【劇場版】新訳・機動戦士Ζガンダム-414
劇場版 機動戦士Ζガンダム [公式ホームページ] http://www.z-gundam.net/
■劇場版 機動戦士Ζガンダム MOBILE SUIT Ζ GUNDAM A New Translation (全三部作)
第一部 『機動戦士Ζガンダム‐星を継ぐ者-』
第二部 『機動戦士ΖガンダムII‐恋人たち-』
第三部 『機動戦士ΖガンダムIII‐星の鼓動は愛-』
▼劇場版Ζスレ-鉄の掟-▼
・常連は初心者に対して高圧的・排他的態度を取らず、親切・丁寧に教えてあげてください。
・初心者は謙虚に、そしてまとめを熟読してから参加しましょう。
・荒らし、煽り、クレクレ行為、高圧的、排他的、侮辱的発言、他のガンダム作品への誹謗中傷は禁止
・関係者への誹謗中傷、関係者のHPの日記・掲示板のコピペ、AAの連貼り、無駄な改行は禁止
・荒らしに対する対処法 基本的には「断固無視・徹底放置」で対処しましょう。
□シャア専用ブログ ttp://char.2log.net/ (お仕舞い)
□劇場版Ζ情報と噂のまとめ1 ttp://char.2log.net/archives/blog52.html
□劇場版Ζ情報と噂のまとめ2 ttp://char.2log.net/archives/blog472.html
□劇場版Ζ情報と噂のまとめ3 ttp://char.2log.net/archives/blog806.html
□劇場版Ζ情報と噂のまとめ4 ttp://char.2log.net/archives/blog1036.html
□過去スレまとめ ttp://www.geocities.jp/zgundam2ch/index.html
□劇場版Ζ関連商品 ttp://www.geocities.jp/zgundam2ch/goods/goods.html
前スレ
【劇場版】新訳・機動戦士Ζガンダム-413
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/x3/1387762341/ ○新作画、旧作画についての富野由悠季 総監督 発言集
「ただ、全部新作となると、50カットから20カットにしていくという再構成という作り方では
なくなるため、元の『Ζ』とはテイストが まったく違ったものになってしまうでしょう。
「絵はキレイだけど、これはΖじゃないよ」と絶対言われてしまう。
「 結局、ジジイが好き勝手に作ったんだよね」なんて感想でおしまいですよ。 概ねすべての
リメイクものと呼ばれる作品がオリジナルに勝てないのは、言ってしまえば、テイストを
残してるようで実はまったくの新作で、好き勝手にやってるものだからでしょう。
元の作品のテイストは絶対に元の作品の中にしかないのです。」
「結局、全部新作にした瞬間にリメイクも何もなくなってしまうのです。すべてを新作カットに
するかどうかのせめぎあいは何度もありました。でも旧作を残さざるを得なかったのは、
この作品はダイジェスト版でありリメイク物であり、そして何よりも『Ζガンダム』というのは
TV版の”あれ”しかないんです。新Ζガンダムを作ったとしても「『新』はさ、よく動いてたよね、
きれいだよね、だけどあれはさ・・・」という風に絶対言われてしまうでしょう。
だから古い絵と新しい絵の差があるのだけれど、だからゆえにあの構成ができたのです。」
「この作品のカミーユはカットカットで違う顔をしている。それでも充分に
鑑賞できる作品が作れるかもしれないと確信して、今回の作業にかかったんです。
でも決して我慢できるレベルではないと思います。人によっては、我慢できないくらい
ひどいかもしれない。それは僕のTV版のときのディレクションで”アニメーターを放任
し過ぎた”という、仕事の仕方に原因があったのでしょう。この点では申し訳なく思って
おります。
その分、この劇場版では新作カットを旧作のイメージに近づける努力をしています。」 ガンダム「ニュータイプ」27年目の帰結
「覚醒」という言葉は魅力的な響きを持つ。人の進化形として「ニュータイプ」
という概念を提示し続けるアニメ「機動戦士ガンダム」のファンの心に「覚醒」への
憧れが潜んでいることは疑いようがない。かつてオウム真理教信者も、
修行で覚醒したとする自分にニュータイプの姿を重ねたという。
今年三月に公開された劇場版「機動戦士ΖガンダムV星の鼓動は愛」で昭和54年に
始まったガンダム一連のシリーズが一つの区切りを迎えた。
第一作の登場人物が活躍する物語が計七本の映画にまとまったのと、
ニュータイプの概念に作者の手で変更が加えられたという二つの意味である。
後者はもしオウム信者が十年前にこの映画を見る機会があったら、相当困りそうな変更だ
人の意思を感知して、物事をあるがままに理解できるのがニュータイプの能力だが
それに加えて「身近な人を大切にできる」という要素も加わったから。
これではサリンは撒けなくなってしまう。 発狂から抱擁へ
第一作が主人公・アムロの覚醒の物語だったのに対し
続編の「Ζガンダム」は既に覚醒した少年、カミーユが主人公。
そこで原作・総監督の富野由悠季はニュータイプの行き着く先に
「発狂」という結末を用意した。
物語は政治抗争を絡めて複雑に展開するが、ここではニュータイプ
の描き方だけに注目する。
仲間が次々と死んでいく残酷な戦場で、鋭敏すぎるカミーユは、
最後に死者たちの霊と一体となり、最強の敵を倒す。
同時に、心は死者の側に行き、精神崩壊してしまう。
駆けつけた幼馴染の少女・ファが幼児退行したカミーユを発見して物語は終る。
今年三月公開公開の映画版はTV版の内容を「新訳」と称して再構成したもので
ほぼ同じ展開にもかかわらず、富野は「発狂」ではなく「抱擁」をラストに置いた。
カミーユは死者の側には行かず、ファを抱きしめ、霊魂ではなく現実に抱きしめられる
女性がいてくれることの喜びに溢れるのだ。
この改変の意味するところを考えるに当たって、少し回り道をしてみたい。
子供向けアニメで「発狂」という展開はありえないが富野は「伝説巨人イデオン」でも
女性キャラクターをの一人は発狂させている。
理知的な科学者だったシェリルは、同じ宇宙船に乗っていた妹が流れ弾で死んだことを
契機に精神のバランスを崩す。目立たない妹をほとんど無視してきた彼女は
死なれた後に「姉らしいことを何もできなかった」と泣き、酒に溺れるのだ。
身近な人間を抱きしめられるときに抱きしめなかった後悔が、シェリルを苦しめる。
更なる悲劇で発狂に至るのだがここでは触れない。
カミーユに視点を戻すと「新訳」の「抱擁」はおそらく多くの人間がシェリルの悔恨を
カミーユなら回避できるという希望が映された描写であると気づく。
ニュータイプの能力によってである。 消えた台詞
単なるラストの差し替えではなく、この「抱擁」に至るまでに
富野はテレビ版の台詞を細かく改変している。
面白いのは、カミーユが戦場で敵に向けた「呪詛」と「自嘲」が
ことごとく削られていることだ
「暗黒の世界に帰れ」 「お前は生きていてはいけない人間なんだ」
「ここからいなくなれ」
「NTも結局何もできなのさ。できることといったら、人殺しだけみたいだな」
これらは全て消えた台詞である。
呪詛と自嘲のないカミーユは発狂せず、優しいラストにたどり着く
ニュータイプそのものの発想について富野は、素人にいきなりロボットを操縦させる
理由付けだったことをインタビューで明かしている。
いわば作劇上の方便だが、宇宙でロボットの操縦席に一人いるという絶望的に孤独
な状況で、離れた人の意思や声が自分の中に流れ込んでくるというニュータイプの
能力描写は、絵空事の超能力とは一線を画す説得力と、啓発する力があった。
しかし「Ζ」以降の作品は、第一作で見事に登場したニュータイプという概念を、
作り手とファンが引きずるような格好で制作されたきた。
後続の作品で第一作を超える評価を得たものはない。続いた背景はプラモデルなど
「ガンダム」の名前だけで一大産業に膨れ上がったスポンサー事情である。
富野が「新訳」で見せた改変は作家としての意地だ
発狂という結末に比べ「新訳」の結末は一見、凡庸である。「覚醒」に憧れる向きには、
この結末をどう受けとめればいいのか戸惑いもあるだろう。
しかしニュータイプの能力が物事をあるがままに理解する能力ならば、生きてる理由も
分からず生きてる私たちの、身も蓋もない姿もはっきり見えるはずだ。
その隣人を抱きしめて肯定することは、決して凡庸なことではない。 (中略)
しかし新訳Ζのカミーユは哀しい現実をひとつひとつ咀嚼し、それを強い意志へと変えながら戦い
続ける。親を目の前で殺され、心が通じた女性フォウとは残酷な形で引き裂かれ、仲間達を次々と
失い、それでも未来を切り開こうとし続けるカミーユを、存在そのものがあまりにSF的だと言って
しまうことは簡単だ。しかし、そもそもニュータイプという概念が登場して以降のガンダムは、
放っておけば滅んでしまう人類にとって唯一の希望となるような「未知の進化」を描いた物語である。
シロッコを倒したあと、カミーユが精神的にも肉体的にも生還し、愛するファを
しっかり抱きしめる喜びを噛み締める新訳Ζのラスト。カミーユが最強のニュータイプだとするならば
彼には、このような希望に満ちた結末が待っていても良いはずである。
CUT2007年11月号35ページより(10/19発売) ■劇場版コソーリ登場新顔な面々 まとめ
第一部
GMクゥエル
ぱくったフライングアーマー
黒ガルダ
第二部
ハマーン用ガザC
緑ガルダ
第三部
ドラッツェ? (アクシズ灰色)グワダン上を高速移動
ガザE? (アクシズ灰色)シャアミネバ謁見時のグワダン格納庫内
GMカスタム? (AEUG色) アーガマ補修シーン
GMキャノン2?(AEUG色) アーガマ発艦シーン
GMIII? コロニーレーザー内
エンドラ級軽巡洋艦(サンドラ色)
メタス(2号機)
※DVD版追加
ヘイズル 6の(中略)はNGワードに引っかかったので
見たければ前スレで kotoba2021年秋号 No.45
人類は「ニュータイプ」になれるのか 富野由悠季インタビュー71ページより
「機動戦士Zガンダム」の主人公であるカミーユ・ビダンを富野監督は「最高のNT能力者」と評されています。
ガンダムシリーズの中でもとりわけ強く屈折した少年がなぜ、「最高の能力者」なのでしょうか?
富野
もちろんカミーユも全能型とはほど遠い人間です。ですがほんの短い期間ではありましたが、カミーユに全能者を目指させようと思ったことがありました。
だけど、現代の我々と大きく変わってないいない近未来の人間に、全能を目指すだけのキャパシティーはありません。結果としてカミーユの精神は崩壊しました。
カミーユ自身の意思で全能者を目指したわけでありません。少なくともそのような描写は劇中ではしていないはずです。
ただ明らかに戦闘者としての能力が傑出していたために本人の人間的な限界を超えたものを負わされ続けて人間としての成長過程も、
意思を強靭にするための時間的猶予も与えられず全能者への道以外の選択肢が閉ざされていきます。
同じニュータイプでもアムロ・レイについて考えたこととカミーユ・ビダンについて考えたことは、まったく別なのです。
アムロは戦闘者として成長しすぎてしまったことのよしあしはともかく、人間的にも成長する機会がありましたが、カミーユにはそれさえ許されていなかった。(全能者になる道しかなかった)
富野
では、何が足りないのか。それは我々愚民どもが毎日飽きずにやっていることを続ける力です。
自然の不条理の下で田畑を耕し、獲れもしない魚を追いかけなんとか食い繋ぐための忍耐を毎日続ける、その実行力です。
死ぬまで同じことを繰り返えしていられるのは、ほかに何もできない愚民だからです。
~以下略~
愚民の力は全能者をへと向かう道程でこぼれ落ちてしまう。
全能者を目指すためには全能であること捨てなければならないという矛盾があり、カミーユはそれに直面してしまった。これが僕がカミーユが最高のニュータイプと説明した理由です。そしてそれは誰よりもニュータイプになりたい僕自身の敗北でもありました。その敗北は今でも認めたくない。でも認めざるを得ないのです。 当時評価が酷かった作品を書き換えるとこに至ってないのが残念な劇場版 テレビ版Ζ厨の評価なんて話にならんだろ。
銀色ドレスを良いと言えとか同調圧力かけてくるカルト集団。 当時はフォウ関連の話しか評価されなかったから
銀色ドレスがΖ肯定派の象徴ということになっていた
それ以外はΖへの悪口しか出てこない 久しぶりにテレビΖ観てるけどやっぱフォウを2回出したのは蛇足でしかないな。
「永遠のフォウ」は北爪が気合入れて作画したから観てられるんだけど子供番組だからフォウの死を綺麗に見せようとした関係で不自然な事になってる。
ジェリドがコックピットをビームサーベルで刺したから死んだのにフォウの身体も衣服も全く怪我はおろか汚れてさえない。
ララァの様にサイコガンダムごと大爆破させた方が自然だったよ。
カミーユに抱かれてる絵も見せたいからだろうけどありえないよ。
劇場版で直されて良かった。
何度見ても劇場版でフォウが転落していくシーンを観てしまう位好きなシーンだ。
ミハルを思い出す。
「宇宙をかける」がバックに流れてるのも良い。