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函館の体育館、ブリスコ×馬場のNWA戦で
7000人入ってることになってる。
>>183
アジアヘビーと統一戦だな。
馬場発電所×シン上田
フレアー×鶴田
大木×ドリー
ブロディスヌーカ×レイステリー プロレスクラシックの再放送を観ていて、そういえば谷津って3ヶ月弱の間にインター、UN、PWFの各シングルに挑戦してたんだな
3つのタイトルに挑戦したことあるというとブッチャー、レイス、ブロディ、ロビンソン、ハンセン(UN単独はなし、ダブルタイトル戦)くらいしか思いつかない >>191
ヤオ丸出し。当時のオレが見てたら怒り狂っていたわ。アメリカのプロレスは偽物だあ、と。 >>203
ちょっと前の新日スレで、中東ドバイ遠征の時にキラー・カーンが
長州を5分であっさりフォールしていたり、アレンが坂口を6分で
フォールしていたり、韓国では韓国人ヨウ・コンブとして試合に
出ていた星野勘太郎が藤波のジュニア王座を奪う幻のタイトル移動が
あったりといった海外での意外な試合結果が話題になっていたけど、
本当にプロレスは「所変われば格変わる」なんだなあ。
サンマルチノがセミリタイアして以降、全米一のマーケットだった
WWFの東海岸エリアで観客を呼び込んでいた顔役の人気者の系譜は、
ストロンポー→アンドレ→スヌーカという流れで、大関格として
モラレス、プトスキー、トニー・ガレアらがいた、と後で知った時は
かなり驚かされたものだった。70-80年代の日本のプロレスファンの
感覚では理解しにくいメンツで「日本のエース格も、現地に行ったら
こいつらにやられるのが当然なのか」と不思議な感覚になったな。 熱海後楽園は天井がものすごく高く、畳だが広い会場。 1981年12月にブロディがスヌーカを血だるまにして仲間割れしたのも、
ハンセンが全日に来たから古いパートナーを解約するための決別儀式
なんだろう、と思っていたものだけど、実は売れっ子のスヌーカが
WWFのツアーに帯同するために日本には来ることができなくなったため
日本でのタッグを維持できなくなったのが直接の原因だったんだな。
逆に翌年82年秋にスヌーカがプロディと「決着」をつけるために来日
したのは、本格的にWWFに定着することになって当分来日する機会が
見込めないほどの人気者になってしまったため、全日本に残っていた
契約を消化してしまうための措置だったとか。
この来日の間、WWFでスヌーカは「首を負傷して治療していた」ことに
して姿を消し、アメリカに戻った時にはベビーに転向する手はずが
整えられていた。
日本でレイスと組んでの最強タッグ出場をキャンセルした82年11月に
WWFでベビーに転向したスヌーカは、(前にここで話題に出ていたように)
復帰したネイチャーボーイ・バディ・ロジャースとタッグを組んで大々的な
「全米の顏」になる。
ビンスが全米侵攻に勝算を感じたのも、ホーガン獲得以前にこのスヌーカの
大人気で興行がうまく行くようになったのが大きかったのだとか。
(翌83年に年間興行数を472→592と激増、この年にNWAを脱退する。)
だからその後も来日したスヌーカからしてみれば、ハンセンやブロディは
本場では「完全な格下」なんだけど、日本では一歩引いて常に立てていて、
それが「エリアが違えば格が変わる」アメリカマットに生きるレスラーの
常識だったとか、後から知ると色々面白い。 ちなみにチャボ・ゲレロの三大王座挑戦・全勝の内容は
NWA王座 1977年4月8日 ロスアンゼルス
王者ハーリー・レイス
チャボが一本目をボディアタックでフォールの後、時間切れ
AWA王座 1977年4月27日 サンアントニオ
王者ニック・ポックウィンクル 反則勝ち
WWWF王座 1978年2月10日 ロサンゼルス
王者ビリー・グラハム ドクターストップ勝ち
チャボはアメリカス王者として1975年から76年にかけ、
テリー、ドリー、パターソン、ラッドらを相手にタイトル
防衛を果たしている >>169
新間寿「アントニオ猪木の伏魔殿」に参院選立候補にあたって福田氏に挨拶しに出向いたことが書いてありますね。
当時自民党には消費税とリクルート問題で逆風が吹いていたので自民党公認にはならなかったが、順風なら自民党公認を得られたとのこと。
実際猪木は自民党候補者の応援に何度となく立ち会っていた。
馬場が政治家と一緒に写った機会といえばオールスター戦後、控え室で二階堂コミッショナーとロード・ブレアース会長を交えた集合写真が有名ですね。
ブレアース会長を輪の中に入れたことでプロレス的世界観を保つことができたと感じました。 >>205
テリーも
インター ドリー
UN ブッチャー
PWF 馬場、長州
日プロや海外も含めるとキニスキー、シーク、カマタ よく出る話だがその手の海外での落差が一番露骨なのはカネックだろう
地元メキシコではアンドレ、ハンセン、シンに負けないのに
日本だと雑魚になる
「メキシコは高地で空気が薄いので地元のカネック有利」とか書かれていたが >>207
>本当にプロレスは「所変われば格変わる」なんだなあ。
それ考えたらマスカラスってすごいな。
どこのテリトリー行ってもベビーで、しかも絶対に自分の格を落とさない
状態を何十年もキープしてたんだから。
ヨーロッパ遠征した時はボックに負けたって記録みたことあるけど、
どんな試合だったんだろう? >>212
そうか、テリーはブッチャーのUNに挑戦してたな
カマタのインターとキニスキーのUNは全く覚えてないわ >>209
細かくて割りが、スヌーカを血だるまにしたのは82年4月では?チャンカンのあと。 >>207
新日で
越中>スティング
中西、健介>フレアー
スティーブ・オースチン>アーン・アンダーソン
蝶野、馳>リック・ルード
全日で
スパイビー>スティング
鶴田>バリー・ウィンダム、フリッツ・フォン・エリック
天龍>スティンボート
UWF系で
高田>マーク・ルーイン、バックランド
安生>アイアン・シーク
アメリカのファンからしたら「何だそれ!?!?!?」となる。 >>205
長州がいなくなった後の谷津は外敵一番手だからね。挑戦者が谷津しかいなくなっちゃった。
何気に快挙が多い。ハンセン・ブロディ・ホーガンとタイトルマッチしたのも谷津だけ! >>214
マスカラスは「サンフランシスコでは中堅扱いされた」とプロモーターの
ロイ・シャイアーに怒っていたらしいけど、よく分からないのがマサ斎藤が
渡米してすぐにサンフランシスコに登場した1968年6月22日のカウパレス大会。
4月のカウパレス大会でシングル王座から落ちた当地のトップヒール・キンジ
渋谷は興行の看板なので、翌5月にはすぐタッグ王座に就くのだけれど、
シャイアーにあてがわれたタッグパートナーのハル佐々木を気に入らなかった
渋谷はミスター・モトから渡米したばかりの斎藤を推薦されてテストマッチを
組んでもらい、大いに気に入って佐々木から斎藤へパートナーをチェンジする
1968年05月11日 キンジ渋谷&ハル佐々木、世界タッグ王座獲得
ミスター・サイトー、同地区デビュー
1968年06月08日 キンジ渋谷&ハル佐々木、世界タッグ王座陥落
ミスター・サイトー、同地区2連勝
1968年06月22日 キンジ渋谷、斎藤と初タッグで勝利 ←★
1968年07月13日 渋谷&斎藤組、初挑戦で世界タッグ王座獲得
この6月22日の試合は、この後1年以上にわたってタッグ王座を守り続ける
斎藤と渋谷の初タッグをアピールする試合なんだけれど、流智美によると
「ペッパー・マーチン&ハム・リー組に快勝」
とあるのに、清水勉によると
「マスカラス&ハム・リー組と渋谷&斎藤と対戦」
とあり、実際プログラムの写真を見るとマスカラスの名前がある。
タッグ売り出しの試合で渋谷&斎藤組を負けさせるとは思えないので、
マスカラスがいきなり初対決の斎藤組に負けたのだろうか。
それとも土壇場でマスカラスが拒否してペッパー・マーチン(プログラムでは
その前の試合で貼る佐々木と対戦予定になってる)と交代したのだろうか >>214
後年のボック曰くシュートマッチだったそうで、マスカラス曰くボックはプロレスが出来ないだそうな。
ソースはプロレス最強のなんとかという分厚い本。
余談、その本で日本にも何度か来ているクラウスワラスがヘーシンクやルスカクラスの
柔道の超強豪だったとは知らなかった。
鶴田十番勝負のクリステーラーもそうだけど、強くてもプロレス出来なきゃしょうがない。
レスラーの評判が悪いマスカラスだけど、偉大。他にマスカラスのようにどこでもリンピオでメインイベンターって誰だろうね。 >>217
ブロディvsスヌーカ戦は82年11月2日愛知県体育館 >>218
WCWヘビー級王者になったクリス・ベノワが新日にゲスト参戦した時
ドームで天山に負けさせられたのを見た時はさすがに唖然としたなあ
もうアメリカの展開をファンがリアルタイムで追える時代になっていたのに >>211
スポーツ平和党は自民党清話会別動隊と言われていて
猪木は当選後は過半数割れの自民党会派入りするのは?という情勢が大勢であったが
スポーツ平和党は民社党と統一会派を組むことに。
それについては坂口と民社党の米沢書記長が旭化成で同期だったとか言われていたが
猪木参院選当選祝賀パーティーで登場したのが来賓の森喜朗。
国会運営に苦境の自民党三役ということで政治部の記者も取材にきている中で
森喜朗が挨拶で「猪木君は自民党と民社党をつなぐ架け橋」と口を滑らせて
周囲の関係者を慌てさせていた。 >>220
となりのロスではアメリカスヘビー獲ったりエースだった時期もあるのにね。
抗争相手のブラックゴールドマンに腹を刺された(切られた?)なんて物騒な事件もあったね。 >>218
格と勝敗は違うでしょう。
鶴田とエリックとか高田とバックランドとか。
また対戦当時と後にでも違う。天龍とスティムボートとかね。
鶴田とニックが戦いベルト奪還したところで格はニックの方が上でしょう?そういうことです。 >>225
アメリカの超大物が日本で白星配給係をさせられているのを見たりすると、
日本でマッチメーカーの山本小鉄とかがアメリカの格や人気をちゃんと
把握できていたとはとても思えないし、日本での第一印象だけで、シリーズ
通しての格を決めちゃうやっつけ仕事も多かったんだろうと思うけれど、つい
「アメリカでも隣の州で何が起きてるか、誰が人気かなんて全然気にしない
プロモーターが格を決めて、それに文句を言えずにしょぼい役回りを演じて
ますます格を落としてしまったレスラーもいたんだろうなあ」
とも考えてしまう。
そういう中で不勉強なマッチメーカーのも唸らせる試合をして考えを改めさせ、
トップを張り続けるのはそうとうな腕の持ち主だったんだろうな。
ヒール側のマサ斎藤やカブキなんかは常々言ってたね。
「人気レスラーを叩きのめして商品価値を下げたら客入りが悪くなって自分も
食えなくなる。かと言って相手に花を持たせてばかりいたら自分が飽きられて
別のレスラーと交代させられる。どうやって自分をアピールしつつ人気レスラーを
引き立てて客を湧かせられるかの勝負だ」
「メインを張っても集客力のないレスラーは前座連中からもバカにされる。
こいつがトップにいると稼げないから潰してしまえ、ということにもなる。
レスラー間でのシュートの類は、こういう時に出てくる」
などという恐ろしいことも言ってたけど。
マスカラスがその斎藤と抗争するようになったとはシスコの3年後の71年、
日本で絡むのはさらに翌年の72年になってからですね >>221
>後年のボック曰くシュートマッチだったそうで、マスカラス曰くボックはプロレスが出来ないだそうな。
全然話が噛み合ってないww
プロレスやるつもりで来たマスカラスがシュートマッチなんか受けるわけねえだろw
大方、ボックがプロレスのセオリー逸脱したカタい攻め繰り返して、
相手の地元だからと我慢していたマスカラスが
付き合いきれなくなって試合放棄しちゃったんだろうな
どこ行ってもベビーのマスカラスの神通力も、ドイツまでは及ばなかったか プロ野球にもいるだろ。メジャーではものすごい成績だったのに日本に来たらさっぱりだったとか。
逆にアメリカではずっとマイナーで日本に来たらホームラン王になるぐらいの大活躍とか。 どこまで本当か分からないけれど、マスカラスにまつわる話で印象に
残っているのは、彼がアフリカに遠征するというので、現地の悪い水に
当たる心配はないかとマスコミに聞かれたマスカラスが
「私は水が悪いと言われるメキシコで育ち、世界中を回ってきた
人間だ、抜かりはない」
と胸を張っていたんだが、帰国してから
「アフリカの水を舐めていた。これからはうがいもビールでする」
と言っていたという話w
ドラゲーのシーマたちは闘龍門時代にメキシコに行き、ウルティモ校長から
「屋台のタコスだけは絶対に食うな」
と言われていたのがある日あまりにももうまそうな匂いが漂ってくるのに
ついつい買ってしまったら死ぬほど美味くて皆で貪り食ったら、その日の
夕方には猛烈な腹痛と下痢に襲われて4日ほど寝込んだとか
ガッツ石松に言わせると「メキシコでは皿をきれいに洗ってないとかといった
問題じゃない、洗うその水自体にもう日本人はやられるんだ」というんだから
そんな地で育ったマスカラスがやられるアフリカの水ってどういうものなんだw マスカラスが初来日した時の契約書には、メキシコで映画俳優を兼ねていたから
顔面への打撃が禁止事項として記載されていたらしいよw
対戦相手の中堅レスラーは、セメントでボコボコにして二度と映画に出られない
ツラにしてやる!と毛色ばんだが、日プロ幹部に呼ばれ「こっちも合意して判を
捺した以上、もし契約違反を起こせば莫大なペナルティが生じてしまう!
オマエのギャラじゃ払える額じゃないぞ!それでもセメントを仕掛ける気なのか!
オマエは家族を路頭に迷わせてもいいのか!その覚悟は本当にあるのか!」
そう論され、泣く泣く負け役を務め、新しいアイドルヒーローの誕生に貢献した。
おそらく星野勘太郎のことだと思うけど…? (門茂男メモ) 日本料理でもふぐの肝の美味さは天にも昇る絶品で
ふぐの肝を食えたら死んでもいいというぐらいの美味らしい。 >>230
人の水との関わり方は、単純に衛生技術の面だけでなく、宗教も関係してくるからね。
プロレスから離れるが、1987年にテレ朝のドキュメンタリーで小林薫がインドを旅行した番組があった。
小林が入った食堂で使っている皿はそばにある川で洗っているんだけど、その川の上流では牛が噴をしていたそうな。
「牛が飲む水は人間も飲める水だ」というヒンズー教の思想から、現地の人は平気なんだと。 >>231
>おそらく星野勘太郎のことだと思うけど
星野走る人ぞ知る喧嘩度胸の持ち主だったけど、
マスカラス相手だとガチでも分が悪いだろうな
>>232
フグの肝は2年くらいぬか漬けにすると無毒化されて
食えるようになるらしい。人間の食欲おそるべし。
詳細はググってくれ お相撲さんがフグの肝をちゃんこ鍋に入れて集団食中毒起こした事件もあったな >>232
フグの肝は何度か食べた事があるぞ
カワハギの肝よりも上品な味
今は知らんが大分県では普通にフグの肝を客に食べさせていた その昔、人間国宝の歌舞伎役者が致死量を越えるフグの肝を食べて中毒死した
当時小学生だったがテレビや新聞一面トップと大騒ぎになった事を思い出しました
興味ある方は「フグ肝坂東」でググれば詳細がわかる ボックと言えば「猪木がボックに負けた」と騒ぎになったがあれは当たり前なんだよな
あれはボックの為の興行なんだからな
猪木が遠征したら「アリと試合したキラー(殺人者)猪木」と宣伝されてて
完全な悪役レスラー扱い >>236
養殖のフグには毒がないと言われるな。
本当かどうかわからんけど。
それでも食べさせるのは禁止だけど。 馬場ぐらいの超一流のプロレスラーになれば全国各地で当地のプロモーターの親分さんと一緒に美味いもんを食っていたんだろうな >>210
海外遠征時代の馬場を
遥かに凌ぐ実績だな >>241
当地のエースとして王座に挑戦だったチャボと
ヒールとして挑戦した馬場を比較してもしょうがない。
日本では馬場が三度NWA王者になってるから
馬場の方が上とも言える。 西海岸ではチャボの少し前にビクター・リベラ、WWA時代はペドロ・モラレス
ロスやニューヨークでは、ヒスパニック系に人気があるんだね。 >>237
歌舞伎好きの知人はいつも「○代目」ではなく「フグで死んだ三津五郎」と言うね。
それくらい印象に残る事件だったんだろうな。 >>233
聖なるガンジス川は心身を清める聖水らしいね。
沐浴してるところに牛糞大便のたぐいが流れて来たらどーすんだと言ったら、
「大事なものを扱うように両手でそっとすくってよけて流す」らしい。
夏に長期海外旅行に行くと現地に同化してしまって日本に帰りたくなくなるという知人が
「世界は一つとか人間は分かり合えるとか言うけど、インドだけは別だった。
日本の常識が何一つ通用しない」
と言っていたなあ。 >>242
そういう比較なら馬場は1968年、
アメリカの4大世界王者の内3人と
5回対戦して2勝1敗2分けだな。
対WWA世界王者、Bブラジル
6月25日愛知
ブラジル(2-1)馬場
6月27日 東京
馬場(2-1)ブラジル
*3本目、リングアウト
対WWWF世界王者、Bサンマルチノ
8月7日、大阪
馬場(2-1)Bサンマルチノ
*3本目、リングアウト
対NWA世界王者、Gキニスキー
12月1日、仙台
馬場(0−0)Gキニスキー
12月6日、東京
馬場(2-1)Gキニスキー
*3本目反則
いずれもインター防衛戦。 >>235
佐渡獄部屋だね
後の関脇・長谷川も当時ちゃんこ番だったけど
腹の具合が悪くて食べなかったので難を逃れた >>239
フグ毒は生まれつき持ってるものではなく
餌である海藻に含まれる成分が体内で変化蓄積されるものだから
養殖の飼料では出来ないのよ >>216
ニック戦が余裕あったなら
鶴田の演技力もなかなかだ。
マジでニックに腕取り決められまくってるように
見えた。
でも、そんな試合の組み立てができるのが
鶴田の地力なのかもれん、
ラッシャー木村や大木じゃ無理だから 向こう(地元とか)じゃエースだが日本じゃ員数扱いと言うとホセゴンザレスか。
まあ彼は色んな意味で国内外問わず有名になってしまったが。。
カルロスコロンなんかもこっちじゃブッチャーの子分だったが地元ではブッチャーを迎え撃つヒーロー。
それとCコロンやゴンザレス、ラリーシャープ、ナチのスタイガー兄弟等、こういったB級(こっちでいう)
レスラーって数年間で各団体を渡り歩いてるが、特に引き抜き扱いでないのが彼らの立ち位置をよく表してる。 >>246
訂正、G・馬場は1968年、
3世界王者と対戦して
✖2勝1敗2分け
○3勝1敗1分け。 >>246
いずれもノンタイトルだが
サンマルチノとは8月2日仙台で分け
キニスキーとは12月7日宇都宮で分け >秋山:確かに最初は鶴田さん、横から入ってましたね。
>今の僕はヒザからガツンと入りますけど。外国人選手との試合でも横からだった。
>当時、テレビで見ていても天龍さんが相手だとヒザを入れているのが分かりました。
ヒザを入れずに横から当たるやつでも十分キツイよな、これw
↓
https://www.youtube.com/watch?v=va2kJ7Zb4dg&feature=youtu.be&t=1121 >>231
星野は平成にマスカラスについて聞かれたら
「マスカラスは素晴らしいレスラーです、『自分だけイイカッコする』と陰口を叩く連中がいますが
終わってからブツブツ文句言う奴に限ってショッパイ試合しか出来ないレスラーなんですよ」
何十年も経って心境が変化したんかな
https://pbs.twimg.com/media/DXqe3V-X0AIdqXp.jpg 札幌の谷津の狂乱って結局なんだったの?
本人もかたってないよね 谷津乱心ね。
乱心なんて情緒の人を見たのは谷津がはじめてだし、
あれから乱心している人を見たことないねw >>257
門茂雄メモ自体が嘘だろ。
顔面への打撃禁止なんて普通に常識だし
それで怒るレスラーなんていない。
門茂雄はもっともらしい嘘が多いんだよね。 長州の新日復帰直後の藤波戦(長州が2−1で勝った試合)について
「「あの試合は1983年頃の試合とちがってセメントマッチそのものだった」と語ったのは
木村健悟である」とか
「リッキー・ワルドーはセメントマッチでタッグタイトルを奪って力道山に恩返しをした」とか
門の本って今読むと「なんじゃそれw?」って記述がけっこうある
あんなセメントがあるわけがない >>258
鶴田とのシングルの前に因縁つくるアングルだろ。 >>263
ただのそれ?ガチでマサや浜口に説教されたと思うぞ。その後大人しくなったし。 谷津、下手なんだよ
暴れ方がw
お客さんの空気が読めない
そらアニマル浜口とかマサとは違うわな
客意識して試合してないもん
だから、オリャとかバカにされる >>264
その後大人しくなったって、
アングル終了したからだろ。 https://pbs.twimg.com/media/EAzD_xkU4AI-3Su.jpg
ブラソ・デ・プラタをカットしてまで永源と栗栖をポスターに表記する
当時のジャパンの政治力の高さがうかがえるポスターだ >>267
これはひどいなw
全日所属レスラーよりジャパン所属レスラーの方が
ポスターに写真が載ってる人数が多いし
永源、栗栖よりは格上だったはずの大熊、小鹿さえ載ってない。 >>105
韓国で行っていた海苔事業が不振だったのも馬場が大木からインターを奪回するのに
好都合だった。
>>169
佐山をタイガーマスクでデビューさせるに辺り福田元総理のルートを使い緊急帰国なので
外務省を動かしている。秘書がプロレスの大ファンだった・・・
>>184
円形でひな壇の座敷もある小ホールみたいな感じでみちのくプロレスと同じく席代わり
に座布団を敷いていた。年末に巨人軍が忘年会を盛大にやっている映像を良く見る。
>>49
当時の雑誌で「プロレスラー医師になるか?迷っている」と書かれていた。
数年前にハンセンのインタビューでディンク君がハンセンの地元で医師として病院に勤務
していて「ウチの子供達が幼い時は大変、お世話になった。不思議な縁を感じるよ」
とコメントしていた。 >>267
>>268
全日の営業ボロボロだったんで
ジャパンの営業頼みなのはしゃーない
そら扱いは大きくなるよ
永源は特に猪木も認めるスーパー営業マンやし
小鹿が地元北海道で載らないというのは
その程度の影響力しかないという事じゃない?
そら切られるわ
ジャパン新日出戻り時に
永源が残ったのは馬場の配慮絶対有る筈よね
手数料のマージンとか >>270
だが単独興行では客が入らないと言うジレンマw >>258-259
清水勉が日本におけるマスカラスのワーストバウトとして挙げていた
1982年7月30日の鶴田とのUN戦も、鶴田は脈絡なく狂乱して大流血、
マスカラスのマスクを破るという試合で、「試合までの過程を含めた
すべてがワースト」と言われてしまっている
どうも日本側の「狂乱」はうまく機能させられないみたいだね
>>260
全日と対照的に新日は前座からメインの猪木まで、「狂乱」が割と
似合うというw 新日と絡んだ国際のレスラーは、井上らをはじめ
「いきなり顔面にパンチを入れられて口の中が切れた」
という話が多いね
まあ日プロ出身者(ヤマハ)らはそういう育ちをしていたからw >>267
寺西が石川、マイティよりも写真デカいというのは流石に無いな。
基本、写真大きく写っていた選手は負けないブックだったからマッチメークは酷かったね。 鶴田の狂乱といえば大木・ドク組のとき。
ジョー樋口ぶん殴ってな。 >>267
ジャパンプロレスって札幌事務所もあったのか。
バブリーな会社だったよなw >>273
永源と栗栖にばかり気を取られていたが本当にそうだな。
グラン浜田も寺西より格下扱いかw 素の鶴田は案外キレやすい性格だったのかもな
試合終わって相手に握手しようとして拒絶や無視されたら怒ってるからなw 入場のときに首にレイかけられたら、怒ってひきちぎってただろ?
そういうところの器がちっちゃいんだよ。 >>275
後のWJでタニマチオーナーになる福田氏(だっけ?)の本業が
北海道でパチ屋や不動産業手掛けてたからじゃなかったかな
札幌事務所=福田氏の本業の拠点 一般のテレビ視聴によるプロレスファンの知名度では
ゴールデンで20%以上の視聴率で猪木やタイガーマスクと戦ってきた寺西の方が
石川や井上を圧倒していた。 >>260
門茂男メモは、元ユニオン会員のシンタロー氏が門の許可を取って
「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモで構成されたもので
裏付けも未確認との事だから、信憑性は⁇だな
やたら猪木を持ち上げ馬場を卑下する、読んだ時は本当かよ?と思うような
内容になっている。 >>281
門茂雄は例の日プロクーデタの際に馬場と猪木がたもとを分かった理由として
「馬場が猪木に3000万円の借金を申し出ていたが、それを知った日プロ幹部が
急遽それを肩代わりしたので、馬場は猪木と行動を共にする必要が亡くなった」
とか書いてたな。
当時の馬場と猪木じゃ馬場のほうがずっと金持ちだったし、サイドビジネス一切
やってなかった馬場が多額の借金する理由もないし、倍賞との1億円挙式挙げた
ばっかりで借金だらけだった猪木が3000万円も金貸せるはずなけりゃ、馬場だって
それを知らないはずはないし、どこをどう考えても信ぴょう性がない >>282
上田松岡の馬場への暴力はこの人がネタ元? >>282
まずありえないことだが、仮に馬場が金に困っていたとしても
後輩の猪木に借金を申し出ることなんかしないよな。
プライドが許さないだろう。
猪木なら普通にありそうだがw https://昭和プロレス.blog.ss-blog.jp/1971-05-20
門茂雄のブッチャーインタビューとか、
どう読んでも作文だわw
もっともらしくワーク話とかを入れ込んでるから、
本当らしく見えるが。
高橋本で「全てのプロレスの試合はワークである」ことがバレた今の視点でみると、完全に嘘で
あることがわかる https://昭和プロレス.blog.ss-blog.jp/1971-05-20
貼り直し >>282
そうだよ。もちろん目撃者なし。
上田と松岡の愚痴を大きく盛ったんじゃないの?
>>284
馬場が本当に金に困っていたら、日テレか
元子の実家に金策頼むだろうしな。 門茂雄じゃなく、門茂男
この人 日本プロレスリングコミッションの事務局長までなった人だから
そんな人の書く暴露本は信用しちゃうよな。
おそらく虚実が入り混じっていると思うし、地方のプロモーターが
新興プロレス団体の興行権を買うための窓口的な組織(ジャパンユニオン?)を
創設した時点で、何かしらの利害関係が生じてきてもおかしくない。
例えば、新日本ヒイキのような… 馬場の横にもマシオ駒、クツワダ、大熊他がいたんだから
上田や松岡がそんな事をしたらタダで済むわけがない
そもそも馬場は恨みを忘れない人間だから上田がそんな事をしたら
後(1981年頃〜)にまた上田を雇うわけがない
門の話は全く信憑性がない >>289
猪木が後輩なんだから当たり前だ。アホなの?w >>291
猪木「合宿所に入って3日ぐらい経って馬場さんが来たから3日先輩になる。
ただ馬場さんは鳴り物入りで入ったから、入団はもっと前から決まっていたと思う。
だから同期でいいのでは」 >>292
そうだった。すっかり忘れてた。
>>289ごめん。アホなのは俺だったw 全日設立後ならともかく、日プロ時代に馬場が借金する理由がないわな。
そんなまとまった金を必要とすること馬場はしてないだろ。 1973年の今日は新設PWFヘビー級王座初防衛戦の日
馬場vsシークの大阪・東京2連戦も
当初はNWA王者ドリーとのダブル選手権が予定されていたらしいが
ドリーがトラクター?事故の怪我で来日がキャンセルされた
結局ドリーのNWA世界王者姿は、全日本では幻になった 当時のチャンピオンカーニバルは総当たりじゃなくトーナメント戦だから
タイトルマッチも普通にやってたんだな。 >>295
シークって米国では70年代までは超売れっ子だったそうだが、日本での集客力ってどうだったのかな。
馬場vsシークという観る前から展開が読めるカードがメインでどれほど客が入ったんだろうか。 >>297
集客力はよくわからないが、オープンタッグから初期最強タッグの成功はシーク起用がヒットだったな。
ブッチャーとシークって日本では交わりがなかったから、初めて見るような組み合わせが新鮮だった。
ブッチャーのパートナーが並のレスラーだったら、1回だけのリーグ戦で終わっていたかもしれない。 日プロ時代にまだ見ぬ強豪の筆頭で、72年にようやく初来日。坂口を血の海に沈めUNを奪取。
なので充分、73年当時ではシークの集客知名度は浸透してたのでは。 シークは74年に新日に来たことあるんだよな。
結局その1回だけだったが、定着してたら
シンとタッグ組んでたかも。
そしたらブッチャー・シークもシン・上田も実現しなかったから
昭和プロレスの風景もだいぶ変わってたな >>300
ブッチャー、シーク組が実現しなかったら
ファンクス、ことにテリーのブレイクも無かったかもしれないな。
そうなってたら全日はどうなってたんだろうか? >>302
凶器って客に見せるためのもので
本当は剃刀の刃で切ってるから嘘じゃないかと思うが。
(五寸釘持ちながら剃刀の刃で額を切ってるのを見たことがある。)
コンパスなんか客に見せづらいだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています