1981年12月にブロディがスヌーカを血だるまにして仲間割れしたのも、
ハンセンが全日に来たから古いパートナーを解約するための決別儀式
なんだろう、と思っていたものだけど、実は売れっ子のスヌーカが
WWFのツアーに帯同するために日本には来ることができなくなったため
日本でのタッグを維持できなくなったのが直接の原因だったんだな。

逆に翌年82年秋にスヌーカがプロディと「決着」をつけるために来日
したのは、本格的にWWFに定着することになって当分来日する機会が
見込めないほどの人気者になってしまったため、全日本に残っていた
契約を消化してしまうための措置だったとか。
この来日の間、WWFでスヌーカは「首を負傷して治療していた」ことに
して姿を消し、アメリカに戻った時にはベビーに転向する手はずが
整えられていた。

日本でレイスと組んでの最強タッグ出場をキャンセルした82年11月に
WWFでベビーに転向したスヌーカは、(前にここで話題に出ていたように)
復帰したネイチャーボーイ・バディ・ロジャースとタッグを組んで大々的な
「全米の顏」になる。
ビンスが全米侵攻に勝算を感じたのも、ホーガン獲得以前にこのスヌーカの
大人気で興行がうまく行くようになったのが大きかったのだとか。
(翌83年に年間興行数を472→592と激増、この年にNWAを脱退する。)

だからその後も来日したスヌーカからしてみれば、ハンセンやブロディは
本場では「完全な格下」なんだけど、日本では一歩引いて常に立てていて、
それが「エリアが違えば格が変わる」アメリカマットに生きるレスラーの
常識だったとか、後から知ると色々面白い。