全日・超世代軍(90〜92)を今さら語ってみるスレ
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超世代軍
ハンセン、カーニバル連覇
殺人魚雷、最強タッグ連覇
ジャンボの勝ち >>166
ハンセンvsキッドは既出だけど91カーニバル開幕戦の一度だけじゃないかな。 91年頃だともう厳しいかなって思われるくらい
キッドの体調はひどかった
来日する度にやせ細っていってたからな >>79
会場入りするキッドに蹴りを入れられそうになった 91年のチャンカーにゴディ&ウイリアムスがリーグ戦に出なかったのは謎だった。後半には特別参加したのにね。
リーグ戦復活1年目のだからテスト的な意味合いで、ゴディ&ウイリアムス絡みのシングルを取っておく目的かな?それ以外の理由が思いつかない。 中継で「退かぬ!媚びぬ!省みぬ!ダイナマイト・キッド」と
どこかで聞いたような紹介をされていたのもこの時期だったような。 サウザーかwww
若林実況、倉持ファン、昭和全日ファンには
不評だが
あの超世代のスポーツライクな感じには
凄くマッチしてたと思う 田植え社長、ノアの借金ぜんぶ一人で返して
さらにお釣でステーキ屋やってんだな
田植え社長といい、イズさんといい、
新日に比べれば少ないだけで
ふつうのレスラーじゃありえんぐらい
金持ってんだな
そういや二人とも元子さんと仲良かったよね >>168
長年のステロイドによる影響で心臓肥大が見つかったのが、この91年。
医者から「このまま続けたら命の保証がない」と言われ引退を決意。
本人も「あのまま続けていたら、間違いなくデイビーボーイ(39歳で死去)と同じ運命だった」
と言っていた。
晩年は脳卒中による施設暮らしで相当辛かったが、60歳の誕生日まで生きられた。
>>171
「キッドが客に対して暴れるスタイルになったのは完全にジェット・シンの影響」と前田が言っていたな。
自伝の中では、キッドはシンを評価してなかったけど。
>>174
小橋が札幌で試合をした時は、福澤がもろに「北斗のケ〜ン!!!」と叫んでたなw キッドは今の時代ならオスプくらいの体格でもトップいられたよなあ… 91最強タッグ大阪大会後の三沢と川田の喧嘩って何が原因なの?
漫画の暴露本で読んだことあるけど、あの暴露本には信憑性が無いんだけど。 秋山ほんと頭いいよな
四天王スタイルだとノアの二の舞だから、
超世代スタイルを手本にしてるね
ジョーたち、デカくて強いガイジンも
重用してるからね
新日ガイジンがうまくてカッコいいのばかりだから、逆に際立つ! >>105
当時は大量離脱で挑戦者として適当な日本人チームがいなかったという事情もあった
小橋・菊地でさえまだ代打出場がやっとという感じで
この辺りは昭和六十年代が逆に日本人オンリーだったのと比較しても面白い
目立たないが実はアジアタッグこそが団体事情の焦点になっていたりするのも興味深い >>182
アジアタッグは使い勝手がいいベルトでマッチメーカー次第で活きるね。
そういえば武藤全日本でアジアタッグが2年くらい空位になった時期があったがあれは何だったんだろw
ファンの「アジアタッグは持っている王者によって価値が変動するタイトル」は名言。 アジアタッグがどう使われるかでマッチメーカーの腕やその時点での団体の内情が分かる感じなんだよな
中堅が多ければ名誉職で若手が増えれば登竜門にジュニアだったらジュニアタッグ
全日本で完全な生え抜き同士の王者組が誕生するのはようやく平成に入ってからでそれ以前のとっくに国際や元新日本同士の王者組が誕生していたり
それだけ昭和の全日本が他団体からの混成所帯だったかも分かるって >>184
当時、俺はガキだったんで鮮明には憶えていないが親父のベルトって印象だったが、フットルースが取ってカンナムとのライバル関係が始まって、この2チームがアジアタッグを変えた気がするなあ。
若手の登竜門的意味合い。 その前にフットルースと決起軍コンビがやってたが全員二十台という強烈な若さだった 若林はエースが初来日した頃に燃えるお兄さんなのだ
と言っていた。プロレス実況でも同局のアニメの宣伝
しなければならないのかと当時思ったし少しワロタ。 小橋とエースのコンビについては当時の全女の西脇とメドゥーサのコンビとの対比もあったか >>188
西脇メデューサはちょっと前じゃない?
それなら長谷川咲恵とデビーマレンコの方が同時代のイメージがあるなぁ
印象論なんで厳密には時期とか違ったらごめんだけど 西脇メデューサは89年
小橋エースは90〜91年
長谷川デビーマレンコは92年かな
https://blog.goo.ne.jp/rossyogawa/e/24272767da12d43c2e3de5a9c1d23164
私はデビーと同世代の長谷川咲恵を組ませ、“日米新世代コンビ”を名乗らせたが、モチーフは小橋健太&ジョニー・エースだった。 小橋エースは結構組んでたけど、
今思い返すとアジア獲ったのと
ドームでベイダーハンセンと戦ったくらいしか記憶にないな >>190
そっか小橋エースからの着想で長谷川デビーだったのね
勘違いゴメン&説明ありがと! 一応は世界タッグも取ってた
アジアタッグと世界タッグを馬場時代に共に取ったのは三沢・小橋と小橋・エースだけ 小橋エースは何で塩同士で組ませるんだと思ったな
スパイビーエースも >>187
燃えるお兄さんはスパイビーでなかったかな。 小橋・エースとディートン・ブラックのアジアタッグ戦は商品で買った
元王者のキニスキーがタイトルマッチ宣言する豪華版で
スパイビー・エースはそれぞれハンセンのパートナーになる前と後で組んでるのも面白い >>195
関係ないけど、お兄さんが高校の入学式の日に髪を立ててきて「ジョニーエースヘア」と小さく説明が入っていたよw
>>196
案の定、週プロにはハンセンの元パートナー同士のタッグなんて書かれていたね。岡山だったと思うけどハンセン&デビアスvsスパイビー&エースの公式戦なんて現代なら盛り上がっただろうなあ。
エースってハンセンにはガンガンいかないんだよなw小橋あたりだと遠慮しないでいけるのに。 元パートナー同士とは言ってたがその前にも組んでる事には触れてなかったような
エースとハンセンの対戦となればやはり今日がその日の東京ドーム
そういえば夢の懸け橋でもやってたか 93最強タッグシリーズの特別試合ではデビアスが欠場したせいでハンセン&スパイビー&エース組がよく組まれてた
相手は馬場&三沢&小橋、三沢&小橋&秋山、ウィリアムス&ブーバー&パトリなど格のバランス的にも良いカードだった
格下のあすなろ秋山が入った超世代軍組にも負けてたがw 秋山はその年は不参加だったんだよな
あるいは前年の大抜擢とのバランスもあったか >>195
エースはザ・ターミネーターの兄貴だからやっぱりエースに対して「燃えるお兄さん」って言ったんじゃないかな。 >>183
あの辺りは健介組が王者だっただけに扱いをどうするかというのもあったかな
とにかく伝統の後楽園二連戦で三冠&IWGP王者の武藤も含めての豪華メンバーによる復活トーナメントをやったアイディアは良かった 夢の架け橋の全日6人タッグはスゴイ試合だったらしいね
橋本、大仁田、テリー見たやつ絶賛だったそうな >>204 惜しむらくはウィリアムスが来日不可の時に行われた事かな。エースでなくてウィリアムスだったら…。 >>3
鶴田のバックドロップは急角度で落としているというより、三沢たちが自ら急角度で落ちて鶴田の無敵感を演出してた気がする >>206
当初の予定では三沢&小橋&ハンセンvs川田&田上&ウィリアムスと発表されたような。
ウィリアムスが来日出来なくなってエースに代わった。 チャンカーでも後楽園のハンセンvsウィリアムスの公式戦に代わって三沢&小橋&ハンセンvs川田&田上&馬場だったんだよな ハンセン、医師の話題ばかりで
人間魚雷も思い出してあげて! 新日本にきたレスラーらがアメリカに帰ったら大成するみたいなジンクス昔あったろ
昔のアメリカでやっていたポジショニングを奪い合う攻防を覚えて帰ったからだよ
猪木の一番得意技
向こうで覚えたんだべ 全日本は見てりゃすぐ分かるが本来パワーファイターらが技巧派のフリしたんばっかだったからね >>204
会場で見たが試合自体のクオリティはやっぱ他とは段違いだったよ。メインの橋本蝶野が食われまくり >>210
三沢の外人ライバルとして最もふさわしかったのはゴディだったと思う。
年齢的にも三沢と同世代だし。
馬場もゴディを次の外人エースと考えていてハンセンとの世代交代も間近だったから体調管理さえしっかりしててくれてればと今でも思う。
ノア旗揚げの後で三沢に息子を紹介してたけど、あのときですらまだ40歳だったんだよなあ。
つくづくもったいなかった。 やっぱここ見てると小橋はスナイパー時代が
至高やったんやなって思う
小橋のフィニッシャーはやっぱムーンサルト 三沢とゴディはリング上では手の合う関係だったな。
三沢がシングルで勝った試合は静かな立ち上がりから
徐々に試合が動いていく感じがとても良かった。
あのあたりが2人の上手さかね。 SGタッグみたいなお祭りリーグがあったら、三沢ゴディ組を見てみたかったかも 武道館の医師VS小橋は永遠のベストバウトだわ
今思うと、95年くらいまでは超世代っぽい試合も多かったね 91年4月のチャンピオンカーニバル
大阪大会鶴田VS川田が見たくて
初めて全日本を見に行きました。
あまり印象には残ってないんですが
当時の全日本ではやや異質だった
プロレス非行青年の川田が好きだった。
あの時の客入りは凄まじかったのは
印象に残ってます。 川田がデブレスラーといって差し支えないくらいタプタプだった
今思うとあの身長でハンセンゴディウィリアムスとやり合うために試行錯誤して体重増やしてたんだろうな 弟子のタイチもジュニアからヘビーに上がるのに
まず太る所から始めてたな
今はいい感じになってる タイチはいっそ入場曲もペニシリンの
ロマンスにしてホストキャラ川田路線を
貫いてほしいwww
インターコンチなら巻けるでwww 92年と言えば、
三沢三冠発戴冠
ハンセンと川田の三冠戦
仙台の伝説のアジアタッグ
の3試合だな。 >>222
確かにポッチャリしてたけど、身体の張りはあったし動けたからね 若林の実況「怒りの焔(ほむら)を燃やせ、川田」というのを
「いかにもホモ顔のヤセ、川田」と聞き違えた川田ファンが「確かにホモ顔だがヤセではない」
と怒った、というネタが週プロに載ってた プロレスを見始めた頃、超世代軍を超おさらい軍って聞こえてしまって落第的なチームかと思ってしまった。 ゴング命名で唯一定着したのが超世代軍というチーム名だったような。
他は全く定着しなかった。
でも頂闘軍とか殺人狼とかDJブロンドスとか
光明対決とかナンセンスな名前が
逆に楽しかった。 鶴田・田上組を鶴明砲(かくめいほう)とか言ってたな
ゴングだったかな 鶴田輪島で鶴輪コンビとかひねりが全くないのもゴング命名だった SDDもそうだし、やたらと名前を付けたがるんだよね。
殺人魚雷コンビで定着した後も使い続けていたが
もういい加減諦めたらいいのにと思った。 ファンタスティックスってアジアタッグ巻かせるわけでも
ないのになんで来日させてたんだろ
WCWのジョバーをやってた奴を若手にしか勝たせないのに
来日させてたのと同じようなもんだろうけど >>229
反選手会同盟とプロレスバカもゴング命名
で定着してたね。
あと平成維震軍も金沢が考えたものらしい。 ブッチャー→呪術師
ファンクス→荒馬兄弟
マスカラス兄弟→飛行仮面兄弟
シン→狂虎 明艦砲あったね
ノーフィアー、テンコジといった
アメプロ風タッグが主流の中、
最後の昭和全日的タッグだったな
なぜか小橋秋山より声援大きかったし 川田のが、三沢よりベストバウトとカーニバル制覇は先なんだ
ドームの三沢越えも、三冠プラスカーニバル優勝の三沢に完全勝利だし
馬場の川田買いがわかる
今、思えば三沢川田は二回ドームメインだけど
三沢小橋は一度もドームでやってないんだね >>232
読売テレビの山本アナウンサーが一回だけSDDって言ってた。 91年10月の七尾か何処かのテレビマッチのセミでハンセン&スパイビーvsマレンコ兄弟が組まれ週プロに「テーマが無い」と言われた。
他にはハンセン&スパイビーvsファンタスティックスとか、93年1月の高松ではハンセン&ブレイド・ブッチ・マスターズvsファンタスティックが組まれた。
大切なテレビマッチでこんな無意味なカードを組むマッチメッカーって現代なら酷評されるだろうな。
カードの出し惜しみなのか、それとも観客のニーズがわからない単なる馬鹿なのか。 でも当時は週プロもマッチメイク噛んでたんだから、批判もおかしな話だが。
海外陣営の要望とか通好みのカードとかあったのかね。 243
なんでマッチメイクのこと論評してんだ?
自分ならこんなにうまくできるみたいな吹かし自慢でもしてえんか?
バカたあおまえのこっちゃ 243
なんでマッチメイクのこと論評してんだ?
自分ならこんなにうまくできるみたいな吹かし自慢でもしてえんか?
バカたあおまえのこっちゃ ほんとにいい加減なやろおだな(°▽°)
それがおまえが敵を作ることになるんが分からないんか? >>245
じゃあハンセン&スパイビーvsマレンコ兄弟、
ハンセン&スパイビーvsファンタスティックス。
階級も違う、特に遺恨も無いこの組み合わせに何の意味があるのか説明してみろよ。
他人をバカ呼ばわりするくらいなら説明できるんだろうな? >>248
階級が違ったり、遺恨がなければいけないのか?
そこから遺恨に発展する可能性もあるだろ >>243
三沢vsジョニー・ガン
田上vsピエール
秋山vsラクロス
この辺は、テレビ中継あったね。 93年の新春シリーズだったと思うけど小川対ボビーフルトンのシングルをがっつり放送してたな…渋い >>249
実際に遺恨、抗争等に発展していない。カード組んで試合を消化して終わりだから言ってんだよ。
キッド&Dスミスvsマレンコ兄弟みたいに遺恨も無い、タイトルかかっていなくても後に語り継がれるような試合もあった。
テレビ中継あったんだから、もっと活かせたと思うよ。 >>252
雪が降っていた米沢ね。三沢&小橋vs殺人魚雷。田上&秋山vs川田&菊地。観に行ったからよく憶えているよ。 >>248
あえて意味を見出すとするなら
馬場「ハンセン君、いつもお疲れ様、今日はちゃっちゃとあがってゆっくり休んでくれよな」くらい >>254
三沢小橋組が本格的に始動する前にゴディがフェードアウトしていった印象だから
三沢小橋組対殺人魚雷の組み合わせは新鮮だ。
川田田上対殺人魚雷はギリギリ間に合ったけど。 >>256
三沢&小橋vs殺人魚雷は結構な頻度で組まれてた。後楽園、福島、盛岡、水戸、船橋、尼崎、大和いったところでセミからメインで組まれてた。
いずれも20分以上の激闘だったけど、三沢&小橋の本格始動前なので全敗だったね。 俺的には三沢小橋組のベストバウトは本格始動前の92年6月武道館の鶴田田上組戦だな >>258
あの試合は本当にいい試合だった。
あの試合で田上の高角度喉輪落としが決め技になって、以降はアームボンバーを使わなくなっていった感じ。
若林アナは当初ネックハンギングアームボンバーと呼んでたな。 小橋は格が1枚落ちる時代の方が試合が面白かった。
といいつつ絶対王者時代も応援してたけど >>259
初期の高角度喉輪って左手で相手の首根っことか脇の辺りを抑えて一番高いところまで抱え上げてからズドーンと叩き落とす感じで、確かにネックハンギングアームボンバーでも違和感は無いよね
90年代後半からはほとんど片手で上げてた感じで、なんか迫力無くなった チョークスラムの始祖は本当に田上なの?だとしたらスゲェよな 奈落式のチョークスラム初公開の試合は現地で観たが、小橋は受けるのが上手い。
川田と小橋は田上をよく活かしたと思う。もちろん田上自身の努力もあったと思うけど。 市瀬の本とか読むと田上は一見飄々としてたけどほかの3人に置いて行かれてしまうかも
という恐怖と向き合い本人なりに努力してたんだな 田上「他の3人に置いていかれたら嫌だなぁ・・・」
馬場「じゃ道場に来て練習しろ」
田上「いやそれは・・・」 今考えると川田田上は本当にいいタッグだったな
当時は川田は三沢と組んで欲しいと思ってたけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています