【竹山祐一】昭和の全日本プロレス87【読売テレビ実況アナ】
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タイガーは貧乏クジ引かされた感じか。 >>69
7月号熱戦譜のページに
「足を負傷して決勝戦不出場になり残念がるブロディ」の写真があった
その下が「引退式で胴上げされる魁勝司」 >>71
ずっと前座のままだったから、その後レフェリーやってた北沢さんとしての印象の方がずっと強いな。 >>71
重ねてありがとうございます。
思えばタイガーマスクがデビューしたのが松戸の決定戦があった日の
1週間前の4月23日だったんですね。
猪木がIWGPに向けてNWFベルトを返上したのと同じ蔵前大会。
もともと全日がインターを大木から買い取って大々的に復権させたのも
猪木がIWGPで優勝したら「インターナショナル・グランドチャンピオン」
を名乗ることになるかもしれないので先手を打った部分も大きかった
わけだから、時期が重なるのも必然だったのでしょうし 普通に大木からタイトル奪取
というストーリーではいけないのか?
圧力かけて返上させる意味がよくわからないしイメージも良くない
いいメンバーを揃えて権威をアピールする割に
決勝が地方の小会場ではインパクトがイマイチのようなi >>74
インター王者大木の正当性を認めてないから、それまで全日で一度も防衛戦開催しなかったんでしょ? ディングも松戸欠場もブック通り
ブロディが包帯巻いて負傷の挨拶をリングでしたら終わりだよw >>75
全日中継ではインター王者は大木と言ってたから正当性は認めてたんだろうな
PWF王座を作ってしまった手前インターまで全日管理にしてしまったらベルト過剰になってしまうから
大木が国際で防衛戦行わなければ大木の王座のまま黙認するつもりだったんじゃね? ヘニングとリッキーのころにはNWAもAWAもどうでもいい雰囲気だった。
正直郡山のときも獲れない(獲らない)と思ってみてたので、87年の時点でオレの中では終了。
なぜなら最終戦・長州の挑戦が決まっていたから。カード発表で移動が無いのが分かる。 >>75
日プロが活動停止でUN・アジアヘビー・アジアタッグがその時点で一度消滅したのに
インターヘビーとタッグだけベルトが生きていたのが謎なんだけど 大木金太郎がベルト持ち逃げして韓国に帰った時点でインター王座復刻すればよかったのにな
PWFなんてヘンテコな王座作ったりしないで でもまあ大木が国際でインター防衛戦開催しちゃった後で、いきなり手のひら返して
全日のリングで防衛戦やらせるわけにはいかないよな。>>74さんはそれがわかってないと思う。 >>80
馬場が日プロ離脱するとき、結局諦めて返上したけど一度はインターもったまま退団しようとしたんだよな。
本人も未練あったから、インター王座って名のタイトル新設する気にはならなかったんだろうな
復活トーナメントのときには、さすがに自分の腰に巻く気はなかったようだが 全日本旗揚げと日プロ崩壊にはタイムラグがあるから
どちらにしてもシングル王座作る必要はあった訳だな
猪木も東プロ時代にヘンなタイトル作ってたし
団体経営にはベルト不可欠なのかもなぁ >>81
そりゃ理解できんよ
大木が国際に上がって
馬場との関係が切れたからインター王者として認めない
というならまだわかるが
大木はその後、全日に再登場するんだから
わざわざストーリーに絡ませないほうが奇怪だよ そりゃあタイトルマッチなら売り値が上がるから当然やろ >>84
大木は全日では78年ごろにすでにトップグループから脱落してたからな。
国際に転出した時も「払下げ」の印象が強かったし。
王座の正当性はもちろん、コンディションも悪かった当時の大木を
トップで使うのは難しかったのでは? >>84
日プロが潰れて大木が全日に上がって以降、一度もインター王者としては認めてもらえずに
防衛戦もやらせてもらえなかったからこそ、大木は国際に移籍してまで防衛戦をやったのでは?
国際に移籍するよりずっと前から、大木のインター王座はそんな扱いだったんだから。 ブロディ、全日から帰っても確認できる限り3週間くらい試合に出てないだろ。
1試合出てたような記憶あったけど、記憶違いだった。
GCWはその間も興行やってたし。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=786&page=4&s=800 >>79
>UN・アジアヘビー・アジアタッグ
の王者は、旧日本プロレス選手=全日の配下に
なったから、廃止するのも復活するのも馬場の
一存だっただろう。
インタータッグは、アメリカに流出中。
これは日本側として奪還せざるを得ない。
インターシングルは、日本の看板タイトルだから
廃止するわけにはいかんが、大木に防衛戦を
させるわけにもいかん、と。 >>88
売れっ子でも普通に3週間位休むでしょw
毎日試合なんかできるか、ボケ! >>90
3週間休んでる期間が普通にあるのなら具体的にいつからいつ迄休んだか挙げてみろ。
普通にあるのなら最低2〜3回の実例を挙げろよ。
さっさと報告しろよ。 アメリカの売れっ子は休みなんかろくに無いと思うが…
70年代終わりはどこの地区も不況に陥っていたけれど、それでも
東海岸とミネアポリスは盛況だったというし、羽振りのいい時は
家に帰る時間もなくて離婚必至になるのが売れっ子の宿命だった。
マサ斎藤ですらフロリダで高千穂とコンビを組んでいた頃は一年で
一、二日しか休みがないほど試合をし続けていたし(おかげで目を
傷めても病院に行けず、片目を失明することになってしまった)
東海岸のWWFエリアでは「1日に国境を往復して2試合する」
なんていうハードスケジュールが続く生活をする羽目になって
精神を病みかけたとか。
ブルーノ・サンマルチノも休みなしの生活で家庭が崩壊するからと
王座をリタイアし、復帰の際には(WWWFの複数スター制移行による)
自身の年間契約試合数の削減を絶対条件にしていた。
まあそれらは極端な例にしても、この時期のブロディのサーキット・
コースがよく分からないものの、3週間試合をしていないっていうのは
やっぱり異例だろうな、アクシデントは本当だったと思いたい。 ブロディは全日から新日に変えたあたりはかなりスケジュール空いてるけど特殊な
理由だからな。新日で稼げるからあくせく働く必要もなくなったんだろうし。 テリー・ファンクもNWA王者時代に離婚したし、キニスキーの奥さんは寂しさのあまり
アルコール依存症になって自殺してしまった スティングとかいい選手だと思ったけど、なんで一回だったのかな?
TNTは二回来たけど、もっと全日で見たい選手だった。 >>44
いい加減にしろ。
こっちは当時、都心から松戸まで見に行って
ブロディ欠場で心底ガッカリしたんだ。
そんなアングルあるかって。
ドリーを優勝させたいなら、ドリーがブロディに
反則勝ちすればいいだろ。
ブッチャーが新日本に離脱直前。
全日本としてはなんとしてもブロディを
売り出したい時に、試合させずに欠場させるわけもない。 とりあえずブロディのDVDの付録の
試合記録集によると
4月27日の愛知県体の馬場戦以降、最初の試合は
5月23日アトランタのジョニー・ハワード戦に
なってるぞ。 なんかにちょびっとブロディが出てた記憶あるから探したら試合はしてないが
これに出てるんだな。逆に言うと試合は無理だったんかしれんしな。
https://youtu.be/zX-wTRIqMWU 本来ならファンクスの兄弟対決をやるのに
何のアングルもなく宣伝もなしにやるわけない。
ブロディ欠場のお詫びのカードだろ。
最初から決まってたなんてありえない。 いちおう王者(前だけど)の大木が
ヒラで決定トーナメントに出るのがバカにしていると思った。
決定トーナメント優勝者と大木で決定戦がいろいろ折衷案だろうが妥当じゃないかな。
ブロディ(ないしドリー)×大木で新王者決定、なら松戸でやるのにちょうどいいカードだし。 >>99
新日本は創立10周年記念興行を何回かに分けて開催したから、全日本も各シリーズに大会場で記念興行を設けてほしかったな。
インター王座決定トーナメントの最終戦を大阪府立でやって、くじ引き後に会場前で「ドリー対テリー決定!」と宣伝したら当日券求める客が殺到したかも?! >>100
> ブロディ(ないしドリー)×大木で新王者決定、なら松戸でやるのにちょうどいいカードだし。
もうあのころの大木はロートルもいいとこだったろう?
大木のシングルがメインのカードなんか弱すぎるよ。 その辺はアンダーカードでなんとかしてもらうんだよ。 確かに当初は大木もトーナメントに参加予定と発表されてたね
最終的には大木が恥をかかされるデメリットよりはと、全日が「管理」していたことになっていた
アジア・ヘビーのベルトと物々交換する形でインターを譲り渡して、以後韓国マットでは
インターの代わりにアジア・ヘビー級タイトルを興行の看板にして防衛を重ねていた
全日も大木の影を出さずに済ませるのにはメリットがあった
「自分が持っているもっは持ち上げ、他人が持っているものはこき下ろす」のがビジネスの
基本(だから力道山がWWAと提携していた時期、日本のプロレスマスコミはNWAを
「過去の遺物」とこき下ろしまくっていた)
インターを「韓国や国際で防衛戦を続けてきた大木からベルトを受け継ぐ」のではなく、
「馬場が返上して以来有名無実化していたベルトをNWAの勧告により復活させた」という
ストーリーを喧伝して、馬場より後のインターの歴史をほぼ無かったことに出来たから >>104
物々交換じゃなく、アジアヘビー+金銭だね
まして首の負傷でトーナメントに参加できるような状態じゃなかった >>96
松戸だからっていうのはあるね。都心なら暴動になるから。
さすがに決勝戦を反則決着でベルト獲得とはまずいので、欠場にさせた。 インターナショナルの大木 UNの高千穂はドサクサでチャンピオンになったようなもので
正史ではなかった扱いだね >>106
> 松戸だからっていうのはあるね。都心なら暴動になるから。
そんなんで暴動にはならねえよアホw >>95
スティングが初来日した89年6月で、全日本とWCWの提携が終わったからだよ。
89年前半に全日本に来日したリッキー、ウォリアーズ、スティングなどWCWとの契約レスラーは
これをもって最後の全日本来日となった(馬場死去後、ウォリアーズのドーム参戦は除く)。
スパイビーもその流れにいたんだけど、ハンセンのパートナーとして90年3月に全日本に復帰した。
この89年6月以降に参加する外国人選手は、全日本をメインとする"ゼンニチガイジン"になった。
TNTは87年最強タッグでの馬場へのトラースキックが見事だったね。
確かに良い選手だけど、親分・ブッチャーより目立ってしまうことやブッチャー&シンが既定路線
となったから全日本での立場がなくなった。
また、88年7月のブロディ死去で全日本とプエルトリコ(WWC)の提携も終わったしね。
その後、新日本とWWCの提携で、コロンの愛弟子であるTNTも90年から新日本に参戦することになった。 ブロディの件で馬場とコロンは切れたのかな?
NWA末期迄かなり蜜月だったようだし。 松戸を復活インターの決勝の場としたのは馬場がインター王者時代の
日本プロレスコミッショナー川島正次郎ゆかりの土地だったから。 なら馬場がブリスコを破ってNWA王座を獲得したのが鹿児島だったのは二階堂コミッショナーゆかりの地だからなのか? >>110
解説アリガトウ!
スパイビー・スティング組、スヌーカ、TNT組なんて絶対盛り上がったよね。TNTはカブキともペイントタッグも良かったと思う。 古い話で恐縮だが、82最強はリッキー・スレーター組を2年ぶりに参加させる発想は無かったのかね?
そしてレイス・スヌーカ組なら史上空前の大会だったと思う。やはりジェイみたいな配給係もいないとダメなのかね。 ブロディが3週間も試合が無いはずがない!って言ってる人がいるけど、
NWAの王者とかじゃないんだからそれって普通じゃない?
日本だって、シリーズとシリーズの間はそれくらい普通にあったよ。
オフの自宅でトレーニングだってあるだろうし、そんなに否定する意味がわからん。 >>111
団体レベルでは切れただろうね。
83年〜87年にかけて、WWCの主要レスラー(幹部)が毎年全日本に来日していたけど、ブロディ死去後はなし。
83年 ビクター・ジョビカ
84年 ヒューゴ・サビノビッチ
85年 ミグエル・ペレスJr
86年 スーパー・メディコ、ジ・インベーダー3号
87年 カルロス・コロン、ジ・インベーダー1号、TNT
この5年間が馬場とコロンの団体としての蜜月時期だと思う。
全日本からも冬木が「リッキー・フユキ」の名で参戦、馳&新倉も馬場経由、輪島と馬場自身も参加していた。
レスラー個人では、ブッチャーのようにプエルトリコでコロンとビジネスを継続したレスラーもいるけどね。
ハンセンは87年7月にホセ・ゴンザレス(ジ・インベーダー1号)と一緒に来日してるんだな。
まさか1年後にあんな事件が起こるとはね。
ハンセンvsコロンもWWCの「歴史的抗争」として、EGプロダクション(キャピタル・スポーツのメディア会社)からビデオ化されている。
ハンセンのWWC参加は87年9月の『アニバーサリオ'87』が最後となった。 >>113
長崎、鹿児島、函館。
馬場×ブリスコは中央から遠く離れた場所が多い。 コロンは石川と両リンだったね。さすがに上で使おうとは思わなかったんだね >>64
>当時のテレビでも映ってたけど、ブロディは馬場を秒殺した後、もう一試合の
準決勝、ドリー対ブッチャー戦に乱入してブッチャーを反則負けにした後に
威勢よくリングから飛び降りた時に、変な形で床に着地して足を引きずりながら
退場していた記憶があるんだけど…
ドリー対ブッチャーの映像持っていたので確認したところ、あなたの記憶通りで
滑って体勢が崩れたような感じで左足が折曲がった状態で先に着地し、
右足は伸びた状態で着地しています、この時捻挫した可能性は高いですね。 >>122
おお、確認ありがとうございます!
このスレの方々は凄いですね、本当に >>106
アホか。同年10月蔵前のドリーブロディ戦、
11月後楽園の再戦。
どっちも反則決着だったが、暴動なんか起こったか?w
その頃の全日本なんて反則決着のオンパレードだよ。
大体「松戸だから」って、都心からも遠くないし、
実際俺も見に行ってるんだから、ふざけるなって
話だよ。 後、カーニバルでも「決勝戦、最終戦の反則勝ち」は、76年のブッチャー馬場、82年の馬場ブロディと、いくらでもあるだろ。 最強タッグでファンクスがハンセン、ブロディ組に反則勝ちで優勝した時も
同じく鶴田、天龍組が反則勝ちで優勝した時も暴動なんか起きなかったぞw >>116
1981年の前後2〜3年でそんなにあいてるの他にないだろ、2週間なら2回あるけど。
いい加減なこと書かないで具体的な例を挙げろよ。 インター王者決定トーナメント
乱入しまくりの変な決着ばかりだったような覚えが 松戸といえば1984最強タッグの開幕だったな
なぜか苦楽園ホールではなかった
入場式は後楽園が似合う、ていうか馴染みの度合いでもあるけど >>129
松戸はなんか見ていて圧迫感のある会場なんだな。開放感が無い。
だから最強タッグの華やかな雰囲気も若干下がったと思う。 >>129
88年最強タッグ開幕戦も松戸だったけ?
阿修羅原解雇の会見が冒頭流れて落ち込んだわ。 原解雇の時に馬場は「良いレスラーだったんですけどね・・・」と
レスラー原には未練がありそうだった
893から多額の借金じゃ流石にかばいきれなかったんだろう >>110
89年8〜9月のサマー・アクション・シリーズ2に参戦したダイナミック・デューズもWCW
シリーズの前後のアメリカン・バッシュやハロウィン・ヘイボックに出てた 羽賀研二もそうだが、アンナの親を見越して
貸す方は貸すんだろうか。
沖縄の店も、開店数時間前に
未納だからオープンできないよ。となって
急遽アンナパパが肩代わりしたとかさ。
策士じゃないか。 >>135
取り立てに893が来るようなら、元金の出所も、、、 12月6日に最強タッグが終わって、正月まで試合がないことなんて普通にあるだろw
暇人の相手してやるよ〜 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00000000-tospoweb-fight
既出だったらスマンが
天龍と和田京平が轡田のクーデター未遂事件について語ってたけど
猪木日プロ追放といい昭和プロレスのえげつない話は高確率で小鹿が関わってるよな >>139
それにしても天龍は本当に渕が嫌いなんだなw >>113
二階堂は新日側のコミッショナーなので二階堂の地元だからというのは無いだろう。
でも二階堂は田中派の大番頭だから馬場と田中角栄が同じ新潟ということで少しはあったかもしれない。
猪木がバックランドからWWFのベルトを奪取した徳島は角栄の懐刀の後藤田の地元であると同時に
田中派にとっては天敵ともいえる三木武夫の地元。
なぜ鹿児島かというと全日本プロレス中継を放送していた南日本放送社内の
局内主流派のJNN=TBS派に対しての日テレ派の鞘当てすかしっ屁みたいなものだと思われる。 >>140
相変わらずジャンボをチクリとディスるよな。
川田同様一言多い! >>139
猪木日プロ追放は上田馬之助が密告者じゃなかったっけ、
まぁ小鹿も「猪木ぶっ殺せ」と桜田あたりを焚きつけてたようだけど 昭和プロレスって、タイトル移動の会場はどんなに辺鄙な地方でも、
最低限の設備のある体育館での試合であることが必須だったな。
それこそ当時でありがちな、「〇〇駅前広場」「●●ショッピングセンター駐車場」「△△青果市場特設リング」
等ではタイトル移動はないw >>141
二階堂氏がコミッショナーに就いたのはずっと後だろというツッコミが来るかと思ったら思わぬマジレス恐縮です。
政治家の派閥には疎いもので勉強になりました。
補足というか訂正というか、全日本プロレス中継を当初放送していたのはKTS鹿児島テレビ(フジテレビ主体で日テレ、テレ朝混合)ですね。某サイトには1985年までMBCが放送と書かれていますが誤りです。
92年からMBC南日本放送へ引っ越し(KTSがF-1中継のために全日中継を度々休止したため)94年に日本テレビ系列のKYT鹿児島読売テレビ開局と共に本拠地へ引っ越しという流浪の番組でした。
釣りにレスしてくださってありがとうございました。 大宮スケートセンターや博多スターレーンみたいな有名な特設会場でのタイトルマッチはあったのかな。
昭和の全日は博多スターレーンは使ってないかな? >>133
893が試合会場にまで取り立てに来てさすがにアウト
全日本解雇の時点で馬場にも700万借りていた
馬場さんから「それ返さなくていいから辞めてくれ」って言われちゃって
ソースは2001年の紙のプロレスの阿修羅インタビュー 昭和全日の隠れた名会場?
「大阪万博お祭り広場」
観客動員数が一万とか記録が残っているけど、ただの広場にそんなに入るわけないw
多分実数の10倍発表というノンビリ感満載の昭和プロレス風情。 >>146
プロレスに使われたスケート会場というと品プリゴールドホールも有名だが、昭和全日では使ったことあったっけ?
東伏見アイスアリーナはさすがにどこの団体も使ってないはず
>>148
万博のお祭り広場ってデストvsブッチャーのUSヘビー戦やった会場だな
ブッチャーの凶器攻撃でデストの白覆面が真っ赤になったの覚えてる
ちなみにこの会場では、FMWが大仁田VSポーゴで3万人以上動員した記録があったはず
100mX300m以上あってとにかく広いから、座席の設営の仕方次第でかなり入るよ 田上vsリック・ルードが行われた日が最後の万博お祭り広場か >>146
大宮スケートセンターで開幕したシリーズがあって、ロビンソンが鶴田のUNに挑戦していたと思う。
79年だったかな?エリック兄弟が初来日した、デストロイヤーさよならシリーズかな?
>>149
品川ゴールドホールと品川アイスアリーナは、同じ敷地内の別会場じゃないのかな?
品川アイスアリーナは78年夏にテリーがブッチャーとの一騎打ちでリングアウト負け、
翌年夏にはファンクスvsブッチャー、シークが品川で実現した。
ゴールドホールの方は、大学生だった昭和の終わりに高井麻巳子のライブを見た記憶があるw >>153
ゴールドホールは品川駅から見ると第1京浜向かいにホテルがあり、その坂上。
1階がゴールドホールで2階がボーリング場で新日がよく使ってたが天井が低い。 >>149
例えば武道館のアリーナで、平面8列+ひな壇10列=18列で2000人。
ドームクラスでその1.5倍で3000人。
フラットな広場ではそれがキャパの限界。
ひな壇なしでとにかく客だけ平面なな広場に詰め込んだら、ほとんどの客は何も見えないよ。 >>149
記憶では東伏見はないはず。
>>153
79年スーパーパワーシリーズでロビンソン対鶴田UN戦。エリック兄弟初来日。調べたら、ありました。
大宮スケートセンターも品川プリンスも一度はそこでプロレスを見たかった。 >結局、事前にバレてサムソンは即刻クビになったんだ。
>まあ、ジャンボは相づちを打った程度だったらしいけど。
なんか光景が想像できるなww
「俺たちのプロレス」の越中インタビューでの前座中堅互助バトルロイヤルの件やら
日プロのお宝をNETに持って行かれるのを阻止した件やら
このクツワダのクーデターを芽のうちに摘んだ件と言い、小鹿って小才が利く人だな。 >品川プリンスも一度はそこでプロレスを見たかった
どっかの団体が、宴会場にリング設営してプロレスディナーショーとかやりゃいいのにね
客はせいぜい100〜200名程度だろうけど、1人当たり3万円くらいとって
豪華料理に舌鼓うちながらプロレス観戦とレスラーのトークを堪能とか >>144
特リンでタイトル移動は世界タッグ戦ハンセンゴディvs鶴田谷津
函館市千代台公園陸上競技場特設リング >>153の品川アイスアリーナは誤り、正しい名称は品川スケートセンターだったな。 >>158
松田聖子のディナーショーみたいに50、40の子金持ちを集めてと行きたいけど、
昭和に活躍した全日系ではその年代でカードが組めないのは残念。
小鹿、戸口、百田、渕、大仁田、越中、小川、、、京平
無理だねw >小鹿って小才が利く人だな
小鹿「あんなに尽くしてやったのに、馬場め無慈悲に俺を切り捨てやがって」
馬場「所詮大熊の移籍の誘いを断ったくせに、食い詰めてうちに流れてきた奴
俺もいつ裏切られるかわからんし、永源が手に入ったからもう用済み」
お互いこんな風に思ってそう >>162
実際に切ったのは当時の松根社長だからな。
「世代交代を図って大熊、小鹿を切りたい。」と言ってたという佐藤昭雄の証言がある。 >>158
90年代後半頃に新日がやってないか?
馳が「ホテルでのディナーショーなので平成維震軍、レイジングスタッフなど
人相の悪い人は出れない」と自分の顔を棚に上げて言ってたのを読んだ記憶あり。 大宮スケートセンターは86年チャンピオンカーニバルで
AWA、PWFダブルタイトルマッチとUN王座決定戦を同日にやっているな
UN王座決定リーグ戦は全く盛り上がらなかった。
谷津は棄権してカーンもオレイ・アンダーソンも原もリーグ戦は0点だった。
谷津が欠場しなければ盛り上がったとは思うが。谷津の怪我はガチ、アングル? >>163
結局大熊は最後まで全日残れたけど、小鹿は切られた。
どっちか1人だけってなったら、子飼いで裏切る心配のない
大熊を選ぶのは当然か
でも大熊は早くして亡くなったけど、小鹿は今でも健在だし
人生どう転ぶかわからないね >>149
大仁田VSポーゴは主催者発表で約7千。
別のとこと勘違いしてないか?
>>152
全日としてはそれが最後。
翌年同時期に行われた新日の興行が同所での
最後のプロレスだと思う。 >>167
大阪お祭り広場は93年9月に
WARが興業を打っていた。
天龍&石川vs蝶野&馳
がメインだった。
前年8月にもW☆INGがマスカラス&カネック
のタッグなんてもあった。 >>145
ついでに言うと猪木の後援会長が田中角栄の政敵の福田赳夫で
コミッショナーには福田派の政治家になってもらうというのが普通だが
福田派とはライバル関係の田中派の二階堂を据えたというのも変わった人選。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています