【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 尾藤さん最後の甲子園になった時のエース山路も忘れられない
長身から投げ下ろす快速球と縦スラで三振を取りまくった
ただ大会前の展望雑誌では「フォームはダイナミックだがスピードは130キロ」
と書かれていた
実際の甲子園では冬場に成長したのか140近い球を連発
旭川竜谷戦ではABCで解説した蔦さんが「旭川はおそらくこんな速い球は見たことが
ないのではないか」と言っていた
夏も期待されたがフォームのバランスを崩したのかパッとせず早々に敗退した
それでもプロに行くのでは?と思っていたが地元住金に行ってから全く噂を聞かなくなった >>333
全16試合に出塁どころか安打を記録している。
当時も少し報道されたが、いまだったらマスゴミが大騒ぎするだろうな。 >>337
山路のカーブは昔で言うドロップ風だった。
蔦さんが解説で出たのは春だからABCでなくMBSだろう。 あの大会のアンダーというと、石井、笈川のほかは、国学院久我山の石田、愛知の投手(名前忘れた)、PLの中西(背番号10だったが主戦格)、尼崎北の田中(同)、久留米商の池尻とかがいたが。八代工業の河野はサイドだったかな。 >>336
吉井という投手はプロでもそうだったがムラっ気のある選手だったな。 >>325
中田投手も花王の軟式野球で投げてるときは
オーバースローになってて驚きました(当時20代後半)。
アンダスローで投げるには日頃の鍛錬がいるそうで、
今はとても無理だと本人が語ってました。 >>344
吉井はメジャーでプレーもしたけど、現役引退してからのコーチ業では各チームから引っ張りだこで。
大学院で指導方も勉強してコーチ就任したチームは軒並み投手陣の成績は上がって。
やはり指導者も今後の球界では自らの経験論だけで指導するのではなくて常に勉強して指導方もアップデートしていかないと・・・ >>335
甲子園での活躍で硯の印象が高い人が多いけど、
実際は4番 山下(元ロッテ)の方が遙かに強打者だった。
甲子園では不調だったけど、不調なりに送りバントをあっさり決める
(それも二回も)のは箕島らしいなと思った。
他の強豪だったら、4番打者がにバント指示しても失敗することが多い。 >>347
甲子園での山下は送りバントを決めてる場面しか記憶にない・・・
進学した東洋大で長距離砲の素質が開花したけど。 前年のチームの捕手住吉も社会人経由でプロ入りしたが、甲子園での記憶はあの明徳戦の14回表、二塁走者をブロックしてアウトにしたシーンだな。
1点に食い止めて裏の逆転サヨナラにつなげたからあのプレーは大きかった。 >>332
下級生から活躍した投手って、一、二年生のころのほうがよかったという声が必ずと言っていいほど出るな。
銚子商の土屋、豊見城の赤嶺、星稜の小松、早実の荒木、横浜商の三浦、中京の野中とか。
初めて出たときの印象が鮮烈だとそうなるのかもしれない。 >>351
吉井もそうだったかも。
2年春は上野山が準々決勝のPL戦の終盤までずっと投げてて吉井は1イニングだけの登板でしたが、完璧に抑えて今後が楽しみだと思ったけど。 箕島、PL、宇部商
特に劇的な試合、逆転などミラクルが多かった御三家 >>353
その中でも箕島は絶体絶命の場面まで追い込まれてからの奇跡の逆転劇を何度も演じて。 時期が短いが74〜75年の東海大相模も挙げておきたい。
74年夏の土浦日大と鹿児島実戦、75年春の豊見城戦で見せたすさまじい粘りは忘れられない。 353で劇的御三家の話題が出たから追加で書いただけでは? >>352
82年選抜のPL戦は吉井先発のほうがおもしろかったんじゃないかな。
上野山は前日200球以上投げていたし、吉井は秋の近畿でPLに2失点で完投勝ちしていたし。 吉井は中学時代、野球の傍ら学校では陸上部で円盤投げやってたのが話題に。 自分が見てきたなかでは
島本啓次郎
東、赤尾、栗山
石井雅博、西川
石井毅、嶋田兄、北野、上野
宮本、児島、森川
岩田
硯
嶋田弟
あたりが印象に残っている。
上川、吉井、杉本あたりはあまり印象に残っていない。 >>360
杉本は取手二戦の8回裏に追い上げられて嶋田弟からリリーフで登板、下田に逆転打を打たれた場面が・・・ 杉本はカーブをまともに投げられなかった。どこに行くか分からない。
走者を三塁を置いてカーブを投げたのはプロに入ってからだったらしい。 履正社の井上を阪神が2位指名して担当スカウトとして箕島OBの畑山が挨拶にきた場面を見ましたが老けたなぁ。
同級生の岩田は今でも若々しいけど、それが特別なのかな?
以前、マツゲンが箕島球友会だった頃に協力者で同級生の江川、泉、山田の写真がHPに載ってましたが、山田は実年齢より少し若く、江川、泉はそれなりに年齢を重ねた感じでしたが。 岩田は若さを保つ努力をしているのでは?
ホームランの「甲子園アイドル50」で取り上げられたときに、若いときの郷ひろみに似てスリムなのだ、とか書かれていたが、ひろみも若さを保つ努力をしているから。
ちなみに翌年改訂の「甲子園アイドル55」では岩田は外されていた。 初めて箕島の試合を見たのは77年選抜の二回戦の豊見城戦だった。初戦の名電戦は見逃してしまった。東投手で二度目の優勝を果たした大会。
昔のビデオを探しているが、なぜか78年選抜の4試合だけはよく出回っていて持っている人が多いのはなぜだろうか。
あとは78年夏の能代戦、そしてあの星稜戦も持っている人が多い。 79年夏和歌山大会の初戦
箕島1-0市和歌山商
正田(のち広島)のいた市和商に苦戦。
最終回は二死満塁の大ピンチ。嶋田が「心底まずいと思った」と述懐している。 市和歌山は以前からずっと県上位の力を維持してるけど、箕島は・・・
智辯の壁は高いけど、それに対抗するグループにも入れてないのが。 でも市和歌山商って、1967年(昭和42年)の春夏に出て以来、1994年(平成6年)の夏まで27年間も甲子園に出られなかったんだよな。
1970年秋は近畿大会で優勝したが不祥事で選抜推薦されず、翌年夏も紀和決勝で郡山(全国ベスト4)に0-1で惜敗。 >>369
市和歌山商に替わって箕島が台頭してたのか。
箕島黄金期に市和歌山商は一度も甲子園出場がなかったとは。 市和歌山商は1964年春に甲子園初出場。
このときは初戦敗退だったが、翌年春は藤田平(阪神)の活躍で準優勝。決勝は平松(大洋)の岡山東商。平松と藤田の対決は注目を浴び、プロでも対決を繰り広げることになる。
二年後の1967年は左腕野上(南海)で春夏出場。春は野上が三重相手にノーヒットノーラン、ベスト8。
夏は宮崎大宮、今治南、大分商を破りベスト4。宇根の広陵に1-2で惜敗。
この夏の和歌山決勝の相手が箕島だった。0-2と敗れたが全国区の市和歌山商と互角に戦ったことで自信ができたと尾藤監督は語っている。
市和歌山商と入れ替わるように翌68年春に箕島は東尾を擁して甲子園初出場、いきなりベスト4進出。その後の活躍につながっていく。 >>361
84年のドラフト、嶋田弟を広島と阪神が一位指名、抽選で阪神が交渉権獲得。
広島は外れ一位で杉本を指名。
同じ高校で二人の投手が同時にドラフト一位指名された例ってほかにあるのかな? >>366
俺は78年の夏から高校野球を本格的に見たな。
いきなり奇跡のPLを見てしまった。
さらに、その翌年は箕島の春夏連覇。
センバツ決勝の箕島vs浪商との壮絶な点の取り合い、
夏は箕島vs星稜ときたからな。
これは完全に高校野球にはまるわ。
PL、箕島のミラクルを2年続けて見てしまった。
今から振り返ると凄い時から高校野球を見ることが出来て、
幸運だったと思う。 俺は江川の年から見ているが、大会を通して全試合の記憶があるのは76年ごろから。
あの時代は箕島、PLのミラクルばかりでなく、夏の決勝四年連続サヨナラゲーム、原辰徳、サッシー、24の瞳中村、バンビ、完全試合などホントに熱い時代だった。
あのころの甲子園を見ることができて幸せだったわ。
いまの甲子園はほとんど見なくなった。 >>374
そのど真ん中に箕島が主役としておりました。 70年代は箕島が主役でしたね。80年代はPLが主役で、脇役に池田かな。 年代別最多勝利校
70年代
箕島 24勝5敗(優勝4)
PL 19勝7敗(優勝1)
銚子商 19勝8敗(優勝1)
天理 19勝12敗
80年代
PL 44勝4敗(優勝6)
池田 27勝6敗(優勝3)
80年代の池田はふつうならトップになって当たり前の勝ち数だが、PLがあまりにもずば抜けていたものだから仕方がない。
池田の70年代は10勝5敗、箕島の80年代は7勝4敗だった。 80年代の勝ち数第三位は帝京の19勝8敗(優勝1)か? 箕島 甲子園成績
60年代 3勝1敗
70年代 24勝5敗(優勝4)
80年代 7勝4敗
90年代 1勝1敗
2000年代 2勝1敗
2010年代 0勝1敗
通算 37勝13敗(うち尾藤公監督で35勝10敗) 一応、甲子園出場というタスキは、各年代つながっている。 >>380
果たして2020年代には繋がってくか・・・? 伊都とか星林とか御坊商工とか新宮とか南部とか、確変的に強くなってアッサリ消える学校が和歌山には多すぎる。 でも、中核となる横綱が時を変えて出現するのも和歌山県
戦前の和歌山中、海草中にはじまり、戦後は新宮、市和商、箕島、そして智弁和歌山。 でも、中核となる横綱が時を変えて出現するのも和歌山県
戦前の和歌山中、海草中にはじまり、戦後は新宮、市和商、箕島、そして智弁和歌山。 新宮は前岡投手のときがまさに黄金時代。
市和商は時代は短いが昭和39年から42年までの間に甲子園で準優勝、ベスト4。 横綱として時代を築いたといえば和歌山中、海草中、箕島、智辯和歌山になりますかね。 箕島vs星稜18回の奇跡は、オンタイムの人生ではないけど、何かその頃の高校野球が一番熱かったように思う。
今は野球留学が一般的になったんで、大学と何ら変わらんよね。 高知県人だけど、箕島には、ホント痛い目にあわされている。
1980年、春夏連覇を狙った高知商業が、夏の二回戦でバントをことごとく決められ、
こつこつ点を取られ、0−5で完敗。
1982年、甲子園初登場の明徳が、スクイズのサインをことごとく見破られ、3−4で惜敗。
堅い守りと卓越した勝負勘がすごかったな。
PL・中村、池田・蔦、同じ年代の名将と比べても、頭一つ抜けてたと思う。
まったく勝てる気がしなかった。 >>390
そう、あのころがいちばん熱い時代だった。
いまは観客は多いんだけど、なんだか昔とは異質なんだよな。
箕島星稜とか見ることができた自分はシアワセだわ。 >>392
近所の子が頑張って甲子園みたいな事でしょ?
で、市役所とか町役場がこぞって応援するみたいなね。
箕島の尾藤さんも昔は練習試合でも、負けたら街中で罵られたと(笑)
そのかわり、勝ったら飲め飲めって漁師のおじさん達が奢ってくれたと言っていた。
いいなぁ。
盟友の星稜にも東京や関西から選手が来てる今は、ちょっと残念。でもバッテリーが地元石川だから救われたけどね。 やっぱり箕島の全盛期は島本の時だろ
マスコミは自宅まで押しかけたり、女子高生の異常人気は何となく記憶がある。 >>394
俺はさすがに島本のときは知らないが、プロ入りして活躍しないのにオールスターに選ばれたのは知っているが。太田と同じだか。
当時の週刊ベースボールを見ると、女の子
島本の家に押しかけて小さいときのアルバムが見たいとか言ったので見せた、と対応したおじいちゃんが話していた。 >>393
77年春の優勝投手の東も言っていた。
定時制で職場への出勤と、退勤してから学校に戻るときに往復してランニングしていた。
「雨のときとか休みたいと思ったこともあったが、沿道で応援してくれる町のみなさんがいたから頑張れた」と。
オラが町の野球部、選手たち。
いまそんなチームないだろうな。 >>396
箕島のように公立校で地元出身者中心のチームで全国区の強豪というのはもう出てこないでしょうね。 津久見とかもね。
清峰が瞬間的になったんだが、指導者が去ってまったく名を聞かなくなった。 >>393
星稜は付属中学出身が多いけど、この傾向は続くのかな。 箕島が全国区だった頃は海南は凋落してた。
その代わりというか、大成が強くてセンバツも2回出場した。
当時の海南は大成にいい選手を取られてたのかね?
海南・海草地区でも 超A級は箕島へ流れてたが。 >>400
大成が海南よりいい選手を取ってたとはいっても部員数自体は少なかったかと。
87年のは部員10人での選抜出場で話題になったほどだったし、82年選抜の初出場でもさほど多くはなかったような。 海南は戦前から甲子園で活躍、昭和39年まで春14回、夏4回甲子園に出場していたが、その後はまったく出場できなかった。
プロでも活躍した山下慶徳がいた昭和39年春夏が最後の出場だった。 >>400
島本兄弟は下津やしね。
その後の世代では畑山(巽中)や山下(下津二中)が有名やな。
西(東海南)は箕島へ行かず大成へ行ったが。 >>402
大成の初出場時部員数は17人やったような。
>>403
昭和61年選抜大会選ばれる思うたんやが。
天理、上宮、PL学園、智辯学園、洲本、京都西と来て最終枠は御坊商工と海南が争い(県大会決勝は海南7-0御坊商工)だったが御坊商工が智辯学園と接戦を講じて近畿大会での伸びを評価された。 >>404
西が箕島に来てたら岩田とどちらがショートのポジション取ってたろ? >>405
近畿の初戦で優勝した天理に1-7と完敗したのがたたったな。御坊商工は1勝していたし。 箕島高校野球部には入らなかったけど(レベル高すぎて)、中学までは軟式野球やってた。
巽中学の畑山投手にノーノー食らったんだが、高校入学後に畑山にそのことを話したら
首をかしげながら「何回もやってるから、どの試合か覚えてないな?」と言われたwww >>408
畑山は箕島入学時は期待の大型左腕でしたが、高校では伸び悩みで。
エースになった上野山に抜かれ、下級生の吉井も台頭してきて3年生の選抜では8番レフトでした。 畑山は岩田と一緒に進んだ近大では野手専念で高校時代に伸び悩んだ鬱憤を晴らすように
1年春からメンバー入りしてリーグ戦で活躍。 82年〜86年の新宮は松本、小原、山崎、藪と好投手を擁したが甲子園に縁がなかった
野手も大型ガチムチの選手もいて期待を抱かせた
新宮と箕島は夏の和歌山大会35年程対戦ないな 箕島昭和最後のエース増田久
那智勝浦町出身で県決勝で高野山に負けて最後のバッターだったんだよな(ファーストゴロ)
涙目で打席に立っていたのを思い出す 練習中に尾藤監督が「やる気がないなら帰れ」と叱ったらそのまま帰ってしまったチームのときか。
ニュースを聞いたときはがく然とした。箕島は崩壊したなと。 80年代終わり頃のインタビューでは、すこし選手を甘やかしすぎたとか言ってたな 昭和63年のチームは秋春の実績の無さもあり前評判は相当低かったが、初戦で4番エース松本(現ロッテ球団本部長)を擁し優勝候補の市和商に8-1で大勝して波に乗り準決勝でも劣勢と見られた智弁に7-2と完勝。
このまま優勝と思ったが決勝では甲子園を意識してか選手の動きが硬く、守備は信じられないエラーの続出、打撃も高野山の二番手投手の縦カーブを強振し凡打の山と準決勝までと同じチームには見えなかったな。 昭和から平成の元号またぎと時を同じくして、箕島から智弁和歌山に盟主が移った過渡期だな 昭和61と63の決勝敗退は今だに惜しい感じ。
代わりに出た学校が弱すぎただけに 同感
親子鷹で出場となれば注目度も増しただろうし、昭和63年のチームも甲子園自体群雄割拠の大会だったから、上位進出も狙える期待はあった 箕島と言えば西武ライオンズに入った東尾だなあ!あのときは春夏の甲子園でも勝ち進んだっけ? 東尾のとき68年春に甲子園初出場、苫小牧東、高知商、前年夏準優勝の広陵を破りいきなりベスト4進出。
優勝した大宮工業に3-5と逆転負け。
夏は東尾が扇風機のつけっ放しで熱を出し、県二回戦で星林(選抜に箕島とアベック出場していた)に延長10回で敗退。 >>417
昭和61年と63年は甲子園では1勝できるかどうかのチーム力だった。戦力不足を補う小技や粘り強さもなかった。
それでもファンとしては箕島には何かをやってくれるのではと期待をしてしまうんだよな… 乱暴だが、その年の代表(桐蔭、高野山)の対戦相手とそのまま当たったとしたら、
86年は初戦は宇都宮工、つづいて浦和学院
88年は初戦は堀越、つづいて天理
初戦はなんとか突破しても次戦は厳しかっただろう。 >>423
尾藤強前監督は86年チームの2年生エースでしたが、どんな投手でした? あまり安定感はなかった印象、決勝も早々と原井がリリーフ登板してたはず。
尾藤と同じく1年からレギュラーだった主砲坂本も、元々投手じゃなかったっけ? 明徳のすんげえヨボヨボ爺さん監督との死闘が忘れられない。
でも尾藤さんは試合後爺さんに近づいて最敬礼してた。有名な爺さんだったんだね。 >>425
決勝は強が投げていて最終回マウンドに上がる前に監督が「強、一人でも塁に出したら交代させるぞ」と選手の前で話していた。
走者を出してしまったから交代させないわけにいかなくなって原井に交代させたら前日も投げていたためか調子悪くて逆転されたんしゃなかったか? >>427
一応9回までは投げてたんだな…。
30数年前に試合途中から見たTV中継の記憶と、初戦から結構打たれてた印象あったから少し記憶違い たしか強は準決勝で早い回に打球を足に受けて降板、原井がロングリリーフしてたんじゃなかったか?
それが決勝で原井の投球に影響したと。
関東人なので詳細は分からないが和歌山の人からそのように聞いたことがある。 よりによって、強が入学した年から箕島は甲子園に出られなくなった。
尾藤さんは息子と一緒に甲子園に出たかっただろうな。 3年時の尾藤ジュニアは驚くような球を投げていた訳ではないが、制球力と凡打にするテクニックを身に付けていて県内レベルなら3点以内に抑える投手に成長していた。
それを支える打線が例年より弱かった。3番打っていた尾藤ジュニアと高校通算40本塁打の4番・坂本と俊足好打の1番・竹田以外は普通の高校生だったな。 箕島というと
プロでの活躍となると…東尾、島本講平
甲子園での印象となると(厳選)…東、石井毅、嶋田兄、北野、上野、森川、硯
を連想する。
東尾、島本の甲子園時代は知らないので。
どうしても春夏連覇時の選手が多くなってしまう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています