ここは俺の日記帳だ
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r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ チラシの裏にでも書いてろ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
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::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ / 今週はヤンジャンが休みでなんか寂しい
アシリパさぁん
ミートボールのスパゲッティが食べたい(スパモン)
いつもはイシイのミートボールで作ってるけどミートボールから手作りしたい
毎日死ぬほど暑かったけど昨日からいっきに涼しくなってとても快適、来週またクソ暑いらしいが
5年ぶりぐらいにTwitter再開したけど本格的にやるかは別
やってもいいけど情報発信、収集、交換したいだけなので馴れ合うのが面倒なんだよね
だれだったか思い出せないフォロワーもたくさんいて対応考え中 昨今の情勢がアレなので過去の発言の一部をツイ消ししたが
ツイート数が多くて骨が折れた
その点5ちゃんは消せないからいいんだか悪いんだか
絡んでくる人をうまくあしらえないから
SNS向いてないんだろうなと常々思う 暑い
>>7
死にてー死にてーいってたら10年過ぎた 感情がおさえきれずこの年にも関わらず泣いてしまった
叫んでモノ投げてってとなりの家にはどう思われたか
今になって悔やむけどあとのまつり
久々セックスしたけどなんかむなしい 人付き合いできないのと違って
その場では友達もできるしつま弾きにされることもない
道化を演じ相手に合わせまくり本音も意見も言えないし自分から誘うこともない
ただ、結びつけてた関係(バイトとか学校とか)がなくなると
「本当は嫌われてるんじゃないか、迷惑なんじゃないか」ってなって
迷惑がかかるからと逃げるようになり縁が切れる
相手を否定せず、優しい(ように見える)からか
我が強い人、ちょっと病気な人にやたら好かれて疲れまくってきた
そういう人をうまくあしらえないし
なら全部断ちきってしまえになる 意見言えないのは昔からで子供の頃はとにかく無難な意見で済ませてた
正解はこうだろ?って感じの
大人になってディベートとか会議とかで意見を求められるととたんに苦しくなる
他人に自分の心を明かしたくないし、自分の意見に自信が持てない
司会(進行)とか書記になって逃げようとしてもできなかったり
他人の意見を集約した意見で済ませようとしても突っ込みが入ったり
とにかく苦痛だった 相手を否定しないのは人付き合いのテクニックだったはずが
高校の時も大学の時も社会人になったときも精神病の人たちに好かれ寄生されってなった
なんというエンカウント率
いずれもなんとか逃げられたけどかかわらないといけない日々はとにかくきつかった
入院したときはそれがずっと続いて
朝から晩まで気が抜けずリラックスできず
他の患者に話しかけられるのが怖くて怖くて
表面上仲良くしててもとにかく内心は疲れはて
病室からトイレに行くのすら周囲の目を気にしてて
最後個室から四人部屋に移ったときは音もたてず誰とも会話せず空気になってた
数日だけだとはいえさぞかし気味が悪かったろう 入院中と言えば診察待ちの時に廊下で待ってたら
見知らぬ異性の老人がその人たちに無差別で話しかけ握手を求めてた
気持ち悪いから嫌だったけど断るのが怖くて応じたら
それを見てた隣にいた人(この人は断った)が「優しいね」って言った
他人が怖くてうまくあしらえないだけで
相手を受け入れ自分を傷つかせて済ませてるだけ
本当は優しくなんかないんだよそれが本質なんだよ 目眩とか腫瘍で入院したときも一度も
同じ部屋の人たちとコミュニケーションとることなかった
辛くてそれどころじゃなかったのもあるけど退院直前ですら空気になりたくて
コミュニケーションとりたくないからベッドから出ることもなく、ラウンジや売店にも行かず
テレビも音もれが嫌なのと向こうの音が聞こえないのは不安で見ず
一日音もたてずに同じ姿勢
カーテンのなかで過ごしたいからポータブルトイレや尿瓶が欲しかったぐらい
筋肉注射してほしくてナースコール呼ぶのも迷惑じゃないかなって思ってしまいつらかった 例えば外食するとき「なんでもいいよ」「任せるよ」
「(相手が)食べたいものでいいよ」って言ってしまう
自分が言うときも「嫌じゃなければ」とか前置き必須
本当は絶対食べたくないものでも受け入れる
そんなこと繰り返してる 日常のゴミ捨てなんかも人と出くわさないようにするし
通勤のバスもあえて時間をずらしたり経路を変えたりして
顔見知りができないように、なるべく空気のように振る舞う
無論、お店で顔を覚えられれば足は遠退くし
こちらに何かあって(例えば社会の窓が開いてるとかで)誰かに話しかけられでもしたら
しばらく恥ずかしくてその場所、その時間には近づかない
知り合いだったら縁を切りたくなる
職場や学校でぼっちは生活に支障が出るから
あえて明るく振舞い、相手に合わせ、他人を否定する意見を言わずで凌ぐ
嘘を盛りまくり無言を作らず相手を喜ばせようとする
だから自己主張ができない、コミュ障とは思われてないのが痛い
明るく社交的だと勘違いされるから
意見を言わないのもまさかそんな裏事情があるなんて思われっこないし
そもそも意見を言わないなんて気づかれてもないだろう そして常に不安である
相手に嫌われてるんじゃないか変に思われてるんじゃないか
メッキが剥がれてやしないかと疑心暗鬼になり続ける
嘘も自分を大きく見せたり都合の悪いことを隠したりするだけではなく
道化としてありもしない失敗談や笑い話とかを話すから
もしそれが嘘だと知ったら皆は(なんでそんな嘘を……?)と思うことだろう 髪の毛を切りに行くことは難易度がとても高い
自分で切れるような器用でなく
髪の毛の量がやたら多いので仕方なく一月〜一月半で切っている
美容師に覚えられたりあまり話したくないので
カルテ?すらないとにかく安いところに通っている
毎回担当も変わるし店もコロコロ変えるので
切ってる最中の雑談は適当に嘘入れながらベラベラしゃべる
相手が静かなら話さないが
ついたことない仕事や、いもしない家族の話もする
お財布には優しいし予約もいらないから快適ではあるが
染めると耐えなきゃいけない時間が長くなるので
染めるのは家でやることとなる 昨晩から腹の調子が悪く夜中何回か暑いトイレにこもってた
もわっと暑くて居心地最悪な上に換気扇回してもくさいし
マンションのトイレは窓がないからつらい
朝起きて薬を飲むと胃が不快になり夜まで食欲がなくなるのだが
きょうは薬を飲んだのが遅かった
そこに気付かず腹が減って昼飯を食べてしまった
吐き気を催して上から下から最悪の一日である 食べ物といえば年明けぐらいから処方された薬の副作用で
朝起きて薬を飲んでしばらくすると胃が痛むし気持ち悪くなる
胃カメラもやったし胃酸を抑える薬を処方されているのにも関わらずだ
そうして気持ち悪くなったあと
夕方には治ってるからすっかり夜一食生活になってしまった
すると今までと比較すると食事の回数が突然半分になってしまった
(朝はもともとヨーグルトとか軽いものだったからノーカウント)
食べることが楽しみだったのでつらい
半分の回数しか食べられないと思い付く食品よりも
先送りにされるものが増える
あれこれ食べたいので少しずつ居酒屋みたいなところで食べるしかなくなる
それでも全体的にも食べられないので足りない 年齢も重ねてるので体重増加を抑えるという点では良いのかもしれないが
(もともとかなりのデブで標準体重+20キロ以上)
何分野菜不足を感じるし
胃への負担が凄そうで(それが余計悪化させてるような)
とりあえず標準体重(まだ15キロ近くおるが)ぐらいにまで
落とせたら医師に相談してみるのもアリかな
しかしリバウンドしたら嫌だなと思案する
若いうちに何度も太ったり痩せたりし続けてきたし…… 東京もなんで金もってるのかわからん奴(給料めっちゃ貰ってる奴も)多かったし
田舎もなんでか生活カツカツな奴って目に見えないってか
おれが底辺家庭出身だからなのかみんな豊かに見える
給料は同じぐらいなのに
親が金持ってるのか家に資産があるのか知らんけど
家買うときも頭金貰ってるの普通だし社会人なのに仕送り貰ってるのもいたし
若者ですら服とかカバンとか車とか普通に高いの持ってたりしてるし
スーパーではおばさんがカート一杯(一万円ぐらい)食材、日持ちしない惣菜や刺身だなんだと買ってるのも見る
隣の芝生が青く見えるだけなのかもしれんが
家計診断に出てくるような(食費二万とかの)家ってどんだけあるんだろと疑ってしまう ゴールデンカムイの人気投票
尾形勇作月島あたりの腐女子人気すげーなあ
おれは杉元アシリパ白石かなと思いつつ
マタギと勃起と嫌儲でさんざ見た(伍長ネタで)アザラシも入れようかな 今のってるばすの前ドアからへんな音がする
プーンプププーンみたいな
あんまり暑くなかったのは良かったんだけど
ムシムシして一応塗った日焼け止めとかなんの意味もなかった 自分らのミスだから良いと言われたのか
それとももともとそのとおりだったのか
まあ隣の類似品がそうだったから後者だったんだろうけど トイレのでかい鏡に写った自分の頭の頭頂部
目立つところに立派な白髪が生えててかなりしょんぼり
家帰って即座に抜いた
厨房のころから前髪のあたりには集中的に生えてるので
そこは定期的に見て抜いてるけど
別の場所も結構生えてくるようになっておれも老いたんだなあと思わせる 後ろとか見えてないだけで白髪いっぱいあるんじゃないかと不安になる
白髪ぐらい気にすんなって言われそうだけど
黒い髪に白髪ちらほらは眉毛が繋がってることや
鼻毛が出てることぐらい嫌なことなんだよね
心配で禿げそう
残尿感とかへんな感じはあったけど膀胱炎放置してた
別の検査で尿検査したら白血球出てるからと
(内科でも泌尿器科でもない医者に)クラビットもらった
ちゃんと最後まで飲んだけど、残尿感とかそのままで
治ってない感じしかしない 趣味の道具とか材料揃えたいけど金がない
多趣味だしそこそこ金のかかる趣味でかつ、我慢できない質だから困る
孤独にやってるので他人と比べてエスカレートってのはないから
そこは大丈夫なんだけど、なにぶん作りたいものがありすぎて
金使い果たしたら趣味できないのには耐えられない
死ぬしかないけどまあいいか 台風の前のさわやかな天気
風も涼しい
体温計ったら37ど7ぶあった
つらい 台風一過
うちはマンションだから雨戸がついてないことに気づいた
つまりなんかふっとんできたら即バリーンなんだと
それと換気口の風切り音がうるさいので
とめる方法考えようかな 大富豪ではないのでDVDやら漫画やらを
なるべくダブらず買いたいのだけど
もう何を持ってるのかさっぱりでリスト作成することに
しかしローカルに保存してて肝心なときに読めなかった デレマスのCM見た
岩沢さんは本当にただのそこらへんにいるおっさんだった
若作りしてるおっさんは更に悲惨な感じだった
マジで仕事選んでくれよ
ここのところファンなのがただただ恥ずかしいよ
今日は晴れてたので床にワックスを塗ったんだけど
塗り残し?が目立ってしまいなんか嫌な仕上がり 雨の金曜日
いつも昼飯は抜いているのだが
今日は猛然と食欲がわいてきたので
コピペ通りステーキとポテト・サラダではなく
冷凍ピザを食った
が、吐き気がすごい
食い終わるところまでは楽しかったけど今は最悪の気分だ
それにしてもメンタルの調子がよろしくない
なんでなのかはさっぱりなんだが
雨のせいなのだろうか 駿河屋から雑誌がいろいろ届いたけどまたダブらせたorz
箱に同じ本二冊入ってて本当に悲しかった
そして断裁して自炊するか悩む
断裁せずにスキャンすれば(クオリティは落ちるけど)本の状態だから売れて少しは金になる
自炊したらバラバラになってもう売ることができなくなる
(そのかわり欲しい部分だけずっと所有できるが)
無職だからもちろんお金はないし
300円ぐらいまでの本なら迷わずバラバラにするんだけど
一方欲しいページが五ページぐらいだと少額でもおかねにしたほうがいいのかと悩む 次の更新でも年金はきっと貰えるだろうけど
ここのところ溜まってた欲しいものをいっぺんに買いすぎてて
カードの請求が怖い
完全に収支がマイナスになってるんよ 激鬱期間になったのでここでだるまの「俺の人生」みたいに自分自身を振り返っておきたい
自殺するとき遺書にするための下書きでもある
子供の頃、まず生まれた場所の頃の思い出
父親はぜんぜんかまってくれず出張接待その他で家に帰ってこず
母親と二人きりで過ごす毎日
近所付き合いもなく母親はママ友もおらず
必然的に友達も少なかった(区がやってる幼児クラブで出会った子達が唯一の友達)
その頃の思い出で明確に覚えていることは
マンションの水道がたびたび水漏れして大変だったこと
弟が産まれる直前に祖母のところに預けられるその時も水漏れしてた
当時乗った地下鉄や私鉄の電車のこと盆踊りでもらった地下鉄のスタンプ帳も覚えてる
(スタンプ帳は紛失したが、大人になってから再度手に入れた)
廊下や台所の床がカーペット敷きだったこと
玄関にあった電話は黒電話
当時は景気が良かったから飛行船や飛行機雲がたくさんあったこと
夜に道路清掃の車が走り回ってたこと
和室の窓から隣の建物との隙間にビーチボールを落としてしまったこと
小学生ぐらいまでは本気で拾いにいくつもりだった
まだここまでの人生で後悔したことはなかった
当たり前だ、まだおのれの判断で動いてはいなかったのだから そういえばこの頃には簡単な漢字やアルファベットが読めるようになっていた
新聞とテレビしか娯楽がない家だったから(家を訪ねる人もいないし)
飲み込みが早かったのかもしれない
小学校入学のころには常用漢字はほぼすべて読めたと記憶している
そんなこんなで今に至るまで漢字の勉強はしたことがない
次に弟が生まれてからの記憶
産まれる前から弟が嫌いだった
だから生まれても可愛がるはずもなく
構わないし遊ばないしいじめていた
4歳の子供が弟を可愛がらないというのもなかなかすごい話ではあるが
子供だからこその素直な感情だった
弟が生まれたとたんに父親が転職すると言い出し、とても田舎に引っ越すことに
地元の幼稚園に入る予定でなにもかも準備してたのにすべてがパーになった
用意した学用品はすべて児童クラブの子にあげたらしい
そんなこんなで引っ越して5月に入園
もちろん馴染めるはずもない
その園は三年保育が多かったので尚更だが
放課後に遊ぶ友達もいないし(そもそも園が終わり次第母親が直帰させるからそんな約束すらできない)
新しい土地にも慣れず母親はママ友なども作らず(弟が新生児だからそっちで手一杯なのもある)
一般的な子供とは何か違っていた いわゆる「きかんぼ」で同じクラスの子とはトラブルを起こしてばかりだった
特定の仲の良い友達は存在せずひとりで遊ぶことも多かった
園バス(自分は徒歩通園だった)の運転手のおじさんや
園長先生、その他の先生とばかり話してた
やかんをもって階段を上がるときに階段の上から転げ落ちたり
生傷は絶えず膝はいつも怪我でじゅくじゅくになっていた
今でも足にはちょいちょい青アザがあるので30年近く経過しても同じままである
幼稚園のお弁当はほぼ毎日おにぎりだった
ひたすら同じものばかり食べるのも今もおなじである
前項にあるように漢字が読めたので絵本のお母さんへ欄も読んでいたし
幼稚園でやるワークのようなもの(簡単な算数とか図工とか)はさっさとやってしまうそんな子供だった 次は小学生
小学校デビューは他の子達と同じスタートだったので問題はなかった
ランドセルの色も母親の猛反対に合いながらも普通の色を選択
当時はカラーランドセルの出始めだったが田舎ではそんなの背負ってる人間はまずいないし
自分は目立たずみんなと同じが良い人間なので個性を出したくなかった
その頃から今までずっと目立ちたくないと思っている
学習机は当初は買ってもらえなかったが、二年生になる頃に買ってもらえた
しかしライティングデスクだったので望む「普通の」ではなく好きではなかった
結局、小〜高校までぜんぜん使わなかったし今も不満である 友達はできた、特に仲が良かったのは床屋の子とフィリピンハーフの子
他にもいろいろいたがもう名前も思いだせない(その小学校を卒業していないのでアルバムなどもないし)
フィリピンハーフの子は小さなぼろいアパートに住んでいて母親があまり付き合うなと言っていたのを覚えている
母親は自分の友達や好きな人、好きなものをひたすら査定する、なおだいたい否定される
母親は自分を甘やかすことも誉めることもしなかった
三歳ぐらいのころには「こいつは甘やかしたらダメなやつだ」と話していて
何をしても怒られるし否定されるしバカにされた
テストで100点をとっても字が汚いとか当たり前だとかそんな風に誉めてもらえることはなかった
「バカは死んでも治らないうちの(名前)はバカである」が口癖で弟にはそんなことは言わなかった
そんな小学校での生活だったが一年生のときには六年生の二人組と仲良くしていたのが自分でも謎だった
あの人たちのことはもう何も覚えていないから二度と会うこともできないし
よくわからない記憶のままだ ADHDであるから「きかんぼ」のままだったがまだそこまで狂暴ではなかった
ケガしまくり服を汚しまくりものをなくしまくりではあった
授業は聞いていなかったが別にテストは良かったので生活態度を指導される程度であった
二年生ぐらいになったときクラスメイト(別に好きではない)から
暴力で脅されてたびたびキスなどをさせられ始めた
報復が怖くて友達や親に知られたくないから表面上普通を装って
子供だからまあその程度で済んでいたがもうちょっと大きかったら性的なこともされてたのではないかと今でも怖い
そんな折、父親が家を建てると言い出した
場所は同じ市だけどけっこう離れた場所で学校の校区も異なる
自分はそのクラスメイトから逃れたくて賛成してしまったし
母親も何だかんだで父親に逆らわないので家は建ってしまった
そうして三年生のときに引っ越したが薔薇色とはならなかった ちょっと時系列は戻るが
小学校入学したころから
こっそりと人の家から物や小銭を持ち出したりと小さな犯罪をしていた
ある日友達の家の玄関に帰りがけにクレンザーを撒いたのだが
なんでそんなことしたのかは覚えていない
ただ、とにかく子供ながらに歪んでいたのは事実である
母親には毎日長時間叱られまくりだった
説教が長すぎて(説教されている理由をきちんと覚えていないので)また延長、謝罪の言葉が言い回しが気にくわないからとまた延長と何時間にも及び
殴る叩くは当たり前だったが鼻血が出やすい体質だったのでよく鼻血を出した、するとまた「被害者ぶって」と怒られる
家出を考えても祖母などは近所におらず、友達の家にお世話になろうものなら母親にさらに怒られるのが間違いないからできず逃げ場はなかった 校長先生と仲良くしていてよく部屋に行ったりしていた
在任中に亡くなってしまったのを覚えている
あと、最初の小学校での記憶は学校の前に用水路があって最初は笹舟を流したりしてたのにエスカレートして下敷きとかを流して回収する遊びになり失敗してなくしたり
自転車に乗ってるへんなババアがいたり山田がいたり歩道橋の段差を何段跳べるかやったり
こえだちゃんがある友達の家でホラー漫画を読んでしばらく夜になると思い出して怖かったこと
自分用にかってもらったはずのバッグを母親に使われ、結局お前は使わないと言われたこと
近所には駄菓子屋が二軒あって(足を伸ばせば他にもあった、通学路に一件、文化会館のほうに一件、二宮神社の近くに一件などなど)サエキというジジイがやってた店は品揃えもよく、今でも好きな凍らせたこんにゃくゼリーに卵の入ったもんじゃ焼きもあった
そこの孫(娘二人)は死ぬほど嫌いだったけど……
もう片方はババアがやってる店で冬はアイスのケースに鍵がかかる、コーラボールをよく食べたのとバニラブルーの蓋についたアイスが濃厚で死ぬほど美味しかったのが思い出(カップアイス)
ちなみに、おこづかいは一切もらえなかったし母親が駄菓子嫌いだったのでお金はもらえず、自販機などから拾った(たまに盗んだ)お金や友達から分けてもらった
まだあの頃はそこまで不景気でなかったので根気よく探すとお金はよく見つかった どんどん思い出す、だるまもこんな感じだったのだろうか
祖母は自分に甘く弟よりも自分を好きだったがいかんせん離れているので守ってはくれなかった
父親はその頃も出張ばかりで家におらず母親の独裁であった
母親は厳しく育てようとした
夏休みともなれば宿題でもないのに漢字練習帳を買い与えて漢字を書かせる
文字としては間違っちゃいないのにここのはらいがどーのこーの、線の右肩が下がっているとやり直し、と厳しいを通り越しヒステリックだった
結局文字はうまくならなかったが
夏休みといえば自由課題があるが、そんな抑圧された家なのでやりたいものは言えない
母親に叱られ否定されるのがおちなので適当に貯金箱を作るも母親の手が入る
結局自分の作品とは言えない何かを提出した
図工の時間に描いた絵が(特に優秀ということで)玄関に飾られた時もあーだこーだ言って素直に誉めなかったし
やりたいこと(習い事とか)を言ったところで全否定
音痴だ不器用だお前にはできない、無駄、ここがダメあれが間違ってるなどなど
そんなストレスで円形脱毛症がみられたがそれも母親からすると「被害者ぶって」なのだった 話は三年生に戻る(家を新築し転校したところ)
救いになるかと思った転校であったが
よそ者扱いされいじめられ馴染めずケンカばかり、転校数日で母親が呼び出される事態にまでなった
確かにもう暴力で脅されることはなくなったが
友達になってくれるのかと思いきや裏切られたり
転校生だからとからかわれたりで軽く人間不信になったし
トラブルばかり起こしては母親呼び出し→家で叱られるの繰り返しで荒んでいた
なお、家を建てた張本人の父親は家が建つとほぼ同時に単身赴任させられた(6年ぐらい)
母親との関係は冷えきっており、もともと浮気三昧だったので(幼少の頃家に不在だった中には不倫旅行とかもあるし)
赴任先でも相変わらず浮気し、家には年に一度も帰ってこなかった
まあ、同じ家に住んでた頃から育児なんか何一つしなかったし
学校行事にも来たことはなかったし遊びにもほとんど連れていってもらえず
家族旅行なんて伊豆に行ったのが最初で最後だったが ADHDであるがゆえにすぐ手が出るしカッとなるし
忘れ物落とし物は多くケアレスミスもたくさん
授業は全く聞いてないしじっとしてられない自分であったが
当時は普通に「問題児」のカテゴリーに入れられ、常に一番前の席にされていたが
成績は良かったので尚更放置された
算数はもともと超苦手で、分数でつまづきわからなくなったが他の教科でカバーしていた
結局今でも小学生レベルの算数は解けない、学習障害なんだろうと主治医は言っている
転校生いじめにあいつつもクラスに馴染むためなんとか場に馴染もうと道化を演じはじめた
母親からの度重なる人格否定で本当は自己表現とかはしたくなかったがキャラを演じた
おかげでとりあえず友達はできたが、腹の中ではまた裏切ってくるかもと疑いながら(転校当初に裏切った張本人だったし)のつらい日々だった
4年生になると部活が始まる、母親は「部活なんて無駄だからやるな、お金もないし」と言うが
田舎の小学校では強制加入がルールで(人数集まらなくなっちゃうし)逆らうことはまずできない
クラスでも入っていなかったのは中学受験する奴とスケートやってる子だけ
入らないって伝えればもちろん担任に加入するように説得される
母親は部活強制加入に対して文句を言うが、自分から学校や担任には言わないので
自分が板挟み状態、仕方がなかった
放課後はひとりぼっち、田舎のブラック部活だから土日も友達は部活、で
一人家で過ごすことが多くなった
母親が運動なんかしなくていいと言うもんだから
運動が苦手だったので実質運動部しかない部活をやれるとは思えないものの
孤独感はかなりのものであった そのうちに部活ドロップアウト組が現れて、そのなかの一人と毎日遊んだ
ケンカもよくしたけど孤独から逃れられた
小4か5のときから母親が働き始めた、一日五時間ぐらいのパートだけど家事をやることとなった
母親がパートの日は母親は食堂で食べるので自分が昼飯を作る洗い物もするし洗濯や布団干しもやる
大した内容ではないように見えるがたかがパートの母親が家事をサボり始めるのはちょっと納得いかなかった
でもそれが普通だと思ってたからこなしていた
その頃になると母親から叱られることは減り(悪いことは隠れてやるようになったし)
人格否定も直接でないものが増えたように思う(交遊関係とか趣味を批判したり否定したりこきおろす)
まあ、デブだチビだ目付きが悪いだなんだとは言われてたし
(なおチビでも目付きが悪くもないし当時はデブでもない)
弟を猫可愛がりしてるのは変わらなかったが
代わりに母親の愚痴や相談に付き合うようになった
小さい頃のストレス解消法が自分に対し感情をぶつけることだったとしたら
その頃は子供を放置して趣味をやったり自分に愚痴ったりがそうだったのだろう
無論自分の悩みは話せるはずもなかった そして中学進学が近づいた頃、学校生活に二つの悩みがでてきた
ひとつは掃除(縦割り掃除といって各学年混合で掃除の班を作る、組み合わせは運)
5年(自分)6年(Aとする)1年生2人の4人で空き教室と廊下担当
床に?謎の虫(ヒメマルカツオブシムシ?)が大量発生してて
毎日掃除しても苦痛で仕方なかったうえにAが全く掃除をしない
1年生は掃除するけど何の役にも立たないしでひとりで毎日掃除し続けた
当時は円形脱毛症はかなりひどかったらしい
次の悩みは転校前の小学校のクラスメイトと中学で再会すること
転校したばかりの頃は解放されて良かったとしか思っていなかったが
5年生の後半ぐらいになるとその事に気づいてしまったのだ
中学は3つの小学校が集まるので直接的にクラスメイトや近くの席などになる可能性はかなり低いものの
それでも同じ空間で三年間を過ごさねばならず
今度も暴力で脅されて何かさせられたらどうしようと恐怖が襲った
そうするかどうかは相手次第だからわからないのに
毎日毎日その事が頭を支配していた一年半だった その他小学校の思い出
転校当初絡んできたやつの耳を噛んだり(マイクタイソンかよ)からかわれてキレて机の上に立ったり
習字の授業で服を汚さないことがなかった、母親がキレて習字の日は必ずしまむらで買った服を着ていったがそれでも汚しまくった
服は母親チョイスで自分の意見は取り入れられない真冬でも長ズボンは履かせてもらえず髪型も決められた
当時流行ってた服も着れず貧乏なのに百貨店で買うから汚すともうカンカンだった
でかいスーパーとかデパートに行くと母親が買い物してる最中暇をもて余す昔は漫画が立ち読みできたけど
高学年になるころにはカバーがかかりはじめて
暇を潰せるところも少なくお金はもらえないからゲームコーナーのUFOキャッチャーを眺めて時間潰し
学校農園の嫌いな奴のじゃがいもに(男女四人で結託して)水をあげまくったら腐るどころか立派に育った
教職員用の冷凍庫に入ってた雪見だいふく(給食の)を勝手に食った
一輪車にはついぞ乗れなかった
帰り道、毎日川に石を蹴って落としてたらじじいに叱られ友達と親と謝りに行った
スーパーの駐車場に建つプレハブ小屋の焼き鳥が好きだった、たまに一本だけ買った
放課後はほとんど毎日友達の家に入り浸っていた
鍵っ子なのを良いことに農家でもないのに家でかくれんぼしたりしてた
屋根にあがる奴とかもいて屋根に足跡が点々としてたりめちゃくちゃしてた
お好み焼きパーティーみたいのもした
移動図書館では料理の本とかを借りていた
隣の家の飼い猫が黒白でとてもかわいかった。おじいちゃんに抱き抱えられて散歩?してた
弟の別コロに掲載されていた電撃ピカチュウを読んで衝撃を受けた
ゆずを好きになった 中学生になったのだが問題の奴とは違うクラスでほっとする
三年間クラスが同じになることもなく、向こうも気まずいのかなんなのか一切の接触をしてこなかった
それでもそいつのいるクラスに近づいたりするのはなかなか勇気がいるし
本人を見るだけで恐怖を感じてはいたが
(小学校の頃から中学を卒業するまでにそいつの夢を数えきれないぐらい見た)
隣の席になったやつがスゴい奴だった
勉強もけっこうできるし運動もそこそこ
マイペースで不真面目で小学生の頃からずっと同じ筆箱を使ってる変わり者
いとこが好きと公言し
授業中に教科書の表紙を(表紙に描かれてる図形の形に)切り抜いたりしてて担任に叱られたりするアホで
友達いないわけでもないのに班分けのときには進んでハブにされてる奴を入れるような奴
他にもいろいろあったはずだけどもう記憶が薄れててあんまり思い出せない
けどとにかくインパクトのある奴だった
そして自分はそいつが好きだった
二年になったらクラスが別れてしまって距離が離れてしまったけど
ラピュタの飛行石のキーホルダーをあげたら超喜んでたのが一番の思い出 そいつの進学先は(最初は地元高校の予定だったのに)親の意向なのか地元を離れてしまい
友達から連絡先を貰ったけど結局連絡できないまま
告白なんてできるはずもなかった
今は何してるんだろうな、もう16年も会ってないからどんなんになってるのか 中学では算数ができないので数学はすべて勘、おかげで18点とかとってたけど
他の教科でカバーし学年でもそこそこ上位に
(数学できてたら県二番ぐらいの高校行けてたろうなあ)
授業中は基本的に寝てるしノートもとらないテスト勉強なんてしたこともないし
宿題も一切しないけど浮きこぼれなので対策もされず
むしろテスト前には他人に勉強を教える始末
毎日テレホタイムにネットやってたので学校は飯食って寝る場所だった
その頃母親は夜になると出掛けてたので(男ではなくパート先で女友達ができて夜になると朝までファミレスとかでだべってたらしい)ネットやり放題
素行が悪くてもあまり何も言われないし(黙って深夜に帰宅しても何も言われないし、校則破ってたりしてても親は放置)
勝手に学校サボって川原で本読んだりして過ごしてる日もあった 数学が壊滅的なので後の人生がろくなものにならないにも関わらず
(高校に行ったとしても進級できないだろってぐらいの成績なのに)
親も自分も何も考えておらず
三教科の私立受験はせんとこー、ぐらいの呑気さで過ごしていた
当時から社会学に興味があったのでそっち方面に進みたいなあとおぼろげに思っていたぐらいのもんで
そのために内申点を良くしようだなんて思ってもなく素行は悪いまま(DQN方面ではないが)
部活は弓道部だったが半年で辞めて
朝起きたら菓子パン持ってノーヘル通学路じゃないルートで学校へ行き
菓子パン食って授業は全部睡眠時間
給食はご飯と牛乳はいつも二人前
食ったらまた寝る
学校が終わったら友達の家へ行き帰宅は夜8時とか9時
そこから飯と風呂、ラジアン聴いてテレホタイムになったらネット接続
すでに2ちゃん入り浸りの当時で言うところのリアル厨房で
アングラ回ったりして気がついたら朝の繰り返し 小学校のときの担任(4〜6年)が体育と国語の先生として中学に来て中2のときは体育の担当だった
弟の小1のときの担任も音楽教師としてうちの中学に来てた
中1のときの担任は肌が白くて寒がりで夏でも長袖で超病弱
はじめての担任クラスが自分たちだったけど
冬にインフルエンザこじらせて一週間入院して翌年には担任外されてた
たほいやとか爆発卵とか教えて貰ったしいい先生だったけど結局退職したんじゃなかったかな
中2と3のときの担任は結婚して結婚式に行くことになったのだけど
その担任が大嫌いで生理的に受け付けないから本当に嫌だった
生徒たちは披露宴でちょっと歌うたって別会場でうなぎ食ったような気がするけど交通費返せっての
典型的な脳筋で体育会系で話にならなかった 小学校のときの担任
1年 おばあちゃんに近かった、思い出はあんまないけど蛇口からジュースが出るって騙された
2年 若い女の先生、やや生徒になめられぎみなポニーテール。
クレンザー事件のときには最後まで認めなかったから困らせたかな。すみませんでした
3年(前半)中年男性、背が高かった、この人も記憶にない
3年(後半)すごい厳しいおばさん先生だった
4〜6 中年男性、常にキャプテンサンタの服を着ていて中古のベンツが愛車(中学のときに水風船ぶつけて遊んでごめんなさい)
子供になめられてもなかったけどそこまで厳しかったイメージもなかった
よく叩かれてたけど 学年主任が社会の先生で
自分が社会好きなのもあったし先生らしからぬ物言いで
すごく好きな先生だったし向こうもそれなりに目をかけてくれてた
高校落ちたあとにも何とかしてくれようとしたのもこの人
中学の友達関係は小学校のころの人間不信もありクラスでも特定のグループ依存ってわけでなく
いくつかのグループに適度に関わるコウモリだけどうまいことハブられないようにやってた
漫画好きだったけど小野敏洋にハマってたから主流とは違ってて変な奴だったんだろなーと
新聞連載から重松清にハマり図書館通って全部読んだりしてた
あとゆずだけでなくYOGURT-poohっちゅう超マイナーバンドも好きだったので少ない小遣い(月2000円)でCD買った
(レンタルなんかないし、ネットにも落ちてるはずもないので取り寄せて買うしかなかった)
お金はないし美容室が嫌すぎて自分で髪の毛切ってたが今見るとすげえ髪型 あとこれは外せないのだけど
小学校からずっと仲の良い友達がいたのだが(毎日のように家に行ってるぐらいの仲)
中学後半になるとそいつは近くの工業高校の連中やうちの中学の荒れてる連中とつるむようになって
酒やタバコやセックス覚えたりして(でもアオカンなのが中学生の悲しさ)
学校にもまともに来なくなってどんどん離れていってしまった
それを何とか食い止めたかったけどかなわず
むしろ自分の方が社会からドロップアウトする始末
その後に読んだ浅野いにおの漫画に自分とそいつのような話が載ってたのが印象的(ネコの王の最終回の号だったはず)
あいつ今何してるんだろう だるまの「俺の人生」を目標としてここまで書いてきたけど
あいつと違って自分は時が止まってない分(まだ折り返し地点にも満たない)覚えてもないんだなと感じるし
あんなに悪夢を見ていた小学生の頃の嫌な記憶も乗り越えてはないけど今は耐えられるし忘れかけてきてるし
中学三年を迎えたわけですが家には金がなく
家賃こそ会社持ちだけど単身赴任の父親との二重生活は金がかかるし母親は収支を聞かずに父親に金を使わせてたので
父親はどう暮らしてたかは知らんが母子は貧しかった
月2000円で正月に5000円しか貰えてない年収29000円生活では友達付き合いすらうまくいかず
さながらだるまのような感じになっていったが
明るい性格(を演じてた)のでさほど悲壮感はなかった
月のローン返済が13万でボーナス払いもあったように記憶してるし
自分は都合二回家を買ったけどどっちも中古の集合住宅なので父の建てた家よりもいい立地だけど月の支払いはるかに安い。
なお、父の建てた家は手抜き工事の欠陥住宅で(工事中ろくに見に行かなかったしいろいろ考えると当然だが)
3000万ぐらいしたはずだけどゴミみたいな物件だった さてはて年収29000円生活、でも漫画や音楽に興味がでてきた自分は
どうやってその欲求を満たすこととしたのだろうか
図書館にあるCDは借りたし当時は文教堂や地場の書店が立ち読みできたからそこでひたすら読んだ
当時はもちろん漫画村やe-hentai、dropbooksなんてなかったから
ネットでは漫画はあまり流通してなかったのだ
音楽はアングラで。パッと思い付く単語でもiria、らるちー、そ、猫缶、BA、うめーこのみかん、でんこ……(忘れかけてるけど)
懐かしのNapster、MXで相手が寝てる間にDOM逃げもよくしたっけ
でも、それだけじゃなかった
病気ではないので自分で稼ぐようになってからは一切やらなくなったけど…… さてそんな自堕落中学生活をこなし
数学が壊滅的で内申点なんかマイナスなのだから
進級・卒業できそうな地元のしょぼ高校に進学してそこから推薦なりAOなりで進学しておけばよかったのに
(この考えには最近たどり着いたけどね)
一応進学校の端くれみたいなところを志望してしまい
更に金がないのと三教科だと数学が足を引っ張ってどうにもならないので私立受験はせず
レベルを一段階落とすこともせず
(好きではないどころか粘着されて困ってた小学校時代の友達が推薦で入学決定してたので)
担任もどうでも良かったのか大して反対もしなかったからそのまま受験
当時住んでた県は公立高校の二次募集はなく一発勝負
結果は惨敗
自己採点でも試験の出来は悪くなかったはずで
今でも内申が響いたんだろうなと思っているが
当時のような複雑な感情にはもうならない 惨敗後中学に行って進路の話をする
担任とはろくに話もしなかったが
学年主任の先生が出てきて公にはなってない私立高校のα入試に推薦するから受けた方がいいと言われた
試験を受ければ合格するはずだとも
恐らく自分のような人用の救済試験だろう
期限は本当にすぐなのでとりあえず申し込んだが
家にそんな金がないことぐらいわかりきっている
制服も普通のときと儀式用に二着あるようなところだ年間いくらかかるのか考えただけで恐ろしい
通学も片道一時間以上かかるうえにアルバイトはもちろん禁止
親は「昼も夜も働いてお金は工面する」と言っていたが正直脅しにしか聞こえなかった
結局断念して県立の通信制へ
α入試の会場にも行かなかったので先生の顔に泥を塗ったのではと今も心が痛む
県立の通信制にとりあえず入学したものの高校浪人という選択肢を考える
ただ、住んでるところは田舎であるがゆえに同じ県で浪人するのは色々と複雑(絶対に年齢バレるし)
違う県ならうまくこなせるかもと
人生ではじめて他県に住む祖母にヘルプを出した
そっちの県立高校を翌年受験したい、三年間同居させてほしいと
結果はとりつくしまもなく断られて祖母は味方ではなかったと思い知らされた もう誰も助けてはくれないし選択肢もないと悟り
とりあえず入学した通信制へ通い始める
中一のとき同じクラスで登校拒否だった子がクラスメイトになった
自分は中一から教科書を全部学校に置きっぱなしにしていて机に入りきらない教科書をからっぽの彼女の机に詰めていたのでとても気まずかった
最後までその話には触れなかった
友達もできたがメンヘラばかりだった
授業はレベルが低すぎてつまらないので
スクールカウンセラーの部屋に入り浸っていた
夏にはクラスメイトの女子が殺されて海に沈められた
顔ぐらいしか知らなかったけど何気に衝撃だった
学校の自販機に今や全国区のあの飲み物が売っていてはまった
火曜日に通学すると全日制の人たちに会えるけどとてもみじめな気持ちになるのでつらかった 通信制でそのまま勉強してても良かったのだけど
メンヘラだらけのぬるま湯にいてると
なんか自分がダメになりそうで大検を受けることにして退学、時期は覚えていない
時期は前後するが高校入学したぐらいのときに
父親が単身赴任を終えて帰って来たが赴任先がなくなったからで
どうにも人員過多なのでリストラされそうな感じ
そして(業務上なのに)ケガをして自主退社
私立に行かなくて良かったと思った瞬間であった
父親はそのあと墓石屋の営業になる
三年間同居してたはずなのだけどぜんぜん覚えていない
ほんの少し覚えているのはみそ汁に人参を入れて激怒されたこと
デジカメを買ったからとパソコンに写真を取り込む方法などを教えたこと
ケガをしたからと一階のパソコン部屋に寝るようになったので
夜中にネットができなくなってとても不便だったこと
(やれないことはないが安眠妨害になるからトラブルになるしいびきうるせえ)
その後ADSLが開通してノーパソを貰ったあとは自室で夜通しできるようになって幸せだった
パソコンといえばよくわからん知り合いの知り合いからおんぼろを譲り受けたけど
本当におんぼろで日記ぐらいしか書けなかったのでしばらくたったらバラバラにして捨てた
(くれたのが誰だったのか、どういう経緯だったのかもわからん) 父親がなぜか買ったNECノートをもらってネットをしていたのだけど
最終的には上京後にバイトしてた店の社員にあげた(仕事中に到来したゲリラ豪雨でアパートが水没して何もかも失ったので)
話は退学後に戻る
退学後、進学しなきゃと某通信講座に金を払うも何もせず放置
昼前に起きてだらだら過ごし夕方に買い物して晩飯作っての生活をする
起きてる間はニュー速と二次裏に入り浸り
夜が明ける頃に寝る生活をしていた
進学しなきゃと思うけど何から手をつけていいのかという風で無為に過ごしているだけ
田舎だから人の目が怖くてひとりで外出はせず働くこともなく引きこもり生活をしていた
しかしその頃の記憶はあまりない
大検は数学以外は無勉一発だったけど数学はやはり手こずったが何回目かで合格
本屋で(大検関連の書籍を立ち読みしてたら)知り合った人と映画を見に行ったりカラオケに行ったりしたけど
多少ミスをしつつも縁を切った
今思うと映画と変な音楽の好きな人は地雷なのかもしれない
ナースのお仕事超つまんなかった このまま田舎にいたら腐ると母親に上京することを提案した
父と母の夫婦関係は弟が生まれた辺りで既に破綻していたし
父はどーせ浮気してるしパチンコで貯金を溶かしたり害しかなく
無職になったり再就職したりで家計は完全に赤字で
住宅ローンの借り換えをする事態に追い込まれていた
(自分が私立高校に行ってたら中退確定である)
母親は学歴も職歴もないのに子供連れてはキツいと言ったが私もバイトできるから
このままだと貯金ゼロになって何もできなくなるよと説得し
物件探しなどを手伝い18歳の3月頭に東京へ引っ越した
東京なのは母の強い要望だった
運命を変えるキャラクターに出会ったのもこの時である
引っ越したその日は布団すらなく家具家電もなく
とりあえず近くのスーパーで照明とガスコンロを買ってきた
肌寒かったが希望に満ち溢れていて
夜景が本当に美しかった
そこから物を揃え春休みに入るまでは上京できなかった弟を迎え
自分は宣言通り四月末にはアルバイトを始めた
母親は仕事がなかなか決まらなかったのだが(給料が安くて暮らせなさそうな案件に応募したり迷走していた)
アルバイト先にあった新聞の求人チラシを持ち帰り母親に勧めた
そこに就職し移籍はしたもののまだ勤めている……はず
もう五年連絡してないのでわからないけど はじめてのアルバイトは漫画喫茶だった
夜型だし給料が高いからと深夜勤務
厳しい先輩がいて接客のいろは?を叩き込まれたが
同時に自分が仕事ができない不器用な無能であることを思い知らされた
その代わりに遅刻をせず、要望があれば残業も連勤もした
漫画喫茶は当時から住んでる人とかいてさまざまな人間、さまざまな仕事を経験させてもらった
東京という街で目まぐるしく変わっていった
バイト先の先輩を好きになりかけるも彼は転落人生の人だったので踏みとどまり12月には退職した
春にはとある大学の二部に合格した
仕事は派遣に応募したところ、落ちた会社の別部署に声をかけられて行くことに
2ちゃんの大学のスレに自分のことを指す書き込みがあった
どうやら自分に惚れた奴がいて書いてるらしくちょっとした祭りに
書いた本人もリアルで接触してきて最初は知らんふりを装っていたが
書いた人はヤンデレの人でちょっと怖いしあのスレを見た人たちに認識されているということもあって心を病む
また、仕事も忙しく無能で体力のない自分には両立なんて無理で
毎日鬼ころしを飲んで寝る生活
昼間は仕事に身が入らず夜も勉強が手につかずで限界を迎え仕事も退職大学も中退
しばらくは貯金があるので心と体を休めることに
そして秋のイベントで最初の結婚相手と出会い友達に
再度進学したいと願うようになり貯金の中から少し使って願書を出した しかし金策の面などでやはり厳しく進学は断念
(一応は受験するも不合格であったし)
春にはコンビニのアルバイトを始めた
コンビニではそんなには人の足を引っ張ってはなかったと思っている
そして勧められて公務員試験を受験することに
一度だけ受けた模試はD判定で一次試験の筆記の出来も半分いくか怪しいレベルだったし
年齢制限から最初で最後のチャンスなのでいよいよ人生詰んだなと川を眺めて思ったがなんと一次合格
二次の面接では遅刻しそうになったり逆質問したり楽しく話したり部屋から退室するときにコケたりさんざんだったが合格
合格後の面接では高校の(全日制の)卒業生がいてちょっと変な空気になったりもした
コンビニは最終日まで勤めあげた
この頃同棲をはじめ千葉県へ引っ越す
そして春に公務員になった
希望する職場ではなかったが中卒からすれば人生逆転に成功したわけで
ちゃんと40年勤めるぞと気合いをいれた……はずだったが
最初の職場は自分以外の8人は55歳〜64歳という部署で翌年には部署ごとなくなる(だからそういう人事)
係長は人間の○○で自分だけ残業代を貰うようなみみっちい生き物
仕事のことなんか何も知らないのに上から目線でクズエピソードはここには書ききれない
当然退職する日にも誰にも祝われず逃げるように帰っていった
他の老人たちは良い人ばかりだったがいかんせん年齢が違いすぎてつらかった
そんな部署で毎日のように辞めたい辞めたいを繰り返し己の仕事のできなさに絶望し無気力になっていった 翌年度には部署はなくなり勤務地も変わることになった
そこで出会った意識高い先輩とは仲良くなかったし
新しい勤務地の同期とは仲良くなれなかった(こっちはなんとか避けてるのに誘ってきてとても迷惑だった)
相変わらず自分の無能さに嫌気もさしてたけど仕事自体は二年目三年目四年目と比較的順調にやっていた
二年目の時に結婚してその年の末の忙しい時期に入院・手術
通勤の時間に嫌気がさして家を買った
三年目もほぼ同時期に入院し(耳)退院直後には東日本大震災
そこから半年ぐらいは病気の後遺症に悩まされた
五年目は部署が変わり仕事は忙しくなり算数がわからない私には厳しい内容になった
人に聞けないようなことなので一人資料を見ては悩み
覚えられず怒られて職場で泣いたり大きなミスをやらかしたり
完全にお荷物扱いされて心はボロボロで
向いてない仕事を続けられないと
仕事を辞めたくて夫に相談するもダメだと言われ
四面楚歌状態が続いていた 確かに今は公務員として安定した?地位と安いけど確実な給料がもらえる
でも、辞めれば中卒になってしまう
ADHDで普通ではない自覚はあったし
仕事内容を理解できないこともうまくこなせないことも自覚していた
でも結婚相手も母親もADHDに対して否定的で診断を受けることすら同意しなかった
障害に認定されてどうするんだとも言われた(17歳ぐらいのときに自分がそうでないかと母親に相談したが否定され叱られた)
ADHDの診断をできる医者はどこも初診は何ヵ月も待たなければならないし
当時はコンサータ・ストラテラもなかったのでそれも医者にいく足を止めた
仕事辞めたくて仕方がない状態のまま何もわかってないまま仕事をやっていた 高校時代の覚えてること
頑なに前に通ってた高校の制服を着てきている子がいた
服装は自由、髪型も自由なので浮いてた
どんどん生徒が減っていき(ホームルームの時間にはわかる)自分が退学する頃にはもう半分いなかったんじゃないかな
今は亡き緑色の蝶の15円切手をたくさん買った
火曜通学に切り替えたり卒業まで長期間かかるルートにした奴とかもいるんだろうけど
一番仲良かった子は5つぐらい年上でエリート家系に生まれて自分だけ不出来なのがメンタルやられた原因のひとつ
高校は五校目とか言ってたな強迫神経症で手は真っ赤
一方出会い系でやりまくってて、でも将来はカウンセラーみたいな仕事に就きたがってた
あとそこそこ仲良くしてた人は数人いたけどあまり記憶にない
カウンセラー部屋ではよくペットボトルの飲み物をストーブで(上にお湯を張った金だらいが置いてある)暖めてたから
冬までは通学していたんだろうな
進級した覚えがないからたぶんその辺で退学したはず
もしかしたら大検で科目合格したからかもしれん
学内の文庫で借りた本がお気に入りで返せず今も持ってる
ジャージを買ってもらえず中学のジャージでごまかしてた
当時は小遣いはあんまり変わらなかった気がする
学校いく日に交通費とメシ代で1000円ぐらいじゃないかな(交通費は学割があるから半額になる。ただ、買うのに学校で証明書を出してもらわなきゃいけなくてめんどくさい)
500円弱だからコンビニでお茶とおにぎりぐらいしか買えなかった
日曜が通学日だけどたまに火曜にいくと知り合いかなり少ないし
全日制の人たちいるしで劣等感はんぱなかった
なお全日制は県で一番頭のいい高校 引きこもり時代のこと
中学の頃から服装は金銭的な面、母親の意向などもあって
ユニクロのスウェットとジーンズ
髪型はどうしてたんだっけかなあ覚えてない
体重は最初は53キロぐらいだったのが
最終的には70キロぐらいにまであがった
2ちゃんのオフ会とかにも行ったな
多人数で餃子食ったりオムライスで有名な店行ったりスナック行ったり
(参加者にスナックのオーナーがいて開店前に)
帰りの電車で参加者の前で泣いてしまったのが懐かしい
サシオフってのも行ったなあ、隣の県の人と遊んだ
東京行ったあとも数回会ったし。毎回小遣い貰ってた
別の人と池袋事件もあった
でも手当たり次第そういうことをしてたわけではなくてここに書いたそれだけ
ネットどっぷりで音楽聴いたりして楽しく生きてた
将来のことは先送りにして見ないことにした理想だけは高く
日々の生活のこととかは全く覚えていない、記憶が欠落してるようだ
オムライスが好きだったこと
よくブックオフなどに行っていたこと
眼科に見切りをつけて通院しなくなったこと
じじいが介護中の事故で死んだこと
でも、そのじじいに最後に会ったのは五年前とかだったしなんの感情も生まれなかった
ずっといとこが欲しかったのだけど10歳を越えて出来たが年代も違うしそういう場でしか会わないからぜんぜん仲良くなかった
友達のようにいとこと仲良くしたかったのにそれは叶わず
父方の祖母はもともと私たちに冷たかったがいとこができたらそっちに夢中だった 16ぐらいからADHDの自覚はあった
通信簿にずっと「落ち着きがない」と書かれ続けてたし
(本人は落ち着きがないということがどんなことかよくわかってなかったが
)
多動、衝動性、注意力のなさ、ケアレスミス……当時自覚してただけでもうそんな感じで
でも田舎に専門医なんている時代ではないから母親に相談した
そしたら「私からするとそうは見えない、障害ではない。」と一蹴された
今なら親がそうでも学校側から病院に行けと言われる時代だが
当時は発達障害なんてものは知られておらず
成績も悪くない「浮きこぼれ」だったから放置されていたのだ
こうして一度目の受診のチャンスを失った
二度目の受診のチャンスは社会人になってから
やはりかなりの無能である自覚から(仕事中に寝る、不器用、ケアレスミスだらけ、遅刻が多い)
そのときの夫に相談するも「障害だからって免罪符を貰ってどうするんだ」と言った風でやはり反対にあった
そのくせに仕事を辞めることは絶対反対で
追い詰められていった 上京したあとのこと
体力はなかったがそのうちに普通についた
70キロから60キロぐらいにまで落とした
リカルデントのシトラスミントが好きで一日で何本も食べてた
バス乗り場の前の立ち食いそばがお気に入りでよく食べて帰った
大学でも少ないながら友達はいて一緒にメシ食ったり映画の試写会行ったりと遊んだ
大学を退学したら誰とも連絡をとってはいない
成人式は行かなかったが
母の知り合い経由で着物を貸してもらい写真だけ撮影することに(母の着物はあるのになぜか)
着物の持ち主は金持ちの知り合いでエアコン貰ったりしたのも覚えてる
写真撮影のことなど気にせずオレンジの髪、しかも短かったが演歌歌手のような素晴らしい写真が撮れた
この時代は引きこもり時代とは異なり
日々の記憶の断片は豊富にあるがとりとめのないことなのでこの辺にする(書くとしてもごちゃんではなくローカルにする) 補足みたいなの
小学校高学年まではこれといった趣味はなかった
強いて言えば漫画を読み絵を書く程度だったが
母親からは才能なしの判定を受けていたので隠れてコソコソとだ
運動は「馬鹿のやること」と反対されていたし、何分自由になる金もなく
(そのせいで友達と遊びに行くことでさえ制限されていた)
歌を歌えば音痴、楽器を弾けばリズム感がないと言われ、自分は歌ってはいけないんだと思い込まされた
合唱でもずっと口パクをし続けた
ゆずは「コミックバンド」「キンキンするから」などとまぁ否定
他の好きなものも全否定し侮蔑し続けた
何をやっても自己表現しても叩かれ続けたので自己表現が苦手となり
夏休みの自由課題を自ら選ぶこともできず
学校の図工の作品は批評が怖くて持ち帰ったらすぐ隠した
水泳は30歳直前にようやくクロールっぽいものと背泳ぎができるようになったが
学校で習え、教えない先生が悪いと言い、スイミングスクールに通いたいと言っても学校で習えしか言わなかった
(部活と同じで直接言わないから私は板挟みになるだけ)
親に対しては攻撃的ではなかった、ひたすら体罰と暴力で子供の頃はむしろおとなしい方だったと思う
何をしても怒られるので親に逆らったりすることはなかっただけでもあるが
(親からすると反抗的だったというが、それは素直に従わなかったとみなされてただけ)
頭をグーで殴る、人目につくところではつねる、家に帰ってから何時間も説教、体罰を加える
父親も他の家族もいない家では母が絶対で母を止めるものはおらずの地獄だった 弟は母曰く「お前と違って手をかけてもらえなかったんだから可愛そうなんだ」
と、溺愛されており正直かなり気持ち悪かった
私が受けたような人格否定はあまりなく(ハゲとかはあったけど)絵を書けば褒められ
歌を歌っても否定されず、汚い字を書いても漢字練習帳に穴が空くほど書き直しさせられることもなかった
弟は幼稚園の時点で放課後に遊ぶ友達はいたし(文句は言ってたけど)
殴る蹴るを全く受けてなかったわけではないけどとにかく甘やかされていた
現におとなになっても家に金も入れずに居座っているし(家賃と水道光熱費を負担していない)
タバコや酒も私にだけあーだこーだ言うのに野放し
部屋を片付けなくても物が捨てられたこともない
誕生日プレゼントは希望のものを買ってもらったことはあまりない
幼稚園のときに買ってもらったキーボードはどう考えても子供用ではなく
母が自分の弾きたい曲を弾いた、ピアノ教室に通わせるわけでもなく、
自分が教えるわけでもなかったらねこふんじゃったしか弾けないのは当たり前でとても遊べないのは明白なのに
スヌーピーのポシェットだってそうだ、母が使っていてたまに貸してもらう程度だった
そりゃ一人(ないし友だちと出かける)なんてないんだから当然なのに
あたかも私が使わなくてもったいないから使っているんだと自己弁護していた
シルバニアもなんでも母のチョイスで選ばれて熱が冷めた、最後は母の飾り物となった
人生ゲームとかも別にほしくなかった、普通のゲームが欲しかったけど
目が悪いという謎の理由で買ってもらえなかった。弟には買い与えたのに
本当に欲しくて買ってもらえたのはスララとゲームソフトぐらいだったと思う 母は子供に自分の好きな服を買い着せ替え人形のように楽しんだ(髪型も決められており、痛いのに毎朝髪をぎゅうぎゅう縛られた)一方
当人は化粧もせずジーンズしか着ないような人間だったので
ファッションに興味をもつことはなく(胸が意味もなくでかいだの尻を振って歩くだのと)
性を否定するような母の意向に沿ってジーンズにスウェットで通した
上京してスカートをはくようになったら見苦しいだの大根足だの似合わないだのメチャクチャに言われたが
自分の金で買ったものなので文句は言わせなかった
母はいつも自分の容姿を蔑む「肌が黄色い」「顔が丸くない」「足が太い」「化粧が似合わない」などなど
モデルじゃあるまいし十分な容姿をしているのにもかかわらずだ。いわゆる自虐風自慢である
顔が薄いんだし化粧して派手になれば?とか思っても言ってはならないので静かにする
私の容姿については「二重なのにまぶたが重くて目付きが悪い」「昔は可愛かったのに」
「無駄な巨乳」「馬鹿の大足」「デブ」「丸顔・チビ(これは嫉妬か)」「尻を振って歩く」などなど
私が知っている以上、曾祖母から始まる負の連鎖である
曾祖母は私が誕生したときには他界しており、顔すらよく知らないが
兄弟の扱いに差をつけ祖母たち娘をこき使った(と祖母は語った)
祖母は自分のまつげを切ってしまったらそれ以上伸びなくなったと嘘をついていたり容姿に対してなんとなく歪んでいた
毎日のように電話をしながら、それでいて母に金銭的にも犬のことも頼る祖母
祖母に文句を言いまくるくせに縁が切れないでいる母の関係はなんだかいびつだった 虐待を受けていたと言いたいわけではないが
家族の話となるとどうしても母の話になってしまうし
甘やかさずに育てるという考えで育てたからこういう話が続いてしまう
母も姉弟で扱いがかなり異なっていた。出来の良かった母の弟は大学まで行かせてもらい、
家に引きこもってもおかしなことを言い出してもノーと言われず無自覚の差別を受けていた
それに祖父はアル中でそれまた世間に馴染めなかった(親族にすら絶縁されていた)
そして祖母も祖父も世間知らずで頼りなく人生設計などがとても適当だった
母は長女らしく振る舞わなければならず、父がいなくなってからは頼りない母親(祖母)の支えとなり
(自分も長子であるからその傾向はある)結局は世代間で同じことを繰り返しているだけなのだ
父とその家族についても語ろう
父方の祖父と祖母はどっちも読み書きすら怪しい小学校卒だった
母方の祖父は某私大、祖母は高卒だったはずなので雲泥の差がある
次男の父は高校進学の費用を自分で稼ぎながら卒業、就職してからは営業一筋
母親に対しては亭主関白(母が勝手にそうしてただけで本人に自覚はない)
結婚当初から浮気不倫は当たり前で自分は小学校中学年ぐらいに(弟含め)事実を知ってしまったので
そこからは家の中での地位がペットのハムスター以下となった
単身赴任をしていたときも(国内にもかかわらず)一年に一度も帰ってこないし
子供の世話などろくにしたこともない人間だったので思い出はあまりない
運動会に一度だけ来たが酒を飲んで昼過ぎには帰ってしまってたし
弟なんかただの一度もそういう経験はない ADHDは遺伝が多いので父のことを思い出そうにもどんな人間だったかがわからない
正直親戚のおじさんぐらいの間柄なので知ってるデータがない、顔が薄い女が好きだってことぐらいか?
単身赴任しているときに二回だけ父の赴任先を訪れたが部屋はあまりきれいではなかったし
浮気の証拠(留守番電話のテープ)を妻と子に送りつけてしまううっかりではあったが
仕事が著しくできなかったという話は聞かないのでおそらくは違うのだろう
(両親は職場結婚だったので超無能なら母は知っているはずだ)
なお、自分の顔は父に似ている(母と弟は同系統)母と離婚後半年もせずに再婚し、娘がいる。
人生無計画で何も考えておらず、その場のノリで家族に相談もせずに転職したり家を買ったり
勝手に貯金をパチンコに使いこんだり
高校生の弟の養育費を払うという約束だったが途中でストップした典型的クズ
三兄弟は全員男で次男がうちの父親、長男はそこそこ良い職業に就き住宅街の端にある
超オンボロ家(外壁波板だし家の中は歪んでるし床は今にも抜けそう)に両親と住んでいたが
三男は両親(特に母だとは思うが)の寵愛を受け、上の兄弟と違って高校の費用は出してもらったらしい
隣の町に住んでいたが、父親不在の状態の我が家であるから日頃の接点はなく家にお邪魔したこともない
自分たち姉弟は三男夫婦に子供が生まれるまでは親戚一同で唯一の子供だった
(三男夫婦の結婚式には新郎側には私達しか子供はいなかったし、祖父の葬儀のときも同様であった) 祖父は記憶がない、現役時なんの仕事をしていたのかも知らないし名前も思い出せない
写真はあるから顔だけは覚えてるだけでそれ以上何もわからない
死んだのは16歳ぐらいだったので記憶はあるべきなのに不思議である
祖母は典型的なパーマ頭のうるせえババア(当時の言葉で言えばオバタリアン)
祖母とはあまり仲が良くなかった。我が家は完全に冷遇されていた
母曰くかわいくないだの何だの言われてうんざりしてたらしい
だから小さい頃はともかく小学生ぐらいからは年に一度も顔を合わせなかった
(父親がいなかったから嫁と孫だけで訪問ってのも微妙だったし)
三男夫婦に子供が生まれたらもうその後はきっと孫としても見てくれてなかったと思う
友達はいとこやはとこがいて、親戚からたくさんお年玉をもらって
長期休みには祖父母の家に行って家族旅行や近隣にお出かけしていたが
うちはそういうのがまったくなくて羨ましかった
今考えると貧乏も理由の一つだが、父親不在で親戚づきあいもなくってのも理由だったんだなと
(我が家の世帯年収は一番高い時でも税引き前600万程度だった。
今の自分と配偶者よりは若干多いが家族もその分多いし、何より家のローンなどがとても高い) 家の状況で言えば結婚当初は月の手取りが13万とか言ってたので(家賃は含まない)
当時のボーナス水準でも年収400万には届かなかったと思われる
そこから転職だのやって年収は最高の600万に。酒もタバコもやるし
小遣いはいくらだったのか知らないけど5万円以下ってことはなかったはずだし
ゴルフやりまくってたし草野球や浮気旅行できるぐらいだから言われるがまま出してたことは想像に難くない
両親がちゃんと家計を管理していれば(父が従うとは思えないが)妻と子三人は苦しい生活をする必要はなかったのだが
最近の男性ではないのでこの異常な状態が当たり前だったのだろう
ボッタクリ住宅地の欠陥住宅(5年も経たずに雨漏り)は
3200万で2700万がローンだった(はず)当時小学生なので曖昧
バブル崩壊後(不景気って言葉が流行してた時)で今のローンではないので利息はかなりのもの
父親の収入はその後どんどん下がっていくが、単身赴任を始めて二重生活になる
両親はお互いの経済状況を知らないまま一定金額を生活費として渡していたが金額はおそらく向こうの言いなり
月の収入が30万円を切った頃には母親も働き始めたがあいかわらずカネがない状況
一日の食費は1000円で、外食はめったになく、旅行なんてものもできない生活だった だるまよりはまだマシじゃんとなるが(事実そうだ、自分の部屋は与えられてたしパソコンなんかも早いうちから家にあったし)
田舎でも全国有数の金持ち県で、周囲のみんなはカネに困っているフシがない
塾や習い事、娯楽、食事、好きなものを好きなようにやっていた
市営住宅に住む子たちもいるのだからたしかに自分と同等、それ以下の人間もいるのだが
下位に位置している自分はそこに劣等感を抱かずにはいられなかった
両親いるはずなのに母子家庭状態だし、長期休みもひたすら同じことの繰り返しで絵日記に書くこともない
花火大会には友だちと行っても予算が1000円なのでかき氷と〇〇すくいとあと一品食べたら終了
おもちゃやわたあめやお面などは予算オーバーなので諦めるつらさ
遊園地や海や映画に行きたいとは言い出せないし行くこともないそんな暮らしだった
小学生の頃はお小遣い自体がなく、お年玉2000円のみ自由なお金であとは親からもらう形式だったが
基本的にOKは出なかったから誘いはみんな断ったし買い食いも諦めた 母親の家族についてもまとめておくか
祖父は大学へ行くと上京するも地元に帰らず家を継がずで
(長男だから家を継ぐと思っていた)親族からは絶縁された
新聞社に勤め、祖母となんの縁が知らんが結婚し子供二人
その後なんの病気か知らんが倒れ仕事を辞めて入院生活に
(時系列がわからんのだが)家族に対してはアル中で暴れまくるので離婚される
その後私が生まれた直後に死んだ
遺骨は引き取り手がなく(親族は墓に入れることを拒否)祖母が引き取った
そのくらいしか知らないし存命中に会ったこともない
祖母の家はやたら兄弟が多かったらしいが(知ってる限りでも)どんどん死んでいったし結婚もしてないので血が途絶えちゃうんじゃないかな
祖母は世間知らずで家事も下手(特に料理がやばいらしい)でも自分にとってはまあまあ良い祖母だった
ほんの一時期を除いていつも遠くに住んでたから関わりは薄かったけど
犬、のちにハムスターを飼っていた
ハムスターをうちの兄弟はモロヘイヤって呼んでた
おじは頭は相当良かったがそれゆえ人生がめちゃくちゃで
進学・就職も一筋縄ではいかずいきなり変な土地を買ったり(処分できたのか?)
病院のお世話になったりと結構アレな人生を送っている
全角岩手よりはぜんぜんまともだけど普通の範疇にはない人
母親とはあまり仲が良くない(母が一方的に嫌っているのだが、それもそのはず借金は返さないし何かあると頼ってくるし)
45歳ぐらいのときに英語を話せるようになりたいと仕事を退職し
大学に行くと言っていたらしいがどうなったのだろうか 弟は幼少期から長髪にしてたり変なやつではあったが
中学三年のときに東京へ行き、中学では友達もできちゃんと通う、その後高校に進学する
母親からはアルバイトをするように言われ近所で働く
しかし学校に馴染めず授業にもついてゆけずアルバイトも両立できずで一年で退学
その後はニート暮らしをしながら進学もせずアルバイト生活
フルタイムでもなく家に金も入れずで気がついたら25歳(最後に会った時点)高認も持ってないし
ダラダラと母親と同居してるものの今後どうするつもりなのかさっぱりわからんやつ
友達は少数ながらいるみたいで孤独ではない、友達付き合いもできるが
バイトの面接に落ちる、働きはじめてもすぐ辞めちゃうし店長とかに「接客向いてない」とまで言われる
かなりの偏食で麺類ばかり食べる
幼少期から将来の夢がなく大人が助け船に(ゲームが好きだから)ゲームクリエイターとかはどう?と聞かれても
作るのは嫌だからと答える、達観してるというのではなく無気力?
割かし喋るけど誰にも心の内を明かさない
感情も出さないわけではないし読み取れないわけでもない
「北へ。」で有名なイラストレーターが好きでエウリアンみたいな複製イラストに大金をぶちこむ
こう纏めてみるとところどころ発達障害(ASD)っぽいけど
自分から見るとそうでもないようなそんな感じ 自分の性格は弟とは結構違う(発達障害が影響してるからもある)
心の内を隠そうとしても何かの拍子でしゃべりすぎるしポンポン嘘も交えちゃう
明るいと思われるがそれはADHDの多動性によるもので自分を抑えられないだけ、かといって暗いわけでもないが
道化なので失敗話とかをガンガンする、自分のことなら話題にするためいくら落としても構わない
目立ちたくないからスポットライトを避けるし普通でいたいから本当は変わり者評価も嫌で仕方がない
オタサーのなんとかはまっぴらごめん
回避性人格障害らしく人間関係は定期的にリセットかけちゃう(小学校の友達とオンゲーやってる弟とは大違い)
好意をもってくれてる相手以外とは不安にさいなまれるので仲良くしたくない
さまざまな事柄に恐怖心や抵抗を感じる、新しいことが苦手
孤立は嫌だけど人間関係が煩わしいので孤独も悪くはないと思ってたりする。孤高の精神は持てない
仕事は接客が向いているしあまり面接で落とされることもない 回避性パーソナリティ障害の診断基準(DSM-5)
(1)批判、非難、または拒絶に対する恐怖のために、重要な対人接触のある職業的活動を避ける。
(2)好かれていると確信ができなければ、人と関係をもちたがらない。
(3)恥をかかされる、または嘲笑されることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す。
(4)社会的な状況では、批判される、または拒絶されることに心がとらわれている。
(5)不全感のために、新しい対人関係状況で抑圧が起こる。
(6)自分は社会的に不適切である、人間として長所がない、または他の人より劣っていると思っている。
(7)恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動にとりかかることに、異常なほど引っ込み思案である。
(以上の基準の四つ以上を満たす必要がある) 自分は全部当てはまってると思うけど、他人から見るとそうではないと言う
(元気で行動的、活動的でよくしゃべり、他人との交流も避けないし
それどころかしゃべりすぎたりして話題の中心にいたりする)と思われている
本当はぜんぜん活動的でも行動的でもなくおとなしく臆病
人と接するときには何とかしたくて道化を出してくるからそう見えちゃう
道化をセーブできればいいのだけど
できなくて嘘にしても喋りすぎにしてもついやりすぎちゃう
そんな相反する二つのものが同居してる 不安性(回避性)パーソナリティ障害の基本的特徴は、批判されたり、嘲笑されたり、恥をかいたりすることを恐れるがあまり、人との接触を過度に避けようとすることです。
その結果、職業上の機能を果たせない場合があります。例えば、責任ある役職を与えられそうになっても、同僚から批判されるかもしれないという理由で昇進を断る人がいます。
あるいは、スーツの着こなしが変だと思われないか心配で、就職の面接を断ってしまう人もいます。
基本的に内気で、静かで、常に目立たないようにしています。
自分のことを長所がなく、他人より劣っていると思っており、批判に対して赤面したり、泣き出したりすることを非常に心配しています。
自分が何かを言っても周囲に受け入れられないだろうと考え、言いたいことを我慢したり、親しくなりたい気持ちを抑えたりします。
周囲からは、内気で臆病で、孤独で、孤立した人だと思われがちです。
回避性パーソナリティ障害のある人は、本心では社交的な活動に参加したいと望んでいるのに、それができません。
誰かが少しでも批判的なことを言ったり、拒絶と受け取れる反応をしたりすると、過度に深刻にとらえ、とても傷ついた気持ちになります。
好かれていることや、批判されないことが確証されない限り新しい友人を作ろうとせず、繰り返し支持され、世話をされなくては集団活動には加わりません。
しかし、批判なしで受け入れられるという保証があれば、親密な関係をもつことも可能です。 DSM-5における注意欠如・多動性障害(ADHD:Attention Deficit Hyperactivity Disorder)の診断基準
A1:以下の不注意症状が6つ(17歳以上では5つ)以上あり、6ヶ月以上にわたって持続している。
a.細やかな注意ができず、ケアレスミスをしやすい。
b.注意を持続することが困難。
c.上の空や注意散漫で、話をきちんと聞けないように見える。
d.指示に従えず、宿題などの課題が果たせない。
e.課題や活動を整理することができない。
f.精神的努力の持続が必要な課題を嫌う。
g.課題や活動に必要なものを忘れがちである。
h.外部からの刺激で注意散漫となりやすい。
i.日々の活動を忘れがちである。
A2:以下の多動性/衝動性の症状が6つ(17歳以上では5つ)以上あり、6ヶ月以上にわたって持続している。
a.着席中に、手足をもじもじしたり、そわそわした動きをする。
b.着席が期待されている場面で離席する。
c.不適切な状況で走り回ったりよじ登ったりする。
d.静かに遊んだり余暇を過ごすことができない。
e.衝動に駆られて突き動かされるような感じがして、じっとしていることができない。
f.しゃべりすぎる。
g.質問が終わる前にうっかり答え始める。
h.順番待ちが苦手である。
i.他の人の邪魔をしたり、割り込んだりする。
B:不注意、多動性/衝動性の症状のいくつかは12歳までに存在していた。
C:不注意、多動性/衝動性の症状のいくつかは2つ以上の環境(家庭・学校・職場・社交場面など)で存在している。
D:症状が社会・学業・職業機能を損ねている明らかな証拠がある。
E:統合失調症や他の精神障害の経過で生じたのではなく、それらで説明することもできない 仲間が欲しいのに誰もいない「ひとり」が、「孤立」。
「ひとり」でいるのが寂しい「ひとり」が、「孤独」。
誇りのある「ひとり」が、「孤高」。
おまえは、
まだ自分の「ひとり」が
三つのうちどれに当てはまるのか、
わからないでいる。 上のは「疾走」からの引用。ラストにほんの少しだけ望はあれど、主人公は最後まで何一つ報われることもなく
どうにも救いのないこの話は得意ではないし読み返しもあまりしてない
重松清は「エイジ」からはまって初期から疾走までの大半とみぞれ、とんび、十字架を読んだ
この人の作品はあからさまなデウスエクスマキナ、超展開なんかがあってハッピーエンドとはいかず
なんだかんだフィクションだしその中の現実はリアルじゃない所も多々あるけれど
主人公達がそれと向き合いある程度の着地点に降り立つのが殆どで、そこが好きで読んでいた
だから疾走は描写があまりにもだしキャラや展開がテンプレすぎるとかいつも以上に色々粗が目立つ
それでも凄い作品ではあるのだけど
どうにもまたページをめくる元気はでない
そんな作品
(twitterにあったけど、「せめて漫画やゲームの中でくらい救いがあってほしいって願ってしまう」って感覚
だからゴールデンカムイも疾走のようなラストにはしてほしくない) 小説やドラマが基本的に嫌いなのはリアリティがなくて粗が目立つからなんだろうなあ
下町の工場がどうのこうのとかの作品も現実はボブスレー風の謎の物体になっちゃう訳でさ
気持ちよくなるためにはあり得ないものを描きますってのは気になってしかたがない
架空の外国人に日本を褒めさせたりとかもそうだな「日本にしかないスバラシイ!」って書かれてるものがその国でも当たり前だったり
(スッキリなんとかって番組が最たるもので気持ちよくなるために架空の話や登場人物を作ってるのがミエミエで白けるどころではない) それすら気にならない、もしくはリアリティを追求してる作品は凄いと思うし好き
ちなみに外国人の声を捏造しなくても日本にはいいところも糞なところもある
のに日本人は相変わらず「富士!桜!アニメ!寿司!」ばかり
例を出すと一蘭、日本人は海外に向けて豚骨ラーメンを奨めてたか?ってこと
彼らは自分達で良いものを見つけて共有できてる、よっぽど日本人の方が考えが硬直している
自分は旅行に行くときはバスツアーとか添乗員つきなんてもっての外で自分のいきたい所へ行く
ご飯もあからさまな観光客向けのところでは食べないようにしてる
地場の牛乳や醤油など目当てに現地のスーパーに行くけど
そこには観光客向けの土産屋にない、でもとても良い地域の商品があったりするけど別にプッシュもされてない
そういうところがズレているなといつも思う
でも日本人は添乗員つきの旅行で決められた場所を見て、土産物屋では他所で生産されたお土産を買い、地元民が愛する味でない物を食べって脳死してるから
押しつけ型が大好きなんだろうなあと
呆れる 昨日のニュース9でやっていた災害と観光を見て
災害時に日本人は声をかけるか?他人に干渉しない文化ではないか?
もちろん日本人が全員そうという訳ではない、英語やその他の言語が苦手だから
自分もそれどころではないから、などさまざまな事情もあるが
本当に分け隔てなく接せているのだろうか
(日本人と比較すれば避難生活や帰宅までの道のりも困難を極めるんだから)
うちの国はすぐIT技術に頼ろうとするのも悪い癖だ
(謎の機械で観光地を案内とか何ヵ国語もの音声ガイドとか、それ自体は素晴らしいが
他者に関わろうとしない性質がそこにはないだろうか?)
土産物屋のおばさんのようになれとは言わないが
(彼女たちは金のためであるが、そこら辺は貪欲だ)
話しかけられたら拒否したり逃げたりせずなるべく応じるようなそんな姿勢は必要だと思う
後半はまだ関空が元に戻ってないのだから「欠航してて行けない」「他の経路では目的を果たせない」からキャンセルが相次いだという内容
復旧するまで一時的に観光客が減るのは当たり前の話なのに
なぜ「大阪では観光客離れが起きている」ようにテレビでやったのだろうか
確かに観光で収入を得るのなら客の減少は死活問題であるが、そういう波は(災害に関わらず)あるものだし
キャンセルは相次いでいるが、また機会があったら来てください、その時までには復旧しますで良いと思う話 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています