Aleph 庚
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【隠喩(メタファー)】
ポイント:
隠喩は比喩のなかではもっとも好まれるものだろう。
ここで主な比喩について確認しておこう。
あるものを「……のようだ」と直接に譬える直喩(ちょくゆ)だ。
「光陰矢のごとし」というのは、過ぎ去る時間の速さを飛び去る矢で譬えたものだ。
部分的なもので全体を代表させるのが換喩(かんゆ)だ。
新聞などではよく「ワシントンによると……」という表現を目にする。
これはワシントンというアメリカの都市がメッセージを発したのではなく、
アメリカ政府をその首都名で示したものだ。
また隠喩は、「……のようだ」と直接に語るのではなく、
それに類似したもので語る。
少女の涙を桜の花に譬えたとき、少女の眼から風もなくはらはらと薄いピンクの桜の
花びらが散り始めるかのような像が浮かびあがる。 切り口:
[起源]
隠喩は詩の作品で使われることが多い。
だから日常の散文的な言語にとっては、隠喩は付随的なもの、
なくてもかまわないものとされることが多い。
隠喩を使わなくてもコミュニケーションできるのはたしかだろう。
ただ隠喩というものはたんにあるものを別のものと比較して、
そこになかった像をつけ加えるということに限られるものではない。
語そのものに、隠喩としての性格があるのではないだろうか。 たとえば「魂」という語を考えてみよう。
昔の日本人は、人間には生命の源のようなものが宿っていて、
これがなくなると死ぬと思っていた。それが「たま」と呼ばれた。
この語が使われるとき、隠喩の機能が働く。
桜の木を桜と呼ぶのとは違って、はっきりと特定できる対象はないのに、
命の源のような存在を想定したからだ。 そしてさらにこの語の隠喩的に使ってさまざまな語が作られる。
ひどく驚くと「魂消る(たまげる)」というし、改心したときには「魂を入れ替える」という。
魂がまるで火のように、あるいは取り出して新しいものに変えることのできる
もののように考えられているのだ。
だとすると隠喩は言語の付随的な機能ではなく、
もしかすると言語の根っこのところにある起源のようなものかもしれないのだ。
だから隠喩は詩人だけのものではなく、
言葉が生まれるための原初的な体験そのものを指しているのかもしれない。 [働き]
隠喩はさらにぼくたちの思考方法を規定することがある。
たとえば指導する者を「頭」と呼び、使われる者を「手足」と呼ぶような比喩は多い。
人間の身体は隠喩の源泉でもあるのだが、それがぼくたちの思想を
規定してしまうことも考えておくべきだ。 また時を川のような流れで譬えることがある。
そうすると、時間は一方向に流れ去るものというイメージが生まれる。
するとぼくたちはもはやこのイメージでしか時間について思考できなくなる。
古代ギリシア人たちは、星の回転運動を観察した結果、時間を円でイメージしていた。
そして歴史は繰り返すものだと信じていた。
しかしいまやぼくたちにはそのような思考ができなくなっている。
それほど隠喩のもつ力は大きいのだ。 [別の思考]
反対にぼくたちは、隠喩の力で思考することもできるのではないだろうか。
ぼくたちになにかがひらめくとき、それは論理的な推論によって生まれたものではなく、
アナロジーや隠喩の力によるところが大きいのだ。
光を波の比喩で考えるのと、粒の比喩で考える二つの方法がある。
どちらも光の性質について多くのことを教えてくれる。 展開:
だからぼくたちは隠喩の力を活用するとともに、
隠喩が歴史的・文化的なものとして形成されてきたものであることも忘れてはならない。
真理を太陽の光でイメージするように、西洋の思考方法は西洋の伝統的な
隠喩の力で規定されているのだ。このことを自覚することは大切なことだ。
西洋の思考の枠組みを作りだしているもの、
西洋の思考の運動を背後で動かしているものがわかれば、
その思考方法につきものの落とし穴に落ちることを避けられるかもしれない。
反対に日本に特有の思考方法につきものの隠喩を理解することができれば、
ぼくたちの思考方法につきものの落とし穴のありかを見分けることができるかもしれない。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【エゴイズム】
ポイント:
ぼくたちはだれもが自分のことをかけがえのない人間だと感じたがっている。
このぼくは世界のうちでただ一人しかいないのだし、
ぼくが死んだらぼくにとっては世界も同時に消滅するからだ。
エゴイズムとは、自分にとって自分だけが重要だと考えるもので、
心理学的にも十分な根拠がある。 切り口:
[自己愛と利己愛]
ところがエゴイズムというのは、ふつうは非難の言葉として使われる。
自分を大切に思うことが、非難されるふるまいとなるのはどこからだろうか。
この問題を考えるには、18世紀のフランスの思想家ルソー(1712〜78)のように、
自己愛と利己愛を区別してみるといいだろう。
自己愛というのは、存在し続けようとする自己への愛情であり、
これを失うことは、その個人にとっては生きることの意味を失うことであり、
精神の病の兆候とも言えるものである。
ところが利己愛というのは、自分にとっては他人のことはどうでもよいと考え、
自分の利益だけを重視することだ。
エゴイズムにはほんらいはこの二つの側面が含まれるが、
利己愛と同じものとして考えられると、非難するための言葉となってしまうわけだ。 問題なのは、人間にとって自己愛は大切だが、それだけでは生きていけないことにある。
人間はだれもが最初は「寄る辺なき存在」として生まれる。
他人の助けなしにはそもそも生き延びることもできないのだ。
だから自己愛を実現するためには、他者の助けが必要であり、
他者への愛が支えとなっているのである。
その意味ではこの他者愛も、自己愛の一つの形である。 しかし利己愛の場合には、この他者への愛情の向け換えが
あまりうまく行われていないと考えることができる。
自己への愛情が強くなりすぎると、他者をたんに自己の利益の手段
としてしか見なされない場合もある。
これがエゴイズムの非難されるべき形である利己愛として示されるのだ。 [エゴイズムの矛盾]
エゴイズムの利己愛はこのように他者を自己の手段としようとする。
しかしそのことが他者にも明白になってしまうと、それはエゴイストにとっても損失である。
だからどこかで妥協しなければならないわけだ。
ぼくたちは社会のうちで、家族、友人、同僚たちなど、
さまざまな人々との関係のうちに暮らしている。
ぼくたちはいわばこの関係の網の目であり、
この網の目がとぎれてしまったら生きていくことができない。
エゴイズムはしかし、網のすべての糸を少しだけ自分のほうに引っ張ろうとする。
ただ、ちょっと力をかけすぎると、糸は切れてしまうものなのだ。
エゴイズムを貫くと、ほんらいの目的が実現できなくなるのが、エゴイズムの矛盾である。 展開:
利己主義の反対は利他(りた)主義と呼ばれる。
動物たちがときに利他的な行動をすることが動物行動学の研究でも明らかにされている。
近くに危険な動物がいることに気づいた母親のヒバリは、うまく飛べないふりをして
雛(ひな)たちを逃がそうとする。
自分の命を危険にさらしてまでも子どもたちの命を救おうとするこの行為は、
動物が利他的な行動をする証拠とされてきた。 ただしこれは自分の生命をリスクにさらしても、
自分の遺伝子を守ろうとする行動であるという「利己的な遺伝子」
の機能によるものであるという理論が提示された。
生物は自分の遺伝子を保存することを第一の目的としており、
利他的な行動をするのも、遺伝子が利己的な行動をするからだということになる。 これは利他主義のうちにも別の形で利己主義が潜んでいると考えるものであり、
動物の利己主義をさらに強調する考え方だ。
ただし人間や動物の行動には次元の違いがあることも忘れてはならないだろう。
ぼくたちは動物としてはもしかしたら遺伝子を守るように行動するのかもしれない。
しかし市民として、国民として行動する場合には基準が異なってくる。
遺伝子の利己主義的な解釈で、市民としての行動まで理解することができないのは
明らかだろう。 【エコロジー】
ポイント:
エコロジー生態学とも訳される。
人間を含む生物は、他の生物や自然の環境との相互作用のうちに存在している。
この関係を考察するのが生態学だ。
地球温暖化が重要な問題となりつつあるいま、
脚光をあびているといってもよいだろう。 切り口:
[生態系]
地球は自然にできた大きな温室のようなものだ。
気温は一定に保たれ、そこから脱出するエネルギーや物質は、
自然の力で細かにコントロールされている。
この緑あふれる惑星が存在し、ぼくたちがそこに生活しているうのは、
奇蹟のようなことなのだ。 この生態系のコントロールはしごく微妙なものであり、
地球を囲む大気から漏れだす物質やエネルギーが変動すると、
地球全体のバランスが崩れてしまいかねない。
いますぐでないとしても、ぼくたちの子孫の時代には大きな影響を及ぼすかもしれない。
それだけにぼくたちは気温やオゾンなどに注意を払う必要があるのだ。
生態系を考察するこの学問の重要性はそこにある。 [生物のバランス]
地球の生物の世界には微妙なバランスが存在している。
植物が光合成を行い、動物が植物を食べ、動物が動物を食べ、
そして死んで土に戻っていく。
この生物の生態系のバランスを崩すと、思わぬ被害が発生することがある。
たとえばそれまで生態系に生存していなかった動物を外部から持ち込むと、
生物のバランスが崩れることがある。
ブラックバスが池や湖を荒らしているのは有名だろう。
遺伝子組み換え大豆を導入すると、生態系に思いがけない変化が発生するかもしれない。
この病害虫に強い遺伝子をもつ大豆がむやみと繁殖し、
他の植物が生存できなくなることも起こりうるからだ。 動物生態学や植物生態学などは、こうした生物のネットワークにも眼を注いでいる。
杉の木を無計画に植林したために花粉が大量に発生して花粉症が流行するなど、
ぼくたちに身近な問題にも取り組む学問なのだ。 [環境保護]
エコロジーは環境保護運動の重要な手段となる。
環境を保護するには、「環境にやさしく」という掛け声だけでなく、
生態系についての詳細な知識と学問が必要だからだ。
現在では環境保護運動とエコロジーがほぼ同じようなものと見なされる。
エコロジストというと、動物生態学や現地の生態系を研究する自然科学者ではなく、
環境保護運動家を意味するようになったのだ。 このエコロジー運動は、自然保護を訴えるあまり、ときに過激な主張を伴うことがある。
ディープ・エコロジーという理論は、人間ではなく環境を保護することを重視する。
人間の生活という観点からの環境保護運動を、人間中心主義として批判するほどだ。 展開:
エコロジー運動の背景にあるのは、人間と自然の関係についての哲学の長い歴史である。
ユダヤ・キリスト教の伝統では、自然とすべての生物は人間のために作られたものであり、
人間が生物を殺して食べることは当然のこととされてきた。
人間が自然に手を加えることも、人間の役に立つ限り許容されてきた。
キリスト教の伝統のもとで発達した科学と技術の力は、
自然を改造することで示されてきたのである。 しかしこの西洋的な科学と技術への信仰が、
自然環境を大幅に損ねていることが明らかになるとともに、
人間と自然の関係が考えなおされるようになってきた。
核爆弾の製造は、それまで存在しなかった原子を核分裂によって
人為的に作りだしたという意味で、科学による自然の改変を象徴する出来事だった。
そして遺伝子操作は、自然の遺伝子に手を加え、予想もつかない状態で招く
可能性があるという意味で、科学による生命の改変を象徴する出来事となる。
人間にもエコロジー的なまなざしが求められる。 これは人間が置かれている条件そのものを改変する営みにほかならないからだ。
ぼくたちがまだ経験したことのない新しい事態が生まれつつあるのである。
このため自然と環境に向かう姿勢が、科学の対象となる中立的なものではなく、
ぼくたちの生き方にかかわる倫理的な性格のものとなってきたのだ。 【エロス/タナトス】
ポイント:
エロスというのはふつう性愛という意味で用いられるが、
現代思想の分野ではもっと広く、生命保存の原理というほどの意味で使われる。
もともとはオーストリアの精神科医フロイト(1856〜1939)の精神分析において、
人間が自己を保存しようとする本能的な衝動をもっていることを意味する。 これに対してギリシア語で死を意味するタナトスは、死の欲動の原理である。
ぼくたちは自己を愛し、他者を愛する強い欲望だけでなく、
ひそかに自己破壊的な欲望に動かされることもあるのだ。 切り口:
[エロスとナルシシズム]
生命保存の原理としてのエロスには二つの側面がある。
自己保存という生物学的な欲動としての側面と、性愛という非生物学的な欲動としての側面だ。
まずぼくたちは生存するためにご飯を食べ、水を飲む。
規則的な眠りも必要だし、適度な運動も欠かせない。
食欲のような欲望はぼくたちが生物として生きるために必要なものだ。
この自己保存の欲動が欠如すると、生存できなくなる。 これに対して広い意味での性愛というものは、生物学的な必要性に基づいたものではない。
ぼくたちはペットに人間よりも愛着することもあるし、異性に対する愛情も
生殖の必要性に基づいたものではない場合が多い。
このエロスはときに幻想のような性質をおびるのであり、
異性そのものではなく、異性の頭髪や足に欲望を固着させる
フェティシズムのような倒錯を生むこともある。 ただこの二つは完全に分離できるものではないのがおもしろいところだ。
人間の自己保存の欲動はナルシシズムをそなえているのであり、
この自己保存の欲動なしでは生きていけないのである。
ところがぼくたちが社会で暮らしていくためには、
自分のナルシシズムの一部を外に向け、他者に向けることが必要となる。
人間の性愛は、他者に向けられたナルシシズムを起源とするとも言えるのである。 [タナトスとマゾヒズム]
フロイトはまた、人間には不可解な死の衝動とも言えるものがあることに注目した。
交通事故など生命を脅(おびや)かす経験をした人が、それを繰り返し夢に見ることがある。
フロイトは夢は欲望の充足(じゅうそく)だと考えていたから、
これを夢に見ることは死を欲望していることになる、というのだ。
密かな自殺欲望を抱えている人のいることは、よく知られているだろう。
ぼくたちには自分の死を望むマゾヒズムが存在しているのではないかと考えたのである。 またフロイトは孫の一人遊びを観察していて奇妙なことに気づいた。
孫は糸巻をベッドの下に転がしてはオーと言い、
糸をひいて糸巻を取りだしてはダーと言って遊んでいたのである。
オーが「いない」と意味すること、ダーが「いた」を意味することが確認された。 赤ん坊に「いないいないばあ」の遊びをすると、
ふつうは「ばあ」のところできゃっきゃっと喜ぶ。
しかしフロイトの孫は「いないいない」のところで喜んでいた。
フロイトはそのことを、その頃母親が外出がちだったことから解釈した。
孫は母親の不在に耐えるために、糸巻を見えなくすることで、
母親の不在を自分の力の及ぶものとして喜んでいるようだった。
孫は母親を象徴的に「殺して」いたのであり、そのことによって自分を苦しめながら、
喜びを感じていたとも見られるのである。 展開:
このようにフロイトは生の欲動であるエロスと死の欲動であるタナトスを対立させて考えたが、
ここには奇妙な逆説がある。
フロイトは、エロスは人間が愛しあう人と一体になろうとする欲望だと考えた。
しかし同時に死には、人間が誕生する以前の原初的な一体性に戻るという意味がある
とも考えたのである。
だとするとエロスの欲動も死の欲動も、失われた一体性を回復しようとする
衝動だということになる。
エロスとタナトスは、人間を動かすさまざまな欲望の二元論だが、
実は原初の状態への回帰という一元論的な欲望の二つの姿なのかもしれない。 【演繹/帰納】
ポイント:
演繹は帰納と一緒に考えてほしい。推論の二つの主要な型だからだ。
演繹するというのは、まず一般的な法則を立てて、
それを個別の事例にあてはめる推論のやりかただ。
帰納というのは、多数の個別の事例をもとにして、一般的な法則を定める推論だ。
一般的な法則に"帰って"くるので帰納だと覚えるといいかもしれない。 切り口:
[演繹]
演繹はまず一般的な法則を立てる。
「人間は死ぬものだ。ぼくは人間である。だからぼくは死ぬ。」
この三段論法は前提が正しく、ぼくが人間という集合に所属することが確実であれば、
かならず正しくなる。
演繹とは、正しい推論のことであり、論理学とは正しい推論について研究する学問のことである。 ただし問題なのは、演繹は絶対に正しいとしても、それは推論の形式だけの正しさであり、
内容の正しさではない。
ぼくがもしサイボーグであったならば、人間という集合に属するものであるか
どうかは定かではなくなる。
医学がさらに威力を発揮して、臓器を交換しながら不死を実現できるようになるかもしれない。
その場合には死の定義そのものが変わってくるので、論理的な形式は正しくても、
事態を正しく示す推論ではなくなるかもしれない。 あるいは推論の背景にあるゲームの規則を変えるだけでも正しさは失われる。
1+1=2というのは、十進法の計算であるという前提のもとでだけ正しい。
二進法では1+1=10と答えなければならなくなる。
論理的な正しさというのは、いくつもの約束ごとに守られている場合だけに言えることなのだ。 [帰納]
帰納は多数の観察例を集める。
カラスを観察し、一羽のカラスが黒く、二羽目も黒く、千羽目も黒いとすると、
すべてのカラスは黒いという推論を定めることができる。
しかしこの推論は演繹とは違って、絶対に正しいとは言えない。
推論の形式にその結論の正しさを証明する力がないからだ。
だから一羽でも白いカラスが登場すると、この推論は間違っていたことが明らかになる。
帰納はつねに誤りになる危険性に脅(おびや)かされた推論なのである。 しかし考えてみれば、物理学などの自然科学で真実とされている法則は
どれも多数の測定と観察に基づいて構築されたものである。
幾何学などは初めに公理を立てて、定理を定めて順に演繹していく。
だから前提さえ認めれば、絶対に正しい体系ができるはずだ。
しかし観察に基づいた法則は、その観察に反する事実が出てくれば、
それは間違っていることになる。
観察に反しなくても、その法則で説明できない事実が確認された場合には、
もっと別の法則に代えられる可能性もある。
ニュートン(1642〜1727)の物理学はずっと正しい体系だと考えられていたが、
アインシュタイン(1879〜1955)がこの物理学では説明できない事実を指摘し、
それを説明できる新しい体系を提示したので、絶対に正しい体系ではなくなったのである。 また帰納に関しては反証可能性という概念を考えておきたい。
科学と哲学の関係について考察したポパー(1902〜94)は、
一つの事実でその推論の正しさが否定されるという帰納の欠陥(けっかん)
を逆手にとって、反証できることが科学の資格だと考えた。
科学の世界である発見を行うと、他の科学者がそれを反復してみて、
それが正しいことを検証した場合に限って、その発見が認められる。
同じ実験をしてみて、その発見に反する結果が出た場合には、
それは科学的には否定されるのだ。
たとえどんな立派な体系でも、他の人々が反復してみて、
その正しさを確認できないものは、客観的に検証できる方法がないので、
科学とは認められないことになる。 「展開:」続き
精神分析では患者が否定するということは、
無意識のうちにそれを肯定していることだと考える。
マルクス主義にはイデオロギーという仕掛けがある。
どちらも客観的に検証ができない仕組みになっているのだ。
だからポパーは、反証できる仕組みをそなえていないものは
科学ではないと主張するのだ。 展開:
また帰納に関しては反証可能性という概念を考えておきたい。
科学と哲学の関係について考察したポパー(1902〜94)は、
一つの事実でその推論の正しさが否定されるという帰納の欠陥(けっかん)
を逆手にとって、反証できることが科学の資格だと考えた。
科学の世界である発見を行うと、他の科学者がそれを反復してみて、
それが正しいことを検証した場合に限って、その発見が認められる。
同じ実験をしてみて、その発見に反する結果が出た場合には、
それは科学的には否定されるのだ。
たとえどんな立派な体系でも、他の人々が反復してみて、
その正しさを確認できないものは、客観的に検証できる方法がないので、
科学とは認められないことになる。 精神分析では患者が否定するということは、
無意識のうちにそれを肯定していることだと考える。
マルクス主義にはイデオロギーという仕掛けがある。
どちらも客観的に検証ができない仕組みになっているのだ。
だからポパーは、反証できる仕組みをそなえていないものは
科学ではないと主張するのだ。 【概念】
ポイント:
概念という語は、形而上などと同じように、
中国の古い文献から取られたものだという意味で、ユニークだ。
概とは升(ます)で粉などをはかるときに、余った部分をかき落とす棒を指す。
その升にはいるものだけを集める道具なのだ。
概念は知覚した対象のさまざまな表象のうちから性質の違うものをふるいわけて、
共通なものを取りだすという役割を果たす。
また西洋の言語では、概念という語は「つかむ」という動詞から作られていることも
興味深い。人間は対象を概念によって認識するが、そのとき人間はそのものを
手でつかんでいると考えるわけだ。 切り口:
[普通名詞]
その意味で概念は、ときに具体物を表す普通名詞と同じように使われることもある。
石という普通名詞には石と石でないものを区別する定義が含まれているので、
こうした名詞も概念と呼べるのだ。
概念は存在する事物だけでなく、「判断」や「意思」など抽象的なものを指すこともある。 [普通と個別]
この概念をめぐっては、長い議論の歴史がある。
ソクラテスは美という概念の定義を追求したし、
プラトンはそれに美のイデアという存在を割り当てた。
プラトンは真の意味で存在するのはイデアであり、
美しいものは、その美のイデアを分けてもらっているので
美しく見えるのだと考えたわけだ。
美しいものははかなく脆(もろ)い。
しかし美そのものは衰(おとろ)えることも、汚れることもない。 このプラトンの考え方を言い換えると、美という普通的なものが存在するから
個別の美が存在するのであり、個別の美は普遍的な美よりも一段階劣ったもの
だということになる。
概念が実在するのか、概念は個別のものから作られた抽象的なものにすぎず、
実在するのは個別なのか、という問題が争われたのだ。 [普遍論争]
中世の哲学論争に幕を下ろしたのは実在するのは概念ではなく概念は「名」にすぎない、
実在するのは個別であるという結論だった。
近代は概念の優位が転落し、ぼくたち個々の人間の地位が確認された時代だった。
たしかに人間という概念がどこかに存在しているというのは近代的な視点からは
おかしく見える。
人間が一人もいなくなった地球では、人間という概念そのものが不要になって、
消滅するかもしれない。
しかし人間が一人でも生き延びていれば、この人間が自己を思考するために
人間という概念は存族するだろう。 ぼくたちの思考は抽象によって生まれる概念で組み立てられている。
概念的というと、ときに具体性に欠けるという否定的な意味を含むことがあるが、
人間がコミュニケーションをするには概念に依拠(いきょ)せざるをえないのだ。 展開:
ところでぼくたちはたんに「人間」や「自由」のような個別の概念で考えるだけではない。
さまざまな概念が生まれるにあたっては、ぼくたちが世界をどのように眺めているか
が大きな影響を及ぼしている。
森に生えている樹木(じゅもく)を「木」としか呼べない人と、
その森が食物(しょくもつ)と薬の宝庫に見える人では、
森と樹木の概念そのものが違ってくるはずだ。
どのような概念を作っているか、そしてそれらの概念がどのように結びついているかは、
世界の見方を大きく変えるはずだ。 この概念の枠組みは、時代と社会ごとに異なるものだろう。
世代を継承することを重視した中世のイエと現代の核家族のイエでは
大きな違いがあることは、「家」という概念が日本の社会のうちでも
変化していることを教えてくれる。
また同じ時代のうちにあっても、インドの社会とぼくたちの社会では、
思考の基盤となる概念の枠組みが微妙に違っているかもしれない。
もしかして同じ概念を使いながら、ぼくたちはかなり違ったことを
言っているかもしれないのである。
インドの「民主主義」の概念と日本の「民主主義」の概念が違うとしたら、
ぼくたちはほんとうにコミュニケーションできているのだろうか。
これは翻訳された概念がほんとうに同じものかどうかという疑問とともに、
普遍的な思考に対する信念を揺るがす問いと言わざるをえないのだ。 【仮象】
ポイント:
ぼくたちはどんなものでも、その「見える姿」からしか判断することはできない。
しかし見える姿がその真の姿と違うこともある。
そのとき、その見える姿を「仮象」と呼ぶ。
見える姿が真の姿、その本質から逸脱していると考えるからだ。
仮象にすぎないというのはつねに否定の言葉で、君は本質を知らないね、
と暗に言われていることになる。 切り口:
[錯覚]
仮象の一つである錯覚を例に考えてみよう。
たとえば真っ直ぐな棒を水の中にいれて横から見ると曲がっている。
いくら目を擦っても曲がって見えるのだが、水から取りだして見ると棒はやっぱり真っ直ぐだ。
ああ錯覚だったのだとそれでわかる。
棒が曲がって見えるのはたしかで、これは否定できない。 [人間に固有の仮象]
ところで錯覚は避けられないものだ。
水の中の棒はだれが見ても曲がっている。
どうやら錯覚という仮象は、人間という動物が地球という錯覚で
生きていくために必要な誤謬(ごびゅう)らしいのだ。
人間に固有のこうした仮象は視覚の世界だけではなく、
思想の世界にもある。 たとえば神が存在し、それを証明できるという議論は、
古代から西洋のキリスト教社会では長く続けられてきた。
人間は自由であるかという議論もそうだ。
宇宙には始まりがあったのかという議論も歴史が長い。
こうした議論はときに宗教的な論争になり、
哲学的な議論になり、科学的な探究の源泉となる。
そして決着がつかない性質のものだ。
カントはこうした議論のことを、人間の理性に固有の仮象と呼んでいる。
これは闇の中で縄を蛇と見間違えた仮象とは違う性質のものであり、
いわば生産的な仮象なのだ。 [二元論]
この外見と誤謬の関係は古代のギリシアの時代から考察されてきた。
ヘラクレイトス(前六世紀)のように、ぼくたちを取り巻く変化と運動の世界が、
世界の真の姿なのだと考えるべきなのか、それともプラトンが語るように
真の世界は不可視のイデアの世界であり、
ぼくたちの世界は仮象の世界にすぎないのだろうか。
この対立する視点から、一元論と二元論が生まれることはすぐにわかるだろう。
仮象という概念は、この二元論の世界観から生まれることが多いのだ。
一元論では仮象を否定するか、仮象と真の姿を和解させる方法を必要とする。 [本質の現れ]
一元論のように仮象を否定するのではなく、仮象が本質を誤認したものである
という考え方そのものを批判する議論がある。
本質という抽象的な概念は、そもそも概念としてしか考えることのできないものだ。
人間という本質はそのものとしては姿を現すことはできない。
君やぼくがいて、ぼくたちを抽象した概念として、人間という本質が現れる。
だから本質はつねに個別なもののうちにしか現れないのであり、
本質が現れるとき、それはつねにどこか歪曲(わいきょく)され、
ずれているに違いない。
本質は現れるときにはつねに仮象に見えるはずなのだ。 展開:
仮象という現れの「正体」を暴こうとすることで、
新しい認識が登場するという役割にも注目したい。
資本主義の社会ではお金に購買価値がそなわっているように見える。
また労働者は自分の労働力を賃金で等価交換しているように見える。
しかしこうしたものが仮象にすぎないことを明らかにしたのがマルクスだった。
仮象の働きを考察することで、資本主義のメカニズムが解明されてきたのだ。 また、仮象という語には否定的な意味合いがあるが、
これを否定的でなく語るときには、現象と呼ばれることが多い。
人間にとって現れるものという意味であり、
ときには人間が認識する対象を指すためにも使われる。 フッサール(1859〜1938)が始めた現象学という方法は、
人間にとってのこの現れを手掛かりに、
人間の認識の構造を探ろうとしたのだった。
人間はさまざまな偏見をもって世界を認識する。
これについては「現象」を参照してほしい。 【現象】
ポイント:
現象とは現れということであり、それは世界が人間に「像」として立ち現れることを意味する。
古代ギリシアのプラトンの時代から、見えるものとしての現象には仮象という性格と、
真理という性格があった。
プラトンは人間が認識できる現象は、実在そのものではなく、
実在の仮象にすぎないと主張していたが、
プラトンの真なる実在(イデア)、アリストテレスの形相(エイドス)という語はどれも
「見られたもの」という意味の語から作られている。
真なる実在は、見られた現象という意味から離れられないのである。
真なる実在とたんなる現れというこの現象の両義的な性格は、
現代にいたるまで続いている。 切り口:
[本質と現象]
現象の概念のこの両義的な性格をうまく表現し、現象とは別に実在そのものを示す本質
のようなものが真理として存在しないことを示した、ヘーゲルの現象についての考え方を紹介
してみよう。
たとえば光を考えてほしい。
光の現象とは、湖の表面が輝き、夕焼けで空が赤くなり、樹木(じゅもく)から落ちる木漏れ日である。
しかしこれらの現象の外に、光そのもののようなものがあるのではない。
光の本質は、これらのさまざまな現象としてそのまま現れているのだ。
君が詩人だとしよう。
君の詩人としてのほんとうの力は、書かれた作品のうちに現れる。
君が「ぼくはもっと優れた詩人だし、ぼくの力はこんなものじゃない」
と言い張っても、君の真の力は君の作品のうちに現れたものでしかないはずだ。
現れとは、実在そのものではないだろうか。 ぼくたちは、何か隠された物自体のようなものや本質的なものがあって、
それが人間に仮象である現象として現れると考えがちだ。
ところがヘーゲルは、本質というものは現象しなければどれほどのものでもないと考えた。
本質あるいは真理は現象として現れるというこの洞察は鋭い。 [遠近法]
すべてのものは人間に現象として現れるほかない。
そしてすべての人にとって、世界の現れは異なっているはずだ。
二人の人が同じ草原を眺めているとしても、すでにその位置が違うし、
その人の視覚能力が異なれば、見えかたも違うはずだ。
それに個人的な経験と記憶の違いで、その風景に別の思い出を重ねているかもしれない。
だから同じものを見つめる無数の視点があり、その視点ごとに違った現象が現れることになる。 ニーチェはこの視点の違いに注目して、人間のすべての価値判断の背後には、
それぞれの人間に固有の遠近法があるのだと考えた。
人間が何かを認識するというのは、その人の遠近法に基づいて世界を切りとる
ということであり、人間の眺めている世界のほかに、真の世界は存在しないことを指摘する。
知覚そのものに価値判断が含まれ、それが人間という種や、その人の個人的な経験によって
彩色されているというこの視点は、真理という概念を相対化するという機能を発揮した。 展開:
ところでヘーゲルの現象の概念をひきついだのがフッサール(1859〜1938)の現象学という学問である。
現象学ではぼくたちの知覚のうちに現れる現象しか信用しない。
人間の意識は意識する行為と意識される対象という志向性の構造をそなえている。
すべてのものがこの構造のうちで解明されるのだ。
カントは認識する人間の知覚と判断の構造だけに注目していた。
カントは認識される現象そのものの性質にはあまり興味を示さない。
ところが現象学では、人間が認識した現象の性質そのものと、精神における働きにまで目を向ける。 たとえばフランスで現象学を展開したメルロ=ポンティ(1908〜61)は、
知覚という行為がどのようにして人間にとって可能になり、
どのような構造をそなえているかを詳細に研究した。
二つの掌を合わせるという行為から、切断した脚にまだ痛みを感じるような出来事にいたるまで、
詳細に考察できるようになった。
怠惰について、眠気について、目覚めについて、人間のあらゆる行為をその現実の現れから
考察する方法を編みだした現象学という方法の用途は無限だといってよい。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ ■勉強法コラム
均衡ある演繹法・帰納法的学習
http://examics.web.fc2.com/column/how-to-study/deduction-induction.html
要約
勉強をする際には、問題を解くための前提となる一般的・体系的な知識と理論を身に付ける演繹法的学習と、
それらを個別具体的な問題を通じてその知識と理論を自分で扱えるようにする帰納法的学習を上手く組み合わせる必要がある。
演繹法的学習は知識や理論を自明であることを前提に一般化・体系化して統合していくインップット的学習である。
帰納法的学習は問題演習を通じて個別具体的な事項に分解する分析・観察力を養成するアウトプット的学習である。
前者はその性質故に時間をかけて勉強する割合が高くなるが、後者は一度解いた問題は何度も触れて経験を多く行うことが肝要となる。
いずれも短い時間でよいので定期的な復習を日々の学習に取り入れることが必要となる。
両学習法は別個に独立したものではなく相互に関連し合い補足する関係にあるため、
バランスよく目的意識をもって勉強することを心掛けなければならない。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【形而上/形而下】
ポイント:
これは「概念」という語と同じように、中国由来の言葉だ。
『易経(えききょう)』でこの二つの語は対比的に定義されている。
形而上とは道のこと、形而下とは器のことというのが定義だ。
道とは形がなくて、目で見ることはできず精神で認識すべきものであり、
器とは目で見えるもののことだ。
だから形而上とは精神的なものであり、
形而下とは物質的なものである。
でも現在は、形而上と形而下という形ではほとんど使われなくなっている。
形而上的という用語は、現実に即さない抽象的な思弁を非難するために
使われるにすぎないのだ。 糖質はラベルに過ぎないと話したが、
やはり糖質らしい糖質はいる。
気のせいなのに、私の個人情報垂れ流してると主張する云々。
俺みたいなのも糖質。
月末の夜更け、早朝に非通知で電話するやつ。
どういう思惑か知れないが、
関わらない方が身のため世のため人のためやぞ。 それともFB経由か?凝ったイタズラだな。
かれこれ一年以上にはなるんだぜ? それに私は寝ている時は電源を切るポリシーを持っている。
ので、確実に出れない。
掛けるとしたら昼間にすればいいのだがん。グレンラガン。 彷徨う子羊に関わること 〜「多数の幸福」と「一個人の幸福」
「100匹の子羊の群れのなかで、1匹の子羊が彷徨い苦しんでいる。
1匹の子羊に関わることが他の99匹の子羊に不利益を与えてしまう。」
このような状況の下で、私が羊飼いであるならどのような行動をとるだろうか。
人間の幸福とはなんだろうか、社会の幸福とはなんだろうか。
答えのない答えを求めた人間観。 敢えて単純で抽象的な問いを自分自身に問いかけてみた。 コインチェックが取引を一時停止 仮想通貨取引所大手
仮想通貨取引所大手のコインチェック(東京・渋谷)は26日午後、
取り扱う全通貨の出金を一時中止すると発表した。
ビットコイン以外の12種類の仮想通貨の売買も中止している。
仮想通貨「NEM」の不正送金が指摘されたことを受け、
原因究明のために全通貨の出金停止に踏み切ったとみられる。
コインチェックの取引の一時停止を受け、仮想通貨は軒並み下落した。
情報サイトのコインマーケットキャップによると、
NEMの価格は5時間で約2割、ビットコインも約1割下落した。 コインチェックの仮想通貨不正流出、過去最大580億円
仮想通貨取引所大手のコインチェック(東京・渋谷)は26日、
利用者から預かっている約580億円分の仮想通貨が外部からの
不正アクセスにより流出したと発表した。
2014年に日本のビットコイン取引所だった
「マウントゴックス」が約470億円分を消失させて以来、
過去最大の仮想通貨の流出となる。 同日都内で記者会見を開いた和田晃一良社長は
「このような事態になり深く反省している」と謝罪した。
現在は一部サービスを停止し、再開の見通しは立っていない。
26日午前3時前に仮想通貨の一種である「NEM(ネム)」
のほぼ全額が不正に外部に送金された。
同日午前11時過ぎに社内で異常を検知し、全通貨の出金を中止した。
NEM以外の仮想通貨の売買も中止している。
NEMの保有者の人数は確認中としているが、
保有者には補償も含めて対応を検討するとしている。
NEMを同社が外部のネットワークと接続できる状態で管理していたことが、
今回の不正流出につながった。
同社のシステムが、外部から不正にハッキングされて盗まれた可能性がある。 金融庁や警視庁には報告済みで、他の取引所にNEMの売買の停止を要請している。
「不正流出が財務に与える影響は精査中」(大塚雄介最高執行責任者=COO)
としている。
コインチェックはビットフライヤー(東京・港)などと並ぶ国内大手取引所の一角。
取り扱う通貨の多さを売りにして利用者を獲得。
口座数などは非公表だが「預かり資産は数千億円規模」(業界関係者)とされる。
17年4月の改正資金決済法の施行で仮想通貨取引所は金融庁への登録を義務づけられた。
コインチェックは関東財務局に登録を申請中だが、まだ審査を通っておらず、
現在は「みなし業者」の立場で営業している。 「ヤミ」は「ヒカリ」と融合したがっているのだヨ…。 見えない相手とのやり取りでしか人格を保てないアワレな男
fairじゃないのよ…Openmasturbationで他人の事なんて一切考えていないの
関わりたくない。精々Pandemoniumに苛まれてなさい! トランプ流サプライズ、米朝首脳会談を電撃発表
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長の提案を受け、米朝首脳会談に同意したトランプ米大統領。
米韓両政府による8日の電撃的な発表は米国の内外に衝撃を与えた。
自らの政権幹部や同盟国にも直前まで知らせず、
慎重論を押し切る「トランプ流」の最大級のサプライズとなった。
「これから韓国が重大な発表をするぞ」。
韓国特使によるホワイトハウスでの米朝首脳会談を巡る発表の約2時間前。
トランプ氏が突如、ホワイトハウスの記者会見室に現れて記者団にこう告げた。
記者団が「米朝対話に関することか」と尋ねると
「それよりもはるかに大きな話だ。信用してくれよ」と笑顔で語った。
オバマ前大統領ら歴代の米国の大統領は折に触れてこの場所で記者会見に応じてきた。
主要メディアを「フェイクニュース」などと攻撃し、敵対的な姿勢を示してきたトランプ氏が訪れるのは初めてだ。
重大ニュースがあることをあらかじめ「通告」し、北朝鮮問題での進展を予測していなかったメディア
の鼻を明かしてやりたいという心境がうかがえる。
ホワイトハウスは国防総省などにも事前に発表内容を伝えず、
同省関係者は「我々は内容を把握していない」と記者団に語っていた。
トランプ氏らごく少数の政権中枢の幹部しか内容を事前に把握していなかったとみられる。
米東部時間午後7時(日本時間9日午前9時)からの発表時間が迫ると、
一部の米メディアが「金委員長がトランプ氏を米朝首脳会談に招待した」と伝え始めた。
韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)大統領府国家安保室長が大統領執務室などがある
ホワイトハウスのウエストウイング(西棟)の前で発表したのは、午後7時10分ごろだった。 真価問われる安倍・トランプ関係 4月に首相訪米へ
韓国大統領特使から北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長の意向を伝えられたトランプ米大統領が、
最初に電話したのが安倍晋三首相だった。
首相はトランプ氏との9日午前の電話協議で、4月初旬に訪米して会談することで一致した。
5月までに開くという米朝首脳会談を前に、米国が安易な妥協に応じないようトランプ氏と擦り合わせできるのか。
安倍・トランプ関係の真価が問われる。
「北朝鮮が非核化を前提に話し合いを始める。日米、日米韓がしっかり連携しながら高度な圧力をかけ続けてきた成果だろう」。
首相はトランプ氏との電話協議後、北朝鮮の変化を評価しながら首相官邸で記者団にこう強調した。
8日夜に首相公邸に若手参院議員を集めて会食した際も、首相はトランプ氏との関係の親密さを披露していた。
ただ日本政府内では、トランプ氏の北朝鮮への対応について「一貫性がなく、ぶれが目立つ」(首相周辺)との見方が多い。
さらにトランプ氏は11月に米議会中間選挙を控えているとあり、
成果を急いで北朝鮮側と安易な妥協をしないかと危惧している。
8日午後(日本時間9日未明)には、トランプ氏は鉄鋼とアルミニウムに輸入制限の発動を命じる文書に署名した。
中間選挙に向けた支持基盤固めの一環とみられ、
中間選挙を意識したトランプ氏の出方への懸念はますます強まっている。
「北朝鮮が対話に応じるからといって制裁を緩める、対価を与えることはあってはならない」。
首相が8日の参院予算委員会で、北朝鮮が非核化に向けた具体的な行動などを取らない限り、
制裁を緩めるべきではないとけん制した。
北朝鮮はこれまで、対話に乗り出す前にあえて強硬策に出て、対話に応じること自体に付加価値を付け、
対話に応じただけや口約束だけで対価を得る、ということを繰り返してきた。
首相の予算委でのけん制は、北朝鮮ではなく、トランプ氏を念頭に置いたものだ。 9日午前の電話は米側からの提案だったが、4月の訪米と首脳会談の実施は日本側から求めた。
米朝首脳会談を前にトランプ氏と会い、北朝鮮との交渉で安易な妥協をしないようクギを刺す狙いだ。
このまま韓国が仲介する形で米朝間で交渉が進めば、北朝鮮情勢を巡る日本の影響力は限定される。
日本人拉致問題の解決が置き去りになる憂慮も強まる。
もっとも米朝首脳会談の結果、仮に北朝鮮が非核化に応じて、
米国が射程に入る大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を止めたとしても、
米国にとっては安全保障上の脅威は弱まるが、日本にとっての脅威が大幅に減るわけではない。
北朝鮮に数百発あるとされる日本を射程に入れるノドンなど中距離弾道ミサイルはなくならないからだ。
首相が4月のトランプ氏との会談で、日本の立場に一定の配慮をしながら金正恩氏との会談に臨むよう、
どこまで伝えることができるか。
これまで培ってきた安倍・トランプ関係の真価は、米朝首脳会談の成果で明らかになる。 名作『1984年』や『動物農場』の著者ジョージ・オーウェルが、
英国の雑誌に「あなたと原子爆弾」と題した一文を発表したのは、
1945年の十月のことだ。
この新兵器は、世界をどう変えるか。
オーウェルは、原爆の製造には巨額の資金と高い工業力が求められるから、
開発できる国はごく少数にとどまるだろうとの分析に基づいて、こう予測した。
<一瞬で数百万の人々を消し去る兵器を持った、二、三の怪物のような超大国が
世界を分割するのを、私たちは目にすることになるだろう>。
そして、核を持つ超大国が互いを制することができぬまま対峙し続ける状態を
「冷戦」と名付けた。
慧眼(けいがん)の作家が、広島と長崎への原爆投下からわずか二カ月後に
「冷戦」時代の到来を見通してから73年。
私たちが今目にしているのは、支配体制を守るために、
貧しい国力を核の開発に傾注している小さな怪物国家だ。
オーウェルは、核兵器の出現で
<権力がさらに少数の者に集中し、支配される者、抑圧される層は
さらに絶望的になる>とも予測したが、飢えに苦しみながらも、
独裁体制への忠誠を強いられる北朝鮮の人々の姿は、
作家の言葉そのものだろう。
北朝鮮が米国に首脳会談を提案し、米国も応じる構えを見せた。
それは、今なお「冷戦」が続く朝鮮半島に雪どけの風を吹かせるのか。
春の足音は、まだ聞こえぬ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています