Aleph 庚
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「心の病」20〜30代に増加
バブル景気真っただ中の1988年、父の日にちなんで始まった「過労死110番」。
長時間労働の末に、一家の大黒柱が過労死した遺族の訴えが多かったが、
今は20〜30代の若者を過労による「心の病」で亡くした親からも届く。
この電話相談が30年間必要とされ続けているのは、職場の深刻な実態が
変わっていない裏付けでもある。 パワハラ・セクハラ背景
電話相談を運営する過労死弁護団全国連絡会議によると、
今年5月までに「110番」に寄せられた相談の累計約12,000件のうち、
労災補償は54%の約6,300件。
当時者の死亡事案は約3,800件あり、全体の32%を占める。
過労やストレスで持病の気管支ぜんそくが悪化し、
死亡したと認定した1999年の名古屋地裁判決など、
「110番」への相談をきっかけに労災認定を勝ち取った事例も多い。
「長時間労働による精神疾患で休職したが、復職後に自殺した」
「深夜まで働く息子から『死にたい』とメールが届いた」
相次ぐ悲鳴のような相談は今、20〜30代を当事者とするケースが増加。
開始当初はくも膜下出血など、40〜50代の脳・心臓疾患の相談がほとんどだったが、
長時間労働やパワハラ・セクハラなどによる「心の病」が若者たちに広がっているという。
厚生労働省によると、精神障害の労災認定件数は、
2010年度に脳・心臓疾患を初めて上回った。
16年度の労災申請は1,586件。
これに対し、認定は498件(認定率31%)で、うち自殺(未遂を含む)は84件あった。
同連絡会議の川人(かわひと)博弁護士は
「かつて一家の大黒柱を亡くした妻からの相談がほとんどだったが、
娘・息子を亡くした親からの相談が増えている」と語る。
近年は「名ばかり管理職」のように、管理監督者の身分にして労働時間規制を
取り払おうとする職場が多く、川人弁護士は
「過労死防止と補償のため、あらためて気を引き締めたい」
と話している。 害ある悪を捕まえるのは簡単だが、害ある正義を捕まえるのは難しい。 妄想は妄想のままが幸せなのは苦しいほどわかってるから、
実際に行動はしないよう今後もこころがけたい。
新幹線の犯罪者みてそう思った。 心はスプラッターハウスのリックテイラー。
サイコスリラーのような恐怖や狂気とか今時古いけど、
つまり私の性癖はその程度。 カラオケで歌える曲を発掘しようかと思ったが予想以上に疲れる。 私は1度立てたスレは1000まで使う義務があると思ってるが。 自己表現に行き詰ったら公園やゲーセンでもいいから散歩するしかないな。 身長コンプレックスかつ非異性愛という自己の感覚がどうしても忌々しい。 性愛性癖についても人が寄りつかない所にいる。
理解されない、いやされなくてもいい、
なにより理解させたくない、その方が都合がいい、幸せだ。
そんな思いで生きている。 だが今はその山の頂は低くなっていることが先の情報で認識している。
情報化社会のたまものだろう。 己が他者より特別だと優越感に浸っているのではないかという疑問も否定しない。 「社会に出る」とは、自己を何処かに隠して生きる事である。
自分の思うままにできるものなど存在しない。 己というこの世で最も得体の知れないものと格闘し、
それを乗り越えることが我ら青年の特権である。 なんでみんな作品を創り出す時、転ばぬ先の杖のマニュアルみたいな物を作れるのか。
先駆者はとても素晴らしい。病気にならない人は天才だ。 多くの人は、個性とは「自己主張」の事だと考えている。
自我の確立こそが、個人の完成であり、そこに人それぞれの色合いが生れる、
と信じているのである。 こうした考え方に慣らされてるために、それが個性だと思っているのではないか。
佛教では、これを「小我(しょうが)」と呼ぶ。
小我は、人が人として生きるために克服せねばならない最も忌まわしいもの、
とされているのである。 つまらない自己主張を止め、すなわち、小我を克服して、
努力を重ねた末に、その人の本来持っていた良い面が、
自然に表面ににじみ出てきたもの、それが人の個性である。 自己主張の無限循環から逃れて、深く静かに自分を鍛え、
どの一日も短かったと思えるように精進する。
その結果、ごく自然に自分の持って生れたものが表面に現れてきて、
他の誰とも違う充実した人生を歩めるのである。
これが東洋の智恵であり、我々が先祖より受け継いできた、
米国人には決して真似のできない大いなる特徴なのである。 周りに少々「恵まれた人」がいたとしても、
それは「天がその人の能力を過小評価しただけの事」と思えばよろしい。
本物の「自分らしさ」「個性」「自由」とは、宿命を受け入れ、
その輪郭を明確に認識して、それを己の中に取り込むことからのみ生れるのである。 空腹を紛らわすために牛乳1杯半、そしてレンドルミンを飲みました。
そろそろねるホ、おやすみー (,' 8 自分らしさを求めすぎている。
他人にその「らしさ」の了解を求めるなんて迷惑千万だ。 もうこれ以上誰かに了解を求めたくない。
でも寂しくなり、逃げ出したくなり、結局求めてしまう。 虚数の情緒第一部を自分のものにするために何度も読んでる。 今読んでるもの
・虚数の情緒
・気になる人のブログ
・ナルト迅雷伝 迅雷伝終わったらPS3うみねこ本格的に読もうかと。
ただ散から入ったので、無印にはあまり興味わかないのだ。
EP6まで読みたいが、そこまでいくのにかなり時間かかりそうだ。
そもそも散クリアに半年くらいかけたからな。 失う物がないやつの犯罪は無敵ってのはよく言うことだが、そういう連中を減らす為に社会保障に注力するべきってのは正しいと思うな
相当に難しい話だが、政府がアナウンスしてもいいような話だと思う
こういう事件が起こる度に安倍のせいだなんて言うやつが出てきそうだが だがな、いずれ大切なものは生まれてくるんだぜ。
一歩が大事なんだよ。障害年金もらってるなら、仕事できないなら、
それに見合う投資はしとけ。けっして株じゃないよ。
変わるから。新興宗教に入るよりはマシだよ。 アーケードモードのストーリーは当時ゲーセンでやってた頃は、
リアルにも影響受けたが、今やると理解できないわ。
「神なき世界」を創るに、臨場感高まった覚えがあるのにな。 特に時事性の強いメディアはもう不可能なのだろうか。 ニュース聴いても読んでもさめるし、
そりゃ米朝首脳会談は驚いたけど、
実際はパフォーマンス的で真新しい情報は得られなかったし、
まあその辺は自分の至らない点でもある。 「推論をする」、即ち、論理的にものを考えるには、
「帰納的方法」と「演繹的方法」の二種がある。
ここで、それぞれの手法の特徴を調べておこう。 論理学では、独立に発見された「真理の断片」から、
全体を統一する原理を見出していく方法を「帰納法」
反対に、基本的な原理から諸現象を記述する法則を導き出す手法を「演繹法」
と呼んでいる。 「ニュートン」を例に採ろう。
ニュートンは、「ケプラー」が発見していた三つの法則を、
帰納的な考え方で整理し、万有引力という根本的な法則に至り、
逆に、自身の原理に従って演繹的にケプラーの法則を導き出したのである。 ここで特筆すべきは、彼は単に自らの法則から、
ケプラーの諸結果を再確認しただけではなく、
そこには含まれない新たな結果、
即ち「ケプラーの第一法則」――楕円軌道の法則――
には含まれない、「放射線軌道」及び「双曲線軌道」
の存在を数学的に導き出した点である。 斯(か)くの如く真理は帰納と演繹の繰り返し作業の中から、
次第次第にその姿を現してくるのである。 個別に発見された自然の法則の中から、
より基本的なものを発見(帰納法)し、
更にそこから他の法則を順に導き出せる(演繹法)体系を作るためには、
先(ま)ず諸現象を整理し数学的に表現する必要がある。 文章による記述から、この様な基本的法則を嗅ぎ分ける事は、
殆(ほとん)ど不可能であろう。 如何に注意深く書かれた「文章表現」も、
推論のための機能、即ち帰納し演繹する能力は極めて貧弱なものである。 何と言っても数式の記述に、的確さに於(お)いても、内容の豊かさに於いても、
並ぶものではない。 余程内容の乏(とぼ)しい「痩せた数式」でもない限り、
その内容を完全に文章に移す事など全く無理な注文なのである。 逆に、推論を行わない場合、即ち、述べられた内容、唯それだけを単純に丸暗記する形で扱い、
内容相互の関係などを問わない場合には、文章で記述する方法が意味を持つ場合があるかも知れない。 然し、この様に、犯人を最初に教えて、箇条(かじょう)書きの如く内容の進展を述べるだけのものが、
推理小説としてその役を果たしているか否かは疑問である。 物理学の面白さは、自然と直接に対峙し、それを問い掛け、推理し、
問題点を解決していく所にあるので、結果の羅列を丸暗記する所にあるのではない。 答えの明白な簡単な問題であっても、自らの手で推理し、犯人を追いつめ、逮捕する、
そこに他の学問では中々味わえない物理学特有の醍醐味が生じる。 帰納と演繹の話をした所で、私が数学や物理を勉強していく場合に、
どの様な考え方でこれに接していけば好いのかを考えてみよう。 最近は、小型で高性能な計算機が安く手に入るようになり、
小学校から教科に採り入れられる所も珍しくなくなった。 ところが、幾ら計算機が高性能になっても、
「計算は計算機に任せて、残った問題を考えよう」
とはならない所に、数学の面白さがある、難しさがある。 数学は計算でもあり、論理でもあり、言語でもあり、
様々な顔を持っている複雑なものである。 譬えば、今私の頭の中に突然素晴らしいアイデアが浮かび上がった、としよう。 それはあるかも知れないが、恐らく随分(ずいぶん)と抜け穴の大い粗雑(そざつ)なものだろう。 初めから完璧な論理を携(たずさ)えて登場してくるものなど存在し得ない。 それはある特殊な場合だけに成り立つ「真理の断片」、即ち帰納されるべき対象なのである。 この事から考えても、私は、先ずはこの「断片」を見つける行為に没頭すべきなのである。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。