【馬場】BI抱を考える【猪木】
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>>298
>馬場にしても38歳迄に引退してハワイで隠居するみたいな事を描いていた
この馬場の将来設計って公言してたのかな?
いや、下手に言うと幹部に止められるか…でも猪木にだけは言っておけば良かったかも
幹部の不正疑惑はおいといて、馬場が38歳で引退なら猪木は33歳まで待てば自動的にトップになれる
そうすれば猪木の度を越えた発言はなく、スムーズに政権交代して日プロは安泰だったか?
まあ、それでも待てないのが猪木かもしれないが。 >>298
>その時は儀式としてアングルのあるプロレスの試合、馬場vs猪木は行われたと思う。
連続レスごめん
間違いなくやったかな?
馬場が受け入れるかどうかだが、直接対決の儀式ではなく
馬場がトップ外人に負ける
馬場「オレはもう限界かも…」
↓
その外人に猪木が勝ち雪辱
↓
馬場「寛ちゃん、良くやったあとはまかせた」
この方法もあるよね、WWFのバックランド→シーク→ホーガン
このパターンに少し似てるけど…
まあ、ハワイに引っ込む馬場にすればいまさら日本での引退前の格なんて気にしないかもだが。 日テレ1局放送で日本プロレスが存続したとして、馬場は猪木と対戦することなく日プロ離脱、そして米マットに転出していたんじゃないのかな。
米マットに定着した馬場がNWA世界王者になったら、凱旋帰国して猪木の挑戦受けていたかもしれないけどね。 猪木の馬場への対抗心は、力道山のいびつで差別的な指導(エリートと雑草)によって
培われたもので、馬場としてのライバルはインター王座を狙う海外の強豪達であり
猪木は頼もしいタッグパートナーとしての存在にしか思ってなかったんだろうな。
2局放送で一方の大将になってから猪木の対抗心は益々激しくなり、
猪木を推すNETや猪木派のトルコ等に煽られ、Wリーグの馬場への挑戦表明になる。
日テレ1局の時代は秘めたる想いはあっても、東京プロレスで1度日プロを
裏切っているから、禊も込めて当時のマッチメーカー吉村のシナリオ通りのプロレスを
日本最強のBI砲を演じている。
ハワイで隠居しようが海外を拠点にセミリタイアしようが、日テレ1局同一団体内で
馬場vs猪木戦が決定すれば、試合途中でセメントを仕掛けることも
組織の一員としてできないし、
例え馬場は負け役でも受けて立ったと思うなぁ(十分エースもこなしたし)
馬場が外人レスラーに負けて猪木が仇を討つシナリオもあるが、
視聴率回復への起爆剤にはならないと思うし、大一番感が乏しいしね。
新日テレ朝、全日日テレになり、馬場が猪木との対戦を拒んだ最大の理由は
試合途中の裏切り(ブック破り)を恐れたのが本心じゃなかったのかな?
別組織になると信頼関係が疑心暗鬼になる…
猪木は現役時代の76年に3度セメントマッチをやったらしいが、
馬場は生涯プロレスだけをやってきた。
その辺りもプロレスラー猪木を信用できない部分だったんじゃないのかな?? 日テレ一局中継が続いて馬場→猪木へのエースの座の禅譲が実現していたとしても、猪木が馬場への対抗心から行ったなりふり構わぬ数々の仕掛けが生まれなかったと考えるとちと寂しい 日本テレビ1局独占のままだったら、萩原健一、松田優作のブレイクは遅くなっていただろうな。 >>304
太陽にほえろは別の時間帯でやっても人気が出ただろうから、
ブレイク時期はそう変わらないんじゃないか? 76年7月24日のPWFヘビー級選手権 馬場vsロビンソン戦を観ていたら
ロビンソンがアリキックを打ち込んで、馬場を見上げニヤッと微笑んでいる。
会場も騒ついていたw
ランニングネックブリーカーの印象ばかり強くて、こんな場面忘れてたわー BI双方とシングル対決した日本人レスラーは、天龍・R木村・Kカーン
この3人だけかな? >>308
田中米太郎
上田馬之助
日プロ若手時代は他にもたくさんいそう
大木金太郎は韓国人扱いかな >>309
そうか、日プロ若手時代を入れると多いね
大木は一応トップレスラー扱いで、入れておきたいな 若手時代を除くと上田、木村、カーン、戸口、天龍、(大木)
以上 あと桜田も
馬場vsドリーム・マシーン
猪木vsケンドー・ナガサキ >>309
田中米太郎はBI両方に初白星を献上したな。 猪木の全戦績はまとめてくれてる人がいるけど馬場のはないのかなぁ >>313
しかも両方とも股裂きがフィニッシュ
>>314
平成以降の悪役商会相手の戦績を見ても仕方がないという気もする >>314
なかなか更新されないから不完全だけど『昭和プロレス激闘史-その黎明期の研究-』
というサイトの、日本人選手の試合結果に少し出てるよ。(まだ3年分)
>>313
門茂男メモに、60年9月30日の馬場と猪木のデビュー戦について記されている。
力道山は猪木の相手に不器用ながらセメントの強さを誇っていた大木金太郎を
馬場の相手に腹心の側近として忠誠心は随一と認めていた田中米太郎を当て、
試合前大木に「新弟子の猪木なんて小僧相手に5分以上もモタっていたら、例え
試合に勝っても勝負で負けたと思え!」と発破をかけ、
特別待遇される馬場を快く思わない田中には「オマエはまともにやれば野球くずれの
モヤシみたいな馬場に負けるはずがないと思っているだろう。オレもオマエが
(入門)5ヶ月の馬場なんかに負けるとはハナから思っていない。だがな、オマエが
実力通りに馬場を潰したところで日本プロレスに何かいいことが1つでもあるのか?
あいつは万年2軍ながらジャイアンツにいた男。それに2メートルを越す大男だ。
あいつはお化けでオマエは人間。お化けに人間さまは勝てない、この意味は分かるな」
と意味深な言辞を弄した。
試合後の猪木に「若くて軽いのによくやった!大木の遠慮なしの頭突きを
2発3発喰らってもノビなかったんだからたいした奴だ。今日の調子を忘れるなよ。
勝った負けたといった結果だけにこだわっていたら良いレスラーになれんぞ!」と言い
何故か馬場には一言も感想を述べず、控室に戻った田中に対し「どうだった?馬場の
腕前は?遠慮なく言ってみろ!」と言い放った。
「結論から言ってまだまだですよ!大木なんかとやらせたら5分はおろか3分も保たん
でしょう」この言葉を遮るように力道山は言った。
「猪木と馬場をガチンコでやらせたら大木に善戦した猪木の方が馬場よりも直ぐ
強く育っていくとでも言うのか?」この問いに田中は真顔で頷いてみせた。
読んでみて門氏の猪木シンパはよくわかるが、これだけ詳細に描かれると
なんか小説を読んでる気にさせられるw 田中米太郎は力道山の元々相撲時代からの付き人で
この当時も秘書的な存在で
プロレスの練習はほとんど免除されて
若手でも勝てる人だった
そんな田中を馬場のデビューの相手に選び
猪木には当時ガチンコ最強だった大木が選ばれた >>315
若手時代のが知りたかったんだ。
>>316
こういうのが見たかった。ありがとう。 >>318
桜井康夫著の馬場と猪木2巻の巻末に
馬場の若手時代の戦績が全部載ってる >>5
素直にワロタw>BIが抱き合うような人間関係 >>316
門はいろんな場面で冷静な観察者として同席している。
レスラー控え室や日プロ役員室、プロモータとの会食、はては密談まで。
そのほとんどすべての科白をきっちり覚えているのがすごい。
メモなし、レコーダーなし。
本人が二、三人いないと無理と思うような神出鬼没ぶりで
本来の仕事はどうしてるんだろうと思うようなワーカホリックでもあるようだ。 >>170
一本ずつの取り合いとはいえ、あの大物ブラッシーが
大熊にフィニッシュのピンを取らせてたんだ!
大熊って日本プロレス時代から引き立て専門の中堅だと思っていたので意外。 >>323
手薄な旗揚げ当時は、大熊やマシオ駒は貴重な戦力で
毎週のようにテレビマッチに出てたよ。
ブラッシーもロートルだけど、前年には猪木のUN王座に挑戦してたからね。 ブラッシーってゴッチに勝ち越してるんだよな
噛みつきでゴッチ血だるまKOとかあったのか 日テレNETでデュアル中継してた時
NETでの中継では馬場の試合放映
出来んかったみたいだけど、日テレだと
猪木(BI砲)の放映出来てたん? >>326
それはできてた
NTVでは何の制約もない >>327
>>328
回答サンクス 過去レスにあったのね…
デュアル中継無かったらもう少し
BIの時代続いてたのか
それともやっぱり猪木の野望が
首をもたげて空中分解してたのか
興味あるな >>325
それ1967年頃のロスの話でしょ?
そこではブラッシーがトップスター。
ゴッチは、せいぜいマイク・デビアス
とWWA世界タッグ王者。
大木金太郎がデビアスの挑戦を受けた時、
リング下から大木の足を
引っ張るなどプロレスをやっていた。
ブラッシーに負け越すのは当然。
ロスではなくても
アメリカではブラッシー>>>ゴッチだな。 馬場vsゴッチのインター選手権が行われる筈だったけど、
ゴッチの負傷で幻になったんだね。
66年のサマーシリーズで、貴重な馬場とゴッチの絡み(前哨戦)がある。
7月25日新潟県村上市肴町広場特設リング 60分3本勝負
Kゴッチ・Eモンゴル・Jランザ(2−1)馬場・吉村・ヒライ
7月27日新潟県佐渡佐和町町営グラウンド特設リング 60分3本勝負
Kゴッチ・Jランザ(0−2)馬場・吉村
8月4日愛知県半田市営球場特設リング 60分3本勝負
Kゴッチ・Eモンゴル・Jランザ(1−1)馬場・吉村・ヒライ
8月5日愛知県一宮市体育館 60分3本勝負
Kゴッチ・Eモンゴル(2−1)G馬場・吉村
ゴッチ(回転エビ固め)馬場
日本組(反則)外人組
外人組(反則)日本組
唯一馬場とゴッチがフォールに関わったこの試合で
ゴッチが負傷して、以降欠場となった。 ゴッチって外国人枠の藤原喜明みたいな存在で、ポジションとしては前座レスラーだったんだろう? >>332
初来日の第3回ワールドリーグ戦では公式戦以外でも力道山と対戦している。
61年5月26日福井市市立体育館 60分3本勝負
力道山(1−1)カール・クラウザー
力道山(19分57秒 体固め)クラウザー
クラウザー(0分45秒 逆エビ固め)力道山
(2分38秒 両者カウントアウト) ジャーマン崩れで両者ノックダウン
決して、前座扱いではない。
2度目の来日で馬場とは当初ノンタイトルのシングル戦が予定されてたが、
シリーズが進むに連れてインター4度目の防衛戦の気運が高まり
8月12日台東区体育館で行われるはずだった。
仮に選手権が行われ、馬場の完勝防衛にでもなったら
その後の猪木との繋がりや、新日本・UWFが神格化する事もなかったかもね。 >>333
インターヘビー級王座の防衛戦が行われていたら、1−1で迎えた三本目でゴッチがジャーマンを仕掛ける→馬場がロープを蹴って、両者、後頭部を打ちダウン→馬場がカウント9で立ち上がり勝利、王座防衛、というテーズ戦のようなパターンになったのではないかな。 >>334
ゴッチはテーズ程上手くやれないだろうな >>334
ゴッチはテーズ程上手くやれないだろうな >>334
1対1から馬場のリングアウト勝ちだろ。
スナイダーにもそのパターン ブルーザー・テーズ・コックスと防衛を重ねていた日プロの新エース
この時期に馬場がゴッチに破れることは考えられないよね。
どんな形でも防衛すると思うけど、
ロープに振ってからのカウンター16文が決まるとは思えないw あと3本目にゴッチのジャーマンが決まるも、レフェリー不在の
ゴッチvsロシモフのパターンかな? >>338
16文を掴んじゃったロビンソン程は底意地悪くないだろゴッチは 馬場戦で負けを強要されたゴッチが、それが嫌で
怪我のフリして欠場した可能性もないではない ゴッチは前座レスラーではない。
1966年の2度目の来日では
「実力世界一」の称号でエース外人、
馬場のインター挑戦者として再来日した。
しかし、引き分けやリングアウト防衛で
気を使うほど(再度防衛戦をするような)の大物でもない。
普通に馬場が2フォール取っての防衛になっていただろ。
それを>>341にあるように、
ゴッチが拒否して、負傷したことにして
インター戦が流れたという噂があるが、
あながちヨタ話でもないような気がする。 ゴッチは1960年代半ば、
サンフランシスコで当地の王者
(AWA認定US)のレイ・スチーブンスに
挑戦して、確か負けている。
日本で馬場に負けブックを
飲まなかったとしたら、
スチーブンス以下の評価しか
下せなかったんだな。
実際、ゴッチは馬場を見下している。
1996年「紙のプロレス」のインタービューでは
その時点で馬場が現役と知って驚き、
「馬場は3000年前のミイラ」とかこきおろしてる。 馬場の師匠、フレッド・アトキンスもゴッチ同様セメントレスラーとして名を馳せているがアトキンスとゴッチって試合したことあるのかな?
日本でやっていても不思議ではないが 力道山はゴッチとの試合後「強けりゃいいってもんじゃない」と語っている。
プロレスの捉え方の問題もあるけど、宮本武蔵の『五輪書』を愛読する武士のような
思想を持つ堅物レスラーだからなw
プロレスラーだけど、既存の(アメリカン)プロレスが嫌いなシューターなんだろうね。 >>334
>>335
馬場の全盛期の巨体をジャーマンの体制で抱える
→馬場がロープを蹴る→後方にゴッチは首から倒れる。
その体制でゴッチは脳天、首にかなりの衝撃を受けるぞ!
バックドロップなら、まだ両者のダメージは分散されるが
ジャーマンは、掛けた方がモロだ。 ゴッチより、キレた時のダニー・ホッジの方がヤバかったという話もあるが‥ >昭和41年8月5日夜のリキパレスの試合後、宿舎のホテルに戻ったカール・ゴッチは突然、高熱を出して苦しんだ。熱は40度にも達し試合中に馬場に蹴られた右足と膝が内出血を起こし紫色に腫れあがっている
結構笑ってしまうのは、この記述が事実とすると、
馬場の方がゴッチにガチぽく仕掛けた可能性もあるということでw
アリ戦の猪木じゃないけど >>349
昔からのプロレスマスコミの作り話だろ
まあ当時は信じる人がほとんどだろうが 馬場のインターの挑戦者、
ラフファイターなら、大暴れして
1本を反則負けで失い、あと1本ずつ、
取り合い1−2で負けても、商品価値は落ちない。
F.VエリックやTタイラーも、このパターンだ。
しかし、ゴッチは反則負けをする選手でないから
余計、厄介だな。
調べると、Wシュナイダーもインター戦で
1本反則で失っているんだな。
本国ではベビーフェイスだったが、
日本ではヒールもやる。
それがゴッチにはできなかったんだろ。
まぁレスラーとしては、使いづらい男だったと思うよ。 アトキンスに育てられた馬場は、シュートにも強いと言う話を記者から聞いたゴッチは爆笑したらしい。
馬場どうこう以前に、アトキンス自体がシュートの技術がないと笑い飛ばしたとか。 >>349
当時の記録では8月5日の一宮大会で右ひざを負傷
傷口から細菌が入り、発熱・入院・手術で以降の大会を欠場とある。 >>353
負傷については、
馬場のショルダースルーの受けそこない、
あるいはかわし損ないという説。
馬場のキックで負傷した説ありますなら 馬場の世界一の脚力で蹴られたらゴッチも堪らん兄さんよ >>346
ジャーマンだとロープを蹴るのは難しい。
バックドロップのように持ち上げて静止してないので。 >>356
馬場対ゴッチのインター戦が行われたとして
>ゴッチがジャーマンを仕掛ける、馬場がロープを蹴る
と言い出したのは>>334氏なのだが、(^^:
バックドロップも、一旦、相手を肩に担ぎ上げて、
そこから落とすモノと、
テーズの「へそ投げ」と言われる、ブリッジを効かせて、
一気に投げ飛ばすスタイルがあるね。
馬場は「へそ投げ」式を食らって、ロープを蹴ったのだろうが
(実際の映像を見ていないから何とも言えないが)
逆に、ジャーマンも本田多聞なんかは、相手を吊り上げて、
一呼吸、静止させてから後ろに落としていた。 >>352
アトキンスは豊登を制裁してるけどね。
それ言ったらゴッチだって、打撃のシュート技術は
ないと思うし ゴッチなんてテーズの事だって批判してるし、ロビンソンと一緒で人の事褒めない奴だろ アトキンスにシュート技術がない、がゴッチの言だとしても
自分に比べればないに等しい、みたいなニュアンスじゃないのか? 渕のブログによると、(馬場の話として)力道山のしごき以上に厳しかったらしい。
肉体を作ることには極めてストイックで、彼の元から逃げ出した人が何人もいる。
弟弟子にあたるTJシンもアトキンスの指導を受けたから
投げへの入り方は馬場と同じで、基本はアトキンス仕込みなのが分かるという。
またアトキンスの友人デストロイヤーは「あのアトキンスのしごきに音をあげなかった
のは馬場とシンだけだったと聞く。もっともシンは馬場の半分の期間だったようだが。
ともかくあのハードさで有名なアトキンスのしごきに耐えた馬場が弱いわけがない
だろう。まだ若かった馬場とロスで対戦した時、タフでスタミナ十分なアスリート
だったんで驚いたよ。さすがアトキンスの弟子だってね(笑)」
力道山は自らの初遠征で勝てなかったアトキンスに馬場を預けたんだよね。
アトキンスとゴッチの対戦記録を調べたが、出てこなかった。
ただ、両者と対戦経験のあるテーズがライバルとして挙げてるのはゴッチの方で、
アトキンスの名は挙げられてない。
コーチとしては二人とも優れているが、レスラーとしてはあまりに頑固で
各地のプロモーターから煙たがられた印象。
似た者同士で意気投合したと思うよw 昔のゴングかプロレスにゴッチ、ホッジ、アトキンスの対談があったはず >>360
確か90年代後半の何かの雑誌のインタビュー。グレイシーやUFCについても語っていたから。
馬場だけじゃなく、猪木、佐山、藤波、高田あたりもボロクソだった。皆金儲けに走って、必要な時だけ私を利用するみたいな。馬場の体はミイラみたいだなとか色々酷かった。 >>364
ゴッチ、ホッジ、アトキンス
この3人を、いつどこで対談の席を
セッティングしたんだろ?
疑っては悪いが、ゴングなんかは
インタビューでも勝手にでっちあげるからな。
ちょっと眉唾。
例え、3人が揃った写真があっても、にわかに
対談の内容は信じられない。 >>366
それ、おそらく
1997年の「紙のプロレス」の
インタビューでは? >>367
ゴッチ、ホッジ、スナイダー対談なら1969年に実現してる >>369
ゴッチは68年1月から69年5月まで日本に滞在、ゴッチ教室を開いていたし
ホッジとスナイダーは69年にBIからインタータッグを奪っているから、
企画で対談しても不思議じゃないね。 アトキンス、ホッジは68年の東京プロレスにレフェリーと選手で来日しているから
ゴッチとも同時期に日本にいたけど、69年の対談だとアトキンスはいない筈だな? ややこしいから整理すると、
ゴッチ・ホッジ・アトキンス対談が68年
ゴッチ・ホッジ・スナイダー対談が69年
「紙プロ」のゴッチインタビューが97年
ということかな?
ゴッチも日プロに雇われている時はボロクソに言わないだろうw >>370
ゴッチが日本に滞在したのは67年11月〜68年1月と68年4月〜69年5月
>>371
東京プロレスじゃなくTBSプロレスだな
国際プロレスでもいいけど 馬場の訃報が伝えられた翌日の朝日新聞に馬場との関係が深かったとは言い難いルー・テーズのコメントが掲載されていた
(おそらくは流智美が売り込んだのだろう)
テーズはレスラーとしての馬場には一切触れず
「彼は約束した金は必ず払ってくれた。この世界ではとても稀なことで日本では彼だけだった」
つまり力道山も吉原功も猪木も高田も約束した金を約束通りには払わなかったということだ テーズはビデオ見ながら評論する企画で三沢小橋戦をかなり厳しく叩いていた。レスリングがない、場外で休んでばかり、何ですぐタイツを直すんだ?とか。
逆に藤波蝶野戦はこれぞレスリングと妙に高評価だった。 >>370
>>373
確かに、1968年1月なら
アトキンス、ホッジ、ゴッチが日本で集結できる。
しかし、、TBSプロレスのレフェリーで来日した
アトキンスを敵対する日本プロレスが、コーチで招聘した
ゴッチと合わせるかな?
むしろ、お互いの団体をボロクソにいう「プロレス対談」なら
面白いwww >>375
>藤波蝶野戦はこれぞレスリングと妙に高評価
藤波はともかく、蝶野は短期間とは言え
指導した、いわば弟子だもん。
まぁ、三沢対小橋のような試合がお気に入りでないなら
それは仕方がないよ。
でも、その試合は武道館の大観衆を大いに感動させた。
これは事実。 テーズの1950年代のプロレスを
ジョージ・ハッケンシュッミットや
フランク・ゴッチが見たら
「なんだ?あのドロップキックとか
フライング・ボディ・シザース?
あんなピョンピョン跳んだり跳ねたりするのは
レスリングではない!」
「どうせ、このルーテーズという選手は、色物、キワモノだろ?」
「なに?これが世界王者だと!」
「嘆かわしい!もうプロレスリングは、1950年には
絶滅したのか!!」と泣き崩れただろうな。 テーズくらい金に汚いプロレスラーはいない
Uインターが金を払っているうちは絶賛していたが、金払いが悪くなると掌返ししてこきおろす恥知らず そして、その金に汚いテーズの
腰巾着が、、、ながれ >>378
テレビ時代の到来=ギミックの時代になったからな。
テレビ放送されるプロレスでは、ゴージャス・ジョージのような
ショーマンシップが求められ、ギミックまみれの方向に加速していった。
戦前のレスラーらしいレスラーは消滅状態だったが、
それでもテーズを王者とするNWAは、クラシカルなレスラーのイメージをもった
チャンピオンによる戦略をとり、AWAも同様。
つまりチャンピオンだけは正統的なレスラー像を失わないような
規制が働いていたんだろうな。 >>381
>NWAは、クラシカルなレスラーのイメージをもったチャンピオン
それを崩したのが1961年のバディ・ロジャーズであり、
いや、1957年に一時、エドワード・カーペンティアに譲ったし、
AWAだって、60年代は覆面のミスターM(ビル・ミラー)や
ラフファイターのクラッシャーやバションの王座時代も長かった。
むしろガニアがAWA長期王者だったのは1968〜75年までなんだな。 テレビによってプロレスは興行だけでなく、メディアイベントになっていったからね。
客が呼べて視聴率が稼げるロジャースのようなレスラーがトップに据えられた。
カーペンティアがチャンピオンを名乗るようになったのも
テーズとマソニックが二人のチャンピオンで儲けようとした策略だったらしいし、
この動きを横目で見ていたプロモーター達は自らも世界チャンピオンを設定して
独立しようと機会を伺うようになり、60年にガニアがミネアポリスにAWAを、
63年にはマクマホンがNYを拠点にWWWFを設立
Jストロンボーもカーペンティアのベルトに目を付けWWAを設立するんだっけかな?
その頃からテレビ放送も、全国区から地域限定に変わっていったらしい。
全盛期は過ぎてたけど、日プロでBIとロジャースやロッカの対戦は見たかったなー
馬場が最高のレスラーというロジャースは、ニックとフレアーのイメージがするし
YouTubeで見たロッカのドロップキック連発は、まさに“鳥人”だった。
(カーペンティアのバク転からのソバットには騙されたけどね…) >>377
テーズはパンクラスも絶賛してたしな
グラウンド中心のテクニカルスタイルが好みなんだろ
たしかベイダーの事も酷評してたはずだし テーズをヘッドロックからピンフォールする
馬場のセンスは秀逸 >>385
プロレスだぞ。少なくともフィニッシュは事前に決められてる。
おそらくそのブックは吉村あたりが考えたと思われる。 >>386
それにしてもさ。
あえてテーズをヘッドロックで攻めてフォールは
意外性あるし。
3本目にテーズのバックドロップからポストを蹴っての
フォールの伏線にもなってる。 >>375
テーズは全日本の「カウント2.9」を真っ向否定していたっけ
レフェリーが明らかに寸止めの意思を持っているとズバリ指摘 >>390
寸止めの意思を持っては、新日本が始めたんじゃなかった? どちらが始めたかは分からないがそれは重要ではないだろう
全日のファンは特にそれを期待していただろうし
テレビの実況アナがそのフレーズを連呼していたのも事実
そんな当時の観客の傾向も含めてテーズは
自身のプロレス観とは相容れないという主張をしたかったのだろう
あと猪木がフィニッシュする時のカウントが若干早く感じるのは気のせいかなw テーズはレフェリーとしては好きじゃないなぁ
日本人レフェリーは試合展開を見てから、ある程度の反則は我慢するけど
テーズはすぐ反則を取るから消化不良になる いや、あれは
レフリーの寸止め姿勢があんなにあからさまだと
プロレスのヤオが本当にバレバレになってしまう。
あれをやっちゃさすがにまずいよ。あれをやっちゃあおしまいよ。
という嘆きじゃないのかな。 みのもけんじの『プロレススターウォーズ』の人気に火が点き始めた頃、フレッシュジャンプ誌上にプロレス作品も多い漫画家のコンタロウと全日メインレフリージョー樋口の対談が掲載された
ミスター高橋がカミングアウトする遙か前なのに
「プロレスはスポーツではなくあくまでもショーである」
ことにコンタロウが言及し、ジョー樋口がそれを全面的に肯定する当時としては画期的な内容だった 90年東京ドームでテーズが裁いたメインの試合(猪木 坂口vs橋本 蝶野)も
ラストがあっけなかったのでちょっと拍子抜けだった
明らかに彼のレフェリングが影響している
ああいう人を起用するというのは威厳はあるだろうし
興行に箔が付いてイメージアップを狙う戦略的な意味は持つが
新日本には向いていなかったかな >>386
吉村考案の根拠はある?
あの時代、勝ち負け以外は選手の好きにやらせてたイメージなのだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています