会社、学校内での自分のポジションに近いプロレスラー
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カブキ
外様の地味キャラが開き直って大暴れしたら
なぜか役員にウケて色んなプロジェクトにバッテキされた。
役員、上司、先輩とは仲いいが同期の飲みに誘われない。。。 諏訪魔とジョーは、たしかにTARUのお陰?で大成しましたね! ジャイアントバーナード
ジャマール
とかて入りますかね?? WCW商事を一飲みした業界の巨人WWE商事がウォール街で上場してからは
業績が下降線をたどりそうになると過敏な反応を見せるようになり→即人員整理
というカードを切るようになった。働いてる従業員にしてみればたまったものではないが
優秀な人材が市場に投げ出されるわけで全日商事のような海外駐在員を必要としてる
商社にとっては悪い話ではなかったかもしれない。
もっともアメリカ人駐在員にとっても全日商事で仕事をすることは給与は下がるだろうが
それでも米国中小商社よりは条件が良く移動は楽ちん、泊るところも治安も心配なく
口に合えば食事もおいしい、上手くやれば旦那もつく、と悪いものではなかったはずだ。
中でもバーナード、ジャマール、ディーロ、ダッドリーズ、リコ、あたりは
「こういうできる人材を平気でクビにするWWEは見る目がなさすぎる」とも思ったが
実のところバーナードクラスでも正社員として契約してもらえないくらい高レベルの
競争がWWEにはあり陣容が充実しきっていた時代だったのだろう。
彼らの基本がしっかりしていてかつ洗練された仕事ぶりを見ることができたのは幸運だったといえる。
上から目線で恐縮至極だが彼らになかったものは日本で食っていく覚悟だったと思う。 WWEって、上場してから下降線だったのですね……
ロック様、ストンコがいなくなったのがでかかったか それに合わせてビンスがXFL立ち上げとかで忙しくなってストーンコールドの
相手を毎週できなくなったことも大きいですね
あの会社のエースは他でもないビンス、シェイン、ステフ、リンダ、ビショフら
全員でもその穴は埋まらなかったという印象 XFLはビンスにとって採算度外視の究極の夢の事業なのかね
NFLがあって勝算なさそうなんだけどアントンハイセルみたいに金をぶち込んでるな
2回目もコロナでポシャったし >>619
一年で潰れた
マスコミが嫌がらせしたのもあったけど、レベルも低かった テリーゴディ、
ダイナマイトキッド
リクエストいたします! 自粛解除でちょっと立て込んでるのですいません、いずれ りょうかいです!
期待して待っております
お体に気をつけて テリーゴディは10代の若さで商事会社フリー営業マンとしての活動を開始した早熟派。
フリーバーズという営業マンユニットで田舎を荒らしまわり実績を積みテキサスに定着する。
ここでゴディの才能に目を付けたのが米国で営業マン修行をしていた佐藤昭雄だった。
佐藤はゴディの実績を認め、さらに潜在能力、性格の素直さは日本の営業向きであると見抜いた。
佐藤が帰国後人事課長に昇格するやゴディを招聘、佐藤の予想通りファンク兄弟の穴を埋める活躍を
見せる。先輩のハンセン駐在員と組ませたことで日本の営業流儀を短時間で学習できたことも大きかった。
80年代後半には駐在員四天王としてハンセンゴディウィリアムススパイビーは大活躍、序列はハンセンに次ぐ
no2を確立、ポストハンセンはゴディだろう、というのが大方の見方でもあった。
またウィリアムス医師とのコンビは90年代の最高峰と言われてるがそれはウィリアムスが
ゴディから多くを学習したからゆえだろう。素直な性格だからなのか時には明らかに格下相手に契約を
取りこぼすこともあったがほぼ完成形の営業マンといえた。だがさあここからトップに、という
タイミングで体調と共にメンタルも悪化し全日商事との関係が切れてしまったのは残念過ぎた。
手の付けられぬ酒豪で歌舞伎町のヤクザ経営の店を破壊したりする反面、馬場社長に太り過ぎを
指摘されると次の来日時にはきっちり落としてくる聞き分けの良さも持ち合わせていた。
豪傑にみえて繊細なハートの持主だったのだろう、本当に彼の離脱が生んだ損失は大きすぎた。 WWF商事で活躍したのちダイナマイトキッドは盟友のDBスミスと共に突如
全日商事へUターン再就職を果たした。仕事ぶりは失礼ながら「昔の名前で」
こなしている感じではあったが営業ノルマはゆうにクリアしていたはずだ。
スミスはともかくキッドの体調が本調子でないのは来日の度に見て取れた。
正直従来の大口取引をこなすのにはかなり無理がありハンセンゴディウィリアムススパイビー
の駐在員四天王に食い込むような状態ではなかった。だが運のいいことにマレンコ兄弟ら
小口取引を主体とする外人駐在員のニーズが高まっていた時期だったためキッドも
小口取引部門に参入することとなった。複雑な契約条件でスピーディな納品が求められる
小口部門でキッドは息を吹き返しそのトップに君臨する。インテリ肌なダグファーナスが企画書を
まとめ馬場社長に上申したと言われる英国産犬を特急のスピードで米加で販売するタイアップ企画
も大当たりをとった。
スミスがWWF商事に復帰後はジョニースミスをパートナーにして仕事を続けたが
回転の速い小口部門の中で次第にキッドは取り残されていき体調悪化の為引退する。
その後復帰するも仕事用スーツのぶかぶかな感じが体力の衰えを感じさせ見ていて
つらくなるような仕事ぶりが常態化してしまう。結局全日商事との関係はフェイドアウト
してしまうのだが。
正直生活に困ったのだとしても引退後はこの業界に戻るべきではなかったと思うし
その時代の姿は思い出したくない。
ただその貢献度は非常に高いと思う、経営悪化していた全日商事が89年から後楽園商談会を
毎回完売させ10年以上その状態が続いた、その第一歩はキッドあってこそである 久しぶりの更新ありがとうございます!
ぼちぼち続けてくださいませ! 面白い発想だねー。
レスラーをビジネスマンに例えるとは。 あ、あとハンセンリスペクトのジョーもカッコいいですよね! ジョーはすごくいいし今でもまだ十分伸びしろが残ってると思うけど現状ちょっと
太り過ぎた気がしますね。難病克服しての復帰は感動だったし多くのファンの琴線
に触れたと思うけどちょっと以降そこに甘えすぎた感が無きにしも非ず。たしかに
開頭手術を経てリングに上がってるのはすごいんだけど さジミースヌーカ
顔はイケメンだが挙動がキモいので怪奇派にされている 全日商事にとって新入社員スカウトは鶴田、秋山以来となったのが諏訪間幸平だ。
大学卒で実績あり、ネクストジャンボとまで期待されたが入社後は大いに伸び悩んだ。
原因としてはいきなり第一線の営業1課に配属されたが有力なプロパー社員がおらず
一癖も二癖もある外部からの出向契約社員(佐々木商店、鈴木商会、ヴードゥ人材など)
が縄張り争いを繰り広げてる狩場と化していたことだろう、しかも契約社員が皆やり手の
腕利きばかりだったのも十分に新入社員を委縮させたことであろう。
もう一つは武藤社長(当時営業部長を兼任)があまりに放任主義すぎたことであろう。
現在の諏訪間からは想像もつかないが彼らにいいようにあしらわれていたのが入社直後の
姿だった。
転機は見かねたヴードゥ人材の責任者だったTARUが許可を得て声をかけて指導を始めたことだった。
TARUとYASSHIという細かいとこに目配せできる職人営業マンと組むことにより
細かいことを気にせず自由に営業できる環境を得た諏訪間は水を得た魚状態でメキメキ
頭角を現す、ついでに大型営業マンがないがしろにしがちな営業の組み立てのディティールも同時に
学び地位を確立するに至った。 ヴードゥ人材と袂を分かって以降はラフで長期戦を得意とする大型案件営業マンとして
一人立ちするが今度は全日商事が傾き始める。武藤社長が窮余の策で連れてきたスポンサー
兼社長はかなり出鱈目な人物で資金も持ち合わせていなかったばかりかガチ営業という
わけのわからぬ方針を打ち出し社はおろか業界までもかき回し全日商事は八方ふさがり、
ノア物産から営業2課が丸ごと転籍してきたが間もなく武藤社長一派が新会社を設立し離脱、
出鱈目社長もフェードアウト、秋山一派から離脱者が続出した窮地に諏訪間は踏ん張りをみせ
業績が最低の状態を何とか支え続けた。
会社は秋山社長のもと規模を縮小し持ちこたえ首の皮一枚で持ちこたえた。
いよいよ諏訪間の時代となるところだったが大抜擢の宮原(佐々木商会より転籍)が新日商事の
カリスマ棚橋ばりのナルシス営業で一気にシャの顔となり現在に至っている。
諏訪間が踏みとどまったからこそ全日商事の系譜はなんとか途切れていないのは事実。
ただスケールは大きいがいつまでたっても一人で仕事をこなすシングル営業には大きい不安が付きまとう。
現状でも真の意味で一本立ち仕切れてない歯がゆさを感じる。時に大爆発し大きい成果を上げる時もあるが
安定感がない。ただその分気の利くパートナーを得ればかなりの安定感も発揮して見せる、
いまだ漂う身管制官が諏訪魔の魅力なのだろう おお
久々ありがとうございます!
諏訪魔よい選手ですよね! 全日商事といえばが多いのが特徴で業績が常に上回っていた新日商事でさえその点では
負けていた。だが時代は流れ駐在員の質こそ高止まりしていたが90年代はメンツの固定化が著しく
駐在員というよりは常駐外国人社員という感じになっていた。
2000年代馬場社長逝去後はその代名詞といえたハンセン駐在員の退職、分裂騒動、業績低下などにより
駐在員の質量ともに目減りしていくこととなった。
社を継いだ武藤社長時代には人余りのWWE商事からフレッシュな駐在員が供給された時期もあったが
高額な給与、旅費滞在費に見合う業績が上がらず更に駐在員市場はシュリンクしていった。
そんな時期に研修生として見習い駐在員として来日したのがジョードーリングだった。 ドーリングは線はやや細いが長身でいわゆる全日商事駐在員の系譜だった。
武藤社長の手厚い加護の下ドーリングはメキメキ頭角を現す。不器用ながら日本流の
仕事を身に着け業績を上げていく。ハンセン駐在員の面影を見た関係者も多かったはずだ。
ドーリングにとって不幸だったのはまずライバルが不在だったこととお手本となる先輩駐在員
が居なかったことだ。ベンチマーク的存在がいなかったため評価がいまいち定まらなかった感は強い。
そして何となくエース駐在員として活動を続けるが大震災や社内での暴行事件などで
業績が悪化する中ドーリングの存在感は薄れていき会社の経営陣が2度3度変わるどん底期に
戦線復帰が発表されたが今度は悪性脳腫瘍を発症という運のなさ。
病気を克服して駐在員復帰し最初の1年位は目を見張る活躍を見せたが徐々にルーティンワークを
無難にこなすサラリーマン然としてきてしまったのは何とも惜しい。
昨年末あたりから全日商事内部で動きがあり秋山専務(待遇)が退社し同業他社へスライドしている。
ドーリングの来日も世界的なコロナ禍でストップしてしまってる現状だ。
正直ドーリングは武藤社長が遺していった数少ない優良資産と思う、再来日を強く希望したい。 佐々木商店での丁稚からノア物産に出向したあたりで存在が認識されたのが宮原だった。
仕事ぶりは特に記憶にないが可もなく不可もなくという感じだったと思う。
voodoo人材派遣で揉まれ佐々木商店を退社し全日商事にスライド移籍となる。
全日商事でも若手中堅の一人として特に目立つ活躍はなく失礼な言い方をすれば員数合わせ
要員の域を出ることはなかった。
当時全日商事は営業成績が低迷し優秀な人材の退社が連発するなど経営危機的状況に直面していたが
ここで秋山社長が大抜擢したのが宮原だった。20代半ばの若手をいきなり営業課長に格上げし
緩やかながら数字が回復傾向を見せるという奇跡が起きた。 営業エースになってから早4年強、全日商事=宮原営業課長という時代が続いており
実質営業部長と言っても過言ではない。宮原のすごいところは休日も休まず営業活動を
行っておりここらあたりは新日商事をX字回復させた棚橋営業部著とダブるところがある。
ただ仕事の組み立てに関しては宮原は棚橋の模倣でなく独自の方程式を確立下と言い切っていいだろう。
その特徴は限界近くまで手数を削っておりひたすら受けるがままに徹するのが基本、
絶妙なのはごく自然な離席というテクニック、1〜2分せきを外し部屋の外を歩き回り呼吸を整え席に戻ると
なぜか宮原のターンに流れが変わってるという大技といって良い。三沢部長もよくこれをやっていたが
宮原ほどには切り替えが上手くいってなかった(三沢の商談相手が今以上にタフだったせいも大きいが)。
超大口の商談成立の機会はいまだないが小〜中口の商談を手堅くまとめる安定感はもっと高く
評価されてもいいのではないだろうか。
秋山社長が降格からの人事権剥奪で退社しておりコロナ禍の続く中全日商事の先行きはかなり
視界不良と思われるが願わくば宮原課長中心に団結し手探り状態でも前に進んで欲しい 宮原ありがとうございます!
ヘッドバッドwが有力商品の一つなのも面白いですよね やはり興味深いスレ
筆者のかたはどのレスラーに一番近い人生を
歩まれたのだろうか 正直なところ秋山元社長がtajiriとの社内抗争に敗れDDT商店に移籍したことで
昭和からの全日商事はひとまず閉幕したのかなと感じております。
新経営陣としては「流れは連綿と続いてる」と主張するでしょうし、それゆえの
最近干されてた渕相談役のとってつけたような急な(首都圏限定)復帰なのでしょうが
私儀、完全に心が離れてしまいました。
もちろん今後も全日商事の躍進を期待しますが。
いままでご過分なお褒めのお言葉を頂きましたことに感謝します。駄文に永らくお付き合い
頂きありがとうございました。正直楽しかったです。
またどこかで 猫の手も借りたい空前絶後の人材難の時代の全日商事にスルッと入社したのが浅子覚。
同期入社に井上雅央がいる。即戦力として営業に配属された。厳しい物言いになって
浅子には大層無礼と思うが正直天龍課長一派の退社がなければ入社は認められなかった
と思う。新日専門学校卒の履歴は嘘なのではないかと思うくらい技量的にパッとしなかった。
秋山大森といったエリートが後輩だったことと同期の井上が殊の外経験が浅いなりに器用に
仕事をこなすタイプだったことがそういう厳しい見方に拍車をかけてしまったという
不運な部分があったことも事実ではあるのだが。
だが浅子に運が向いてきたのは労災で第一線を引こうとしてた菊地部員のポジションが空き
三沢営業部次長に引き上げられたことであろう。
かなり無理はあったが三沢小橋の決める超大型契約の細かい部分の詰めを不器用なりにこなし
チームとしての機能向上にそれなりに貢献を見せた。
その後トンパチ駐在員として知られたダニークロファットとの力仕事中に大けがを負ってしまう、
けがから復帰後は小口仕事に専念するが経験を買われ高山大森の雑な大口仕事専門の
営業ユニットに尻ぬぐい役として加入し一定の存在感を発揮した。
後に三沢部次長の独立に追随し新会社でも同ユニットを継続、だが持病の首のけがの悪化で
退社、その後ノア物産の産業ドクターに転身し自身の医院も開設独立し今に至る。
最後にまた厳しい物言いで申し訳ないが早期の退社は浅子にとって結果的に幸運だったのでは
なかったろうか。現役営業マンとして仕事を続けていても正直同期の雅央を上回ることすら
ずっと不可能だったと思う、人には収まるべきポジションがある、リストラ倒産を
味合わずに済んだことは浅子にとって僥倖だったはずだ 更新、ありがとうございます!
そういえば、キマラ駐在員も亡くなってしまいましたね。。 浅子の人生、ポジショニングて、
上手いのかもしれませんね。。。! 後輩で同サイズの金丸丸藤小林あたりと比較すると本当に入社した時代がよかったですね ファーナス&クロファット、
リクエストいたします!
まだまだ発掘できそうなww 世界にネットワークを誇った全日商事(欧州は弱かったが鶴見井上で補完)だが
アジア方面はパッとしなかった。そのアジア方面を一気に活性化させ商売ベースで
ペイできるまでに持ち上げたのがファーナスとクロファットのコンビ営業だった。
クロファットはもともとUWF商事や元国際商事のワカマツさんが仕切った「増殖する
営業マン」という触れ込みのマシン営業軍団に参加したりとスケールは大きくないが
対応力のあるオールラウンド営業マンとして地味に注目されていた。
一方ファーナスはお試し駐在のような形で初来日し荒削りながらスケール感のある
仕事ぶり、中でも打点の高い一発売り抜け芸は関係者を驚嘆させた。
翌年にはそろって日本に駐在、仕事で組むことが増えコンビ営業に転身していく。
クロファットが商談の流れを握りファーナスがドカンとかまし細かい部分をクロファット
がフォローし相手を丸め込む。「アジアに敵なし」の呼び声は嘘でなくその方面では
他者の追随を一切許さなかった。この二人をきっかけに全日商事の駐在外国人はスケールは小さいが
コンビで営業、という形が増えていく先駆けとなった。
惜しむらくは駐在員も上が詰まっており世界を舞台にするトップ営業に食い込み切れなかった
事だろう。仕事が終わると読書にいそしみ節制した生活を送るファーナスと毎晩
飲み歩きパーティ三昧、前借常習で給料がゼロだったこともある無軌道なクロファット、
晩年のキッドスミス、マレンコ兄弟、ファンタスティックス、名コンビ営業は枚挙に
いとまがないが全日商事のベストを選ぶならこの二人しかいないと断言したい
ピンでの活躍〜特にファーナス〜も見たかったが見果てぬ夢ということで 意外と、
テリーとドリーやってませんよね
ファンクス、リクエストします! ファンクスは馬場社長同様最後の最後に取っておきたいのできょうしゅくですが何か他のお題
を出していただければ 常に高い期待値で見守られていた駐在員のダニースパイビー、全日商事に初めて
呼ばれた時点で36歳とややとうが立っていた(業界入りも32歳と遅い)ことが
結果として商社マンとしての自身の旬を短くしてしまった主因といえる。
押し出しの強いルックスゆえか与えられたポジションは悪くなかったし日本では
廃れていた殺虫剤を商材としコツコツ売り込み今に続く定番ヒット商品にまで
仕立て上げた功績はもっと評価されてもいいと思われる。
短期離脱ののちハンセンゴーディウィリアムスのトップ駐在員の座に割り込み
駐在員四天王の一角に君臨したが経験の浅さゆえの基礎のもろさが露呈し
自身の格をずるずると落とし二度目の離脱後は日本商社界に戻ることはなかった。
忘れがたい記憶は武道館での大商談会で未知の超大物スティング駐在員を読んだとき。
商社マンの格的にスパイビーが引くのが当然と誰もが〜むろん馬場社長も〜考えていたが
「次にいつ日本に来るかもわからない奴に引くわけにはいかない」と言い切ったプライド、
それを呑んだスティングも大人だったがそれ以上にスパイビーの「日本で成功したい」覚悟
を感じ取ることができた。
後年渕元人事部長が「スパイビーは良かった、ただ時代がよくなかった、馬場社長が元気な
頃だったらカウンターパートとして使えたはずだよ」とスパイビーを評価している。
馬場社長に渕、さらに衛生白マスク販売で財を成したロスのデストロイヤー氏に気に入られ
娘と結婚にまでこぎつけた(のちに離婚と聞くが)のを見るに大物に好かれる何かが
あったのだろう。商社マンを辞めたのちは地元で建設業を営んでるということだが
健康上他愛は芳しくないという説も耳にする。
自分としては鶴田課長、天龍係長(ともに当時)との絡みをもっと見たかった。
全日商事社史に確かな一頁を残した忘れがたき人物だ。 スパイビー好きとしては、
高評価なのが、嬉しいです! 商売敵の新日商事に寝返るも結局詫びを入れて全日商事駐在員に復帰したブッチャー、
復帰後は特大取引を手掛けることはなくなったが全盛時の顧客をしっかり掴んでおり
営業上の数字を落とすことはなかったが営業パートナーをうまく固定することが
できていなかった。ピンでの営業は年齢的に無理がきかず細かいお膳立てをきちんとこなして
くれる駐在員が必要なのは誰の目にも明らかだった。
ブッチャーの営業パートナーというと一見華のあるそこそこいいポジションに見えるが
実はそんなことはなくあくまで自分を殺しひたすらブッチャーを立てるという若手にとっては
割の合わないポジションといえた。そこらを素早く見抜いたTNT、レンジャーロス駐在員らは
評価が高かったがすぐに離脱してしまった。
そこで全日商事が引っ張ってきたのがキマラ(2号)だったのであろう。来日を重ねるごとに
際立つ風貌とは正反対の仕事の細かさ正確さ、そしてそれ以上に健気なまでの滅私奉公振りが
醸し出す哀愁に当時の顧客は愛着を覚えてお気に入り営業マンのリストに加えたはずだ。
ブッチャーの離脱に伴い泉田社員とコンビを組み年末大商談会にも参加するなど
活躍したが最後まで独り立ちすることが叶わなかった不運な営業マンだったといえよう。
正統派駐在員にスタイルチェンジするチャンスもあったのだがその機会を上手く活かせなかった
ことが悔やまれる。 いいやつ、ディートン
フルサイズでリクエストします! このスレ、すごい良スレになってたんですなあ、びっくり
そんな自分は、キングダムエルガイツの人かなあ… 記憶が定かでないのだがジョーディートンの初来日は当時日テレ銀行主催で毎年
行なわれていた「取引先対抗草野球大会」に全日商事が出場する際、「140qhの球を
投げる駐在員がいる」という評判を耳にした馬場社長がとりあえず招聘した、というような
経緯だったと思う(兄弟のホスと混同してるかもしれませんがお許しください)。
営業マンの実力度外視ではあったがことのほかディートンは日本の水に合っていた。
派手な活躍こそないものの小さい商談から大型契約までをそつなくこなし常連駐在員としての
地位を確立する。特に中期はビリーブラック駐在員とのコンビでアジア方面の取引を
活性化し「やりようになっては十分商売として成立するアジア市場」確立に一役買った。
後期は総務系のうるさ型ベテラン社員らとの見事な連携仕事も披露しまるでそこにいるのが
当たり前のような存在になったが社の軸が営業四天王の業績争い一本に極端に絞られたこと
で徐々にフェードアウトしていった。
空白期間は20年以上にわたったが全日商事の顧客から忘れられることはなく
何かにつけてその名は語り継がれた。昨年の馬場社長没後二十周年パーティに車いすの
ブッチャー(近所に住んでる?)に帯同し久々に来日、時間は短かったがキレのある
動きを見せ健在ぶりをアピールしたのは記憶に新しい
正直なとこ、インディ系商社が招聘を真剣に検討してもいいだろうというくらいの健在ぶりだった。
母国では単発的な活動を継続してるようで末永く頑張ってもらいたい。
さて最初の草野球大会だが当時の業界紙を読んだ記憶によればディートン140qhはさすがに
大げさで115qh前後の計測だったらしい、ついでにコントロールが悪く監督を務めた
馬場社長にすぐ降板させられてたはず、いいやつというよりにくめないやつである 評価の難しい駐在員ですが、
バードガン、リクエストします! ムムム、確かに過去最高レベルで難しい(というか思い入れと思い出がほぼない)
ちょっと厳しいのでとりあえずリッチースリンガーなんかいかがでしょう?
近日中にまとめてみます 恐らく90年代のエース駐在員はテリーゴーディがハンセンにとって代わるだろう、と
いわれていた時代にゴーディの甥っ子としてのコネを活かし全日商事見習い社員になった
のがリチャードスリンガーだ。
かなりの血統と思うがスリンガーは後年のマウナケアモスマンのような特別待遇はなかった
と記憶してる。甥っ子とはいえ資質は叔父と正反対、こじんまりとした小技と足で稼ぐ小さい
取引をコツコツこなしていく。時にゴーディウィリアムスの殺人魚雷営業に交じり
トリオで仕事もしたが格下感は否めず取引先にもそこを付け込まれるというパターンが
多かった印象だ。さらに叔父のゴーディが体調を崩し全日商事からドロップアウトする
という事態が発生したがそこを根性で乗り切りスリンガーは見事見習社員でなく
駐在員として全日商事に定着する。
さらに大物駐在員しか参加できぬ年末大商談会にトレーシースマザーズとのコンビで
参加、売り上げ成績は最下位だったがあらゆるタイプの仕事をそつなくこなすユーティリティ
プレイヤーとしての地位を確立する。
スリンガーは馬場社長からは目をかけられなかったがその仕事ぶりを買ったのが三沢営業部長
だった。(渕人事部長と二人で米市場視察でテネシー州メンフィスを訪問した際現地で
スリンガーがいろいろと骨を折ったというのもあったのかもしれないが。)
三沢部長は独立に際してもスリンガーを「新会社に欠かせぬ駐在員」として白羽の矢を立て
確保している。期待通りノア物産でも中堅としての職責をきっちり果たす手堅い職人ぶりを
見せたが体調の悪化もあり徐々に日本からフェードアウトしていくことになった。
素材もよかったし何より叔父の影を全く引きずってないところがかえって駐在員として
長く続いた理由の一つだったと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています