Aleph 辛
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
小説で描かれるごくふつうの人間の心の動きに自分の気持ちを読み込むようになったというわけだ。 書かれたフィクションは、読者がさまざまな形で自分の内面を読み込んでいくことで、
作者の意図を超えた広い世界を構築する力を与えてくれるのである。 Nobuo Uematsu (FFIX) - Esto Gaza
https://youtu.be/Wy5EFJgUL6Y わが国は「資源のない国である」と言えば、これは経済的、産業的の発言である。
しかし、その裏を考えれば、「人材だけが命、それだけを頼りに生きてきた」
ということになり、これは教育の問題となる。 その教育が崩壊してしまっては、わが国に将来はない。
戦争や天変地異で滅びた民族はない、すべては自己崩壊である。
天災人災はそれを促進したにすぎない。 青少年の教育、その充実こそ、
わが国が新世紀を生き延びるために残された唯一の方法である。
ただただ「あとは任せた」と言いたいために、太陽さえ出れば、
古びた行灯(あんどん)は不要である。 「この世の関節が外れてしまったのだ。何の因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!」
という王子ハムレットの嘆きは、他人事ではないのである。 この世の関節を嵌めるべく、今立ち上がらねば、望みは完全に失われるだろう。 人生は苦である。
釋迦が言われたように、生老病死一切皆苦、である。
ならば、それをたのしもうではないか。 遊ぶのではない、楽しみ、愉しみ、娯しむ、のである。
宿命を受け入れ、なおそれに甘んじることなく、
雄々しく潔く生きよう。 この世に挫折なるものは存在しない、失敗は人生の彩りである。 この世に成績をおさめた偉人らは皆、様々に漂いながらも、しかし初志を貫いた、
目指す方向は変わっても、一度限りの人生を精一杯に生きる、
という志だけは生涯変わらなかったのである。 人間の行うすべてに興味を持ち、あらゆる文化に肯定的に接し、
自分の学んだものを、歩んだ道をどうどうと他人に話せる、
そのような生き方をしていこう。 夕日に沈む街をながめながら、
心を解き放つかおりをたのしむ。
あぁ、最高の気分… やがて別れの時がおとずれる。
ゆえに今こそ、いつくしめよ。 天使の実はすでに熟した。
心を重ね、一つにまとめよ。 9mm Parabellum Bullet - ハートに火をつけて
https://youtu.be/pWH11t2JKds 9mm Parabellum Bullet - ガラスの街のアリス
https://youtu.be/uY-QrSbVRW8 近代という時代は、封建(ほうけん)時代の共同体が崩壊して人々が原始的な個人にまで分解され、
産業化が進んだ社会の中に大衆として登場した時代、民主主義と合理性が尊ばれる時代である。 宗教的なものを否定し、科学技術と資本主義的な市場の力で、
人間の生活がつねに改善され、未来に明るい希望を抱く時代でもある。 しかしこの「進歩」には両面がある。
自分の労働力を売らなければ生活していけなくなる。
労働は過酷で生活は苦しいために、近代に対する絶望も噴出する。 富は集中するのではなく、労働者が同時に消費者として商品を購入することで資本主義を支える。
労働者は搾取(さくしゅ)されるだけの存在ではなく、商品の購入者でもある。 人々がさまざまな欲望を満たすことができ、新しい欲望が次々と誕生してくる。 眠れなくて床から離れて頓服飲もうと思ったら、
うっかり就寝前の薬飲んでなかった。
飲むと頭痛が発すが、
横になっても気忙しくなった。
PCつけて画面と向き合っている今・・・
ああ、オレ精神病だから薬飲んでる。
飲まないと発狂しちゃうからね。
それで入退院繰り返したし。
まあ・・・2013年頃までの話だけどね。
いい意味でおっさんになったよ。 東京じゃいろいろ日常であるみたいだけど、
そういう人たちってそそのかされてやってるみたいだから、
安易に犯罪者や悪人ととらえるのはどうかなって思うが、
そんな戯れごとナシで普通に犯罪者だよな。
それをツイッターで煽るやつらもなんだかなあ・・・時代だわ。
だからそう、このレスはたわむれ。 思想はいろいろあるもんだ。
活発になったのは2010年頃か?
偉い人はもっと前に気づいてたとか?
一昔のネットのホームページで急に更新途絶える人とか、
ここはど〜この箱庭じゃ まあ、もういい時代だよね。
好き勝手「陰謀論」放ってもな〜んだこいつまだ悩んで迷ってるのかって。
わかってても、わかってても、どう伝えられず見守ることしかできないわ。
今をがんばれよ。 発表の技法はある程度時代が進んでから注目されだした。
ネットで真実なんてフヌケタお宅の議論だが、反論の余地はない。
自分でもよくわからないんだ。
今の子どもの一部が覚醒し始めたら、それは宗教でいさめるしかないんじゃないか。
最低限教育やしつけも必要だろう。
家によってはヤバいやつもこれから出るかもしれん。 テロ、な。
マスコミが安易に報道すればそいつを模倣犯として、
それに便乗するヤツも出てくる可能性はないとは言い切れません。
日本は法治国家だ。これは口酸っぱくしている。
見放されたからって憎しみを動機に甘えることはできるし、
(自分も人のこと言えないが)それでも、
ロックなんて考えるなよ・・・ 芸術作品による表現の規制は“金さえ動けば”これからさらに厳しくなるでしょう。
仮に上手く避けたものがあるとすれば、それを見た受け手が作品を過剰に解釈して、
陶酔し、作り手の意図をはるかに超えた固定観念に支配され、
その心理を動機に犯行に移してしまう・・・
ドイツの偉い人による演説で世界大戦勃発・・・
それは感情が支配しているのだ。 犯行も誰が、どのように、動機は?
もちろん動機に注目する。
こころを甘くみてはいけない。
むしろ大切なのだ。
動機を無視した罪をなじって、
やすやすと死刑に持っていってはいけない。
ただ、自分や親族が被害者になったら、
それは感情に支配されてしまう。
泣いて神にすがっても、おこがましいんだな。 法治国家をおびやかす者が現れたとき、日本は終焉をむかえるだろう。
政教分離の原則はいつまでも続くとは限らない。
現に生の声では陰謀論であふれている。
今は愉快犯か。悪意をもって嘘をついている者も少なからずはいる。
そのための世の中はズル賢く生きたものが勝ちなんだよ。
あぁ、オレは騙されている負け組のほうだよ。安心しな。 「夕闇通り探検隊」
とか熱い作品だよな。
R18じゃないよ。
文化的な作品だ。
雰囲気もいい。
ただ今と時代がミスマッチしている。
だから、今は別の作品を見てくれ。
日本の文化は別々に切りとって考えるものじゃない。
どんなことにも歴史があるんだ。
政治なんてバカげてくると思うよ。
今できることをしようというのは、すでにある主張だが、
私のこの考えは「虚数の情緒」にならっているのである。
だから、これは確かめ。自分のために。
暗示だといえば、そういうことと言えるでしょう。
“狙って”はいないよ。思わせぶりでごめんな。 天才ではなく、聖人になろう。
私は立派になりたいが、
立派な人間だとは生涯いえないだろう。
立派になりたい、
その気持ちがずっと続く・・・
そう考える人間って素敵なんだなって思う。
いつか報われるとか、それは抜きな。
ポジションが大切。 もうすでに3時をこえて4時近くになるか・・・
はよ寝にゃ・・・ ニュートンの物理学にいたって、近代の空間概念がきわめられるようになる。
人間も動物も何も存在しない空虚な空間が考えられて、
これを絶対空間と呼んだのだ。
万物が創造される以前の絶対空間という考え方には、神学的な含みがある。
この絶対空間は、神が創造し、神が見る空間なのだ。
その空間の中において、神が天地を創造して以来の絶対的な時間が流れるのである。 異議は、物理学の分野でもちあがった。
アインシュタインの相対性理論では、
空間は事物の存在と切り離すことはできない。
事物が存在すると、その重力で空間が歪(ゆが)むのである。
そして空間の中の時間も歪んでくる。
物体の質量とエネルギーが分離できないように、
空間と時間も分離できない。
何も存在しない絶対空間という概念そんものが否定される。 すべての物は存在することで、
ごく軽微ではあれ、空間にも時間にも影響を与えていることになる。 文化によって、あるいは人によって他者と会話するために
心地好い距離というものには違いがあるという。
日本の通勤電車のように身体がぴったり接触する空間は、
外国ではなかなか見かけない。
真っ直ぐな道路で人為的に区切られた都市の空間に住む場合と、
くねくねと曲がる自然な道の多い農村に住む場合では、
空間の把握方法も異なってくるに違いない。 社会主義と資本主義という冷戦の対立の構図が崩壊して、
すべての国が資本主義の原理によって支配されるようになった。
そしてこの資本主義という経済システムとなじみよい民主主義の原理が
多くの国で採用されるようになっている。 文化という面から見ても、「グローバリゼーション」は、
これまでの国際化とは規模の違うものとなっている。 グローバリゼーションが進むことで、自分のアイデンティティを日本人としてだけではなく、
アジア人として、地球人として感じ始めている。 地球の自然環境に国境というものはない。
ウクライナのチェルノブイリ原発所で事故が起きたときには、
隣接の諸国だけではなく、遠く日本にも影響が生じた。 家庭にある冷蔵庫に使われていたフロンガスは、
大気圏のオゾン層を破壊することがわかり、
使用中止になりつつある。 地球の温暖化はさまざまな異常気象の原因となり、
日本列島に到来する台風の数を増やしているらしい。 グローバリゼーションは世界を一つにした。
そのことは避けられないことだ。
アラブ諸国の動向から目を離すことはできないし、
イスラムについて学び、理解することは必須のことのように思える。 そしていままで知っていたつもりだったキリスト教や西洋の文化について、
さらに理解を深めることを求められている。 さまざまな文化の違いを人々に認識させた。
異質な文化との交流がさかんになると衝突も生じる。
「文明の衝突」という言葉が流行したこともある。 いくつかの問題がある。
アメリカ的な文化が地球を席巻(せっけん)したことに、
大きな反発が生まれるのは無理からぬことである。
世界の多くの国で、安価なコーラやハンバーガーなどの
ファーストフードを食べすぎて肥満や糖尿病になっている子どもが多いという。 それでも他なる文化に対する認識も深まってきたのはたしかだろう。 また、すべての国の市場原理が導入された。
1990年代のアジア通貨危機の際には、
一部の投機組織がタイやインドネシアの為替(かわせ)相場に介入して
巨額の資金を稼ぎ、経済と政治の構造を破壊しかけたのだった。 また世界銀行などは発展途上国の開発援助の条件として、
市場の開放を求めることが多い。
市場を開放するということは、
自国の農民や漁民たちと競争させるということだ。 これでは伝統的な方法で耕す農夫たち、漁民たちが不利になる。
市場原理が貫徹するということは、よいことばかりではないのだ。 こうしたグローバリゼーションに異議を唱える人々も多い。
正面から反対する人々も、別なるそれを求める人々もいるが、
現代の時代的な趨勢に背を向けて、過去の時代を懐かしむのではなく、
地球が一体となったことの弊害をただす道を探していく必要があるのは
たしかだろう。 「群集心理」という語は、群集となった人々は無責任で暴力的になり、
暗示されやすく盲目的に行動するという、
否定的な含意(がんい)で使われることが多い。 人間が集団に入ることで、それまでの抑圧が取り除かれて人間の無意識が
作動し始めると考える。
群集心理として否定的に描かれるのは、
人間が社会の中で抑圧してきた原始的な本能の"たか"が外れて、
ほんらいの破壊的な威力を発揮しはじめるということだ。 あらゆる人の心には原始的なものが眠っていて、
群れが形成されるとそれが目覚める。
原始的な群集は、一人の強力な指導者に支配された集団であり、
この指導者をあがめるとともに、この指導者を殺害して群れを
自分のものとしたいと欲望する。 形而上とは道のこと、形而下とは器のこと。
道とは形がなくて、目で見ることはできず精神で認識すべきものであり、
器とは目で見えるもののことだ。
だから形而上とは精神的なものであり、
形而下とは物質的なものである。 アリストテレスは『自然学』で物質的な自然について考察した後、
『形而上学』では存在そのものについて考察していた。
メタというのは、「後」という意味のほかにも「上の」「超えた」という意味もある。
形而上学とは超越的なものについての考察となってきたのである。 「平成ネット史」
今日 1月12日(土)
【前編】午後2時〜3時
【後編】午後3時〜4時 このうららかな陽光に包まれた平和な休日こそ、決行の日であった。 オレは顔を洗った後、じっと顔を見つめた。
男らしく調(ととの)えた髭は、大丈夫悪くない。
短く刈り込んだ頭はオレの精悍なイメージにピッタリだ。
帽子を目深(まぶか)に被れば、なおカッコイイだろう。 服装は上下ジャージだ。
ジャージこそ、決行の日のスタイルに最も望ましい服装である。
それも、やや小さめのサイズをピッチリ肉体にフィットさせることが大事だ。 このピッチリジャージのフィット感が五体に程よい緊張感を与えてくれるのだ。 軽いスニーカーを履いて腰には黒いポシェット。
ただそれだけの軽装で街を歩けば、
近頃流行のウォーキング族だと道行く人は思うだろう。
おっと、サングラスも忘れてはいけない。 しかしこれは、ただのウォーキングではないのである。
決行のウォーキングなのだ。 オレは今一度、鏡に写る自分の姿を見つめながら心に呟く。
(完璧だ……!) 小説は一段落読んで止め、少しの間夢想に耽る。
頭の中で物語の成りゆきを整理して、また読み始める。
気になる表現は手にしておく。
そしてまた続きを読み始めるのだ。 啓蒙の理論は、近代の初頭にあって西洋の社会の近代化に大きな役割を果たした。
1789年からのフランス革命は、人々が伝統的な国家の支配者を殺害して、
自分たちの力だけで国家を作り直すことができることを示した画期(かっき)的な出来事だった。 しかしその後の恐怖政治の時代が示すように、
理性に依拠(いきょ)するはずの啓蒙が惨禍(さんか)をもたらすことも明らかになってきた。 第二次世界大戦中のナチスのユダヤ人虐殺や原爆の投下が示したように、
啓蒙されたはずの近代は、かつてない大量殺戮(さつりく)の時代となった。 理性の名において実現された闇は、深いものだったことが明らかになってきたのである。 啓蒙のもつ進歩への期待を捨て去ることはできないが、
同時にその逆説にも目をつぶってはなるまい。 蒙は「暗さ」、啓は「ひらく」だから、暗がりに光をあてて明るくすることだ。
フランス語ではLumieres(リユミエール)と、「光」という語の頭文字を大文字にすると、
啓蒙という意味になる。
人々の無知を啓発することだから、考えようによってはおしつけがましいところがある。
それでも近代の初頭(18世紀)には、「前近代的な」ものから脱却しようとする真剣な運動が起きて、
それを啓蒙時代と呼ぶようになったのだ。 闇は、中世の時代よりももっと暗く、深いものが近代だった。 そういえば蚕養神社のおみくじは末吉だったが
読めば今の自分にマッチしている教えだった
ストレスにならない範囲で意識しておこう 考えてもみろよ
今まで一度だって、自分と同じような、
それでいてまともに話せるような仲間に
会ったことがないんだぞ? でももし……そんな仲間に
ひどいことを言われたり、
いじめられたりしたら…… そんなことを気にして仲間をつくる奴があるか?
そんなことを気にしてる奴を仲間と呼べるか? 君は、わかっているようだ……
生きるって言葉、そして、死ぬって言葉 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています