ザ・ファンクスを語ろう [無断転載禁止]©2ch.net
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海外でスピニングトーホールドを使用してなかってことは二人ともあまり
思い入れがなかったのかな。
ハンセンはメキシコ遠征でもサンライズを使用していたのに。 一口に海外と言っても広いけど、一般的にテリーは海外ではヒール役とされる
スピニング・トゥ・ホールドは思いっきり正義のヒーローみたいなテーマ曲だから悪役やってる時には不要なんでしょ
シンがカナダではサーベル・タイガーを使用していないみたいに 来日したら勝手にテレビ局が用意してるだけだし、ドリーとかあんまりそう言うので意気に感じるタイプじゃないっぽいし アンドレはMSGでもジャイアントプレス?
前に【世界のプロレス】でキマラの試合では入場は日本でのテーマと同じテーマ。
っちゅうかMSGと同じのを日本でも使用したのだろうが。
あのアフリカの民族舞踊みたいなテーマ。
キマラに合っていた。
アフリカのウガンダの人食い族出身という触れ込み。
こういうのが(少なくとも子供には)通用した時代が懐かしいわ。 ドリジュニのスタイルはアメリカではウケるんだろうか 第二回の夢のオールスター戦が実現していたらBI砲VSファンクスだったのかなあ?
ファン投票ではシン・ブチャー組に続く2位だったらしいけど猪木は飲まねえよな。むしろ鶴田藤波組が妥当かなあ >>530
いや、アンドレはNYではテーマ曲はなかった。
ただジャイアント・マシーンが逆輸入された時は『ジャイアントプレス』が使われたね。
カマラは日米であのテーマだったよ。84年くらいに使われ始めたと思う。
90年代だとWWFやWCW勢の来日で、そのテーマが日本でも使われるのが普通みたいになっていたけど。
80年代に日米両方で同じテーマ曲だったのって誰だろう?
思いつくところだと、
キマラ:アフリカ民族のイメージ曲
ウィリアムス:ボーン・イン・ザ・USA
ゴディ(&ヘイズ):フリーバード
マーテル:レッツ・ヒア・イット・フォー・ザ・ボーイ
ウォリアーズ:アイアンマン
こんなところしか思い浮かばない。
ちなみにカマラは今、集中治療室でケアされている状態で、かなり悪いらしい。 >>534
いわゆる外人引き抜き戦争前の開催でBI直接対決無しという仮定で
ファンクスVSハンセン・ホーガンあたりが濃厚かなあ
BIは前回に引き続きタッグというわけにはいかず、かと言ってシングル直接対決は絶望的に無理
なので馬場・鶴田組×猪木・坂口組が実現
当初のブックでは両リン引き分けというところ、猪木がブック破って鶴田をフルボッコ
同様に前回組んだ凶悪コンビも解消しブッチャー×シンの直接対決
こちらはブック通りノーコンテストで白黒つかず
などと妄想してみたw >>535
スカイハイ、吹けよ風、ブルーアイドソウル、
スーパーフライなんても日本限定だったのかな。 >>534
第1回の東スポ案で馬場が拒否したカード
「馬場vs猪木」「鶴田vs藤波」「馬場&猪木vs鶴田&藤波」「鶴田&藤波&原の三団体若獅子トリオ」「第1試合大仁田vs前田」
「健吾&星野vs極道」は星野と極道に日プロ崩壊時の遺恨があるからNG
「シンvsブッチャー」「佐藤vs藤原」はブッチャーと佐藤を潰す気か?とNG
猪木が唯一拒否したカード「馬場&猪木vsファンクス」は全日色が強すぎる。
馬場は過去に遺恨がある者の試合はNGで猪木は面白いからやらせろと言う。
当初、R木村vs坂口だったが猪木が「小林の方が遺恨があるから面白い」と提案し、吉原「どっちでもいい」
馬場に柔軟性がないからファンが見たいカード実現が難しい。 >>538
そう言えば小林はオールスター戦出場してないね?
大木と上田は拒否したみたいだが。
色々と二人の意にそぐわなかったみたいで。 >>537
知る限り『スカイハイ』と『吹けよ風・・・』は日本限定だったね。
マスカラスはWCWに上がった時は、スカイハイとは似ても似つかぬ曲だったよw
https://www.youtube.com/watch?v=tnYf5BKm9ws >>540
ストロング小林はセミでラッシャー木村と遺恨対決やってるよw >>542
そうだった、すんません。
セミなのに忘れてた、というより抜けてました。 シンニプロレでMSGリーグが流行ってた頃は、ゼンニプロレのザファンもまだ活き活きとしてて良かったな。
あの頃のバンベイ、バンビガ、ステウィとスタハ、ブルブ、テリゴの越境6人タッグも面白いカードだったろう。
今や、ほぼほぼテンゴクプロレに逝ったけれども、リキド、ジャイバ、ジャンツが蜷局をまいて待ち構えているだろう。 馬場が存命中にファンクスとして来日したのは1992年が最後かね >>546
そんなファンクスが2001年に新日ドームに上がったのは本当に驚いた。
テリーは1995年に一足早く新日に初登場。
時代が変わったと実感。
昭和の頃を知ってればファンクスが新日に上がるなんて絶対にあり得なかった。
引き抜き事件の際も新間は『ファンクス以外の主力外人全てに声を掛ける気構えはある』
『実質ファンクスは全日固定メンバーだからどう足掻いても無理』
『ファンクスは馬場と一心同体だからどんなに金を積んで、という次元ではない』
そんなコメントがあったくらいだし。 >>546
ドリファは日本人とよく組んでたけど、控室も日本人側?
テリファはあまり日本人と組まない >>548
いいから早く死ねよ
そもそも>>546のレスと全く関係ない質問してるんじゃねーよ知障
早く死ねよ >>548
それにテリーは日本人とよく組んだだろ。
主に馬場、鶴田、天龍のトップ勢だが。
でも昔の試合結果見ると『テリー、原』『テリー、石川』『テリー、井上』とかあったぞ。
たまにだが、そういう中堅層とも組んでた。 >>547
猪木が生涯のベストバウトとして現役時代から対ドリー戦60分ドローを挙げていた
一種のラブコールだと思うが当のファンクスは全く見向きもしなかったよな
それを考えると隔世の感がある
一心同体といえば1973-81の猪木とシンも同様だったと思う
「おれの力でニュージャパンをここまでメジャーにした」
「おれはニュージャパンのビジネスのために力を尽くした」
とシン自身が豪語していたし、それを否定する者もいなかった
事態が一変したのはテリーからの電話だった
シンが自宅にいた時、以下のような一報があったという
「ニュージャパンのエグゼクティブがアメリカに来てブッチャーと接触した
そこで契約書にサインが交わされたぞ」
それを聞いたシン、速攻で新日本プロレスへ折り返し電話をかけブッチャーとの契約は本当だとの回答を得る
シンはただ一言「ファック・ユー」といって電話を切ったという
「引き抜く」のは難しくても、強力な磁力を持ったキャラなら「押し出す」のは不可能ではないと思った事例 ブルブは、アブチャが良いライヴァルだった。
そこにザファンはアブチャ、ザシクと名勝負をしてたという評価もある。
結局、スタハ・ブルブ組 VS ザファン、又はロドウォのガチ真剣勝負が観たかった。 >>555
まだコピーが甘い
本物なら555だがと頭に付ける ブルブ?
タジェシとテリュゲ。
名勝負、連発であったなぁ〜! テリーはFMWに上がる関係で早くに全日離脱したけど、テリーがいなくなったあともドリーは全日に定期的に参戦してたね ドリーはワガママ放題で最終的には元子から切られた。 >>573
9 :お前名無しだろ (ガラプー KK4f-dXVR)[sage]:2018/09/16(日) 21:13:53.51 ID:XaVAqh7yK
訂正
>>1-7 >>10-999
お前らはチンポ派?それともチンコ派?
チン●を形容する時の話だ。
俺はチンポだな。 >>573
馬場の骨折→長期欠場も対ドリーが原因だよな
ロープ際で中途半端に馬場と絡んで場外転落した瞬間の白黒の静止画をよく覚えている
あの当時の馬場に大して腕力のない老いぼれのドリーがあの仕掛けは無いわーと思った
その頃から禍根のようなものでもあったのかな >>575
あれ、ドリーが昔からよくやってるムーブだから、あれを受けれなくなった馬場も同罪。
結果、馬場アンドレの負けない伝説が1年だけど持ったから、結果オーライ NWA世界ヘビーの連続防衛回数ってギネスに載ってる?
1年に100回は防衛戦やってたはずだから500回連続防衛くらいか? >>577
演劇のプロレスだからそれはないでしょうな。 >>578
演劇でも色々あるよ。
連続記録的なものなら、タモリの同一司会者による最多生放送バラエティ番組(「笑っていいとも!」5000回)
黒柳徹子による同一司会者番組の最多放送回数記録(「徹子の部屋」1万回) 581五杯(一気飲み)だが、
ドリーはガチでスタミナが凄かったらしい。 ファンクスは都内屋内大会場の全てに出てるんだよな
屋外の田コロだけはチームで出ていないが テリーが復帰を決意したのが田コロだったな。
田コロでハンセン、ブロディに袋叩きにされ大流血。
あんときは馬場、ドリーVSハンセン、ブロディだったか? 日プロ時代のファンクスってヒールコンビだったのかい?
NWA王者も基本ヒールが主流だったが 1995年にテリーが新日に上がった時に馬場のコメントとか聞く記者はいなかったんだろうか?
あと、ドリーが選手じゃなくレフェリーとしてUFOに上がってたよね
あの時期は馬場の存命時だったかな?
馬場の追悼ドームにファンクスが来なかったから、気になってたんだが…
3回忌ドームにはテリーは大仁田と組んで出たけどね
あとデストやブッチャーやマスカラスも出てた そういえば85,6年ぐらいにWWFに出た頃は
スパイとして送り込んだとか馬場が言ってたけど
公言していたらスパイでもなんでもないだろうという >>586
ドリーがレフェリーとしてUFO上がったのは99年3月14日(スバーンvs小川のNWA戦)で
馬場が亡くなった後 86年の長州vsテリー戦で試合を終えたドリ〜ーがスーツ姿でセコンドについてたけど、この時の姿がシニアソックリだった。髭生やして渋くなっていたし。 その長州対テリー、テリーがサソリでギブアップ、しかもドリーが助けようとしたのに負けるなんてよくあんなブック飲んだな
ドリーの手助けで反則負けでもよかったろうに >>590
その試合は元々は、フレアーのNWAに長州が挑戦する予定だった(PWFもかかっていたかな?)
もちろんチケットも売り出していた、それが直前になってフレアーの来日が中止
急場しのぎでテリーが代役で長州に挑戦する事になった
ここから先は想像でしかないけど
メインが代替カードの上、結末が不透明じゃあまりにもお客さんに失礼
せめて一応の決着だけは、というのがあの結末になったんではないかと…
あと別スレで以前によく言われていたのは、レフェリーのタイガー服部の独断でレフェリーストップにしたという説も。
そもそもあの試合は本当にテリーがギブアップの声を上げたの?という話もあるけど… こっぴどく負けたらもう一度立ち上がれテリー! みたいな流れになるって本人は思ってたんじゃないの
馬場的にはもう集客力もないのに高いギャラを要求するテリーへの制裁とかそんな程度だろうけど >>590
前に宝島本にはこう書いてあった。
テリーは反則負けになる位ならその前に潔くギブアップを選んだ。
かつての輝きは無くとも日本でトップを張り続けたテリー。
そのテキサスプロンコのプライド。
だからドリーの救出前にギブアップ表示を。
テリーは名誉ある敗北を選んだ。
まあこれもこの記事を書いた記者の思いに過ぎないけど。 595国語だが、
テリーマンのモデルとなったテリー 598コクわ、だが、
テリーは漫画キャラになったけんどもドリーはなってないか。 600だが、
日本ではドリーよりテリーの方が合っていたんだろな。 601無礼だが、
ドリファ テリファと表記してたバカは誰だ?
俺?
うるへー 波平 磯野父(57歳設定) ガラキチ、かなり高齢で実際にはのらくろとか読んでいた世代じゃないの >>601
なんか親しげに俺に絡んで罵倒されてから、一切他人との会話を拒むようになったよな
情けねーじじいだなお前(笑)
まあいいから早く死ねよ 家も車も妻子もいらぬ
>>601 はせめてスマホが欲しい 607群れな、だが、
テリー、復帰詐称がなければな >>608
シニアがちょくちょく乱入してたからヒールだね 610武藤だが、
全日後のファンクスは自然と脱ヒールとなった。
日プロ時代は外人=ヒールという図式の時代。 612無意に、だが、
>>611
日本では一回のみ。
アメリカではわからん。 >>7
一回アメリカ南部を特集したドキュメンタリー
見た事あるんだけど、南部というのは本当に大学フットボール熱高いん
だ。というよりアメリカのスポーツでNFLの次に大学フットボール
は人気がある。例えば、大学の有名選手はおそらく
南部のプロレス人気というのはこれに負うところが大きいんだろう。
大学の選手だけどNFLには行けないような選手が地元の団体でリングに上がる。
これが大きな要因なんだろうね。ファンクスなんて正にそういう選手だよ。 >>7
一回アメリカ南部を特集したドキュメンタリー
見た事あるんだけど、南部というのは本当に大学フットボール熱高いん
だ。というよりアメリカのスポーツでNFLの次に大学フットボール
は人気がある。おそらく南部のプロレス人気というのはこれに負うところが大きいんだろう。
大学の選手だけどNFLには行けないような選手が地元の団体でリングに上がる。
これが大きな要因なんだろうね。ファンクスなんて正にそういう選手だよ。 617無意な、だが、
無意な事を二回言うとるのも一理ないかんな。 85年ぐらいにWWF行ったとき馬場が「俺のスパイ」とか言ってたけど
そんなこと公言してるスパイという時点で無理すぎるとガキながら笑ってしまった
馬場とファンクスは大親友設定を守るためとはいえ なんだかんだいってもテーマ曲のスピニングトーホールドが鳴れば理屈無用の大興奮 手利井 気毒、土利井 妻健在?
佛茶引退興行、手利井 不参加、残念無念也。
他 芯 令酢 不参加。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています