【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 >>234
77は大鉄の方が大阪の実力no.1
80夏は近大付浅田に3安打完封負け
特にPLが大阪でダントツだった印象は、当時無かった >>235
2014秋の近畿はツキがなかった。普通なら出れるパターンだったが >>233
今年も江川(えかわ) 「えがわ」じゃなくてね! 今年もいるよ >>231
前にネット記事で見た!箕島が4回優勝した時点で、PLは1回で箕島に甲子園2連敗だったからね! しかし私立の強みで全国から有望選手スカウトして強くなった。
箕島の尾藤監督は、学区内の地元人には声を掛けたと思うが、県内でも遠方や県外人をスカウトして強くなっても意味ないし、公立なんだから地元中心だったことは賛同できた >>238
82年のトップバッターは「えかわ」だったかな。
79年石井の控えは「えがわ」だった。社会人に進んだが早逝してしまった。 春夏連覇の箕島と2000年に強打で優勝した智弁和歌山が対戦したら面白そう 春夏連覇の箕島と2000年に強打で優勝した智弁和歌山が対戦したら面白そう 対戦の条件として
箕島連覇時の用具を使用すること
79年と2000年では用具の質が違いすぎる。とくに金属バット。 >>230
嶋田兄はプロ入りせずに社会人(住友金属)でプレーを続けていたら、杉浦(日本生命)のようにアマ野球の重鎮のような存在になっていただろう。
嶋田弟は投打にセンス抜群、野球の申し子のような選手だった。故障して大成できなかったのは惜しまれるな。 >>245
ミスター社会人と言われるようになるには記憶と記録とを残さないと、だから。
杉浦もミスター社会人と言われたけど。
杉浦も出身は橋本で和歌山だったのね。 >>239
77年春の優勝投手東は東海大相模にあこがれて練習見学をしたがプロみたいな練習で尻込みした。
そんなところへ後援会を通じて尾藤監督が東と面会して「一緒に甲子園に行こう、力を貸してくれ」とあのスマイルで両手を握ってきたので一気に心が動いたと言っていたな。 >>237
2002年秋は県で智弁和歌山に勝っていたが、近畿準々で雪辱を果たされてしまい選抜を逃した。 >>248
4点先にリードしたが中盤に逆転された!智弁の嶋田は箕島中出身だったな >>243
昭和54年時代のバットは、消音バットみたいな鈍い音だったな!57年か 58年頃から鋭い金属音で、打球が飛ぶようになった ミズノのダイナフレックス
その前は舶来のイーストン、ルイスビル
いまの金属バットとはまるで反発力が違う。 >>252
ダイナフレックス、ルイスビル懐かしい。
現在の金属バットとは反発力は違うけど、それでも当時は金属バットの打球は速いと言われてました。 金属バット導入直後はポコポコの当たりが多かった。打つときに「カツン」という音がした。
当時の金属バットは木製に近づけていたわけで。それでも木製に比べたらもちろん飛距離は出たが。
しかしいまは根元に当たっても飛ぶ。ちょうど池田がパワー打線で席巻した頃から。木製と導入当初の金属バットとの飛距離の差よりも、当初の金属バットと現在の金属バットとの飛距離の差のほうがとてつもなく大きい。
野球に深みがなくなってきたのも、そして箕島が勝てなくなってきたのもその頃から。 >>254
箕島も池田に対抗しようと、57年〜59年は大型チームだった。いずれも優勝候補だったけど、バントなど細かいことが雑で、当時の松永令一氏も「なにか違う!おかしい」と、雑な攻めの時に解説してましたね! >>255
昭和57年のチームは池田の山びこ打線と同じ年で。
選抜では箕島の強打は大会前から評判にはなってました。
ソツのなさは初戦の上尾戦で前年秋季大会で無失点記録を続けていた日野に対して初回の速攻であっさりと無失点記録を止めて攻略するなど箕島らしい試合運びは見せてましたが。 >>256
いきなり東西の横綱対決でしたね。次戦でこれまた優勝候補の新興勢力明徳で激戦でした。
準々決勝の相手も優勝候補の一角のPLでしたが、9回また追い付くと思ったが初めてPLに負けてしまいました。優勝候補3連続は流石の箕島でもきつかったか 82年春は組み合わせが悪すぎた。対照的にPLはよすぎた。PLは箕島に勝ったあとも早実、中京が寸前で負けてくれたし。
箕島が組み合わせ悪すぎたのは島本講平の70年春。
初戦から東海大相模(この年の夏優勝)、三重(前年の春優勝)、広陵(豪腕佐伯を擁して候補筆頭)、北陽(前年秋の近畿で敗れていた)と私学の強豪、前年秋の地区大会の優勝校ばかりと当たった。
それらを総なめにしてみごと優勝した。 >>231
この時代を知っている住人は50歳以上。
若くても40代後半。 >>257
箕島らしい試合運びを見せてたのは82年のチームが最後かも。
翌年夏の吉井の世代は吉田戦での硯の奇跡の同点弾からの逆転サヨナラはあったけど、試合運びとしてはとても褒められたものでは・・・ 91春のチームも、一応復活を感じさせる雰囲気はあったよ 82年のチームは選抜終了後は打線全体が極度の不振に陥った。
春の和歌山大会は優勝したが、近畿大会は2試合で1点しか取れなかった。
それまでの箕島は打てないなら小技で補っていたけど、それが無かったからなぁ。
夏は必ず立て直してくると思っていたけどね。 82年夏の和歌山代表は南部。
甲子園ではセンバツと同じく埼玉代表と対戦。
しかし、なんと埼玉も代表も進学校の熊谷。
センバツの箕島vs日野が上尾と比べると、
同じ県同士の対戦だったが、
かなりマニアックなカードだった。
この年の夏は和歌山でも埼玉でも異変がおこったんだな。 >>264
>>263
そうそう、春季大会が底で夏には必ずチーム状態は上向きになると・・・
近畿大会では選抜に続いてPLに苦杯を呑んでたけど。 たしか夏は初戦は2-1、二回戦で2-3で吉備に負けたんだっけ? うーん・・・
箕島の全盛期でも市商が相手だと接戦になって最後には勝ってたけど・・・
春夏連覇の79年夏の初戦でプロ入りした広島で首位打者も取った正田のいた市商を相手にやっと勝ったような。 残念だがもはや箕島に有望な選手は集まらんようだな。
今は和歌山で高校野球のブランドといえば智辯和歌山が断トツ。
しかし、智辯和歌山は少数精鋭だから、
簡単には入れない。
その次の選択肢としては市立和歌山か。
今の和歌山の有望選手の間では、箕島の選択肢はないんだろう。
全盛期の箕島を知っているものとしては何とも哀しい時代だわ。 不祥事は無いまま没落するのは悲しい
生徒のレベルは相当低かったみたいだけどw 南部や田辺など紀南地域の学校はさらにきついのかな? 40年前のブランド(箕島)
尾藤監督の指導を受けて甲子園に出たい
現在のブランド(智弁和歌山)
少数限定で毎年甲子園に出たい、進学も保証されるから 箕島が敗れたのにつづき、きょう池田も徳島大会で負けたようだな。 >>272
ただ、智辯だとここで野球をやりたいと思ってもそれが叶うとは限らないのが。
和歌山県で智辯と2強とも言える市和歌山の選手だって智辯に行きたかったけど叶わなかった選手もいるはず。 50歳以上のおっさんにとっては、
和歌山といえば箕島が高校野球では最高のブランドで、
それ以外は考えられないが、
だが、70〜80歳代の人からすると、
和歌山といえば和歌山中学、海草中学が最高のブランドなんだろうな。
そして、今は智弁和歌山。
まあ、哀しいが時代の流れということか。 セレクションが事実上の入学試験。
一学年十人の少数限定。一般入学からは入部できない。
スポーツコースで一般生徒と別管理で野球に専念、進学も保証される。
いくら高校が義務教育じゃないといっても、これが高校の部活動のやることなのかな。
実業団となんら変わりない、ため息が出る。 もう箕島のユニフォームを甲子園で見ることはできないかも。
6年前の夏に出場したとき、仕事サボって東京から甲子園に駆けつけたわ。負けたけどこの目で見られてよかったわ。 山梨の日川にホームラン三本打たれるなど圧倒された。往年の巧者ぶりは影をひそめ、さびしい試合内容だった。 >>278
点差以上の完敗やったね。
その日川も次戦大阪桐蔭に延長サヨナラ負け。 結局箕島は尾藤監督が一代で築き上げた公立の名門だった。
公立にありがちだが、名物監督が退任すると低迷する。
尾藤監督も他校からスカウトされたが、箕島の尾藤でいたいとして断ったとか。 >>264
南部の相手が熊谷ではなく、後の巨人の大エース斎藤雅樹の市立川口だったら、もう少し盛り上がったかな。 和歌山はその時期の県の中核の学校(いまなら智弁和歌山、あのころならもちろん箕島)以外のチームが出場するとほとんど勝てない感じがする。
82年夏は南部がこともあろうと進学校の熊谷に初戦敗退。
あのころで例外は81年。春は御坊商工が、夏は和歌山工がそれぞれ8強入り。 >>282
82年春は大成が初出場で初戦勝利。
2回戦で中京に1−0で惜敗。
ちょうど中京が甲子園通算100勝目を挙げた試合で相手校として大成の名前が球史に残って。 >>282
御坊商工は確か槇原のチームに勝ったよね 雨で泥沼のグランド、バッターボックス付近にたまった水をボールボーイが柄杓ですくっていた。
原動力は薮投手。箕島は前年秋、薮に11回ゼロ封されサヨナラ打まで打たれた。 箕島全盛期に箕島以外で出場した和歌山代表
和歌山工、御坊商工、新宮、大成、星林あたりか。
この中で昭和55年の選抜は新宮。
優勝した高知商に完敗したが、
夏は箕島が春夏連覇を狙った高知商に完勝。 70年春の島本講平時代の優勝はあるものの、箕島の黄金期は77年から始まったと思っている。
71年から76年までは計2回の出場で未勝利、尾藤監督も一時期辞めていたし。
77年からの箕島以外の和歌山代表の成績は、
78年春 吉備4-9岐阜(投手陣が17四死球を与えるという馬鹿試合)
79年春 田辺商0-11前橋工
80年春 新宮1-9高知商
81年春 御坊商工2-1福島商、4-0大府、0-4上宮(ベスト8)
81年夏 和歌山工4-0星稜、2-0近江、4-0熊谷商、0-2京都商(ベスト8)
82年春 大成2-0静岡市立、0-1中京
82年夏 南部0-1熊谷
83年春 星林0-2佐世保工
84年春 和歌山工2-4都城
箕島が衰えた84年からは春夏計11連敗という時代もあった。 吉井の年代にレギュラーじゃないけど福岡から内野控えの選手で いま企業のCEOの大島さんているな。 箕島は80年選抜の近畿7校目を滝川と争ったけど、投手陣の不安を指摘されて落選したんだよね。
選抜の時期はチームとしては発展途上だったから、もし出場していても期待はずれの結果に終わっただろうな。 春夏連覇チームの2番レフトで翌年夏にエースだった宮本は秋の時点でまだエースではなかったのかな? >>252
箕島だけじゃなく県内のチームはボンスラッガーの金属バットをメインに使ってた
新宮、和工、吉備、御坊商工など強豪はみなそうだった
しかしボンスラッガーってあれだけ使われてたのに最近は見ないねえ。 ボンスラッガーって物体の共振特性(固有の周波数)を考慮して
表面の反発力だけでなく、バット全体の振動でボールを飛ばす・・・・・
というのをウリにしてたんだよね
現役のときに頭のいい向陽の野球部員に物理の法則と共振について解説してもらったけど、
市和商のオレの頭脳では全く理解できんかった。 >>264
春は優勝候補同士の激突
夏は最弱候補決定戦
同じ和歌山vs埼玉でもこうも違った。 >>293
あの夏の最弱はダントツで青森の木造じゃないのか? >>289
あの年は地元滝川をとるか、甲子園3連覇がかかる箕島をとるか、選考委員は悩んだだろうな。
でも実力そのものは滝川がやはり上だった。しかし石本のピッチングが象徴するように潜在能力の高さを発揮できないもろさが滝川にはついてまわっていた。
前年秋の近畿の準々でまさかと思われた瀬田工業に敗退。これが選考に多分に影響した。
滝川が瀬田工業に勝っていれば、ベスト4以外の近畿3校は、上宮、平安、最後に箕島と瀬田工業が争う形となりおそらく箕島が選ばれただろう。和歌山2校になるが前年連覇校であること、京滋から平安が選ばれているから。
秋の段階では左打者にストライクが入らない投手陣だった。近畿初戦の智弁学園戦では与えた9四球がすべて左打者に対してだった。
業を煮やした宮本が「ボクに投手させてください」と監督に直訴したと聞く。秋の近畿で宮本が投げたかどうかは覚えていない。 80年春の近畿は弱かった。
黄金期のなかでの一瞬の不作の大会。 >>296
箕島と近畿最後の座を争って選出された滝川は初戦、鳴門を相手に石本が完封。
さすがだな、と思わせたけど2回戦の丸亀商戦では石本が不調で延長戦で惜敗。
丸亀商の井に2発喰らって・・・ 嶋田宗彦の甲子園16試合全試合安打は2度と破られない記録だな。
自分の中では高校野球史上最高のトップバッター。
彼を超える勝負強さを持った選手はなかなかいない。最近では大阪桐蔭の藤原も凄かったが。 1978春 準々決 箕島 2−0 PL学園
1978夏 3回戦 中京 5−4 箕島
1979春 準決勝 箕島 4−3 PL学園
1979春 決勝戦 箕島 8−7 浪商
1979夏 準決勝 箕島 3−2 横浜商
1979夏 決勝戦 箕島 4−3 池田
1980夏 2回戦 箕島 5−0 高知商
1980夏 準々決 横浜 3−2 箕島
1982春 1回戦 箕島 6−2 上尾
1982春 2回戦 箕島 4−3 明徳
1982春 準々決 PL学園 1−0 箕島
当時の強豪校との試合は勝っても負けても箕島らしさを感じた。
1983夏の高知商に2−8、1984夏に取手二に3−5で負けた試合はもはや箕島の時代も終わりつつあるのかな?と感じさせられた。 1984の取手二戦は、前評判で嶋田、杉本の二枚看板でかなり上位が見込めていただけに箕島時代の終焉を予感したよね。 しかも負け方がね。
バントは決まらない、エラー絡みで大量5点とられての大逆転負けだから。 >>301
箕島は打倒PLの1番手に挙げられてました。
取手二は選抜では同じく打倒PLの1番手に挙げられてましたが、夏は評価は下がっていてこのカードも箕島有利と言われていて。
試合展開も箕島が優位に進めていたのが魔の8回に暗転して・・・ 取手二戦が後に箕島時代の終焉、ターニングポイントと言われる試合になってしまいましたが、それにしても甲子園がここまで遠くなるとは当時は想像できなかった・・・
智辯の壁は厚いけど、それを追う2番手グループの中にも箕島の名前がないのが・・・ 取手戦が最後の終焉というのは後々にふりかえってからの話であって、当時は「このところ甲子園で勝ち進めないなあ」と感じた程度だっけどな。
85年も春は近畿大会に出ていたし。まあ小粒になったとは感じた。夏に旋風を起こした滋賀の甲西に2-1でやっと勝った記憶がある。
凋落の感がはっきりしたのは、86年夏県決勝で桐蔭に9回逆転負けしたとき。 なんだかんだいってもあのときの取手二は力があった。
箕島とPLという当時の二大強豪を倒しての優勝。こういう例はほかにはない。 >>307
91年だったか、智辯に夏の県大会で負けた時に時代の流れを感じたかな。山路がエースだったかな >>308
箕島も79年選抜で浪商・PLという当時の二大強豪を倒して優勝している。 >>309
久しぶりに充実した戦力で選抜に出て夏も期待していたんだがな。三回戦で1-3だったか、智弁に初めて夏の予選で負けたんだよな。 >>311
そうそう。俺は当時智辯の生徒だったから応援に行っていたが、じつは箕島ファンで、あの時は智辯が勝った時に智辯応援側は盛り上がりが凄まじいものだった。 >>312
当時智弁の生徒というと、延長18回とか箕島の連覇は記憶にないかな? >>302
それまで終盤に何度も奇跡の逆転勝ちをしてきた、
あの箕島が終盤に大逆転負け。
これはかなりの衝撃だった。
それまでほぼ毎年のように甲子園に出れていたのが、
不思議なことに、あれ以来さっぱり出れなくなり、
勝ち運もなくなっていった。 あの取手戦の日はロス五輪でマラソンの瀬古が14位と惨敗した日でもあった。
箕島敗退と二重のショックだった。 当時中学生でその8/13日月曜日は夏休みの出校日やったがタコって高校野球見ていたわw
第二試合、日大山形が山形県代表初の本塁打を放ち本塁打空白区が無くなった。
山形県議会でなぜ高校野球が弱いのか?って取り上げられたのってこの試合が発端って記憶しているんだが。どやろか?
東海大山形ーPLの29点の前のはずなんだよな。わしの記憶やと。
春の選抜大会にて創部も若く春夏通じて初出場ながら智辯学園、法政二と実力校を圧倒した拓大紅陵が鹿児島商工にあっさり完封負け喰らったな。 >>307
85年のエース西原は、吉井嶋田杉本のようなド迫力はなかったが安定感があり、近大→ヤマハでも主戦投手を務めた。
夏は県大会準決勝で和歌山工に0-2で敗戦。前年の雪辱に燃えた和歌山工の執念が上回った印象がある。
和歌山工 途中で送信しちゃったので…
和歌山工は翌日の決勝にも勝利して甲子園出場を果たしたが、海星に1-11で大敗。
箕島に雪辱した時点で燃え尽きていたのかも知れない。 和歌山工のエースは左腕森岡だったな。
84年選抜に出て田口の都城に延長10回2-4で敗退。
84年夏は県準決勝で春の近畿王者の新宮(エースは山崎慎太郎)を8-3で破ったのには驚いた。決勝では箕島に0-8と完敗。新宮は春の近畿準決勝で箕島を5-4で破っていただけに。
85年夏は前評判はあまりよくなかった。報知高校野球は「森岡は球威不足に苦しんでいる」と複数回にわたって書いていた。 >>318
和歌山工は前年選抜に2年生エースで都城を相手に好投した左腕森岡がいたから甲子園でもそこそこやれるかと思ってたけど、三重海星に大敗したのは意外な気がしました。
たぶん最大目標だった打倒箕島を果たして燃え尽きてたのはあったかも。 昭和の時代に無双した和歌山工の沈滞も残念
s49春も56夏も前評判は、あまり高くなかった気がする。 和歌山工業の当時の監督の吉川さんは箕島OBだったっけ?
74年春は鎌田、81年夏は中田と前評判は高くなかった投手がよく投げた。
鎌田は指をケガしながら杉村の高知に勝ち、イレブン池田に敗れた。
中田は3試合連続無四球完封だからすごい。 >>321
和歌山工はその後は2001年夏に県一回戦で前年全国Vの智弁和歌山を5-1で破ったことくらいしか覚えていない。このときのエースはプロ入りしたと思ったが誰だっけ? >>323
具具ってみたら和歌山工のエース山本芳彦が広島に7巡目で指名されてますね。
プロでは野手転向して10年プレーして現在はチームスタッフとして裏方の仕事してるそうで。 中田なつかしいな。背番号10で三試合連続完封。
翌年の朝日グラフの甲子園特集号にあの球児は今みたいなコーナーにとりあげられてたね。
花王に就職して軟式野球をやってるとか、、結構打たれますよって、定番のコメも 78年夏は2回戦最終日に登場して、翌日中京戦。石井を温存したかったんだろうが栗山の一発に沈んだね 栗岡ね。
正確には二回戦は翌日の第二試合(天理一南陽工業)で終了していた 78年夏の中京戦は3回戦。石井毅の投入が遅れたのが痛かった。 一、二塁となり打者栗岡の場面、石井がリリーフと思ったけどな。
石井は前日の第四試合のナイター戦で投げたばかりだし、当時は連投はきかなかったらしいけど。
上野が逆転3ラン打たれたあと、結局九回に石井はマウンド上がっているから、やはりこれはリリーフを出すのが遅れたんだな。
尾藤監督も「まさかホームランとは…」と試合後語っていた。 >>325
中田って、バッティング投手から予選前に背番号10をつけて力投し、甲子園では背番号1じゃなかったっけ? 石井はアンダーハンドの速球派のイメージだった
79年はアンダーハンド全盛の大会だったけど
石井はMAX132キロ
次点のアンダーのピッチャーは東北だったか125キロほどで
石井の速さが頭一つ抜けてた
ソースは当時の日刊スポーツだっけかな
石井は西武入団時に140キロ台出せるようになってたけど
腰痛の影響でサイドハンドになってた 石井は3年時より2年の時の方が状態は良かった
特に左打者の膝元に投げ込むストレートの威力はハンパなかった
2年春の黒沢尻工戦と2年夏の能代戦が石井にとってベストバウトだったのでは? 嶋田は出塁率の高さが凄かったけど(甲子園の全試合で出塁してたんじゃないかな?)
盗塁阻止率も異常に高いはず
自分の記憶ではほぼ10割だったのでは? 選抜の甲子園練習では読売新聞は浪商・香川よりも箕島・北野を評価する記事が載っていた
スタンドにポンポン放り込む打撃に驚愕したらしい
その北野は肘の故障に苦しんでなかなか結果が出せなかったが決勝の浪商相手に本来の
勝負強い真価を発揮してくれた
2年夏にはライト方向にホームラン打つなど非凡なセンスを発揮した
箕島史上最強の4番だったのではないかな 箕島のスラッガーといえば硯も印象深い
吉田戦での劇的な2ホーマーは凄かった
県大会での3ホーマーも智弁・橋本に破られるまで和歌山大会記録だったはず
上背は無いががっしりした下半身から繰り出される力強いスイングは忘れられない 硯の活躍と対照的なのが同年のエース吉井
2年の春に甲子園のマウンドを経験し、順調に剛腕へ成長していたはずでしたが
後年吉井本人が語っていたように3年夏はまるでやる気が無くて別人
県大会からけっこう打たれて防御率は3点くらいだったはず
当時の甲子園出場校のエースの防御率は0点台か1点台が主流だったので
相当悪かった
1,2回戦もピリッとせず打線のおかげで勝ったけど3回戦では高知商の津野に
満塁ホームランを打たれるなどボロカスだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています