【馬場】BI抱を考える【猪木】
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>>850
力道山襲名を目論む大木金太郎が挑戦。
セメントを仕掛け、頭突きの連打でマツダをノックアウトするも、オーバー・ザ・トップロープで反則負け >>850
キニスキーの後のNWAへビー級王者は、
ドリーかヒロ・マツダだったそうだ。
確かに、マツダはジュニアヘビーだが、
当時、アメリカでも階級はアバウトで、
マツダは、60〜70年代初め、テーズや
ドリーのNWAヘビーにも挑戦しているし、
南部ヘビー級王座にも就いている。
ただ、やはり軽量ということは否めないので、
その点でも、NWAヘビー王者になれなかったんだろ。
もし、マツダが1969年に日本人(そしてアジア、否、非白人)で
初めてNWA世界ヘビー級王者になったら、大偉業だね。
イチローがメジャーリーグで大記録を立てたような、
まぁマット限定だが。
そして、当時、日本プロレスのエースの馬場の立場が微妙になる。
その時点で、馬場は「日本人最強」であったが、
マツダがNWAヘビー級王者になったら、やはり二番目だよ。
>69年当時はインターを同格かそれ以上の位置付けにしていたような
いや、やはり当時でもNWA世界ヘビー≧インター王者で、
インターがNWAより上ということはなかったよ。
ファンとしては、どっちが強いんだ、そして馬場にも
NWAを取って欲しい。
日本プロレスとしては、「日本人同士の世界選手権」として
マツダ対馬場、対猪木のNWA戦を開催したと思う。
まぁ結果は引き分けだろうが。そこでも内容的に
猪木戦の方が評価は高くなっているはず。 マツダは1957年に力道山に憧れて日本プロレスに入門してデビューしたが
デビュー戦で急遽道場破りにきた空手家を相手にすることになり、勝ったものの
「なぜ時間をかけて相手にも見せ場を作らせず、客を楽しめることが試合が
出来なかったんだ!」と力道山から殴られたのをきっかけに
力道山への反発心が芽生えて「打倒・力道山!」を胸に秘め日本プロレスから
飛び出して海外へ旅立っていった。 『日本プロレス事件史』
この時代に力道山の理不尽さに反発したのは凄いね(猪木は耐えたけど)
プロフィールをみると、師匠が力道山とカール・ゴッチで
ヒロマツダの名付け親が力道山を指導した事のあるボビーブランズ
生まれが神奈川県横浜市鶴見区…
年齢こそ6歳上だが猪木とよく似てるわw >>852
マツダのNWA王者はないよ。
NWA加盟の日本プロレスと対立する国際プロレスを
旗上げさせたマツダを
NWAの看板を背負わせるポジションにはつかせないよ >>854
>NWA加盟の日本プロレスと対立する国際プロレスを
旗上げさせたマツダ
正確に言うと、マツダが国際を旗揚げした時(66年10月)は、
まだ日プロはNWA加盟前だった。加盟した前後に(67年8月)、
マツダは国際から手を引いた。
まぁ、そういうことも多少あって、やはり日本人ということ、
軽量であることもあって、マツダはNWA世界ヘビー級王者に
なれなかったわけだがその見返りに、キニスキーからドリーに
移ったタイトルマッチ(69年2.11)は、おひざ元の
フロリダ州タンパで開催させてもらった、
と某有名プロレスマニアに聞いたが、それも「裏読み」かな? ジン・キニスキーがNWA世界王者の頃は、ドリー・ファンク・ジュニアよりも、フリッツ・フォン・エリックの方が次期王者最有力候補と目されていたような。 >>855
関連するかもしれないけど、マツダが来日?したのは力道山亡き後の日本プロレス
その時 Eグラハム・Sスティンボート・Dケオムカのフロリダ勢も一緒で
NWAの指令で日本マット界のマーケティングリサーチも兼ねていたという話もある。
吉原と国際プロレスを旗揚げしたのも、NWAフロリダの日本支部設立が目的で
スタートから不調だとあっさりと手を引いている。(吉原は知らないと思うが)
NWAには日プロ東プロ国際プロから加盟申請が出されていたが
東プロは崩壊し国際も不安定、日プロだけが隆盛を誇っていた事をNWAに報告すると
芳の里がメンバーに認められた…という説もある。 家にあった、月刊ゴングの昭和50年(1975年)3月号に「夢の日本選手権」が掲載されていました。
第3部その12となっていて、猪木が日本選手権を制覇した後のパーティで、J鶴田が日本ヘビー級初防衛戦の挑戦者に名乗りを上げたところで「つづく」となっていました。
あと、冒頭に「これはフィクションです」と大きく書いてありましたw >>856
エリックがNWA世界王者というのは想像できないなぁw
確かに凄み迫力からすれば 歴代王者の中でもトップクラスだろうけど
70年代レスリングの主流からは後退するんだよね…
だけど75年日大講堂の馬場とのテキサスデスマッチは
ブリスコへの次期挑戦権も賭けられていたw
ジャック・アドキッセンとしてNWA会長になったのはこの頃だったかな? 大木で思い出したけど、75年の馬場vs大木戦は何故セミファイナルだったのかなぁ?
生中継ではなかったし、こんな大一番ノンタイトルでもメインの筈
猪木への当て付けとか色々と想像してしまう…
おかげで鶴田にとっては初めて蔵前のメインに立った訳だけどね(ブッチャーも) 正確にはダブルメインの1と2だったように思うんだけどそれはさておき
タイトルマッチの鶴田×ブッチャーの方が試合としては格上というのと
馬場大木戦が不穏試合になったときに保険、みたいな見方があるようだ。 >>865
なる程ね!
大木がセメント仕掛けるなんて話もあったように記憶してる。
試合はドキドキ感はあったが 短時間の凡戦だったね
それより吉原代表と国際軍団がオープン選手権参加表明で来場したり
木村とブッチャーの睨み合いとか、そっちの方がワクワクした。
…納得です、ありがとう。 ポスター上は馬場大木戦がメインだった。
だが上にあるように不穏試合の可能性があったのと、
それゆえに「短時間決着」でさっさと試合を終わらせようという
全日本側の思惑もあって、ダブルメインの1試合目に置いたのだと思う 大木は、試合終了後、すぐに会場を後にできるように、ハイヤーを呼んでいたという話もあったな。 >>864
この時代は
タイトルマッチを差し置いて
ノンタイトルマッチがメインになる事は皆無だろうから
それに従っただけなのではとも思うな
それでもPWFのタイトルマッチにしない馬場も意気地がないとは思うが 1970年代で、メインがノンタイトル(特別試合)、
セミがタイトル戦って、確か、1978年2.8 日本武道館での、
メインアントニオ猪木vs上田馬之助(ネールデスマッチ)、
セミがS.B グラハム対坂口のWWWF戦が
そうだったと記憶している。
あとテレビ中継の関係で、先にメインエベント級の
タイトルマッチをやって、(馬場対ブリスコのNWA戦とか)
その後に大木対レイスのノンタイトルマッチが
流れたのを見た。 >>871
その頃の新日は猪木がメインが当たり前。 >>870
タイトルマッチならタイトルの格は頓着がないともいえる。
馬場×レイスのPWF ブリスコ×ドリーのNWA
馬場×ドリーのPWF ブリスコ×鶴田のNWA
という(後ろから)試合順だったことある。
イレギュラーだろうが力道山15thで
メインは馬場デスト×ドリー鶴田の前の前に
マツダ×井上の世界選手権があったね。
でもたしかに馬場は意気地がないね。 >>872
馬鹿かよ
70年代の記録調べてから言えよ ジャイアント馬場対ビルロビンソンのPWF戦もダブルメインイベントの第1試合で、その後が鶴田&デストロイヤーのタッグマッチだったこともあった。
この時はTV生中継で、馬場対ロビンソン戦を放送時間内に収めるための計らいだったと思うけどね。 馬場vsロビンソンの試合順は覚えてないが、前週の試練の十番勝負 鶴田vsロビンソンは
メインの前の試合だった記憶がある >>872
確かに猪木がメインに出るのが
普通だったが、
猪木のノンタイトルか、
坂口が挑戦するWWWFというメジャータイトルマッチ、
どっちが優先するか、とことでレスしたんだよ。
まぁ、猪木のネールマッチをセミにしたら、終了後、
メイン開始までに釘板を撤去するのに時間を取り、
客が怒るという点もあっただろうが。
>>874氏がコメしたように、
坂口がメインをとることもあった。
1975年4月、第二回ワールドリーグ公式戦。
メインは坂口対S小林、セミが猪木対大木とか。
まぁ、この試合、メインでやったら下手すると
暴動になったかも知れないが。 >>878
第5回MSGシリーズ、1982年3月26日(金)広島県立体育館(TV生中継)
公式リーグ戦 藤波対キラー・カーン 時間切れ引き分け
公式リーグ戦 アントニオ猪木対アンドレ・ザ・ジャイアント アンドレのリングアウト勝ち(1分41秒)
メインはTV放送時間内に収まったが、会場の雰囲気はヤバかったらしい。 新日本旗揚げ以降、国内の興行で猪木のタイトルマッチがその日の最後の試合じゃなかったのは
vsW・ウィリアムスとvsS・ウィリアムスだけ >>878
句読点んと改行がおかしい奴は頭もおかしいな >>882
文章の終わりには「。」くらい付けろよ。
改行はともかく、内容のどこがオカシイ?
まぁ、指摘できんだろ?
キサマ、悔し紛れにいい加減な言い掛かりを
付ける人間のクズだからな。 この間のなんでも鑑定団で身長181cmの福沢の隣に立ってた猪木、
明らかに福沢より身長低かったな
実寸178cmくらいか?
現役時代も182・3ってトコだろ 入門当時かデビュー後か忘れたけど武藤が挨拶に行ったら188の自分よりも小さくて「あれ?」って思ったって言ってたからな
192の前田も187の極真の八巻との対談で並んで八巻より小さかったし、でかい人とならんじゃダメだ 俺が書き直してやるw
>>872
確かに猪木がメインに出るのが普通だったが、猪木のノンタイトルか坂口が挑戦するWWWFというメジャータイトルマッチのどっちをが優先するか、ってことでレスしたんだよ。
まぁ、猪木のネールマッチをセミにしたら、終了後にメイン開始までに釘板を撤去するのに時間を取り、客が怒るという点もあっただろうが。
>>874氏がコメしたように、坂口がメインをとることもあった。
1975年4月、第二回ワールドリーグ公式戦でメインは坂口対S小林、セミが猪木対大木とか。
まぁ、この試合はメインでやったら、下手すると暴動になったかも知れないが。 猪木の入場テーマ曲『炎のファイター』は、アリ戦がなかったらどんな曲が
使われていたのか…
猪木ファンのサザン辺りが、オリジナルで作っていたかもだけど
あの曲のイメージが強すぎて想像できないw >>889
清野茂樹氏が、日本人で初めてテーマ曲が付いたのは猪木だと言っているのですが、炎のファイターがテーマ曲として使われ始めたのいつ頃だったのでしょう?
私は、J鶴田にテーマ曲(チャイニーズカンフー)が付いた方が先だったと思うのですが。 炎のファイターとミスブランニューデイはメロディラインが似ているらしい >>890
マスカラスのスカイハイが異常にウケたので
次のシリーズから鶴田につけてみた、って感じだったか?
その後ロビンソンのテーマは空振りだったが
凶悪とファンクスで大嵌まり。 M井上がハノーバートーナメントに出場した時に各選手専用の曲が使われていて、
その話を東京12chにしたら74年に来日した新IWA王者SBグラハムの入場テーマ曲として
101ストリングスVer.の『ジーザスクライストスーパースター』を使用
これが日本初のテーマ曲とされている。
ちなみにドイツで井上のテーマ曲は、ちあきなおみの『四つのお願い』w
全日初は75年バンザイの『チャイニーズカンフー』が鶴田初のテーマ曲として使用され
https://geta88kitty.cocolog-nifty.com/photos/puro/105.jpg
マスカラスのテーマ曲は77年次期シリーズ予告BGMに使われていた
ジグソーの『スカイハイ(サントラVer.)』がそのまま採用され、
75年リリースのこの曲がオリコンチャートでも上位にランク入りしリバイバルヒット
以降の入場テーマ曲が定着した。
https://geta88kitty.cocolog-nifty.com/photos/puro/106.jpg
初のオリジナル曲は、クリエイションがファンクスをイメージして作った
『スピニングトーホールド』
https://geta88kitty.cocolog-nifty.com/photos/puro/1234381.jpg
『炎のファイター』は76年マンドリル『アリ・ボンバイエ』のカバーアレンジ
https://geta88kitty.cocolog-nifty.com/photos/puro/049.jpg
(誰でも知ってるよねww) >>891
>>893-895
ありがとうございます。
疑問が解けてスッキリしました。 >>899
それとは別に
日プロ時代のごく一時期に使われてたんだよ 全日での馬場対ペドロ・モラレス戦(MSG杯決勝戦)で、モラレスが聖者の行進の生演奏で入場したのに対し、馬場は深川木場の木遣り歌で入場したことがあったな。 >>884
俺の激闘の川田編を見直したら「椎間板が全部潰れちゃってるから、どんどん
身長が縮む…」と言ってたんだけど、椎間板って潰れるもんかなぁ 20年くらい前の
PRIDEの記者会見の時に
マーク・ケアーやマーク・コールマンと並んでた猪木は
2人より大きかった >>889
「ワールドプロレスリングのテーマ」で落ち着いてたんじゃね?
5対5勝ち抜き戦の時だったかそれで入場した事あったけど、さまになってたし。
ちょうど馬場のスポーツテーマに対抗して、みたいな感じで。 >>904
大木金太郎戦の時はそうでしたね。
あれはあれで、カッコ良かった >>904
「ワールドプロレスリング」初代オープニングテーマ曲だね
5対5の時は80年代の2代目テーマ曲時代にもかかわらず
猪木全盛期の初代テーマ曲が使用されていた >>904
あのテーマを、ブラジルっぽくアレンジした曲にしたら格好良かったと思う。
ジャングルビートな感じで。
はたまた、入場時はサンバっぽく。退場時はボサノバっぽくするとお洒落だけど
でもそんな時代じゃなかったな。 鶴田・マスカラス・ブッチャー・ファンクス等が独自のテーマ曲を与えられたのに
馬場だけ違和感があったよ
プロ野球も時代と共に変えていったのに、馬場=日テレ・スポーツテーマ
これが長かったw
その後『チャンピオン』というテーマ曲があったらしいけど『王者の魂』が
馬場のイメージにピッタリはまった。
79年オールスター戦でBIの入場曲は『炎のファイター』と『日テレ・スポーツテーマ』
だったのかな? 王者の魂は「馬場さん」のテーマってイメージだな
往年の馬場とは区別したほうがいいな かつてプロレス転向が噂された 千代の富士・高見山・山下泰裕(祖父が契約した)
本当に実現していたら、やっぱり小川直也や北尾、ヘーシンクみたいに
中途半端で終わったのかな?
まだトップになってなかった千代の富士は期待できるけどね >>911
梶原一騎の大日本プロレスだな
(このメンバーに鶴田が加わる予定だった)
梶原一騎の話では支度金として五億円の金を用意したが、計画が頓挫した際にその五億円は煙のように消えていたらしい でかい、若い、ネームバリュー、まともじゃない性格
何拍子も揃った北尾があんな感じで活かせなかったのは
本人もともかく周りと時代が悪かったんだと思う。
二団体(あるいは三団体)時代ならどこでもうまく行ったように感じるんだが。 >>912
梶原&トルコ&豊田泰光の大日本と、クツワダ&岩田(TBS元社長)&笹川良一の
新団体構想は、時期が近いだけにややこしい
どちらにも鶴田の名前が挙がっていて、ちょっと気の毒だった。
出資金は役員の私的流用だったね
>>913
差別用語で長州を罵ったり、言っちゃいけない発言でプロレスを貶めるような性格は
二団体だろうが、いつの時代でも無理だと思うよ。 >>914
確かに本人の性格はダメなんだけどね……
しかし資金を溶かしてしまってとんずらで済むような人達じゃないと思うんだけど
命は大丈夫だったのかな。梶原はともかく笹川ってねえ。 >>911
78年当時なら山下は20歳なんで、もし血迷ってプロレス入りでもして、真面目に取り組めば逆に大スターになった可能性も 1978年福田赳夫首相のスポーツ懇親会(桜を見る会のようなもの)
https://cdn.images-dot.com/S2000/upload/2019013000009_3.jpg?update=20190201102049
この頃、プロレスファンの祖父が孫・山下泰裕の新日本入団仮契約を交している。
後に本人が知って、慌てて撤回したとさ(^。^) >>916>>917
仮契約覚書の日付は昭和55年(80年)5月26日
祖父がプロレスファンとういうわけではなくて
「東海大学が孫の将来を保障してくれなくて不安だ」との理由で >>918
1980年は日本がモスクワ五輪をボイコットした年か
山下が涙で直訴していたっけな… 山下の新日入りって谷津みたいなもんか。
仮にプロレス入りして、谷津と同じような凱旋帰国していたら
ブッチャーかハンセンは凹られていたかな? >>920
世界選手権金メダリストとアジア選手権
金メダリストじゃ比較にならんと思うよ >>911
高見山の大日本プロレス入りは
1979年の予定だったかな?
その時点で36歳。
もう足腰が弱っていた高見山は、
客寄せパンダにしかならないよ。
輪島以下だな。 その1979年時点でなら
誰に聞いたとしてもプロレスに入ってもやれそう、適性ありと考えるのは
高見山よりも輪島だろ。ほぼあらゆる面で。
まぁその時期輪島にそうする理由がなくて高見山にはあっただけで。 輪島は物心着いた頃からの
根っからの相撲少年だからなあ
本当は
プロレスというかほかのジャンルにも転向は難しかったと思う 高見山は、プロレス転向の話が
出るたびに激しく否定していた。
ある時は「プロレス入りするくらいなら
腹を切る!」とまで。
そんな人間にプロレス入りして欲しくはない!
と思ったよ。 高見山にしろ千代の富士にしろ、もし全日や新日に入るんだったら
馬場はヘーシンクや輪島テンタのように、プロレスの基礎から教え
タッグを組みながら育てるかな?
猪木はまず 1vs1で対戦するか異種格闘技戦までもっていくか…
その後で正式入団になりそう(S小林形式で)
山下の場合は海外武者修行に出して凱旋デビューの谷津路線かな? 当時の高見山はCM収入が凄くて表向きは横綱の北の湖よりも稼いでいたからプロレス入りする理由は無いんだよな
本人がプロレスが好きで好きでたまらない、とかいうのでなければ
(相撲取りの表向きの収入なんて比較しても意味ないんだろうけれど) 高見山は日本帰化して親方株習得の道つけた笹川には大恩はあるけど、その恩のために相撲界から離れたら本末転倒。
この話もかなり胡散臭いレベルと考えた方がいいんじゃないのか? >>927
大位山が良く自慢げに話すよな、「俺がプロレス入りを止めたから千代の富士は横綱になれた」 90年新日ドーム大会へのの全日勢参戦。
これ以降に本気でBI対決を期待したボク。
新日と全日が交わったからその流れでと。
まず翌年91年3月のドームで期待。
そして95年4月の『夢の架け橋』で期待。
更に96年6月の『力道山メモリアル』で期待。
しかしぃ期待も虚しく幻に。
今から考えたら馬場、渕×猪木、藤原でも良かったと思う。
でも二人が同じリングに立つのは我々の想像以上に困難だったのだろう。 もしBIの対決が実現してたら
それ以降のプロレスには興味や関心を持つことはなかったかもしれないな BI対決‼ 80年代半ば頃には、もうやらない方がいいのかな?なんて思ってたよ…
自分的に馬場の全盛期は60年代だと思ってるし、猪木は70年代
特に馬場は、Bブラジルに敗れインター陥落した時を境に下り坂だったと思う。
最初から二人の全盛期にズレがあるから、
独立してからの猪木の執拗な挑発は不快だった事もある。
https://xn--zckzczcd7076bwdw.shiseiweb.com/wp-content/uploads/2017/09/cobra_03.jpg
こんな場面も見たかったけどねw 鶴田−藤波戦だって実現出来なかったんだから馬場−猪木なんて実現出来るわけがない 馬場は藤波を評価してるけど鶴田と比べられるのは嫌がってた。
現実にリングで対峙しちゃうと体の大きさが違いすぎて困るんじゃないか。藤波が勝ってもリアリティが無さ過ぎ。
馬場が著書で新日のエース候補として挙げていた長州谷津は全日で対戦ができているので、
この時代なら此処までじゃないかと。 一番可能性があったのが、90年2月10日の東京ドームだよね。
あの日、藤波が腰痛で欠場していなければ
五輪コンビvs藤波&木村(或いは木戸)になっていたと思う。
鶴田は藤波が対戦をアピールしていた事についても
マスコミに吠えていただけで、具体的に交渉してこない姿勢が
新日の従来のやり方として嫌っていた。 >>938
藤波と三沢ってどっちがデカかったんだろう? >>940
三沢だな。
公称身長は、二人共最大で186cmだが
藤波の方が、サバ読み幅が大きい。
全盛期で三沢182、藤波が180あるかどうか。
2007年頃、ノアの武道館で
三沢&潮崎対藤波&西村という試合を見たが
この時、三沢は肥大化して、逆に藤波は老化で
小さくなっていたが、それにしても
両者が合いまみえると、三沢がデカく見えたよ。 ヘビーギリギリの藤波とヘビー級の三沢ってイメージ強い >>934
1976年頃なら、BI対決は面白かったと思うよ。
馬場は大木、木村、鶴田を倒していたし、猪木も小林、大木、坂口を倒していたからね。
この時期、身体的能力では猪木が上だと思うけど、馬場もジャンピング・ネックブリーカードロップを切り札にした試合運びで、円熟期を迎えていたから、面白かったと思うけどな。
でも、猪木が異種格闘技路線に足を踏み入れたことで、BI対決も幻に終わったね。 >>943
猪木からすれば馬場と戦うことにほぼメリットしかないけれど、馬場からすればほとんどメリットが無かった
もし戦えばお互いに団体持ちである以上、引き分けか1勝1敗という結果にしかならない
(猪木がブック破りをして先勝したままトンズラする可能性だってある)
日プロ時代に猪木に16戦16勝している馬場からすればそれは大きな後退である
ミスター高橋の暴露本以前のことだけれど猪木が取材で「そういえば馬場さんには一度も勝っていないんですよね?」と尋ねられて、物凄くムッとした顔で
「お互いに駆け出しの頃のことです」
とお茶を濁すように答えていた
多分この「馬場さんには一度も勝っていないんですよね?」と質問されることは度々あって、その都度猪木は腸が煮えくりかえるような思いをしてきたのではないだろうか? >>944
新日のビデオで正に武藤が猪木にその質問をぶつけていた。
猪木は「道場で負けたことは無かった」「馬場に言われた、プロレスっていいよな、と」馬場がいいよなと言った意味は俺は飲めない的なことを言ってたと思う。 >>945
猪木はプロレスほど厳しい商売はないという考えだったから
馬場が安易にプロレスっていい商売だなという考えには同意できなかったらしい 川田がまだ現役でまだムスっとしていた頃にボソッと一言
「プロレスくらいいい商売ないよ。社長を殴って蹴って金になるんだもん」 >>946
トルコには「プロレスなんか辞めてもっと金になる事やりましょうよ」みたいな事言ったんだろ トルコも 猪木についたり馬場についたり…
日プロ時代は猪木シンパで、NETが中継を始めるとメインレフェリーだったな。
門の書では、トルコが裁く猪木の試合はセメントだったとw
まことしやかに描かれている。
この前、70年12月の大阪で行われた馬場vsキニスキーのインター戦を見ていたら
コミッショナーの認定宣言を門茂男が読んでたよ
この頃までの門は、馬場派でも猪木派でもなかったが
おそらく73年創立1周年の全日本の興行でトラブル(詳細は知らない)があり、
それ以降は馬場をボロクソだもんな レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。