Aleph 庚

1kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/01(金) 06:13:52.020
武者修行

128kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/25(月) 08:50:28.190
 これは人間が置かれている条件そのものを改変する営みにほかならないからだ。
ぼくたちがまだ経験したことのない新しい事態が生まれつつあるのである。

このため自然と環境に向かう姿勢が、科学の対象となる中立的なものではなく、
ぼくたちの生き方にかかわる倫理的な性格のものとなってきたのだ。

129kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:03:17.970
【エロス/タナトス】


ポイント:

 エロスというのはふつう性愛という意味で用いられるが、
現代思想の分野ではもっと広く、生命保存の原理というほどの意味で使われる。

もともとはオーストリアの精神科医フロイト(1856〜1939)の精神分析において、
人間が自己を保存しようとする本能的な衝動をもっていることを意味する。

130kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:06:17.390
 これに対してギリシア語で死を意味するタナトスは、死の欲動の原理である。

ぼくたちは自己を愛し、他者を愛する強い欲望だけでなく、
ひそかに自己破壊的な欲望に動かされることもあるのだ。

131kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:18:15.780
切り口:

[エロスとナルシシズム]

 生命保存の原理としてのエロスには二つの側面がある。
自己保存という生物学的な欲動としての側面と、性愛という非生物学的な欲動としての側面だ。

まずぼくたちは生存するためにご飯を食べ、水を飲む。
規則的な眠りも必要だし、適度な運動も欠かせない。
食欲のような欲望はぼくたちが生物として生きるために必要なものだ。
この自己保存の欲動が欠如すると、生存できなくなる。

132kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:23:42.650
 これに対して広い意味での性愛というものは、生物学的な必要性に基づいたものではない。

ぼくたちはペットに人間よりも愛着することもあるし、異性に対する愛情も
生殖の必要性に基づいたものではない場合が多い。

このエロスはときに幻想のような性質をおびるのであり、
異性そのものではなく、異性の頭髪や足に欲望を固着させる
フェティシズムのような倒錯を生むこともある。

133kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:28:32.870
 ただこの二つは完全に分離できるものではないのがおもしろいところだ。

人間の自己保存の欲動はナルシシズムをそなえているのであり、
この自己保存の欲動なしでは生きていけないのである。

ところがぼくたちが社会で暮らしていくためには、
自分のナルシシズムの一部を外に向け、他者に向けることが必要となる。

人間の性愛は、他者に向けられたナルシシズムを起源とするとも言えるのである。

134kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:47:02.170
[タナトスとマゾヒズム]

 フロイトはまた、人間には不可解な死の衝動とも言えるものがあることに注目した。

交通事故など生命を脅(おびや)かす経験をした人が、それを繰り返し夢に見ることがある。
フロイトは夢は欲望の充足(じゅうそく)だと考えていたから、
これを夢に見ることは死を欲望していることになる、というのだ。

密かな自殺欲望を抱えている人のいることは、よく知られているだろう。
ぼくたちには自分の死を望むマゾヒズムが存在しているのではないかと考えたのである。

135kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:50:57.690
 またフロイトは孫の一人遊びを観察していて奇妙なことに気づいた。
孫は糸巻をベッドの下に転がしてはオーと言い、
糸をひいて糸巻を取りだしてはダーと言って遊んでいたのである。
オーが「いない」と意味すること、ダーが「いた」を意味することが確認された。

136kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 06:59:17.460
 赤ん坊に「いないいないばあ」の遊びをすると、
ふつうは「ばあ」のところできゃっきゃっと喜ぶ。
しかしフロイトの孫は「いないいない」のところで喜んでいた。

フロイトはそのことを、その頃母親が外出がちだったことから解釈した。
孫は母親の不在に耐えるために、糸巻を見えなくすることで、
母親の不在を自分の力の及ぶものとして喜んでいるようだった。

孫は母親を象徴的に「殺して」いたのであり、そのことによって自分を苦しめながら、
喜びを感じていたとも見られるのである。

137kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/26(火) 07:10:29.080
展開:

 このようにフロイトは生の欲動であるエロスと死の欲動であるタナトスを対立させて考えたが、
ここには奇妙な逆説がある。

フロイトは、エロスは人間が愛しあう人と一体になろうとする欲望だと考えた。
しかし同時に死には、人間が誕生する以前の原初的な一体性に戻るという意味がある
とも考えたのである。
だとするとエロスの欲動も死の欲動も、失われた一体性を回復しようとする
衝動だということになる。

エロスとタナトスは、人間を動かすさまざまな欲望の二元論だが、
実は原初の状態への回帰という一元論的な欲望の二つの姿なのかもしれない。

138kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 11:34:37.110
【演繹/帰納】


ポイント:

 演繹は帰納と一緒に考えてほしい。推論の二つの主要な型だからだ。

演繹するというのは、まず一般的な法則を立てて、
それを個別の事例にあてはめる推論のやりかただ。

帰納というのは、多数の個別の事例をもとにして、一般的な法則を定める推論だ。
一般的な法則に"帰って"くるので帰納だと覚えるといいかもしれない。

139kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 12:19:44.030
切り口:

[演繹]

 演繹はまず一般的な法則を立てる。
「人間は死ぬものだ。ぼくは人間である。だからぼくは死ぬ。」
この三段論法は前提が正しく、ぼくが人間という集合に所属することが確実であれば、
かならず正しくなる。

演繹とは、正しい推論のことであり、論理学とは正しい推論について研究する学問のことである。

140kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 12:23:49.810
 ただし問題なのは、演繹は絶対に正しいとしても、それは推論の形式だけの正しさであり、
内容の正しさではない。

ぼくがもしサイボーグであったならば、人間という集合に属するものであるか
どうかは定かではなくなる。

医学がさらに威力を発揮して、臓器を交換しながら不死を実現できるようになるかもしれない。
その場合には死の定義そのものが変わってくるので、論理的な形式は正しくても、
事態を正しく示す推論ではなくなるかもしれない。

141kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 12:43:09.030
 あるいは推論の背景にあるゲームの規則を変えるだけでも正しさは失われる。
1+1=2というのは、十進法の計算であるという前提のもとでだけ正しい。
二進法では1+1=10と答えなければならなくなる。

論理的な正しさというのは、いくつもの約束ごとに守られている場合だけに言えることなのだ。

142kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 12:49:24.480
[帰納]

 帰納は多数の観察例を集める。

カラスを観察し、一羽のカラスが黒く、二羽目も黒く、千羽目も黒いとすると、
すべてのカラスは黒いという推論を定めることができる。

しかしこの推論は演繹とは違って、絶対に正しいとは言えない。
推論の形式にその結論の正しさを証明する力がないからだ。

だから一羽でも白いカラスが登場すると、この推論は間違っていたことが明らかになる。
帰納はつねに誤りになる危険性に脅(おびや)かされた推論なのである。

143kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:02:10.610
 しかし考えてみれば、物理学などの自然科学で真実とされている法則は
どれも多数の測定と観察に基づいて構築されたものである。

幾何学などは初めに公理を立てて、定理を定めて順に演繹していく。
だから前提さえ認めれば、絶対に正しい体系ができるはずだ。

しかし観察に基づいた法則は、その観察に反する事実が出てくれば、
それは間違っていることになる。
観察に反しなくても、その法則で説明できない事実が確認された場合には、
もっと別の法則に代えられる可能性もある。

ニュートン(1642〜1727)の物理学はずっと正しい体系だと考えられていたが、
アインシュタイン(1879〜1955)がこの物理学では説明できない事実を指摘し、
それを説明できる新しい体系を提示したので、絶対に正しい体系ではなくなったのである。

144kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:09:56.460
 また帰納に関しては反証可能性という概念を考えておきたい。
科学と哲学の関係について考察したポパー(1902〜94)は、
一つの事実でその推論の正しさが否定されるという帰納の欠陥(けっかん)
を逆手にとって、反証できることが科学の資格だと考えた。

科学の世界である発見を行うと、他の科学者がそれを反復してみて、
それが正しいことを検証した場合に限って、その発見が認められる。
同じ実験をしてみて、その発見に反する結果が出た場合には、
それは科学的には否定されるのだ。

たとえどんな立派な体系でも、他の人々が反復してみて、
その正しさを確認できないものは、客観的に検証できる方法がないので、
科学とは認められないことになる。

145kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:10:55.500
>>144から展開:

146kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:14:47.200
「展開:」続き

 精神分析では患者が否定するということは、
無意識のうちにそれを肯定していることだと考える。

マルクス主義にはイデオロギーという仕掛けがある。
どちらも客観的に検証ができない仕組みになっているのだ。
だからポパーは、反証できる仕組みをそなえていないものは
科学ではないと主張するのだ。

147kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:18:02.340
腹が立つので書き直し。

148kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:19:07.320
展開:

 また帰納に関しては反証可能性という概念を考えておきたい。
科学と哲学の関係について考察したポパー(1902〜94)は、
一つの事実でその推論の正しさが否定されるという帰納の欠陥(けっかん)
を逆手にとって、反証できることが科学の資格だと考えた。

科学の世界である発見を行うと、他の科学者がそれを反復してみて、
それが正しいことを検証した場合に限って、その発見が認められる。
同じ実験をしてみて、その発見に反する結果が出た場合には、
それは科学的には否定されるのだ。

たとえどんな立派な体系でも、他の人々が反復してみて、
その正しさを確認できないものは、客観的に検証できる方法がないので、
科学とは認められないことになる。

149kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/27(水) 13:19:25.320
 精神分析では患者が否定するということは、
無意識のうちにそれを肯定していることだと考える。

マルクス主義にはイデオロギーという仕掛けがある。
どちらも客観的に検証ができない仕組みになっているのだ。
だからポパーは、反証できる仕組みをそなえていないものは
科学ではないと主張するのだ。

150kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 21:40:49.290
【概念】


ポイント:

 概念という語は、形而上などと同じように、
中国の古い文献から取られたものだという意味で、ユニークだ。

概とは升(ます)で粉などをはかるときに、余った部分をかき落とす棒を指す。
その升にはいるものだけを集める道具なのだ。

概念は知覚した対象のさまざまな表象のうちから性質の違うものをふるいわけて、
共通なものを取りだすという役割を果たす。

また西洋の言語では、概念という語は「つかむ」という動詞から作られていることも
興味深い。人間は対象を概念によって認識するが、そのとき人間はそのものを
手でつかんでいると考えるわけだ。

151kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 21:46:29.500
切り口:

[普通名詞]

 その意味で概念は、ときに具体物を表す普通名詞と同じように使われることもある。

石という普通名詞には石と石でないものを区別する定義が含まれているので、
こうした名詞も概念と呼べるのだ。

概念は存在する事物だけでなく、「判断」や「意思」など抽象的なものを指すこともある。

152kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 21:52:10.460
[普通と個別]

 この概念をめぐっては、長い議論の歴史がある。

ソクラテスは美という概念の定義を追求したし、
プラトンはそれに美のイデアという存在を割り当てた。
プラトンは真の意味で存在するのはイデアであり、
美しいものは、その美のイデアを分けてもらっているので
美しく見えるのだと考えたわけだ。

美しいものははかなく脆(もろ)い。
しかし美そのものは衰(おとろ)えることも、汚れることもない。

153kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 21:54:36.770
 このプラトンの考え方を言い換えると、美という普通的なものが存在するから
個別の美が存在するのであり、個別の美は普遍的な美よりも一段階劣ったもの
だということになる。

概念が実在するのか、概念は個別のものから作られた抽象的なものにすぎず、
実在するのは個別なのか、という問題が争われたのだ。

154kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 21:59:42.040
[普遍論争]

 中世の哲学論争に幕を下ろしたのは実在するのは概念ではなく概念は「名」にすぎない、
実在するのは個別であるという結論だった。

近代は概念の優位が転落し、ぼくたち個々の人間の地位が確認された時代だった。
たしかに人間という概念がどこかに存在しているというのは近代的な視点からは
おかしく見える。

人間が一人もいなくなった地球では、人間という概念そのものが不要になって、
消滅するかもしれない。
しかし人間が一人でも生き延びていれば、この人間が自己を思考するために
人間という概念は存族するだろう。

155kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 22:01:48.200
 ぼくたちの思考は抽象によって生まれる概念で組み立てられている。
概念的というと、ときに具体性に欠けるという否定的な意味を含むことがあるが、
人間がコミュニケーションをするには概念に依拠(いきょ)せざるをえないのだ。

156kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 22:07:21.530
展開:

 ところでぼくたちはたんに「人間」や「自由」のような個別の概念で考えるだけではない。
さまざまな概念が生まれるにあたっては、ぼくたちが世界をどのように眺めているか
が大きな影響を及ぼしている。

森に生えている樹木(じゅもく)を「木」としか呼べない人と、
その森が食物(しょくもつ)と薬の宝庫に見える人では、
森と樹木の概念そのものが違ってくるはずだ。

どのような概念を作っているか、そしてそれらの概念がどのように結びついているかは、
世界の見方を大きく変えるはずだ。

157kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2017/12/28(木) 22:14:43.620
 この概念の枠組みは、時代と社会ごとに異なるものだろう。
世代を継承することを重視した中世のイエと現代の核家族のイエでは
大きな違いがあることは、「家」という概念が日本の社会のうちでも
変化していることを教えてくれる。

また同じ時代のうちにあっても、インドの社会とぼくたちの社会では、
思考の基盤となる概念の枠組みが微妙に違っているかもしれない。
もしかして同じ概念を使いながら、ぼくたちはかなり違ったことを
言っているかもしれないのである。

インドの「民主主義」の概念と日本の「民主主義」の概念が違うとしたら、
ぼくたちはほんとうにコミュニケーションできているのだろうか。
これは翻訳された概念がほんとうに同じものかどうかという疑問とともに、
普遍的な思考に対する信念を揺るがす問いと言わざるをえないのだ。

158kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 05:17:25.840
【仮象】


ポイント:

 ぼくたちはどんなものでも、その「見える姿」からしか判断することはできない。
しかし見える姿がその真の姿と違うこともある。
そのとき、その見える姿を「仮象」と呼ぶ。
見える姿が真の姿、その本質から逸脱していると考えるからだ。
仮象にすぎないというのはつねに否定の言葉で、君は本質を知らないね、
と暗に言われていることになる。

159kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 05:23:53.550
切り口:

[錯覚]

 仮象の一つである錯覚を例に考えてみよう。
たとえば真っ直ぐな棒を水の中にいれて横から見ると曲がっている。
いくら目を擦っても曲がって見えるのだが、水から取りだして見ると棒はやっぱり真っ直ぐだ。

ああ錯覚だったのだとそれでわかる。
棒が曲がって見えるのはたしかで、これは否定できない。

160kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 05:28:12.270
[人間に固有の仮象]

 ところで錯覚は避けられないものだ。
水の中の棒はだれが見ても曲がっている。

どうやら錯覚という仮象は、人間という動物が地球という錯覚で
生きていくために必要な誤謬(ごびゅう)らしいのだ。
人間に固有のこうした仮象は視覚の世界だけではなく、
思想の世界にもある。

161kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 05:37:53.310
 たとえば神が存在し、それを証明できるという議論は、
古代から西洋のキリスト教社会では長く続けられてきた。
人間は自由であるかという議論もそうだ。

宇宙には始まりがあったのかという議論も歴史が長い。

こうした議論はときに宗教的な論争になり、
哲学的な議論になり、科学的な探究の源泉となる。
そして決着がつかない性質のものだ。

カントはこうした議論のことを、人間の理性に固有の仮象と呼んでいる。

これは闇の中で縄を蛇と見間違えた仮象とは違う性質のものであり、
いわば生産的な仮象なのだ。

162kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 05:47:06.180
[二元論]

 この外見と誤謬の関係は古代のギリシアの時代から考察されてきた。

ヘラクレイトス(前六世紀)のように、ぼくたちを取り巻く変化と運動の世界が、
世界の真の姿なのだと考えるべきなのか、それともプラトンが語るように
真の世界は不可視のイデアの世界であり、
ぼくたちの世界は仮象の世界にすぎないのだろうか。
この対立する視点から、一元論と二元論が生まれることはすぐにわかるだろう。
仮象という概念は、この二元論の世界観から生まれることが多いのだ。
一元論では仮象を否定するか、仮象と真の姿を和解させる方法を必要とする。

163kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 05:59:34.610
[本質の現れ]

 一元論のように仮象を否定するのではなく、仮象が本質を誤認したものである
という考え方そのものを批判する議論がある。

本質という抽象的な概念は、そもそも概念としてしか考えることのできないものだ。
人間という本質はそのものとしては姿を現すことはできない。

君やぼくがいて、ぼくたちを抽象した概念として、人間という本質が現れる。
だから本質はつねに個別なもののうちにしか現れないのであり、
本質が現れるとき、それはつねにどこか歪曲(わいきょく)され、
ずれているに違いない。
本質は現れるときにはつねに仮象に見えるはずなのだ。

164kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 06:04:14.780
展開:

 仮象という現れの「正体」を暴こうとすることで、
新しい認識が登場するという役割にも注目したい。

資本主義の社会ではお金に購買価値がそなわっているように見える。
また労働者は自分の労働力を賃金で等価交換しているように見える。

しかしこうしたものが仮象にすぎないことを明らかにしたのがマルクスだった。
仮象の働きを考察することで、資本主義のメカニズムが解明されてきたのだ。

165kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 06:07:13.800
 また、仮象という語には否定的な意味合いがあるが、
これを否定的でなく語るときには、現象と呼ばれることが多い。
人間にとって現れるものという意味であり、
ときには人間が認識する対象を指すためにも使われる。

166kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 06:11:44.800
 フッサール(1859〜1938)が始めた現象学という方法は、
人間にとってのこの現れを手掛かりに、
人間の認識の構造を探ろうとしたのだった。

人間はさまざまな偏見をもって世界を認識する。
これについては「現象」を参照してほしい。

167kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:19:31.900
【現象】


ポイント:

 現象とは現れということであり、それは世界が人間に「像」として立ち現れることを意味する。
古代ギリシアのプラトンの時代から、見えるものとしての現象には仮象という性格と、
真理という性格があった。

プラトンは人間が認識できる現象は、実在そのものではなく、
実在の仮象にすぎないと主張していたが、
プラトンの真なる実在(イデア)、アリストテレスの形相(エイドス)という語はどれも
「見られたもの」という意味の語から作られている。

真なる実在は、見られた現象という意味から離れられないのである。
真なる実在とたんなる現れというこの現象の両義的な性格は、
現代にいたるまで続いている。

168kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:28:59.490
切り口:

[本質と現象]

 現象の概念のこの両義的な性格をうまく表現し、現象とは別に実在そのものを示す本質
のようなものが真理として存在しないことを示した、ヘーゲルの現象についての考え方を紹介
してみよう。

たとえば光を考えてほしい。
光の現象とは、湖の表面が輝き、夕焼けで空が赤くなり、樹木(じゅもく)から落ちる木漏れ日である。
しかしこれらの現象の外に、光そのもののようなものがあるのではない。
光の本質は、これらのさまざまな現象としてそのまま現れているのだ。

君が詩人だとしよう。
君の詩人としてのほんとうの力は、書かれた作品のうちに現れる。
君が「ぼくはもっと優れた詩人だし、ぼくの力はこんなものじゃない」
と言い張っても、君の真の力は君の作品のうちに現れたものでしかないはずだ。

現れとは、実在そのものではないだろうか。

169kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:32:46.710
 ぼくたちは、何か隠された物自体のようなものや本質的なものがあって、
それが人間に仮象である現象として現れると考えがちだ。

ところがヘーゲルは、本質というものは現象しなければどれほどのものでもないと考えた。
本質あるいは真理は現象として現れるというこの洞察は鋭い。

170kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:35:53.910
[遠近法]

 すべてのものは人間に現象として現れるほかない。
そしてすべての人にとって、世界の現れは異なっているはずだ。

二人の人が同じ草原を眺めているとしても、すでにその位置が違うし、
その人の視覚能力が異なれば、見えかたも違うはずだ。
それに個人的な経験と記憶の違いで、その風景に別の思い出を重ねているかもしれない。
だから同じものを見つめる無数の視点があり、その視点ごとに違った現象が現れることになる。

171kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:41:29.580
 ニーチェはこの視点の違いに注目して、人間のすべての価値判断の背後には、
それぞれの人間に固有の遠近法があるのだと考えた。

人間が何かを認識するというのは、その人の遠近法に基づいて世界を切りとる
ということであり、人間の眺めている世界のほかに、真の世界は存在しないことを指摘する。
知覚そのものに価値判断が含まれ、それが人間という種や、その人の個人的な経験によって
彩色されているというこの視点は、真理という概念を相対化するという機能を発揮した。

172kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:46:59.160
展開:

 ところでヘーゲルの現象の概念をひきついだのがフッサール(1859〜1938)の現象学という学問である。
現象学ではぼくたちの知覚のうちに現れる現象しか信用しない。
人間の意識は意識する行為と意識される対象という志向性の構造をそなえている。
すべてのものがこの構造のうちで解明されるのだ。

カントは認識する人間の知覚と判断の構造だけに注目していた。
カントは認識される現象そのものの性質にはあまり興味を示さない。
ところが現象学では、人間が認識した現象の性質そのものと、精神における働きにまで目を向ける。

173kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 16:52:28.140
 たとえばフランスで現象学を展開したメルロ=ポンティ(1908〜61)は、
知覚という行為がどのようにして人間にとって可能になり、
どのような構造をそなえているかを詳細に研究した。

二つの掌を合わせるという行為から、切断した脚にまだ痛みを感じるような出来事にいたるまで、
詳細に考察できるようになった。

怠惰について、眠気について、目覚めについて、人間のあらゆる行為をその現実の現れから
考察する方法を編みだした現象学という方法の用途は無限だといってよい。

174kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 22:22:59.170
   ,,_,,
  (@v@)
  (_  .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐

175kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 22:30:21.450
■勉強法コラム

均衡ある演繹法・帰納法的学習
http://examics.web.fc2.com/column/how-to-study/deduction-induction.html

要約

 勉強をする際には、問題を解くための前提となる一般的・体系的な知識と理論を身に付ける演繹法的学習と、
それらを個別具体的な問題を通じてその知識と理論を自分で扱えるようにする帰納法的学習を上手く組み合わせる必要がある。
演繹法的学習は知識や理論を自明であることを前提に一般化・体系化して統合していくインップット的学習である。
帰納法的学習は問題演習を通じて個別具体的な事項に分解する分析・観察力を養成するアウトプット的学習である。
前者はその性質故に時間をかけて勉強する割合が高くなるが、後者は一度解いた問題は何度も触れて経験を多く行うことが肝要となる。
いずれも短い時間でよいので定期的な復習を日々の学習に取り入れることが必要となる。
両学習法は別個に独立したものではなく相互に関連し合い補足する関係にあるため、
バランスよく目的意識をもって勉強することを心掛けなければならない。

176kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/11(木) 22:50:54.080
   ,,_,,
  (@v@)
  (_  .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐

177kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/12(金) 06:45:43.300
【形而上/形而下】


ポイント:

 これは「概念」という語と同じように、中国由来の言葉だ。
『易経(えききょう)』でこの二つの語は対比的に定義されている。
形而上とは道のこと、形而下とは器のことというのが定義だ。

道とは形がなくて、目で見ることはできず精神で認識すべきものであり、
器とは目で見えるもののことだ。

だから形而上とは精神的なものであり、
形而下とは物質的なものである。

でも現在は、形而上と形而下という形ではほとんど使われなくなっている。
形而上的という用語は、現実に即さない抽象的な思弁を非難するために
使われるにすぎないのだ。

178kinchiku. ◆I9ED3mCq0U 2018/01/12(金) 06:47:54.880
以上。

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