あの日のAleph 甲
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あの小さな絨毯も
きっと空を飛ぶ為にはなくて
逃げようよ 急いで
僕達が辿り着く 辿り着く 夜 繰り返す事に似合う様に
あと何度も又 繰り返す事
逃げようとしたって
僕達が創り出す 夜だ 行く宛はずっと解っていて
今 置き去りに出来ないモノ
両眼を開いて20世紀は語るよ
キミの事
ボクの事 何時まで経っても
僕と僕の身体
離れなかったから
何時まで経っても
僕は僕だった 「知らない内に・・・。」なんて
都合の良い言葉ばかり増えて
何時 眼を閉じても
同じ夢だった 何時まで経っても
僕は僕の事も
話せなかったから
何時まで経っても
同じ僕なんだ 頭の中では出来るモノを
全て叶えたがったから
何時 眼が覚めても
夢は夢なんだ 唇を噛んだ哀れな敗者は
今も希望を歌に託した
「こんな声は二度と出ないから。」 旗を獲った気高き勝者は
それら希望を鼻で笑った
「どんな声も消えてくだけだろう。」 生きているだけで
僕が僕に嘘を
どの位 吐いたかも
分からなくなるほど
何時も僕だって 言い聞かされた事に
救われた後
問い掛けられた事
分からなくなるまで
僕は夢を観る 人が群れを逸(そ)れる道具も持てる自分と
この手を知って
ドアは今日も開かなかったの 息が続く
それが恐いのだ
だから未来を探さなかった
もう時間は過去だけで足りる 何故 僕等 哀しい歌 歌う
僕は居なくても
キミが居なくても
そういう声で 自分じゃないなら駄目な場所もない
街を呪うのも
人を恨むのも
そういう声で 欠けた月に似てた自分から
捧ぐ鼓動の歌は響くか?
こんな夜は二度と来なくても 息は続く
それは恐い事
だから自分が愛しくなった
そんな声を高らかに生きる 何時まで経っても
僕は僕の身体
離さなかったから
何時まで経っても
僕は僕なんだ γ(ガンマ)
1.ギリシャ文字の第3字。
2.質量の単位。 1ガンマは100万分の1グラムで、1マイクログラムに等しい。
3.磁束密度の単位。 ( )
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彡⌒ ミ. |;;lヽ::/ コポコポ
( ´・ω・) .|;;| □o
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おはよ モーニングコーヒー飲む?
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彡⌒ ミ. |;;lヽ::/
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 本分(ほんぶん)。その人として本来尽くすべき責務。 はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。
せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。
自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。
炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。 あてもなく、草むらを分け入って探し求めていく。
湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない。
力は尽き、精神も疲れるまで探しているのに、何の手がかりもない。
聞こえてくるのは、カエデの木にとまる、夏の終わりのセミの鳴き声ばかりである。 お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。
お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。
何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。
自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。 じつは、今まで歩いてきた湖のほとりや林の中の、いたるところに牛の足あとはあった。
道ばたには、牛の食べるよい香りのする草(お経や言行録)がたくさん生えているのを見ることができる。
たとえ疲れきって、方角も分からない深い山の、さらに奥深いところにいるとしても、
天に届くほどの牛の鼻は、隠すことはできない。 牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。
自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。
だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。
まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。 うぐいすが枝の上で鳴いている。
春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青々としている。
そんな光景のなか、見るもの聞くもの、すべてが牛になってしまった。こうなっては、どこにもこの牛から逃げられる場所はない。
さて、その牛の頭には美しい角がある。その角を、どんなに上手に描いてみても、本物の美しさには、かなわない。 その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。
しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。
やっとの思いで牛をつかまえてはみたものの、その心はかたくなで勇猛であり、いまだ野性のままである。
この牛を飼いならそうと思うのなら、ムチを使って、いましめなければならない。 精神をさらにつくして、自分の牛をつかまえた。
しかし、この牛は野性の心が強く、力はさかんで、すぐにその荒々しい心や力を取りのぞくのは難しい。
あるときは、ほんの少しの間、高原の上にいるような、目の前が開けた心境になったように思えても、
またいつの間にか、煙のような雲につつまれて、その深いところに入りこんでいくように、自分の(牛の)心はとめどがない。 ふと、迷い(自分勝手なものの考え)や悩みが生まれてしまうと、そこからいろんな思いが浮かんできて、次々にあふれ出てきてしまうものだ。
大切なのは、その迷いや悩みを自覚することで、本当の自分に気づき、ものごとの真実をつかむことができるようになることである。反対に、自分の迷いや悩みを見て見ぬふりをしていれば、いつまでたっても間違ったものの見方をしてしまうであろう。
目で見たり、耳で聞こえたりすることを、見たまま、聞いたままに受けとめるということは難しい。ものごとがさまざまに見えるのは、自分の心をとおして、ものごとを見ているからである。
では、せっかくつかまえた牛(自分)を逃がさないためにはどうすればいいのだろうか。それは、牛の鼻にむすんだ綱をしっかりと引いて、ためらわずに進むことだ。 片手にムチを持ち、もう片手には手綱をにぎり、かたときも離してはならない。
それは、牛が勝手に歩きだして、ふたたび草むらに入ったり、道に迷いこんだりしてしまいかねないからである。
ところが、少しずつ飼いならしていくと、牛は次第におとなしくなってくる。
こうなれば、もはや手綱でしばらなくても、牛のほうから後をついてくるようになるのである。 旅人と牛との戦いはすでに終わり、何かを得ることも失うこともなく、すべては元に戻った。
旅人は、きこりが木を切りながら歌うような、素朴な歌を口ずさんだり、子供のように、思いつくがままに笛を吹いたりしている。
体を牛の背中に横たえて、牛の歩みにまかせていくと、目の前には、雲の向こうに大空が、はるかかなたまで広がっているのが見えてくる。
もはや牛は、呼んでも振り返ることはなく、取り押さえても、歩みを止めることもない。 人が牛に乗って、ゆらゆらとゆられながら家に帰ろうとしている。
その人の吹く笛の音が、あたり一面に鳴りひびいて、夕焼けの雲を送っていく。
その拍子(ひょうし)や歌のひとつひとつには、限りない思いがこめられている。
その音色にこめられた思いが分かるなら、あれこれと説明する言葉など必要ないだろう。 これまで、牛があたかも人とは別のものであるように描かれていたが、それは仏の教えを説くためのたとえであって、もともと仏の教えは二つでないように、牛も人も一つのものである。
ウサギをつかまえるためのワナや、魚をとるためのしかけと同じように、自分自身をつかまえるための手段として牛を用いたにすぎない。
牛と人とが一つのものであるということは、まるで純金が土の中にある石から出てきたり、雲が晴れて月が現れてきたりするのに似ている。
そのひとすじの月の光は、この世にはじめて仏があらわれるずっと前から暗やみを照らしていたのだ。純金も月も、土や雲にかくれていただけである。 牛に乗って家に帰ってきた。
そこには牛の姿はなく、人はのんびりとしている。
太陽が高くのぼっても、まだ夢の中。
牛をつかまえるために使っていたムチも縄(なわ)も、納屋(なや)に置きっぱなしである。 ああしたらいいだろうか、こうしたらいいだろうか、という迷いの心からは抜け出した。かといって、何もかも分かったような、さとりの心にも、もはや、とどまってはいない。
仏さまがいる世界にいつまでも遊んでいることはない。さとりの心にとどまれば、「さとり」ということに迷ってしまう。仏さまのいない世界ならば、なおさら、さっさと走りぬけていきなさい。
これが迷いだとか、あれが「さとり」だとか、そんなささいなことに心をうばわれなければ、たとえ観音さまでも、その心を見ぬくことは難しいだろう。心に何の考えもなければ、見ぬきようがないからである。
さて、あるお坊さんが修行しているところに、鳥が花をくわえてお供えに来た。お坊さんがさとりを開いたら、鳥はもう来なくなった。さとったことを鳥にまで見ぬかれているとは、なんと恥ずかしいことではないか。 持っていたムチも、牛をつないでいた手綱も、自分自身も、牛さえも、何もかもが消えてしまった。
青空が、はるか遠くまで広がっていて、出した手紙はどこまでいっても届きそうもない。
真っ赤に燃える炉のなかに、どうやって雪をたくわえておくことができるだろうか。
ここまできて、ようやく達磨大師(だるまだいし)の教えにぴったり同じになるのである。 どんな人の心でも、生まれてきたときは清らかで、ちり一つさえついてはいなかった。それが、月日がたち、経験をつむと、自分なりのものの考えが、心をくもらせてしまう。
だから、この世界の移り変わりをながめても、はやりすたりにまどわされないで、心に何のこだわりもなく、ありのままに見ていくことが大切だ。
それは、この世界を幻のように、はかないものだと見なさい、というのではない。本来の、清らかな心で見れば、世界はそのままで美しいのである。どうしてむずかしい修行をする必要があるだろうか。
湖の水は緑であり、遠くの山は青である。そんなことは歩きまわらずに、ただすわってながめていれば分かったはずなのだ。 牛を求めて旅をしてきたが、結局もとにもどり、はじまりにかえって、牛も見えず、自分もない。
これでは、何も見ず、何も聞かずにきたようなものだ。
まるで、家の中にいるのに、目の前の庭にある、物に気づかないのと同じである。
旅に出るずっと前から、湖は広々としていたし、花も赤く咲いていたのだ。 「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の終わりの部分に「掲諦(ぎゃてい) 掲諦・・・・・・」ではじまる真言(しんごん)があります。
真言とは、お釈迦さまが話されていた当時の言葉のことで、唱えると功徳(くどく)があるといわれます。この般若心経の真言の意味は、「自分は渡った。人も渡った。彼岸に着いた。みんなで彼岸に着いた。さとりが成就した。」というものです。
修行した人だけが幸せになるのではなく、すべての人が幸せになることを仏教は目指しているのです。 柴(しば)の門を誰にも知られず、ひっそりと閉ざしてしまえば、お釈迦さまでも観音さまでも、門のなかを知ることはできない。
そのように、自分がさとりを得たことを表にあらわさないで、昔の立派な人のまねをしないで歩いていく。でも、自然と同じ道を歩いているのだ。
そうして、空っぽのひょうたんをぶら下げて町に行き、疲れたら杖(つえ)をついて家に帰る。
仏さまの教えにもしばられず、酒屋にも魚屋にも行って、会う人みんなの心を安らかにしていくのである。 その人は胸をあらわにし、はだしになって町に入ってきた。
土にまみれ、泥をかぶりながら、その顔は笑いに満ちている。
仙人が持っているという不思議な力があるわけでもない。
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