会社、学校内での自分のポジションに近いプロレスラー
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カブキ
外様の地味キャラが開き直って大暴れしたら
なぜか役員にウケて色んなプロジェクトにバッテキされた。
役員、上司、先輩とは仲いいが同期の飲みに誘われない。。。 全日商事といえば今は秋山(元)社長が率いて悪戦苦闘している全日商事(有)が
あるが創業社長の未亡人親族がひっそりと?全日法要商事を立ち上げているから
紛らわしい。旧来の総合商社的性格〜海外取引は大幅減少したが〜を引き継いでいる
秋山全日商事に対し遺族派の全日法要は社名の通り仏事法要イベントにまつわる物品
販売およびイベントの開催に特化しており旧敵の新日商事の全面協力で馬場社長20回忌
法要を大々的に成功させた実績がある。ただ昨年晩秋に開催された、日本に医療用白マスク
を普及させた功績のある海外駐在員カートベイヤー氏の法要イベントに関しては
明らかにされてはいないがかなり大きいレッドインクを食らった、という業界筋の情報が
錯綜しており予断を許さぬ状況といえる。
またここにきて藤波長州天龍猪木馬場(親族)ら業界の大立者近辺で記念財団商事の設立が
発表されるなど混沌が加速している。秋山全日商事においては各方面とうまく距離を取り
両行な関係維持に努めることが予想されるがうまく立ち回ってほしいものだ。 あの人ら、馬場さんご本人とは血のつながりはないんですよね…なんとも リックフレアーといえば業界で知らぬ者がいない伝説のセールスマンだ。
何か画期的な新製品を開発し大ヒットさせた、とかではなくフレアーの扱う商材はあくまで
普通の商品でしかない、代表的なものと言えば足4の字マッサージ器だろうか。これも
60年代にはバカ売れしたがはっきり言って80年代では時代遅れ流行遅れの郷愁哀愁が漂う商品だった。
それ以外の扱い商品は今でいう100均で売ってるような小間物ばかりでしかない。
これらをコツコツ地道に足で行商してまわったのがフレアー商店のスタートだった。
ただそういう今でいうところのオールドスタイルの同業が当時大勢いたのは想像に難くない。
なぜフレアーはその中で生き抜き当時の全米セールスマンの頂点と言えるNWA商事の看板
セールスマンにまで上り詰めたのか?秘訣はアメリカ人らしくもないフレアーの秘めたる気質、
「気働き」という浪花節のようなものだった。ふつうは品物を売って代金を回収して取引は終わるが
フレアーはそれに倣うことを良しとせずアフターケア的にご機嫌伺い、時にはかつて売った器具
を客先へ出向き磨くような行為さえ厭わなかった。「常に代金以上のものを提供する、そうすれば
買い替えの時また自分から買ってもらえる」ということをきっちり実践してみせた。
評判は日本にも届き全日商事との取引も手掛けて商品販売においては土下座懇願までやって見せ
「NWAのトップセールスマンはここまでやるか」と全日商事の営業マンを驚かせた。
NWA商事倒産後もwcw商事、WWFエンタプライズと渡り歩いたが常に第一線をキープ、
またどこの商社でも持ち味の「気働き」ぶりは全開で後進の「お手本」として活躍を続けた。
全日商事と仕事をしてた頃(おそらく彼の全盛時)は残念ながら馬場社長は営業の一線から手を
引いており真の意味での「カウンターパート」不在だったのが悔やまれる。
ただあの頃の土下座した相手に30秒後には大量の商品を買わせている役者ぶりは
無形文化財にしたいくらいの見事な芸であった。 フレアー様ありがとうございます!
これからも期待!! グレート小鹿はリキ商店時代からの業界古参社員だ。いにしえの頃から仕事ができる、
というよりは立ち回りのうまさでのしてきたという印象が強い。リキ商店末期は若頭
と言ったら大袈裟だが若手を取りまとめる若衆代表、主任クラスの立ち位置だったはずだ。
猪木派の新日商事、馬場派の全日商事、それぞれ一派が離脱した際に最後までリキ商店に
残った社員の中では韓国籍で客分扱いだった大木を除くと一番の格上だった。
結局全日商事に吸収されると小鹿は実力を発揮、「リキ商店の奴らは俺がまとめてますから」
と馬場社長に熱烈アピールし吸収組の中で一段高いポジションを手にする。おそらくここらで
残党の中で立場が悪くなりアマリロのファンク商店に研修に出てる。(小鹿は「社長が残党の
結束を切り崩す為に俺を海外へ出して扇の要をなくした」と言ってるがあくまで自己都合だろう)
アメリカではテキサスを皮切りに空手用品などのオリエンタルグッズの売り込みに成功しそこそこ
の評価を得る。また在米中に食べたケンタッキー・フライド・チキンの味に感動し日本に商売を
持ち帰ろうとし、英語もろくにしゃべれないのにKFC本社に商談を持ち掛けるという利にさとい一面も
垣間見せている(タッチの差で数か月前に日本での販売権は別の商社に販売済みだったとの事)。
帰国後は中堅営業マンとして一定の活躍をするが立ち回りや交渉力を買われ総務方面の
(汚れ)仕事〜売掛金の回収、地方販売会開催の際の挨拶仁義etc〜へとシフトしていく。
社長の秘書的な仕事をすることもあったようだ。 小鹿にとっての転機は永源社員の移籍だったと思われる。同じ内容の仕事を
倍以上の要領の良さをもっていとも簡単にやってのける永源に社長はこころを奪われたのだろう
事は想像に難くない。営業兼総務、どちらも永源が居さえすれば効率の低い小鹿は不要、
その流れで小鹿は退社し結局は大日本商事というベンチャーを立ち上げ紆余曲折あったが
今に至っている。現在も会長職にありながら若手商社マンに混じり昭和の営業テクニックをチラ見せ
しつつ活動中だ。
小鹿は馬場社長の懐刀を自認していたが馬場社長は移籍組である小鹿をそこまで信用しては
いなかったのではないか?特に元子未亡人からの信頼は薄かったように感じるが
今となっては小鹿の発言のみが事実、長生きも悪くないと小鹿は思ってるはずだ。 宝塚が再度休演発表しディズニーも休園延長、ちょっと今度の後楽園まずい気配だな 小鹿、ありがとうございます!
またぼちぼち更新なさってください あ、あと濃い全日ファン大好き
ミリオンダラーマンも! 世界の中心、ビッグアップルニューヨークに拠点を置くWWF商事が各州に古くから
根付く地元ローカルのライバル商社をことごとく駆逐し傘下に吸収し全米統一を
なしえた主要因の一つといえるのが営業マンアンドレの存在とその仕事ぶりだったことに
疑いの余地はないだろう。だが記録破りの大仕事大契約を立て続けに行いその報酬は十二分
に受け取り金銭的困窮と無縁なはずのアンドレが提携先の新日商事になぜあれほどの回数
来日駐在を繰り返したのか?という疑問がずっとあった。(国際商事時代の来日に関しては
割愛させて頂きます。)
NYの出来高日給に比べれば新日商事は一流といえど払える給与はアンドレにしてみればたかが
知れてるレベルだろう、何よりハードスケジュールの隙間を縫って来日した理由、それは
想像にすぎぬがハードワークの米国での生活をリフレッシュ、リセットするためだったのでは
ないだろうか。親しい知人友人に会うためもあったと思うが日本での駐在はアンドレにとって
リゾートでの休養だったのだと想像する。特別待遇でちょこっと仕事してあとは美食三昧、移動の
心配も何もない。そして新日商事はある時点まで極東のリゾート地として機能していたのだと思う。
だがある時から今まで使用人のごとく自分に頭を下げてきた人間の対応が変わってきた、若手社員
の急進派の中にはアンドレを転ばせて自分の有能さをアピールしようとする不届き者まで
出てきたうえに新日商事はそういう輩の存在を容認している。もうアンドレが新日商事に出向く理由は
なくなってしまった。 90年大に入って元全日商事の営業マン佐藤昭雄の仲介により全日商事とWWF商事
の提携→大商談会が東京で実現し大きな業界の話題となった。成功に終わったイベント
の中でも大収穫といえたのは馬場社長とアンドレの意気投合だろう。
以降アンドレは全日駐在員として定期的に来日を重ねるようになった。アンドレ駐在員を
ボスと慕う旧知のハンセン駐在員がいたことも大きかったのだろう。全盛期のようにバリバリ
仕事をこなすことは不可能だったがアンドレが駐在員として所属してるだけで全日商事には
追い風が吹き業績も長い堅調上昇が以後続くことにもなった。
自分の衰えをアンドレも理解しており新日商事時代のようにエゴをむき出しにして見せたり
虚勢を張り威張り散らすこともなくなった。
「仕事ができないんだからサラリーは下げてくれて構わない。ただ出来たらその分
回数を読んで欲しい。」と馬場社長に自ら申し入れたというエピソードがある。
だがいい時間は短かった。アンドレは間もなくして故人となってしまった。
アンドレにとって安住の地、代替リゾート地として全日商事は十二分に機能したと思いたい。
全日商事と新日商事の差は外国人駐在員への尊敬の念の有無だったと断言していい。 ブロディは生まれついてのフリー気質の商社営業マンだった。
さきのアンドレとは違い安住の地を探そうなどという気はさらさらなかったように見える。
ただ物事に終わりが来ることを理解しておりそれ故に自分を1ドルでも高く買ってくれるところを
絶えず探し求め世界中を流浪したのではなかったろうか。
ブロディの仕事でまず優先されるのは自分がトップであるというエゴが満たされることだろうか。
全日商事に駐在員として初来日したときはやたらと自分の有能ぶりアピールを最優先させ
仕事自体はかなり乱雑でゴチャゴチャした結果になることが目についた。
だが本人もそれに気づいており目利きの佐藤昭雄の「出世したいんならガチャガチャした仕事
じゃだめだよ」というアドバイスを受け入れ2回目以降の駐在では荒っぽさの中にも知性を感じ
させる緻密な仕事運びをするようにスタイルを徐々に日本流にアジャストさせてきたのは驚き
をもって注目された。インテリジェントモンスターの異名はここら辺を評しての二つ名といえよう。
だが文句の付け所のないいい仕事が評価される反面エース駐在員とよばれるにはなぜか若干売り上げが伴わない
という弱点はあったようだ。 全日商事がジャパン商店と提携し営業の花形部署が日本人に独占されたあたりでブロディ
の流浪癖が運悪く目を覚ます。新日商事に移籍しそこでもトップ駐在員として八面六臂の
活躍を見せたが全日商事ほど外国人駐在員に裁量権は与えられてなかったようで仕事を
ボイコット→離脱というこれ以上ないバッドエンドを迎えた。旧知のエリック製鉄所の社長
の口添えで全日商事にuターンすることとなった。給与は大分下がったという話だったが
トラブルメーカーの面影はなくなり大きい仕事もきちっとこなす頼れる男に変身したかの
ような印象を与えた。1課鶴田、2課天龍、駐在1課ハンセン、駐在2課ブロディ、と
面子が揃いさあこれから、というタイミングで届いた「ブロディ駐在員プエルトリコで客死」
の一報。
事件当時と違い現在では被害者ブロディを擁護するような論調は残念ながらほとんどない。
自分を1ドルでも高く売る男はヤクザなプエルトリコ商社界でも一歩も引かずに
強気の交渉をし自分のプライドを最優先し気づかぬうちに相手の面子すら潰してしまった
のであろうことは想像に難くない。
全日商事の未来図があの時大きく変わったのは間違いない。 アンドレ&ブロディ有難うございます!
どちらも読みごたえ抜群です! デビアスの商社マンとしてのスタートはアマリロの老舗、ファンク商店だった。
全日商事から天龍が研修生見習いとして派遣されていた同時期に仕事をスタート
させている。デビアスは商社マン2世ということもあってか最初から地味ながら
新人離れした仕事ぶりで注目を集め「将来のトップ営業マン」候補であった。
デビアスの仕事について同業者が口をそろえて評するのはその「シルクのような
なめらかさ」だ。一切引っかかるところがなくスルッとやさしく進行していく
イメージだろうか。天龍も一緒に仕事した際に「キャリアは一緒なのに全面的に
リードしてくれて気づいたら終わってた。」という感想を残している。
NWA商事のトップ営業マンとしてまさにふさわしい素養のあったデビアスだが
残念な事に斜陽化傾向にあったNWAは時代に迎合し手堅い仕事をこなす職人より
見た目に華があり一見受けのよいリックフレアーやダスティローデスのような派手な
営業マンを重用するようになっていた。こうなるとデビアスの仕事場として日本が
選択肢に加わるのは当然の流れで全日商事に駐在員として参画することになる。 全日商事でのデビアスの仕事ぶりは本国と変わらぬ堅実ぶりで先輩格のハンセン駐在員の
相棒としていくつもの大仕事を的確にサポートするもピンでの大活躍には至らなかった
感じで万年no2といったところが大方の印象だったと思う。
80年代中盤にはWWF商事に転出しここで職人仕事を一旦しまい込みタキシード蝶ネクタイ
着用で商談に臨む金満営業マンキャラを前面に押し出し大ブレーク。全日商事時代には
おくびにも出さなかった口八丁の交渉術でトップ営業マンの一角として長らく活躍を続ける。
90年代に入り一時期全日商事に復帰しまたもハンセン駐在員の相棒として活躍を見せたが
それも短期間で終わりWCW商事へ移籍しnWoセールスグループに相談役格として加入し
活躍を見せたが体調悪化などもあり宣教師に転身し今も布教活動を続けているようだ。
個人的にデビアスに感じるトータルな印象は「のっぺらぼう」である。スムーズ過ぎて摩擦
が一切起きない、やはり短所だとしても多少は引っ掛かりがある営業マンのほうが
記憶には残りやすいのだろう。 ありがとうございます!
もうほぼほぼコンプリートですけど、
まだ続くと有難いです! 自営なんですが外出自粛が浸透してきたのかけっこう週末はヒマなので
馬場社長に行きたいと思ってます あ、あといちおー全日商事の高山、リクエストお願いできます? 「馬場社長はあれだけ長い期間アメリカで大活躍してたわけだからもっといろんな
ことを知り尽くしてると思ってたけどそうでもなかったんだよな」
全日商事馬場社長の懐刀として大いに権勢を振るった佐藤昭雄元人事課長はそう言った。
リキ商店の若手ホープ、エリート候補として提携先のアメリカ、東郷企画に出向した馬場は
いきなり入り口の西海岸で大口の商談を立て続けに成立させその評判は米国中の商社に広まる。
取引は小口なし、大ロット専門でしかも仕事場所はロス、シカゴ、デトロイト、フロリダ、
ニューヨーク、と大都市を回るだけでスケジュールが週7日埋まるようになった。
やり手の東郷社長、馬場を補佐するアトキンス秘書の加護もあったが営業マン全米トップ10に
馬場はおそらく入っていただろう。
馬場の業績はかようにすごいもので取引相手もサンマルチノ、デスト、Bロジャース、と
超一流のディーラーばかりだった。(その上彼らからも取引相手として高い信用を得た。)
だからこそ馬場は下から、小ロットから少しづつ積み上げていく仕事の組み立てを
知らないし、一流のディーラーしか相手にしなかったため地方に数多くいる山師のような
一癖も二癖もあるディーラーと交渉する苦労もしてないから本当のアメリカ商社の業務が
どういうものであるかあまりに知らな過ぎた、というのが佐藤の見たてでしかもそれは
正解だった。周囲に金の雨を降らせ行く先々でvip待遇を受けたアメリカ勤務は「リキ商店
創業者の死」の報を受けたことにより終わりとなった。マジックアワーが終わった瞬間でもあった。 一回目の米国研修が終了し帰国した時点で創業者のリキ社長の仕事力全般が落ちてる
のを馬場派見逃さなかった。馬場が米国で稼いできたドルを貸してほしいという申し出は
受けたが借用証を書かせることは譲らなかった。この時を境に社長と馬場の関係は
「おまえ」「先生」から「馬場君」「リキさん」に変わったそうだ。
社長の死により2度目の米国研修から戻された時点で場場は会社の稼ぎ頭となった。
役職は営業課長ながら日テレ銀行の後押しもあり会社の柱として売上の4~5割強を
稼ぎだしたと言われている。リキ商店は今まで以上に高業績を上げ向かうところ敵なしの
状態だったが好事魔多し、さらなる儲けをもくろんだいわゆるダラ幹がメインバンク
を二つにして二重に融資を受けおいしい思いをしようとNET銀行と取引を開始する、
これにより態度を硬化させた日テレ銀は一応矛を収めたもののリキ商店の未来に愛想を
つかし水面下で馬場課長独立計画に着手し始める。一方NET銀行も一足先に独立した
猪木元係長の設立した新日商事バックアップを決めリキ商店は結局両銀行から切られる
運命が決定的となった。 馬場社長の独立に当たりメンバーは元々の側近であった駒大熊轡田佐藤に日テレ銀行の
希望で百田光雄、海外取引先も駒の尽力でアマリロのファンク商会と提携が可能となり
ドリーシニア社長の後押しで世界商社連合(NWA)にも加盟し準備万端の会社設立となった。
もちろん日テレ銀が背後に控えているとはいっても国際商社に不可欠な海外取引の軽費税金は
嵩み馬場派夫人の実家からの経済支援も仰いでいる。大卒のホープ鶴田友美の入社にあたっても
かなりの実弾を使っており社員の待遇は独立時に約束された条件と食い違っており
この時点で生え抜きと社長の間に溝が生じたと言われている。とはいっても70年代は
社長であり営業部長も兼任してた馬場の営業業績で全社員を食わせていた時代だったといえる。 先発の新日商事の後塵を拝していた全日商事がついにヒット商品を開発したのが
70年代末、テキサス回転式洗濯機と肉用フォークにアラビア式火炎放射器、夏場には
メキシコ虫除け用マスクと大ヒットで飛ぶように売れはしたが全て外国製の輸入品ばかり
という状況であった。ヒットはしたが海外取引先への依存度と支払いは大きくなる一方で
経理状況は危険水域に達していた。ここで日テレ銀が強権を発動し馬場から経営権を簒奪
した上で以前からキレ者の片鱗を見せていた佐藤昭雄を人事権経理部長に抜擢し会社に
お金が残るような経営に方針を転換、銀行から出向した松根社長との二人三脚で改革を断行
決してリストラなどせず成功報酬なども導入し「馬場抜き」でも会社が回るよう日々刷新を
続ける。高千穂主任が帰国した際にオリエンタルグッズブームを巻き起こし国産品でも利益が出る
体制は着々と築かれ鶴田天龍が営業1,2課課長に昇進しジャパン人材派遣との提携など
80年代中期は業界の中心に全日商事がドカンと座っていた。 昭雄が実権を握っていた時代の馬場は筆頭株主でかつ会長職にあったが「置き去りにされた」
感情を持っていたと思う。だが家庭の事情で佐藤部長が帰米すると一気に巻き返し
ジャパン人材派遣と提携、2年後に解消になると一旦会社は創業時のように米商社との
大型取引に活路を見出そうとするが天龍課長が大胆な働き方改革により会社は正反対の国内需要を
掘り起こす方へ傾未「未来の社長」鶴田課長もそれに呼応、業績は一気に上がり日テレ銀の
借金も返済が進み馬場は社長へ返り咲く。この時点で社長は現場から一線を引き社員の自主性を
尊重するようになり業績への好循環を生んだ。90年代に入って早々天龍部長一派の大量退職という
難局も若手の三沢主任のまさかの活躍で乗り切りますます盤石な時代を迎えることになる。 三沢川田小橋田上と言った気鋭の若手営業マンが最前線で活躍する状態が続いた
90年代は社として安定期に入り馬場社長もその高収益ぶりに笑いの止まらない時代だった。
反面アメリカの商社を手本に様式美や型を尊んだ古き良き営業スタイルは消え去り
根性と執念、精神論で押しまくる営業スタイルが主流となり外国人駐在員はそれに遅れがち
になり残業休出の連続で主力たちの体調不良も目に見えて増えてきた。
日常生活にさえ支障をきたすほどのハードワークの蔓延、しかしそれこそが全日商事の躍進のキモ
であり惨状をわかっていながら路線変更の鶴の一声を発せなかった馬場社長の責任も大きいと思う。 結局業績が緩やかに下降線を描き始めたあたりで馬場社長は病に倒れその後を見ずに
逝ってしまった。
馬場社長の思い出話というとケチというキーワードが出てくるのが常だが当時国保が当たり前
だった商事会社界で密かに厚生年金加入をしていたなど評判に反し行く末を考えていた物証も
出て来ている。
馬場の社長でなく営業マンの実績は誰が何と言おうと今の商社マンでは決して手の届くこと
のないアンタッチャブルレコードの域に達していると断言できる。 馬場社長編、ありがとうございました!
読み応え抜群です >>566
昭和の全日本プロレスとか国際プロのスレを読むとけっこうその手の話題が
出てます、あとなぜかSWSスレでは頻出というかもう定番のお題になってます >>566
>>568
自粛期間なのでぜひ「実録国際プロレス」「1964年のジャイアント馬場」
「夜の虹を架ける」、この3冊、御一読をおすすめします
特に「実録〜」は基本国際プロの話なのですが全日と深く提携していたため
全日本絡みの話題も多く何回読んでも興味深く楽しめます、3冊で計2000頁超の
ボリューム、GWもこれらがあれば巣ごもりも退屈とは無縁と断言できます 全日商事大学卒入社一号だったのが鶴田。中卒よくて高卒の多い商社の世界だけに
業界内外から大いに注目を浴びた。元より同業他社も鶴田には注目しており争奪戦が
水面下で繰り広げられたが全日商事以上にバックの日テレ銀行までもが「将来的に
銀行業界にスライドすることもできる」という身分保障手形を切ったことにより入社が決定した。
当時馬場社長の右腕と言われていた駒人事課長がつきっきりで1か月礼儀作法の基礎だけ教え
すぐに取引先だったアマリロのファンク商店に研修に出される。
リキ商店から行動を共にした馬場社長の側近に中には鶴田の特別待遇に不満を感じてる者も
いたらしいが「会社の将来の発展のための先行投資、いずれ鶴田の仕事の余禄で俺たちは
食っていくんだから口出しは一切まかりならん」という人事課長の覚悟がそれらを圧倒した。 ファンク商店に赴任した鶴田だがそこでも商社マンとしての実力が飛びぬけて高く
苦労とは無縁の生活を送ったようだった。師匠ドリーの持てるテクニックを恐らく
吸収しつくし(消化はしきっていないが)帰国した鶴田に与えられたのは「社長特任
営業」のポジション、業界未経験なのに全ての先輩を飛び越えいきなり実質の専務待遇
となった。実際鶴田は与えられた仕事をそつなくかつ難なくこなし続けた。スタイルとしては
のらりくらりと自分のペースは崩さず多少は相手にも合わせて大成功はないがその分一切失敗
と認定されるようなものもなく正にアメリカン営業の王道を行くものだった。
馬場社長としてはこの有望株が外に興味を持つことを極度に警戒し特別待遇を与え続けた。
社員寮兼研修所を鶴田が買おうとした土地に建てさせ鶴田に賃料を支払う形をとったため
鶴田は自己資金ゼロ円で砧の200坪の土地を手に入れることができた。十数年後に自宅建設
する際その土地を2~3億円で売りぬいたという後日譚も付いた。
それ以外にも関連子会社の重役に鶴田を登用しがんじがらめのガードを敷いたのは有名だ。
そういう状態が10年以上続き内外に知られる一流の営業マンになった鶴田だが
「鶴田ならばこれ」という大きい仕事を成功に導いたことはほぼなく善戦営業マンと陰口を
叩かれ舐めた扱いを受けることもあったがそういうことを一切気にしない鶴田にとって
そういう声は残念ながら発奮材料にはなり得なかった。 ジャパン人材派遣との提携、超大物営業マン輪島の中途入社という震度7級の
事象があっても鶴田の立ち位置と仕事への向き合い方は変わらなかった。
第一線を引くと公言しつつ全く引くそぶりを見せない馬場社長の地位への執着ぶりも
鶴田の「現状維持で腹六分目」なスタイル固定化に拍車をかけた。
何かが変わったきっかけは意外なとこにあった。年上の後輩である天龍営業係長が
スタートさせた働き方改革だった。「仕事に一切妥協せず残業休出は朝飯前」という
そんなことやっても全く報われない、と思われていた仕事スタイルが中堅営業マンの間で
徐々に広まった。今までの鶴田だったら「どうぞご自由に。俺は俺でやるから」という
事になったろうが何故かこの時は足を突っ込んでみた。反響は社内のみならず業界全体に
伝播し新しい仕事スタイルの中心に天龍と共に鶴田も立つこととなった。
社の業績も上がり始めメインバンクに残って債務も徐々に減り始め創業以降で一番いい時代
を迎えることになったがその絶頂期に天龍課長はヘッドハントされ新興商社へ流れて行ってしまう。 天龍課長派の抜けた全日商事は一気にガタガタになる、大方の予測は悲観的だった。
「ここはさすがに鶴田課長(実質専務兼副社長)が一肌脱ぐのか?」という待望論も
当然あったが動くべき時には山の如く動かないのが鶴田たる所以。
三沢主任ら若手社員が鶴田に業を煮やして立ち上がり大きい仕事を手掛けはじめ一気に
窮地を脱することに成功する。面子が立たない鶴田(営業部長に昇格)はいままで坊や扱い
して来た三沢らの所まで階段を降り対等に競い合うことを選択せざるを得なくなっていた。
ここで光ったのは三沢らの若さ以上に今まで目に見えなかった鶴田の仕事に対する異様なまでの
力強さとあり得ぬまでの安定感だった。「やはり会社を救ったのはきっかけは三沢だが
最終的には鶴田だった。」という評価が定着したところで今まで伏せていた持病の肝炎が悪化し
営業の一線を退くことになってしまったのは残念過ぎた。以降嘱託監査担当として出社機会は大幅に
減ってしまった。そして馬場社長逝去後退社し大学教授としての活動を本格化しようとした矢先
肝炎がさらに悪化、移植手術の機会を求めて訪問したマニラで客死してしまう。
馬場社長は後年鶴田の若い時分に特別待遇を与えすぎたことをかなり後悔したらしい。
自分の後継者にはなり得ない愛弟子への落胆の思いがあったのは想像に難くない。
だがそれが要因で規格外のスケールの商社マンに鶴田が育ったことも事実だろう。 天龍は相撲財団でそれなりの地位までのし上がった実績があった。一般会社で言うと
部次長くらいのポジションだろうか。財団内の揉め事に巻き込まれ新天地を求め
全日商事へ再就職したのは業界でもかなりの話題になったのも財団に残ればまだまだ
役員会入りのチャンスもあるかもとみなされていたからだろう。
注目新人として一足先に入社し早くも役員待遇までこぎ着けた鶴田は天龍にとり比較対象
であり目標でもあった。だがすんなり業界の水に馴染んだ鶴田と比べ天龍は前職の型と経験
が大いに邪魔をしどんな仕事をさせても様にならずはた目にも先が思いやられる不器用さだった。
即戦力をもくろんでいた馬場社長にしても当てが外れたようでその証拠に何回もアメリカ駐在に
放り出されていた。また天龍も天龍で何かを掴んで帰ってくるかと思いきや進歩ゼロで手ぶらの
帰国を繰り返した。また都合悪く(良くなのか?)アメリカはそれなりのバブルで
中途半端な外人商社マンでも商談にありつけてしまいそこそこ稼げたため日本で駄目→アメリカに
逃避しクビになるまでのんきに行商→帰国、というだらしないループにはまっていた状態だった。 天龍が目を覚ましたのは何度目かの米国在中時代、先輩社員の高千穂主任と行商してた時の
何気ない会話で天龍が「こっちで女見つけて結婚して食ってこうかな」とこぼしたところ
主任に遠回しに「お前にゃ無理、日本でやれ」と言われたことだったそうだ。
流されるがままの日々を反省しアメリカ仕込みの商談テクニックをきちんとマスターして帰国したのは
5度目にしてはじめてのことだった。帰国後はロビンソン駐在員の欧風営業術も身に着け
さらに掟破りと言われてた新日商事の大ヒット商品だった後頭部用(延髄切り)ハサミ
や卍式マッサージ器を躊躇なくパクりそれらのジェネリック版を図々しくも堂々と売り出しそれなりの
売り上げを記録する。さらに業務提携でやって来たジャパン人材派遣のハイスパート押し売り
への対応も身に着け自身も時にハイスパート商談をやったり一気に営業マンとしての幅を広げることに成功し
ライバル鶴田課長へ肉薄していくようになる。「全日商事第三の男」と言われていた天龍がついに
覚醒し数字をあげ上を狙い始めた。 ジャパン人材派遣が新日商事にUターンして全日商事の空洞化が懸念されたが
天龍係長の提唱した働き方改革で一気に熱を取り戻し社の業績は右肩上がりになった。
だが社外の評価に比べ上昇しない社内評価にイラつきを感じていた天龍に渡りに船の
ヘッドハントの声が掛かってしまう。これに応じていなければ全日商事の次期社長は
意外と天龍だったのではないか、という関係者の声は大きい。
新天地の商社は資本金が大きいばかりでオリジナリティに乏しく、また寄せ集めの商社マン
たちの足の引っ張り合いに終始した印象が強く早々に業務破綻の憂き目に。
その後ロマンス商事を立ち上げるも経営に行き詰まりフリー商社マンとして活動ののち
三沢部長らの抜けた全日商事の危機的状況にワンポイントとして参加、武藤社長時代へ
バトンをつないだ。今は引退し業界近辺でPR活動に専念している。
80年代後半の全日商事の顔というより業界を象徴する顔であった。 ブッチャー、希望いたします!
幸せなリーマン人生でしたね 80年代後半から90年代中頃まで後楽園に通い詰めたんですが選手入場口は当時
今以上にしょぼくてちょっとした風や人の出入りで簡単にめくれるカーテン1枚で
仕切られてた。しょっちゅう中が丸見えになるんだけど試合を終えたブッチャー(当時
全7〜8試合中の3〜5試合目出場が主)が襟付きのゴルフシャツとスラックスに着替えて
何をするでもなく通路の長椅子にじっと座ってる、という光景を目にした。
アメリカでは肌の色ゆえ人気大物選手なのに控室に入ることをためらっていた、と聞いてたが
一見そういうのと関係ない日本でも何かがあるのかとショックを受けた記憶があります。
それこそブッチャーだから第一線でなくなってもドレッシングルームのボスなんだと
単純に思ってた。 2000年代に隆盛を極めたk1商事のボブサップ駐在員は業界外でも有名になったが
全日商事のブッチャー駐在員はそれ以上に世間に届き長期間に渡り金の雨を降らせ続けた
駐在員no1だったのではないだろうか。
リキ商店の駐在員から全日商事にスライドし日本での営業活動を本格化させる。
ごちゃごちゃ動き回りその意外な速さに驚く間もなく気がついたら商品を購入させられている、
正に的屋の啖呵売のような商談スタイルは日本人のハートをがっちり掴む事になる。
営業マンとしての振る舞いはかなり粗野だがあのチャーミングな瞳もまた日本人を
長らく魅了し続けた秘訣なのだろう。駐在員天国と言われた全日商事でファンク商店系の
駐在員が増えても彼は売上no1だった。肉切りフォークと鋭い(毒)針は性能もよく大大ヒット
商品となった。またブッチャー駐在員の息が長かったのは馬場社長という実に手の合う
カウンターパートがいたことも大きいだろう。
だが売り上げがちょっと下がったところで新日商事に移籍してしまったのは意外ではあった。 当時の新日商事は猪木社長のワンマン時代の末期であり駐在員の自由度は全日商事に
比べかなり低くブッチャー駐在員はかなりワリを食ってしまったのではないだろうか。
ここではとびぬけた業績を残すことはできなかった。ただ地方へ出張すればその知名度は
駐在員中ダントツで地方バイヤーからのご指名は猪木社長以上でもあった、という証言が
残っている。特に夜の接待でも座持ちが良く会社への貢献度は倍増したブッチャーの給与を
考慮しても十分に元が取れるレベルだったそうだ。
数年後全日商事に復帰、全盛期とは違い中堅駐在員として担当案件を堅実にこなし
誰からも愛されるポジションを得てこのまま、と思った矢先全日商事を離脱し中小の新興商社で
エース駐在員としての活動を選ぶことになった。昨年冬に馬場社長の20周忌に合わせて駐在員
引退セレモニーも大盛況のうちに執り行われ完全に業界から足を洗った形となる。
日本での活動はさぞ自由だったと想像してたが人種差別は駐在員間で残念ながら存在していたようだ。
また日本でがっぽり稼いでいる彼への妬み嫉みもあったはずだ。
乱暴な商談の隙に垣間見せる悲しい表情はいまでも見返すにつけそういう悲しい現実を無言のうちに
語ろうとしていたのではないかと思える 馬場社長20回忌とブッチャー引退セレモニーは素晴らしいイベントでしたね
筆者のかたは参加されましたか?
NHKニュースにもなっていたような…… サムライTVで視聴してました
いきなりの猪木、リングサイドにはずっと坂口(と馳)、昭和の全日本が
完全に終了したんだなという寂しさはあったけど素晴らしい会だったと思います
思ったほどお金の匂いのしない興行でした →お金の匂いのしない
馬場社長関連のイベントは、
そういうタイプが多いですよね
社長のお人柄ですかね 「ニーズが全くない、というニーズ」という不思議なニーズがあったのが谷津嘉章だ。
新日商事に大物新入社員として入社後にアメリカ研修に行った際に全日商事の面々と
交流があったらしい。ジャパン人材派遣に出向後頭角を現し営業副部長として活躍し
全日商事と提携後は鶴田天龍長州と共に日本人営業マン四強の一角に食い込む。
ジャパン人材が全日商事と提携を解消した際には新日商事へのUターンに同行せず
永源経理係長と共に残留、この残留は対面を重んじる馬場社長をたいそう喜ばせ一説には
2000~3000万のりんじぼーなすが出たと言われている。(鶴田天龍も同額程度を支給されたらしい。)
一課長補佐として鶴田を支え隣の二課で発生した働き方改革に対抗し全日商事隆盛の礎を築いた。
傍からは順調に進んでいるように見えたが谷津は外様傍流であることに限界を感じていたらしい。
天龍課長独立に際し谷津派だった仲野、高野俊、高木らはいち早く天龍の新会社へ流れてしまった
こと、高校の後輩だった三沢川田の台頭により自身の居場所が日当たりが悪くなってきたことなどが作用し
谷津も天龍の独立にまさかの合流をしてしまう。以降流浪を繰り返し自身の会社設立もあったがうまくはいかず
業界をリタイヤしている。
現在は持病の悪化で足首切断が話題となった。本人はいたって元気のようで特に口は
現役時代以上の絶好調をキープ。業界紙の回顧インタビュー企画では常連中の常連で
話の度に大きくなる数字や過去の自身の証言に反する新事実が常に蔵出しされるなどサービス精神は
元商社マンの中ではナンバー1といって良い。「あの下衆な語り口はもはや芸、読むのが癖になる」
というマニアも取り込むほどしゃべりの人として引く手あまたのようだ。
来年に延期された五輪聖火ランナー(群馬県、スポーツ、身障者枠)としても注目されてる。 「勢いはあってかっこよかったけど実際ジャパンは長州はじめ仕事が下手くそだったね」
佐藤昭雄人事課長は後年そう総括した、理論派の佐藤の発言は信憑性が高い。
当事者だった谷津課長補佐も「俺たちはガーっといって一方的に短時間で商談決めちゃう
新日商事の流儀を持ち込んだけどそれだと商品が売れないんだよ全日じゃ。受けて攻めて
シーソーみたいにやって商談転がさないと駄目だった、手ごわいなって思ったよ。それで
少しづつ(全日商事の流儀に)寄せてった感じだね、あっちも合わせてくれたし。」
と語ってる。
さて本丸の馬場社長はどう評価したのだろうか。
期待にあふれた提携前は「ジャパンの奴らは背が低いからオフィスのデスクと椅子を
10センチ低く下げてやれ」という指示を総務に自ら通達するほど前のめりだったらしい。
実際提携後売り上げは上がったらしい、だがジャパン人材に支払う提携料が高額(日テレ
銀行から月ごとに受け取る配当金の10%、のちに15%)だったため利益は増えなかったそうだ。
それとジャパン人材のキーマンと言われた大塚統括部長が想像以上に有能だったことも
馬場社長に「下手すると軒先を貸したつもりが母屋を乗っ取られる可能性が」という不要な疑心暗鬼
に陥らせてしまったことで相思相愛は冷めるのも早かった。
主たる営業マンへの馬場社長の評価はどうだったろうか。
浜口係長は一番評価が高かったのではないだろうか。器用ではないが引くところはちゃんと引き
パワー全開の明朗快活な仕事ぶりは全日商事営業マンに見習わせたい、とまで御大に言わしめた。
ヒロ部員は当然高評価、細かい仕事をコツコツ基本に忠実にこなす仕事ぶりに信頼は厚かった。
意外なところでは栗栖、保永らヒラ営業マンが高評価を勝ち取った、二人ともどちらかというと
自分を殺し相手のいいところを引き出す手堅い仕事ができたし決して不器用ではなかった。
意外な低評価は小林、ベテランで経験値も高いが相手に合わそうとせず頑なに自分の仕事を
崩そうとしなかった意固地さが原因だろうか。カーンや寺西、永源と言ったベテラン勢とは
昔からの付き合いもあり信頼関係があったようで特に言及はない。
長州について語ろうとしないのは「まあそういうことなのだろう」と納得する以外ない。 ヒロさんは、『ジュニアのハーリーレイス』と評されたらしいですよね 阿修羅かなとも
縁の下を支えた影の実力者だったが
決して幸せにはなれなかった学校でも社会でも 阿修羅原だねやはり。あの人の立ち位置しか思い浮かばない。 元子全日、そして武藤全日の
影の立役者、TARUとかってリクエストできます? オカタさん
二代目ドラ息子社長でオーナーのお気に入りだからたいして仕事もせず重役出勤で役職ついてていいとこどり
周りがヨイショしてくれてまさに僕と同じですw 沢山ホラを吹いたり、自分のやったえげつない事を人になしつけたり、いい加減で
適当な書き込みをしてる奴がおる。 しかもウンチとセックスが大好きな変態野郎。
その人のブログはこちらで、 あだ名はサボ辻、ホラ辻
https://www.facebook.com/tomokazu.tsujimoto.3 創業社長の未亡人が経営権を握り迷走を極めた全日商事だが資産が枯渇しかねない状況
に至って未亡人社長は保有株式を新日商事のトップ営業マンだった武藤営業部長に売却、
新体制のいわゆる武藤全日商事がスタートした。
武藤新社長が手を付けたのは旧体制から悪しき伝統として受け継いだ高固定費を見直す。
社は一等地六本木から引っ越し給与の高い外国人駐在員をバッサリ切った。そのかわりに
安価かつ仕事のできる人材を派遣会社から大勢雇い入れ風景は一新されていく。
wwe商事勤務経験のあるTAKA営業員はレイオフされたかつての「できる」仕事仲間を
供給し一人親方的な会社だったダイヤモンド人材バンクからは健介社長が助っ人的に
長期出向、チンピラ風のnozawa社員も鈴木みのる、高山といった業界きってのフリー
を仲介、と創業社長時代に引けを取らぬ要員が集まり上々の業績を上げた。
中でも白眉は登竜門人材センターを解雇されたTARU、YASSHI、近藤らの札付き営業マン
ユニットの大活躍だった。社長はじめ正統派のしごとを得意とする人材が多かったが
この札付き営業ユニットは汚れ仕事裏仕事を一手に引き受け営業のバランス調整と拡幅に
多大な貢献を果たした。汚れでありながら確かな仕事ぶりで顧客の支持はうなぎ上りとなる
捻じれまで引き起こして見せたのだから大したものである。リーダーのTARUは仕事ぶりは
年齢や体調による波があったが人材育成に関しては武藤など足元にも寄せ付けぬ才があった
と思われる。伸び悩んでいた諏訪間、小島、宮原、ドーリングと言ったのちの屋台骨を支える
面々がTARUの下で研修を受け全員が見事に新境地を切り開いている。
その後社内での暴行事件で社を追放されたが謹慎期間ののち現在はゼロワン商店の屋台骨を
支える活躍を続けている。
TARUの助力がなければ武藤全日商事は3〜4年は早く白旗を上げていたと思われる。
前科とその他毀誉褒貶諸々のためこういう傑出した人材が業界のメインストリームに
なり得なかったことはつくづく惜しい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています