【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 硯は衝撃受けたなあ。あまりにも劇的過ぎる・・・・・・・
漫画を越えた劇的シーンというか・・・・・・・・・
ちなみにワシ、神奈川県民。
どこの在住の人間であろうと、いいものはいい!
ワシみたいな越境ファンは、たぶん全国の至る所にいることだろう。 >>435
上川は2回目の選抜優勝メンバーなのに甲子園での印象が残ってない・・・ >>437
硯はスクイズを外されて二死走者なし、絶体絶命の場面になった直後にバックスクリーンへの同点アーチだもんな。
見てて鳥肌が立った。
なんともおそるべし精神力。
甲子園観戦歴45年ほどになるが、自分が見たなかでも十本の指に入る劇的場面。 >>438
同じく。豊見城戦でホームラン、明治でも活躍した栗山のほうがはるかに印象的。
上川は中日に入り、82年だったか、巨人戦で江川からサヨナラヒット打って名を上げたときに「ああ、あのときの77年春のメンバーだったの」と知ったわ。 尾藤さんは「普通の高校生だったのに、努力でプロで成功してくれてうれしい。」と上川の事を話していた。
同じ記事(報知新聞のインタビュー)で、当時プロで伸び悩んでいた嶋田弟と杉本に対してはもっと努力をしてほしいと話していたね。 >>442
上川はプロ入りもドラフト外だったような。
西濃運輸で力を付けてのプロ入りでもあまり期待はされてない中から這い上がった。 箕島も尾藤監督の息子が監督で、
数年前に夏の甲子園に出場して、
復活の兆しが見えたかと思ったが、
その後、サッパリやな。
同じ公立で市立和歌山があれだけ頑張っているのだから、
智辯和歌山の対抗馬の一番手になってほしいんやが。
まあ、やはり過疎化で人が集まらないのと、
今の野球をやっている和歌山の子ども達にとって箕島は、
単なる普通の公立高校なんやろうな。
何とも寂しい限りやな。 >>446
過疎化で人が集まらないというよりも学区制撤廃で地元・有田地方の生徒が
和歌山市の学校へ流出していることが原因かと・・・・・・。
有田より南の日高の生徒でも普通に和歌山市へ通ってるし。
いまのところ学区制撤廃は箕島にとって凶と出ているが、
なにかきっかけをつかめば学区制撤廃を逆手にとって
紀北地域の有力選手をかき集めることも可能となるはず。 今は箕島周辺の中学生のレベルはどうなの?
箕島全盛期は有田市の中学野球は強くて有力選手はこぞって箕島に進んだけど。 >>448
2013年尾藤強監督の就任がそのきっかけだったのですが、今夏限りで退任して・・・ 残念だが箕島の復活はもうないだろう。
昔とちがって豊かになって、将来を考えて進学先も選ぶ。義理人情で進学することもないし。
10年に一回くらいは単発的に出場することもあるかもしれんが。
やはり箕島は尾藤公さんが作りあげたチームだった。
名将が去ると没落する、他の公立にも見られることなんだが。 >>451
習志野は公立校ながら監督が代替わりしながらもずっと強さを維持してるけど、1人の名将が作り上げたチームとは違うからかな。 天の時、地の利。運も実力のうち。79年夏は、日程に恵まれてませんでした?
その当時は、3回戦は2試合・3試合・3試合の3日間実施。3回戦の1日目で
星稜との激闘後、2日入れて準々決勝は比較的涼しい第一試合。
翌日の準決勝は、第一試合で準々決勝第4試合勝利の横浜商と対戦。
決勝は、中盤までは完全に池田ペースでもきっと最後はひっくり返すんだろうな、
相撲でいうところの「うっちゃり」の雰囲気をテレビ画面からもヒシヒシ感じた。
盗塁、凄かったですね。 たしかに星稜戦が三回戦の最終試合で準々が第一試合だったらさすがに苦しかっただろう。
現に星稜戦が仮に再試合になっていたとしたら翌日の第一試合、石井が豆をつぶしていたから登板はできずに江川の先発になっていただろうから。
しかし石井が18回257球投げて疲労困憊。優勝するには中二日で準々から決勝まで三連投しないといけないので、勝ったものの大きな代償を払ったと星稜戦直後は感じたな。
それが点差こそ競ってはいたが最後には必ず勝つという底力を感じさせる準々からの三試合だった。あの奇跡的な試合を経てもう箕島は負けないチームになっていた感じだった。
球数制限が叫ばれる現代では考えられない。石井のスタミナも含めて箕島ナインの精神的体力的タフさには驚嘆のほかない。 人生で一番高校野球観戦に熱中した少年時代。
箕島の全盛期と重なって、自分は幸せだったとしみじみ思う。
みなさんはどうですか? >>453
79春も2回戦から出場とクジ運に恵まれていたな。
決勝まで4試合戦った浪商と3試合しか戦っていなかった箕島では疲労も違っていたんだろう。
その割には拮抗した試合内容だったけど。 >>455
私見だが、高校野球がいちばんおもしろかったのは、江川登場の1973年からKK三年の1985年までの時代だったと思う。もちろん人それぞれに思い入れのある期間はあるだろうが。
この期間は、怪物江川、イレブン池田、定岡、プリンス原、サッシー酒井、沖縄の星赤嶺、24の瞳中村、バンビ坂本、完全試合松本、PL逆転劇、ドカベン香川、箕島星稜18回、荒木、山びこ打線、KK…と印象に残る選手、チーム、試合を挙げたらきりがない。
まだ野球留学が全盛になる前、各代表校にふるさとの香りが色濃く感じられた時代だった。
その輝きの時代、甲子園の王者だったのが箕島だった。 公立で唯一の春夏連覇は、凄い!それまで、夏は最高が三回戦だったのでは?79年は、正に満を持してかな。77年夏、選抜の優勝、ベスト4、ベスト8 が割拠する地方大会だったりと本チャンより凄そう。この時代、予選レベルも日本一だったんでしょうね。 >>458
77年の夏は和歌山県と奈良県から1校しか甲子園に行けなかった。
センバツ優勝の箕島、ベスト4の智弁、ベスト8の天理、その他の強豪のうち、
1チームしか甲子園に出られないという鬼のような予選だった。
結果は山口投手を擁した智弁学園が紀和大会を制して甲子園切符をゲット。
箕島は和歌山大会決勝で田辺に負けて紀和大会には出場できず。 その3校とも全部甲子園に行かせたかった・・・・・・・・ >>459
このスレでも何度か書き込みあったけど、地元のコレラ騒動がなければ・・・
しかし、選抜優勝、4強、8強のチームが同じ地区大会で甲子園代表を争うなんてのは今よりも強豪校が同じ地区に偏っていた中等学校時代でもあったのかな? 中等学校野球大会の時代なら愛知岐阜三重の東海地区大会かな。
選抜大会で岐阜商が優勝しても夏の代表は愛知勢に攫われるとか。 >>461
選抜ベスト4のうち3校が夏は同じ地区予選だったこともある東海(愛知、岐阜)予選
昭和10年選抜 岐阜商(優勝)、愛知商、東邦商(ベスト4)→夏の代表は愛知商
昭和13年選抜 中京商(優勝)、東邦商(準優勝)、岐阜商(ベスト4)→夏の代表は岐阜商
昭和14年選抜 東邦商(優勝)、岐阜商(準優勝)、中京商(ベスト4)→夏の代表は東邦商
昭和8年から16年までの選抜での東海王国は異常だった。 >>461
でも77年の予選前の下馬評は、奈良大会での天理と智弁学園の勝者が紀和代表になるという声が圧倒的だった。
選抜準決勝では箕島は智弁学園を倒していたが、東が選抜の過多な登板でノースロー調整だったし。あのコレラ騒ぎがなくても苦しかっただろう。 東は県岐阜商戦は最終回に急に制球乱れたけど、8回あたりまでほぼ完封ペースで、4試合連続完封も充分あり得たぐらいの快投。
確か前評判は全然高くなかったんだけど。 失点したのは県岐阜商戦の最終回(3失点)だけだった。45イニング投げて。
一回戦が最後の第五日の第一試合。中一日で二回戦から決勝まで四日連投。六日間で5試合投げた。
選抜前から肘に違和感があったらしいが、これで完全に壊れたらしい。大会中も夜中に宿舎を抜け出してタクシーで地元に戻り整骨院で治療していた。 >>467
大会期間中に治療で地元に戻ってて、という話はよく聞きますが、移動費用は自腹なのかどうか昔から疑問なのですが? >>469
尾藤さんの著作(新聞連載を書籍にしたもの)によると、東のときは寄付金を使わせてもらった、タクシー代は20万以上になったと回顧している。 >>471
東の時代だと列車移動ではまだ和歌山以南の紀勢線は電化されてなくてディーゼルカーだった・・・
列車本数も少なかったからタクシー移動だったのかな。 この前、和歌山から紀勢線に乗ってグルッと1周したが(和歌山までは夜行バス・
途中県内で、2泊)えらく距離があった。箕島という駅も通った。 >>472
というか、人目を避けるためだろう。
報道陣がいなくなった夜に宿舎を抜け出して有田にタクシーで向かったらしい。 タクシーの運転手には何日か予約を入れて運転をお願いする代わりに、東の治療については箝口令をしいてもらったと尾藤さんはふりかえっている。 近畿大会で優勝しない時は、甲子園で好成績・近畿勢にも勝利。近畿大会で優勝すると、
甲子園でいまひとつ。面白いですね。選抜78準々決勝・79準決勝・83準々決勝、対PL戦
手に汗握る熱戦でした。 というか、秋の近畿で優勝したのは81年だけだろう。春夏連覇のチームも秋は準決勝で浪商にコールド負けだったし、まあ石井は先発しなかったけど。 >>469
74年夏の優勝投手の銚子商土屋は千葉の整骨師が甲子園に駆けつけて治療していたな。 78年春はPLに、79年春は浪商に、それぞれ前年秋に負けた相手にリベンジに成功。 82年春は逆にPLに前年秋近畿のリベンジされた。
PLと甲子園で複数回対戦していて勝ち越してる学校は箕島と銚子商くらいかな? 横浜。PLに2勝1敗。東海大相模はPLに2勝0敗。 79夏の箕島は、73夏の広島商とチームカラーが似ていると思えるのですが、
「負けない」でいったらどっちが上でしょうかね? >>486
比較は難しいね。両方とも優勝チームだし。 両チームとも野球を知っている猛者ぞろいだね。対戦したとしたら接戦になるのは間違いない。
強いていえばやはり土壇場の粘りという点で箕島かな。 >>488
ほぼ同意ですね。
土壇場での粘りにプラスして箕島の方が打力は少し上回るような。 箕島と広島商は甲子園で対戦したことがないんだな。いちど見てみたかった。
同時出場は70夏、73夏、79夏、83夏、84夏とあるが。 >>490
春夏連覇の79年だと広島商はどんなチームだったっけ?
83年は前年に池田に凹されて攻撃志向に変わってきてたけど。 石井毅の箕島と牛島の浪商がダントツだった年が一番強く印象に残っている。 >>492
左腕中島、ショート永田。
県決勝で府中東の片岡を攻略して出てきたが打線はカーブが打てなかった。
浪商戦は香川のホームランでビビったのか、終盤は守備も乱れてぶざまな大敗だった。 広商は池田にボコられたけど、浪商にもボコられたね
アサヒグラフで「香川の一発で粉砕されたコンピューター野球」みたいなタイトルだった
広商ほどに鍛えられたチームでも、超高校級の選手をそろえた大型チームには
歯が立たないのか!と思ったね。 >>495
最後に全国制覇した88年夏には大会No.1右腕津久見の川崎を往年の広商野球全開で攻略して完勝。
箕島が相手打線に打ち込まれて完敗だった試合といえば83年夏、高知商戦で吉井が津野に満塁弾を浴びて2−8で敗れた時かな。 古くは73年夏、堀場の丸子実に4-9と完敗した試合もあるが(島本弟のとき)、このときは尾藤さんは監督を一時退いていたとき。
78年春の準決勝、福井商戦も3-9の完敗だったが、このときは打ち込まれたというより6失策で自滅したといったほうがいいか。 古くは73年夏、堀場の丸子実に4-9と完敗した試合もあるが(島本弟のとき)、このときは尾藤さんは監督を一時退いていたとき。
78年春の準決勝、福井商戦も3-9の完敗だったが、このときは打ち込まれたというより6失策で自滅したといったほうがいいか。 箕島が力を出しきった上で力負けしたと感じるのは、愛甲の横浜と栗岡の中京かなあ。 横浜戦はかなりの実力差があったが一点差に持ち込み最後まで横浜を苦しめた。
箕島の試合巧者ぶりを見せつけた試合だった。 >>500
最近は箕島のような試合巧者ぶりを甲子園で見せるチームは少なくなりました。
高校野球が打力重視に変わったのもあるけど。 金属バット等により環境が打撃に圧倒的優位になっているから。少々の失点は気にせず、それ以上得点すればいいわけだから。
そりゃ、大味で雑になるよ。一点の重みを感じさせる試合などほとんど見られなくなった。
しかも指示待ちの選手が多くて自分で試合をメークできる選手もいない。
広商の金光、東洋大姫路の弓岡、箕島の嶋田のように野球を知っている選手はいまはいないな。 箕島の野球は、むしろ金属バットを上手く利用した野球。嶋田や森川や硯の本塁打は、多分木製の時代には出てなかったはず。 甲子園での箕島の本塁打
68年春1、77年春1、78年夏1、79年春1、79年夏3、80年夏1、82年春1、83年夏2、91年春2
合計13本(春6、夏7)かな? 長距離砲を揃えたチームのイメージはないが「ここ一番」で劇的な一発が飛び出す。 >>506
土壇場まで追い込まれてからの1発が飛び出した79年夏星稜戦の嶋田、森川、83年夏吉田戦の硯の1発は全て同点弾。 敗戦まであと一人まで追い込まれながら同点アーチでよみがえること三度。うち二度はあと1ストライクまで追い込まれた状態での一発。
現代では大阪桐蔭や智弁和歌山などがいやになるほどホームランを記録しているが、そこまでの劇的価値のある一打はないだろうな。 まだ金属バットでのバントに各学校が苦労していた頃に、逆転の発想でプッシュバント戦法をマスターしたのも大きかった 逆に本塁打を打たれたのは
78年春小倉戦1、78年夏中京戦2、79年夏池田戦1、83年夏高知商戦1、2013年夏日川戦3
合計8本(春1、夏7)か。
日川戦の3本は異常だな。 >>510
時代は変わったとはいえ3発被弾は・・・
これが全盛期の東海大甲府が相手なら想像できなくはないけど、同じ公立校同士、久しぶりに甲子園に出てきた同士の組み合わせで。
箕島の方が遥かに甲子園実績では上だったけど、相手の日川はこの時は結構大型チームで長打力に圧倒されてしまった・・・ 日川は次戦大阪桐蔭相手に延長戦を講じた。
この年大阪桐蔭は優勝できなかったとはいえ日川がここまで健闘するとは思わなんだな。 日川戦、箕島最終回の攻撃でライトへの大飛球は打った瞬間いったかと思ったけど・・・ 日川戦、東京から駆けつけて観戦したけど、往年の巧者ぶりはかけらもなく、山梨の公立相手に長打で圧倒される展開にさみしさを覚えた。
初日の第三試合はあの国立戦と同じだな、と思い出に浸った。 かつて日川はラグビーで全国優勝が近いと思わせる強豪振りを発揮していたが、
ラグビーも野球から少し遅れて私学の台頭が著しく、日川の全国優勝の期待は
胡散霧消してしまった感がある。 試合巧者同士の広島商と甲子園での対戦はないと書き込みがあったが、逆転をお家芸とする報徳との対戦もなかったな。近畿大会でも対戦はあったかな。 >>519
報徳と当たったことはたぶんなかったかな。
どちらも春に実績がある学校ですが、同じ大会に出場したことも春はなかったような。
夏は78年に両チームとも出場してますが。 >>521
2009年があったか。
箕島が準々決勝で清峰に勝ってたら準決勝で箕島vs報徳のカードが実現してたのね。 尾藤公監督時代の箕島の甲子園での逆転勝利
68年春…苫小牧東戦
70年春…三重、北陽戦
78年夏…広島工戦
79年春…下関商、PL、浪商戦
79年夏…星稜、池田戦
82年春…明徳戦
83年夏…吉田、駒大岩見沢戦
逆に逆転負けは、
68年春…大宮工戦
72年春…倉敷工戦
78年夏…中京戦
84年夏…取手二戦
91年春…大阪桐蔭戦 >>523
報徳スレは定期的に立ってたけど、最近は立てても割りと早く落ちたりしていて・・・ 逆転をお家芸にしていたのは一時期PLもそうだったが、KKのころには先行逃げ切りタイプになっていたし(まあ先手取って圧倒する横綱相撲といったほうがよいか)。
報徳も逆転のイメージがあったのは81年金村のときに荒木の早実を破ったとき、そして83年春に連続ホームランで桐蔭学園を下したときが最後かな。その後不祥事で低迷期に入ったこと理由かもしれんが。 >>527
永田前監督になって低迷期から脱出、16年ぶりの夏出場だった97年までは逆転、粘りのチームカラーは生きてたけど翌年、春は横浜松坂に抑え込まれ夏は富山商に逆転満塁弾を喰らって報徳としては初めて春夏連続での初戦敗退を喫してからは・・・ それでも報徳は度々甲子園出場してきて上位進出することもあるだけ箕島と比べたらまだ・・・ 初戦に負けないというと、現代では明徳がそれなんだが、以前は銚子商、高知商、報徳、PL、中京がすぐに思い浮かぶ。
箕島も初戦負けは四回だけと強かった。 97年までの報徳は初戦には負けないイメージ(初戦敗退は71年春、81年春の二回だけ)。
98年からの報徳は初戦になかなか勝てないが、勝つとベスト8には進むイメージ。98年春以降は初戦成績は負け越しているのじゃないかな。 尾藤さんが監督として指揮を取っていた箕島は甲子園に春夏通算で13回出場、初戦敗退は84年夏の1度だけ。
73年夏の初戦敗退は尾藤さんが監督を一度降りていた時で。 尾藤さんは72年春も倉敷工業に初戦敗退している。
大会後に後援会と衝突して尾藤さんはいったん辞任。荒川氏が就任して73年夏に出場(これも初戦敗退)。
74年秋に尾藤さんが復帰した。 >>534
72年度入学の選手は尾藤さんの指導は受けないまま卒業だったのね。 尾藤さんが辞めたのは72年の選抜大会後しばらくしてからだからほんのわずかの期間は指導は受けられたのではないかと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています