【アトキンス】BI砲を考える3【クラウザー】
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>>680
その後にグレート草津のテーズ戦の無残な敗北があったので
ますます「テーズに勝った馬場は凄い」になってしまったそうだ >>673
カーンは鶴田 天龍とシングルあったのでは?
鶴田とのシングルはなかったかな?
でもこの時代だから反則や両リンだろうが。
不透明未決着は実に便利で必要不可欠だったと思う。
各選手の商品価値維持には必要不可欠で欠かせなかった。 テーズ、Bオースチン、Aネルソン、Tタイラー、イヤウケア、オルテガ、スナイダー、ブラッシー、
ブッチャー(Dジャーデン)、シーク、ドリー、Aブッチャー、ストンパー、Sアリオン、Iコロフ、
Cマルコフ、テリー、Bブラワー、バレンタイン
馬場のインターナショナル王座に1度だけ挑戦したレスラーだけど
アートネルソン、スパイロスアリオン、ブルドッグブラワーは役不足の感じがする
72年2月29日大田区体育館のブラワー戦は、数日後に新日本が旗揚げするので無理やり持ってきたらしい >>680
初戦の金山でのスカルパと組んで馬場・吉村にストレート勝ちした試合はテーズ初の日本での四人タッグマッチだったんだな
それまでの二度の来日ではシングルか六人タッグだけで >>683
スパイロス・アリオンは「ゴング」に持ち上げられすぎた感があるね。
アート・ネルソンは明らかに「?」だよね。
もともとタッグ屋でシングルの実績はないし。
この3人の中なら、まだブルドッグ・ブラワーの挑戦は納得がいく。
まぁブッチャー(Dジャーデン)より若干、格は上ではないかな? >>680
当時のことは知らないが、1月7日にテーズが世界王座を転落してから、
すぐに来日をオファーしたことになるよね?
世界王者のままなら、スケジュール的にも日本に呼ぶのは難しい。
ある程度、そこでテーズが世界王座を失うという情報を日本プロレスは
掴んでいたのかな?
仮に、ここでテーズが防衛したとしたら、2月の東京体育館、馬場は誰と
インター防衛戦をするはずだったんだろ? ロジャー・カービーはビル・ワットに、ダニー・ホッジが日本遠征中にNWA世界ジュニアベルトを
巻いてくれと頼まれたらしいけど、テーズの場合は馬場戦の帰国後に50歳の大台になるから、
そこはNWAの良心というか50前迄に卒業してもらうというか…そう推測する人もいる。
それより、74年12月にNWA王者がブリスコじゃなくドリーのままだったら馬場への移動劇は
あったのかが気になるなぁ… >>683
Aブッチャー、テリーも当時の馬場との格と比べたら
唐突感は否めないよ
>>685
日プロはNWA王者でもWWWF王者でも
日本に来たらインターの挑戦者にする考えだからあまり関係ないだろう >>685 >>688
当時だとNWA戦が行われていなかったかも。
NWA≧インターって格はキニスキー以降?
ドリーの頃だって微妙にインターと同格感があるし、日プロ時代はNWAの方が絶対に上ってわけではなさそう。
完全にNWAの方が日本のナショナルタイトルよりも上と扱われたのは、馬場がPWFから世界を外してから? >>675
やっぱのちにWWEとWCWになっていく東海岸とフロリダのテリトリーが変わってからか >>682
カーンは天龍のUNに挑戦した。
リングアウト勝ちか反則勝ちで天龍の防衛。 >>690
WCWのオーナーにCNNのデッド・ターナーが就任し、エリック・ビショフがPPVで
大ブームを起こして、それから治安が良くなりWWE含めて娯楽性いっぱいになったんだよね。 >>689
まだ日プロがNWAに未加盟だったのもあるがとにかくこの辺りからインターを絶対権威にするという方向性が始まった印象 日プロのWWAはロスの王座と二つ存在する如何わしいものだった 力道山時代はまだインターは絶対じゃないんまだよな
WWAに関わってる間は放っとかれてたくらいだし >>695
力道山時代はワールドリーグ以外には、あんまり大物の来日もなかったから、チャレンジャーもいなかった。しかも一つのシリーズが長い。 >>696
そのワールドリーグでハットンと防衛戦をやってれば防衛期限もクリアで箔にもなったんだがな >>697
アマリロ出身のディック・ハットン、一度は見たかったね。
当時、テーズとハットンはロサンゼルスで活躍していたから
その流れでの第4回Wリーグ来日だと思われる。
(ジーパンスタイルはロスでのギミック)
全盛期のテーズが寝技勝負だけは絶対に避けた筋金入りの強者で、
興味本位でクラウザーとの試合を組んだプロモーターに、テーズが直談判して試合を中止させたらしい
二人を知るテーズにとって、あまりに危険過ぎると分かっていたから…
力道山とはノンタイトル60分3本で対戦して2−1負傷試合放棄ということになってるが、
ブック通りだろうねw
あまりの強さに、たった一度の来日になったのが残念
猪木とは公式戦と最終戦で当たっているが、最終戦はハットン自らのご指名
馬場は米国武者修行中だった。 ゴッチってシュート仕掛けるまではいかないけど、
誰にでもカタい攻めやっちゃう感じだったんかな
だから対抗できる奴だとシュートに近いところまでエスカレートしていくみたいな
日プロ時代の猪木もそんな感じだったからホッジやコワルスキー怒らせたと >>699
オリンピアンのゴッチやハットン、銀メダリストのホッジと自己流レスリングの猪木を同列には語れないだろ おい!闘魂チャンネルみろ...
我が目を疑ったよ
カルロス・リベラみたいじゃねえか
相当、悪いのか >>699
ゴッチはそういうところがありそうだね
ハットンも頑固だが、ゴッチはそれ以上の変人。絶対にまともな試合にならず
それどころか互いに重大な怪我を負う可能性が高かったんだろうね
ハットンもゴッチも、テーズの余計な指し出口を非難したが、内心では感謝あるいは安堵していたらしい
日プロ時代の猪木といっても、シュート技術を極めようとしたのは「ゴッチ教室」以降じゃないかな?
>>701 >>702
ヤバくなってきたね…
数ヶ月前と比べて急激に悪くなっているのがはっきりとわかる。
50年前の今日は、BIとマスカラス・アリオンのインタータッグ戦
猪木が倒れた相手を片手で押さえると馬場がコーナーポストにかけあがり、飛び降り踏みつける
猪木が卍固めを掛けると、馬場がコブラツイストでフォロー
全盛期手前の猪木とスピーディーな馬場の連係プレーは"阿吽の呼吸"があった(年末までは…) マスカラスアリオン対馬場猪木は妙な展開だった。
馬場がマスカラスの技を受けないので、猪木が必死に受け役をするという、後のイメージとは真逆の展開にw >>705
馬場はマスカラスを「振袖を着たお嬢さんを相手にするみたい」
といった表現で、あまり評価しなかったと何かで読んだ。
ネットでそのインタータッグ戦を観たけど、馬場がマスカラスの
頭をつかんで自軍のコーナーポストに追い詰めていく場面では
馬場が何か怒りに満ちたような形相に見えた。
ラストでの卍とコブラのBI共演?は、観客がえらい盛り上がっ
ていたなあ。
今観てもあの二人は圧倒的に強くて魅力的なタッグチームだと
思いますよ。 馬場は、バディ・ロジャーズをベタ褒め、
逆にマスカラスをケチョンケチョンに貶しているが
どちらも、ショーマンであることは共通している。
マスカラスが、得意げにリング上を闊歩するのを
批判的に言う一方、ロジャーズウオークは
「あれは、格闘技の理に適っている」という発言はさすがに
「?」だな(苦笑)。
むしろアマレスのバックグラウンドがあるマスカラスの方が
格闘技者としては、上ではないか?
自分のプロレスに合わせない選手はグランドに持ち込み
ヒイヒイ言わせたとか。それもまたグランドでガチに強い上田馬之助
あたりにも言わせたとか。 >>707
日本でのマスカラスと上田の対戦は83年の最強タッグくらいか >>707
1971年の夏、マスカラス二度目の来日の時に
シングルで対戦。マスカラスの技を受けない上田を
グランドで締めたらしい。 >>708
709参照、
これは707ではなく、708へのレスだった。 >>707
馬場にとっては、プロとは何かを骨の髄まで目の当たりにしたレスラーがロジャースだったんだろうね
彼のNWA王座に挑戦した唯一の日本人レスラーとして学ぶところも多かったんだろし
意外だけどアトキンスがロジャースの実力を認めて高く評価している。
ロジャースウォーク(デストやフレアーもやる)が"格闘技の理にかなっている、かなってない"
これは自分も?なんだけど、格闘技の基本は半身に構えることで、半身になることで
相手に攻撃される可能性のある部位が少なくなるし、攻撃のタメ(準備動作)も整う。
マスカラスの筋肉美を誇示するかのような胸を張って堂々とリングを歩くさまは、スキだらけなんだろう
確かにロジャースウォークは半身といえば半身だし、すぐに攻撃や防御も出来そうだ。
王者になる前はテーズと引き分けを何度も演じているそうだし、有名なPオコーナー戦なんか見ると
単なるショーマンじゃないのがよくわかる。 >>711
馬場はロジャースを寝てる時でも試合の事を考えてるとも言ってるな 1972年3月6日大田区体育館
時間無制限1本勝負
カール・ゴッチ(15分40秒体固め)アントニオ猪木
旗揚げ戦はゴッチしか招聘ルートがなく、ゴッチを"神"に偶像化するために負けたのか?
それともゴッチスタイルに合わせ試合したことが敗因なのか?
50歳近いロートルのゴッチに、まだ20代の脂ののってる猪木だからな…
ゴッチ戦から5年間の負け試合を調べてみた。
1972年10月10日大阪府立体育会館
世界ヘビー級選手権
挑戦者ゴッチ(23分12秒体固め)王者猪木
1973年4月12日宮城県営スポーツセンター
サイクロン・ソト(11分29秒体固め)猪木
1974年2月1日大田区体育館
60分3本勝負
ジョン・トロス(2−0)猪木
トロス(9分10秒体固め)猪木
トロス(7分4秒反則)猪木
1974年3月15日岡山武道館
Aジャイアント(20分19秒体固め)猪木
1974年4月18日大阪府立体育会館
第一回Wリーグ戦30分1本勝負
KKクラップ(15分41秒体固め)猪木
1974年5月6日熊本市体育館
第一回Wリーグ戦30分1本勝負
KKクラップ(10分28秒体固め)猪木
1974年8月8日日大講堂
実力世界一決定二番勝負第2戦
ゴッチ(21分59秒エビ固め)猪木
1974年11月12日奥武山体育館
ザ・シーク(12分58秒反則)猪木
1975年1月10日長野諏訪市体育館
カナディアン・ワイルドマン(10分52秒反則)猪木
1975年1月15日福島双葉町体育館
Cワイルドマン(6分7秒反則)猪木
1975年3月13日広島県立体育館
NWFヘビー級王座決定戦
TJシン(19分24秒体固め)猪木
1975年4月4日蔵前国技館
第二回Wリーグ戦30分1本勝負
大木金太郎(1分16秒リングアウト)猪木
1976年2月28日愛知県体育館
ジョニー・パワーズ(12分45秒反則)猪木
(パワーズ戦以降シングル100連勝)
1977年11月29日広島県立体育館
グレート・アントニオ(6分15秒反則)猪木 >>713
最後の広島でのアントニオ戦が目につく
例の蔵前での対戦だけかと思ってた >>713
最初からゴッチに完勝したら
その後のテーマがなくなってしまう >>715
ゴッチは最後まで猪木のNWFには挑戦しなかったんだよな
だから代わりにテーズが挑戦した印象 ゴッチに強さは感じなかったなぁ〜
猪木戦やロビンソン戦を見ると、詰め将棋やチェスのような読み合いの試合がゴッチ流プロレスで
自分の方が優れているのを自慢しているような感じがしたw
(もちろんシュートマッチとは別物)
普通のプロレスは対戦相手と観客を意識してのものだけど、
ゴッチの試合は対戦相手との優劣を競い合うゲームみたいで、
その辺りがテーズと一番違うところだろうね
猪木と選手権やっても、マニアは喜ぶけど興行的にエキサイティングなものにはならない気がする。 ゴッチって決してショーマンシップがなかった訳じゃないんだけど、自分の技術を一方的に見せつけるマスカラス的なんだよな >>713
新日は旗揚げ2,3年目まで強豪外人が呼べず、1流とは言えない
サイクロン・ソトや日プロ時代、高千穂にも負けているクラップ、
ジョン・トロスにストレート負けしたのは忸怩たるものがあった。
逆に、G・馬場は、旗揚げから日プロ時代、苦手にしていた
デストロイヤー、Bブラジル、エリックらに(彼らの力が衰えたとはいえ)、
連勝するんだよね。 >>719
それでも二年目にはバレンタインの招聘に成功してるんだよな
例の事故までの間に呼ばれなかったのも気になるが >>720
シンのブレイクがなかったらバレンタインを呼んでいただろうね
75年10月のセスナ機墜落事故までに…
(バレンタインの新日参戦は73年9月)
日プロ時代の坂口との因縁を最初に持ってきたし、猪木のNWF戴冠前だったからな〜 新日は1975年にロートルになっていたベアキャット・ライトも初来日させている
コネクションは無いが呼べるレスラーを探していたんだろうな バディ・コルト選手が亡くなったみたいだけど、コルトも75年2月セスナ機墜落で
引退に追い込まれたんだよね。
同乗者のボビー・シェーンは即死、ゲーリー・ハート、オースチン・アイドルは助かった。
秋のバレンタインも引退、リック・フレアーも重症だったが"ネイチ"として復活
この事故でグレッグとの親子関係がバレたんだよね(当初は兄弟と称していた)
飛行機事故では87年モーリシャスで墜落したハル薗田が犠牲に…
馬場もシンも泣いてたなぁ〜 >>721
バレンタインは坂口に負けたところで、もうお役御免だったろう。坂口に完敗して猪木のチャレンジャーというのも弱い。
何でそんなことになったかというと、やはり日本プロレス末期に高千穂に負けことと、年齢がもう45歳だったことからかな >>723
グレッグの初来日はその直後だったがあるいは親父の代打だったのかな >>722
前年にはパワーズ経由でシークも呼べてたし 猪木って実際のところどれだけNWA世界ヘビー級王座の事を思ってたんだろう。列伝とか読むと「挑戦させてくれない(猪木談)」とかタイガー編でタイガーが世界ジュニア取った時に泣いたりとかしてたけど。
IWGPにしたって馬場NWAラインへの抵抗だったし。
実際は「どおって事ないさ」だったのかな。
ところでまた「元気ですかー」が聞きたいね。 なんだかんだ言っても
ドリーが王者だったころまでしかNWA王座には魅力を感じてなかったんじゃないかな
猪木から見てレイス、ブリスコは後発の格下だし >>728
それでも北朝鮮でのフレアー戦はまさに見果てぬ猪木のNWA戦という感じだったな >>728
そのレイスの自伝だとレイス目線では
「猪木はNWAにおける馬場の地位を奪おうと必死だった」そうだ
原悦生の回想だと猪木や新間はNWAの総会の議場にも入れてもらえなかったそうなんだよな
ブリスコを呼んだりローデスに外人レスラーNo.1のギャラを支払ったり
後に斜陽になったNWAの時すらフレアーを呼んで新日のリングでNWAタイトルマッチをやったりと
新日にはNWAへの執念があったと思える >>730
一地区一プロモーター制のNWAにあって新日本の加盟はあくまで特例扱いだからな
だからブッキングのメリットが互いにある部分以外は対等に扱われない NWAへの加盟とNWA王座の奪取というのは別の事と考えるべき
よりいい外人ルートの開拓のためによりいい外人ルートの開拓のために
NWA加盟を模索するのは企業としては当然のだろう
かといって新日が無理に猪木にNWA王座を本音で求めたとは考えにくい
WWFがNWAの傘下に入っても
アンドレやサンマルチノをNWA王者にしようとしなかったのと同じだろう >>732
NWA王座を必要とする理由としてはむしろ馬場から奪う事でイメージダウンを図るという部分の方が大きそう
だから馬場も自前のタイトルの権威を犠牲にしてでもNWAを立てねばならなかった
だからNWAに拘る必要がなくなった後に作った三冠王座はまさに日プロ時代のインターの復活でもあった >>719
>逆に、G・馬場は、旗揚げから日プロ時代、苦手にしていたデストロイヤー、Bブラジル
>エリックらに(彼らの力が衰えたとはいえ)、連勝するんだよね。
馬場も衰えているとまではいわないが、落ちているんだけどね。 >>734
それだけ全盛期の馬場が凄すぎたって事なんだろうな
おそらくあれだけの巨体であそこまで動けるレスラーはその後もいない オールスター戦が開催された1979年の流れを見ると興味深い
5月10日福岡で元NWA王者ブリスコが猪木のNWF王座に挑戦
8月21日フロリダ・タンパでローデスがレイスを破りNWA王座を奪取
NWA王者のまま新日10月シリーズ来日かと思われたが、来日前レイスに敗れ王座転落
10月31日名古屋で馬場がレイスを破り2度目のNWA王座奪取
翌11月1日札幌NWF戦で猪木がローデスに反則勝ち防衛
8日小樽でバックランドのWWF挑戦権を賭けて再戦。猪木のリングアウト勝ち
11月30日徳島で猪木がバックランドを破り日本人初のWWF王者になる
(WWF公式記録には載ってない)
12月6日蔵前でのリマッチで返上が決まっていたのなら、4日大阪府立のNWFモラレス戦は
WWFとのダブル選手権にして、WWF初防衛くらいさせてやれば良かった(新間も会長なら)
まぁ、既に鶴田に敗れていたブリスコにはピン勝ちして千円札をバラ蒔いたが、
ローデスには反則とリングアウト勝ちという、もしNWA世界戦だったら移動劇はなかった…
全体的に馬場のNWAでの立場、政治力の強さが目立っていたのかな 新日の初期は外国人選手がしょっぱくて名勝負など到底望めない状態だったけど、他方、全日の初期がどうだったかというと、名の通った外国人選手を招聘しても峠を越えた選手や馬場とは手が合わない選手が多くて、こちらも名勝負は殆どなかったな。 馬場が言うには「金曜夜8時のプロレス」をNETに奪われた事が痛恨だったそうだ
確かに土曜夜8時は裏番組はアレだしプロ野球で潰れるし良くない [NET最後の日本プロレス中継]
1973年3月30日(金)
3月8日佐野市民会館〜収録
坂口&大木vsKKクラップ&ルーベン・ファルス
UNヘビー級選手権
ジョニー・バレンタインvs高千穂明久
[NET最初の新日本プロレス中継]
4月6日(金)宇都宮スポーツセンター〜生中継
猪木&柴田vsジャン・ウィルキンス&サイクロン・ソト
坂口征二vsプロフェッサー・バーン・ジール
[新日本プロレス5回目の放送]
5月4日(金)川崎市体育館〜生中継
山本小鉄vsスティーブ・リッカード(TJシン乱入)
坂口征二vsロベルト・ブルース
アントニオ猪木vsレッド・ピンパネール NET金曜8時の中継は馬場が去っても伝統の力で12〜14%を維持。
NTV土曜8時にまわった馬場は10%平均で苦戦だった。
NETはそこに猪木が加わったことでさらに安定という図式 シンが乱入した川崎の試合は映像が残ってなかったんだよね。 >>740
日本プロレス最後のTV中継覚えてるよ。メインイベントで高千穂がUN王座を奪取し、実況アナウンサーが「高千穂、おめでとう!」と言ったところで突然画面が変わり、「来週からは番組タイトルをワールドプロレスリングに改め、猪木、坂口の黄金コンビの試合をお届けします。どうぞお楽しみに。」と新日中継の予告で番組終了。盛者必衰の哀しさを感じさせる終わり方だったな。 >>743
NETのためにあれだけ日本テレビとの信義を破り捲った最後がこのザマ
まさに新しい相手に入れあげて最後は捨てられるパターンなんだよな NETから「馬場の試合を放送させてくれ」と頼まれた時に、日テレに相談しておけば良かったのに、それすらしなかった。 んなもの駄目に決まってるでしょう?
と返されるんだから相談しても無駄ってものよ、という考えだろうな。 >>737
初期の全日では世界王座争奪戦のオコーナー戦はハラハラしたのを覚えている。
あと、唯一映像が残っているデスト戦も日本陣営入りがかかっていたから夢中で見ていた。
ジョナサン戦・ブラジル戦なんかは呆気なく終わった感じで、
日プロ時代の名勝負再現はなかったね
48年10月の蔵前二大決戦(インタータッグ&USヘビー級)は良かった。
新日(テレビがついて)では、シンの登場・マクガイヤー兄弟とアンドレの参戦
最強タッグにパワーズ戦…
なんだかんだで新日の方が見てみたい話題性はあった気がする
同時に国際プロも見ていたから、74年の猪木vs小林戦はBIが袂を別けて初めて感動した試合だった。
暮れの馬場vsブリスコ戦は綺麗な名勝負だけど、猪木小林戦ほどの感動はなかったなぁ 事の発端は日テレ専務の
馬場NET登場容認発言が報道された事
これでNETがその気になってしまった >>748
日本テレビがそれでも継続したがってたのは確かでそちらへの読みは実は間違っていない
但し惜しむらくは三菱電機の反応と日本テレビへの影響力を見誤っていた つまり、日テレはNETへの馬場出演を容認の構えだったが、三菱電気が拒絶して、日テレが態度を変えたということ?
それが事実ならあまり語られていない真相ということになるが >>747
TV中継が始まってからの猪木は、NWAと組んでメジャー化を図る全日本を凌駕し、もう一度プロレスに世間の目を向けさせようという野心が溢れ出ていて、見ていて面白かった。
自分の場合、BIが袂を別けて初めて感動した試合は、74年の猪木対大木戦だな。
猪木と大木の他、レフリーが豊登、猪木のセコンドに坂口と山本小鉄、大木のセコンドに芳の里と九州山、そして放送席に遠藤幸吉と、日本プロレス内紛分裂の主要メンバーが勢揃い。
試合も「勝っても負けても頭突き一筋」の大木らしい硬いファイトスタイル全開の内容で、日本プロレスの葬式のような暗くて、情念ドロドロの試合なんだけど、日本プロレス時代のできごとを知っている者にとっては、それが感動的だったんだよね。 >>749
確か、日テレは東京地裁に、馬場のNET出演を差し止める仮処分請求を起こしたと思う。(請求は認められなかったが。)
あれもスポンサーの三菱電機の意向が強く働いた結果なのかな。 >>752
馬場がNETに出ないという当初の念書にはスポンサーとして三菱電機も加わっておりよくも顔を潰しやがってと大激怒
それで日本テレビとしてどっちを取るかとなって三菱電機を取った形に んじゃ三菱というファクターを忘れてた
芳の里の失態だな あるいは日プロとしては当時既に単独スポンサーでなくなっていた三菱電機の影響力を舐めていたのかもしれない
むしろ今までの借りが大きすぎるだけにいっそこの際に三菱電機外しという意図も無意識にあったのかも >>755
三菱電機は「あいつらに社会常識は通用しないのか」と日本プロレスのダラ幹たちに馬鹿負けして、プロレスから離れていったんだよな。 >>756
三菱電機のような大スポンサーをプロレス界から撤退させたというだけで当時の日プロは万死に値すると言っても過言でない
実際僅か一年足らずで抹殺されたが プロレス中継がゴールデンタイムから陥落したのも、視聴率はそこそこ取れていたが、
番組提供のスポンサーがなかなかいなかったから、という説があるからな。
三菱電機撤退の影響は大きいわな。 >>759
三菱電機が付いている事は社会的信用としても大きかっただろうし >>752
馬場が独立する為に日プロを退団すると、今度はNETが日プロを東京地裁に告訴したんだよね
「三菱ダイヤモンドアワー」と言われていた枠は、プロレスからドラマ枠なり
「太陽にほえろ!」がスタート
ダラ幹達の頭の中は…常識も恩義もあったもんじゃないw 坂口がいなくなっても大木でやっていけると考えたんだから
馬場が日テレに恩義を云々などと言って出ていくとは思っていなかったんだろうな。
とはいえ、自分が幹部でも馬場が出る想定はしないしできないと思うんだよね。
馬場と坂口でNETでやっていける、と現状維持できる、ときっと考える。
そのうち猪木もポシャるだろうし、国際は眼中にないし、
そしてやっぱり日プロの天下は続く、みたいに。 >>762
NETがやめるならやめるでほっとけなかったのかな
あるいは饗応がらみでNETに弱味でも握られてたのか そういえば全日とファンク一家を繋げたマシオ駒さんの命日だね。
駒がアマリロに遠征していなかったらNWA加盟もスムーズにいかなかったろうね
(日プロ時代の小鹿がエリックに懇願して全日への選手派遣をストップしていた)
日プロ時代に付き人経験をしていない馬場の初代付き人が駒で、
次に大熊→草津→轡田→佐藤まで。全日最初の付き人が大仁田
猪木は力道山の付き人を経験していて、付き人に付いたのは小鉄→北沢→木戸→藤波まで。
新日最初の付き人が藤原となるんだね >>762 >>763
日本プロレスのダラ幹たちは、NETに馬場を出さないと、猪木と関係の深いNETが新日中継に乗り換えるんじゃないかと危惧したのだろうね。そして、日テレは最後は容認してくれるとの大甘な見通しのもと、馬場のNET登場を強行したら、日テレが予想外の放映打ち切りに出たという展開になったと。
ダラ幹たちに多少なりとも危機管理能力があれば、日テレが簡単にプロレス中継から手を引くとは考えなかっただろうし、スターレスラーの誰かが引き抜かれる最悪の
ケースは想定できたと思うのだけどね。 >>765
坂口抜きの新日本をNETが放送したかどうかだな >>766
当然、NETは坂口引き抜きに出ただろうね。 >>767
鶴田のプロ入りにどう影響したかも気になる >>768
鶴田友美、吉田光雄のミュンヘン五輪コンビが新日入りとか。 柴田勝久は長髪に髭という風貌だったので、NET最初の新日本プロレス中継(4月6日(金)宇都宮スポーツセンター〜生中継)の猪木&柴田vsジャン・ウィルキンス&サイクロン・ソト戦で、心無い観客から「乞食野郎!しっかりしろ!」なんていう野次をとばされていたな。 >>767
坂口は動かないだろうからプロレス中継は諦めただろう。 >>769
今日はちょうど鶴田・ガニア戦の日
もし国際で実現してたらどうだったか >>770
旗揚げ戦に豊登が出場することは、もう決定していたんだろ?
もう発表して、ポスターにも顔写真を入れていたなら
客入りがアップしたはず。
あくまで、昔のリング外の因縁を越えて、豊登が
旗揚げ戦を激励しに来た→猪木の情熱に応え、ハプニングで
試合をやった、という美談にしたかったのかな? >>775
そりゃポスターに書いたらサプライズにならないだろう
新間が言うには新日初期は豊登が客を集めてくれたそうだ
約2年間の日プロのエースだけど馬場の前の日プロのエースって看板は大きかったんだろうな
>「そう。選手たちにしたって馬場さんサイドの方が世界から超一流の人たちが来た。
>じゃあ、新日本の旗揚げはどうだったか。豊登さんがいなかったら、観客は集まらなかっただろう。
>旗揚げの頃は、豊登という人がいたから観客が集まってきたんだよね」 >>776
国際の初期もまた豊登が相当な貢献をしていたはず 日プロというか、力道山時代に活躍したレスラーの知名度の凄さを感じる
約10年前の欠陥?エースでも集客力が猪木張りにあったとは…
その豊登は1964年3月9日猪木の海外武者修行に同行、3月11日ハワイ・のシビックオーデトリアムで
猪木の渡米第一戦、プリンス・イヤウケア戦のセコンドに付き、1対1から3本目に乱入して
ノーコンテストの結果に終わった。
その後、豊登は帰国し猪木は単身セントラルステーツ地区に渡るが
66年4月にハワイの地で再び合流、東京プロレス設立へ向かうわけだな >>776
いや、サプライズにならん、ことは俺だって分かる。
サプライズで当日、大田区体育館に来たファンを喜ばせることと、
最初から「新日は猪木だけではなく、豊登も(東京プロレスの遺恨を
越えて)参戦します!」とアナウンス、ポスターに入れて、
大田区以降の集客を見込むのと、どっちが得策だったのだろうか?と
俺は、最初から発表した方が良かったと思うがね。 779に追記するが、
まぁ豊登参戦は、ポスターまでは間に合わなかった
かも知れないけれど。
なら、当日、ハプニング参戦の方がインパクトはあるな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています