えた。
自らの政権幹部や同盟国にも直前まで知らせず、
慎重論を押し切る「トランプ流」の最大級のサプライズとなった。
「これから韓国が重大な発表をするぞ」。
韓国特使によるホワイトハウスでの米朝首脳会談を巡る発表の約2時間前。
トランプ氏が突如、ホワイトハウスの記者会見室に現れて記者団にこう告げた。
記者団が「米朝対話に関することか」と尋ねると
「それよりもはるかに大きな話だ。信用してくれよ」と笑顔で語った。
オバマ前大統領ら歴代の米国の大統領は折に触れてこの場所で記者会見に応じてきた。
主要メディアを「フェイクニュース」などと攻撃し、敵対的な姿勢を示してきたトランプ氏が訪れるのは初めてだ。
重大ニュースがあることをあらかじめ「通告」し、北朝鮮問題での進展を予測していなかったメディア
の鼻を明かしてやりたいという心境がうかがえる。
ホワイトハウスは国防総省などにも事前に発表内容を伝えず、
同省関係者は「我々は内容を把握していない」と記者団に語っていた。
トランプ氏らごく少数の政権中枢の幹部しか内容を事前に把握していなかったとみられる。
米東部時間午後7時(日本時間9日午前9時)からの発表時間が迫ると、
一部の米メディアが「金委員長がトランプ氏を米朝首脳会談に招待した」と伝え始めた。
韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)大統領府国家安保室長が大統領執務室などがある
ホワイトハウスのウエストウイング(西棟)の前で発表したのは、午後7時10分ごろだった。 真価問われる安倍・トランプ関係 4月に首相訪米へ
韓国大統領特使から北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長の意向を伝えられたトランプ米大統領が、
最初に電話したのが安倍晋三首相だった。
首相はトランプ氏との9日午前の電話協議で、4月初旬に訪米して会談することで一致した。
5月までに開くという米朝首脳会談を前に、米国が安易な妥協に応じないようトランプ氏と擦り合わせできるのか。
安倍・トランプ関係の真価が問われる。
「北朝鮮が非核化を前提に話し合いを始める。日米、日米韓がしっかり連携しながら高度な圧力をかけ続けてきた成果だろう」。
首相はトランプ氏との電話協議後、北朝鮮の変化を評価しながら首相官邸で記者団にこう強調した。
8日夜に首相公邸に若手参院議員を集めて会食した際も、首相はトランプ氏との関係の親密さを披露していた。
ただ日本政府内では、トランプ氏の北朝鮮への対応について「一貫性がなく、ぶれが目立つ」(首相周辺)との見方が多い。
さらにトランプ氏は11月に米議会中間選挙を控えているとあり、
成果を急いで北朝鮮側と安易な妥協をしないかと危惧している。
8日午後(日本時間9日未明)には、トランプ氏は鉄鋼とアルミニウムに輸入制限の発動を命じる文書に署名した。
中間選挙に向けた支持基盤固めの一環とみられ、
中間選挙を意識したトランプ氏の出方への懸念はますます強まっている。
「北朝鮮が対話に応じるからといって制裁を緩める、対価を与えることはあってはならない」。
首相が8日の参院予算委員会で、北朝鮮が非核化に向けた具体的な行動などを取らない限り、
制裁を緩めるべきではないとけん制した。
北朝鮮はこれまで、対話に乗り出す前にあえて強硬策に出て、対話に応じること自体に付加価値を付け、
対話に応じただけや口約束だけで対価を得る、ということを繰り返してきた。
首相の予算委でのけん制は、北朝鮮ではなく、トランプ氏を念頭に置いたものだ。 9日午前の電話は米側からの提案だったが、4月の訪米と首脳会談の実施は日本側から求めた。
米朝首脳会談を前にトランプ氏と会い、北朝鮮との交渉で安易な妥協をしないようクギを刺す狙いだ。
このまま韓国が仲介する形で米朝間で交渉が進めば、北朝鮮情勢を巡る日本の影響力は限定される。
日本人拉致問題の解決が置き去りになる憂慮も強まる。
もっとも米朝首脳会談の結果、仮に北朝鮮が非核化に応じて、
米国が射程に入る大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を止めたとしても、
米国にとっては安全保障上の脅威は弱まるが、日本にとっての脅威が大幅に減るわけではない。
北朝鮮に数百発あるとされる日本を射程に入れるノドンなど中距離弾道ミサイルはなくならないからだ。
首相が4月のトランプ氏との会談で、日本の立場に一定の配慮をしながら金正恩氏との会談に臨むよう、
どこまで伝えることができるか。
これまで培ってきた安倍・トランプ関係の真価は、米朝首脳会談の成果で明らかになる。 名作『1984年』や『動物農場』の著者ジョージ・オーウェルが、
英国の雑誌に「あなたと原子爆弾」と題した一文を発表したのは、
1945年の十月のことだ。
この新兵器は、世界をどう変えるか。
オーウェルは、原爆の製造には巨額の資金と高い工業力が求められるから、
開発できる国はごく少数にとどまるだろうとの分析に基づいて、こう予測した。
<一瞬で数百万の人々を消し去る兵器を持った、二、三の怪物のような超大国が
世界を分割するのを、私たちは目にすることになるだろう>。
そして、核を持つ超大国が互いを制することができぬまま対峙し続ける状態を
「冷戦」と名付けた。
慧眼(けいがん)の作家が、広島と長崎への原爆投下からわずか二カ月後に
「冷戦」時代の到来を見通してから73年。
私たちが今目にしているのは、支配体制を守るために、
貧しい国力を核の開発に傾注している小さな怪物国家だ。
オーウェルは、核兵器の出現で
<権力がさらに少数の者に集中し、支配される者、抑圧される層は
さらに絶望的になる>とも予測したが、飢えに苦しみながらも、
独裁体制への忠誠を強いられる北朝鮮の人々の姿は、
作家の言葉そのものだろう。
北朝鮮が米国に首脳会談を提案し、米国も応じる構えを見せた。
それは、今なお「冷戦」が続く朝鮮半島に雪どけの風を吹かせるのか。
春の足音は、まだ聞こえぬ。 日本列島で冬を越した渡り鳥が北の繁殖地へと帰っていくころである。
<鳥帰る>はいま自分の季語。ふるさとで過ごした渡り鳥は秋に再び日本にやってくる。
鳥たちの季節はめぐる。
<鳥帰る>のころに、東日本大震災の三月十一日がめぐってくる。
今年で七年である。<三月十日も十一日も鳥帰る>。
二月に亡くなった俳人、金子兜太(かねこ とうた)さんの当時の句を引く。
どう解釈してもかまわないのが俳句の良さとおもしろさだが、
この句に込められているのはおそらく、鳥の渡りという不変の自然と
対比した人間のちっぽけさだろう。
平穏無事だった「前日」も、大勢の命を奪った「あの日」も、
鳥たちは変わりなく飛んでいく。ひょっとして三月十日とは1945(昭和20)年の
東京大空襲のことかもしれぬが、そう解釈しても句からにじんでくるのは人間の
無力さと、その悲しみであろう。
七年が過ぎ、金子さんも亡くなり、あらためて、この句をよむとき、
別のメッセージが込められている気がしてならない。
鳥たちは何百、何千キロと必死に飛び続け、元の場所へと帰っていく。
鳥のように困難な旅を成し遂げて「ふるさと」を取り戻そう。
慰めや決意をその句に見る。
約七万三千人がなお避難を続けている。
何年、たとうが、涙を止められない人がいる。忘れてはなるまい。
われわれはまだまだ<鳥帰る>の旅の途中である。 夏目漱石が一時期、ひんぱんに引っ越しをしたのは有名で、
熊本赴任時代は確認されているだけで六軒の家に住んでいる。
わずか四年三カ月の間である。
理由はさまざまで刃傷沙汰のあった家を妻が嫌がったというケースもあったそうだ。
今の感覚で考えると、かなり早い転宅のペースだが、家財道具の量を想像してみても、
現在よりも、引っ越しを気軽に考えていたのだろうか。
「尤(もっと)も不愉快の二年なり」。
そう語ったロンドン留学中も四回下宿を移っている。
進学、就職や転勤などに伴う引っ越しのシーズンである。
今春は引っ越しするには「尤も不愉快」の年になるかもしれない。
トラック運転手の人材不足などで三月下旬、四月上旬の引っ越し業者は
予約さえ困難で依頼できたとしてもかなり料金が高い。
三月末に引っ越す予定の知り合いによると早い段階に業者を見つけ、
何とか予約できたものの、見積金額は通常の二倍近い。
今さら別の業者が見つかるあてはなく、その料金をのまざるを得なかったと嘆く。
どうしても業者が見つからぬ場合、最小限の荷物を自分で運び、
繁忙期後に本格的に引っ越すという手もあるが、
新生活が「辛生活」になりかねない。
業界は来年以降の引っ越し難民対策を。
別の同僚は独立する娘さんの引っ越しを自分でやる決意を固めた。
父親としての評価は上がろう。心配なのはその腰である。 「重老齢社会」が到来 日本、75歳以上が過半に
日本の高齢化が新たな局面に入る。
75歳以上の後期高齢者が65〜74歳の前期高齢者をまもなく上回り、
高齢者全体の半数を超える。
寝たきりや認知症など身体的な衰えが強まりがちな後期高齢者が急増する
「重老齢社会」の到来。
定年退職後も元気なアクティブシニアが活躍する構図は次第に薄まり、
高齢者をどう支えるのかがより深刻に問われる時代が来る。
総務省の人口推計によると、2月1日時点で75歳以上は1764万人、65〜74歳は1766万人。
寿命が伸びていることから、後期高齢者は平均月3万人ペースで増加しており、
早ければ近く発表される3月1日時点の推計で前期高齢者を上回る可能性がある。
今後、75歳以上はどんどん増え、高齢者に占める割合は上がっていく。 ■個人消費に暗雲
政府は人口に占める65歳以上の割合を「高齢化率」として算出している。
1947〜49年生まれの「団塊の世代」が2012年に65歳に到達し始めてから
高齢化率は急速に上がり、17年時点では27%になった。
世界保健機関(WHO)などの定義では7%超の「高齢化社会」、
14%超の「高齢社会」を上回り、21%超の「超高齢社会」と位置づけられる。
ただ今の日本では医療の発展などにより65歳を超えても元気な高齢者は多い。
豊富な資産を持ち、積極的に旅行に出かけたり趣味に打ち込んだりするアクティブシニアは、
むしろ個人消費のけん引役にもなっていた。
個人消費の約半分は60歳以上の高齢者が占める。
そんな状況も後期高齢者が中心になることで変わりかねない。
大きく変わるのが介護だ。
前期高齢者で要介護認定されている人は3%だが、後期高齢者になると23%に跳ね上がる。
高齢者が高齢者を介護する「老々介護」は、75歳以上になると自宅介護の3割を占めるようになる。
特に首都圏で介護の問題は今後深刻になる。
東京は今後5年ごとに20万〜30万人という急ピッチで後期高齢者が増えていく。
東京都は昨年「超高齢社会における東京のあり方懇談会」を発足し、
老々介護や空き家問題などの議論を始めている。
認知症のお年寄りの急増も、お金の流れに大きな影響を与える。 ■保有資産活用を
「日銀でも年金基金でもなく、認知症の人が有価証券の
最大の保有者になる可能性がある」。
みずほ総合研究所の高田創チーフエコノミストは気をもむ。
厚生労働省が補助する研究によると、認知症の人は60代後半で約2%、
70代前半で約5%なのに対し、70代後半になると約10%とぐっとあがる。
株式などの有価証券の多くは70歳以上が保有しており、
持ち主が認知症などになれば運用が凍結される可能性が高い。
2035年には最大150兆円の有価証券を認知症の高齢者が保有すると高田氏は試算し、
「生きたお金が回らなくなれば金融面からの成長が止まる」と懸念する。
財政の持続性などを研究する慶応義塾大学の小林慶一郎教授は
「これからは高齢者を支える負担が増す『重老齢社会』といえる局面に入る。
金融や働き方、財政など様々な分野で社会課題からイノベーションを生み出す工夫が要る」
と指摘する。 安倍内閣支持38%に急落、不支持48%
共同通信社が17、18両日に実施した全国緊急電話世論調査によると、
安倍内閣の支持率が3、4両日の前回調査から9.4ポイント急落し、38.7%となった。
不支持率は48.2%で逆転した。
森友学園への国有地売却に関する財務省の決裁文書書き換えで
「首相に責任があると思う」との回答は66.1%に上った。
「責任はないと思う」は25.8%にとどまった。
決裁文書書き換えの責任を取り、麻生太郎副総理兼財務相が「辞任すべきだ」は52.0%で
「辞任する必要はない」の40.4%を上回った。
野党が国有地売却へ関与したのではないかと追及している安倍昭恵首相夫人については
「国会招致が必要だ」が65.3%。「必要はない」は29.0%だった。 僕の知り合いの知り合いができた副業情報ドットコム
役に立つかもしれません
ネットで検索するといいかも『蒲原のロロムムセ』
EABAE その行進で、歌手・女優のジェニファー・ハドソンがボブ・ディランの
「時代は変わる」を歌っていた。若い世代が古い時代を変えていく。
<今は負けている人もやがて勝利をつかむだろう。時代は変わっていくのだから>。
そんな歌だった。 全米各地での銃規制を求める大規模行進。
主催したのはフロリダ州の高校の生徒である。
その高校では2月に銃乱射事件によって17人が亡くなっている。 首都ワシントンでの行進には約80万人(主催者発表)が集まった。
仲間を銃で奪われた高校生たちの声は歴史的な規模の集会へと姿を変えた。
おそれいる。 生徒の一人がこんな演説をしていた。
「カルメンはピアノの練習で、文句をいうことがもうできない」
「ヘレナは放課後に、友だちとぶらつくことがもうできない」――。
命を奪われた級友の名と、それぞれの「もうできないこと」。
あの悲劇さえなければ、今もできた、悲しみと怒りのリストである。 時代を変えることはできるか。
暗殺、乱射。相次ぐ銃の事件にもびくともしなかった米国の歯車を若者が今、
少しでも動かそうともがいている。
大人たちが手を貸そうとしている。
それが、「八十万人」の意味であろう。 あの女性歌手も母親を銃の凶行によって奪われている。
身近にいた人を銃で亡くした悲しみの力が一つに集まろうとしている。
「時代は変わる」を祈りたい。 藤村操が私の人生の基盤ですが、ちょっとそれに至るまでを紹介。(アウトプットの練習です)
悼む人 天童荒太
これ実は私が20歳過ぎ初めて自力で読破した小説。
要やくすれば、「人が死んだ場所をうろつく謎の男」を追う。
男を目撃した週刊記者、男の母親、男に随伴する何かを背負った女。
この三人の主人公によって、男の真相を暴いていく。
彼の行為を理解した後、またプロローグを読むとその雰囲気に圧倒されます。
「愛」という言葉がキーなのですが、反芻するたびにいろんな意味が味わえます(現在4週目です)。
読んで正解でした。
全体的に暗くてエグい描写もある天童荒太ですが、
「いいなあ」という物語はやはりこれだと思います。
話はそれますが、それるのかどうかわからないのですが、
おくりびと という映画で脇役の火葬場の職人がいます。
その職人が死者に近く、多く触れるからでしょうか、
「死は終わりではなく門である」と台詞を発します。
はっきりとした言葉で説明するには、今の私の技量で伝えられませんが、
何か感じることはありませんか? 日本語が綺麗じゃないな。修正
至る
→いたる
男に随伴する何かを背負った女
→男と出会い共する何かを背負った女
「死は終わりではなく門である」と台詞を発します。
→「死は終わりではなく門である」という台詞を発します。 「現代における最悪の病は、誰からも求められず、見捨てられているという感情だ」
と言ったのは、マザー・テレサだ。
この現代の病を、音楽の力で癒そうとした人がいる。
先日、78歳で逝った南米ベネズエラのホセ・アントニオ・アブレウさんだ。
ベネズエラでは、多くの子どもたちが貧しい地区で暮らし、誰からも期待されず、
自らも何の希望も持てぬまま、非行に走っていた。
そんな子どもたちのために彼はオーケストラをつくったのだ。
無料で誰でも学べる「エル・システマ」という音楽教育の仕組みを国中に広め、
とにかく子どもに楽器を持たせ、合奏させた。
下手でもいい。ちょっと弾けるようになった子が、できない子を教える。
音楽が響き出せば、たとえ拙くとも、子どもたちはそこに自分が必要とされる場所を
見いだす。そういう試みだ。
そうして生まれた音は世界を驚かせた。
心の底から音楽を楽しみ、生きがいを見いだした子どもらが奏でる新鮮な調べは、
超一流の音楽家たちをも魅了し、そのオケ「シモン・ボリバル交響楽団」は、
欧米で最も切符が取りにくいオケの一つとなった。
二十世紀を代表する名指揮者フルトベングラーは
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」
と語ったそうだが、アブレウさんは、人と人とを音楽でつなぐことで、
感動の調べを世界に響かせたのだ。 あたしの持ってるものは唯一無二だからなあw
宇宙一のきみにでさえ嫉妬はしないさ(笑)
ああぴんぽんきたーーー 私が人から好きなものは何、とついつい聞かれたら嘘を述べるか、最悪答えない。
好きなもの=趣味 というのが考えやすい筋書だが、これは単に自己表現。
仕事=人生 といえる謙虚と立派な人格を持つ者が、たぶん最も綺麗だとは思う。
本人はあらためて 好き に気づくのだ。これは魅了される。
完全に社畜根性じゃないかと突っ込まれても、それは意図に反する。
人間の底にある本当の欲求がわからない。誰か教えてくれ。 ■勉強法コラム
均衡ある演繹法・帰納法的学習
http://examics.web.fc2.com/column/how-to-study/deduction-induction.html
要約
勉強をする際には、問題を解くための前提となる一般的・体系的な知識と理論を身に付ける演繹法的学習と、
それらを個別具体的な問題を通じてその知識と理論を自分で扱えるようにする帰納法的学習を上手く組み合わせる必要がある。
演繹法的学習は知識や理論を自明であることを前提に一般化・体系化して統合していくインップット的学習である。
帰納法的学習は問題演習を通じて個別具体的な事項に分解する分析・観察力を養成するアウトプット的学習である。
前者はその性質故に時間をかけて勉強する割合が高くなるが、
後者は一度解いた問題は何度も触れて経験を多く行うことが肝要となる。
いずれも短い時間でよいので定期的な復習を日々の学習に取り入れることが必要となる。
両学習法は別個に独立したものではなく相互に関連し合い補足する関係にあるため、
バランスよく目的意識をもって勉強することを心掛けなければならない。 ワタッコウ(SU) VS かきゅん(RG)
http://www.ni covideo.jp/watch/sm33019549 Korok Forest (The Legend of Zelda: Breath of the Wild OST)
https://youtu.be/kXllNPap39A ,, -━-、
/ ヽ
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/ ト、.,../ ,ー-、
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/ `ー━'  ̄==二= ̄=====三 ==== ̄ ̄===…-─==三≡==━ どんな複雑な文も、いわゆる5つの文型
SV
SVC
SVO
SVOO
SVOC
のうち、最も力強く、最も簡単なSVO(誰かが何かをする)
を使って表現するテクニックを習得したい。 日本人にありがちな英語の会話:
Aさん:What is your job?
(あなたの仕事は何ですか?)
Bさん:My job is an English teacher. What about yours?
(英語の講師です。あなたの仕事は?)
Aさん:I am an editor of books.
(書籍の編集者です)
Bさん:Are you?
(そうなんですね)
使用単語数:合計21ワード 「〜です」を表す「be動詞 (is、am、are)」が頻繁に登場します。
私たち日本人は、「be動詞」を学校でしっかり習いすぎるためか、
すぐbe動詞を使う癖がついている
ようです。 「3語の英語」を基本にした会話:
Aさん:What do you do?
(あなたは何の仕事をしているのですか?)
Bさん:I teach English. What about you?
(英語の講師をしています。あなたは?)
Aさん:I edit books.
(書籍の編集をしています)
Bさん:Great.
(そうなんですね。=いいですね)
使用単語数:合計14ワード Ducks blown off their feet by the wind
https://youtu.be/SEBLt6Kd9EY 北朝鮮「米朝首脳会談で非核化議論」 米報道
トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長の首脳会談をめぐり、
水面下の米朝協議で北朝鮮が首都・平壌での開催を提案していることが明らかになった。
モンゴルの首都ウランバートルも候補に浮かんでいる。
会談の時期は5月下旬から6月になる可能性がある。
米CNNが報じた。
次の国務長官に指名されたポンペオ米中央情報局(CIA)長官と
CIAが首脳会談に向けた調整を北朝鮮の情報機関と秘密裏に進めている。
第三国での会合も開かれたという。
これと並行し、国務省も「ニューヨーク・チャンネル」として知られる
ニューヨークの国連代表部を通じたルートで北朝鮮との接触を進めている。
複数の米メディアによると、一連の水面下の調整を通じ、
北朝鮮は金委員長が非核化の議論に臨む意思があると米側に明言したという。
米側は訪朝時に金委員長と面会した韓国の特使を通じて
間接的に米朝首脳会談の提案を受けた経緯がある。
米朝間の直接のやり取りにより非核化の意思を確認する必要が指摘されていた。
CIAが米朝間の調整を担っている背景には、
次期国務長官に就任するポンペオ氏がまだ米議会から承認を受けていない事情がある。
ただ、平壌開催に米側が応じるかどうかは不明だ。 棒人間
無限の風
ツバサ
糸
あの素晴らしい愛をもう一度 それにしてもサウンドクラウドは自分好み曲を集めるにはどうしたらいいんだ?
ようつべみたく誰かをフォローすればいいのだろうか……。
(答え出てるじゃないか) ラッドウィンプスの棒人間ヘビロテしてる。
同窓会とかで歌えるようになりたい。
割と自信ある曲。 中島みゆきの 糸 もいいな。
これは男女関係だという歌詞ではない。
おのおのが想像できる深い意味がある、と信じている。 今雨降っているのだろうか。モンスター買いに行きたい。 ボクの背中には羽があるとかも受けがいいだろうか。
これは本当に歌いやすい。 中途半端に目くじら立てて政治とオカルトとか語ってるやつ。 ちなみに政治には無頓着である。
生活とは無関係ではないとしてもだ。
意識が低い国民だとは言うまでもない。 インターネットで政治語るやつはことごとく人間らしさを失っていると考える。
なかには立派な人格者はいるが、それでも実際に行動している人は少ない。 もともと政治なんて語れる人間じゃないから。
戦いたいやつは戦えばいいんじゃないか。
この話はやめておこうか。 無限の風じゃなくてイージューライダーのほうがいいかもしれん。 日経新聞にたくさん載るくらいシリアは混乱しているのか。 化学兵器だと。戦闘員だけでなく一般人も巻き込まれて、こりゃ憎悪が拡大するな。 トランプ氏「任務完了」 シリアへミサイル105発
米国防総省は14日、シリアのアサド政権の化学兵器関連施設を対象とした
軍事行動で「すべての標的への攻撃に成功した」と発表した。
米英仏の共同攻撃で105発のミサイルを発射した。
アサド政権による化学兵器の開発は「数年間は妨げられる」と説明した。
トランプ米大統領は14日、
「昨晩は完璧に実行された攻撃だった。英仏の英知とすばらしい軍事力に感謝する。
任務は完了した!」とツイッターに投稿した。
国防総省によると、民間人の被害やシリア国内で米英仏に対して反撃する動きは報告されていない。
ダマスカス近郊の化学兵器の研究開発拠点を破壊し
「アサド政権の兵器開発能力を大幅に後退させた」と強調した。
アサド政権は40発以上の地対空ミサイルで迎撃を狙ったが
「防衛措置はほとんど効果がなかった」と説明した。
シリアでの米軍の目的は過激派組織「イスラム国」(IS)の壊滅として、
シリア内戦への介入は改めて否定した。
攻撃は米東部時間13日午後9時ごろに始まった。
地中海に展開する米海軍の駆逐艦が巡航ミサイル「トマホーク」を発射した。
空爆には遠距離から精密攻撃ができる戦略爆撃機B1も参加した。
ダマスカスや中部ホムス近郊の化学兵器の研究開発センターや
生産・貯蔵施設など3カ所を攻撃対象とした。 秩序乱すロシアへ警告 米英仏のシリア攻撃
米英仏によるシリア軍への攻撃はアサド政権の後ろ盾となるロシアのプーチン大統領
に対する警告にほかならない。
シリア内戦への軍事介入、ウクライナ侵攻、そして米欧に仕掛けるサイバー攻撃や
工作活動などロシアの「悪意に満ちた行動」に歯止めを掛けるため軍事行動で結束してみせた。
トランプ米大統領らは5年前を意識していたに違いない。
アサド政権の化学兵器使用疑惑に際して米英仏は軍事行動に二の足を踏み、
「アサド政権に化学兵器を廃棄させる」とのロシアの提案に乗って攻撃を回避した。
オバマ前米大統領はこの時、「米国は世界の警察官ではない」と発言し、
米国の衰退ぶりを世界に印象付けた。
ロシアはこれ以降、攻撃性を強めた。14年にウクライナに侵攻、
15年に過激派組織「イスラム国」(IS)掃討の口実でアサド政権の軍事支援に乗り出した。
欧州で頻発したISのテロやシリアからの難民問題を利用し、
ウクライナ侵攻を巡る国際的な孤立から脱却した。
同時に米欧に対する工作活動を加速している。
サイバー攻撃や交流サイト(SNS)を通じた情報操作により16年の米大統領選に介入、
同じ手法で欧州にも干渉している。
対ロ政策で団結できない米欧の足元を見透かし、攻勢を掛けてきた。
これが3月に英国で起きたロシア人元スパイの毒殺未遂事件を機に流れが変わった。
ロシアの化学兵器が使われたとされ、米欧で危機感が共有された。
協調して150人のロシア外交官を追放、米国はプーチン氏周辺の財閥などを対象にした
新たな制裁も打ち出した。
今回の米英仏シリア攻撃も米欧のぎりぎりの団結の流れの中にある。 プーチン政権はシリアから引くに引けなくなっている面がある。
アサド政権を死守する姿勢を見せることで米国に対抗する
「強いロシア」のイメージを作り上げてきた。
トルコやサウジアラビアといった米国の同盟国の取り込みを進め、
国内的には愛国心に訴えて支持を高めた。
米欧の圧力に屈する形で弱さを見せれば、求心力の低下は避けられない。
米欧も泥沼のシリア内戦への関与にはちゅうちょしており、
今回の「1回限り」の攻撃は限界も示している。
シリア・中東情勢のさらなる不安定化と衝突のリスクをはらみながら、
米ロ対立の落としどころは見えてこない。 夜更かししてるから目に隈ができてそうだ。
中学生からある。あの頃はもっと酷かったが。 やべえAnswer And Answer流したら何か記憶かすめたがでも忘れた。 自分が棒人間歌うと表現としてあざとく見えるから、
わりとマジでもろばのつるぎかもしれん。 居るじゃんあなたのそばにあなたを理解して付いていってる人が 意味がわからない
あなたはその人を幸せにすれば充分じゃないですか。。。
あたしのこともう捨ててください
苦しい (己でさえも)個人攻撃する棒人間より
イージューライダーの方がお互いの精神面の衛生がよろしいかと。 だいたいYouTube便利だとかいって聴くとですね、言葉失うんですよ。
特に見たくないコメント欄を吸い込まれるように見てしまったりするとですね…… 周りがガス切れの時にきるカードという認識でいよう。
でも歌えるのか?練習しといたほうがいいか? アンダーグラフのツバサで攻めて、イージューライダー、次歌う機会あれば糸か。 あかんあかん2ちゃんでは政治はいっさい語らない心掛けをしているんだった。平常心平常心。
伊達にコテハン名乗ってるだけであってね。文章も特徴的だし。 ハートを磨くっきゃない歌うと盛り上がるかもしれない。 尿にキレが無いんだが。
足した後歩こうとすると少し漏れる。
濡れて気持ち悪い。 「朝飯前」を英語にすると?
× It's before breakfast! (それは朝食の前)
○ It's a piece of cake! (そんなの朝飯前です!)
「ケーキ一切れ」、a piece of cake を使って、「朝飯前」
つまり「とても簡単であること」を表します。
しかし何となく気恥ずかしくて言えない……。 使える表現の選択
It's easy! (そんなの簡単です)
これはわかりやすい。以下の表し方もある。(3語テーマ)
I can do that! No problem. (できます。簡単です)
3語に No problem. をつけ加えるとよく伝わる。 「英語で伝える」ということは、
日本語の単語と英語の単語を対応させて表すことではありません。
誰でも知っていて、誰にでも使える英語表現で、
新たに英語を組み立て直すことです。
中身が簡単に伝わり、誤りが起こりにくく、自信を持って使える英語を目指しましょう。 /⌒ヽ
/ ´_ゝ`)すいません、ちょっと通りますよ・・・
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U .U /⌒ヽ
/ ´_ゝ`) ちょっと気になったのでしばらくここに居させてもらいますよ・・・
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U .U
/⌒ヽ
/ ´_ゝ`)
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と__)__) 旦 学生寮で二人一部屋だったら一緒に寝てもバレない
みたいな経験してもよかった(小並
ただしエロはNG トランプ氏、北朝鮮対応で「日米結束」 首脳会談始まる
安倍晋三首相とトランプ米大統領との会談が17日午後(日本時間18日未明)、
米フロリダ州のトランプ氏の別荘「マール・ア・ラーゴ」で始まった。
トランプ氏は冒頭、北朝鮮対応で
「日米は固く結束している。北朝鮮について意見は完全に一致している」と述べた。
27日に開く南北首脳会談にも触れ
「韓国と北朝鮮が戦争状態を終結させる話し合いに臨むのを私は支持する」
との認識を示した。
6月初旬ごろに米朝首脳会談を開くとの見通しを示したうえで
「それがうまくいかなければ強い姿勢で臨む」と北朝鮮をけん制した。
首相とは
「貿易や安全保障について話す。米国の装備品を多く購入してもらうこともあるし、
我々も日本からたくさんのものを買っている」と語り、通商問題も話し合うとした。
首相は、北朝鮮問題について
「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化とミサイルの放棄に向け、認識を共有したい」
と呼びかけた。
「日本にとって大切な拉致問題について積極的に話し合いたい」とも語った。
首相は会談を通じ、北朝鮮が非核化への具体的な行動をとらない限り
「最大限の圧力」を緩めないとの方針を確認したい考えだ。
米朝首脳会談で日本人拉致問題の解決をトランプ氏から提起するよう要請する。 両首脳の会談は今回で6回目。
首相がトランプ氏の別荘に招かれるのは昨年2月に続いて2度目だ。
トランプ氏は会談に先立ちツイッターを更新し、日米首脳会談では
「通商と安全保障について話し合いたい」
「もうすぐ安倍首相と会う。彼は本当に紳士的なんだ」
などと書き込んだ。 「そこは手を出すな。俺はノンケだからな。お前は好きだが」 うおおおおおおおおおおおアイギスううううううううゥゥゥゥーーー!! ムラッとした時はションベンすることで大体解決する。 オナってもないのにすっげークレバーだから1時までには起きて薬を飲むとしよう
明日は寝坊しても大丈夫 北朝鮮、核実験とICBM発射中止を発表
北朝鮮の朝鮮中央通信によると、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長は
20日に開いた朝鮮労働党中央委員会総会で、1日から核実験と
大陸間弾道ミサイル(ICBM)を中止する方針を表明した。
核実験場の廃止も発表した。
■金正恩氏「核実験、必要なくなった」
金正恩氏は
「核武器の兵器化完結が検証された状況で、いかなる核実験や中長距離、
大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射も必要なくなった。
北部核実験場もその使命を終えた」と述べた。
総会では、経済建設と核戦力建設の「並進路線」の成功を宣言する決定書を採択した。
核実験場の廃棄やミサイル実験の中止に加え、核兵器や核技術の移転をしないと宣言した。 決定書の概要は次の通り。
(1)核武器の兵器化を実現
(2)2018年4月21日から核実験と大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射を中止、
北部核実験場を廃棄
(3)核実験の全面中止のための国際的努力に合流
(4)核の威嚇や挑発がない限り、核兵器を絶対に使用しないし、
いかなる場合にも核兵器と核技術を移転しない
(5)強力な社会主義経済を建設して人民生活を画期的に高める闘いに全力を集中
(6)周辺諸国と国際社会との緊密な連携と対話を積極化 海の命
父もその父も、その先ずっと顔も知らない父親たちが住んでいた海に、
太一(たいち)もまた住んでいた。
季節や時間の流れとともに変わる海のどんな表情でも、太一は好きだった。 「ぼくは漁師になる。おとうといっしょに海に出るんだ。」
子供のころから、太一はこう言ってはばからなかった。(遠慮しなかった) 父はもぐり漁師だった。
潮の流れが速くえ、だれにももぐれない瀬に、たった一人でもぐっては、
岩かげにひそむクエ(※1)をついてきた。
二メートルもある大物をしとめても、父はじまんすることもなく言うのだった。
「海のめぐみだからなあ。」
(※1)クエ
岩かげにひそみ、小魚やイカなどを食べる茶褐色(かっしょく)の魚。 不漁の日が十日間続いても、父は少しも変わらなかった。
ある日、父は、夕方になっても帰らなかった。
空っぽの父の船が瀬で見つかり、仲間の漁師が引き潮を待ってもぐってみると、
父はロープを体に巻いたまま、水中でこときれていた。
ロープのもう一方の先には、光る緑色の目をしたクエがいたという。
父のもりを体につきさした瀬の主は、何人がかりで引こうと全く動かない。
まるで岩のような魚だ。
結局ロープを切るしか方法はなかったのだった。 中学校を卒業する年の夏、
太一は与吉(よきち)じいさに弟子にしてくれるようたのみに行った。
与吉じいさは、太一の父が死んだ背に毎日一本づりに行っている漁師だった。
「わしも年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、もう魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる。」
「年をとったのなら、ぼくをつえの代わりに使ってくれ。」
こうして太一は、無理やり与吉じいさの弟子になったのだ。 与吉じいさは瀬に着くや、小イワシをつり針にかけて水に投げる。
それから、ゆっくりと糸をたぐっていくと、ぬれた金色の光をはね返して、
五十センチもあるタイが上がってきた。
バタバタ、バタバタと、タイが暴れて尾で甲板(かんばん)を打つ音が、
船全体を共鳴させている。
太一は、なかなかつり糸をにぎらせてもらえなかった。
つり針にえさを付け、上がってきた魚からつり針を外す仕事ばかりだ。
つりをしながら、与吉じいさは独り言のように語ってくれた。
「千びきに一ぴきでいいんだ。
千びきいるうち一ぴきをつれば、ずっとこの海で生きていけるよ。」
与吉じいさは、毎日タイを二十ぴきとると、もう道具を片づけた。
季節によって、タイがイサキ(※2)になったりブリ(※3)になったりした。
(※2)イサキ
暗い緑色の魚。
(※3)ブリ
背中は暗い青色、腹は銀白色(ぎんはくしょく)で、
中央に一本の筋が入っている魚。 弟子になって何年もたったある朝、
いつものように同じ瀬に漁に出た太一に向かって、
与吉じいさはふっと声をもらした。
そのころには、与吉じいさは船に乗ってこそきたが、
作業はほとんど太一がやるようになっていた。
「自分では気づかないだろうが、おまえは村一番の漁師だよ。
太一、ここはおまえの海だ。」 船に乗らなくなった与吉じいさの家に、太一は漁から帰ると、毎日魚を届けに行った。
真夏のある日、与吉じいさは暑いのに、毛布をのどまでかけてねむっていた。
太一はすべてをさとった。
「海に帰りましたか。
与吉じいさ、心から感謝しております。
おかげ様でぼくも海で生きられます。」
悲しみがふき上がってきたが、今の太一は自然な気持ちで、
顔の前に両手を合わせることができた。
父がそうであったように、与吉じいさも海に帰っていったのだ。 ある日、母はこんなふうに言うのだった。
「おまえが、おとうの死んだ瀬にもぐると、いつ言いだすかと思うと、
わたしはおそろしくて夜もねむれないよ。
おまえの心の中が見えるようで。」
太一は、あらしさえもはね返す屈強な若者になっていたのだ。
太一は、そのたくましい背中に、母の悲しみさえも背負おうとしていたのである。
母が毎日見ている海は、いつしか太一にとっては自由な世界になっていた。 いつもの一本づりで二十ぴきのイサキをはやばやととった太一は、
父が死んだ辺りの瀬に船を進めた。
いかりを下ろし、海に飛びこんだ。
はだに水の感触がここちよい。
海中に棒になって差しこんだ光が、波の動きにつれ、かがやきながら交差する。
耳には何も聞こえなかったが、太一は壮大な音楽を聞いているような気分になった。
とうとう、父の海にやって来たのだ。 太一が瀬にもぐり続けて、ほぼ一年が過ぎた。
父を最後にもぐり漁師がいなくなったので、
アワビもサザエもウニもたくさんいた。
激しい潮の流れに守られるようにして生きている、
二十キロぐらいのクエも見かけた。
だが、太一は興味をもてなかった。 追い求めているうちに、不意に夢は実現するものだ。
太一は海草のゆえる穴のおくに、青い宝石の目を見た。
海底の砂にもりをさして場所を見失わないようにしてから、
太一は銀色にゆれる水面にうかんでいった。
息を吸ってもどると、同じ所に同じ青い目がある。
ひとみは黒い真珠のようだった。
刃物のような歯が並んだ灰色のくちびるは、ふくらんでいて大きい。
魚がえらを動かすたび、水が動くのが分かった。
岩そのものが魚のようだった。
全体は見えないのだが、百五十キロは優に超えているだろう。 興奮していながら、太一は冷静だった。
これが自分の追い求めてきたまぼろしの魚、
村一番のもぐり漁師だった父を破った瀬の主なのかもしれない。
太一は鼻づらに向かってもりをつき出すのだが、
クエは動こうとはしない。
そうしたままで時間が過ぎた。
太一は永遠にここにいられるような気さえした。
しかし、息が苦しくなって、またうかんでいく。 もう一度もどってきても、瀬の主は全く動こうとはせずに太一を見ていた。
おだやかな目だった。
この大魚(たいぎょ)は自分に殺されたがっているのだと、太一は思ったほどだった。
これまで数限りなく魚をとらなければ、本当の一人前の漁師にはなれないのだと、
太一は泣きそうになりながら思う。 水の中で太一はふっとほほえみ、口から銀のあぶくを出した。
もりの刃先を足のほうにどけ、クエに向かってもう一度えがおを作った。
「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」
こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。
大魚はこの海の命だと思えた。 やがて太一は村のむすめと結婚し、子供を四人育てた。
男と女と二人ずつで、みんな元気でやさしい子供たちだった。
母はおだやかで満ち足りた、美しいおばあさんになった。
太一は村一番の漁師であり続けた。
千びきに一ぴきしかとらないのだから、海の命は全く変わらない。
巨大なクエを岩の穴で見かけたのにもりを打たなかったことは、
もちろん太一は生涯だれにも話さなかった。 勉強はタイムマシンみたいなものだからな。
過去にも未来までにも行ける。 【ト書き】
シナリオで、せりふの間に入る言葉。
人物の動きや舞台の様子を説明する。 常駐スレをかなり絞った。
情報をシンプルに仕入れることで、とても使いやすいが、
同時に早く片づくため、このPCの使用用途が怪しい。 物事を考えるには理想の環境になっていると言えるか。 自分自身の思考(思想に妄想)はここだけすればさらにシンプルになるだろう。
同じ内容の発言を防ぐための手段だ。もっと早くこの行動をしておくべきだった。 3DS版DQ7をやろうと思って1/4年あまり過ぎたが、なかなか思い立たない。
ああいう半アドベンチャー、テキスト中心のゲームは好物なのに。
気軽のは読書ばかりでそちらに甘えてしまう。大したものは読んでないが。 現在過去未来
あの人に逢えたなら
私はいつまでも待ってると
誰かに伝えてあげて 惨劇のサンドボックスはPC版で出てほしい。
あとPSパッドも対応してくれ。 最近の5先はジンを見なくなったな。
そろそろ出てきてほしいところ。 あの街並み思い出した時なぜだか浮かんだ
英雄気取った路地裏の僕がぼんやり見えたよ 冬、仕事をしていると、知らないうちに手先が冷たくなっていることがある。
時にはまた、知らないうちに足先がこごえていることもある。
身にこたえる冷えだけれども、心にまで冷えを覚えているわけではない。
しかし、「悲しみ」というものは、あとさきもなく、
いつも真っすぐ心の真ん中に強くしみこむ。 初めの三行と、後の二行とがひびき合って、「悲しみ」の思いが人を打ちます。
この作品は、どんな悲しみなのか、なんの悲しみなのか、それにはひと言もふれないで、
きりきりと胸にせまる「悲しみ」を、さりげない言葉で言い切っている、
とわたしは感じます。
言葉は、人の心と心を結ぶ橋のようなものです。
だから、もしすべての言葉がこのように真っすぐでしっかりした橋だったなら、
わたしたちは言葉によって自分の心をそのまま人に伝えることができ、
人の心をそのままはっきり知ることができるでしょう。
しかし、言葉は時としてにじのように美しく消えていくこともあるし、
山奥の一本橋のようにわたりにくいこともあるのです。 シャボン玉
シャボン玉の中へは
庭ははいれません
まわりをくるくる回っています 庭でシャボン玉をふく。
庭の木々やしばふやかきねが、青い空や白い雲とともに、シャボン玉の表に映る。
シャボン玉はゆらゆら流れる。
庭は七色にかがやきながら、シャボン玉の表面をくるくる回っている。
一つの小さな風景をうたった詩として、このままに受け取ることができます。
これだけで十分美しい寸景(すんけい)です。
作者コクトーは、この寸景を美しいフランス語でうたったのでしょう、
まるで日本の俳句のように。
しかし、わたしには、この詩がもう少し何かを語っているように思われてなりません。
仮に、この詩に、「人間」というもの、「人間の心」というものを感じ取ったとしても、
たぶん、そう不自然なことではないでしょう。 人の心の中へは
人ははいれません。
まわりをくるくる回っています。 詩を初めとして、多くの文学作品の言葉も、
また、なんということもない日常生活の小さい言葉も、
それによって人の心を知り、自分の心を人に伝えることができますが、
一面、それはなかなか難しいことでもあります。 朝早くからの演習につかれきった一人の兵士が、
小銃(こじゅう)をかたにめりこませながら、
乱れがちな隊列の中で、日の落ちた暗い冬の山道を下りてきました。
若い日のわたしです。
坂の左手の小さな農家の障子窓(しょうじまど)には、
ぼんやりと黄色い電灯の光がありました。
そこからもれてくる夕食の味噌汁のにおいは、
腹の底までしみ通るものでした。
「ああ、おれは、戦争で死ぬまでに、こういう静かな夕食のひとときを
もつことができるのだろうか。」と痛切に思いました。
しかし今、そのときの痛切な思いを、言葉に表現して人に伝えることは、
わたしにはたいへん難しいと感じられます。 君たちにも、いろいろ思い当たることがあるのではありませんか。
昼の給食の前、ぺこぺこなお腹にしみこむカレーライスのにおい、
一か月もかけてかきあげた友達の美しい絵、
練習に練習を重ねた友達のグループ演奏――
これらのにおいや色やメロディーなどを、
言葉で人に伝えるのは、だれにとっても大変難しいことだと思います。
わたしたちは、ただ、その場の周りの様子や、
そのときの自分の気持ちを、すなおに言葉に表現しようと努めるだけでしょう。 こんなことは、人それぞれに限りもなくあるにちがいありません。
言葉の橋は、それでもなお、深い思いを行き来させることのできる
大切な一つの場なのではないでしょうか。 読もうと思った時に読むスタイルになって久しい。
そんな中、天童荒太の新作が出たことを知る。
未だハムレットが終っていないのに、買いたい欲求に負けそう。 紅茶専門ティースタンド「マンコティー」1号店が恵比寿に
https://www.fashion-press.net/news/39375
「これ」
「マンコティーですね!サイズはいかがなさいますか?」
「ラージ」
「プラス50円でシロップ増量も承っております」
「じゃあそれも」
「ありがとうございます!」
「オーダーです!ラージマンコ、汁多め!」
「サンキュー!!」 セクハラ上司に物言わないが、仮に当事者になって非難されても文句言えないわな。 話芸から小さな旅の途中まで見ていたが、疲れたので視聴中止。 さっきから動悸が走っている。
心当りは「働いていない自分」の行く末。
苦労してないから、無駄に長生きする。
点滴治療のみで食事も取れない。その状態が続く。 動悸の状態が長いと横になりたくなる。
読むことも集中できない。音楽を聴く気になれない。
ただ座って何か考えながらも時間が過ぎてゆく。 考えていることは漠然としていて明らかに説明はできない。
あえて形だけで言えば、よく過去を振り返っている。
それは一番刺激のあった統合失調症と気づく前の頃。 しかし、文字に書き起こしても、それはすでに書いたもの。 統合失調症は特別ではない。
みなさんが、平等に、認識できる。
アプローチしだい。 アプローチしだいの理由は、まず信頼できる人がいるかどうか。
どんなに弱い人間でも、先輩なり先生なり相談すれば、自分が今どうなっているのか気づく。
動悸がおさまる。病気になる前に治せる。不利にならない。 病気にかかっても、幸い施設があれば苦労はするが治せる。
納得いかない人もいるだろう。認めたくないと思えばまた隔離されて同じ結果になる。
入退院繰り返さないと、この病気に気づけない人もいる。 第一の聖者は大地をつかさどる者。
それははるかなる時であり
生きとし生けるものであり
大地そのものである。
そしてその身をおおいつくす
鎧こそがまた
大いなる大地とならん。 第二の聖者は風をつかさどる者。
風は時として真空の刃。
おのれ自身を傷つけることもあろう。
その身を守るべく
その手にかかげるものはなんぞや? 第三の聖者は炎をつかさどる者。
炎の聖者が怒りに燃えるとき
わきあがる魂の炎は何者にも
おさえることはできぬ。
神たる理性で怒りをおさえよ。
その頭上を飾るべきは
聖なる勇気の守りなり。 第四の聖者は水をつかさどる者。
水は全ての生命の源(みなもと)。
険しい滝はわれらの盾となり
邪悪な魂をなぎはらう。
真に強きは怒りか?愛か?
その答えはおそらく
聖なる剣(つるぎ)が示すその先にある。 今日の予定はDQ7の過去の世界まで行くのと、
本一冊消化。 FF6とは違ったアプローチで。
序盤はまだ出てこない。 ゆずり葉
子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は新しい葉が出来ると
入り代わってふるい葉が落ちてしまうのです。 こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって。 子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。 かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど。 世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。 今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。 そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしょう。 時間を自由に行き来できるタイムマシンを一回だけ使えるとしたら…。
この手のアンケートをすると、だいたい、未来よりも過去を選択する人が上回るそうだ。
その人の年齢にもよるか。
子どもたちはタイムマシンで自分の将来を見たがり、
反対に大人は過去へと戻りたがると聞いたことがある。
確かに、ある程度の年となれば、時間旅行をするまでもなく、
自分の将来は予想できるし、見たくもないという人もいる。
そんな未来よりも過去の自分や、今は亡くなってしまった親や友人に
会いたいというのはよく分かる。
過去の失敗を「あの時」に戻ってやり直したいという人もいるか。
昭和の日である。法律の趣旨によると、
「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代が顧み、国の将来に思いをいたす」
日らしい。
暗い戦争にもかかわらず、近くて遠い昭和に心をくすぐられる人は多いだろう。
脚本家の山田太一さんが過去の魅力について書いている。
人がタイムマシンで過去へ行きたがる傾向とも関係があるかもしれぬ。
「ノスタルジーとは、過去のいいとこ取り」なのだそうだ。
つまりは苦しいこと、悲しいことは忘れ、良いことだけを思い出し、
昔は良かったとなるらしい。
きょう、昭和の「明」を懐かしむとしよう。
同時に昭和の「暗」についても頭に置いておかなければ
「国の将来に思いをいたす」ことにはなるまい。 別に死ぬこと自体は怖くないが、
生き残るのが怖い……。 Digital Devil Saga 2 ost - Hunting Betrayal [Extended]
https://youtu.be/ZPsU-ZMC6SA キャサリンリメイクがPS4かvitaなのが気に食わない。 昼間寝過ぎたせいで眠くならないし、
眠剤ではなく下剤だけ飲んだから、
このまま起きているつもりである。 ただジムで体力使ったから少しは体休めないと、というわけでPCつけながら少し横になる。 The blue causes me to the ending. I think what you said is interesting. むう。この物語、終わりが見えんぞ。何が言いたいんだろう。「痛み」とは……。 iTunesにぶっこんだメロディアスな曲達に飽き飽きしてたからちょうどいい。 ずっと逢いたいなあ と思ってる
思って死んでいくよ それじゃあたしがドキドキしちゃうじゃないですか。 いえいえ、吐き出し口は必要ですよ。お気軽にどうぞ。 どうして逢えない人生だったんだろうって
考えてもしょうがないんだけど、考えるのは
逢いたくてずっと好きなんだろうなって
思ってる もうそれでいい ずっと 吐き出すのはもっ違うことが吐き出したいんだけど
世界一の人はきれいだからそういうの許してくれない
でも世界一きれいにずっといてくれてるんだから
がんばらないとって思ってる 実はわたしも二度と会えないな、恋できないなって気がするんですよ。はぁ(ためいき) そう思うと、小説書きたくなって、でももったいぶって書かないで、しだいに書けなくなる。 >>485
意図をくんであげられたか自信ないですけど、どうも。 素敵な風景画が描き続けられるのを見ることこができる
感じることが出来るあたしでよかった
お父さんとお母さんにまた感謝できる(笑) Parasite Eve - OST - Someone calls me... Someone looks for me...
https://youtu.be/sr89znbZOrY 先人に感謝しなきゃね。文化をちゃんと紡いでくれてありがとうね、と。 とりあえずメモ。
https://www.youtube.com/watch?v=tnNJR1jgWnM&index=26&list=RDyDXCQkOr4P0&spfreload=1 /⌒ヽ
/ ´_ゝ`)
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三 U .U 挨拶は気軽さがたいせつであると思います。
それ以上は、たがいに疲れてしまうでしょう。 日本国憲法関連の記録をしようとしたらNGに引っかかる。 ERROR: Rock54: Warning: NGワード禁止! パリ条約が源流
90年前の1928年8月27日、パリ・フランス外務省の「時計の間」。
日本を含む15カ国の高官を前に、ブリアン仏外相が宣言した。
「利己的で意図的な戦争に終わりをもたらす日となるだろう」
1600万人が犠牲になった第一次世界大戦の反省から
生まれた「パリ不戦条約」の調印式。
それまで戦争は国家の自由と考えられていたが、初めて戦争を違法とした条約だった。
加盟国は63カ国に増え、「戦争なき世界」を目指した。
しかし、自衛のための戦争は制限されないことが交渉過程で確認され、実効性が薄かった。
日本は旧満州(中国東北部)を占領。ドイツやイタリアも自衛の下に侵略を広げ、
第二次世界大戦を防げなかった。
大戦後、45年の国際連合発足とともにできた国連憲章は、条約の理念を引き継いだ。
国際紛争を「平和的手段」で解決することや、「武力による威嚇(いかく)又(また)は武力の行使」
を慎むよう加盟国に求めている。
日本国憲法9条1項はこの流れをくみ、戦争放棄をうたう。
ただ、戦後制定された多くの国の憲法にも同様の規定があり、9条1項が特別とは言えない。
つまり、多くの国の憲法も日本と同じく「戦争放棄」の理想を掲げている。
47年制定のイタリア憲法は、紛争解決手段としての戦争などを否定。
87年制定のフィリピン憲法も「国の政策の手段としての戦争」放棄をうたう。
2000年代に左派政権が誕生したエクアドルやボリビアも、紛争解決手段としての
戦争放棄を新憲法に掲げた。
侵略や征服目的の戦争を否定した憲法も多い。
ドイツは「侵略戦争の準備」を違憲とし、刑事罰も規定。
フランスは1791年憲法で征服戦争放棄を定め、
現行憲法も引き継いでいる。 自衛の名の下に
だが、2001年にブッシュ政権が「自衛のための戦争」を宣言して
アフガニスタンを攻撃したように、自衛権を根拠にした軍事行動が繰り返されてきた。
国連憲章は個別的、集団的自衛権を国家の「固有の権利」として認めているからだ。
侵略と認めて軍事行動をするケースはほとんどない。
自衛権を根拠に、多くの国は憲法で軍隊の保持も定めている。
不戦の理想が実現しにくいのは、これが大きい。
世界で最も強固な平和憲法とされる日本国憲法が特別なのは、
9条1項の「戦争放棄」に続き、2項で「戦力不保持」を明記している点にこそある。 scene23が落ち着く……。今日はそんな気分なんだな。 憂鬱な感情と向き合える、一人にいるようで、それはグレーな感覚。 もう少しで夏になれば虫のハーモニーが耳を触れることもあろう。心地いい。 このやりかたで「あなたに会える、会いたい」という気持ちが惹き起されるのだろう。 患者を強制隔離し、施設へ軟禁。
絶望と孤独の中、審判の日を待ち続ける…。
黒き翼の生える、その日をな。 ざっと読んだが心くすぐるような話はなかったな。惰性で読んでいるが。 凍えそうな季節にキミは愛をどうこう言うの
そんなのどうだっていいから
あたため合おうよ こごえそうな季節にキミは愛をどーこーゆーのー
そんなんどーだっていいから冬のせいーして
あーたためーあおおおおおお 【作業用BGM】格好良いフォルクローレ音楽集【全31曲】
http://www.ni covideo.jp/watch/sm8365604 >>562
(_ _ )
ヽノ)
ll
( _ _)
(ヽノ
ll アマゾン効果、宅配便勢力図に異変 日本郵便が急伸
宅配便市場の勢力図に変調の兆しが出てきた。
11日、日本郵政傘下の日本郵便などが2017年度の宅配便取扱数を発表。
最大手のヤマトホールディングス(HD)傘下、ヤマト運輸が採算性改善へ荷受けを
16年度比で約2%減らしたのに対し、法人向けの値上げ幅が小さかった日本郵便は
26%増と大幅に伸ばした。
ネット通販の急増に伴う人手不足への対応策が、宅配シェアを左右し始めた。
日本の宅配便は16年度に年間約40億個に達した。
米郵便計器大手のピツニーボウズによると、16年に世界で宅配された小包は650億個で
日本は中国(310億個)、米国(130億個)に次ぐ3位だ。
日本は大手3社が計9割超のシェアを握る寡占市場。
トップのヤマト運輸がシェア5割近くを占め、約3割の佐川急便(SGホールディングス傘下)、
2割弱の日本郵便とは大きな差があった。
ところが11日出そろった3社の17年度の取扱数は、
ヤマトが18億3600万個と16年度に比べ約3000万個減らしたのに対し、
佐川は12億6200万個(同4300万個増)、日本郵便は8億7500万個(同1億7800万個増)
とそれぞれ伸ばした。
ヤマト1社が縮み、佐川と日本郵便が受け皿となる構図だ。
ヤマトは17年、集配要員らの労働負荷軽減も理由に「総量抑制」を導入。
アマゾンジャパン(東京・目黒)など法人顧客と値上げ交渉を順次進めたほか、
17年10月に個人向けも値上げした。
採算性の低い荷物を引き受けなかったことも他社への流出につながった。 一方、佐川はヤマトに続き個人向け運賃を引き上げたほか、法人顧客とも採算重視で値上げを交渉した。
佐川の増加幅が4%にとどまるなか、3割近い拡大を果たしたのが日本郵便の宅配便「ゆうパック」だ。
日本郵便も今年3月に個人向け運賃を平均12%引き上げたが、
荷物の9割を占める法人向けの値上げ幅は個人向けと「ほぼ同じ」(広報室)。
他社の値上げ幅が3〜4割に達するケースもあるなか、
低価格志向の中小企業などがゆうパックに乗り換えている。
かつて国営事業だった際に公表していた運賃割引の設定を民営化後も引きずり、
大幅な値上げをしにくい事情もあり「想定を超える伸び」(幹部)につながった。
18年度もヤマトは荷受けを約4%減らす計画だ。
一方の日本郵便は17年度比約9%増を見込み、さらに差は縮まりそう。
佐川は「横ばい」(SGHD経営企画部)を見込むため、
3位の日本郵便は2位の背中に近づくことになる。
ネット通販の急拡大を受け、米国や中国でも宅配分野の人手不足や
競争の構図の変化が起きている。
中国ではアリババ集団のサービスを中心に宅配需要が急増した結果、
17年に荷物の遅配や紛失が頻発し社会問題化した。
米国ではアマゾン・ドット・コムが外部の運送会社に委託していた宅配を
自前で手がける動きを強めている。
消費活動がネット通販への依存を強めるなか、
宅配網は社会インフラとしての重要性を増している。
日本ではヤマトの総量抑制を機に物流網における深刻な人手不足が注目を集め、
働き方改革などの契機となった。
ヤマトの総量抑制は課題克服に向けた動きだが、顧客の流出など痛手も大きい。
日本郵便も荷受けの急増に伴い社外への配送委託の費用も膨らんでいる。
10億個の大台が視野に入るとはいえ「採算性を重視しむやみにシェア競争に走らない」(幹部)
方針だ。 躁鬱病とはいかなる病気か。
「躁鬱病の正式名称は『双極性障害』で、躁状態と鬱状態を繰り返すことが特徴です。
落ち込む時はすごく落ち込み、元気な時はカラ元気でハイになります」
一般に躁鬱病にかかりやすいのは、「真面目で人の評価を気にするタイプ」という。
「典型的なのが真面目で自分に与えられた役割を忠実に果たそうとして、他人からどう見られているかを人一倍気にする人です。
その評価がちょっとでも悪いとものすごく落ち込みます。
他人からの評価を気にするあまり、対外的によいイメージを無理をして作ろうとしがちです。
そのため、現実の自分と理想の自分とのギャップが大きくなることが、躁鬱病を発症する一因と考えられます」 中学生でもできる副業情報ドットコム
時間がある方はみてもいいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
EVDXR 「迎合者は軽くみられる。」それは紛れもない事実だ。 私がそう強く感じ始めたのは、現在通所している通称デイケアからだ。
ここで繰り広げられている環境は「学校」と相似している。
学校とは言うまでもなく、みなさんが年齢の若いうちに通っていたそのものだ。
相似どころか一致と言ってもいいかもしれない。 残念ながら学校というものは、甘酸っぱい「青春」などという呼び方はハリボテ、
隠された真実は、まず周りの者を敵とみなし、その中で生き残りをかけた「戦場」である。
より良い自分をみせるために一所懸命に働きかけ、主張して“運良く”周りの目にひかれ
認められたら、その人間関係は大変すばらしいものになるだろう。
栄光を握ってハッピーエンドだ。 問題は私が着眼する点。うすら寒いので私自身の立場としよう。
学校という舞台からはじかれ、ドロップアウトした、
いわゆる「負け組」のレッテルを貼られた者だ。
笑い者にされるのならまだ救われよう。
存在を忘れるどころか、それ自体認識されないままでいることもある。
生がい苦渋な表情で床を舌でなめることになる。 そういうわけで、ここから本題として「迎合者」の話を始める。
迎合とは、自我を捨てて他人が良いように調子に合わせるということだ。
この生き方が自分にどんなマズい理由があるのか、実例をあげながら述べる。 まず一つ、相手に謝ることはしないほうがいい。
これは道徳的観点でいうと、悪いことをして相手に迷惑かけたら謝るというのが普通の考えだ。
そうではなく、私が言いたいのは、自分が悪くなくても悪いと認め謝ることだ。
この行為をすると相手はつけ上がり、「こいつにはまた同じことをすれば、自分のためになるだろう。」
と対象者を否定ないし利用し、比較して己の価値を高めようとするくわだてだ。 もう一つ、むやみに相手をほめることはしないほうがいい。
上記と同じ結果だ。その人がほめた側を対等として見なくなる。 以上のように迎合者は常に軽くみられる。
自分がどれだけ意見を言おうと、周囲は有無言わせず水泡のごとく消されてしまうのだ。
その空気がどれだけ辛いことか。屈辱である以上に、そう考える自分が嫌になる。
自己否定に繋がるのだ。 一度そうなると関係を修復するには長い時間をかけてしまう場合がある。
これは容易ではないのだ。どうしても辛いなら、あきらめて別の環境に移った方がいい。
そしてそれから気をつけよう。 なぜこんなこと考えているのか。それは私が今まさに苦しいからである。
こうみると生きることは、他人に認められて初めて肯定できるのだ。
大手振って人生を誇れる。それが支えであり、なにより生きがいなのだ。 迎合者は不利である。社会の縮図があったのだ。byきんちく。 一匹狼女だから常に一目というかあるいみ無視かな・・
無視したくても出来ないハエみたいな存在なんじゃない
あたし 自己主張、というか自己表現はしてなんぼかな。
一人言なのか、どういう意図なのかはわかりませんが。 おはよう。。
この世で大好きな2人に逢えたことがあたしの幸せ 米大使館移転、米国・イスラエルへの非難集まる
パレスチナ衝突拡大止まらず
米国の在イスラエル大使館移転に反発するパレスチナ自治区での抗議デモは15日も続いた。
同日は70年前のイスラエル建国で多数の難民が発生した「ナクバ(大惨事)」と称する記念日。
抗議活動が広がり、イスラエル当局との衝突が拡大するおそれがある。
欧州はイスラエルと米国への批判を強め、米国との亀裂が一段と深まっている。
パレスチナ当局によると14日までにパレスチナ人58人が死亡した。
負傷者数は2700人以上に膨らんだ。
ガザのイスラエルとの境界付近では、3月末からパレスチナ人によるデモが続いている。
米大使館が移転した14日には、参加者は4万人にも膨れあがった。
タイヤを燃やし黒煙が立ちこめる中、デモ隊は投石。
イスラエル軍は催涙弾や実弾で排除し死傷者が発生した。
15日は「ナクバ」の記念日で、ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマス
は大規模デモを呼びかけている。
パレスチナ自治区のヨルダン川西岸でもデモが予定されており、
拡大する抗議行動とイスラエル軍との衝突で死傷者が増えそうだ。
イスラエルのネタニヤフ首相は
「ハマスはイスラエルの破壊を狙い、デモ隊に境界を乗り越えるよう命じた」と語った。
その上で「どの国も境界線を防衛する義務がある」と主張。
スラエルはデモ隊に暴力行為を命じるハマスの軍事拠点に対して、
空爆や砲撃を加え続けている。 イスラエル軍による実弾などによる実力行使に批判が広がっている。
グテレス国連事務総長は14日、「事態を憂慮している」と懸念を表明。
フランスのマクロン大統領は声明で「多数の民間人を殺傷した過剰な暴力だ」と批判した。
トルコは「パレスチナ人の虐殺だ」と語気を強め、駐イスラエル大使と駐米大使を召還。
南アフリカも駐イスラエル大使を召還した。
イスラエルと対テロで協力し、米大使館移転への批判を抑制してきたエジプトやサウジアラビアも、
イスラエルのガザへの攻撃を非難した。
国際社会から米国やイスラエルへの厳しい声が広がる中、
国連安全保障理事会は15日午前(日本時間同日深夜)に緊急会合を開く。
クウェートが開催を要請した。
安保理ではパレスチナ情勢を巡り、双方に暴力行為の自制を求め、
米大使館のエルサレム移転を批判する声が出る可能性がある。
米ホワイトハウスのシャー副報道官は、ハマスに「すべての責任がある」と断じ、
イスラエル軍を擁護した。ハマスはイランの支援を受けている。
欧州や国際社会の制止を振り切って米国のトランプ政権は大使館を移転したうえ、
8日にはイラン核合意からの離脱を強行した。
欧州との亀裂は鮮明になっており、米国の国際的な孤立を招くおそれがある。
不穏な動きも出ている。
過激派組織アルカイダの指導者のザワヒリ容疑者は13日、
「テルアビブもイスラム教徒の土地だ」と、米国へのテロ攻撃を呼びかけた。
週内にはイスラム教のラマダン(断食月)が始まる。
約1カ月続くラマダンは信仰心が高まる時期。
異教徒などへのジハード(聖戦)を正当化する過激派もおり、
毎年テロ行動が活発化している。
ガザ住民への同情が各地でのテロを誘発する恐れもある。 勉強とか、学問とか、学んで身につけば世界が変わる
……なんて思いをするのはそろそろやめたほうがいいんじゃないかと。 なんか外から帰ってくると
5ch開く → 常駐スレ巡回 → 住民に挨拶
→ ツイッター巡回 → 配信やってたら見る
→ 12時までには寝る(寝ない)
が常習化されている だから承認欲求を食らうのはやめとけってあれほど……俺は。 きみは金を稼ぐために生まれてきたのか?
ご両親はそのためにきみを生んだのか? わびし・い【×侘しい】
[形][文]わび・し[シク]
1 ひどくもの静かでさびしい。「人里離れた―・い田舎」
2 心が慰められないさま。心細い。「ひとり―・く夕食をとる」「―・い下宿生活」
3 貧しくてあわれなさま。みすぼらしい。「―・い住居」
4 つらく悲しい。やるせない。
5 当惑するさま。やりきれない。
6 興ざめである。おもしろくない。
[派生]わびしがる[動ラ五]わびしげ[形動]わびしさ[名]
類語 : 寂しい(さびしい) 「米朝首脳会談は中止に」 トランプ氏、金委員長に書簡
トランプ米大統領は24日、6月12日にシンガポールで予定していた米朝首脳会談について
「いまは不適切だ。だから会談は開かない」として中止する考えを表明した。
米ホワイトハウスがトランプ氏から北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長への書簡の中で発表した。
初の首脳会談が見送りとなり、朝鮮半島情勢が再び緊迫する可能性もある。
トランプ氏は会談見送りの理由として
「残念ながら、最近の声明にみられるとてつもない怒りや敵意」があるためだと説明。
北朝鮮が、一方的な核放棄に応じないなどと表明していることを指しているとみられる。
米朝は水面下で首脳会談に向けて調整を進めてきたが、非核化の手法を巡って対立。
短期間で一気に非核化を進めたい米国に対し、
北朝鮮は段階的な措置をとってそのたびに見返りを受ける方法を主張していた。 (゚∞゚)ノ
そろそろねるホ、おやすみー (,' 8 家族はつらいよ3のセリフの流れ、とても参考になった。 エッセンス【essence】
(哲学に関する項目)物事の本質、真髄、実在、霊的実在のこと。 金正恩氏、決裂回避へ動き急 米揺さぶりに焦り
トランプ米大統領による米朝首脳会談の中止発表が、金正恩(キム・ジョンウン)委員長を動かした。
26日に韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と1カ月ぶりに電撃会談し、米朝の決裂回避策を探ったもようだ。
「完全非核化」のハードルが高い状況に変わりはないが、
仕切り直しとなった米朝の対話路線を巡って関係国の動きも活発になりそうだ。
26日の南北会談をどちらが呼びかけたのかは明らかになっていないが、
両首脳を突き動かしたのがトランプ氏であることは確かだ。
24日にトランプ氏が米朝首脳会談の中止を発表すると、慌てた北朝鮮は
金桂官(キム・ゲグァン)第1外務次官の談話で会談実現への期待を表明。
韓国側は25日未明に緊急招集した国家安全保障会議(NSC)で文氏が
「当惑しており非常に遺憾だ」と語り、その後は沈黙を続けていた。 トランプ氏は再び首脳会談の可能性をほのめかし始め、駆け引きを仕掛けている。
トランプ氏は北朝鮮の強硬姿勢の背景に中国の影を読み取り、強い不快感を示していた。
交渉の主導権を握りたいトランプ流の揺さぶりの可能性がある。
26日の南北首脳会談の内容は、韓国大統領府高官が
「4月27日の板門店宣言の履行と、米朝首脳会談の成功的開催を巡り
虚心坦懐(たんかい)に意見交換した」とだけ明らかにした。
板門店宣言の柱は、朝鮮半島の「完全な非核化」を南北共通の目標とし、
休戦状態にある朝鮮戦争の終戦を年内に宣言することだ。
米国がめざす「北朝鮮の完全な非核化」と、
北朝鮮が主張する「朝鮮半島の完全な非核化」の考え方には溝がある。
トランプ氏が求める「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」に、
北朝鮮が譲歩できるかどうかが焦点になる。
具体的には短期間で北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れ、
核弾頭の搬出にも応じる姿勢を見せるかだ。
北朝鮮の言う「朝鮮半島の完全な非核化」には、金正恩体制の保証が含まれる。
文氏はトランプ氏との会談で、朝鮮戦争の終戦を南北と米国で宣言する案を示した。
終戦宣言が単なる政治宣言にとどまれば、保証の効果は弱い。
北朝鮮の本音は、米韓合同軍事演習の中止など物理的に米国の脅威を遠ざける措置とみられる。
その先には、中国を交えて休戦協定を平和協定に転換する協議を想定するが、
国連軍司令部の解体や在韓米軍のあり方につながる議論が必要なだけに、
結論を出すのは容易ではない。 一方、日本は米朝首脳会談の実現に向けた再調整が北朝鮮ペースになることを警戒する。
外務省幹部は26日夜、
「北朝鮮が本気で非核化をやるなら米朝会談をやるし、やらないなら開かない。
日米の方針は変わらない」と語った。
米朝首脳会談の日程が再び固まった場合、安倍晋三首相が6月8日からカナダで開く
主要国首脳会議(シャルルボワ・サミット)前後にワシントンに立ち寄り、
トランプ氏と会談する構想もある。
強固な日米同盟を誇示するためで、時間稼ぎを優先する北朝鮮の手口を説明し、
中・短距離弾道ミサイルの廃棄や日本人拉致問題の進展を念押しする。 金正恩氏「完全非核化」の意思再表明 26日の南北会談
韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は27日、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長と
前日26日に実施した2度目の南北首脳会談の内容を発表した。
文氏によると、金正恩氏は「朝鮮半島の完全な非核化」への意思を改めて表明した。
両首脳はトランプ米大統領が中止を表明した米朝首脳会談について
「6月12日に成功裏に開かれなければならない」との認識で一致した。 ■金正恩氏から呼びかけ
文氏は記者会見で、26日の南北首脳会談は金正恩氏が25日午後に
「一切の形式にとらわれず会いたい」と提案してきたと明らかにした。
両氏は南北軍事境界線上の板門店の北朝鮮側施設「統一閣」で約2時間会談。
金正恩氏は会談で
「米朝首脳会談の成功を通じ、戦争と対立の歴史を清算し、平和と繁栄のため協力する」との意欲を表明。
4月27日の会談に続き「朝鮮半島の完全な非核化」の意思を示したという。
そのうえで両首脳は朝鮮半島の非核化と平和体制構築のためのプロセスを中断しないことを確認したという。 ■文氏、米朝の直接交渉促す
文氏はトランプ氏との22日のワシントンでの会談の内容を金正恩氏に伝え、
「米朝首脳が直接的な意思疎通を通じて誤解を払拭させる必要がある」と指摘。
米朝首脳会談で合意しなければならない議題は
「米朝が実務交渉を通じて十分な事前対話が必要だ」と強調し、金正恩氏も同意したという。
文氏は金正恩氏とトランプ氏の双方が「米朝首脳会談の成功を心から望んでいる」とも説明した。 ■6月1日に南北閣僚級会談
一方、文氏と金正恩氏は6月1日に南北閣僚級会談を開くことで合意。
軍事的緊張緩和に向けた当局者会談や離散家族再会に向けた赤十字会談を
相次ぎ開催することでも一致した。 Jamie McDonnell vs. Naoya Inoue FULL FIGHT
https://youtu.be/APdBZbSW5y8 イニシャライズ [2] [4] 【initialize】
⇒ 初期化(しよきか)
ソウルイニシャライズ 生まれる時にそれを自覚することもなく、
死ぬ瞬間を認識することもできない。 気がつけば生れていた訳だし、泣こうが叫ぼうが死を免(まぬが)れることは何人(びと)たりともできない。 また、人は一気に成熟する訳でもなく、誰もが「子ども」と呼ばれた経験を持つ。 いいね。おたがい曇っていきましょう。曇った人生は悪くないよ。 消費税10%に上げ、前後に景気対策 骨太原案
政府が6月中旬に閣議決定する経済財政運営の方針(骨太の方針)の原案が28日、明らかになった。
2019年10月に予定する消費税率10%への引き上げ実施を明記し、
19年度と20年度の当初予算で景気対策を組む方針を示した。
新たな財政健全化計画では踏み込んだ歳出抑制策は示していない。 政府・与党内の議論を反映させたうえで最終決定する。
原案には「消費税率10%の引き上げを実施するとともに、
税率引き上げによる需要変動の平準化に万全を期す」と記した。
昨年の骨太方針には増税実施の方針に関する文言は盛り込まれなかった。
14年4月の消費税率8%の引き上げの際は、駆け込み需要による反動減で増税後の消費が落ち込んだ。
骨太方針の原案では、19〜20年度の当初予算で景気対策を組むことを念頭に「機動的な対応」をとる考えを示した。
住宅や自動車に関連する減税措置の拡大を検討するほか、
幼児教育・保育の無償化の全面実施は19年10月に半年間、前倒しする。 「人への投資」にも力点を置く。
低所得者を対象に20年度から実施する大学無償化では、国立大では入学金を免除し、
私立大では入学金の平均額を上限に支給する。
人口減少が進むなかで働き手を拡大するために、高齢者雇用を促進する方針も掲げる。
「65歳以上を一律に高齢者とみるのは現実的ではない」とし、
働く高齢者を増やすための支援策を検討する。 財政健全化計画を巡っては、政策経費を税収と税外収入で賄えているかを示す国と地方の基礎的財政収支(PB)について、
25年度の黒字化を目標にする。19年度から7年かけて取り組む計画だ。
21年度時点の中間検証は3つの指標を使う。
いずれも国内総生産(GDP)に対する比率で、PB赤字は1.5%程度に抑える。
国債の利払い費を加えた財政赤字は3%以下、債務残高は180%台前半に抑えるとした。
GDP比の指標は歳出を抑えるほか、経済成長でGDPが拡大すれば指標は改善する。
政府・与党内の積極財政派に配慮した成長重視の姿勢がうかがえる。 むう。今日は夢中でアウトプットしてたら眠くなくなってきたぞ。 地味だけど、気づかないところにも気づくようになって、それにドラマがあって、
なんだかんだで楽しんでるよ、この人生。 テレビより配信
配信より5ch
リアルはほどほど
そんなスタイル。 なまじ体格に自信がなくて、
初めての人と会うのは苦手だ。 しかし学生時代を振り返ると憎悪の感情しか湧いてこない。
もっと暴れればよかった。もっと自分を吐き出せばよかった。
今の学生は救われてるな。 仕事もせず、のうのうと生きて、意外と村社会の環境を否定して、
居場所だけをたいせつにする。
家族、ジム、限られた友人……
友人については相手に依存しない注意を払っている。
自分の性格は重すぎるからな。これは経験でわかっているんだよ。 先が見えてるんだよ。職場の人間関係なんて。
自分がマイノリティだから恋人の話なんてしたくないんだよ。 村社会ってのはデイケアのことね。
あそこは本当に辟易する。
優越感、劣等感、虚栄心、嫉妬、激しい自己顕示、謀略……
まるで学校のようだ。下手すりゃ幼稚園ともいえる。
回復させるところなのに、余計な人間の振る舞いでストレス溜めたくないんだよ。
なんで我慢しなくちゃならないんだよ。こちらから願い下げだ。 まあ、だいたいはここでいうネトウヨみたいなものだな。
自分のことしか考えてない。
他国や他人を否定しないと愛国をうたえないって……。 そりゃマジで虐げられた人はどうしても責めはしないが、
半分以上は言論に踊らされた人間だろう。
わかっててもからかって人心をもてあそぶ。 そんな人間になりたくねえんだ。
たぶん、仕事をすると、俺は荒れる。
それこそ自分中心に。 オカルト板に片足つっこんで、ネトウヨのいいようにされた。
心に傷をもった。怖くなった。ああいうやつ本当にいるんだなって。 冷静になればよかったのに、こっちも無い脳みそで熱くなってしまったのが敗因。 今はツイッターが旬なのか?
愛国をうたう人のプロフィールに鳥肌が立った。
この界隈には入らないという意志。
そもそも政治的なツイートはしないほうがいいんだよ。
何が愛国の次にエロソムリエ1級だ。 行動する保守とか日本のネガキャンだろ。
と言えば、おまえは在日だ左翼だとかわめいて、
結局あなたは…… いつもはスカッシュをやってるジム仲間と筋肉トレーニングする機会があって、
やってみると、みんな重いものを持ち上げられたり、三転倒立が軽くできるくらい
運動神経があって、すごいなあと思ったけど、ショックだった。 負けていられん……。
舐められちゃ終わりだ……。
意志をしっかり持て……。 きっと学生時代のことだろう。
高校の担任が夢に出てきた。 俺はその者に対して暴力を振るわれ、
また、自分も振るっていた。 俺は怒られるのだろう、注意されるのだろう、
そう思いながら、この感情をどこかにぶつけたくて、
何かを椅子なような物を持って、何かを叩いていた。 昨日は狂っていた。
別に何かされたわけじゃない。
ただいたずらに感情をもてあましてしまって、暗いほうに暴言を吐いてしまった。
自分の欠点だし、また同じレスをしてしまう危険性がある。 対策としては人間関係だな。
少しずつ変化していく自分の思考をかみしめて、丁寧に生きていくことだが……、
こう考えても一瞬の志だけで薄いし、何より白々しい。簡単に解決できることじゃない。 まあ良いほうに考えていくって結論になると、
ここは5chだし、本音が許さないみたいになる。
その本音も確かかどうか、未だ隠されたままだ。 >何かを椅子なような物を持って、何かを叩いていた。×
何か椅子なような物を持って、何かを叩いていた。○ 本音を求めることに考え悩むのは褒められたことじゃない。
俺は今朝からのレスは他人を意識している。
他人に認められたいばかりを考えているんだ。
どうしたい、どうしたいのかって気持ちばかり焦っているのだと。 自分の至らなさを人に押しつけようとしている。
簡単にいえば「俺は悪くない」を強く主張しようとしているんだ。
これじゃあ、自分だって他人だって、何言ってるのか困るだけで意味がない。 心の奥底では他人に「認められたい」、「助けられたい」が多くのおもいが自分の中にしめている。 走り書きで脱字が多いが、自分の中で補正しておこう。 文章の関連性がなく、これは動揺しているのかと思う。 とはいえ、自分の奥の思考を粘(ねば)りだすのに必死だから後で振り返り、
また整理して書けばいい。 今日だけは特に自分の正直な部分を意識して生きてゆこう。 男が好きで男のマラからでる尿を直接飲むのが好きだもん。 そんな癖を抱えているから高校に馴染めず、精神疾患で今も脳障害なんだ。 鎌って欲しいのではなく、助けられたい気持ちはないわけではないが、
それを再自覚することで気持ちの整理をはかっている。 i|!| |i┏┓! i!┏┳┓| |||i|!i| ||!i|| |||ii| ||| ||| |i||!|i│i!┏┓i!|
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i| |||i|!i| ||!|i||i! /,_ ┴─/ ヽ |!i| ||| |i||!|i|i|||| ||i
|i|| ||i!i|| (_゜.,》.'(_゜,》)ミ ヽ ! | |!i||!|ii||!|ii|
i|ii / ,,__,ニ、、 ノ( | i|i!|i|
|i | Y~~/~y} `, ~ | そ、そんなー… |i
!. | ,k.,.,!,.,.,r| ,! く .!
i / <ニニニ'ノ \ l 何故こんなに人をけしかけているのかも分からないし
意図しない事を口にするのかも分からない どうしてこんな事になったのか分からないんだ
良くないことだってことは分かってる だから、俺は今までの自分から変わってみせる
今夜、今までの自分を変えてみせるのさ 間違ったのは俺なのだから
俺は二度と戦わない
これで終わりにするんだ 日記にしろ誰かと話すにしろ、過去を振り返るというか縛られていることが多い。
同じ事何回も話しているかもしれない。気をつけないと。 過去を振り返るのも悪くない。
とりあえず読んでおくか今後のために。 しかし電子の砂漠で思いを記録するのは悪くないな。
むしろ楽しい。顔は真顔だけど。 P4Uのアイギステーマが好きだテンション上がる。
さあ夜は長いぞ! 許可されていないゲームを投稿、配信していたり投稿許可があるゲームでも個人使用以外で使用許可のないゲームBGMや楽曲を無断で使用するゲーム実況者は犯罪者に変わりない
他人の著作物を利用し再生数、アフィリエイト等で金を稼ぐ
副業や本業にしている人間もいる 中には確定申告すらしていない人間や副業禁止に関わらず稼いでる人間もいる
現在、日本の法律だと著作権侵害は親告罪
これは権利者が訴えない限り、著作権を侵害していても警察は手出しできない
漫画村やアダルトビデオやゲーム実況等の二次創作があたる
そしてある場合は著作権侵害を犯しその結果名を上げ公式からゲームの依頼がくる
逮捕されない、権利者が訴えない、公式から依頼があるからと言って著作権侵害を犯してない訳ではない
捕まっていないだけの犯罪者に過ぎない
現行犯でないと逮捕できない犯罪のようなもの
嫌儲思想ではなく著作権侵害をせずに稼ぐなら問題ない
ただ配信、投稿許可のないゲームを配信してるゲーム実況者に公式も黙認を貫いてる現状がある
公式が許可をすれば実況者は犯罪者ではなくなる
勿論許可の出ているゲームのみ配信、投稿や使用許可のある楽曲等をしようしているならば元より犯罪者ではない
TPPが可決すると非親告罪へとなるため権利者でなくとも通報ができるようになると言われている
しかしTPPが可決しても二次創作物への扱いについては影響が大きくまだまだ確定していないため
非親告罪へなるのかは定かではない
今の現状でただ言えるのは
投稿、配信を許可されていないゲームを投稿、配信しているゲーム実況者は著作権侵害を犯している犯罪者だということ
そしてニコニコ生放送はゲームの生配信は許可してない
漫画村や違法動画サイトを個人でやってるような物でやってることはなんらそこらの違法アップロードと変わりなく
アフィリエイトで収益化していないからと言い著作権を破っていないことにはならない為許されることではない
最新のゲーム等はそもそも録画機能や配信機能を備えているのでそのようなものはなんら問題にはならないが中には個人使用以外での使用を禁じられたゲームBGMや楽曲を使う人もいるので注意が必要 投稿日:2018/05/26(土) 16:56:14.84 昨日は掲示板に書き込んでも名乗り出る者はいなかった
5/23に身長181の人がアプローチかけてくれたのに
会いたかった どうせなら精子まで飲んで化学反応を試してみたかった 20センチも違うからな
貴重な遺伝子だろ
まあ子生まないけど やっぱり女装の方が需要があるのかって
死んでもしたくないけど ヘーメラーとニュクス
ヘーメラー(昼)とは表裏一体をなす存在。
ニュクスが世界を巡って夜をもたらしている間はヘーメラーがここに待機し、
ヘーメラーが世界を巡って昼をもたらしている間はニュクスがここに待機しているため、
二人が共に館にいるのは、昼と夜の境目の一瞬だけである。 844 本当も何もあなたはあなた
そんな素敵なもんじゃないw ABSOLUTELY EPIC SQUASH GAME - Gaultier v Abouelghar - Free Game Friday
https://youtu.be/m_eOo5gDeic 「心の病」20〜30代に増加
バブル景気真っただ中の1988年、父の日にちなんで始まった「過労死110番」。
長時間労働の末に、一家の大黒柱が過労死した遺族の訴えが多かったが、
今は20〜30代の若者を過労による「心の病」で亡くした親からも届く。
この電話相談が30年間必要とされ続けているのは、職場の深刻な実態が
変わっていない裏付けでもある。 パワハラ・セクハラ背景
電話相談を運営する過労死弁護団全国連絡会議によると、
今年5月までに「110番」に寄せられた相談の累計約12,000件のうち、
労災補償は54%の約6,300件。
当時者の死亡事案は約3,800件あり、全体の32%を占める。
過労やストレスで持病の気管支ぜんそくが悪化し、
死亡したと認定した1999年の名古屋地裁判決など、
「110番」への相談をきっかけに労災認定を勝ち取った事例も多い。
「長時間労働による精神疾患で休職したが、復職後に自殺した」
「深夜まで働く息子から『死にたい』とメールが届いた」
相次ぐ悲鳴のような相談は今、20〜30代を当事者とするケースが増加。
開始当初はくも膜下出血など、40〜50代の脳・心臓疾患の相談がほとんどだったが、
長時間労働やパワハラ・セクハラなどによる「心の病」が若者たちに広がっているという。
厚生労働省によると、精神障害の労災認定件数は、
2010年度に脳・心臓疾患を初めて上回った。
16年度の労災申請は1,586件。
これに対し、認定は498件(認定率31%)で、うち自殺(未遂を含む)は84件あった。
同連絡会議の川人(かわひと)博弁護士は
「かつて一家の大黒柱を亡くした妻からの相談がほとんどだったが、
娘・息子を亡くした親からの相談が増えている」と語る。
近年は「名ばかり管理職」のように、管理監督者の身分にして労働時間規制を
取り払おうとする職場が多く、川人弁護士は
「過労死防止と補償のため、あらためて気を引き締めたい」
と話している。 害ある悪を捕まえるのは簡単だが、害ある正義を捕まえるのは難しい。 妄想は妄想のままが幸せなのは苦しいほどわかってるから、
実際に行動はしないよう今後もこころがけたい。
新幹線の犯罪者みてそう思った。 心はスプラッターハウスのリックテイラー。
サイコスリラーのような恐怖や狂気とか今時古いけど、
つまり私の性癖はその程度。 カラオケで歌える曲を発掘しようかと思ったが予想以上に疲れる。 私は1度立てたスレは1000まで使う義務があると思ってるが。 自己表現に行き詰ったら公園やゲーセンでもいいから散歩するしかないな。 身長コンプレックスかつ非異性愛という自己の感覚がどうしても忌々しい。 性愛性癖についても人が寄りつかない所にいる。
理解されない、いやされなくてもいい、
なにより理解させたくない、その方が都合がいい、幸せだ。
そんな思いで生きている。 だが今はその山の頂は低くなっていることが先の情報で認識している。
情報化社会のたまものだろう。 己が他者より特別だと優越感に浸っているのではないかという疑問も否定しない。 「社会に出る」とは、自己を何処かに隠して生きる事である。
自分の思うままにできるものなど存在しない。 己というこの世で最も得体の知れないものと格闘し、
それを乗り越えることが我ら青年の特権である。 なんでみんな作品を創り出す時、転ばぬ先の杖のマニュアルみたいな物を作れるのか。
先駆者はとても素晴らしい。病気にならない人は天才だ。 多くの人は、個性とは「自己主張」の事だと考えている。
自我の確立こそが、個人の完成であり、そこに人それぞれの色合いが生れる、
と信じているのである。 こうした考え方に慣らされてるために、それが個性だと思っているのではないか。
佛教では、これを「小我(しょうが)」と呼ぶ。
小我は、人が人として生きるために克服せねばならない最も忌まわしいもの、
とされているのである。 つまらない自己主張を止め、すなわち、小我を克服して、
努力を重ねた末に、その人の本来持っていた良い面が、
自然に表面ににじみ出てきたもの、それが人の個性である。 自己主張の無限循環から逃れて、深く静かに自分を鍛え、
どの一日も短かったと思えるように精進する。
その結果、ごく自然に自分の持って生れたものが表面に現れてきて、
他の誰とも違う充実した人生を歩めるのである。
これが東洋の智恵であり、我々が先祖より受け継いできた、
米国人には決して真似のできない大いなる特徴なのである。 周りに少々「恵まれた人」がいたとしても、
それは「天がその人の能力を過小評価しただけの事」と思えばよろしい。
本物の「自分らしさ」「個性」「自由」とは、宿命を受け入れ、
その輪郭を明確に認識して、それを己の中に取り込むことからのみ生れるのである。 空腹を紛らわすために牛乳1杯半、そしてレンドルミンを飲みました。
そろそろねるホ、おやすみー (,' 8 自分らしさを求めすぎている。
他人にその「らしさ」の了解を求めるなんて迷惑千万だ。 もうこれ以上誰かに了解を求めたくない。
でも寂しくなり、逃げ出したくなり、結局求めてしまう。 虚数の情緒第一部を自分のものにするために何度も読んでる。 今読んでるもの
・虚数の情緒
・気になる人のブログ
・ナルト迅雷伝 迅雷伝終わったらPS3うみねこ本格的に読もうかと。
ただ散から入ったので、無印にはあまり興味わかないのだ。
EP6まで読みたいが、そこまでいくのにかなり時間かかりそうだ。
そもそも散クリアに半年くらいかけたからな。 失う物がないやつの犯罪は無敵ってのはよく言うことだが、そういう連中を減らす為に社会保障に注力するべきってのは正しいと思うな
相当に難しい話だが、政府がアナウンスしてもいいような話だと思う
こういう事件が起こる度に安倍のせいだなんて言うやつが出てきそうだが だがな、いずれ大切なものは生まれてくるんだぜ。
一歩が大事なんだよ。障害年金もらってるなら、仕事できないなら、
それに見合う投資はしとけ。けっして株じゃないよ。
変わるから。新興宗教に入るよりはマシだよ。 アーケードモードのストーリーは当時ゲーセンでやってた頃は、
リアルにも影響受けたが、今やると理解できないわ。
「神なき世界」を創るに、臨場感高まった覚えがあるのにな。 特に時事性の強いメディアはもう不可能なのだろうか。 ニュース聴いても読んでもさめるし、
そりゃ米朝首脳会談は驚いたけど、
実際はパフォーマンス的で真新しい情報は得られなかったし、
まあその辺は自分の至らない点でもある。 「推論をする」、即ち、論理的にものを考えるには、
「帰納的方法」と「演繹的方法」の二種がある。
ここで、それぞれの手法の特徴を調べておこう。 論理学では、独立に発見された「真理の断片」から、
全体を統一する原理を見出していく方法を「帰納法」
反対に、基本的な原理から諸現象を記述する法則を導き出す手法を「演繹法」
と呼んでいる。 「ニュートン」を例に採ろう。
ニュートンは、「ケプラー」が発見していた三つの法則を、
帰納的な考え方で整理し、万有引力という根本的な法則に至り、
逆に、自身の原理に従って演繹的にケプラーの法則を導き出したのである。 ここで特筆すべきは、彼は単に自らの法則から、
ケプラーの諸結果を再確認しただけではなく、
そこには含まれない新たな結果、
即ち「ケプラーの第一法則」――楕円軌道の法則――
には含まれない、「放射線軌道」及び「双曲線軌道」
の存在を数学的に導き出した点である。 斯(か)くの如く真理は帰納と演繹の繰り返し作業の中から、
次第次第にその姿を現してくるのである。 個別に発見された自然の法則の中から、
より基本的なものを発見(帰納法)し、
更にそこから他の法則を順に導き出せる(演繹法)体系を作るためには、
先(ま)ず諸現象を整理し数学的に表現する必要がある。 文章による記述から、この様な基本的法則を嗅ぎ分ける事は、
殆(ほとん)ど不可能であろう。 如何に注意深く書かれた「文章表現」も、
推論のための機能、即ち帰納し演繹する能力は極めて貧弱なものである。 何と言っても数式の記述に、的確さに於(お)いても、内容の豊かさに於いても、
並ぶものではない。 余程内容の乏(とぼ)しい「痩せた数式」でもない限り、
その内容を完全に文章に移す事など全く無理な注文なのである。 逆に、推論を行わない場合、即ち、述べられた内容、唯それだけを単純に丸暗記する形で扱い、
内容相互の関係などを問わない場合には、文章で記述する方法が意味を持つ場合があるかも知れない。 然し、この様に、犯人を最初に教えて、箇条(かじょう)書きの如く内容の進展を述べるだけのものが、
推理小説としてその役を果たしているか否かは疑問である。 物理学の面白さは、自然と直接に対峙し、それを問い掛け、推理し、
問題点を解決していく所にあるので、結果の羅列を丸暗記する所にあるのではない。 答えの明白な簡単な問題であっても、自らの手で推理し、犯人を追いつめ、逮捕する、
そこに他の学問では中々味わえない物理学特有の醍醐味が生じる。 帰納と演繹の話をした所で、私が数学や物理を勉強していく場合に、
どの様な考え方でこれに接していけば好いのかを考えてみよう。 最近は、小型で高性能な計算機が安く手に入るようになり、
小学校から教科に採り入れられる所も珍しくなくなった。 ところが、幾ら計算機が高性能になっても、
「計算は計算機に任せて、残った問題を考えよう」
とはならない所に、数学の面白さがある、難しさがある。 数学は計算でもあり、論理でもあり、言語でもあり、
様々な顔を持っている複雑なものである。 譬えば、今私の頭の中に突然素晴らしいアイデアが浮かび上がった、としよう。 それはあるかも知れないが、恐らく随分(ずいぶん)と抜け穴の大い粗雑(そざつ)なものだろう。 初めから完璧な論理を携(たずさ)えて登場してくるものなど存在し得ない。 それはある特殊な場合だけに成り立つ「真理の断片」、即ち帰納されるべき対象なのである。 この事から考えても、私は、先ずはこの「断片」を見つける行為に没頭すべきなのである。 計算を計算機に任せて、いきなり一般的に論理的に問題を考えよう、としてもそれは無理である。 若(も)し、それが出来る人が居るとしても、それは特殊中の特殊で、私が真似るべきものではない。 大学者の多くは、子供の頃から「特殊」の大好きな人達である。 汲(く)めども尽きないアイデアの源泉は、特殊な数値、特殊な具体例に精通している所にあった。 溜め息を吐きながら大空を眺めていても、それは決して「考える事」にはならない。 勿論、晩の食事の決定や、明日の道路の舗装(ほそう)に数値が必要な場合、それは計算機で行うべきである。 手計算では間に合わないし、間違う場合も多いだろう。 然し、科学の研究を志(こころざ)す人は、特にその初期の段階では、
「計算機は使えれば使えないよりはまし」という程度で好いだろう。 特殊な例を数多く熟(こな)し、帰納すべき事柄を多く身につける、
こうした体験こそ修行中の学徒に必須の要件なのである。 泥臭さこそ私に必要なものであって、見掛け上の華やかさは将来の楽しみに取っておこう。 「若し学問に王道あらば、それは未舗装(みほそう)の泥道に違いない」のである。 小平邦彦(くにひこ)博士は
『きちんとした数の計算が出来ないで、数学的にものを考える力がつくとはとても思えない。
誰でもピアノのキーを叩けば譜面通りの高さの音は出せる、然しそれがそのまま音楽にはならない。
音階練習のような一見退屈な機械的訓練を経て、初めて一人前の音楽家に成れるのである。
数学に於いても同様であり、数の計算の理屈はさほど難しいものではないので、
誰でも容易にそれが解ったような気分にはなれる。
然し、基本となる「数の計算」や三角形の合同や相似を出発点とする
「初等幾何学」を疎(おろそ)かにしては数学にならない。
これらの訓練が将来、より抽象性の強い数学に於いても、
そこに具体性を見出しそれを操る能力と感性――「数覚(すうかく)」――を身につける実際的方法を与えるのである』
という主旨の発言を盛んに繰り返されていた。 音楽家も、スポーツ選手も、どの分野の達人も機械的な基礎鍛錬の重要性を強調しながらも、
やはりそれは辛いもの嫌なものであると言う。 然し、忘れてならないのは、凡(およ)そ一流と認められた人物で
「機械的な練習から逃げだした人は居ない」という事実である。 勿論、無理や無駄を嫌う精神は尊いものであるから、
機械的な練習にもそれなりの工夫と要領は必要であるが、
努力と忍耐なくして、達成感や満足感といった情緒の発動は起こり得ない。 古臭い「努力と忍耐」ではなく、「明るく楽しい」最新の方法を好む人は、
その種の人体実験に参加する以上、それなりの危険を覚悟しておくべきである。 安易な方法に頼って、若しそれが失敗であったとしても、
決して主張者は責任を取ってはくれないし、謝ってもくれない。 華々(はなばな)しさに憧れて、祭りの後の虚しさだけが残るようなものに惑わされず、
人類の歴史、その風雪に耐え抜いた考え方に少なくとも一度は従い、
その後に自らの創意と工夫を重ねる方法が飽くまでも学習の基本である。 数学に於けるその基本とは、やはり「数の手計算」を於いて他にないのである。 計算機は、現在も近い将来も、具体例しか取り扱えないものであるから、
それが学習者に養分を与える方向で指導されるならば多少の意義はあるが、
若し「計算は計算機に任せて……」という浅はかな主張のみが流行になると、
我が国の知的体質は益々虚弱(きょじゃく)なものになるだろう。 計算機教育が、「特殊から一般への道」に叶(かな)った方向で行われる事にひたすら願っている。 次の元号は近い将来文明がさらに発達する時代なので、
それに因んだ元号を個人的には望む。 平成もそれなりに文明を築いてきたが。
政治や経済も… 時代が時代で自分を犠牲し亡くす人が多いので文明の発達うんぬん言わずに
来たる高齢化社会、人が生きる希望を持ちやすく自然な名前になるだろうか。 そうだ。人が生きる希望を持てればという願い、里に祈りをこめて。 こうして、まだまだまだまだ勉強が足りない、でも知りたいことはたくさんある。
ただ怠惰に諸学に励む、唯一の証人が陰にひそむのであった。 Lunatic Soul - Cold (from Walking on a Flashlight Beam)
https://youtu.be/4dIoBU-mJ64 Lunatic Soul - A Thousand Shards of Heaven (from Fractured)
https://youtu.be/SyX2JZ0fFn0 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
おみくじ集計(特殊)
【男の娘】 1
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