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Aleph 庚
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0027kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:14:50.940
ところで、何レスまでが保守可能なのだ?
もう少し書いてみるか。
0028kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:21:20.690
【アイロニー】


ポイント:
 ぼくたちはいつも自分の思うとおりのことを言うとは限らない。
思っていることと反対のことを言ったほうが、
相手がぼくの言いたいことがわかったりすることもある。

これがアイロニーだ。
0029夢見る名無しさん
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2017/12/01(金) 07:23:13.640
黙れよ

もうそんな話聞きたくねえよ・・・

そういうの好きじゃない
0030kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:24:00.430
皮肉やあてこすりなども、アイロニーの一種と言えるだろう。
道路に唾(つば)を吐いた友人に、
「君はなんとも礼儀をわきまえているね」
と言ったとしても、うっかりすると相手には通じないかもしれない。
0032kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:28:19.390
それに濫用(らんよう)すると、嫌味な奴だと嫌われることもある。
もって回った言い方をしなくても、はっきり言ったらいいじゃないかと
反発されることもあるからだ。
なんとも言葉は難しい。
0033kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:33:38.600
切り口:
[産婆術]
自分の考えていることと反対のことを言うことで、いったいどんないいことがあるだろう。
このアイロニーという語が生まれた歴史的な背景を考えてみると、
アイロニーを使うことは、相手にものを考えさせるすべとなることがわかる。
0035kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:35:47.110
古代ギリシアの哲学者のソクラテスはポリスで知者として
知られている人々を次々と訪問した。
0037kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:37:29.540
そしてたとえば美とはどういうものか、勇気とはどういうものか、
教えてほしいと頼んだのだ。
ぼくはまったく知らないからと。
0038夢見る名無しさん
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2017/12/01(金) 07:38:45.080
すべての人に対してそう。。

ある意味あなたの欠陥なんだろうとは思うし、
それがあなただから嫌い
0039夢見る名無しさん
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2017/12/01(金) 07:41:18.090
嫌いだけど、素晴らしい精神力とバランスと文句なんて
表立ってない行動力を持ってるよ
0040kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:41:42.610
 相手は勇(いさ)んでソクラテスに教えようとする。
すると知らないはずのソクラテスは、相手の言っていることに
矛盾があることを指摘する。

そして相手は、自分のうちに盲点があったこと、
知っていると思っていることを実はほんとうに知っていたわけではなかったことに気づくのだ。

ソクラテスはそのために「エイロニ」、
知っているのに知らんぷりをする奴と嫌われた。

ソクラテスが死刑にされたことの背景には、こうしたアイロニーの営みがあったわけだ。
0041kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:47:14.360
 でもこうしてソクラテスが作りだしたアイロニーという方法のおかげで、
そしてそれを記録した弟子のプラトンのおかげで、ポリスの住民たちと同じように、
ぼくたちは勇気とは何か、美とは何かをほんとうは知らないのではないか
という自覚に促される。

そして勇気とか美とかについて、自分でもう一度考えなおしてみようという
探究に誘われる。
これはアイロニーの力だ。

ソクラテスはアイロニーを駆使した対話によって、相手が知っていると思っていることを
実は知らなかったことに気づかせ、そこから真の知に向かって進ませようとした。

そして自分のことは真理を生みだすために手を貸す産婆のようなものだと考えていた。
アイロニーは産婆術でもある。
0042kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:49:56.360
[真の認識]
 ところでアイロニーには真理を生みだすだけでなく、
後になってその真理に気づかせるという皮肉な役割を果たすことがある。

たとえばぼくがそれまで長いあいだ親しくしてきた異性の友人に飽きて、
別れたいと思ったとする。そして
「こんな素敵な人と別れるなんて、ぼくはばかだよなぁ」
と言ったとする。
0043kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:54:04.240
 そのときぼくは本当に別れたいと思っているのだから、これはアイロニーの表現だ。
でも数年して、その人がほんとうにぼくのことを思って、
身をひいてくれたのだとわかったとしよう。
するとこのアイロニーの言葉は、実は真理だったことになる。

ぼくはその人と別れて、"ほんとうに"ばかだったのだ。
それがぼくの別れの言葉に含まれていたアイロニーなのだ。
こうしたアイロニーにおいては、見かけの表現と真実の事態が鋭く対立している。

そしてうわべだけの真実だと思われたことが、
実は真実だったことが明らかになるとき、
ぼくは自分の言葉のアイロニーの鋭さに大きな傷を負うことになる。
0044kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/01(金) 07:58:05.450
展開:

 このようにアイロニーには創造的な力だけではなく、傷つける力がある。
アイロニーには鋭い棘(とげ)があるのだ。
アイロニーを語る人は、相手よりも高い目線から語ることが多いものだ。

でもアイロニーで相手を諫めようとしても、相手が反発を感じて
背を向けてしまったら、意味はなくなってしまう。

そんなときには、相手と同じ目線で語ろうとするユーモアやウィットを
用いたほうがいいのではないか、と考えてみるのも大切ではないだろうか。
0046夢見る名無しさん
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2017/12/01(金) 12:46:35.450
伸びるリードが出てから、もうめちゃくちゃ。
道路や歩道全部使って散歩。
犬が死んでも良いって考えなんだろう。
0047kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 17:38:36.650
【アウラ】


ポイント:
 キリスト教の聖画を見たことがあると思う。
聖者やイエスやマリアの頭の上に丸い輪のような後光がさしているよね。
あれがアウラなのだ。

周りの人々には後光が描かれていないので、
どこにでもいる人のように見えるけど、
アウラがついていると、特別な人、なにかありがたい人のように見えるはずだ。
0048kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 17:42:19.370
切り口:
[個性]
聖者の絵では後光を書くことでアウラを表現することができたけれど、
現実の世界には後光をかついで歩いている人などいない。
でもぼくたちはある人とつきあっていて、その人に特別な力や強さを感じることがある。
その人が部屋に入ってくるだけで空気が変わってしまうという経験をすることがあるものだ。
0049kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 17:45:57.570
 これは個人的な愛着や印象だけに限るわけではない。
好きな人が部屋に入ってきたら、ぼくにとっては空気が変わるだろうけれど、
ほかの人にはその変化は感じられない。

アウラというのは、個人的な好みとは別に、
その人にかなり客観的に付着している力のようなものなのだ。

こうしたものをもっている人について、ぼくたちは
「あの人にはアウラ(オーラ)があるね」と認めるのだ。
ある種の強烈な個性でもある。
0050kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 17:49:52.260
[オリジナル]
アウラという概念は、ドイツの哲学者のベンヤンミン(1892〜1940)のおかげで有名になった。
だからアウラという語が使われているときには、ベンヤミンの文脈も考えておく必要がある。

ベンヤミンはオリジナルな芸術と、複製された芸術の違いを強調するために、
複製ではないオリジナルな絵画には、アウラがあるが、
それが画集のように複製されたものだと、
ほんらいの作品のもつアウラが薄れてしまうことを指摘したのだ。
0051kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 17:57:26.190
 もちろん絵画の複製では原本の作品の肌理(きめ)も筆のタッチもほとんど再現できない。
かつて見たオリジナルの作品を思いだすために役立つくらいなのだ。
世界で唯一存在する作品のもつ「後光」が欠けているのは間違いない。

ただしベンヤミンはこの概念でたんにオリジナルの作品が優れていて、
複製の作品は価値が劣ることを主張したかったわけではない。
現代社会における大衆化の進行という、必ずしも悪くない効果が
あることも指摘していることを忘れないようにしよう。

高価な絵は秘蔵されてしまえば人の目から隠されるが、
画集であればだれにでも手に入れることができるだろう。
芸術はアウラを失うことで、現代にふさわしい大衆的なものとなった
という側面もあるわけだ。
0052kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 18:01:58.120
[一回性]
アウラは芸術作品だけに登場するわけではない。
ぼくたちの生活においても、アウラが生まれることがある。
人間の生は一回限りで、二度と反復することができない性格のものだからだ。

たとえば秋の夕暮れに、真っ赤な夕日がつるべ落としのように沈んでゆくのを眺めながら、
二度と訪れないこの瞬間を享受することがある。
その瞬間に風景の中で自分の生の一回性を、まるで果物のように味わうことができるのだ。
その瞬間にぼくたちの生はアウラで満たされる。
0053kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/02(土) 18:06:21.060
 このアウラは時が経っても消えないことがある。
夕日を眺めたのが、15歳の秋の法隆寺でのことだったら、
そしてその隣に大切な人がいたら、ぼくはその瞬間のことを
一生涯忘れないだろうし、その時刻の味を繰り返し味わうことができるだろう。

一回限りの生においてアウラは身体のうちに刻印されて、
繰り返し享受することができる大切な記憶とともに残されることもあるのだ。
0054kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/02(土) 18:14:46.560
展開:

 ところで奇妙なことが発生する。
複製作品や技術的な工芸品でも、アウラが発生することがあるからだ。

ごく初期のコンピュータを考えてみよう。
博物館に収蔵されているコンピュータにはすでにアウラが発生している。
たとえばIBMがトイツで開発した初期のコンピュータは、まだ入力にカードを使う方式だが、
すでに歴史的な遺物としての雰囲気を漂わせている。

このコンピュータという量産品だけではなく、もはや稀少となった
このコンピュータの写真までが、不思議なアウラを放つのだ。

アウラのメカニズムにはまだ大きな謎が含まれている。
0056kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/03(日) 16:12:39.720
【アナロジー(類推)】


ポイント:

 アナロジーは、異なる事物の間に、類似した関係を探そうとする。
古代のギリシアでは比例の関係で考えた。
2:4=7:Xなら、Xが14であることは、すぐにわかる。
同じような方法で、世界のさまざまな事象を、自分にとってなじみの事物からの
類推で理解しようとするのがアナロジーだ。

世界の認識は、この類推から始まるといってもいいだろう。
アナロジーは世界を認識したいという人間の欲望の表現なのだ。
0057kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/03(日) 16:18:02.120
切り口:

[モデル]

 アナロジーは文学における比喩を作りだすだけでなく、
科学においても思考のモデルとして利用することができる。

たとえば原子核を取り巻く粒子の関係は、太陽系における太陽と諸惑星の関係を
モデルにして考えられることが多い。
そこでは中心にある重量の大きな物体が、重力を働かせて周囲の小さな物体をひきつけ、
回転させているからだ。

このアナロジーを宇宙に適用してみれば、その中心との距離と重力の大きさの関係から、
冥王星の行動を予測することなども可能になる。
アナロジーは科学において多くの発見をもたらす原動力となっているのだ。
0058kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/03(日) 16:27:46.580
[考えられないもの]

 アナロジーは、ふつうの手段では考えられないものを考える手段として使われてきた。
たとえば、『聖書』でふつうには理解しがたいことが書かれていると、
ぼくたちが理解できるものに類推して解釈する長い伝統がある。
ただ文字どおりに読むだけでなく、ほかのものにあてはめても読まなければならない
とされてきたのだ。
それだけではなく、理解できないという事実に注目するためにアナロジーが使われることもある。

中世のキリスト教の神学では、神はぼくたちのあらゆる認識と創造の力をもってしても
認識できないものだと考えられていた。
その神の孤立した威力を思考するために、
神学者たちは「神とは……でないもの」という思考方法を採用した。

神について、人間や事物の類推から、さまざまな概念をあてはめてみる。
そして神はつねにその概念を超越したものと考えるのだ。
神がそれをどのように、どこまで超越しているかを考えることが、
神の特性と威厳を考えるための手段となるのである。
0059kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/03(日) 16:30:54.620
 思考できないものを思考するために、まず類推関係を築き、
つぎにその類推関係がいかに成立しないかを考察し、説明する。
それが「思考できないものを思考する」ための方法だったのである。

ここではアナロジーは、高いところに登るための梯子(はしご)のように使われている。
最後の段を登りきったら、その梯子はもはや無用になるのだが、
そこまで登るためには、やはりその梯子が必要だったのである。
0060kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/03(日) 16:35:28.400
展開:

 この類推は、比例のように確実な知をもたらしてくれるわけではない。
つねに正しい結論が得られる論理的な推論ではないからだ。
比例関係であれば確実に答えは計算できるが、あるものに類似しているからといって、
つねにそのものと同じような性質をもつわけではない。

古代ギリシアの哲学者プラトンの好きだった類推の一つを考えてみよう。
プラトンは船長が船を操縦する技術と、政治家が国家を統治する技術は似ているので、
アナロジーで考えることができると語っていた。

でも航海術と政治の技術にどのような類似があるのか、
うかつに議論が進められないことはすぐにわかる。
0061kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/03(日) 16:38:40.460
 ぼくたちの認識はまず類推で動かされる。
それだからこそ、類推の危険性に自覚的であることが必要なのだ。

考えるときにはできる限り想像力を働かせて、豊富なアナロジーを試してみるべきだが、
そのアナロジーがもつ落とし穴には気をつけよう。
どこまで使えるアナロジーなのか、調べてみる必要があるというわけだ。
0062kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/03(日) 16:42:22.320
 たとえば人間の身体がアナロジーに使われることが多い。
王は人間の頭であり、国民は人間の手足のようなものだというアナロジーは、
哲学でも宗教でもしばしば用いられる。

でもこのアナロジーの裏側には、
王権の正統性というイデオロギーがはりついているのはすぐにわかると思う。

アナロジーは考えるための道具であるとともに、考える道筋をあらかじめ作ってしまって、
思考の自由度を狭くする場合もあるのだ。
0064kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/04(月) 05:38:25.100
【異端】


ポイント:

 異端という概念は、正統という概念と切り離せない。
正統的な教えに反していると非難される異端があるためには、
正統がなければならないし、正統という概念が生まれるためには、
正統的でない異端が存在していなければならないはずだ。

正統は異端との戦いのうちで作られていくものであり、
定規で線を引くように、異端を区別する正統的な教えが
最初からあると考えるべきではないだろう。
0065kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/04(月) 05:46:41.300
切り口:

[宗教的な異端]

 異端という概念が西洋で確立されたのは、キリスト教の歴史において、
さまざまな教会会議での激しい論争のうちで勝利を収めた理論が確定される
ようになっていくプロセスの結果である。

何が正統と判定されるかは、その理論的な論拠だけでなく、
当時の政治的な背景にも大きく左右されることを忘れてはならない。

そもそも教会の会議を開催するのが、宗教的な権威ではなく、
ローマ皇帝という政治的な権威であり、
皇帝が何を支持するかが重要な役割を果たすこともあったのである。
0066kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/04(月) 05:49:21.360
 後からふり返ると、正統な教義がもっとも普通的なものに見えるとしても、
どのような視点から見るかで、普遍性そのものが変わってくるのだ。

異端とされたアリウス派が正統な教義として定められていたら、
その後のキリスト教の歴史も正統的な教義も
ずいぶん別のものになっていたことだろう。
0067kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/04(月) 05:54:34.950
[他の分野の異端]

 異端という概念はこのように最初は宗教的な領域で使われていたが、
やがて宗教以外の分野で主流派から逸脱する流れも異端と呼ばれるようになる。

政治の分野では、ソ連をスターリニズムが支配していた頃には、
スターリンの理論に抗する理論は異端とされ、多くの政治家が処刑されて姿を消した。
ナチス時代のドイツでも、ナチスの公的な理論から逸脱する派閥は異端として処分された。

文化大革命時代の中国で、毛沢東(もうたくとう)の理論から逸脱する政治家が処刑されたのは、
まだ記憶に新しい。
0068kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/04(月) 05:59:03.360
 芸術の分野でも、その時点の主流派に対抗する流派は異端と呼ばれることになる。
古典派の絵画が主流だった19世紀半ばには、風景のまったく新しい見方を示した
印象派の画家たちは、異端として主流の展覧会から排除されたのだった。

ただし絵画や文学などの世界では、異端的な流派は新しい革命的な力を
そなえたものとして積極的に評価されることもある。

異端は正統という、こりかたまった既成の体制に攻撃を加え、
新しいものを創造する力となることもあるのだ。
0069kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/04(月) 06:05:51.890
展開:

 正統と異端というものは、一つの制度への対応として考えるとわかりやすい。
ある制度として確立されたものは、その中心的なものを正統として表現することになり、
これに反するものは、異端として排斥される。

しかし異端にはこの制度を改造し、作り直していく要素がつねに含まれているのである。

既存の制度がその正しさと強さを輝かせるかに見えるとき、
その制度のうちに慣性のようなものが発生して、変化に抵抗するようになる。

正統として確立されたもののうちは、
制度の変革の芽をつねに摘んでしまう習慣が形成される。

制度のうちに多様性をもちこみ、正統とされたものを相対化することができるのは、
異端的な流れでなければならないのである。
0070kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/04(月) 06:09:25.290
 ところで異端にはいくつかの落とし穴があることに注意しよう。
まず異端的な思想のうちには、異端であることで満足してしまう危険性がある。
あえて異を唱えることで満足してしまう危険性がある。
あえて異を唱えることに、存在理由を見いだす傾向が生まれることがあるからだ。
そして正統のもつ力を認識することができず、異端であることだけに
甘んじてしまうのである。
0071kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/04(月) 06:12:38.490
 また異端であることは、正統になるための手段とされることもある。
みずから正統とされることだけを目指したり、
あるいは異端の流派の内部で、正統と同じふるまいを再生したりすることがある。

異端の流派が他の流派を排撃する方法が、
正統の流派とまったく同じであることも珍しくないのである。

巧みに異端であること、それもまた困難なことである。
0072夢見る名無しさん
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2017/12/04(月) 12:26:40.470
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0074kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/05(火) 07:26:55.840
【一元論と二元論】


ポイント:

 一元論と対立するのは二元論ではなく、多元論であるというべきかもしれない。

一元論とは、世界のすべてをある一つの原理で説明することができるという思想であり、
多元論とは世界のすべての現象は複数の原理で説明しなければならないという思想だからだ。

二元論は多元論の一つにすぎないとも言えるわけだ。
しかし二元論はプラトン以来、哲学の重要な思考方法となってきた。

ある意味ではぼくたちの思考に住みついた考え方なのだ。
0075kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/05(火) 07:35:01.920
切り口:

[哲学の歴史]

 哲学の歴史が始まってからというもの、哲学は一元論にとりつかれてきたと言ってもいいかもしれない。

哲学の「祖」と言われるタレス(前六世紀)は世界を「水」であると断言した。
それまでは世界のさまざまな事象を説明するのはギリシア神話の役割であり、
自然の現象もゼウスをはじめとした神々の行為として説明されてきたのである。

たとえば人間は、運命を司る女神アトロポスが糸を切る瞬間に死ぬことになっていたのである。
0076kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/05(火) 07:42:34.080
 しかしタレスの「水」から始まって哲学者たちは、
世界を一つの抽象的な原理で説明しようと試みた。

あるものは世界は「火」であると語り、
あるものは「存在」という一なるものだと考えた。

この一元論的な説明は、天の一者からすべての世界が流れだしたと考える
プリティノス(205〜270)の新プラトン主義の哲学などにも引き継がれる。

歴史の全体を「絶対的な精神」が実現するプロセスと考えたドイツ観念論の代表である
ヘーゲル(1770〜1831)の弁証法の哲学も、歴史を動かす要因を経済的なものに見定めようとした
マルクス主義の唯物論(ゆいぶつろん)も、同じように一元的な説明を試みる思想だといってもいいだろう。
0077kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/05(火) 07:50:58.000
[二元論の魅力]

 しかし世界を一つの原理だけで説明するのはかなりの力技ともいうべきものである。

「万物は流転する」とヘラクレイトス(前六世紀)が語ったように、
この世界は変化の絶え間ない現象の世界であり、
この変動し続ける世界を一つの原理だけで説明するのは困難に思えるからだ。

そこで登場したのが、流転する現象の世界と、
変化しない理念(イデア)の世界を対立させるプラトンの哲学だった。

プラトンはこの変化し、生成する世界の背後に、変化と生成を可能にする不変の世界が存在すると考えた。
変動する世界も、このイデアの世界を模倣することで可能となると考えたのだ。
0078kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/05(火) 07:57:52.880
 この二元論という思考は、イデアを「精神的なもの」、
変化する世界を「身体的なもの」と考えることで、心身二元論を生みだす原動力となった。

ぼくたちの精神は身体という牢獄にとどまっているが、
死とともにこの身体を離れて、イデアの世界に帰還することができるかもしれないと考えたのである。

近代の哲学の土台を築いたデカルト(1596〜1650)も、思考する精神こそがもっとも確実なもので、
身体は物にすぎないと考えた。
0079kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/05(火) 08:03:10.950
 ぼくたちには、自分の身体とは別に精神というもおがあると考える癖がある。
これはどこの文化にも見られる共通した思考習慣であり、そのことは否定できない。
だから二元論という思考はどうしても捨てがたいのだ。

精神と身体だけではない。
ぼくたちの思考の習癖となっている二元論的な対立には、
善なるものと悪なるもの、光と闇、実在と仮象(かしょう)、絶対者と絶対でない存在、神と人、エロスとタナトス
など、さまざまな対立関係が思考の枠組みのように使われるのである。
0080kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/05(火) 08:11:15.660
展開:

 一元論は、奇抜(きばつ)な議論を展開するには魅力的な方法になる。
なじみの世界が二元論的なものだけに、それを貫く一つの説明原理を提示することは、
この多様な世界を理解するためにとても役立つことだからだ。
そこではぼくたちの想像力と構想力が試されることになる。

一方では二元論は使いやすいものであるだけに、つい安易に用いてしまう傾向がある。

人間の世界は善悪だけで語ることはできないはずだとはよくわかっていても、
善玉と悪玉の対立構図はすっきりする。
それだけに二元論の枠組みのもつ安直さをどう補っていくかという工夫が求められる。
0083kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/05(火) 18:06:19.960
別の読み物に集中しているのでこちらのチェックが疎かである。
平衡してやるのは(頭に湯気出るくらいなので)まだ難しい。
0084kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/06(水) 05:22:41.870
【イデオロギー】


ポイント:

 イデオロギーは辞書では「人間の行動を支配する根本的な考え方の体系」
として説明されているが、否定的な意味で使われることが多い。

マルクス(1818〜83)は、さまざまな理論が科学的な装いのもとで、
資本主義の支配体制を擁護することを暗黙のうちに目的としていると考え、
これをイデオロギーだと批判した。

たとえば古典経済学は数学を使った客観的な科学であることを自称しているが、
実は資本主義を擁護する機能を果たしているというわけだ。

イデオロギーが意識的な形で使われて,体制擁護を直接の目的とするときには、
デマゴギーと呼ばれることが多い。
0085kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/06(水) 05:26:27.420
 イデオロギーの特徴は、表面から見る限り、
特定の体制を擁護したり支持したりするものとは見えないことにある。

マルクスは、哲学のような普遍性を目指す理論も、
無意識のうちに体制を補強する役割を果たしていることがある点に注目したのだった。
0086kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/06(水) 05:34:59.440
切り口:

[諸刃(もろは)の剣]

 ある理論をイデオロギーであり、意識せずに特定の体制を擁護していると批判することは、
その機能が無意識的なものであることを指摘する限りにおいて、
諸刃の剣のような役割を果たすことに注目しよう。

それが無意識的なものであるということは、批判された側にとっては、
特定の体制を擁護していることを否定できないということである。

だからある理論をイデオロギーと批判する側は、
相手の反論を禁じてしまうことができるという優位を手にする。
0087kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/06(水) 05:56:08.370
 ところがこの優位はみずからに跳ね返ってくる。

その理論をイデオロギーだと批判された側は、
同じ論理をもって相手の理論をイデオロギーだと批判することができるのだ。
そして相手は、それに理論的に反論することができない。

マルクス主義はブルジョアジー(資本家階級)の理論をイデオロギーと批判したが、
すぐにブルジョアジーの陣営から、
マルクス主義こそがイデオロギーであると反批判されたのだった。
0088kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/06(水) 06:05:54.110
[終焉論]

 イデオロギー的な対立はもはや終焉を迎えたという議論が、
アメリカを中心として第二次世界大戦後から活発になってきた。

さらに冷戦が終わると、社会主義と資本主義のイデオロギーの対立という構図は
もはや無効になったことも、この終焉論を後押しすることになった。
もはやイデオロギーではなく、実証的な科学の時代となったというのである。

しかし、イデオロギーが終焉したという議論そのものがイデオロギーとしての
役割を果たす可能性があることから目を背けてはならない。

これは資本主義の論理が世界を支配しているという事実的な確認と、
それが世界を支配することが望ましいという倫理的な主張をともに含むものだからだ。
0089kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/06(水) 06:16:18.600
[イデオロギーの外部]

 このイデオロギーの理論については、
アルチュセール(1918〜90)の議論を忘れることはできない。

アルチュセールは、近代社会において人々が主体となるためには、
イデオロギーという枠組みを必要とすると強調したのである。

社会の中で生きるためにはさまざまな観念の枠組みを必要とする。
善悪、正義、責任などの価値判断そのものが、
こうした外部の枠組みのうちでしか形成されないのである。

一つの文化の中で生きるということは、
一つの価値体系のもとで生きるということであり、
それはだれもがあるイデオロギーの中で生きているということだ。

自分の議論にはイデオロギー的な要素はないと主張することは、
最悪のイデオロギーのうちに落ち込むことなのである。
0090kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/06(水) 06:22:18.520
展開:

 だからといって、自分の思考の枠組みそのものであるイデオロギーを
そのまま受け入れてもよいということにはならない。

ぼくたちが無意識的にどのような思考の傾斜の上に立っているか、
どのように考え、どのように判断する傾向があるか、
それが文化的にどのように規定されているか、
これを考えることは思考にとっての重要な課題だからである。

イデオロギーを単純に批判することも、そのまま受け入れることも、
みずから思考するという課題を放棄することにほかならないところに、
イデオロギーの難しさがある。
0091kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:09:19.370
【イメージ】


ポイント:

 イメージという語は広がりの大きな語だ。
像、表象(ひょうしょう)、印象などさまざまな意味で使われるので、注意が必要だ。

イメージは、ほんものでは「ない」という否定的な意味をそなえている。
「イメージだけでものを言う」というように使われると、
本質を理解せずうわべだけを見ていると非難していることになる。
イメージは表層にすぎず、本質はその背後に隠されているというわけだ。

しかしぼくたちが何かを認識するとき、物そのものを把握することはできない。
外界(がいかい)の事物を認識する手段は「像」としてのイメージなのである。
0092kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:17:44.330
切り口:

[模像(もぞう)]

 このように外界の事物を把握するには、事物そのものでなく、その「像」によらなければならない。
プラトンは変動するこの世界の事物は、そもそも真なる実在を模倣したものにすぎないと考えた。
机は机のイデアのイメージを分かちもつことで机になるのだというわけだ。
だとすると、机の像を描いた絵画(かいが)は、実在よりも劣った事物を模写したものにすぎないから、
模写の模写、事物よりもさらに劣ったものだというわけである。
プラトンはこれを「模像」と名づけ、物そのものから二重に離れていると考えた。
0093kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:22:47.100
[印象]

 世界をイデアとそのイメージという二元論的な対立で考えるこのプラトンの哲学は、なかなか魅力がある。
でも外界を認識するには、この「像」によるしかないのもたしかだ。

ぼくたちは生まれてから、自分の身体をもって知覚してきたことをもとにして、
世界について判断をするようになる。
だから人間の認識にとっては、事物のイメージこそがもっとも大切な意味をもつ。

人間の判断の根拠は知覚されたイメージだけなのだ。
0094kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:27:05.080
[思考停止]

 こうしてだれもイメージなしでは世界を認識することができない。
ただし、イメージというものが無垢(むく)ではないことにも注意しよう。

ぼくたちは見えるものすべてを見ているわけではないし、
存在しないものを見ていると思い込むことがある。
見たと信じ込んだことで、考えまで左右されることもある。
像にはつねにある思い込みがまつわりついていて、
同じものについてそれぞれが別の像を抱いているかもしれないのだ。
0095kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:32:51.690
 たとえば湾岸戦争のときに原油まみれた鳥の写真が人々の目を奪った。
あとでこの写真はメディアの操作による「でっちあげ」であったことが明らかになったが、
まっ黒に汚れて飛べなくなった鳥のイメージが、湾岸戦争の正当性と、
戦争と環境破壊についての考え方を決定してしまったのはたしかだ。

ときにイメージはぼくたちから自分で考える力を奪い、他者の思想が押しつけられることもある。
0096kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:39:49.590
[情報操作]

 またアメリカの同時多発テロの後、崩れるツインタワーの映像がテレビで何度も映しだされた。
たしかに繰り返し放映する価値のある映像だったが、ツインタワーがテレビの画面を占領することによって、
ある情報操作が行われていたこともたしかだ。

アメリカ国民は悲劇の感情と報復の意思とを二つながらに感じ続けたはずである。

さらにあの映像が流されることで、ほんらいなら映されるべきなのに、
無視されることになった映像も多かったはずなのだ。
0097kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:43:26.760
 アメリカの大統領選挙ではテレビ討論が重要な役割を果たす。

2000年に行われたゴア候補とブッシュ候補の討論では、
ゴアがこれみよがしに溜め息をつくたびに、票が減っていったという。

現代の政治の世界は、メディアにおける政治家のイメージが選挙を左右するほどに、
イメージの力は大きくなっている。
0098kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:46:18.040
展開:

 テレビや映画では、ほとんど見えないほどのわずかな時間だけ、
明確なメッセージを伝える画像を流すことで、視聴者の無意識に訴えて、
広告したり政治的なメッセージを伝えたりするサブリミナルという手法が利用されることがある。
0099kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/07(木) 07:47:38.290
 ぼくたちは無意識的な欲望には強く影響されるだけに、
思考の方向性そのものを決定してしまうイメージの力には
つねに警戒を怠(おこた)らないようにしたい。
0101kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 05:33:17.800
【隠喩(メタファー)】


ポイント:

 隠喩は比喩のなかではもっとも好まれるものだろう。
ここで主な比喩について確認しておこう。

あるものを「……のようだ」と直接に譬える直喩(ちょくゆ)だ。
「光陰矢のごとし」というのは、過ぎ去る時間の速さを飛び去る矢で譬えたものだ。

部分的なもので全体を代表させるのが換喩(かんゆ)だ。
新聞などではよく「ワシントンによると……」という表現を目にする。
これはワシントンというアメリカの都市がメッセージを発したのではなく、
アメリカ政府をその首都名で示したものだ。

また隠喩は、「……のようだ」と直接に語るのではなく、
それに類似したもので語る。
少女の涙を桜の花に譬えたとき、少女の眼から風もなくはらはらと薄いピンクの桜の
花びらが散り始めるかのような像が浮かびあがる。
0102kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 05:41:38.390
切り口:

[起源]

 隠喩は詩の作品で使われることが多い。
だから日常の散文的な言語にとっては、隠喩は付随的なもの、
なくてもかまわないものとされることが多い。

隠喩を使わなくてもコミュニケーションできるのはたしかだろう。
ただ隠喩というものはたんにあるものを別のものと比較して、
そこになかった像をつけ加えるということに限られるものではない。
語そのものに、隠喩としての性格があるのではないだろうか。
0103kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 05:46:29.830
 たとえば「魂」という語を考えてみよう。
昔の日本人は、人間には生命の源のようなものが宿っていて、
これがなくなると死ぬと思っていた。それが「たま」と呼ばれた。
この語が使われるとき、隠喩の機能が働く。
桜の木を桜と呼ぶのとは違って、はっきりと特定できる対象はないのに、
命の源のような存在を想定したからだ。
0104kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 05:58:21.010
 そしてさらにこの語の隠喩的に使ってさまざまな語が作られる。
ひどく驚くと「魂消る(たまげる)」というし、改心したときには「魂を入れ替える」という。
魂がまるで火のように、あるいは取り出して新しいものに変えることのできる
もののように考えられているのだ。

だとすると隠喩は言語の付随的な機能ではなく、
もしかすると言語の根っこのところにある起源のようなものかもしれないのだ。

だから隠喩は詩人だけのものではなく、
言葉が生まれるための原初的な体験そのものを指しているのかもしれない。
0105kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 06:02:20.390
[働き]

 隠喩はさらにぼくたちの思考方法を規定することがある。

たとえば指導する者を「頭」と呼び、使われる者を「手足」と呼ぶような比喩は多い。
人間の身体は隠喩の源泉でもあるのだが、それがぼくたちの思想を
規定してしまうことも考えておくべきだ。
0106kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 06:09:21.920
 また時を川のような流れで譬えることがある。
そうすると、時間は一方向に流れ去るものというイメージが生まれる。
するとぼくたちはもはやこのイメージでしか時間について思考できなくなる。

古代ギリシア人たちは、星の回転運動を観察した結果、時間を円でイメージしていた。
そして歴史は繰り返すものだと信じていた。

しかしいまやぼくたちにはそのような思考ができなくなっている。
それほど隠喩のもつ力は大きいのだ。
0107kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 06:13:48.930
[別の思考]

 反対にぼくたちは、隠喩の力で思考することもできるのではないだろうか。

ぼくたちになにかがひらめくとき、それは論理的な推論によって生まれたものではなく、
アナロジーや隠喩の力によるところが大きいのだ。

光を波の比喩で考えるのと、粒の比喩で考える二つの方法がある。
どちらも光の性質について多くのことを教えてくれる。
0108kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/08(金) 06:22:02.650
展開:

 だからぼくたちは隠喩の力を活用するとともに、
隠喩が歴史的・文化的なものとして形成されてきたものであることも忘れてはならない。

真理を太陽の光でイメージするように、西洋の思考方法は西洋の伝統的な
隠喩の力で規定されているのだ。このことを自覚することは大切なことだ。

西洋の思考の枠組みを作りだしているもの、
西洋の思考の運動を背後で動かしているものがわかれば、
その思考方法につきものの落とし穴に落ちることを避けられるかもしれない。

反対に日本に特有の思考方法につきものの隠喩を理解することができれば、
ぼくたちの思考方法につきものの落とし穴のありかを見分けることができるかもしれない。
0111kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/22(金) 10:21:07.780
【エゴイズム】


ポイント:

 ぼくたちはだれもが自分のことをかけがえのない人間だと感じたがっている。

このぼくは世界のうちでただ一人しかいないのだし、
ぼくが死んだらぼくにとっては世界も同時に消滅するからだ。

エゴイズムとは、自分にとって自分だけが重要だと考えるもので、
心理学的にも十分な根拠がある。
0112kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/22(金) 10:32:46.800
切り口:

[自己愛と利己愛]

 ところがエゴイズムというのは、ふつうは非難の言葉として使われる。
自分を大切に思うことが、非難されるふるまいとなるのはどこからだろうか。
この問題を考えるには、18世紀のフランスの思想家ルソー(1712〜78)のように、
自己愛と利己愛を区別してみるといいだろう。

自己愛というのは、存在し続けようとする自己への愛情であり、
これを失うことは、その個人にとっては生きることの意味を失うことであり、
精神の病の兆候とも言えるものである。

ところが利己愛というのは、自分にとっては他人のことはどうでもよいと考え、
自分の利益だけを重視することだ。

エゴイズムにはほんらいはこの二つの側面が含まれるが、
利己愛と同じものとして考えられると、非難するための言葉となってしまうわけだ。
0113kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/22(金) 10:36:33.540
 問題なのは、人間にとって自己愛は大切だが、それだけでは生きていけないことにある。
人間はだれもが最初は「寄る辺なき存在」として生まれる。
他人の助けなしにはそもそも生き延びることもできないのだ。

だから自己愛を実現するためには、他者の助けが必要であり、
他者への愛が支えとなっているのである。
その意味ではこの他者愛も、自己愛の一つの形である。
0114kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/22(金) 10:43:26.960
 しかし利己愛の場合には、この他者への愛情の向け換えが
あまりうまく行われていないと考えることができる。
自己への愛情が強くなりすぎると、他者をたんに自己の利益の手段
としてしか見なされない場合もある。

これがエゴイズムの非難されるべき形である利己愛として示されるのだ。
0115kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/22(金) 10:54:01.020
[エゴイズムの矛盾]

 エゴイズムの利己愛はこのように他者を自己の手段としようとする。
しかしそのことが他者にも明白になってしまうと、それはエゴイストにとっても損失である。
だからどこかで妥協しなければならないわけだ。

ぼくたちは社会のうちで、家族、友人、同僚たちなど、
さまざまな人々との関係のうちに暮らしている。
ぼくたちはいわばこの関係の網の目であり、
この網の目がとぎれてしまったら生きていくことができない。

エゴイズムはしかし、網のすべての糸を少しだけ自分のほうに引っ張ろうとする。
ただ、ちょっと力をかけすぎると、糸は切れてしまうものなのだ。

エゴイズムを貫くと、ほんらいの目的が実現できなくなるのが、エゴイズムの矛盾である。
0116kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/22(金) 11:00:33.160
展開:

 利己主義の反対は利他(りた)主義と呼ばれる。

動物たちがときに利他的な行動をすることが動物行動学の研究でも明らかにされている。
近くに危険な動物がいることに気づいた母親のヒバリは、うまく飛べないふりをして
雛(ひな)たちを逃がそうとする。
自分の命を危険にさらしてまでも子どもたちの命を救おうとするこの行為は、
動物が利他的な行動をする証拠とされてきた。
0117kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/22(金) 11:06:42.020
 ただしこれは自分の生命をリスクにさらしても、
自分の遺伝子を守ろうとする行動であるという「利己的な遺伝子」
の機能によるものであるという理論が提示された。

生物は自分の遺伝子を保存することを第一の目的としており、
利他的な行動をするのも、遺伝子が利己的な行動をするからだということになる。
0118kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/22(金) 11:13:07.570
 これは利他主義のうちにも別の形で利己主義が潜んでいると考えるものであり、
動物の利己主義をさらに強調する考え方だ。

ただし人間や動物の行動には次元の違いがあることも忘れてはならないだろう。
ぼくたちは動物としてはもしかしたら遺伝子を守るように行動するのかもしれない。

しかし市民として、国民として行動する場合には基準が異なってくる。
遺伝子の利己主義的な解釈で、市民としての行動まで理解することができないのは
明らかだろう。
0119kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:02:18.460
【エコロジー】


ポイント:

 エコロジー生態学とも訳される。
人間を含む生物は、他の生物や自然の環境との相互作用のうちに存在している。
この関係を考察するのが生態学だ。
地球温暖化が重要な問題となりつつあるいま、
脚光をあびているといってもよいだろう。
0120kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:09:48.200
切り口:


[生態系]

 地球は自然にできた大きな温室のようなものだ。
気温は一定に保たれ、そこから脱出するエネルギーや物質は、
自然の力で細かにコントロールされている。
この緑あふれる惑星が存在し、ぼくたちがそこに生活しているうのは、
奇蹟のようなことなのだ。
0121kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:15:18.950
 この生態系のコントロールはしごく微妙なものであり、
地球を囲む大気から漏れだす物質やエネルギーが変動すると、
地球全体のバランスが崩れてしまいかねない。

いますぐでないとしても、ぼくたちの子孫の時代には大きな影響を及ぼすかもしれない。
それだけにぼくたちは気温やオゾンなどに注意を払う必要があるのだ。
生態系を考察するこの学問の重要性はそこにある。
0122kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:23:11.330
[生物のバランス]

 地球の生物の世界には微妙なバランスが存在している。
植物が光合成を行い、動物が植物を食べ、動物が動物を食べ、
そして死んで土に戻っていく。
この生物の生態系のバランスを崩すと、思わぬ被害が発生することがある。

たとえばそれまで生態系に生存していなかった動物を外部から持ち込むと、
生物のバランスが崩れることがある。

ブラックバスが池や湖を荒らしているのは有名だろう。
遺伝子組み換え大豆を導入すると、生態系に思いがけない変化が発生するかもしれない。
この病害虫に強い遺伝子をもつ大豆がむやみと繁殖し、
他の植物が生存できなくなることも起こりうるからだ。
0123kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/25(月) 08:27:22.220
 動物生態学や植物生態学などは、こうした生物のネットワークにも眼を注いでいる。

杉の木を無計画に植林したために花粉が大量に発生して花粉症が流行するなど、
ぼくたちに身近な問題にも取り組む学問なのだ。
0124kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
垢版 |
2017/12/25(月) 08:31:27.440
[環境保護]

 エコロジーは環境保護運動の重要な手段となる。
環境を保護するには、「環境にやさしく」という掛け声だけでなく、
生態系についての詳細な知識と学問が必要だからだ。

現在では環境保護運動とエコロジーがほぼ同じようなものと見なされる。

エコロジストというと、動物生態学や現地の生態系を研究する自然科学者ではなく、
環境保護運動家を意味するようになったのだ。
0125kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:33:53.900
 このエコロジー運動は、自然保護を訴えるあまり、ときに過激な主張を伴うことがある。

ディープ・エコロジーという理論は、人間ではなく環境を保護することを重視する。
人間の生活という観点からの環境保護運動を、人間中心主義として批判するほどだ。
0126kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:42:00.780
展開:

 エコロジー運動の背景にあるのは、人間と自然の関係についての哲学の長い歴史である。

ユダヤ・キリスト教の伝統では、自然とすべての生物は人間のために作られたものであり、
人間が生物を殺して食べることは当然のこととされてきた。
人間が自然に手を加えることも、人間の役に立つ限り許容されてきた。

キリスト教の伝統のもとで発達した科学と技術の力は、
自然を改造することで示されてきたのである。
0127kinchiku. ◆I9ED3mCq0U
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2017/12/25(月) 08:47:09.930
 しかしこの西洋的な科学と技術への信仰が、
自然環境を大幅に損ねていることが明らかになるとともに、
人間と自然の関係が考えなおされるようになってきた。

核爆弾の製造は、それまで存在しなかった原子を核分裂によって
人為的に作りだしたという意味で、科学による自然の改変を象徴する出来事だった。

そして遺伝子操作は、自然の遺伝子に手を加え、予想もつかない状態で招く
可能性があるという意味で、科学による生命の改変を象徴する出来事となる。

人間にもエコロジー的なまなざしが求められる。
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