1983年の全日本プロレス [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
新日の陰に隠れがちだったが、83年は全日も熱かった。
ハンセン、ブロディの全盛期
そしてなんといってもテリーの引退www 正月シリーズで
ミルマスカラス、ウルトラセブン組が実現
高杉はこの頃が一番いい扱いだったな >>112
ジュラシックパワーズの頃に比べれば華奢だよ。 テリー引退試合でのゴディは相手に花を持たせるなんて優しいな。
あれで決まるとは思えないから 個人的にこの年の最強タッグは
好きじゃない・・・
翌年があまりの豪華の面子と
前年度の方が良しと思う。
テリー引退と
マスカラス参戦が今更?という感想
リッキーをブレイクさせるとか
レイス不参加が残念かな・・・・ この年は不穏試合と言われているハンセン・ブロディ組とマスカラス兄弟の対戦があった。 日本でも活躍した元プロレスラーのジミー・スヌーカさんが現地時間の15日、
米国で死去したと現地の複数のメディアが報じた。73歳。死因は不明だが、胃ガンを患い、体調を崩していた。
フィジー出身のスヌーカさんは69年にハワイでデビュー。鍛え上げられた肉体美と空中殺法で、
80年代にはWWF(現WWE)の人気レスラーとなった。71年にはグレート・スヌーカのリングネームで
日本プロレスに初来日。その後、全日本プロレスの常連外国人となり、81年にはブルーザー・ブロディとの
タッグで世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝するなど活躍し、新日本プロレスにも参戦した。
96年にはWWF殿堂入り。15年には殺人と過失致死容疑で逮捕された。 >>121
蔵前
大阪
札幌
名古屋
福岡
確かに
しかし84年の国技館はなしでも
81年〜85年の会場も
よく似たようなものでしょう? 一番会場のバリューが高かったのはオープンタッグじゃない? オープンタッグ
後楽園
名古屋
寝屋川
広島
福岡
福井
新潟
仙台
秋田
大分
高知
大阪
蔵前 単に優しく接してくれたのでなのですが
この年に二度来日したマイクデービスが好きでした。
当時頂いたサインや写真は今でも大切にしていますよ。
たしか翌年に新日本に来日しましたよね。 マイクデービス 大仁田戦は、懐かしい
早世でしたが 83年の外人面子
シン、リッチ、マスカラス、ドスカラス、
ハンセン、ブロディ、ファンクス、ケリー
レイス、フレアー、ニック、スレーター、
チャボ、パイパー、ゴディ、ギャング
ウインダム、
抜けた人いる? >>131
失礼
メインクラスばかり入れたつもりが
彼らも入れないとダメですね。 全日本ファンには悪いけど、
面白さがこの年までが
新日本>全日本
だった・・・
しかし翌年から
立場が逆転していく・・・ 猪木失神が生中継だったらどうだったろう?
更に反響が凄かったと思うんだが。
あの試合が生中継じゃなかったのが惜しい。 詳しい人いたら教えて
テリー・ファンク
ニック・ボックウィンクル
テッド・デビアス
この人たちのフィニッシュホールドって何? >>109
猪木からしたらテリーは一番嫌なタイプだとおもう。馬場鶴田よりデンジャラスだし。 IWGPに対抗するグランドチャンピオンカーニバルって響き燃えたなぁ。
でも対抗のIWGPの参加面子がしょぼがったから
トーンダウンした感じ >>136
テリー スピニングトーホルド
ニック 足4の字固め
デビアス フライングエルボー(鳥栖大会で栗栖からフォール取った) >>139
ありがとう
昭和スレにも書き込みして回答得ました テリーと対戦したら猪木も食われてしまいかねない。
だから猪木はテリーを嫌ったっちゅうか避けた。
これは大仁田にも同じ理屈で対戦を避けた。
っちゅうか大仁田とは本人から挑戦されたかんな。
テリーとは対戦の具体性はなかった。
ただテリー自身が『引退前に猪木戦を』と勝手にコメントした程度。 猪木としては馬場よりテリーとの試合が脅威だったのでは?
馬場相手なら自分が注目を浴びる自負があっただろう。
しかし相手がテリーでは確かに食われかねないとも思うし。
ましてや引退発表後のテリー相手ならばなおさら。 大仁田ってエプロンから飛び降りなければ膝は大丈夫だったのかな?
ジャーマンで決着後足引きずってたしぐさしてたが。 >>142
でもテリーの一人芸というか、くどいパフォーマンスには猪木ファンパフォーマンス一斉にあざけ笑うんだろうなあ。
例によってロープに捕まって足バタバタの際、アウェイの会場ではどんな反応になる事やら。 暗くてださかったからなぁ、この頃の全日。
エースの馬場がとろくてださかったのが一番。
鶴田はジェスチャーがわざとらしくて感情移入できないし。
クラスでも嘲笑の的だったな、全日は。 >>145
お前もクラスで嘲笑の的だったもんな(笑) 当時のプロレスファンは、8割以上が新日派だったから、全日ファンはさんざん馬鹿にされたよね。
だけど今になって考えると、プロレスファンだって事自体が、、、 何でプロレスファンだったことがコンプレックスなのかわからんな。
普通に趣味だろ。
プロレス好きでああだこうだ言われたことねぇし、てか世間って別にそんなことどうでもいいと
思ってるから。 しかしこの頃の全日は暗くてださかったw
録画放送だから●分経過とか、ダイジェストで試合を雑に編集したりと余計ダサさが際立って
いたw
実際に会場に見に行っても不人気だったから立ち見が500円でしかもガラガラだったから
リングサイドまで行って勝手に座ってたw
皮肉な意味でも全日は貴重だったよw
楽しかったなw >>143
あの時、あの飛び降りパフォーマンスさえしなければ引退には繋がらなかったよ
しかしながらその時の映像は全く見つからないが
これは当時日テレがこの試合を録画してなかったんだろうな
のちの小林邦明へのガチ襲撃はしっかり映像残ってるだけに残念 >>150
大仁田が膝の皿を割った試合はG+プロレスクラシックで放送した >>150
大仁田はこの年の頭頃から既に膝が悪化してて、名古屋でのドスカラス戦が凡戦に終わった時、雑誌ではその事を指摘されてた。
遅かれ早かれ膝はパンクしてたと思う。 ゼンニプロレではテリファ引退がこの年の全てだろう。
ジャンツやリュウゲンも本格的に前面に出てきて。
ジャイバは完全にジャンツはリュウゲンにバトンタッチした。 この年新日本ではアドニス&オートンが猛威をふるったが
全日本でも匹敵する魅力あるチームが結成されたよね。
スレーター&パイパー
できれば最強タッグでみたかったなぁ。 アドアとボブオーのコンビは良かった。
ボブオーが問題起こさなければもっと見られたはず。
ディクスとロディパは雑誌でしか印象なかったが。 テリー引退の蔵前大会は全日で一番の客入りだったらしい。
過去の蔵前大会の中で。 俺が見に行ったある日のカード
若手バトルロイヤル
天龍対キラートーア
鶴田対ブラッド
馬場ファンクス対スタンブルーザーテリー デビアスは馬場に「もう少し目がパッチリしていたら人気が出るのに」と言われていたね。 つーか、目がもう少し大きければNWA王者になれたって言ってたな >>163
健吾と同じだな。
健吾「新間さんから目を二重にしてきたら売り出してやると言われた。
でも俺の顔で二重はおかしいだろ・・・」 テドデは大型だったからもっと身体を活かしたファイトすれば良かった。
スタハやブルブにも遜色ない巨体だったし。 鶴田が本当にブロディからインターをとるなら、ちゃんとピンでとらせるべきだった。
鶴田が本当にブロディからインターをとるなら、テリーの前座じゃなくて他の日のメインでやるべきだった。 >>169
オレもTVで見てたんだけど
あんな小賢しい勝ち方で客は大盛り上がりで
なんか幻滅したけどね。
当時のブロディに傷つけたくなかったんだろうけど
ブロディなんか退屈な試合しかできないんだし
鶴田にスカッと勝たせろよと思った あれは鶴田勝ってオレはウオオーと喜んでた。その頃に藤波が相手忘れたけどリングアウトで勝った流れがあった気がする(長州だったかな)
そんなこともあって武道館でブロディが鶴田からピン取った驚きは凄かった
セミのハンセン天龍がどう決着したのか覚えていないけど、ブロディが客席になだれ込んだところまでハッキリ記憶に残ってる リングアウト勝ちでも納得した時代。決着が付けばいいんだよ、その時は 同じリングアウトでも藤浪は場外で大技を決めてリングインした、引きずり下ろしただけの鶴田とは価値が違う、
っていうファンの投稿をプロレス雑誌で見て苦笑した記憶がある あのオープンタッグだって反則勝ちなのに伝説になった >>170
当時俺は良い試合だと思ったけどな
勝ち方にはみんなそれほどこだわってなかった気がするけど
だからこそプロレスの幅があったわけだし >>175
だよな
当時は実力(格)が拮抗してる場合、完全決着になる発想そのものがなかったからね そこに至るまでの攻防に十分な説得力があったからな
その前の試合で渕が負けていたのもとにかく勝ってインターを巻いてくれれば良いというムードを作ったかもだが これまでなら樋口失神からのグダグダのノーコンテスト。だからリングアウトでもあれはあれで良かった。 ジャンボがブロディのインターに挑戦したのは過去何度だっけ?
アメリカでも挑戦して失敗、この蔵前大会で獲れなかったら天龍に挑戦権を譲ると背水の陣を敷いたから、ジャンボが勝った瞬間は素直に嬉しかったよ。 完全決着がいいとは思わないね。
四天王プロレス大嫌い。 >>177
渕のジャーマンが決まったとき勝ったと思ったんだがな 両リンや反則無効試合は便利なツールでもあった。
やっぱりUの存在が新日や全日にも影響を及ぼしたみたいで。
Uの完全決着にファンも同調していいた。
それで新日や全日にも完全決着を求める傾向に。
Uは不完全決着を完全に排除したシステムで大成功したし。 テリーは引退後もマネージャー、レフェリーと常に目立つ存在に。
そういうのがなくて復帰の流れの方がまだ多少は支持されたかも。 テリファ自体はこの年で終わった。
スタハやブルブの時代へ。 テリー引退も全日は興行ダメージはなかった。
全日は既にハンセン人気に支えられていた。
テリーやマスカラスの時代は終わってたんだな。 テリファは飽きられてたからね。
ミルマも同じく。
ファンはスタハやブルブを指示。
ザファン、ミルマ、ハリレは一昔前の扱い。
スタハやブルブ、ハルホがこの時代の主流。 >>181
一番良いのは
完全決着と不透明決着の混ぜたやつ 天龍唯一の蔵前メイン登場
また最後のローリングドリーマー使用 土曜トップスペシャルでの特番が定着してきた頃だね。 定期と合わせて二時間半
新日本よりも凄かったんだよな 土曜トップスペシャルは楽しみだった。
2時間も放送だったし。
最強タッグも最終戦はスペシャルで見たかったなあ。 >>195
あれ?
土曜トップスペシャルって、放送時間が1時間半でなかったっけ。
83年か84年頃なら、土曜の夜7:00からルパン三世PARTV放送してた記憶あるし。 日テレは木曜スペシャルでやるという発想はなかったのか? >>199
娯楽番組は土曜と日曜という認識が強い時代だからね。
でも裏番組にはドリフとひょうきん族があったから視聴率は厳しかったね。 裏番組状況からすれば十分に合格点だったんだよな
それが後のゴールデン復帰にもつながる
確かテリー引退の時は十四パーセントくらいあったとか テリー引退の蔵前が全日歴代蔵前大会で一番の入りだった。 翌年は国技館が改装中とはいえ何故文体なのかね?
メンバーは相当強力だったから武道館と言わずとも東体でも十分満員になったろうに。 テリー引退は、たしか子供たちにとっても夏休み最後の日じゃなかったっけ。
ひとつの時代が終わる、という雰囲気だった記憶がある。 >>204
都内主要会場が取れなかった。
武道館も東体も。
それで横浜文体に。 翌年は初の武道館だったが当時は使えたはずの両国じゃなかったのはなぜか >>207
たまたま取れなかっただけでは?
まあこのあたりから全日は武道館が定着した。
新日は80年9月30日(猪木20周年)以来90年11月1日まで10年も武道館を使わなかった。
90年以降は武道館を使ったが。
でも新日の武道館の興行は何か手抜き興行感が否めなかった。
カードから会場内設営等全てに於いて。
新日は両国やドームがあったかんな。
武道館はさほど神経注いでなかったのかも。
両国の興行はG1以外でも力入れてた感じがしたし。 新日本の90年代武道館大会は全日本に対して「ウチは両国もドームも武道館もできますよ。」という上から目線が感じられたな。 >>208
80年代前半からのファンとしては武道館=大きな興行っていうイメージがなかったな
蔵前をはじめ、各都市、大相撲が開催される会場、プラス田コロが大きな興行というイメージだった
それ以上となると、後楽園球場、みたいな >>208
85年で二回86年で三回87年は五回と次第に増やしていったのもポイント
当時のファンとしては武道館がいつのまにかレギュラー化していったのに驚いたかも
>>209
あの時のIWGPタッグ戦こそが新日本のタッグのベストバウトだった印象
とにかく十年の空白期で一番惜しかったのはやはり初代タイガーの試合が無かった事
佐山にとって因縁の会場でもあるだけに
そういえば今日は新日本が初めて純粋なプロレス興行で武道館を使った最初の日だったか >>211
でも武道館で不入りが続いてたら90年に東体&両国に切り替えてたと思う。 >>210
80年9月30日(猪木デビュー20周年)
四大タイトルマッチ
★NWFタイトルマッチ
猪木VSケン・パテラ
★WWF世界ヘビー級タイトルマッチ
★バックランドVSハンセン
★WWFジュニアタイトルマッチ
★藤波VSロン・スター
NWAジュニアタイトルマッチ
★木村VSチャボ・ゲレロ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています